昨年の年末に近くのスーパーに買い物に行って、そこの本屋で購入した本であるが、「日本海海戦の深層」という本を読んだ。
著者は別宮暖朗という人だが全く面識のない人だ。
どうも銀行員のようだが詳細は私の知るところではない。
しかし、面白いもので、この著者は司馬遼太郎の「坂の上の雲」を目の敵にしている。
「坂の上の雲」は昨年末からNHKも取り上げて,大々的に自社宣伝に努めているので、国民的なテレビドラマになりかかっている節がある。
私も特に意図したわけではないが、数年前に全8冊一気に読みとおした作品である。
この作品が世に出たことによって,世間では司馬遼太郎史観というものが出来上がったように見受けられるが、そういう風潮こそ軽佻浮薄というものではなかろうか。
この作品は当然のこと江戸時代の封建主義から脱却して、明治維新をむかえた日本が近代化を推し進める過程を肯定的に捉えているわけで、ある意味で日本人の応援歌という部分が無きにしも非ずである。
しかし、それはあくまでも小説であって、歴史的事実や物事の真実を説きあかすものではなく、歴史的事実や当時の人々の思いを小説という形で代弁しているにすぎず、あくまでもフイックションである。
トルストイの「戦争と平和」という小説も,同じようにその当時の世相と人間の心のありようを微細に描きだしているわけで、それと同じである。
小説家の司馬遼太郎氏が如何なることを言ったとしても,それはあくまでも彼個人の思考の産物であって、彼が自分の思考を他者に押し付けるというようなものではない。
問題は,こういう一小説家の作品を、今に生きる自分たちの教科書として崇め奉り、我々はそうあるべきだと,暗黙の強制を強いる軽佻浮薄な無責任体制にあると考えなければならない。
司馬遼太郎氏が「坂の上の雲」を描いた。
書いた著者としては、それを多くの人に読んでもらいたいと願うのは当然のことで、出版社も売らんがために工作をするのもこれまた資本主義の世界である限り当然の成り行きでもある。
その意味からして、著者が少しでも多く売れるように工夫を凝らして作品を仕上げることも当然あり、それに出版社が輪を掛けて、売らんがための宣伝をすることも十分考えられる。
それにうまい具合に便乗して、「我々の将来もこうあるべきだ」と言い出しかねない疑似経世家、あるいは理想主義者が現れてこないとも限らない。
この本の著者は、この作品に真正面から批判を浴びせることを意図してこの本を書いているようであるが、少々大人げない。
この本が小説であるということを忘れている。
物語が極めて真実に近い体裁をとりつつもフイックションであるということを忘れている。
「坂の上の雲」の作者は、あの激動の明治時代を生きた3人の若者、つまり秋山兄弟と正岡子規の生き様を描きだそうとしているわけで、戦史を忠実にトレースすることを意図したわけではないと思う。
司馬遼太郎がこの作品で問おうとしていることは、人間の内面ではないかと思う。
つまり、社会に出て活躍する人たちの心のありよう、その人が潜在的に内に秘めているモラルが如何に高潔で、人間として優れているかを問おうとしているのだ、と私は推測する。
これは私の推測であるが、司馬遼太郎氏は、自分自身が旧帝国陸軍の将兵であった経験からして、旧軍の内部告発をそれとはわからないように作品の中に埋没させているのではなかろうか。
秋山兄弟を前面に出すことによって、戦時中、軍神と言われ、崇められていた人の化けの皮をはがすことをもくろんでいたのではなかろうか。
この本の作者にとって、主題であるべき東郷平八郎が、秋山真之の後ろに描かれたことに不満が募ってしまって、その部分に我慢ならない義憤を感じているのではなかろうか。
私もこの「坂の上の雲」を読んでいて、乃木稀典に対する評価が不当に低いことが不思議でならなかった。
ここには司馬遼太郎氏の旧日本軍軍人に対する怨恨の気持が隠されているのではなかろうかと思う。
司馬遼太郎氏のように旧軍隊の経験を持ちながら戦後を生き抜いた人には、軍隊に対する怨嗟の気持は並々ならぬ深い物があるように思う。
特に高学歴で、軍隊の中では低い階級に置かれたものほど、その内部矛盾に悩まされたに違いないし、その不合理、不条理、不整合に我慢ならない物を抱え込んで生きていたに違いないと思う。
