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ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「僕たちのヒーローはみんな在日だった」

2012-02-11 20:57:46 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「僕たちのヒーローはみんな在日だった」という本を読んだ。
著者はそれこそ在日の朴一(パク・イル)という人で、在日3世で、同志社大学を出て、現在、大阪市立大学教授ということだ。
日本に限らず人間の織り成す社会には差別問題というのは自然発生的に生まれる現象だと思う。
人間と人間の付き合いの中で、あいつが好きだ嫌いだ、あいつとは気が合う合わない、惚れた腫れたという問題は、人間社会から排除できない自然現象のようなものだと思う。
日本民族の置かれた地勢的な条件は、絶海の中の孤島であったことは否定のしようもないわけで、絶海の孤島であるが故に、大陸からゴミが流れ着くように人間が流れ着いたとしても何ら不思議ではない。
大陸から流れ着いた人間を、もともとそこに住んでいた人間が、棒で以て打ち殺したこともあれば、温かい食事を与えてもてなしたこともあったに違いない。
近代の戦争でも、敵の捕虜を暖かくもてなしたこともあれば、その同じ民族が墜落したB―29の搭乗員を竹槍で突き刺して殺したこともあるわけで、異民族と異民族の接点ではこういうことは必然的に起こりうる。
しかし、我々は海に囲まれているので、異民族との接触の機会はごく限られていたことは間違いなく、大陸に住む諸民族の生存競争とは比較にならなほど安穏としていたに違ない。
中国の歴史は、それの繰り返しであったわけで、それは人類の過去の歴史には必然的なことであって、それを今の価値観をあてはめて論じても意味をなさない。
私は昭和15年生まれで、敗戦は5歳の時で、小学校に上がったのは昭和22頃であったが、その頃にも日本の小学校に朝鮮人の生徒はいた。
私は彼らともよく遊んで、決して今でいうところの差別などした記憶もなければ、お互いの家の行き来もしていた。
その後、私は彼らとは違う学校に進んだので、交流は途絶えたが、彼らが朝鮮人だからと言って、差別した記憶は一切ない。
しかし、こちらが成長し、知識を得るに従い、被差別とか在日朝鮮人とか。という問題がこの世に存在することを知るに及んだ。
被差別の問題でも在日朝鮮人の問題でも、普通の日本人、普通の日本の市民は、始めからそんな事は何ら意識していない筈である。
小学生ぐらいの子供の世界で、イジメと言うかどうかはともかくとして、「朝鮮ボウ―」と言ってはやし立てることを差別と解釈し、イジメと捉えるのは余りにも大人気ない振る舞いだと思う。
そんな子供も口喧嘩は、「お前の母ちゃんデベソ」といった類の何の意味もない話であって、それを真に受けて「幼いころイジメられた」という言い方、あまりにも大人気ない捉え方だと思う。
この程度のことならば、世界中のどの国にもどんな民族にも、こういう子供の喧嘩の類のトラブルあるわけで、それを差別の問題にまで拡大解釈する行為は、まことに大人気ない立ち居振る舞いだと私は思う。
今の日本には「パワハラ」という言葉がある。その意味はパワー・ハラスメントの略で、権力によるイジメを総称する言葉であるが、こんなことは如何なる社会にもあり、如何なる国や民族にも同じような問題はあるわけで、それをことさら「在日だからイジメられた」と声高に叫ぶ行為は、ある意味で大きな偏見である。
我々の側としては何もイジメているわけではないにもかかわらず、「あいつがイジメた、こいつがイジメた」と騒いでいるわけで、こういう場面に我々が直面すると、非常に煩わしく思い、最初から身を引いてしまうことになる。
私自身、人間を70年もやっていると、今までの過程の中で、都はるみは朝鮮人との温血だ、松坂恵子も同じで、和田あき子もそうだということは風のたよりに耳に入る。
しかし、そんなこといくら耳に入った所で、私自身の精神の変化はあり得ず、彼女らの歌の価値が下がるものでもなく、普段と変わらずテレビで見ているが、それをことさら同志社大学を出て大阪市立大学で教鞭をとっている在日3世の口から聞くと、「今まで風の便りで聞いていたことは真実だったのだな」という思いを改めて確定することになった。
朝鮮人との混血がテレビにいくら出ようと、普通の日本人には何の関係もないわけで、彼女らがテレビで良い歌を歌って、しっかり稼いで、しっかり納税してくれれば何一つ問題はないわけで、この本の著者、朴一(パク・イル)氏は何故に、彼女らの出自を暴いて、何を得ようとしているのだろう。
普通の日本人として、そういうことを知っている人は知っているが、知らない人は知らないわけで、私自身も、噂は聞いていたが真偽を確かめるほどの熱意も持ち合わせていなかった。
普通の日本人のとって、そんなことはどうでもいいわけで、彼女らが良い歌を歌い続けてくれれば、在日だろうが純粋日本人だろうが、何の問題も無かったに違いない。
この本の著者のように、同志社大学を出て大阪市立大学で教鞭をとっているような朝鮮人が、ことさら騒ぎ立てるから、純粋日本人としては関わり合いを避けようとするわけで、私自身のように自分は純粋な日本人だと思い込んでいても、明治維新の前あたりまで遡れば、自分自身のルーツも極めて曖昧なもので、果たして本当に純粋日本人かどうかは自信が無い。
彼ら在日朝鮮人が「自分たちは差別されている」というのは、彼らの持っているコンプレックスなわけで、彼らが純粋の日本人でないという意識は、ただの思い込みに過ぎない。
確かに、芸能界という世界は、噂が噂を呼び、つまらない噂で、自分のポジションが危機に曝されることも往々にしてあると思うが、それは芸能界という世界が本質的に抱え込んだ大きな矛盾なわけで、芸能界が虚構の世界である限り、在日であろうとなかろうと、リスクは同じではないかと思う。
この本の著者のような在日コリアンが、日本で録を食みながら、「純粋日本人よ!俺達を差別するな!」と声高に叫ぶと、我々の側としては始めから差別などしているつもりでないので、極めて鬱陶しい気分になる。
そういうことを言う人とは関わりたくない、と思うのは当然の帰結だと思う。
だから、自分の周りの人にも「あいつには気をつけよ」となるわけで、こうなると完全に差別が確立される。
この本の著者は在日3世であって、私が問題とすべきは、彼の祖国の日本に対する対応に対してであって、日本のメデイアは朝鮮人の混血であったとしても何の差別もなく出演させているが、同じことが韓国では可能かどうかどうかである。
韓国といえば、戦後しばらく日本の文化は禁止されていたはずで、こういう場面に朝鮮民族の文化的な狭量な面がにじみ出ている。
朝鮮民族は日本民族と血で血を洗う戦闘を交えることもなく、日本がアメリカに敗北すると、アメリカの尻馬に乗って威張る所が、極めて朝鮮民族的である。
弱みを見せるとつけ上がる性癖というのは、日本人、日本民族の価値観からすれば一番見下げた思考であるが、彼らにはそういう発想は存在しない。
彼らにもプライドはあるが、日本の武士道に当たる精神文化はないわけで、弱みを見せるとすぐにつけ上がる、という畜生並みの精神文化しかないということだ。
この著者の使っているフレーズでもう一つ私の気に入らないことは、『植民地時代』という言葉であって、在日3世としてこういう言い方はないと思う。
韓国の本国で使うのならばまだ理解し得る部分もあるが、日本の同志社大学を卒業して、大阪市立大学で教鞭とっているような学者が、こういう言葉を使うということは、まさしく純粋日本人に対するコンプレックス以外の何ものでもない。
こういう在日の人の存在がある限り、朝鮮半島出身者に対する我々の側の差別か解消することはないだろうと思う。
この言葉を聞いて、我々、純粋日本人、これは在日朝鮮人に対する対比としての言葉であるが、良い感じがしないのは火を見より明らかであって、彼らがそういう言葉を無神経に使うということは、我々がうらで「あいつは朝鮮だ!」と言っているのと同じことである。
如何なる国の人でも、如何なる民族でも、人の面前で相手の悪口を言う人は、下劣極まりない非常識人間であろうが、この著者はそういう思考を欠いている。
あの戦争を通じて、その時期に日本に来た朝鮮民族の一世がたちが、生き抜くために苦労に苦労を重ねたのは確かであろうと思うが、それは彼らだけがそうであったわけではなく、我々も同じように苦労を重ねていたことに変わりはない。
この著者の言い分を見ると、苦労したのは朝鮮民族だけで、純粋日本人は酒池肉林に耽っていたような印象を受けがちである。
これは著者の視点が、彼らの側からの視点のみで、総体的な視点が抜け落ちているから、こういう記述になったものと考えられる。
地球規模で世界を眺めて見ると、ある主権国家の中に異民族が入り込んで、自分たちのテリトリーを築き上げたということもしばしばあるであろうが、こういうゲットーの構築は甚だ困るわけで、庇を貸して母屋を取られるような事はあってはならない。
朝鮮人が日本に来る、中国人が日本に来る。彼らは何故日本に来るのであろう。
朝鮮人の一世は日本で生活して何故帰国しないのであろう。
日本での差別が嫌ならばさっさと自分の祖国に帰ればいいと思うが、彼らは何故日本に居残るのであろう。
在日2世は日本での朝鮮学校で教育を受けたならば、さっさと本国に帰ればいいのに、何故差別のある日本に居残っているいのであろう。
在日3世は日本の大学を出たならば、祖国の大学で教鞭を取ればよさそうなのに何故そうしないのだろう。
答えは、自分の祖国よりも日本の方がすべての点で良いからである。
昔、イタリアのマルコポールは、日本を、「黄金の国」日本を目指したが、本人は日本まで辿りつけなかった。
我々の国はまさしく彼の言う「黄金の国」であるわけで、世界中の人が日本国籍を取りたがっているようだ。
以前テレビを見ていたら、台湾出身の論客・金美齢女史が実感を込めて語っていたことは、「今回、日本国籍が取れたが、私はこれをどれだけ待ち望んでいたか。日本の国籍を示すパスポートは如何に大きな力を持っているか日本の皆さんは気がついていない」と言っていた。
まさしく在日の人々、海を渡ってきた朝鮮人も、そのことを充分に知っているが故に、日本でイジメられた、差別された、と言いつつも日本に居残っているのであろう。
人間が肩を寄せ合って生きている社会において、多少のトラブルはあるのが当たり前で、トラブルの無い社会などというものはあり得ないわけだが、その中で「イジメられたとか差別された」などということは、問題にする方がおかしいわけで、そんなことは人間の組織にはついて回ることだと思う。
決して良い事ではないので、無いに越したことはないが、一々それに目くじら立てて騒ぎ立てるほどのことでもない。
この本にも紹介されているが、日立製作所に就職出来なかったのは「自分が朝鮮人だっからだ」という言い分は、一見不合理に見えるが、こういうケースが往々にあるから、日本の大企業では朝鮮人を雇用しないのである。
社員として採用しないうちから裁判沙汰にされては、企業として金輪際、朝鮮人を採用してはならないという教訓を得たことになる。
大企業を受験して落ちる人は日本人でも数限りなく居るわけで、その度ごとにこういう裁判沙汰にされては、企業としては当然自己防衛に走るのは当たり前の話ではないか。
そういう事例の積み重ねが、朝鮮人を採用すると企業を内側から破壊されかねない、という恐れに至るのも当然だと思う。
これがそのまま差別に繋がり、偏見に繋がっていることは言うまでもないが、この本の著者の論旨も、私自身をして、精神的な警戒心を持たざるを得ない。
都はるみや和田あき子、松阪慶子がテレビの画面に映っているときは、その歌に聴きほれ、その容姿に見とれておればいいが、自分の身の回りの知っている人が、いきなり「あれは在日3世だ」と言われれば、その途端に身構えてかからねばならなくなる。
何となれば、こちらは何の意図も持っていないにもかかわらず、何かの拍子に、「あいつは俺を在日朝鮮人と言ってイジメた」と言われて、徒党を組んで迫られるかも知れないとなれば、用心するに越したことはない。
基本的に、在日ということは、砂糖に群がる蟻のように、金儲けのために少しでも条件に良い所に吸い寄せられてきた結果であって、金を追い掛けて商売も居場所も状況に合わせて変わるわけで、日本に居続けているということは祖国に居るよりも日本の方が居心地が良いからである。
その居心地の良い日本で、「イジメられた、差別された」と大騒ぎすれば、ますます知名度は上がるわけで、逆差別を心ゆくまで満喫できるということだ。
自分を被害者に見立てて大騒ぎを演じれば、それが金蔓になるわけで、我々にとってはどうでもいい事を、「あいつも在日だ、こいつも在日だ」と書き殴ったのがこの本である。
そういうことを同志社大学を出て大阪市立大学で教鞭を取るような知識人が行っていいものだろうか。
在日朝鮮人ではない純粋日本人で、大学にも行っていない馬鹿な落ちこぼれは、この非差別に対して、あるいは逆差別、あるいは開き直りに対してどう考えたらいいのであろう。


