ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「戦争報道の内幕」その2

2010-01-23 09:22:18 | Weblog
先回、「戦争報道の内幕」という本に関して相当に冗長なコンテンツをアップしたが、あの時点ではまだ半分読みの段階で書き上げたもので、残りの半分を読んだらまだまだ書き足りないことが沢山出てきた。
というのは、あの日米開戦が日本側の真珠湾攻撃で始まったことは周知の事実であるが、あの被害の状況をアメリカのメデイアは詳細に国民に開示しなかった、とこの本の中では述べている。
どうもその部分が信じがたい思いがする。
如何なる政府でも情報を自分の都合によってコントロールするということは往々にしてあるわけで、その事については今更珍しくないが、あの時点でアメリカ政府が真珠湾の被害の詳細を国民に知らせず、アメリカ国民を戦争に引き込んだということはどうにも解せない思いがする。
被害の詳細を公表しなくても、ハワイの真珠湾にあるアメリカ海軍の基地が日本軍によって奇襲攻撃された、という事実を事実として報道することによって、アメリカの世論を一気に参戦に向けるということが可能であったからこそ、ああいう成り行きになったに違いない。
しかし、これが民主主義の王道ではある。
国民、あるいは世論の声を集約して、その声にこたえる形の政治を行うということが、民主主義の基本中の基本ではあるが、問題は、この国民あるいは世論というものが一つの方向に集約しきれない時である。
国民の声が一つになり切れない部分が、民主主義のアキレス腱であって、その瑕疵を補うものが多数決原理というもので、多数意見に優先権を与えるという考え方である。
これを素直に実施すれば、当然少数意見の側には不満が残るわけで、民主主義の政治体系ではそれを切り捨てることもやぶさかではないという考え方に準拠している。
だから国民という不特定多数の意見を、ある一定の思考に集約させるためには、PR活動をして、国民に対してどういう選択が将来の自分たちにとって有利か、という選択の素材を提供しなければならない。
そこで活躍するのがいわゆるメデイアであるが、為政者の側はそういうことが十分わかっているので、どうしてもメデイアを自分の陣営に引き込んで、自分に有利になるようなPRを願うのは当然のことである。
そのことはメデイアを如何に管理するかということにつながるわけで、情報を周囲の状況に合わせて恣意的に出したり出さなかったりすることになる。
真珠湾攻撃を受けたアメリカが、その被害の詳細を国民に知らせなかったとしても、攻撃を受けた事実は大々的に報道して、当時のアメリカ世論が対日戦に対して消極的であったにも関わらず、それを一気に払拭し開戦を煽る方向に利用したという面は否めないであろう。
9・11事件が起きた時も、これと同じ傾向がみられたわけで、あの事件を受けてアメリカ軍のイラク攻撃はアメリカ国民の選択に完全なる整合性を与えた。
ここに見られる光景は、メデイアが政治の道具になっている姿であるが、政治がメデイアを道具として使いこなしている間は、民主的な政治体制が維持されているということに他ならない。
だが、政治がメデイアを使いこなすのに不手際を曝して、メデイアの独走を許すととんでもないことになるわけで、その事は同時にその国の民主化の度合いが未熟だということを露呈することになる。
その具体的な例が我々の国に見られる。
例えば、戦前の日本を見ると、軍国主義でなければ日本人でない、という雰囲気で包まれていたではないか。
当然、こういう国民的な雰囲気はメデイアによって作られたわけで、田舎のおばあさんや、商店の小僧さんの口コミによって軍国主義が全国的に蔓延したわけではない。
ただ昭和の初期の時代の日本においては、富国強兵という潜在意識は田舎のおばあさんや、商店の小僧さんを含む政治家から官僚まで満遍なく浸透していたに違いない。
戦後の進歩的文化人と称する左翼系の人々は、日本が奈落の底に転がり落ちた責任を、軍部や一部の軍人に転嫁して由としているが、軍部や軍人を構成していたのは他ならぬ、富国強兵を潜在意識として内包していた当時の時代の寵児と言われた秀才たちであった。
そういう秀才たちに富国強兵を説き、アジアの解放を説き、日本式の理想郷を描き出すべく、煽りに煽ったのが未熟だったとはいえ当時のメデイアだったわけだ。
こういう場面でメデイアが我々の好戦的ムードを煽りに煽った点を大いに反省しなければ、歴史から教訓を得ることはあり得ない。
戦争中に、交戦国の双方で、お互いの戦果を報道するのに様々な制約があったことは、この本が示しているように古今東西変わらないことであるが、それと同時にメデイアによる記事の捏造ということも大いに問題がある。
この本は、記事の報ずることと真実が違うということを大きな問題点として掘り下げているが、それは見たものの視点が一つだから起きることであって、いくら時代が進化しても変わることはなかろうが、記事が捏造されていてはメデイアそのものの倫理が問われる。