高等教育を受けていないものならば、身の回りの不合理を運命と諦め、不運とみなし、自分をそれになじませて心の平衡を維持していたかもしれないが、高学歴の教養人ともなれば、そんな器用なこともできず、もろもろの不合理はすべて心の内側に沈下して澱となってしまったに違いない。
21世紀に生きている我々日本人は、やはり歴史から何も学んでいないと思う。
今の我々は戦争反対という概念が血肉まで昇華してしまって、日清・日露の戦役さえも肯定することを躊躇する向きがあるが、こういう傾向そのものが極めて危険だということ自体を理解していない。
こちらが戦いを挑まなければ、相手も決してこちらの意思を踏みにじって、日本に対して戦争を仕掛けることはない、と実に安易に考えている。
戦争が嫌なこと、如何なる国の人々も戦争を嫌っているということを考えてもいない。
戦争を嫌悪しているのは我々日本人だけだ、と思い違いをしている。
こういうことは無知以外の何ものでもないわけで、アメリカは好きで戦争をしていると、自分の誤った認識に気がつこうとしない。
戦争というのは政治の延長線上の最悪のシナリオであって、そうならないために、それぞれの国の首脳というのは知恵を絞り切る努力をしているのである。
にもかかわらず不幸にして戦争という事態が引き起こされるわけで、それにはそれぞれに主権国家、あるいはそれぞれの民族に、誇りというものがあるわけで、その民族の誇りあるいは国家の主権とが国益と表裏一体をなしているので、話し合いで妥協点が見いだせなくなると、この国益との軋轢が生じ、それが武力行使という風に拡張するのである。
話し合いの席で、片一方が無限に譲歩すれば、戦争という武力行使にはならないが、それでは国民が納得しないし、国益というものが無に帰すわけで、国家の存立そのものが成り立たなくなってしまう。
第2次世界大戦後の我々日本というのは、世界の中の経済の均衡、軍事力の均衡、外交の均衡の中で浮草のようにきわめて不安定な状況で、右往左往、浮き上がったり沈んだり、水草のように時流に翻弄されながら漂っているのである。
戦後65年間というもの、地に足を据えて自分の力で立っていることがなく、四方八方からつっかい棒で支えられながら、何とか倒れずに来れたわけで、これまでの過程の中では、日本の主権が他国に犯されたこともたびたびあったが、この平衡の壊れるのを恐れて、何一つ有効な処置をとってこなかっただけのことで、決して真の平和を自ら築き上げてきたわけではない。
ただただ目先のトラブル回避をしただけのことで、骨抜き、軟弱、腰ぬけであっただけのことである。
それでも人命が損なわれなかったので由とすると言うのが、今の日本人の大部分の思考であるが、これでは国が衰退に向かうのは当然のことである。
「坂の上の雲」に描かれた日本というのは、右肩上がりの成長に向かいつつあった日本であったが、この成長曲線は太平洋戦争の敗北で一度は折れ曲がってしまったが、それも戦後の復興で再び右肩あがりのグラフを描くことになった。
ところが、それが平成の時代になると右肩下がりの下降線を描くようになってしまった。
一主権国家の繁栄と衰退はサインカーブ、コサインカーブと同じで、一度頂点を極めれば、後は右肩下がりになるとは言うものの、それがわかっているつもりではあっても、それに身を預けるというのはどうにも我慢ならない。
この右肩下がりの元凶、ないしは遠因を問えば、当然のこと、戦後の民主教育にあると考えるのが妥当な思考だ。
戦後の民主教育の弊害は、言うまでもなく日教組が教育界を占拠してしまったことにあるわけで、この日教組の指針は共産主義に主導された傾向であったが、我々にとってまことに不幸なことに、その方針がアメリカの占領政策と見事に一致したことにある。
アメリカの占領政策は言うまでもなく、日本民族の弱体化であったわけで、あの戦争でアメリカに正面から向かって戦いを挑んできた日本民族、大和民族を、骨の髄から骨抜きし、大和魂の壊滅を図ることが至上命令であったわけで、その占領政策と日教組の共産主義的な民主教育というものが見事に利害の一致を見たわけである。