「皇軍兵士とインドネシア独立戦争」

2012-02-10 18:22:57 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「皇軍兵士とインドネシア独立戦争」という本を読んだ。
サブタイトルには「ある残留日本人の生涯」となっていたが、著者は極めて若い人で、30代にもなっていない。
そういう人が、あの戦争中の皇軍兵士という人のことに関心を向けたという点に私は一種の驚きを感じる。
日本の敗戦。1945年の日本の敗戦というのは、アメリカとの戦争に対して「負けた」ことは歴然としているが、ならば「中国大陸では本当に負けていたか」といえば、アジア大陸全般についてば、そうとも言えない部分があったと思う。
確かに、満州国は旧ソビエット軍に蹂躙されて敗北したが、中国の本体であるシナ全土で「日本軍が海に追い落とされたか」といえばそうとも限らない。
日本軍は地球的規模で全世界に散らばっていたにもかかわらず、それが昭和天皇の一声で、一斉に武器を地に置いたということは、実に不思議なことだと思う。
これは地球上のあらゆる国家、人種、民族にとっても、脅威的な出来事ではないかと思う。
インドネシアに進駐していた日本軍が、本当にイギリス、オランダの連合軍に海に追い落とされたかといえば、必ずしもそうとは言えていない。
日本軍は昭和天皇の詔勅を聞いて一斉に戦うことを止めてしまったので、相手が勝った、つまり相撲でいえば不戦勝のようなもので、我々の側が勝手に手を引いてしまったということだ。
あの時代、徴兵で招集されて、死ぬ気で故郷を出て、周囲も何となく生きては帰らないであろう、と思われていたことは本人にも判っているわけで、「戦争が終わったからさあ大手を振って故郷に帰ろう」とは素直な気持ちで思えなかったことも充分にありうることだと思う。
召集されて、初年兵としてさんざん鉄腕制裁を受けて、「さあこれから自分たちが新兵をイジメるぞ」と思った矢先に戦争が終わってしまえば、今まで自分が耐えてきた事は一体何であったか、という疑問は必然的に湧くと思う。
敗戦のときに、現地に居残った人々は、インドネシアのみならず、世界各地に居たと思う。
台湾にも、中国本土にもいたに違いなく、グアム島に居た横井正一氏や、ルパング島の小野田寛郎氏なども、アメリカ軍に敵対する勢力に身を投じれば、この本の主人公と同じ立場になりうる。
しかし、グアム島でもルパング島でも、民族自立の運動は起きなかったわけで、最後の最後までアメリカと敵対する関係のままの皇軍兵士という生きた見本であった。
この本の主人公の藤山秀雄氏は、敗戦で日本の支配が解け、連合軍の統治が始まる間隙をぬって行われたスカルノ大統領の自主独立の演説を聞いて、インドネシア軍と協力して、連合軍と戦うようになったと記されている。
ところがインドネシアが、この時まで西洋列強の支配下に置かれ、一時的に日本の支配下に入り、再び連合軍の軍門に下るということは、ある意味で歴史の必然だと考えられる。
我々の歴史認識では、近世の世界史において、西洋列強の帝国主義にアジアが蹂躙されて、その軍門に下らざるを得なかったという認識であるが、これはまぎれもない事実だ。
問題は、何故、そういう事実に至ったのか、という検証が大事だと思う。
その検証をすると、やはりアジアは西洋列強に蹂躙されるべくしてされた、という部分がある。
例えば、西洋人、ヨーロッパ人は鉄砲を携えてアジアに乗りこんできた。
当然、それに付随して宣教師も一緒に来たことは別の問題として語らねばならないが、アジアの諸民族は、西洋人、ヨーロッパ人が携えてきた脅威の鉄砲を見て、「あれと同じものを自分たちで作ろう」という発想に至らなかった。
ところがアジア人の中でも我々の同胞、日本人だけはそれを実践した。
16世紀頃の我々の先輩は、ポルトガル人が鉄砲を持って種子島に漂着した時、その鉄砲の威力に驚愕し、驚き、腰を抜かしたが、一瞬の感嘆が去った後、あれと同じものを自分達でも作ってみようと考えた。
それ以降の近代化の中で、物作りにかけては我々の同胞は実に生真面目にそういうものを模倣し、その模倣の枠を超えてオリジナルなものまで作りだすようになったが、我が民族の不得手な部分は、政治的思考であった。
これは政治下手、外交下手ということであるが、これは日本人の精神性が世界的な普遍性に欠けているという意味である。
我々以外の民族は、特にアジアの諸民族は、その精神性において極めて世界規模の普遍性を持っているので安易に感化されやすい。
つまり、自分たちの古来の宗教や信仰を安易に放棄して、キリスト教やイスラム教に改宗して何の精神的な贖罪も感じていない。
その意味からすると、我々の民族は極めて宗教に寛大であり寛容であるが、この事実は裏を返せば、精神性の統一が不出来であり、人々の思いを一つにし切れていない、百家争鳴をゆるして、強力な意思統一が出来ていないということでもある。
明治天皇は人々を統治する指針として「万機公論に決すべし」と唱えられ、それは極めて民主的な意識を指し示すものだ、と受け取られていたが、現実に下々の政治では、公論のみが湧き立って、議論百出するも結論が出ないので、何時まで経っても混沌と迷走が繰り返されるだけとなり、何一つ前に進まずに終わってしまう。
それを称して、日本民族のトータルの評価として「物つくりは一流だが政治は3流」ということになったわけだ。
政治とか外交ということを考えた時、当事者が謹厳実直、石部金吉、唐変木であっとしたら、それは政治的に非常に不利であるが、我々の価値観ではこういう人にこそ憐憫の情を示すわけで、融通無碍な口先人間には信用を置かないところが我々の民族のDNAとして刷り込まれている。
口先で、チャラチャラと人を騙くらかす人間には不信感を募らせて、そういう人間を身の回りから排除しようと無意識の内には気を回すが、これは政治とか外交というものを頭から否定する思考であって、我々の民族内にこういう遺伝子が内在されている限り、我々は世界的に信用されることはあり得ない。
赤を黒とも言い包め、黒を赤とも言い包める人間を、我々は信用しようとしないが、政治や外交の本質はそこあるわけで、口先3寸で戦争を回避できれば、それこそ最高の戦略で究極の戦術であるが、そういう人間を我々果たして信用するであろうか。
口先3寸で戦争を回避できたとしたら、実際に戦火を交えていないので、外交的に勝利したという認識を持ち得ないのではないかと思う。
もう一つ別の視点から宗教を例にとって見ると、我々には我々の民族の誕生の時から大和神道というものがあって、そこに中国から仏教が入り、近世になればキリスト教もイスラム教も日本に入って来たが、我々は如何なる宗教も排除しようなどとは考えていない。
ところが、我々以外の場所、地域、民族では、宗教家あるいは為政者が率先して異教徒の排除に走り回っているではないか。
近代以前のアジアの諸民族は、確かにヨーロッパ系の白人と比較すると劣っていたと思う。
日本が先の戦争でアメリカに負けたということは、当時の日本の戦争指導者、政治指導者が劣っていた、馬鹿だったからに他ならず、だからこそ勝つ見込みもない戦争に嵌り込んだわけで、敗戦が必然であったのと同じように、この時代のアジアの諸民族は西洋列強、ヨーロッパ人のよりも大分劣っていたからこそ、帝国主義に蹂躙され、西洋列強の植民地に成らざるを得なかったということだ。
第2次世界大戦の終焉が1945年、日本の暦では昭和20年の8月であったことは今更言うまでもない。
露骨な領土的野心を秘めた共産主義国家の旧ソビエット連邦も、9月までには実際の戦闘を止めたが、この時点で、戦争に敗れた日本も、インドネシアも、中国も、朝鮮半島も、ある意味で同じスタートラインに並んだわけだ。
この時点で、我々の祖国の都市はそのほとんどが恢塵と化し、その意味ではアジアの中で日本の国土が一番荒廃し、荒れ地だったかもしれない。
そのスタートラインの意味は、近代化レースであったり、民主化のレースであったり、民族自決のレースであったりしたわけだが、同じスタートラインに横一線に並んで、一斉に走り出しても暫くするとそれぞれに格差が生じてきた。
その格差も、ある意味ではそれぞれの民族の個性であったわけで、それはそれで致し方ないが、そういう冷静な目で見れる間は良いが、そこに怨嗟の気持が入り込んでくると厄介なことになる。
66年前は皆同じように貧乏であって、向こう3軒両隣が皆同じ生活レベルならば、ヤッカミもネタミも生じないが、その中の一軒がテレビは持つ、車は購入する、冷蔵庫は買うとなれば、近隣の者として心穏やかな気持ちでいられなくなるのは察して余りある。
アジアの人々が、以前は西洋列挙の植民地に甘んじ、今も近代レースにも、民主化のレースにも乗り遅れて、周辺の豊かな国に出稼ぎに行くという姿は、それぞれの人々の自己責任だと思う。
この本に描かれている、旧日本軍の兵士で、インドネシアに残ってこの国の独立戦争に貢献した人たちの存在も、その自己責任の一部であるが、この本はそこを突くものではない。
戦後の時間というのは、日本でもインドネシアでも、同じ66年間であるわけで、その同じ時間内において、内地の日本人とインドネシアの人々の努力の結果の格差が問題であって、それはやはりそれぞれの民族の個性として一絡げにして論ずるほかないように思う。
インドネシアに工業的な近代産業が無いということは、彼らの頭脳の働きが無いということであって、自分達の状況と環境にあった産業というのは、探せばきっとあると思う。
我々の日本だって、昔も今も、資源は何一つないわけで、それでも頭脳の働きによって、無から有を生じせしめているわけで、ただただ安易に出稼ぎに頼って、日銭を稼ぐという思考であってはならないと思う。
ヨーロッパ諸国があらゆる面で先進国と言われているのは、ヨーロッパ人は、彼らは彼らで、たゆまぬ努力をしているわけで、自然に地中から富み湧き出てきたわけではない。
このたゆまぬ努力の中味には、ヨーロパ人同士の血で血を洗う抗争もあれば、他民族を血祭りに上げるような野蛮な行為も含まれているが、そもそも人が生きる、生き抜くということは、生存競争であって、大きな犠牲や理にそぐわない不合理はついて回るわけで、絵に描いたような綺麗ごとでは収まり切れない。
アジアの民がヨーロッパ人と接した時、その時点では確かにヨーロッパ人の方が文化的に進んでおり、合理的な道具を上手に使いこなしていたに違ない。
だが、それを見たアジア人は、それぞれに先進的なヨーロッパ文化に驚いたと思うが、問題は、その後のアジアの側のリアクションである。
そういう状況において、「あれと同じものを自分たちの手で作ってみよう」と考えるか考えなかったかという問題に尽きると思う。
人がこの地球上で生きる、生き抜くということは生存競争に打ち勝つということであって、それは短絡的に鉄砲で撃ち合うということを指すものではなく、頭脳で以て知的な戦いに打ち勝つという意味だと思う。
かつて経済成長はなやかりし頃、ある経営者が経営の心得として、「金のある奴は金を出し、知恵を持っている者は知恵を出し、何もない者は汗を出せ」と説いたと言われているが、至言だと思う。
この地球上にあるものとしての日本人および日本国家の存在意義として、これほど的確な言葉も他にないと思うが、これは如何なる国家にも民族にも言えていると思う。
ヨーロッパもアメリカも、過去の実績としてまさしく金も、知恵も、汗も出したに違いない。
我々もそういう先進国の後をトレースしては見たけれど、我々の場合、政治的および外交的な不味さ、あるいは後進性が災いして、一旦は無一文になったわけだが、無一文になって見れば、後は失うものは何もないわけで、新たに新規一転して復興に立ち向かったということだ。
今の地球上にある諸国家には、経済的に様々な格差があって、低い地域から高い地域に、人々が出稼ぎという形で労働力が流動しているが、これもある種のグローバリズムの具現なのかもしれない。
インドネシアから日本に出稼ぎに来るということは、来る側の人々からすれば、日本の習慣や生活慣習に順応しなければならないが、一旦来てしまえば自分の国で生きるよりも、日本で生きた方が何かと便利だということになって、結果として日本に居付くことになる。
だとすれば、この状態は何時かは純日本人と外来産の日本人という差別の温床になりうる。
日本という国土に住む人々は、日本の周囲が海であるが故に、大陸から海によって流れ着いた人も大勢いると言われており、その間に差別があるようには思えないが、この差別というのもかなりの部分人為的な要素が大きく、金や支援を得るために故意に誇大化して喧伝される部分がある。
昨年の東日本大震災が起きた時、日本に来ていた中国人が一斉に帰国したといわれているが、日本人として生きる人たちがこうであっては甚だ困る。
あの時ことを言えば、あの地震で東京電力の福島原子力発電所が事故を起こしたことは周知の事実であるが、「原子力発電はああいう事故が起きるから一切合財止めよ」という発想も実に不甲斐ない思考回路だと思う。
「原子力の事故は甚大な被害を出すから、一切禁止せよ」という言い分は、正義を振りかざした小学生並みのパフォーマンスに過ぎず、分別ある大人の思考ならば、「再発防止に全力を注げ」という思考にならなければ大人とは言えないと思う。
「危ないから止めよ」では、何にも進歩が無い。
あの事故に関して、政府や東京電力を擁護する気はさらさらないが、地震と、津波と、付帯設備の機能停止と、事故の対応の不手際は、それぞれ別々の問題であって、その別々の問題が同時に一気に起きたから、未曾有の混乱に陥ったわけで、「だから原子力発電を全部やめよ」という議論には、大きな論理的な飛躍がある筈だ。
それを科学者というような人が声高に叫ぶということは、科学者にあるまじき行為だと思う。
小学生の口喧嘩のように、「絶対の安全が保障されない限り運転するな」という、この「絶対」という言葉の使い方は、小学生並みの思考でしかないではないか。

