例によって自分の本箱から目に付いたものを引っ張り出して読んでみた。
「台湾・朝鮮・満州・日本の植民地の真実」という本で、これもいつ購入したかトンと記憶にない。
著者は黄文雄氏。
テレビの映像で彼の姿を垣間見たことがあるが、その風貌は独特の雰囲気を漂わせていた。
台湾生まれの学者であるが、読んでいるとお尻がむずがゆくなるぐらい日本びいきで、我々の先輩諸氏に対して敬虔な思いを語ってくれる、実にありがたい味方という感がする。
今の日本の進歩的文化人の中では生息不可能なぐらい正々堂々と過去の日本を擁護してくれている。
小林よしのり、櫻井よしこ、石原慎太郎あたりがこういう論陣を張るのであれば、納得しながら見ておれるが、台湾の人からこういうことを言われると、あまりにも嬉しくて舞い上がりそうな気分になる。
台湾の李登輝なども日本を擁護してやまないが、それを聞く側の我々の方は、恐縮してしまって素直な気持ちで聞き入れることに躊躇しがちだ。
我々が、自分たち同胞の先輩諸氏が過去にアジアで行った行為に対して誇りが持てないのは、言うまでもなく中国や韓国の内政干渉が怖くて震え上がっているからであって、この内政干渉そのものが国家間の諍いの根源である。
明治維新以降の日本のアジアでの振る舞いは、世界的な視野で見れば、アジアの解放であったことは世界が認めるところだと思う。
この本が縷々述べているように、台湾でも朝鮮でも、日本が統治したからこそ近代化を成し得たわけで、日本がその地に進出していなければ、未だに未開のままであったに違いない。
こういう地域では、日本の明治維新に匹敵する変革が、彼ら自身の力で出来なかったから、結果としてそれが日本によってなされたわけで、その事はその後の彼の国の発展に大きく寄与しているはずだ。
植民地という言葉は、帝國主義と表裏一体をなす言葉だと思うが、それまでの西洋型の先進的な帝国主義というのは、あくまでも富の草刈り場という認識で、現地の人々の至福ということは、九牛の一毛たりとも考えていなかったはずである。
ヨーロッパの先進国の植民地支配というのは、現地の人々を自分たちと同じ人間とも見做していなかったに違いない。
古い映画のシーンで見たことがあるが、西洋のキリスト教の価値観では、女性の裸体を人に見せる、見られるというのは慎むべきことで、忌み嫌われる行為の筈であるが、現地の人の前では平気でそれをするということは、明らかに現地の人々を自分と同じ人間と見做していない証明だと思う。
帝国主義というものに対する認識も、我々は西洋列強よりも遅れたわけで、その上東洋の価値感では富を収奪するという発想は今までになかった。
ただ征服した相手から財宝を略奪するということは、そのこと自体が戦争の目的でもあったが、コロニーを作って、そこから富だけを吸収するという発想は東洋にはなかった。
今日、19世紀末から20世紀、21世紀のアジアというものを敷衍的に眺めてみると、アジアの中の中国の歴史があまりにも長すぎたことに、この時代の不幸が埋没していたものと思う。
この考えを掘り下げていくと、基本的には個の人間の生存に行き着いてしまうが、アジアの大部分を占める中国、昔風の言い方をすればシナであるが、このシナがあくまでも統一国家を作ろうと画策するから,アジアの混沌が払しょくしきれないのではなかろうか。
今の共産中国、中華人民共和国になってもなおチベットやモンゴルを支配下に置こうと画策しているわけで、中国の民がアジアを一つに統一しようとするから,アジアは混沌の渦から出れないのではなかろうか。
アジア大陸を一つに統一するということは、究極の中華思想なわけで、中国の指導者がこういう夢を抱いている限り、アジアの平安はあり得ない。
そもそも、いかなる地域、いかなる地方でも、人を人と見ること自体が人としての驕りであったかもしれない。
ヨーロッパの宗主国の人が、現地の人を人と見做していないのも、現実を直視した結果としての意識のフィードバックであったかもしれない。
というのは、19世紀の中国の海岸、いわゆる沿岸地方にたどり着いたヨーロッパの人々の見たものは、人間がゴミの中に蠢くゴキブリのように目に映ったのではなかろうか。