成績に優劣をつけてはならない。子供の自主性を重んじる。個の確立と称して我儘の奨励。人権と称する怠惰な生活態度の奨励。
こういう戦後教育の徳目は、民主的な教育ということで日教組に支持されていたが、それはアメリカの日本愚民化政策と見ごとに軌を一にしていたわけで、日教組が支持されればそれに伴ってアメリカの占領政策が功を奏してくるということになったわけである。
そのもう一つ深いところに潜んでいた要因が、あの戦争を生き抜いた日本人の同胞が密かに抱いている、同胞の指導者を恨む怨嗟の気持である。
あの戦争を生き抜いた同胞からすれば、自分たちは戦時中の我が同胞の指導者に騙されていたという怨みがましい気持ちは決してぬぐいきれないものがあったと思う。
よって、その後の生きざまの中では、決して指導者・統治者を信じてはならない、という思いがあったに違いない。
だから公に奉仕する、上の者に忠誠を誓う、人のことより我が身が大事だ、という唯我独尊的な思考が広範に広がってしまい、自分さえ良ければ後のことは関知しないという発想に陥りやすくなったものと考える。
昭和20年8月15日までの日本は、見事なまでに学歴尊重の社会であり、年功序列の社会であり、天下りの社会であり、官吏優遇社会であり、人治の社会であり、それはことごとくが軍隊組織から派生した社会倫理であったわけで、それが戦後になり変な方向に変異してしまった。
戦後の復興経済のなかで日本独特の社会的な慣行を作り上げtしまった。
社会の変化の根本問題というのは、如何なる国でも官吏の運用に尽きると思う。
官吏つまり官僚を如何にコントロールするかが政治、あるいは行政の主眼となってしまって、昭和の初期の軍人の独断専横も、突き詰めるとこの問題に行き着いてしまう。
この本の中でも東郷平八郎はシビリアン・コントロールの真の意味を真に理解していたという風に描かれているが、これは非常に難しい問題で、今日の鳩山政権において真のシビリアン・コントロールをまともに実施したら、日本という国が成り立っていくかどうか実に疑わしい。
戦後64年間というもの我々はシビリアン・コントロールもどきのことを行ってきたが、それはアメリカとの日米同盟で何とか曲りなりに政治家主導で来れたが、これは完全に独り立ちした国家で真にシビリアン・コントロールが可能かどうかはまことにもって心配である。
シビリアン・コントロールということは、政治家が軍人の上に君臨するということで、軍隊は政治の道具に成りきるということである。
戦前の我々の政治の在り方は、外見上はシビリアン・コントロールであったが、軍部が政治家の言うことに全く聞く耳を持たなかったので、軍部の独断専横だけが目に付いたし、軍部が政治家の言うことを聞かなかったという点で、軍部が戦争を私物化していたと私が言うところである。
その軍部が完全に官僚化してしまって、軍官僚の、軍官僚による、軍官僚のための戦争をしていたところが最大の問題点である。
考えなければならないことは、この軍の独断専横を当時の日本国民も、当時の日本のメデイアも、当時の日本の知識階層も支持し、エールを送っていたことを自省しなければならない。
そして軍部が失敗をする、要するに作戦の遂行に失敗し緒戦に敗北、ないしは敗退しても、その責任追及を国民の側から言いださなかったことである。
軍部が情報を隠匿したという部分があったとしても、戦勝国が懲罰の意味で行った極東国際軍事法廷の後になっても、我々の側から間違った国家運営、間違った戦争遂行、戦争に負けるような作戦を行った高級参謀たちに対する懲罰、責任の追求、業績に対する懲罰という声が一言も上がらなかったということは、我々の国民の側にも戦争に加担したという、後ろめたい贖罪意識が作用したということだろうか。
自分の祖国を奈落の底に突き落とした人間ならば、政治家だろうが、軍人だろうが、国民からヤツサギにされてもいた仕方ないのではなかろうか。
現にイタリアのムッソリーニはそういう処罰を受けたわけだが、我々はそういうことをしていない。
極東国際軍事法廷というのは連合軍として勝った側が彼らの論理で、彼らが憎いと思った敵の首脳を血祭りに上げただけのことで、我々日本人が、奈落の底の突き落とした同胞の責任を問いただしたわけでもなく、間違った政治的指導に対する懲罰の意味で裁いたわけでもなく、奈落の底に突き落とされた国民としては、そういう人間に対して何も報復行為をしていないのは一体どう考えたら良いのであろう。