「男が泣ける昭和の歌とメロディ―」

2012-02-08 17:22:07 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「男が泣ける昭和の歌とメロディ―」という本を読んだ。
昭和の時代の歌が楽譜と共に記されていたが、著者は三田誠広氏だ。
1948年大阪生まれと言う事で、押しも押されもせぬ全共闘世代の作家である。
そういう人が昭和の日本の歌謡曲について自分の思い丈を綴ったという体裁の本であった。
その中のいくつかには私自身も大いに共感を覚えるものがあったことは確かであるが、出だしから『海ゆかば』が出てきたのには驚いた。
この歌は、戦前から戦時中にかけて、戦意を鼓舞する為に大いに歌われたと記憶しているので、そういう歌を全共闘世代の人間が真っ先に持ってくることへの違和感がどうしても先に立った。
その後に『インターナショナル』である。
この『海ゆかば』は、第2の国歌とも言われていたらしいが、私としてはどうにも好きになれない歌の一つであった。
第1の国歌『君が代』も、私個人としては好きではないが、好きでないからと言って、世俗的な式典で頑なに国歌斉唱を拒むほど強固なイデオロギーを持ち合わせているわけではない。
好きでないから、何が何でも、死んでも、殺されても歌うことを拒む、という人間は一体何がどうなっているのであろう。
好きであろうがなかろうが、『君が代』が日本国の国歌であることは否定できないわけで、この歌が「陰気臭くて、現代の日本の雰囲気に合っていないから変えてはどうですか」という議論ならば、大いに参加することに意義を見出せるが、「自分の祖国の国歌だから何が何でも口にしない」日本人というものを、どういう風に考えたらいいのであろう。
日本人以外、例えばアメリカ人、イギリス人、中国人、韓国人、北朝鮮の人々、ドイツ人、フランス人に、自国の国歌を否定し、晴れの式典で祖国の国歌を歌わない国民が果たしているのであろうか。
先の戦争で、その国歌を歌って若人を死出の旅に送りだしたから嫌悪する、という言い分は分からないでもないが、そんなことは普通の主権国家ならばごくごく当たり前のことで、出征兵士を送りだすのに他にどんな歌があるのかと言いたい。 
『君が代』の話はさておいて、この『海ゆかば』も大伴家持の歌が元だとされているが、日本の歌というのは神様に奉納するための雅楽が元にあるものだから、どうしてもゆるいテンポの間延びしたような雰囲気で奏せられるので、私のように軽重浮薄でオッチョコチョイな人間には合わない。
これこそが典型的な日本のメロディ―なのかもしれないが、こういうものは私には合わない。
合わないから式典の際にも歌わないというわけではなく、国歌である以上、それは日本国民としてミニマムの礼儀は示すべきであって、国歌斉唱の時に座ったままでいるというわけではない。
私自身この『海ゆかば』という歌の存在は知っていたが、自分の耳で直接聞いた記憶はほとんどない。
インターネットなるものが普及して、自分でもyou tubeで検索できるようになって始めて「こういう歌だったのか」という感じがしたものである。
この本の著者が1948年生まれ、私が1940年生まれであって、これだけの年令差があったにも拘らず、私が如何に無知な人間かを改めて悟った。
この著者は言うまでもなく全共闘世代であるが、この世代のものがこういう歌に何らかの思いを寄せるということは、その精神の基底に何かしら戦前の雰囲気に相通じるものがあって、共感する部分があるからではないかと勝手に想像している。
昭和の初期の時代、1925年から太平洋戦争が終わるまでの日本の政治はまさしく奇態の時代であって、人々の政治的感性が麻痺していた時期であった。
この時代に、そういう状況をもっとも憂いたのは純情で頭脳明晰な若い人達っであって、そういう人たちはある意味で政治的騎士であった。
そういう連中が世直し、政治の腐敗、資本家の労働者搾取、農村の疲弊という現実の是正を真剣に考えたうえで、直接行動に出た結果が、今日言われている5・15事件であり、2・26事件であった。
だから、彼ら若手の青年将校の決起に対する動機と行動には世の人々がある程度共感を覚えた。
この部分が当時の国民の愚昧な部分であって、世の矛盾を直接行動で是正しようという発想そのものが邪悪な思考であって、戦後の全共闘世代も同じ思考に蝕まれていたが、戦後は世間がそれを許さなかった。
戦後の雰囲気としては、「現実の世の中を良くするための、止むに止まれぬ憤怒の発露であろう」という若者の独善的な思考に同情を寄せるものは居なかったわけだ。
このように戦前の青年将校の戦後バージョンとして、戦後の復興の中で歪の是正をうたい上げたのが、いわゆる全共闘世代だったと私は思う。
彼らの親は、あの戦時中の悲惨で不自由で惨めな生活を体験しているので、自分の子供達には同じ経験をさせたくない、と願うと同時に自分自身も、目の前にニンジンをぶら下げられた馬のように一目散に駈けていたわけで、子供が学校にさえ行っておれば、それを由としていたのである。
こういう政治運動に首を突っ込む若者は、政治感覚に極めて早熟であったに違いない。
だからこそ、世の中の矛盾に若い時から我慢ならず、直接行動に出て、その矛盾を是正するという思考に至るのではないかと推察する。
その精神の成熟の度合い、政治的感覚の早熟性というものは、人間の成長の早い時期に具現化したのが、こういう青年将校や全学連の政治的運動という形で世間に認知されたのではなかろうか。
この『海ゆかば』という歌は、若者の精神を高揚させる要因はまったく内包しておらず、明らかに死者に対する鎮魂歌であって、これを聞いたからと言って気分が高らかに高揚するものではない。
それと相対して『インターナショナル』という歌は、まさしく革命を高らかに歌い上げているわけで、その文言の実に下品というか、おどおどしいというか、血生臭いというか、人命軽視というか、革命、暴力、人殺し、粛清、監禁という行為を是認する言葉でまぶされているではないか。
まさしくロシア革命を称賛して止まない、血で血を洗う革命の本質を、そのまま歌い上げているわけで、全共闘世代で、学生運動あるいは政治活動に明け暮れた共産主義者乃至はそのシンパの心情を見事に具現化した内容だと思う。
20歳代の前半という時期に、こういう精神風土の中で生きていたとすれば、その後の本人が既存の社会の価値観に順応することは甚だ難しいと思う。
人の集まり、つまり既存の社会の中には人間の英知では克服できない矛盾というのは掃いて捨てる程内在しているわけで、それを青白い青年の潔癖性で打破しようとしても、安易にできるものではない。
「貧富の格差の是正」と言ったところで、そんなことは人類誕生の時からあるわけで、人が今まで生きて来たということは、そういう矛盾を引きずりながら生きてきたわけで、それを今是正すると言ったところで出来るわけがない。
「戦争の撲滅」というテーマでも同じことが言えるわけで、戦争は人類の誕生と同時にあったに違いない。
これは矛盾ではなく、人が生きるための必然であって、自分が生きようとすれば誰かを犠牲にしなければ自分自身が生き残れないということだと思う。
この世における他者の犠牲というのは、何も戦争の犠牲者だけを指すのではなく、「貧富の格差」の貧者の側の存在も明らかに生存競争の犠牲者の立場だと考えざるを得ない。
若者が、こういう矛盾を追及する行為そのものは、極めて若者らしい青春群像であるが、日本人でも何処の国の若者でも、民族のDNAに根ざした独特の思考というのは、きっと存在すると思う。
アメリカの青年にも、韓国の青年にも、中国の青年にも、ブラジルの青年にも、その国の若者らしい若者の気風というものがあるように思う。
第2次世界大戦の終了は、1945年の5月にヨーロッパで、8月には太平洋で終わったわけで、この戦いに駆り出された兵士は、この時期を境に祖国に帰還したに違いない。
現役の兵士が祖国に帰還すれば、真っ先にすることは恐らく、愛の交換、愛情の確認、愛の結実であったに違いなく、結果として赤ん坊の誕生ラッシュではないかと思う。
だとすれば、全共闘世代というのは日本だけではなく世界的規模でベビーブームが起きていたわけで、この赤ん坊が成人に達し、政治活動、あるいは学園紛争に身を投じる時期は、必然的に1960年代から70年代となるわけで、この時期は地球規模で新しいムーブメントが湧きおこったことも大いに頷ける。
この地球規模での新しいムーブメントの中で、日本だけの特徴といえば、我が民族の新しいジェネレーションは、自分の国の尊厳をいささかも信じていないという不幸である。 
その基底をなした大きな理由は、公立学校の先生の組合が共産党員か共産主義者に占領されてしまって、『インターナショナル』に代表される「暴虐の鎖断つ日、旗は血に燃えて……」とか、「圧政の壁破りて固き我が腕……」という精神を注入されたとすれば、我々の次世代が良くなるわけがないではないか。
戦後の公立学校で教わる内容には、個人の夢実現へのフォローには極めて寛大であるが、公に尽くす、公衆の為に、人々の為にというフレーズは影をひそめてしまって、個人の利益のみが大手を振って罷り通る世の中になってしまった。
この理由の大きな源泉は、戦後のベビーブーマーたちの置かれた環境が余りにも豊かになりすぎて、反体制、反政府というポーズでも生きていけれる、拘束されない、牢屋に入れられない、という状況があるからだと考えられる。
それが民主主義の成果ではあるが、究極の民主主義というのは、限りなく衆愚政治に近いということでもあるわけで、全員が納得する政策などというものはあり得ないにも拘らず、それを争点としているわけで、結果として政治は限りなく混迷するだけで、前には一歩も進まないということになる。
戦後世代の著者が、自分の歌へ思いのトップに、『海ゆかば』と『インターナショナル』を持ってきたことには正直驚いた。
他の歌は、本人の体に沁み込んだ成長の過程の柱の傷のようなもので、私としては共感を覚える部分もあったが、新しいフォークソングやシンガーソングライターにも傾倒していたという意味では、私よりも音楽の感性が豊かだなという思いは残った。
本の題にも「昭和の歌」となっていることは「歌謡曲が主だよ」ということを示唆しているのかもしれないが、他のジャンヌに関する記述が無いのがもの足らない。
私自身のことを述べれば、若い時にはステレオに少しばかり凝っては見たが、所詮、全財産を継ぎ込むほどのめり込んだわけではなく、中途半端に終わったが、それでもなけなしの金をはたいて買ったLPやCDが今でも残っている。
それを今はウオークマンに入れて、隙間の時間に聞いている。
ウオークマンのイヤホーンを耳に突っ込んで聞いていると、昔、高い金を出して買ったステレオのことがバカらしくなってきた。
又、昔買ったCDがコンピュータを介してウオークマンに入るというのも実にすばらしいことだと思う。
まさしく文明の利器そのものだ。