戦後、名画として誉れ高い『慕情』という映画は、ウイリアム・ホールデンとジェニファー・ジョーンズがジャンクの上でデートするシーンがあるが、そのジャンクの漕ぎ手は完全に中国そのもので、赤子を背中に括りつけた母親とその夫が船を操っているシーンがあって、銘々白日に中国の現状を描き出している。
あの映画は朝鮮戦争の始まったころだから1950年、昭和25年代であるにもかかわらず、中国の最先端の都市・香港でさえあれである。
よって海岸から一歩奥に入れば、延々とあの状況が繰り広げられていると思う。
我々の戦後もあれと同じであったが、そこから如何に早く脱出できるか否かが問題だと思う。
過疎と過密が入り混じって、キリスト教文化圏のヨーロッパ人から見ると、まさしく人が人とも思えなくとも不思議ではないと思う。
で、本論に戻ると、日本は結果的にこういう地域に分け入って、そこに社会的なインフラ整備をしたわけであるが、我々は海で囲まれた民族なので、まさしく「井戸の中の蛙」の状態でいたわけだ。
何について無知だったかと言うと、それは地球上に普遍的に広がっていた人種差別について無知だったということだ。
シナに渡っても、台湾に渡っても、その地に住んでいる人を、自分と同じ人間だと見做していたが、これが世界の常識からみると大間違いであったわけだ。
丁度、今でいうところの一国平和主義、あるいは非武装中立論と同じで、自分たちでは良いアイデアだと思っていても、世界には全く通用しない唯我独尊的な自己満足でしかなかったわけである。
この人種差別に対する認識不足が今問題になっているわけで、我々同胞の先輩諸氏は、日本の支配下の原住民の人たちを、自分たちと同じレベルに引き上げようと一生懸命努力し、その効果も実績もそれなり上げたが、これが今日彼らの糾弾のもとになっている。
つまり、彼らの世界では、政権が変わると、新しい政権は前政権を全否定するのが普遍的な行為であって、いくら社会的なインフラが整備されても、その意義が理解されない。
前政権の実績は、新政権では御破算にされてしまい、元の旧弊に戻ってしまうのである。
こういう政権交代が大問題なわけで、我々が彼らのためと思ってしたことでも、政治形態が変わるとそれが悪行となってしまい、そうならないためには現地の人々の日本擁護論が出てくれば我々としてはありがたいが、そういう発言は反体制、反政府という言い分で以て封じ込まれてしまう。
アジアの人々の政治感覚というのは実にいい加減なもので、仏教、道教、儒教その他もろもろの思想で、皆それぞれに言いたいことを言い合って、統一的な見解というものが全くないので、最後は武力行使で事を解決するということになってしまう。
眼の前にある黒い物を白と言い包めて平気でいることが政治の本質と心得ているので、現実に、黒い物を何が何でも白と相手に認識させようとすれば、最終的には武力で脅すしかないことになる。
戦後の日本の進歩的文化人の自虐史観というものはここに立脚しているわけで、この部分で相手の不合理・不整合な言い分をあくまで正そうとするならば、相手は最終的に武力行使に行き着いてしまうから、自分の方に非があるわけでもないのに、相手の言い分を飲まざるを得なくなる、ということに行き着いてしまう。
最近の日本のアジア外交で、日本が安易に謝罪するのも、明らかにこういう思慮に欠けた行為でもある。
相手は最初から黒を白と言い包める魂胆でテーブルについてくるわけで、中国と韓国、それに北朝鮮以外のアジア諸国の首脳で、こういう不合理な問題を突き付けてくる国はないはずだ。
戦前の日本が台湾、朝鮮、満州で如何なるインフラ整備を行ったかということは、この本の中に縷々述べられているが、問題は、そういう内容を知ってか知らずか日本の政治家、日本の外交官が安易に謝罪してしまうところにある。
自分たちの同胞の先輩諸氏が現地の人々に如何に貢献したかということを知らずに、相手の言い分のみを鵜呑みにして、自分たちの先輩諸氏の実績を貶めている姿はあまりにも自虐的すぎると思う。
それは自分たちの歴史を全く知らないということに通じている。
政治家や外交官たるものが自分の祖国の歴史をろくに知らないということは実に由々しき問題であるが、ここに戦後の日本の歪みが集約されているわけで、ある意味で我々は天に向かって唾を吐いてそれが自分の顔に落ちてきた感がする。
戦争に敗北したということは、政治の失敗、作戦の失敗ということで如何ともしようがないが、問題は、その後の我々の民族の生き方、生き様にある。