結果からみて、軍部が軍部のために行った戦争で、一番被害をこうむったのは国民であったことになるが、戦後の日本人で、誰一人この部分を突く人がいないというのは一体どういうことなのであろう。
司馬遼太郎が、「坂の上の雲」で描いた軍神と称せられる人に非常に厳しい批判の目を向けるのは、こういう高級将校に対する怨嗟の気持があったからではないかと想像する。
しかし、この軍神という扱いも、本人から言う訳ないので誰か周囲の人がそういう太鼓もちというか、お追従というか、ごますりというか、提灯持ちのような人がいて、その人が半強制的に言うように仕向けられたのではないかと想像する。
司馬遼太郎の「坂の上の雲」が評判になると、司馬遼太郎史観というものが一人歩きして、それに対抗する本がまた現れ、NHKまでが映像で放映するという過剰反応が出現しているわけで、こういう言う大衆心理というのは,非常に些細なきっかけで群集心理を形成し、それが軍国主義であったり、反政府運動であったり、反体制運動に転嫁しやすくなるのが我々日本人の精神的な特質ではなかろうか。
去年、平成21年の日本の政治の状況を見ても、日本中が雪崩を打って民主党に走り寄ったが、蓋を開けてみると、民主党でも明快な政治手腕を発揮した訳ではなく、自民党時代と大した変りはないが、何故に日本の大衆というのは、自民党に見切りをつけて民主党にすり寄ったのであろう。
考えられるただ一つの要因は、メデイアの自民党叩きと、それに対応した民主党擁護の論陣だけであって、国民は自分の頭で考えた結果でそうなったわけではない。
この鳩山政権がシビリアン・コントロールするかと思うと、もう日本はこの先の将来はないと思わなければならない。
鳩山政権には真の戦争の本質も、真の平和の本質も理解されないものと考えなければならない。
まして外交の本質もわかっていないようで、こういう人に日本丸のかじ取りを任せた日本国民の見識というのも疑ってかからねばならない。
著者は別宮暖朗という人だが全く面識のない人だ。
どうも銀行員のようだが詳細は私の知るところではない。
しかし、面白いもので、この著者は司馬遼太郎の「坂の上の雲」を目の敵にしている。
「坂の上の雲」は昨年末からNHKも取り上げて,大々的に自社宣伝に努めているので、国民的なテレビドラマになりかかっている節がある。
私も特に意図したわけではないが、数年前に全8冊一気に読みとおした作品である。
この作品が世に出たことによって,世間では司馬遼太郎史観というものが出来上がったように見受けられるが、そういう風潮こそ軽佻浮薄というものではなかろうか。
この作品は当然のこと江戸時代の封建主義から脱却して、明治維新をむかえた日本が近代化を推し進める過程を肯定的に捉えているわけで、ある意味で日本人の応援歌という部分が無きにしも非ずである。
しかし、それはあくまでも小説であって、歴史的事実や物事の真実を説きあかすものではなく、歴史的事実や当時の人々の思いを小説という形で代弁しているにすぎず、あくまでもフイックションである。
トルストイの「戦争と平和」という小説も,同じようにその当時の世相と人間の心のありようを微細に描きだしているわけで、それと同じである。
小説家の司馬遼太郎氏が如何なることを言ったとしても,それはあくまでも彼個人の思考の産物であって、彼が自分の思考を他者に押し付けるというようなものではない。
問題は,こういう一小説家の作品を、今に生きる自分たちの教科書として崇め奉り、我々はそうあるべきだと,暗黙の強制を強いる軽佻浮薄な無責任体制にあると考えなければならない。
司馬遼太郎氏が「坂の上の雲」を描いた。
書いた著者としては、それを多くの人に読んでもらいたいと願うのは当然のことで、出版社も売らんがために工作をするのもこれまた資本主義の世界である限り当然の成り行きでもある。
その意味からして、著者が少しでも多く売れるように工夫を凝らして作品を仕上げることも当然あり、それに出版社が輪を掛けて、売らんがための宣伝をすることも十分考えられる。