「官愚の国」

2012-02-04 13:27:40 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「官愚の国」という本を読んだ。
サブタイトルには「なぜ日本では政治家が官僚に屈するのか」となっていて著者は高橋洋一氏ということだ。
奥付きによるとこの著者は東大を出て大蔵省に入省した高級官僚、いわゆるキャリアー組であったということだが、安部内閣の時に、安部晋三の辞任と共に下野したと本人は書いている。
この本の前半の官僚批判は、私の考えていたことと全く軌を一にするもので、大いに共感を覚えるが、後半は組織内部の腐敗を曝け出す内容で、当事者でなければわかりえない事ばかりであった。
この本の中に登場してくる「官僚の修辞学」という文言は、甚だ興味ある部分であるが、その前に転勤の頻繁な繰り返しも大いに考えさせられる内容だと思う。
この著者も、大蔵省の官吏として四国の小さな町の税務署長を20歳後半の時期に1年間経験したと述べられている。
組織に新しく採用された人が、組織全体の業務を掌握するために、方々のセクションに転勤するということは、本人の知識を蓄積するのには良い機会だとは思う。
キャリアー組の高級官僚が、自分の組織の末端で如何なる業務をしているのか、を知ることは極めて重要なことだと認識している。
ならばそれが1年間ではいささか短すぎると思う。
如何なる人間でも、たった1年間では仕事の輪郭さえも掴むのが難しいと思う。
お巡りさんでも、学校の先生でも、税務署員でも、1年で仕事の全貌乃至はその一端でも理解するには短すぎると思う。
組織の人間として、組織の全貌を知るためには、色々なセクションを廻るということも必要なことだとは思うが、仮にそうだとしても1年では何もわからないまま、また次のセクシュンに移るということになり、組織の全貌を知るという目的は中途半端に終わるに違いない。
この著者が戦後世代なので、旧軍との比較という視点に思いが至らないのはいた仕方ないが、その意味では、日本の敗戦という大きな外圧があっても、大蔵省だけは戦前の官僚の遺伝子を実につつがなく継承しているように思える。
戦前の各省庁は、陸海軍をはじめとして内務省のようなセクションも、いわゆる天皇制との絡みで、ことごとく解体されたが、大蔵省のみは占領という外圧にも見事に生き延びた。
大蔵省が生き延びたということは、何も仕事をしなかったから生き延びれたということが言えると思う。
我々、戦後世代も、あの戦争中の様々な記述に触れて、日本の軍人は実に愚かだった、ということを身を持って体験したわけだが、その中でも戦時中の大蔵省に関する記述というのは読んだ記憶がない。
戦前には企画院というのがあって、それが戦争遂行のために統制経済を牛耳っていたという話は聞くけれど、その中で大蔵省が何かをしたということは聞いた事がない。
しかし、戦争中と言えども、大蔵省は安穏としておれたわけではないと思う。
例えば、日本軍が進出した地域では軍票というものが通貨の代用として流通していたわけで、それと日銀券との関係を考えると、大蔵省とて無関心ではおれなかった筈であるが、そういう話は我々の耳に届いていない。
大蔵省というセクションが国家の財布を握っていることはよく承知しているが、国家の財布であるからこそ、自らアクティブに行動出来ないという部分もあるかと思う。
昔の王様とは違って、自分自身の贅を尽くすために金銀財宝を集めるということはあり得ないわけで、少なくとも国民国家であるとするならば、常に周囲とのバランスの上に行動せねばならない筈で、それには何もしないことが一番の得策なのかもしれない。
今現在、2012年の段階で、我々の国の産業界は如何なる分野でも大打撃を受けて四苦八苦しているが、これは自らの努力では如何ともし難く、まさしく天与の災害という他ない。
昨年の東日本大震災は災害そのものであるが、それと合わせて、東南アジアの目を見張るような勃興も日本にとっては大きなジレンマであったわけで、そのうえ為替の変動からヨーロッパの通貨危機に至るまで、全てが日本にとっての災難であったことを考えると、官僚を責めたところで解決に結び付くものは何一つとしてない。
この本の中には、官僚の目から見た官僚システムが描かれているわけで、その中で注目すべきは、日本の政治は政治家があるべき姿として本来の機能を果たしていないと記述されており、それはもっともな指摘だと思う。
つまり、日本の政治は、3権分立で、立法、司法、行政と別れており、官僚は行政府の一翼を担っている筈であるが、立法府がきちんとしていないので、官僚が立法府の業務を代行する形で、法律を起案するケースが非常に多く、それが為官僚は自分たちに都合の良いように法案を作ってしまうと指摘している。
確かにその通りだと思う。
統治の根拠となるべき法律は、本来、国民から選出された国会議員、つまり立法府・議会で議員立法として作るべきところであるが、日本の議員にはそれだけの能力が無いので、官僚が作ったものを政府側が提案して、それが議会で審議されて法案となる。
だから官僚が起案した法案の中身を、国会議員はよくわからないまま審議し、盲人が像をなぜるような状態で法案成立となり、官僚の思うがままに運用されることになると説かれている。
この部分に「官僚の修辞学」が存在するわけで、それは日本語の極めて曖昧摸糊とした表現の機微を突くもので、そういう手練手管で以て法律の毒毛が抜かれ、官僚の思う壺に嵌ってしまうということになる。
こうして作られた法案は、もともと下々の下世話なことに通暁していない官僚が考えた内容であるが故に、その運用に際して齟齬が出るわけで、その齟齬が法律の盲点となり、そこが抜け穴と化すのである。
この抜け穴を密かに紛れ込ませるテクニックとして、「官僚の修辞学」が機能するということだ。
そこで問題の根源は、官僚対政治家という構図に必然的になるのであるが、本来の統治という概念でいえば、政治家が官僚を従えて国家を統治するのがノーマルな姿ではないかと思う。
ところが、政治家が法律について無知なものだから、この関係が成り立たず逆転してしまっている。
今の政治家の中にも元官僚という人が大勢いるので、官僚を牛耳ることも可能ではないかと思うが、ここで双方に相互扶助の助け合いの精神が機能して、敵対関係には成らず同じ目的意識を持った同志的な関係に昇華してしまうので、結局は慣れ合いの混沌の渦に埋没してしまうということだ。
国家を運営していくには組織が必要なことは言うまでもなく、その組織は必然的にピラミッド型にならざるを得ないが、問題は、組織の底辺よりも頂点の方に大きな齟齬が生じるわけで、底辺の方は一生懸命自己の使命に忠実たらんと頑張っている。
ところが、そういう底辺の官吏の上に立って日常のこまごました業務を指揮監督すべき高級官僚は、そういう底辺の人たちとは別のルートで組織に入ってくるわけで、ここでは管理する人とされる人という階層が歴然と別れてしまっている。
私の好きな言葉に、「駕籠に乗る人、担ぐ人、その又草鞋を作る人」という戯れ歌があるが、高級官僚というのは全て「駕籠に乗る人」を目指して、その組織に蝟集してくるわけで、その発心のときから人の上に立って利得を掠め取ることを目指して、国家公務員1種試験に挑戦してきている。
人生の出発点に立った若人が、こういう世慣れた抜け目のない目的意識を持つということは、極めて老成した老獪な選択で、こ狡い人か、悪賢い人か、わか年寄りか、とにかく世間の潮の目を見定めるに優れ、保身の術に長けた、ある意味で優秀な人材であることは否めない。
「駕籠に乗る人」の立場からすれば「草履を編む人」のこと等眼中にないのが普通だと思う。
組織の末端で日々日常業務に励んでいる人は、それこそ国家の為に、人々の為、地域の為に貢献している人達で、こういう人達は自分ではそんな大それた意識で仕事をしている、などとは考えていないと思う。
それはそれで立派なことだと思う。
自分に与えられた仕事あるいは任務を、天職と思い、日々黙々とそれをこなすことこそが、人間の生きる真の姿だと私は考える。
こういう人たちの上に立って、こういう人たちの日々の実績の上前を撥ね、あたかも自分の功績であるかの如く振舞う高級官僚は、実にさもしく、意地汚く、貧乏人根性丸出しで、見下げた存在であるが、彼らには国家公務員1種試験に合格したということだけが、自らの誇りであったに違いない。
既に旧日本軍の高級将校に関しては、組織内の純粋培養という言い方で、厳しく糾弾しているが、他の官庁においてもキャリアー組は殆どの人が官費で留学しているとなれば、日本の官僚もその留学の成果が政治の場とか行政の場に出て来てもよさそうに思う。
留学と称して国費で以て外国で遊んでもらっては納税者として納得できないのは当然で、そういう意味の思考は彼ら官僚には全く見られない。