戦争に負けた以上、戦勝国に支配され、社会秩序が蹂躙されることもある程度はいた仕方ない。
ここで我々の同胞の中でかろうじてあの戦争で生き残った人たちの思考が最大の問題となるが、敗戦当初は確かに我々の祖国は灰燼と化しており、食うに食い物なく、働こうにも職場もなく、住むに家もなく、塗炭の苦しみを味わったわけだが、ここであの戦争で生き残った我々の同胞は完全にPTSD(心因性外傷後ストレス症候群)に罹ってしまい、精神が元の正常値に戻ることがなくなってしまったものと推察される。
物質に圧力を加え続けて限界点を越えると一気に破断するのとおなじで、あまりの試練に耐えきれなくなって、精神が平常心を失ってしまって従来のものの考え方を見失ってしまったというわけだ。
思えば、戦前は自分の祖国の指導者の言うことを鵜呑みにして、頭から信じ切っていたものが蓋を開ければ敗戦であり、メデイアからは嘘ばかりを吹き込まれていたことが分かれば、今後一切そういうものを信じてはならない、と考えるのも自然の成り行きではある。
確かに敗戦直後は住むにも家のない状態ではあったが、生き残った人たちも、自分たちの為政者が信用ならないとは思いつつも、自らも生きねばならないわけで、生き続けた結果が戦後の復興を成してしまったことになる。
その積み重ねでアメリカに次ぐ世界第2位の経済大国になってみると、アジアはまだまだ我々と比べて立ち遅れているわけで、ならばそういう地域に大判振る舞いをして金をバラまけば、もっと評価が上がるのではないかという憶測が謝罪外交になったのではなかろうか。
日本の慣習の中では、謝るということは「謙譲の美徳」として通用しているが、日本以外では自分の非を自ら認めるということになるわけで、謝った以上「非を認めたのだから補償をするのが当然だ」という論理になる。
日本の政治家や外交官がアジアで安易に謝罪するというのも、当然のこと、メデイアの反応を気に掛けながらのパフォーマンスなわけで、メデイアが謝罪を煽らなければ、こういうことにはならなかったものと推察する。
メデイアというのは完全にグローバル化しているわけで、日本のメデイアだけを注視していても大勢はつかめないが、海外のメデイアは日本の意図とは関係なく報道するので、そこで評価を得たいというのが日本の政治家や外交官の思惑だと思う。
日本というのは四周を海で囲まれた特異な国なので、世界的に見て非常にいじめやすい、いびりやすい、いじめてからかうには実に具合の良い国で、中に住んでいる人間は、実に生真面目で、理想を真正面から捉え、真面目に立ち向かおうとする極めて珍奇な国に映っていると思う。
だから我々は常にからかいの対象にされているわけで、トランジェスターラジオの売人だとか、兎小屋だとか、侵略国家だとか言われて、ジャパン・パッシングされつづけ、哄笑の的にされているが、それに対して論理的に整然と、国際的に権威ある場で反駁する人士も現れないので、世界から軽く見られるのである。
日本が国際連盟の場で人種差別撤廃を叫んでも世界は少しも動じることなく却下した。
同じ国際連盟における満州国建国の件では、西洋列強はこれを承認しなかったが、こういう一連の動きは、世界中が日本を蔑視しているということに他ならない。
西洋列強から見てアジアのモンゴロイドは人間の内にも入っていないわけで、我々は今ヨーロッパにも簡単に旅行するが、彼らは我々を心から受け入れているわけではなく、ただ日本人は金を落とすから、ことを荒立たせないようにしているにすぎない。
こういうことを知った上で彼らと付き合わねばならないが、アジアの民はそのあたりのことをもっと無遠慮にあからさまにぶつけてくるので、ある意味では気が楽である。
アジアの民と我々日本人は、どこか精神の深層部分で潜在意識の中に違うものがあって、我々の倫理感では黒を白と言い包める行為は、卑しい人の行為で、人にあるまじき行為という価値観であるが、これが中国や韓国では究極の処世術になっており、これができなければ彼の地では生きていけない。
あることないこと嘘で固めた虚像を並べられて、それに対して論理的に反駁すると、それを敵意と捉えて、なお一層の難題を吹っ掛ける手法というのは、やはり歴史に裏打ちされた処世術であろうが、相手がこういう態度に出るとこちら側としては打つ手がない。