それにうまい具合に便乗して、「我々の将来もこうあるべきだ」と言い出しかねない疑似経世家、あるいは理想主義者が現れてこないとも限らない。
この本の著者は、この作品に真正面から批判を浴びせることを意図してこの本を書いているようであるが、少々大人げない。
この本が小説であるということを忘れている。
物語が極めて真実に近い体裁をとりつつもフイックションであるということを忘れている。
「坂の上の雲」の作者は、あの激動の明治時代を生きた3人の若者、つまり秋山兄弟と正岡子規の生き様を描きだそうとしているわけで、戦史を忠実にトレースすることを意図したわけではないと思う。
司馬遼太郎がこの作品で問おうとしていることは、人間の内面ではないかと思う。
つまり、社会に出て活躍する人たちの心のありよう、その人が潜在的に内に秘めているモラルが如何に高潔で、人間として優れているかを問おうとしているのだ、と私は推測する。
これは私の推測であるが、司馬遼太郎氏は、自分自身が旧帝国陸軍の将兵であった経験からして、旧軍の内部告発をそれとはわからないように作品の中に埋没させているのではなかろうか。
秋山兄弟を前面に出すことによって、戦時中、軍神と言われ、崇められていた人の化けの皮をはがすことをもくろんでいたのではなかろうか。
この本の作者にとって、主題であるべき東郷平八郎が、秋山真之の後ろに描かれたことに不満が募ってしまって、その部分に我慢ならない義憤を感じているのではなかろうか。
私もこの「坂の上の雲」を読んでいて、乃木稀典に対する評価が不当に低いことが不思議でならなかった。
ここには司馬遼太郎氏の旧日本軍軍人に対する怨恨の気持が隠されているのではなかろうかと思う。
司馬遼太郎氏のように旧軍隊の経験を持ちながら戦後を生き抜いた人には、軍隊に対する怨嗟の気持は並々ならぬ深い物があるように思う。
特に高学歴で、軍隊の中では低い階級に置かれたものほど、その内部矛盾に悩まされたに違いないし、その不合理、不条理、不整合に我慢ならない物を抱え込んで生きていたに違いないと思う。
高等教育を受けていないものならば、身の回りの不合理を運命と諦め、不運とみなし、自分をそれになじませて心の平衡を維持していたかもしれないが、高学歴の教養人ともなれば、そんな器用なこともできず、もろもろの不合理はすべて心の内側に沈下して澱となってしまったに違いない。
21世紀に生きている我々日本人は、やはり歴史から何も学んでいないと思う。
今の我々は戦争反対という概念が血肉まで昇華してしまって、日清・日露の戦役さえも肯定することを躊躇する向きがあるが、こういう傾向そのものが極めて危険だということ自体を理解していない。
こちらが戦いを挑まなければ、相手も決してこちらの意思を踏みにじって、日本に対して戦争を仕掛けることはない、と実に安易に考えている。
戦争が嫌なこと、如何なる国の人々も戦争を嫌っているということを考えてもいない。
戦争を嫌悪しているのは我々日本人だけだ、と思い違いをしている。
こういうことは無知以外の何ものでもないわけで、アメリカは好きで戦争をしていると、自分の誤った認識に気がつこうとしない。
戦争というのは政治の延長線上の最悪のシナリオであって、そうならないために、それぞれの国の首脳というのは知恵を絞り切る努力をしているのである。
にもかかわらず不幸にして戦争という事態が引き起こされるわけで、それにはそれぞれに主権国家、あるいはそれぞれの民族に、誇りというものがあるわけで、その民族の誇りあるいは国家の主権とが国益と表裏一体をなしているので、話し合いで妥協点が見いだせなくなると、この国益との軋轢が生じ、それが武力行使という風に拡張するのである。
話し合いの席で、片一方が無限に譲歩すれば、戦争という武力行使にはならないが、それでは国民が納得しないし、国益というものが無に帰すわけで、国家の存立そのものが成り立たなくなってしまう。
第2次世界大戦後の我々日本というのは、世界の中の経済の均衡、軍事力の均衡、外交の均衡の中で浮草のようにきわめて不安定な状況で、右往左往、浮き上がったり沈んだり、水草のように時流に翻弄されながら漂っているのである。
