ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「戦争報道の内幕」

2010-01-21 11:11:33 | Weblog
この本もいつごろ買った本だかトンと記憶になく本棚の片隅にあった。
「戦争報道の内幕」という本で、内容的にはそう古いものではない。
2004年に初版発行となっているので、そうそう大昔というわけではないが、何時ごろ読んだものかはさっぱりおぼえていない。
しかしところどころに付箋が張り付けてあるところをみると、読んだ時にはその部分で大きく感動したか感銘を受けたに違いなかろうが、記憶にはいささかも残っていない。
人間の記憶なって実にいい加減なもので、特に私のような落ちこぼれの人間の記憶力などというものは、おそらく猿以下であろう。
ひところのテレビコマーシャルでは「猿でも反省はする」というキャッチコピーがあったが、きっと猿の方が私の記憶力より良いかもしれない。
この本は要するに戦争報道とメデイアの関係を深く掘り下げた内容であったが、世界中の大部分の大衆にとって、戦争報道は嘘で塗り固められているというもので、あの第2次世界大戦中の我々の報道は「嘘ばかりだった」という現実は、我々だけのことではなく、世界的に普遍的なことであったようだ。
我々はあの戦争の反省として「報道とは真実のみを報ずるものでなければならない」という認識を新たにして、戦時中の我が報道班の報道の仕方を糾弾したものだが、あれは世界中で似たり寄ったりのことをしていたようだ。
考えてみれば無理もない話ではある。
一つの物を見るのに、視点は360度、上下左右、あらゆる方向から見ることができるのに、報道する側の人間は、自分の視線で見た一面のみを見て「これが真実だ!」と報道するわけで、報道されない部分の方がはるかに多いのに、「真実は一つだ」ということになるのであろう。
その記事を見たり聞いたりした人は、時間が経つと「あの報道は嘘を報じた」ということになりがちであるが、全く嘘を報じたわけではないが、結果的には真実の一部を報じたにすぎなかった、ということは往々にして起きることだと思う。
戦争と報道ということを論じようとすれば、丸々戦争について論じるということになってしまう。
戦争とメデイアということでも同じ結論になってしまう。
主権国家が戦争をするということは、同時に、如何にメデイアを管理するかの問題に直結しているわけで、戦場に取材班を入れるか入れないかのところから問題は生じてくる。
戦時中、我々の側では、従軍記者という呼び方で取材班が戦場にまで来ることができたが、これは国民に対して「自分たちはこのようにして敵と戦っているのだ」という宣伝に寄与するためであって、戦果の記録という性質のものではない。
自分の国がどこかの国と戦争をしている、敵と戦っているともなれば、自分の国の戦意高揚を図ろうとするのは、何処の国でも同じだと思う。
その意味でメデイアは戦争に協力させられる運命であるが、戦争中にメデイアを管理すること自体が、既に戦争遂行の一手段でもあるわけで、先の戦時中に我々のメデイアが真実だからと言って勝手気ままに自由に報道できなかったのも、ある程度はいた仕方ない面がある。
ここで問題となることが、メデイアは如何に祖国の戦争に貢献するかということで、自分の祖国が血みどろの戦いをしているのに、「自分はこの戦いに意義を見いだせないので反対だ」などと自分勝手なことは許せないものと思う。
如何なる理由があろうとも、自分の祖国が戦いをしているのならば、その戦いが少しでも有利になるように国民は尽くさなければならないと思う。
祖国が始めた戦争に対して一国民としての個人が、正悪、善悪、善し悪しを思い描いて批判することは許されても、非協力は許されないのではなかろうか。
だとすると、ヒットラーのような独裁者の言うことも無条件に聞けということになるが、「人は如何に生きるか?」と問うた時、正悪、善悪、善し悪しという価値観では測り切れない筈だ。
ヒットラーは国民から推されてトップに立ったわけで、クーデターで政権を盗み取ったわけではない。
ならばある程度の不合理・不条理を国民は甘受しなければならないことになる。
戦後の日本の平和主義の人達は、戦争に良い戦争と悪い戦争があるという認識でいるようだが、良いも悪いもなく、始まってしまった戦争ならば、勝つまで国民は徹底的に祖国に忠誠を誓うべきだと思う。
メデイアもその意味で戦争協力をすべきであるが、これは極めて難しいことで、メデイアが知り得たことを全部報道していいかというと必ずしもそうとは言い切れない。
軍事作戦というものは、秘密裏に行動しなければ効果を損なうわけで、不用意な発言で敵を有利にしてしまう報道も数多くあり、その事を考えるとメデイアの存在そのものが考えものということに落ち着く。