支離滅裂な論理を、大きな声でむやみやたらと門前で言いたてられると、それを黙らせるには銭を握らせるほかない。
全く整合性のない、黒を白と言い包める手合いの論理を言い立てるということは、相手の知性の問題に帰するが、我々の倫理感からすれば実に見下げた忌まわしいことだ。
しかし、仮にそうと思ったとしても、相手は国益を掛けて言ってくるわけで、この感覚が我々には理解しがたいことだ。
こういう論理の不整合、支離滅裂な議論、根拠のない言い分、というのは彼らの国の中の政治の局面でもごく普遍的に存在しているのではなかろうか。
韓国では政権が交代すると、元大統領あるいは前大統領が告発されて、すぐまた減刑されるという妙なことが起きるが、これも黒を白と言い包める類の政変であって、もともと整合性のない物をあるように見せかけなければならないので、こういう変な事態が起きるのではなかろうか。
中華人民共和国の文化大革命も、この類の騒動で、もともと何ら整合性のない話を、あたかもあるように見せかけなければならないので、論理的な矛盾を隠し切れずに、ああいう惨劇となったのではなかろうか。
あの戦争、日中戦争、あるいは太平洋戦争、第2次世界大戦というものが終わって半世紀以上を経過したことになるが、あの戦争ではアジアにおける西洋列強の覇権を日本が木っ端みじんに粉砕したという事実は免れないと思う。
日本のあの戦争に対する本義は,アジアの解放にあったわけで、その意味からすれば、我々の祖国は戦争に負けたとはいえ、結果的にはその目的を達成したということになる。
ただただ我々にとってまことに不甲斐ないこととして、我が民族の政治的手腕の稚拙さというものは何時になっても克服できないようで、まことに不甲斐ない。
19世紀後半から20世紀の日本は、アジアに対して多大な貢献をしているが、日本の政治家や外交官は我々の先輩諸氏がアジアにそういう貢献をした事実を完全に無視して、ただ先方から言われるままに、謝罪するなどという愚が罷り通っていいものだろうか。
あまりにも自分たちの同胞の行った業績に無頓着で、無知であり、歴史を知らなすぎる。
「台湾・朝鮮・満州・日本の植民地の真実」という本で、これもいつ購入したかトンと記憶にない。
著者は黄文雄氏。
テレビの映像で彼の姿を垣間見たことがあるが、その風貌は独特の雰囲気を漂わせていた。
台湾生まれの学者であるが、読んでいるとお尻がむずがゆくなるぐらい日本びいきで、我々の先輩諸氏に対して敬虔な思いを語ってくれる、実にありがたい味方という感がする。
今の日本の進歩的文化人の中では生息不可能なぐらい正々堂々と過去の日本を擁護してくれている。
小林よしのり、櫻井よしこ、石原慎太郎あたりがこういう論陣を張るのであれば、納得しながら見ておれるが、台湾の人からこういうことを言われると、あまりにも嬉しくて舞い上がりそうな気分になる。
台湾の李登輝なども日本を擁護してやまないが、それを聞く側の我々の方は、恐縮してしまって素直な気持ちで聞き入れることに躊躇しがちだ。
我々が、自分たち同胞の先輩諸氏が過去にアジアで行った行為に対して誇りが持てないのは、言うまでもなく中国や韓国の内政干渉が怖くて震え上がっているからであって、この内政干渉そのものが国家間の諍いの根源である。
明治維新以降の日本のアジアでの振る舞いは、世界的な視野で見れば、アジアの解放であったことは世界が認めるところだと思う。
この本が縷々述べているように、台湾でも朝鮮でも、日本が統治したからこそ近代化を成し得たわけで、日本がその地に進出していなければ、未だに未開のままであったに違いない。
こういう地域では、日本の明治維新に匹敵する変革が、彼ら自身の力で出来なかったから、結果としてそれが日本によってなされたわけで、その事はその後の彼の国の発展に大きく寄与しているはずだ。
植民地という言葉は、帝國主義と表裏一体をなす言葉だと思うが、それまでの西洋型の先進的な帝国主義というのは、あくまでも富の草刈り場という認識で、現地の人々の至福ということは、九牛の一毛たりとも考えていなかったはずである。
ヨーロッパの先進国の植民地支配というのは、現地の人々を自分たちと同じ人間とも見做していなかったに違いない。