戦後65年間というもの、地に足を据えて自分の力で立っていることがなく、四方八方からつっかい棒で支えられながら、何とか倒れずに来れたわけで、これまでの過程の中では、日本の主権が他国に犯されたこともたびたびあったが、この平衡の壊れるのを恐れて、何一つ有効な処置をとってこなかっただけのことで、決して真の平和を自ら築き上げてきたわけではない。
ただただ目先のトラブル回避をしただけのことで、骨抜き、軟弱、腰ぬけであっただけのことである。
それでも人命が損なわれなかったので由とすると言うのが、今の日本人の大部分の思考であるが、これでは国が衰退に向かうのは当然のことである。
「坂の上の雲」に描かれた日本というのは、右肩上がりの成長に向かいつつあった日本であったが、この成長曲線は太平洋戦争の敗北で一度は折れ曲がってしまったが、それも戦後の復興で再び右肩あがりのグラフを描くことになった。
ところが、それが平成の時代になると右肩下がりの下降線を描くようになってしまった。
一主権国家の繁栄と衰退はサインカーブ、コサインカーブと同じで、一度頂点を極めれば、後は右肩下がりになるとは言うものの、それがわかっているつもりではあっても、それに身を預けるというのはどうにも我慢ならない。
この右肩下がりの元凶、ないしは遠因を問えば、当然のこと、戦後の民主教育にあると考えるのが妥当な思考だ。
戦後の民主教育の弊害は、言うまでもなく日教組が教育界を占拠してしまったことにあるわけで、この日教組の指針は共産主義に主導された傾向であったが、我々にとってまことに不幸なことに、その方針がアメリカの占領政策と見事に一致したことにある。
アメリカの占領政策は言うまでもなく、日本民族の弱体化であったわけで、あの戦争でアメリカに正面から向かって戦いを挑んできた日本民族、大和民族を、骨の髄から骨抜きし、大和魂の壊滅を図ることが至上命令であったわけで、その占領政策と日教組の共産主義的な民主教育というものが見事に利害の一致を見たわけである。
成績に優劣をつけてはならない。子供の自主性を重んじる。個の確立と称して我儘の奨励。人権と称する怠惰な生活態度の奨励。
こういう戦後教育の徳目は、民主的な教育ということで日教組に支持されていたが、それはアメリカの日本愚民化政策と見ごとに軌を一にしていたわけで、日教組が支持されればそれに伴ってアメリカの占領政策が功を奏してくるということになったわけである。
そのもう一つ深いところに潜んでいた要因が、あの戦争を生き抜いた日本人の同胞が密かに抱いている、同胞の指導者を恨む怨嗟の気持である。
あの戦争を生き抜いた同胞からすれば、自分たちは戦時中の我が同胞の指導者に騙されていたという怨みがましい気持ちは決してぬぐいきれないものがあったと思う。
よって、その後の生きざまの中では、決して指導者・統治者を信じてはならない、という思いがあったに違いない。
だから公に奉仕する、上の者に忠誠を誓う、人のことより我が身が大事だ、という唯我独尊的な思考が広範に広がってしまい、自分さえ良ければ後のことは関知しないという発想に陥りやすくなったものと考える。
昭和20年8月15日までの日本は、見事なまでに学歴尊重の社会であり、年功序列の社会であり、天下りの社会であり、官吏優遇社会であり、人治の社会であり、それはことごとくが軍隊組織から派生した社会倫理であったわけで、それが戦後になり変な方向に変異してしまった。
戦後の復興経済のなかで日本独特の社会的な慣行を作り上げtしまった。
社会の変化の根本問題というのは、如何なる国でも官吏の運用に尽きると思う。
官吏つまり官僚を如何にコントロールするかが政治、あるいは行政の主眼となってしまって、昭和の初期の軍人の独断専横も、突き詰めるとこの問題に行き着いてしまう。
この本の中でも東郷平八郎はシビリアン・コントロールの真の意味を真に理解していたという風に描かれているが、これは非常に難しい問題で、今日の鳩山政権において真のシビリアン・コントロールをまともに実施したら、日本という国が成り立っていくかどうか実に疑わしい。