「検証・病める外務省」

2012-02-02 09:21:26 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「検証・病める外務省」という本を読んだ。
著者は小黒純という人だが私の知っている人ではない。
サブタイトルには「不正と隠蔽の構造」となっている。
今から10年も前の事件が様々に取り上げられているので、いささか賞味期限切れという感がしないでもないが、事件そのものよりも官僚の体質は未だにいささかも変わっていない、という点に留意しなければならない。
しかし、石川五右衛門の言い草にあるように、「浜の真砂が尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ」という訳でもなかろうが、余りにも不道徳な輩がはびこりすぎていると思う。
最近、先の大戦中の日本の将兵に関する本を読みあさったが、昭和初期の日本の軍人というのは、軍人という前に官僚になり切ってしまっていて、官僚が戦争を指導したという側面がかなり強い。
我々のような、普通の市井の人間の普通の認識では、軍人と官僚は明らかに違う概念で捉えていて、軍人、中でも高級将校という類の戦争のプロフェッショナルと目されている人達に対する認識は、文官としての高級官僚とは全く別の人種という認識であった筈である。
この軍人と官僚という人種についてはひとつの共通項があって、それは試験に通ったことによって身分が保証されているという事実である。
過去約250年の江戸時代の封建主義から脱却して、明治維新を経て近代化を目指そうとした時に、優秀な人材を広く国民の中から発掘し、そういう人たちに日本の将来を託そう、という意気込みは充分に理解できる。
その時に、国民の中から優秀な人材を発掘する手段として、ペーパーチェックが篩分け、つまり選別の手段の一つであったことは否めないし、人材を見極める手段としてペーパーチェック以外の手法がみつからなかったという面も理解できる。
しかし、このペーパーチェックで人間の能力を選別するという発想は、中国の科挙の制度を踏襲したということであって、隋の時代のシステムであって、遣隋使の時代に先祖返りしたようなものであった。
この時代に科挙の試験に応じた受験生は、日がな朝から晩まで勉強のできる身分の人達、今の言葉に言い換えれば、勉強三昧に耽れる富裕層であったが、日本の明治維新後の科挙においては、身分制度を超越したそれこそ士農工商エタヒニンまで含めた階層にまで門戸が開かれたわけで、まさしく民主化の究極の具現化であったということになる。
ここで今の21世紀に生きる我々が考えなければならないことは、この制度は為政者の側が施行して推し進めたのであって、下々の庶民・国民の側は、為政者の指針に真面目に応えて、為政者の勧める施策を真摯に受け止めて応募してきたに違いなく、日本の発展に真から寄与するつもりであったことは否めない。
ところが問題は、明治維新というのはある意味では大きな共産主義革命に近いものであって、新政府の施策に応募してきた人達の大部分は、士農工商エタヒニンを含む玉石混交した人間の集団であった。
この現実を別の言い方をすれば、極めて民主的な公明正大な機会均等のシステムであったことは間違いないが、惜しむらくはこの中に盗人、詐欺師、賭博師、ハッタリや、虚栄心の強い者や、私利私欲にどん欲な者や、モラルを欠いた人間が混じっていたということである。
日本が近代化を進めようとしたときに、国民の中から広く人材を集めなければという欲求は当然のことであって、その選別のためのペーパーチェックはいた仕方ないと思うが、問題は、そうして集めた人材のその後のフォローだと思う。
如何なる職業、職域、仕事でもペーパーチェクで選別した人材がすぐそのまま使えるということはあり得ないわけで、ある程度の導入教育は必然であろうと思う。
昔の軍人ならば陸士、海兵、今の警察官ならば警察学校、税務署員ならば税務の学校、裁判官ならば司法研修所等々の職業訓練を施す機関はそれぞれにある筈である。
国家の統治機構の中で、それぞれの組織に、それぞれの職域に応じた、それぞれの専門の教育機関を持つことは極めて合理的な発想だと思う。
ところが昔の陸士や海兵を出た高級将校、高級参謀を見ると、明らかに組織の中で純粋培養されていて、自分達だけの世界を作り上げている感がする。
だから彼らは自分達の存在感を誇示するために戦争をしている感がするわけで、国民のために戦争をしている意識が極めて薄いので、負けても平然としている。
昭和初期の日本軍が天皇陛下の軍隊であったとするならば、天皇陛下の為にも勝利しなければならなかった筈であるが、その事を彼らは忘れていたので、天皇陛下にも嘘を言っていたことになる。
昭和の初期の日本軍は、天皇陛下の軍隊と言いながら、その実、天皇陛下のために戦っているのではなく、自分達の存在感を誇示するために天皇の名を借りて、天皇の赤子を無駄死にさせるような意味のない戦争を繰り返していたのである。
戦後、こういう愚劣な軍隊は無くなったが、官僚というのはゼロにはし切れないもので、国家という組織が国民に福祉を講じようとすれば、大なり小なり官僚組織に頼らざるを得ない。
その組織を管理運営する要員は必要不可欠であって、人間の集団を率いて生きるためには、それは欠かせないものだと思う。
如何なる国でも昔は君主制が普遍化していたわけで、その中の人間の存在というのは、統治するものとされるものという二種類でしかなかった。
しかし、こういう状態であったとしても、統治する側には、如何に統治を合理的に全うするか、という課題があるわけで、その為にはそれなりの組織が必要であった。
組織である以上、その中では上から下まで階層的に役割分担があったわけで、当然のこと、上の階層ほど仕事が楽で身入りは良かった。
組織人ならば誰でも上になりたいという欲求に曝されていたわけで、それが官僚と言う人たちの潜在意識に昇華するのも、人としての当然の帰結ではある。
昭和初期の日本の軍人の官僚化というのは、その最も根源的な人間の希求を、自然の摂理にもっとも忠実な形で歴史の中に具現化した姿だと思う。
先に述べたように、天皇陛下の軍隊であることを自他共に認識しながら、天皇の名を語りつつ、天皇に嘘を言い、天皇の名で以て、天皇の赤子に無駄死を強いた、つまり天皇を自分達の存在意義を保持するために利用したということになる。
天皇を騙したような皇軍の高級将校、高級参謀、戦争指導者を、天皇の赤子・国民・あの戦争の被害者として生き残った我々、銃後の人々はどう考えればいいのであろう。
元はと言えば、公平無私の極めて民主的な選抜を経て、軍人としての職業訓練を経た人達が、際限なく無制限に官僚化してしまった挙句、何の為の戦争かという目的意識を失ったまま、彼らが彼らの存在意義を誇示するために無意味な作戦を繰り返していたための敗北であったわけで、そういう軍人では軍人足りえていなかったということに尽きる。
戦後の日本には、もうこういう愚昧な軍隊、軍人、軍部はいないが、国、国家というものが存在する以上、官僚という組織を無しにはできないわけで、官僚という人間の集団は、それぞれにその場立場でそれぞれの職務を遂行している。
官僚組織もあらゆる組織と同じように、基本的にはピラミッド型の上意下達のシステムになっているが、警察でも、保険所でも、税務署でも組織の末端は、それぞれに一生懸命日常業務を遂行している。
問題は、そういう末端の組織の上に君臨している高級官僚の存在である。
こういう高級官僚が、先に述べた軍の高級将校、高級参謀と同じ発想に陥っているところが最大の問題である。
先に述べた昭和初期の軍人の例でもわかるように、陸士や海兵に入学してくる若者は、それこそ俺が村俺が町一番の秀才であったろうが、それが軍という機構の中で10年20年と純粋培養されると、初心を忘れしまって、自分の存在意義を忘失してしまって、自分の所属セクションの利害得失にのみに関心が行ってしまうことにある。
自分の所属セクションの利害得失で動き回っていては、自責の念に堪えられないので、天皇の為だとか、国民の為だとか、銃後の人々の為、と口裏あわせをするから結果として嘘を言い、騙したということになるのである。
この旧軍人の官僚的思考は今日の官僚にもそのままの形で残っているすわけで、官僚たる者、官僚組織という純粋培養の器の中に長いこといると、自分の官僚としての存在意義を見失ってしまって、自分が何の為に此処にいるのか、ということが判らなくなってしまうということだと思う。
自分の立ち位置、自分の存在意義、自分の存在感が判らないものだから、当面の目の前の瑣末なことに右往左往して、ことの本質を見失ってしまうから、それが積み重なって大きな失態となって露呈するということだと思う。
官僚の不祥事というのは、そんじょそこらのコソ泥や空き巣というような犯罪とは異なるわけで、全てが立派な確信犯であって、ついつい出来心で手が出た、という類のモノとは異なっている。
今でも日本の官僚は国家公務員試験をパスしたものがなっているわけで、この試験そのものは昔の科挙の試験と同じようなもので、それによって採用者に篩をかけて選別しているが、それはあくまでもペーパーチェックなわけで、本人のモラルに関してまでは伺い知る術はない。
仮に、モラル的に大きな欠陥があったとしても、ペーパーチェックの成績さえ良ければパスするようになっている筈である。
ペーパーチェックの成績というのは、人物評価の大きな要因であって、普通の市井の市民からすれば、ペーパーチェックをクリアーするような人に悪い人はいないだろうと思いたいし、そう思い込んでいると思う。
ところが現実には、こういう人たちが10年後20年後、その組織の中で純粋培養された結果として、悪事に手を染めるわけで、それも「生活苦で明日食う米もないから公金を盗む」という可愛いものではなく、給料は充分に貰いながら、尚遊びの為の金が足りないという理由からなので、納税者としては開いた口が塞がらないということになる。
官僚といっても大勢の人間がいるわけで、その中には当然のこと、悪いことをする人間が紛れ込んでいることも充分のうなずけることではあるが、組織の中にそういう人がいれば、困るのは普通の国民だという意識が、官僚の側にも国民の側にも希薄だと思う。
上海の領事館で起きた脱北者の中国官憲の奪還事件や、機密費詐欺事件の松尾克俊の事件や、尖閣諸島における巡視船への衝突事件等々の一つ一つの事件は、普通の日本の国民にとって喫緊の問題ではないので、国民への直接的な影響はないと思われがちであるが、こういう考え方そのものが既に国益を阻害している。
我々は、戦後、憲法で以て「事を解決するのに武力の行使は行わない」と言っているので、我々の武器は言論でしかないが、外務省がこういう小さなトラブルの際にも、徹底的に言論で以て相手の不合理な立ち居振る舞い告発するという態度を示さないことには、日本の国益は踏みにじられてしまう。
言論で以て戦うということは、単純に相手に抗議するというだけではなく、相手の立ち居振る舞いを国際社会に暴露して、国際社会に対して相手の理不尽な行動を周知徹底させ、相手の国際的な信用を失墜せしめるということも含まれているわけで、こういう工作が我々は全く下手だと思う。
日本の過去の歴史の中で、満州国の建国ということがあって、これを中国は国際連盟に提訴して、それを受けてリットン調査団が派遣され、結果としてそれが日中戦争を深化させ、太平洋戦争へ繋がったわけで、我々は中国の言論が契機となって奈落の底に転がり落ちたということになる。
今の日本の外務省のこの時の中国人ほどの遠謀深慮の発想があるであろうか。