テレビとか写真というような映像では、カメラを通した光景は真実そのものといえるが、そこに演出という要素が入り込んでくると、活字メデイアの記事捏造にかなり近い不条理が入り込んでくる。
先に述べた湾岸戦争の時のイラク軍が病院を襲撃したというニュースなど、可愛い少女を使ったヤラセだったわけで、そういうことを考えるとメデイアなど一切信用ならないということになる。
我々の側の例でいえば、昭和12年の南京攻略の時に報道された「百人切り」の話など、戦意高揚のためとはいえ明らかに記事の捏造なわけで、こういう戦時中の小さな話を、記者の功名心で以て針小棒大に報ずることで新たな神話が出来上がってしまう。
記事の捏造と言っても、黒を白と言い包める類のものではないが、ジョークを真に受けて真実かのごとく報じたわけで、このジョークが言った当人の文字通りの命取りになってしまったとなると、ことは極めて重大なことと言わなければならない。
戦争という非日常の世界では、戦場の兵士は好きで戦っているわけではない筈で、その心は無意識のうちに荒んでくることはいた仕方ないと思う。
そのために戦意高揚という精神のカンフル剤が必要になるわけで、それが高じて戦場での美談というのが出てくるが、これも要するに明らかなる記事の捏造に他ならない。
「木口小平は死んでもラッパを離さなかった」とか、「肉弾三勇士」だとか、そういう話の一つとしての「百人切り」の話だったと思うが、戦争が敗北という形で終わった時、そのジョークが相手側の憎悪を引き立ててる素材として使われ、それを真に受けて本人が戦犯として処刑されたでは、あまりにも可哀そうだ。
問題は、ここでその話を新聞に書いた記者が、助命のための行動を何一つ取らなかったという人間としてのモラルに帰する。
その話を書いた記者が、「あれはジョークだった」と一言証言すれば、彼らは戦犯という汚名から免れたわけで、たったそれだけの労を惜しむ記者の人間性に大きな疑問がある。
それとも確とした信念で以て、二人の少尉、野田・向井を死に至らしめる作為で以て、助命のための弁護を拒否したのかということである。
メデイアに係わるこういう記者が存在する限り、普通の市民から見てメデイアの人間はインテリーヤクザという蔑称で呼ばざるを得ない。
もう一つ私の我慢できない話に、沖縄戦に関する話で、大江健三郎の「沖縄ノート」に書かれていることで、軍が住民に自決を強要したという記述である。
渡嘉敷島の赤松、座間味島の梅沢、両名の守備隊長は、自決用の手りゅう弾をくれと言う村長を説得して自決を思いとどまらせたが、戦後の補償問題で軍の強要があったと言わないと補償がもらえないかもしれないということで、今までそう言い続けてきたが、真実は強制はなかったという話である。
大江氏はこの話をあくまでも否定して、二人の軍人に罪を追い被せようとしている。
この例に見るように、ある神話が出来上がってしまうと、その神話を否定することは極めて困難ということだ。
「百人切り」の話でも、沖縄の自決強要の話でも、神話を否定することはなにも難しいことではない筈だが、それが出来ないということはあくまでも個人のメンツの問題なのであろうか。
神話に対して「本当はこうだ!」と真実を暴露すると、そのことによって損をする人間がいるから、神話が何時までも神話として在り続けるのであろうか。
あらば日本誕生のアマテラスオオミカミの神話も、そのまま神話として継続すればよさそうなものなのに、一言「神の国」と言おうものなら、上へ下への大騒ぎになるということは一体どういうことなんだろう。
メデイアが政治の道具であることは論をまたないが、我々日本人、日本民族というのは実に政治の下手な民族であるからして、その延長線上でメデイアの使い方も極めて稚拙である。
まず根本的な欠陥は、我々日本民族というのは秘密の保持ということができない。
今、問題になっていることに、民主党の小沢幹事長の政治献金の話が浮上しているが、検察が情報をリークして小沢一朗の人気を落とそうと企んでいる、といわれている。
こういう話が出ること自体、秘密が守られていないという明らかなる証拠なわけで、「火の無いところに煙は立たない」という例もあるように、検察の中の誰かが漏らしていることは間違いないと思う。
日本の民主主義は三権分立で、立法、行政、司法となっていることは学校教育で習うが、本当はもう一つこれに加えてメデイアという立場があり、このメデイアの本領はこの三つの権力構造を厳格に監視する使命を持っているように思う。
監視するためには内容を知らなければならないので、そこで知る権利という言葉が出てくるわけであるが、メデイアに従事する人間は基本的にずるい人間で、人を踏み台にして自分だけ利益を得ることに何の逡巡も覚えない輩が多い。
メデイアに係わっている人間は、額に汗して働くことを忌避し、他人のしたことをああでもないこうでもないとケチをつけることで糊塗を凌いでいるわけで、自分では釘一本、大根一本作るわけではなく、その意味で典型的なインテリ―ヤクザである。
彼らの内面に潜んでいる本性が、さもしく卑しい根性なので、そのさもしさ、品性の無さ、品位の無さ、厚かましさが彼らの仕事、つまり取材の場面でモロに開示されてしまう。