戦後64年間というもの我々はシビリアン・コントロールもどきのことを行ってきたが、それはアメリカとの日米同盟で何とか曲りなりに政治家主導で来れたが、これは完全に独り立ちした国家で真にシビリアン・コントロールが可能かどうかはまことにもって心配である。
シビリアン・コントロールということは、政治家が軍人の上に君臨するということで、軍隊は政治の道具に成りきるということである。
戦前の我々の政治の在り方は、外見上はシビリアン・コントロールであったが、軍部が政治家の言うことに全く聞く耳を持たなかったので、軍部の独断専横だけが目に付いたし、軍部が政治家の言うことを聞かなかったという点で、軍部が戦争を私物化していたと私が言うところである。
その軍部が完全に官僚化してしまって、軍官僚の、軍官僚による、軍官僚のための戦争をしていたところが最大の問題点である。
考えなければならないことは、この軍の独断専横を当時の日本国民も、当時の日本のメデイアも、当時の日本の知識階層も支持し、エールを送っていたことを自省しなければならない。
そして軍部が失敗をする、要するに作戦の遂行に失敗し緒戦に敗北、ないしは敗退しても、その責任追及を国民の側から言いださなかったことである。
軍部が情報を隠匿したという部分があったとしても、戦勝国が懲罰の意味で行った極東国際軍事法廷の後になっても、我々の側から間違った国家運営、間違った戦争遂行、戦争に負けるような作戦を行った高級参謀たちに対する懲罰、責任の追求、業績に対する懲罰という声が一言も上がらなかったということは、我々の国民の側にも戦争に加担したという、後ろめたい贖罪意識が作用したということだろうか。
自分の祖国を奈落の底に突き落とした人間ならば、政治家だろうが、軍人だろうが、国民からヤツサギにされてもいた仕方ないのではなかろうか。
現にイタリアのムッソリーニはそういう処罰を受けたわけだが、我々はそういうことをしていない。
極東国際軍事法廷というのは連合軍として勝った側が彼らの論理で、彼らが憎いと思った敵の首脳を血祭りに上げただけのことで、我々日本人が、奈落の底の突き落とした同胞の責任を問いただしたわけでもなく、間違った政治的指導に対する懲罰の意味で裁いたわけでもなく、奈落の底に突き落とされた国民としては、そういう人間に対して何も報復行為をしていないのは一体どう考えたら良いのであろう。
結果からみて、軍部が軍部のために行った戦争で、一番被害をこうむったのは国民であったことになるが、戦後の日本人で、誰一人この部分を突く人がいないというのは一体どういうことなのであろう。
司馬遼太郎が、「坂の上の雲」で描いた軍神と称せられる人に非常に厳しい批判の目を向けるのは、こういう高級将校に対する怨嗟の気持があったからではないかと想像する。
しかし、この軍神という扱いも、本人から言う訳ないので誰か周囲の人がそういう太鼓もちというか、お追従というか、ごますりというか、提灯持ちのような人がいて、その人が半強制的に言うように仕向けられたのではないかと想像する。
司馬遼太郎の「坂の上の雲」が評判になると、司馬遼太郎史観というものが一人歩きして、それに対抗する本がまた現れ、NHKまでが映像で放映するという過剰反応が出現しているわけで、こういう言う大衆心理というのは,非常に些細なきっかけで群集心理を形成し、それが軍国主義であったり、反政府運動であったり、反体制運動に転嫁しやすくなるのが我々日本人の精神的な特質ではなかろうか。
去年、平成21年の日本の政治の状況を見ても、日本中が雪崩を打って民主党に走り寄ったが、蓋を開けてみると、民主党でも明快な政治手腕を発揮した訳ではなく、自民党時代と大した変りはないが、何故に日本の大衆というのは、自民党に見切りをつけて民主党にすり寄ったのであろう。
考えられるただ一つの要因は、メデイアの自民党叩きと、それに対応した民主党擁護の論陣だけであって、国民は自分の頭で考えた結果でそうなったわけではない。
この鳩山政権がシビリアン・コントロールするかと思うと、もう日本はこの先の将来はないと思わなければならない。
鳩山政権には真の戦争の本質も、真の平和の本質も理解されないものと考えなければならない。
まして外交の本質もわかっていないようで、こういう人に日本丸のかじ取りを任せた日本国民の見識というのも疑ってかからねばならない。