古い映画のシーンで見たことがあるが、西洋のキリスト教の価値観では、女性の裸体を人に見せる、見られるというのは慎むべきことで、忌み嫌われる行為の筈であるが、現地の人の前では平気でそれをするということは、明らかに現地の人々を自分と同じ人間と見做していない証明だと思う。
帝国主義というものに対する認識も、我々は西洋列強よりも遅れたわけで、その上東洋の価値感では富を収奪するという発想は今までになかった。
ただ征服した相手から財宝を略奪するということは、そのこと自体が戦争の目的でもあったが、コロニーを作って、そこから富だけを吸収するという発想は東洋にはなかった。
今日、19世紀末から20世紀、21世紀のアジアというものを敷衍的に眺めてみると、アジアの中の中国の歴史があまりにも長すぎたことに、この時代の不幸が埋没していたものと思う。
この考えを掘り下げていくと、基本的には個の人間の生存に行き着いてしまうが、アジアの大部分を占める中国、昔風の言い方をすればシナであるが、このシナがあくまでも統一国家を作ろうと画策するから,アジアの混沌が払しょくしきれないのではなかろうか。
今の共産中国、中華人民共和国になってもなおチベットやモンゴルを支配下に置こうと画策しているわけで、中国の民がアジアを一つに統一しようとするから,アジアは混沌の渦から出れないのではなかろうか。
アジア大陸を一つに統一するということは、究極の中華思想なわけで、中国の指導者がこういう夢を抱いている限り、アジアの平安はあり得ない。
そもそも、いかなる地域、いかなる地方でも、人を人と見ること自体が人としての驕りであったかもしれない。
ヨーロッパの宗主国の人が、現地の人を人と見做していないのも、現実を直視した結果としての意識のフィードバックであったかもしれない。
というのは、19世紀の中国の海岸、いわゆる沿岸地方にたどり着いたヨーロッパの人々の見たものは、人間がゴミの中に蠢くゴキブリのように目に映ったのではなかろうか。
戦後、名画として誉れ高い『慕情』という映画は、ウイリアム・ホールデンとジェニファー・ジョーンズがジャンクの上でデートするシーンがあるが、そのジャンクの漕ぎ手は完全に中国そのもので、赤子を背中に括りつけた母親とその夫が船を操っているシーンがあって、銘々白日に中国の現状を描き出している。
あの映画は朝鮮戦争の始まったころだから1950年、昭和25年代であるにもかかわらず、中国の最先端の都市・香港でさえあれである。
よって海岸から一歩奥に入れば、延々とあの状況が繰り広げられていると思う。
我々の戦後もあれと同じであったが、そこから如何に早く脱出できるか否かが問題だと思う。
過疎と過密が入り混じって、キリスト教文化圏のヨーロッパ人から見ると、まさしく人が人とも思えなくとも不思議ではないと思う。
で、本論に戻ると、日本は結果的にこういう地域に分け入って、そこに社会的なインフラ整備をしたわけであるが、我々は海で囲まれた民族なので、まさしく「井戸の中の蛙」の状態でいたわけだ。
何について無知だったかと言うと、それは地球上に普遍的に広がっていた人種差別について無知だったということだ。
シナに渡っても、台湾に渡っても、その地に住んでいる人を、自分と同じ人間だと見做していたが、これが世界の常識からみると大間違いであったわけだ。
丁度、今でいうところの一国平和主義、あるいは非武装中立論と同じで、自分たちでは良いアイデアだと思っていても、世界には全く通用しない唯我独尊的な自己満足でしかなかったわけである。
この人種差別に対する認識不足が今問題になっているわけで、我々同胞の先輩諸氏は、日本の支配下の原住民の人たちを、自分たちと同じレベルに引き上げようと一生懸命努力し、その効果も実績もそれなり上げたが、これが今日彼らの糾弾のもとになっている。
つまり、彼らの世界では、政権が変わると、新しい政権は前政権を全否定するのが普遍的な行為であって、いくら社会的なインフラが整備されても、その意義が理解されない。
前政権の実績は、新政権では御破算にされてしまい、元の旧弊に戻ってしまうのである。
こういう政権交代が大問題なわけで、我々が彼らのためと思ってしたことでも、政治形態が変わるとそれが悪行となってしまい、そうならないためには現地の人々の日本擁護論が出てくれば我々としてはありがたいが、そういう発言は反体制、反政府という言い分で以て封じ込まれてしまう。