主権国家が敵国と戦争するということは、それこそ国を挙げての巨大な、そして国の存亡を賭けて戦うわけで、微に入り細に入って細心の注意を払って戦いを遂行している以上、そういう細かいところをメデイアに嗅ぎつけられて報道でもされたら、それこそ再起が望めない状態になりかねないことになる。
そう考えるとメデイアの扱いには細心の注意が払われるのは当然のことであろう。
これが昔のように、狼煙や、伝令や、有線電話の時代ならば前線にメデイアの人間がうろついてもさほどの弊害はあり得ないが、昨今のような情報化社会になれば、情報は一瞬のうちに地球を何周も回ってしまうわけで、それだからこそ、ますますメデイアを戦場から離れた場所に隔離しなければならないことになる。
湾岸戦争の時、CNNのテレビクルーは攻撃する側からではなく、攻撃される側から映像を送り続けてきたが、こうなるとまさしく戦争そのものがテレビゲームになり変ってしまっている。
攻撃する側もディスプレーの画面を見ながら作戦を遂行し、攻撃を受ける側、つまりイラクは、敵国のアメリカ人のテレビクルーを率いれて、「アメリカの攻撃が如何に非情か!」を全世界に向けて宣伝をするわけで、その宣伝に加担しているのがアメリカのテレビクルーときているのだから、誰が真の敵かさっぱり分からない状態になってしまっている。
湾岸戦争の時に、イラクのバクダットに入り込んで映像を流し続けたCNNのテレビクルーなどは、我々の古い価値観からすれば売国奴に匹敵する存在だと思う。
戦争とメデイアについて言えば、我々はこういう宣伝戦が実に下手くそだが、中国は実に巧みだと思う。
主権国家と主権国家の付き合いの中で、一番有意義なことは、言葉という弁舌で以て、自己の利益を保持し、面子を維持し、経費を節約し、相手に恩義と感じさせることであって、その対極にある一番下手な付き合いが、いわゆる戦争という武力行使に至らしめることである。
我々は中国とあらゆる面で深く関わり合いたいと思っているので、相手はこちらの本心を見抜いて、常に日本の上に立とうと画策し、その具体的な例が日本を戦争の加害者と見立てて、「中国人民は日本人から如何に残酷な仕打ちを受けたか」ということを世界に向かって宣伝し続けている。
これは明らかに戦争報道の延長戦線上の作為であって、対日宣伝、抗日運動の一環であるが、このように相手の急所、対中関係でいえば日本人が中国人を戦争中にいじめたという自虐意識を突くわけで、その突き方が如何にも巧妙で、我々はそこを突かれると返す言葉を失ってしまう。
こういう攻撃、つまりこういう外交交渉が国益にとって一番有利なわけで、言葉のみで相手の切っ先を制する外交手腕というのは紛れもなく一番効果的な戦争抑止力になっているということだ。
とはいうものの、中国側の論理は実に荒唐無稽なわけで、我々はこういう荒唐無稽な議論をそうそう継続できるものではなく、すぐに嫌になってしまって放り投げてしまうが、相手は延々とそれを続けて、我々が根負けするまでそれをし続けるのである。
この戦いは文字通り言葉による舌戦であるが、我々はともすると論理的に整合性のない話には最初から取り合わない気質があるので、黒を白と言い包めるような話にはついていけれない。
そういう意味では極めて淡白で、この淡白な気質が大事な時に大きく作用して、不利な立場に追い込まれてしまう。
最初に述べたように、人間が自分の見たことを言い伝えるということは、真実ではあるが真実の全部ではないわけで、伝えられたことよりも伝えられなかった部分の方が多く、結果として嘘を言ったということになりがちである。
やはり生きた人間の社会は、最初に言葉ありきであって、この言葉そのものが両刃の刃である。
人間の社会は好むと好まざると人間によって管理されており、その管理はおのずと言葉によって行われているが、社会を管理するものが戦争という政治の手法をとった時、当然、そこでは言葉によるコントロールが生まれてくることも必然的なことだと思われる。
敵の情報を伝えるのも言葉であり、味方の戦いぶりを知らしめるのも言葉であり、それを推し進めている者にとっては何を知らせ、何を黙っておくかという選択は、当然重要な課題になると思われる。
見たことを言葉で伝えようとする者は戦場に派遣された専門家、具体的な言葉でいえば戦争特派員あるいは従軍記者ということになるが、戦争を推し進めている立場からすれば、そういった人たちが見たことの全てを真実の一部とはいえ何の規制も掛けずに洗いざらい公表していいとは限らないと思う。
勝ち戦だからと言って、何でもかんでも不用意に公表すれば、相手にこちらの次の作戦を探り当てられてしまうこともあるので、やはり戦争の情報というのは、何処までも管理されてしまうことになる。
先に述べたCNNのテレビクルーが、敵側の領域から攻撃される状況を放映したということは、アメリカ政府の側からすれば明らかに利敵行為なわけで、場合によっては反逆罪に問われる可能性は十分ありうる。
これが旧ソ連邦であったり、中国であったならば、完全に極刑になるところであろうが、アメリカなればこそそれが商売として成り立っているのである。