取材される方もされる方で、メデイアに取材されることを名誉なことだと勘違いして、嬉々としてそれに応じているが、本当のメデイア嫌いは取材の時点でそれを拒否するので、世に自分の評価を問うこともできない。
それはそれで本人の世渡り下手というだけで、全く人畜無害であるが、メデイアの傍若無人な態度というのは実に鼻持ちならない。
「報道」という腕章さえつけておれば、何処でもお構いなしに大きな顔して乗り込んでくるわけで、その横柄な態度というのは明らかにメデイアに従事する人の倫理感の問題であり、思い上がった態度だと思う。
そもそも日本のような狭い国で、今の新聞社の数ほどのメデイアが必要であろうか。
今のテレビ局の数が日本の国情に合った数だろうか。
新聞にしろ、テレビ局にしろ、出版社にしろ、あまりにも数が多すぎると思う。
資本主義体制の中の自由主義なのだから、自由競争は当然だというのは理屈的にはわかるが、これから先の資源の有限か、省資源ということを考えれば、あまりの過当競争は資源の浪費に直結すると思う。
新聞でも、出版でも、テレビ放送でも、資源の浪費とは無関係に見えるが、その認識こそ省資源の敵なわけで、あまりの過当競争なるが故に、報じなくてもいい、ニュースネタとして価値の無い物でも記事にし、放映することになるわけで、それが積もり積もって国民全般のモラルの低下に結びついているものと考える。
新聞ネタにしろ、テレビネタにしろ、人々が真面目に額に汗して働いている姿ではニュースにならないではないか。
八百屋のオバサンが朝早くから夜遅くまで商売に精を出す、道路工夫が額から球の汗を流して作業をする、幼稚園の先生が一生懸命子供の世話をする、看護婦さんが病院内を走り回る、こういう日常生活の当たり前の光景にはニュースバリューがいささかも存在していないが、国家の存立というのはこういうことが下支えになっているわけで、だとするとこの場面でメデイアの意義というのは一切存在しないということになる。
ところがメデイア側のインテリーヤクザは、国の存立は自分たちが支えていると勘違いしている。
ここに認識のズレがあるかぎり、社会の自浄作用というのは機能してこない。
メデイアはあくまでもオオカミ少年であって、「オオカミが来るオオカミが来る」と遠吠えだけはするが、オオカミに対して如何に対処するかという答えを期待すべきではない。
メデイアは何処まで行っても虚業の延長であり、砂上の楼閣を夢見る理想主義の仮の姿であり、実業に携わるものからすればインテリ―ヤクザの域をいささかたりとも出るものではない。
1993年に椿発言という問題が起きた。
テレビ朝日の椿貞良という報道局長が、細川政権樹立のために世論をメデイアによって誘導しようとした事件で、当時は大問題になったが、この事件でも放送界の在り方というか、メデイアの存在理由を完全に履き違えた発想であって、自分たちが第4の権力だと完全に思い違いをしている構図だ。
インテリ―ヤクザの本質そのものであって、いわゆる報道、あるいはメデイアの驕りそのものである。
その深層にはバランス感覚を喪失した無知そのものが如何なく発揮されていた。
メデイアは国民に対して選択の資料のみを提供する立場であって、椿貞良の考えていたことは、かってのドイツのナチズムの中のゲッペルスが、宣伝省として国民の意見をナチに誘導しようとした構図と全く同じ思考に嵌っていたわけだ。
こういう無知な人間が、組織のトップにいるから世の中がミスリードされるのである。
そこには自分の頭でものを考えてメデイアとして何を報じて何を報じないかを峻別するという意識が最初から欠落している。
まさしく無知としか言いようがない。
こういう人間が放送界の組織のトップにいたわけで、世論をメデイアが誘導することの危険性にいささかも気が回っていなかったということだ。
メデイアとして情報を発信する側は、それを受け取る側よりも教養知性に優れていなければならないことは当然であるが、だからこそメデイアに携わる人は、普通の人よりも上に位置するという錯覚から免れないのであろう。
この錯覚こそ傲慢であり、無知であり、謙虚さの欠乏ということになる。
そしてメデイアの情報発信というのは、たった一人の人間のなせる業ではないわけで、毎日のテレビのニュース、毎日の新聞の記事というのは、大勢の人の手を経て国民の前に啓示されるわけで、椿発言が世に出るということは、その組織全体の体質が椿貞良の思考を代弁しているということでもある。
そうでなければ、そういう個人の発言が世に出回るということはあり得ず、どこかで篩に罹って削除されるべき性質のものだと思う。
そういう篩が全く機能しなかったという点にこそ、注意を喚起すべき事柄だと考える。
そして巷間には「人の噂も75日」という俚諺にもあるように、すぐ忘れ去られてしまうわけで、次から次へと同じような問題が提起されるのである。
メデイアはそういうことが飯の種なわけで、ニュースは自ら作り上げるもののようだ。
何度も言うように、メデイアには人が真面目に真面目に働いている限りニュース種は無いわけで、「犬が人を噛んでもニュースでないが、人が犬を噛めば大ニュースになる」というのはまさしく真理である。