アジアの人々の政治感覚というのは実にいい加減なもので、仏教、道教、儒教その他もろもろの思想で、皆それぞれに言いたいことを言い合って、統一的な見解というものが全くないので、最後は武力行使で事を解決するということになってしまう。
眼の前にある黒い物を白と言い包めて平気でいることが政治の本質と心得ているので、現実に、黒い物を何が何でも白と相手に認識させようとすれば、最終的には武力で脅すしかないことになる。
戦後の日本の進歩的文化人の自虐史観というものはここに立脚しているわけで、この部分で相手の不合理・不整合な言い分をあくまで正そうとするならば、相手は最終的に武力行使に行き着いてしまうから、自分の方に非があるわけでもないのに、相手の言い分を飲まざるを得なくなる、ということに行き着いてしまう。
最近の日本のアジア外交で、日本が安易に謝罪するのも、明らかにこういう思慮に欠けた行為でもある。
相手は最初から黒を白と言い包める魂胆でテーブルについてくるわけで、中国と韓国、それに北朝鮮以外のアジア諸国の首脳で、こういう不合理な問題を突き付けてくる国はないはずだ。
戦前の日本が台湾、朝鮮、満州で如何なるインフラ整備を行ったかということは、この本の中に縷々述べられているが、問題は、そういう内容を知ってか知らずか日本の政治家、日本の外交官が安易に謝罪してしまうところにある。
自分たちの同胞の先輩諸氏が現地の人々に如何に貢献したかということを知らずに、相手の言い分のみを鵜呑みにして、自分たちの先輩諸氏の実績を貶めている姿はあまりにも自虐的すぎると思う。
それは自分たちの歴史を全く知らないということに通じている。
政治家や外交官たるものが自分の祖国の歴史をろくに知らないということは実に由々しき問題であるが、ここに戦後の日本の歪みが集約されているわけで、ある意味で我々は天に向かって唾を吐いてそれが自分の顔に落ちてきた感がする。
戦争に敗北したということは、政治の失敗、作戦の失敗ということで如何ともしようがないが、問題は、その後の我々の民族の生き方、生き様にある。
戦争に負けた以上、戦勝国に支配され、社会秩序が蹂躙されることもある程度はいた仕方ない。
ここで我々の同胞の中でかろうじてあの戦争で生き残った人たちの思考が最大の問題となるが、敗戦当初は確かに我々の祖国は灰燼と化しており、食うに食い物なく、働こうにも職場もなく、住むに家もなく、塗炭の苦しみを味わったわけだが、ここであの戦争で生き残った我々の同胞は完全にPTSD(心因性外傷後ストレス症候群)に罹ってしまい、精神が元の正常値に戻ることがなくなってしまったものと推察される。
物質に圧力を加え続けて限界点を越えると一気に破断するのとおなじで、あまりの試練に耐えきれなくなって、精神が平常心を失ってしまって従来のものの考え方を見失ってしまったというわけだ。
思えば、戦前は自分の祖国の指導者の言うことを鵜呑みにして、頭から信じ切っていたものが蓋を開ければ敗戦であり、メデイアからは嘘ばかりを吹き込まれていたことが分かれば、今後一切そういうものを信じてはならない、と考えるのも自然の成り行きではある。
確かに敗戦直後は住むにも家のない状態ではあったが、生き残った人たちも、自分たちの為政者が信用ならないとは思いつつも、自らも生きねばならないわけで、生き続けた結果が戦後の復興を成してしまったことになる。
その積み重ねでアメリカに次ぐ世界第2位の経済大国になってみると、アジアはまだまだ我々と比べて立ち遅れているわけで、ならばそういう地域に大判振る舞いをして金をバラまけば、もっと評価が上がるのではないかという憶測が謝罪外交になったのではなかろうか。
日本の慣習の中では、謝るということは「謙譲の美徳」として通用しているが、日本以外では自分の非を自ら認めるということになるわけで、謝った以上「非を認めたのだから補償をするのが当然だ」という論理になる。
日本の政治家や外交官がアジアで安易に謝罪するというのも、当然のこと、メデイアの反応を気に掛けながらのパフォーマンスなわけで、メデイアが謝罪を煽らなければ、こういうことにはならなかったものと推察する。