それに比べ、ベトナム戦線ではアメリカ軍は報道陣を自分たちの陣営から取材させたが、結果的にその報道は、アメリカの内側に嫌戦気分を掻き立ててしまい、反戦運動を助長させてしまった。
当然と言えば当然のことで、自分たちの息子や夫がベトナムのジャングルを這いまわって、あまり意義の見いだない、何時終わるともわからない戦闘に明け暮れている光景を見せられれば、「こんな戦争は早く終わらせてしまえ」という世論になる。
アメリカ政府の意図としては、彼らの同胞が戦地でこんなに苦労しているのだから銃後においては彼らにもっと心の支援を送れ、というつもりであろうがそれは逆効果になったわけである。
それに引き換え、湾岸戦争では地上戦というものは極めて少なく、航空機による攻撃が主であったので、特派員やメデイアの記者を現地に送ることがなかったため、ある意味で戦争報道は締め出されてしまっていた。
この時に話題になったのが、イラクの軍隊がクエートに侵攻してきた時如何に残虐な行為をしたかというニュースをでっち上げたことがあった。
いたいけな少女にイラク軍の残虐行為をテレビカメラの前で語らせる、というヤラセの報道であるが、これは古典的な戦争報道のパターンを踏襲した見事な事例であった。
メデイアを戦争遂行に如何に貢献させるかの古典的な例であったが、そういうものを同じメデイアが再び糾弾することになったわけで、戦争報道は突き詰めれば戦争そのものだと思う。
ただ我々日本人というのは、こういうことを分けて考えたがる。
戦争は軍人の専門領域、メデイアは文章で生業を立てるもの、という風に単純に分けて眺めがちであるが、現代の国家総力戦というのは、そういう単純な社会構造では立ち行かないので、一度戦争ともなれば、国家の存立そのものが戦争というシステムの中に埋没してしまう。
我々は戦後65年間も戦争を体験していないので、戦争という概念も認識も失っているように思う。
こちらが手を出さなければ相手は決して攻撃してくることはない、と頑なに思い込んでいるので、その傾向に少しでも警告を発する発言は、寄ってたかって封じ込めようとするが、既にこの時点で戦争報道は始まっている。
日本の近隣諸国は、日本の国内のそういう報道も詳しく分析しているわけで、戦争の火の気もないうちから、相手は敵状の分析を行っている。
我々の側のメデイアは、周辺諸国に具体的な銃器の姿が見えない限り、相手を丸々信用しているわけで、それに反し、我々の内側で「万一の時はどうしよう!?」とほんの少し心配を漏らすと、もう軍国主義の復活だと大騒ぎする。
この感覚のズレ、認識のズレをどういう風に考えたらいいのであろう。
あの戦争中に、日本の新聞が嘘ばかり報道していた、ということは戦後よくよく事情が分かってみればいた仕方ない面があったことは否めない。
それと同じ報道は世界中で同じようにあったわけで、日本の報道だけが特に極端な嘘を故意に流していたわけではないということは分かった。
戦争中の報道が嘘であったということとは異なる次元で、平和時においても自国の利益のために宣伝的な報道を恒常的に流すという政策も当然ありうるわけで、その典型的な例が、中国の抗日戦の抵抗を展示した各種の博物館である。
嘘も百万回も唱えれば真実になってしまう、というれっきとした証拠であるが、これなども中国側が明らかに報道の面で臨戦体制でいるということに他ならない。
我々は戦争と平和をきちんと分けて考えたがるが、銃器が目の前に出てこない限り、それは平和な状態だと思い込んでいる。
これは完全に認識にズレているわけで、銃器など目の前になくとも既に言葉の戦いが始まっているということに全く無頓着である。
戦争で一番上手な戦いは銃器を使わない戦争であって、それは外交交渉で国益を維持、乃至は守ることであって、外交交渉そのものが既に言葉の戦争であるが、戦後65年を経験した我々は、この部分に極めて疎い認識しか持ち合わせていない。
戦後65年間も実際の戦争を真剣に考えたことがないので、どういうことが国益で、どういうことが相手を利する利敵行為かということすらわかっていない。
戦争という言葉を安全保障という言葉に置き換えると、何となく緊張感が和らいでしまって、神経が弛緩してしまう。
戦争という言葉を使うと、戦場で鉄砲が火を吹いている光景を思い浮かべるが、安全保障というと円卓を囲んだ国際会議というイメージを彷彿させる。
ところが、こういう認識そのものが実に甘い。
しかし、我々の戦後65年を見ると、国益が少々犯されても、国民の大部分はのほほんと生きてこれたわけで、その事によって命を張って鉄砲をぶっ放すことなどナンセンスだという認識であろうと思う。
民族の名誉や誇りで生きていけるわけでもなく、明日から食うものが全くなくなるわけでもなく、そういう時でも誰かが何とかしてくれるに違いない、という極めて楽天的な思考にどっぷりと浸かっているのが現状だと思う。