「ノモンハンの真実」

2012-01-28 08:49:00 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「ノモンハンの真実」という本を読んだ。
サブタイトルは「日ソ戦車戦の実相」となっていて、著者は古是三春という人だ。
当然、私の知る人ではないが、本人の記すところによると、元日本共産党員ということで、共産党から除名というか追放というか、どうもそういう処分を受けた人のようだ。
しかも自称、軍事評論家ということで、特に共産圏の武装には造詣が深いと自分で述べている。
例によって私の無責任な推測からすれば、共産党員として共産主義諸国の文献にも通じていて、その中でも特に軍事、軍備に強い関心を持っていたということなのかもしれない。
しかし、今の私のような古い世代のものによって、ノモンハン事件といえば、日本陸軍、中でも関東軍が稚拙な戦いで、ソ連の機械化部隊にコテンパンに叩かれた戦闘という認識ではないかと思う。
私自身は完全にそう思い込んでいた中の一人である。
だが、あの時代の常として、日本軍が負けたということは口に出来ない雰囲気が充満していたので、国民の大部分は、その実態をよく知らなかったという理解であった。
それで、負けた責任を負わされて、実際は善戦した司令官が詰め腹を切らされたが、命令を出した側はのうのうと生き延びたという怨嗟の気持を内包した評価であった様に認識している。
我々は、ノモンハンでは我が日本軍が稚拙な作戦で、十分な補給もないまま無謀な戦いをして、こっぴどい返り討ちになったという風に、日本軍の失敗を半ば自嘲気味に語りつがれているように思うが、ソ連が崩壊した頃から「そうでもない」という評価がぼつぼつで出したようにも見える。
この本の中でも指摘されているが、辻政信の手記が彼の息子の辻毅氏が公表したことによって、日本軍もかなり善戦したという評価に変化が見られるようになった。
しかし、問題はこの辻政信という人の存在にあるわけで、日本の近現代史において彼ほど評価の定まらない人物も他に無いように思う。
辻政信という人の個人的な人物評価もさることながら、我々同胞の軍隊では何故にこれほどまでに人命軽視であったのだろう。
これは日中戦争から太平洋戦争を通じ、自分達の祖国が壊滅し、占領されるまで、「人の命は大事にしなければ」という発想に至らなかったわけで、人の命を大事にして、自分も他者も生き残らねば、生き残るには、という発想に至れば戦争の仕方も随分変わったに違いない。
このノモンハン事件が起きたのは1939年5月で、既に日中戦争は天津にまで及んでいたのだが、中国でも戦争しながら満州の辺境でも同じように戦争をするという発想は、その発想の段階から戦争のプロフェッショナルの論理に反したことであったに違いない。
2正面戦争、兵力を分断する作戦、相手を侮る思考は、軍人たる前に普通の常識人としても、そのモラルの真価が問われるべきものであるが、それを理解し切れていない戦争のプロフェッショナルを我々はどう考えたらいいのであろう。
旧日本軍、特に陸軍の中では、ロシアの軍隊についての研究も大いに行われていたと思う。
何もスパイを使ってロシア政府、ソビエット連邦の内情を根掘り葉掘りほじくりまわさなくとも、普通の日常生活を通じても、軍の動きというのは専門家ならば理解し切れると思う。
この本の著者は軍事評論家として共産圏の軍隊の装備については詳しいと自分でも言っているぐらいなのだから、すれ違う列車が何を積んでいるかを見るだけでも、大きな情報になりうる。
しかし、如何なる情報も思考の素材にしか過ぎず、その情報から何を導き出すかが大事なわけで、それには深い見識と広範な知識が必要なことは言うまでもない。
だから、ことを成す前には情報を集めなければならないわけで、それをビジネス界ではオペレーション・リサーチと称しているが、これは元々が軍事用語であったのではないかと私は推察している。
オペレーション・リサーチをして、最小の費用で最大の効果を得るべく知恵を働かせることが、ビジネスばかりではなく、戦争そのものにもそのまま通用すると思う。
ビジネス界では失敗しても直接人命にかかわることはほとんどないが、戦争はそんなに甘いものではなく、失敗すれば直接人命にかかわるので、失敗ということは許されない。
だからこそ、綿密なオペレーション・リサーチとタイミングを逸しない的確な判断が問われるわけで、それは言葉を変えていえば、もっとも最適な合理性の追求に尽きる。
もっといえば、精神主義の真逆であって、合理的思考の究極の具現化であって、合理性の整合性をとことん追求する発想でなければならない。
戦争における最高度の合理性というのは、戦わずに済ませることであって、軍人・兵士が現実に鉄砲を撃ち合う段階というのは下の下の策であるが、話し合いで結論が出ない時は、最後の手段としてこういう解決策を取らざるを得ない場合が往々にしてある。
このノモンハン事件というのも、基本的には国境策定の話し合いがこじれた挙句の結末であったわけで、本来なら血で血を洗うほどの解決をしなくてもよかった問題である。
問題は、日本の陸軍というのは日露戦争以来、ソビエットを仮想敵国として認識していたにもかかわらず、ソビエトの戦争の仕方を研究していなかったという現実にある。
この本の著者のように、日本共産党員が、ソ連の軍備、軍需工業の詳細なデータを研究し、それを祖国に還元したならば、この戦いも勝利し、終戦一週間前のソビエットの対日戦参戦もなかったかもしれない。
しかし、共産党員というのは、何処の国の共産党員も、必ず自分の祖国に弓を引き、祖国を売る行為に出るので、その意味で何処の国でも信用されないのも自明のことである。
自分の祖国を売り、自分と同じ民族を裏切り、共産党にのみ忠誠をつくす輩が、他者から信用されるわけがないではないか。
しかし、日本陸軍がソ連を仮想敵国としながら、それについて何も研究していなかった、ということはどう考えたらいいのであろう。
アメリカについてはある程度は研究し、その研究の成果として「勝ち目はない」という結論が出たら、その結論を無視してしまったけれど、これ等も不可解千万ではないか。
既に何度も記述しているが、世界の戦争のプロフェッショナルが、日本の軍隊を評価した時、「日本の下士官兵は世界で最も優秀であるが、高級将校はバカだ」という評価を、日本の陸士や海兵を出た高級将校はどう感じているのであろう。
ビジネスマンは何か事を越そうと考えた時、まず市場調査をし、オペレーション・リサーチをし、最小の努力で最大の成果、目標達成の最適手法を考えて、それが実現するようにあらゆる手配を滞りなく整えて、それが整ったタイミングを見計らってゴーサインを出してことを成就させる。
これは軍人のする戦争、戦闘、戦術でも全く同じだと思う。
何事かを成そうとすれば、それについての研究から始めなければならないと思うが、日本の陸士や海兵を出た人たちには、そういう発想が全く存在していないわけで、机の上で過去の事例ばかりを見ているので、「これをする前にはこれこれのことを仕上ておかなければ」という段取りが決められないようだ。
無理もない話だと思う。
例えば、蕎麦屋さんでも、饅頭屋さんでも、蕎麦なり饅頭を作る際には、手順を整え、その手順通りに仕事しなければうまい具合に捗らないわけで、これは学校教育で教えて教えられるものではない。
日本の昔の軍人、陸士や海兵を出た人達は、こういう現場の仕事をしたことはなく、タダ学校で教わった手順を鵜呑みにして行動し、判断をし、結論を導き出そうとするので、瑕疵を免れないのである。
考えても見よ。
昭和初期の時期に、陸士や海兵に幾つで入学するか正確には知らないが、仮に18歳で入学して、22、3才で少尉に任官したとして、優秀であればあるほど尚専門の学校に進むことになり、まさしく軍隊組織の中で純粋培養されることになる。
普通の社会で、学校の成績がそのまま社会人の実績として通用することがあるであろうか。
普通の社会では、幼児の時は神童で、学校時代は秀才で、社会人になればただの凡才、というのがごく当たり前の人生コースであるが、軍人だけは学校時代の秀才が、終生秀才のまま通るわけで、こんな妙な話も他にないと思う。
日本が戦争に負けた、敗北した、敗戦だったということは、日本の戦争指導者、政治指導者が、こういう学校秀才ばかりであったので、そうなったというべきだと私は考える。
負けるような戦争をする軍人が、優秀であるわけがないではないか。
優秀でなかったから日本は戦争に負けたのではないか。
陸士や海兵、陸軍士官学校を優秀な成績で卒業して陸軍大学に進んだ優秀な軍人、海軍兵学校を優秀な成績で卒業して海大に進んだ優秀な軍人、こういう軍人が真に優秀であったならば、日本は何故敗北したのだと言いたい。
この本の著者は共産党員であった所為か、ソ連の内幕にも相当精通しているようで、ソ連はこの事件でいくつかの戦訓を得たと述べている。
前線で戦闘を繰り返しながら、その中から教訓を得るということは、非常に重要なことだと思うが、日本側にはそういう評価は成されていない。
つまり、この戦争から日本軍が学んだことは何もないということらしい。
しかし、この時代、つまり昭和初期の日本陸軍内において、ソ連や中国に対する認識の甘さというのは一体何であったのだろう。
私のような胡乱な人間が「知らなんだ、気がつかなかった」と言うのならば、ごくありふれた話であるが、陸士を優秀な成績で出た優秀な日本陸軍の高級将校、高級参謀が、中国人やロシア人を見くびるというのは一体どういうことなのであろう。
この事実は、そのまま人命軽視の発想にもつながっているのではなかろうか。
つまり、机の上で過去の記録ばかりを見て、元々記憶力は人並み外れて良いものだから、過去の事例を参考にして物事を判断するので、今の現実からかけ離れた結果になるのではなかろうか。
何事も机の上の議論が出発点にあるものだから、現実が目に入らず、感情論や思い込みに陥ってしまって、失敗から学ぶということができなかったに違ない。
我々の先輩諸氏の戦争の仕方において、どうにも理解し切れない点が、敵に包囲されても尚持ち場を死守するという考え方で、これはまさしく犬死を強要するような無意味なことにも関わらず、それが最後の最後まで遵守された不思議さである。
確かに「生きて俘虜となるなかれ」という戦陣訓はあったが、自分が生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされているのに、みすみす犬死ではあまりにも不合理なのに、組織としてはその犬死を強要したわけで、これは一体どう考えたらいいのであろう。
この本の中にも記されているが、敵に包囲されて玉砕し掛った部隊が、包囲網をかいくぐって友軍に合流したら、戦線離脱と見做されたいう場面があるが、これ等も人命軽視の端的な例であって、どうしてこういう発想になるのであろう。
海軍の海戦でも、沈められた軍艦の乗り組ん員で救助された者は、隔離されて収容されたという話があるが、命かがら戦った同胞に対して、どうしてこういう処遇になるのであろう。
こういう齟齬は、軍隊の組織が官僚化しているから、こういう不合理が罷り通っているのではなかろうか。
官僚の一番の盲点は、責任の所在が曖昧で、誰もきちんと責任を取る、負わないという点に尽きる。
確かに官僚というのは組織で動いているわけで、組織の中では上意下達で上からの指示で動くことに飼いならされていて、自分の裁量を発揮する場もチャンスもないから、全体として事なかれ主義が横行して、正常な倫理観が麻痺してしまうということだと思う。
僅か17、8歳で軍という機構の中に組み込まれて、記憶力重視の学校生活の中で、成績のみで人格が評価されて、自分では汗水垂らして働いたこともなければ、釘一本、ネギ一本自分では作ったことのない人間が、普通の社会人として普遍的なモラルが出来上がるわけがない。
彼らの手足となって働く下士官、兵などというものは、一銭五厘のハガキでいくらでも無尽蔵に集められる、と思い込むのも無理ない話だと思う。
そういう意識が精神の基底にあるものだから、他者には玉砕を強いておいて、自分は安全な場所で酒池肉林に耽っておれたのである。
いくら部下の将兵が死のうとも、自分自身は何の痛痒も感じないということは、自分と下士官は違った民族だ、という意識でいたからに他ならない。
彼らにとって自分と同じ民族や同胞は、陸士や海兵の同窓生のみで、他のものは全て自分のために仕える奴隷か、家畜という意識でしかなかったと思う。
だからこういう人間が考えた戦争は、天皇のための戦争でもなければ、国民のための戦争でもなく、まして国益の進展のための手段でもなかったわけで、ただただ自分達の存在感を示す、あるいは誇示する、パフォーマンスでしかなかったと言うわけだ。
そうでなければ何故このノモンハン事件にこれ程の兵力を注ぎ込んだのか説明がつかないではないか。
何故ミッドウエイ海戦をしなければならなかったのか、何故インパール作戦をしなけばならなかったのか、説明がつかないではないか。
作戦のコンセプトも曖昧なまま、ロジスティクも全く考えないまま、敵情査察もしないまま、ただただ単なる思い込みで、自己の存在感を誇示するためにだけ、あれほどの犠牲を払う作戦を遂行するということは、バカか阿呆としか言いようがないではないか。
世界の戦争のプロフェッショナルが言っている通りで、如何に日本の高級将校、高級参謀がバカだったかを如実に示しているではないか。
こういう日本の高級将校、高級参謀も、陸士や海兵に入る時点では、それこそ俺が村俺が町の秀才であったことは間違いなかろうと思う。
ところが軍という機構の中で純粋培養された結果として、こういう陳腐な軍人に変化したものと考えざるを得ない。
ならば何がこういう変化をきたす原因であったのだろう。
私個人としては、こういう状況を組織のメルトダウンと称している。
つまり、組織というものが、組織の機能を失って、一つ一つのエレメントの吸引力が失われてしまい、その一つ一つの粒が各個ばらばらになって、粘性を失ってしまった状態だと思う。
組織というのは、上意下達という命令と服従で成り立っているが、上位者が命令権を私物化して、私利私欲に走るとこういう状況に陥るものと推察する。
問題は、この場合、上位者が命令権を私物化すると言っても、私利私欲でもって個人的に金銀財宝を隠匿するというのではなく、大義の名目で自己の我を押し通そうとするから齟齬が生じるのである。
考えなければならないことがこの部分で、「大義のために」という水戸黄門が印ろうを掲げるようなポーズを振り廻して、自己の裁量権を私物化するものだからして、大義の前に批判が出来なくなってしまうという点である。
この時の敵の司令官ゲオルギー・ジュ―コフは敵ながらあっぱれな司令官だと思う。
日本側も果敢に戦闘を展開したので、ソ連側も相当に苦戦を強いられたが、彼らはその苦戦を自分達の戦訓に生かすことに長けていて、同じ失敗を繰り返さないという先見の明があった。
これは普通の人間ならば普通の発想であって、ごくありきたりの失費から学ぶということであるが、我々の側には、失敗を研究するという発想に欠けていた。
その失敗を、精神力の不足ととらえる向きがあって、戦争の劣勢を精神力で補てんする、という発想そのものが非科学的である。
俗に「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」という俚言があるが、戦争というのは基本的にこの論理でなければ勝ち目はおぼつかないと考えなければならない。
ところが我々日本民族は、自分の国が資源に乏しい事を赤ん坊でも理解しているわけで、どうしても発想の段階から無駄をなくすという方向に向いてしまうわけで、無駄撃ちの戒めという風になってしまう。
一事が万事、弾の節約、無駄撃ちの戒め、百発百中、数の劣勢を訓練でカバー、ということになりがちである。
ところがソ連でもアメリカでも物資は豊富にあるわけで、こういういじましい節約などということを考えるまでもなく、ドンドン撃てば良いわけで、そういう意味で彼らは戦う前から極めて有利であった。
そもそも、兵器というのは誰でもが何時でも何処でも安易にこなせるものでなければならない筈で、特殊な訓練受けた特別の人でなければ操作できないでは、兵器たりえない筈だ。
しかし、この時代、昭和の初期の段階で、我々日本人がロシア人を侮っていたということは一体どういうことなのであろう。
日露戦争で日本が勝利したので、それが成功体験として相手を侮る思考に至ったのだろうか。
だとすると我々の同胞は実に浅薄な人間の集まりだたっと言わねばならない。
この日露戦争は1904年のことで、ジュ―コフは僅か8歳である。
彼が21歳の時に、あらたに新生ソビエット連邦共和国ができ、この戦いのときは彼は43歳であった。
この戦いのときはソ連が誕生してわずか22年しか経過していなかったが、この時点で既に大部工業化していたわけで、戦車も飛行機も日本以上のものを作りだしていた。
革命後わずか20年で立派な工業国になるということは、ある意味で目を見張る発展という事になるが、その裏には粛清の嵐が吹き荒れていたわけで、それを思うと私の認識では何とも不可解な国ということになる。
飛行機の開発でも優秀な技術者を囚人として、その囚人に技術開発をさせるなどということは我々に想像もできないことである。
優秀な技術者を囚人にするのではなく、刑務所の中で優勝な技術者に仕事させた、ということなのかもしれないが、我々の場合でも似たり寄ったりな状況であったようだ。
我々の場合は、囚人や刑務所ではないかもしれないが、戦争中の技術者に自由奔放な生活が許されるわけもなく、身柄は拘束されていなかったかもしれないが、実質それに近い状態に置かれていた。
このノモンハン事件は、日ソの戦車戦であったわけで、ソ連としてはこのノモンハンに匹敵する戦車戦は、その後の西部戦線やレーニングラードの攻防戦の前哨戦であったと考えられる。
この戦いではノモンハンの教訓が大いに生かされたと言われ、それを行ったジュ―コフは、対ドイツ戦線よりもこのノモンハンの時の方が苦戦だったと言っているそうだ。
戦車戦といえば、エル・アライメンの戦いを抜きには語れないのではないかと思うが、何時かテレビでこの戦いを放映していた。
この戦いはドイツのロンメルとイギリスのモントゴメリーの戦いであったが、戦争である以上どちらかが勝ち他方が負けることは致し方ないが、負けた以上命の保証は定かにないことは当然である。
けれどもヨーロッパ諸国では、負けた方の捕虜を再び他の前線に差し向けて戦わせるというのだから驚きである。
捕虜の有効利用とでも言うのだろうか。
生きた人間を飼っておくには食糧を与えなければならないので、余り大勢の捕虜というのは勝った側としてもお荷物に違いない。
しかし、我々の戦陣訓のように、「生きて俘虜の辱めを受けず」というのもまことに極端な思考で、こういう面にも我が方の軍人の思考が如何にも国際感覚からずれていて、唯我独尊的な思い込みに浸り切っていることの立派な証しだったのではなかろうか。
戦闘の状況で後退も許さないという発想は一体どこから出てくるのであろう。
「何がなんでもそこに留まって犬死にせよ」という指示は、決して許されるものではないと思うが、こういう無駄な死を強要する司令官、指揮官を我が同胞として如何様に考えるべきなのであろう。