メデイアというのは完全にグローバル化しているわけで、日本のメデイアだけを注視していても大勢はつかめないが、海外のメデイアは日本の意図とは関係なく報道するので、そこで評価を得たいというのが日本の政治家や外交官の思惑だと思う。
日本というのは四周を海で囲まれた特異な国なので、世界的に見て非常にいじめやすい、いびりやすい、いじめてからかうには実に具合の良い国で、中に住んでいる人間は、実に生真面目で、理想を真正面から捉え、真面目に立ち向かおうとする極めて珍奇な国に映っていると思う。
だから我々は常にからかいの対象にされているわけで、トランジェスターラジオの売人だとか、兎小屋だとか、侵略国家だとか言われて、ジャパン・パッシングされつづけ、哄笑の的にされているが、それに対して論理的に整然と、国際的に権威ある場で反駁する人士も現れないので、世界から軽く見られるのである。
日本が国際連盟の場で人種差別撤廃を叫んでも世界は少しも動じることなく却下した。
同じ国際連盟における満州国建国の件では、西洋列強はこれを承認しなかったが、こういう一連の動きは、世界中が日本を蔑視しているということに他ならない。
西洋列強から見てアジアのモンゴロイドは人間の内にも入っていないわけで、我々は今ヨーロッパにも簡単に旅行するが、彼らは我々を心から受け入れているわけではなく、ただ日本人は金を落とすから、ことを荒立たせないようにしているにすぎない。
こういうことを知った上で彼らと付き合わねばならないが、アジアの民はそのあたりのことをもっと無遠慮にあからさまにぶつけてくるので、ある意味では気が楽である。
アジアの民と我々日本人は、どこか精神の深層部分で潜在意識の中に違うものがあって、我々の倫理感では黒を白と言い包める行為は、卑しい人の行為で、人にあるまじき行為という価値観であるが、これが中国や韓国では究極の処世術になっており、これができなければ彼の地では生きていけない。
あることないこと嘘で固めた虚像を並べられて、それに対して論理的に反駁すると、それを敵意と捉えて、なお一層の難題を吹っ掛ける手法というのは、やはり歴史に裏打ちされた処世術であろうが、相手がこういう態度に出るとこちら側としては打つ手がない。
支離滅裂な論理を、大きな声でむやみやたらと門前で言いたてられると、それを黙らせるには銭を握らせるほかない。
全く整合性のない、黒を白と言い包める手合いの論理を言い立てるということは、相手の知性の問題に帰するが、我々の倫理感からすれば実に見下げた忌まわしいことだ。
しかし、仮にそうと思ったとしても、相手は国益を掛けて言ってくるわけで、この感覚が我々には理解しがたいことだ。
こういう論理の不整合、支離滅裂な議論、根拠のない言い分、というのは彼らの国の中の政治の局面でもごく普遍的に存在しているのではなかろうか。
韓国では政権が交代すると、元大統領あるいは前大統領が告発されて、すぐまた減刑されるという妙なことが起きるが、これも黒を白と言い包める類の政変であって、もともと整合性のない物をあるように見せかけなければならないので、こういう変な事態が起きるのではなかろうか。
中華人民共和国の文化大革命も、この類の騒動で、もともと何ら整合性のない話を、あたかもあるように見せかけなければならないので、論理的な矛盾を隠し切れずに、ああいう惨劇となったのではなかろうか。
あの戦争、日中戦争、あるいは太平洋戦争、第2次世界大戦というものが終わって半世紀以上を経過したことになるが、あの戦争ではアジアにおける西洋列強の覇権を日本が木っ端みじんに粉砕したという事実は免れないと思う。
日本のあの戦争に対する本義は,アジアの解放にあったわけで、その意味からすれば、我々の祖国は戦争に負けたとはいえ、結果的にはその目的を達成したということになる。
ただただ我々にとってまことに不甲斐ないこととして、我が民族の政治的手腕の稚拙さというものは何時になっても克服できないようで、まことに不甲斐ない。
19世紀後半から20世紀の日本は、アジアに対して多大な貢献をしているが、日本の政治家や外交官は我々の先輩諸氏がアジアにそういう貢献をした事実を完全に無視して、ただ先方から言われるままに、謝罪するなどという愚が罷り通っていいものだろうか。
あまりにも自分たちの同胞の行った業績に無頓着で、無知であり、歴史を知らなすぎる。