「昔懐かしい!大正ロマンの旅」

2012-01-25 12:36:32 | Weblog
先日、22日(平成24年1月)の日曜日、岐阜自分史を書こう会が1年間の活動報告をするということで、是非見に来てくれと誘われて参内した。
その時、この会を指導しておられる加藤迪男先生から本人の著書を戴いた。
「昔懐かしい!大正ロマンの旅」という題で、サブタイトルには「現代日本のルーツを探る、思い出ワールドへの誘い」となっていた。
図や写真も多く読み易い冊子であった。
冒頭、恵那市にある大正村の案内から始まっていたが、私は以前既に此処に行った記憶がある。
考えて見ると、尾張地方の北から岐阜県の東濃地方にかけて、明治村、大正村、昭和村というものが存在するということは実に不思議なことだと思う。
その嚆矢はやはり犬山の明治村の開村で、他は「二匹目のドジョウ狙い」という感が否めない。
明治、大正、昭和という時代は、我々のような世代から見ると、どうしても郷愁をそそる思いに駆られるが、目で見て理解できるものは、こういうアプローチで保存するに越したことはない。
ところが、日本の近代化というのはそういう具象的な面ではなくて、心の内面の変化こそ注視すべきだと思う。
明智の大正村というのは、元々そこにあったもので地域全体が博物館として機能しているが、明治村の場合は、それこそ全国から明治時代の顕著な建物を移築して博物館としているわけで、こういうものは目で見て素直に理解し、当時のあり様を想像する手助けになる。
ところが近代化という面では、精神の、あるいは意識の改革こそが、変革の基底に流れているわけで、こういうものは具体的な形として目の前に啓示できない。
大正時代というフレーズを聞くと、私として真っ先に頭をよぎるイメージは、大正デモクラシーであって、この時代は僅か15年ではあるが、その後に来る奇態の昭和初期の助走期間であったような気がしてならない。
大正デモクラシーといえば、その後に連想される言葉は、自由民権運動であって、この時代には江戸時代の封建主義から近代的な民主主義への大きな変革の時期であった。
だが、こういうムーブメントがそうそう素直に行く訳が無く、その紆余曲折の具現化したものが、昭和初期の奇態な時代ということなのであろう。
島崎藤村の『夜明け前』とか、葉山嘉樹の『セメント樽の中の手紙』の作品は、時代の変化の潮の目の中の苦悶を描いた作品ではないかと推察する。
今の時代に生きる我々の価値観からすれば、近代化ということは良い意味で認識されており、「昔の方が良かった」というとどうもへんに懐古趣味に見られがちである。
全ての事柄には必ず裏表があり、メリット・デメリットがあるわけで、近代化=民主化というわけで、全てが善であったわけではなかったように思う。
昭和の初期の時代、つまりあの戦争中の日本のリーダーの中にはモラルの点で非常に不遜で驕り高ぶった人たちが大勢いたように思う。
特に、軍人という人種にはそういう人たちが大勢いて、そういう人たちが結果として日本を奈落の底に突き落としたことになる。
しかし、人が生きるということは、そういうことを全て受忍して、そういう苦労を受け入れ、受け入れた上でその対応を考えねばならない。
つまり、時代の推移と共に産業構造の変革が避けられないので、それに如何に対応するかは、人々の生存に直接関わる問題だと思う。
今の政治状況だとこういう場合、すぐに国家の対応、国の支援に頼り、国家が手を差し伸べることが当然と考えられ、棚からぼた餅が落ちて来るのを下で待っている構図であるが、この時代は国としては軍備に金を割かねばならず、民生部門にはそういうゆとりはなかったと思う。
つまり、人々は自分の判断で、自分の行く道を手探りで探さねばならず、結果として安易に国外に出る、言い方を変えれば、安易にアジアに進出、侵略のお先棒を担ぐということになったものと考えられる。
それをフォローしたのは、当然、軍部であったわけで、民間が先にアジアに出たのか、それを保護するために軍が出たのかは、鶏と卵の関係のようなもので、どちらが先かは判然としないが、ただ言えることは、その背景には貧乏からの脱出願望があったことだけは確かだと思う。
この貧乏からの脱出、つまり「金持ちになりたい」という潜在意識は、近代化という意識改革によって新たに湧き出てきた概念ではないかと思う。
つまり、江戸時代の封建主義のもとでは、人々は分に応じた生き方をしていて、何の不足も感じていなかったと思う。
士農工商という階級制度の中で、自分の身分を越えて金持ちに、或いは立身出世ということを望む、願うことはなかったように思う。
士農工商という身分制度の中で、商業というのは額に汗して働くことがなく、人の労働の上澄みを掠め取る、という認識で以てモラル的に一番最下層に位置付けられていたが、近代化で貨幣経済の世の中にあると、金さえ持っていれば何でもできる、という考え方が普遍化した。
世の中がこういう風潮になると、身分制度の意義が消滅して、猫も杓子もビジネス・チャンスを狙い、金儲けに奔走するようになった。
その中でも当時の人々に人気があったのが軍人と官僚である。
明治憲法下においては、軍人と官僚は天皇陛下の直系の組織であったわけで、江戸時代の士農工商の制度の元では、この階層が制度の一番上に君臨していたので、全ての人がそういう身分、階級に憧れを抱き、雲霞の如く集まった。
その中から公明正大で極めて民主的なペーパー・チェックで万民の中から成績の優秀な人材をピック・アップしたが、ここで集められた人たちの潜在意識までは測る事ができなかった。
だから、結果的にプリンシプルに欠け、モラルを欠いた人間でも、出世レースには参加でき、ただただ成績に秀でたものがリーダー足り得たので、その実態は玉石混交・有象無象の集合であったということだ。
昭和初期の時代に軍部が独走した背景にはそういう状況があったと見做すべきであるが、問題は、その前の時期が非常に不安定というか、民主政治として極めて不慣れ、不手際、未成熟であったことにある。
我々の日本人、日本民族として、民主政治というものを真に理解し切れておらず、政党政治というものに不慣れであったと言わざるを得ない。
政友会と憲政会の確執は今の政治にもそのまま通用するわけで、このことは我々、日本人、日本民族に真の2大政党政治はあり得ない、ということを示していると思う。
それは、我々が民主的な政治手法が不得意というわけではないが、2大政党による政党政治は成り立たず、多党政党の中の連立でしか政権を確立し得ないということだと考える。
我々は、「万機公論に決する」ことができないわけで、多数意見を集約することができないので、何ごとも前に進まないということになる。
いくら話し合いをしても意見が一つに集約できないでは、話し合う意味がないわけで、双方が妥協を拒むということは、究極の我儘あるいは欲張りという他ない。
我々の普通の価値観からすれば、「欲張り」というのはもっとも忌み嫌われるものであるが、当事者にはそれが解っていないということだ。
こういうことは今の政治にも立派に生きているわけで、大正時代のみのことではなく、我々の民族のDNAとして今後も生き残るであろう。
この本のいう大正村のロマンは、こういう日本人の潜在意識を刺激するものではないが、見た目の郷愁を刺激するには極めて効果的な内容である。
私も尾張に住むものとして、東濃地方というのはすぐ近くに位置しているので、この本の中の遺物を全く知らないわけではないが、何時も目的意識を持って接していないので、ついついその由緒謂れには無関心でいた。
だからこの本を読んで、改めて見直してみると、結構興味あるものがそろっている。
実に的確に要点を射抜いた観光の指南書だと思う。
暖かくなったらこの本を携えて、カーナビを頼りにあちらこちら訪ねて見よう。

「発信する声」

2012-01-22 19:33:13 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「発信する声」と言う本を読んだ。
著者は澤地久枝女史。
彼女については以前NHKの「海軍反省会400時間」という番組で、半藤一利氏との対談という形で出演していたのを見て、ある程度のイメージはできていたが、この本を読んでみるとその先入観は見事に裏切られた。
テレビで見た時の印象としては、日本の戦争指導者に対しては厳しい所見を述べる人だということは感じたが、それは事実に即して語っている以上妥当な発言であるが、この本の論旨は、まさしく社民党の福島瑞穂か、辻本清美か、田嶋陽子か、土井たか子なみの激烈なもので完全に平衡感覚を欠いている。
2007年の出版ということで、小泉純一郎や安部晋太郎が個人名で糞味噌にこき下ろされているが、文字、あるいは文章を生業としている人間として、こういう表現方法を取るということはあまりにも下品極まる。
和服のたたずまいがまことに似つかわしくない発言である。
戦争を憎む気持ちは察して余りあるが、だからと言ってまだ生きている人間を名指しで悪口雑言の数々を浴びせる行為は、品のある振る舞いとは決して言えない。
彼女は、五味川純平氏の秘書として彼の作品『人間の条件』の資料調べを行ったとされているが、そういう資料を通じて、先の戦争において日本の軍人が如何に腐敗していたかをつぶさに見たことは間違いない。
その思いと自分自身の引き揚げ体験から、戦争の不合理というものが体の底から身に沁みたということは免れようのない事実であろう。
だから平和主義になるというのも、精神の在り方としては自然の流れであろうが、だからと言って、一国平和主義で日本国憲法第9条がそのままでいいという話にはつながらない。
我々の国は、戦争で負けたが故に、自分の国の憲法に戦争放棄の条項を組み込まざるを得なかったが,それはある意味で屈辱の象徴を掲げているようなものである。
確かに、戦争放棄という条項は、人類の理想であり理念であろうが、この世の人間世界ではあり得ないものなのである。
現に、我々の憲法発布以降独立した諸国で、我々と同じ理想と理念と掲げた自主憲法を制定した国家があったであろうか。
護憲論者が言うように、そんなに優れた理念と理想を掲げたものであれば、我々の後についてくる者がいたとしても不思議ではないが、誰もついて来ないということは、その事が普遍化していないということで、人間の、或いは人類の理想は理想として「絵に描いた餅」でしかないということに他ならない。
日本国憲法が公布された時、まだ中国も、北朝鮮も、韓国も、国家として成り立っていなかったが、これらの国々がその後自主独立した時、人類の理想と理念を高々と掲げた憲法をつくったであろうか。
日本国憲法の第9条が人類の至高の理念だとしたら、これら後発の諸国家は、どうしてそういう理想と理念を憲法の中に組み込まなかったのだろう。
それの意味するところは、戦争放棄という人類の理念は現実的ではないので、そういう絵空事を憲法の中には入れるにふさわしくないからである。
どの主権国家でも、如何なる民族でも、人のものを黙って盗ってもいいという事は許されないことだと思う。
つまり、それをすれば罰せられることが普遍化していて、その為にそれを取り締まるシステムが構築され、警察という組織が出来上がっている。
しかし、この世に泥棒が居なければ、警察は不要なわけで、警察官を養う経費は福祉に回す事が出来る。
にも拘らず如何なる主権国家にも警察は存在するわけで、泥棒という輩は如何なる国にも存在している。
こんなことは自明のことで、何も理屈っぽく声高にしゃべる必要は無いが、これが軍隊となると何故我々は理想論を声高に叫ぶのであろう。
この本の著者は、自分たちが率先して戦争放棄すれば、周りの諸国は皆日本を暖かく迎え入れてくれるという前提で論理を組み立てているが、これでは戦前のスローガンであった「鬼畜米英」というのと全く同じ思考パターンに陥っている。
この本を一読して心に残ったことは、戦争は忌むべき事で、日本の憲法第9条は決して変えてはならないという信念が伝わってくるが、それは彼女の視点から見た一方的なモノの見方であって、世の中はそんなに単純なものではないのは当然のことである。
小泉純一郎や安部晋太郎にいくら罵倒を浴びせたとしても、彼らを選出したのは日本の有権者であって、複雑怪奇なシステムで彼らに国の舵取りを委ねたのは国民の総意でもあったわけだ。
確かに国民の総意と言っても、51%対49%の違いであったかもしれないが、民主的手法で選出された事実だけは否定のしようもない。
彼らの実績の結果として今は民主党が政権を取っているが、民主党とてもアメリカとの安全保障条約を今直ちに解消するといえば、政権が維持出来ないことは明白である。
澤地久枝女史から改めて言われるまでもなく、我々は誰一人として戦争を好む者はいない。
日本の母親だけではなく、世界中の母親が自分の息子が戦場に行くことを嬉しがるものはいないはずである。
湾岸戦争でサダムフセインが「クエートは元々我々の土地だからさっさと出ていてくれ」と言われて、「わかりました、では出て行きます」と応じれば血で血を洗う戦争にはならない。
フォークランド諸島でアルゼンチンが「ここは俺達の土地だからイギリス人はさっさと出ていてくれ」と言われて、「はいそうですか、では出て行きます」というのであれば、ミサイルの撃ち会いも起きない。
しかし、主権国家の国民としてこんなことを黙って看過出来るであろうか。
彼女をはじめとする9条の会は、こういう状況下においても、相手の言うことに素直に従えというわけだが、私個人としてはそんなことは断じて納得できない。
土地に資源が埋まっているから、武力でもそれをとりに行くという露骨な帝国主義を持ちださなくとも、主権国家の国民として、こういう他国の振る舞いを黙って見ていることはゆるされない事だと思う。
最初にそういう行動に出る国がなければ何も問題は無い。
この二つの例は極めて露骨な帝国主義的思考による極端な振る舞いであろうが、A国の国益侵害というのは他の国に取って何の関連がなくとも、A国にとっては非情な脅威になるということも十分にありうる。
B国とC国の連携がE国にとっては非情な迷惑ということもあるわけで、こういう細かいことも全てが戦争の萌芽でもある。
この地球上の人は全て戦争を忌み嫌っているが、嫌いだからと言って戦争に無関心であってはならないわけで、常に戦争の萌芽には気配りを怠ってはならない。
ところがこの本で著者が強調しようとしていることは、戦争は悲惨で不合理の塊だから、そんな事は一切考えてはならず、話し合いさえすれば事は解決するという論法である。
北朝鮮の邦人拉致の問題でも、北方4島の問題でも、随分話し合ったにも関わらず何一つ解決できていないことをどう説明するのであろう。
何時まで話し合えば解決するのであろう。
この二つの問題は話し合いでは解決できない。戦争でしか解決出来ない。
だが我々には今後とも戦争する気がないので、決して解決することはない。
やられっ放しのまま、盗られっ放しのまま歴史の中に埋没する、と考えねばならない。
話し合うという場合、双方がテーブルに着く心構えがない事には、話し合いは成り立たないわけで、こちらが一方的に話し合う話し合う、と言っても相手がそれに乗ってくれなければ「暖簾に腕押し」で終わってしまう。
これでは物事が解決した事にはならない。
それと、もう一つ大いに気にかかることに彼女の政治不信であって、政治不信だからこそ、政治家を「悪の根源」であるかのような論調でこき下ろしているが、日本人の集団、日本の社会、我々の社会システムがどういう風になれば、彼女の納得できる社会が成立し得るのであろう。
政治家のいない、官僚のいない、烏合の衆の大衆だけがうようよ、右往左往、好き勝手なことを言う社会が果たしてありうるであろうか。
彼女は戦前・戦中の資料を調べ上げて、軍人政治家、戦争指導者の無責任極まりない振る舞いに腹の立つ事は掃いて捨てる程散見したであろうが、そういう人達に対する怒りは、私も同感であって、そういう人を容認する気は全くないが、だからと言って今の政治家に悪態をついても意味はない。
彼女は様々な資料を読み漁って、当時の日本の軍隊の高級将校、高級参謀、及び政治指導者、戦争指導者の破廉恥きわまる実態をつぶさに暴きだしたと思うが、後に生き残った我々、戦後世代のものは、そういう我々の先輩の犯した悪事をどう総括すべきなのであろう。
「俺も後から逝くから」と若者を特攻攻撃に就かせた司令官、部下を前線で戦わせながら酒池肉林に耽っていた司令官、自分の家族だけを先に引き揚げさせた司令官、こういう我が同胞の戦争指導者を糾弾するにはどうしたらいいのであろう。
東京裁判・極東国際軍事法廷というのは、戦勝国が自分達の思い込みで、彼らにとって「極悪だ」と思った連中を、彼らの価値感で量って勝手に裁いたが、我々にとって憎悪の対象であるべき我が同胞の破廉恥きわまりない戦争指導者は、連合軍からすれば彼らの功績に貢献した存在ということになる。
何となれば、こういう司令官が我が方の軍部にいたから、我々は敗北したのであって、我が方の指令官が本当に優秀であれば、我々の敗北は無かったかもしれない。
彼女の言い方によると、「日本の侵略戦争の犠牲になった相手の方々に公式に謝罪し、罪を償う」と言っているが、ならば相手方が日本人の同胞に行った暴虐の償いはどう解釈したらいいのであろう。
日本の軍隊の高級将校、高級参謀の破廉恥きわまる実態を総括するのは我々、日本の同胞でなければならないと思う。
我々は、同胞のそういう破廉恥な高級将校の振る舞いによって敗北の道を歩み、奈落の底に落ちたわけで、その事を我々は戦後66年の間にどのように総括したのであろう。
この本には北御門二郎との対談が記されているが、彼はあの戦時中に兵役忌避を貫き、勤労奉仕も拒否し続けたことで英雄視されて描かれているが、私は納得できるものではない。
又、べ兵連の脱走兵をかくまう運動にも言及しているが、兵役を忌避することが平和につながる運動でもない。
そもそも徴兵制度というシステムそのものが極めて不合理で、徴兵で集めた兵士は、今の言葉でいえば、オタクや、引きこもりや、フリーターや、盗癖のある者や粗暴な者も、味噌も糞も一緒くたに集めてくるわけで、こんな烏合の衆をいくら集めても、殺人マシーンとして使いものになるわけがないではないか。
軍隊というシステムの中は、殺人マシーンのみではないわけで、飯炊きから、金勘定から、帳簿付けから、便所の汲み取りまで、さまざまな仕事があるが、それがまともに務まらないようでは、その社会では一人前に扱われないのもむべなるかなである。
どこの国でも、どんな民族でも、軍隊や兵制はあるわけで、それはその社会で一人前になる通過儀礼でもあって、それが嫌で嫌でたまらないでは、その社会では一人前として通用しないのも仕方がない。
しかし、軍隊を持ち兵制を備えた国でも、それが嫌で嫌でたまらない人のための救済措置もあることはある。
ところが、兵役がまともに務まらないような人間が、兵役にかわる代替作業なら大丈夫だ、という事はあり得ない。
兵隊となって人を殺すのは嫌だという言い草は、一見、平和論的に見えるが、それはただの言い逃れの方便であって、人と同じことが出来ない、する気がない、体を動かしたくない、という怠惰の言い訳でしかない。
文明国であろうと、非文明国であろうと、如何なる民族であろうと、自分の国や自らの民族の為に、五体満足な若者ならば、自分の属する社会に何ならかの貢献をするのは生存の為の必然だと思う。
侵略であろうとなかろうと自分の祖国が敵と戦っている時に、「私は嫌です、私は暖衣飽食を捨てるような事はやりません」では人としたあまりにも情けないではないか。
彼女は政治を憎むあまり、その政治が国民の合意の上に成り立っていることを失念して、何処かの遠い星から来たエイリアンが日本の国民の上に君臨して、国民に銃を持たせて殺人ゲームをさせているという感覚で眺めているようだ。
先の戦争を振り返って冷静に眺めて見ると、確かに当時の政治指導者、戦争指導者の破廉恥な振る舞いは目に余るものがあって、銃後の民としては腹立たしい限りであるが、だからと言って政治そのものを全否定することに繋がらない。
こういう不逞な政治指導者、戦争指導者も、本来ならば陸士や海兵を出たエリート中のエリートの筈で、そういう人がどうして堕落したのか、という点を追求しなければならない。
一言でいえばモラルの問題に行き着くが、エリート中のエリートと言うべき人たちが、何故にモラルを欠いた振る舞いに及んだのかということに尽きる。
こうなると、もう本人の資質ということに行きつくわけで、端的に言ってしまえば、その出自がであったものがエリートになったという事だと考えざるを得ない。
エリートになるまでの学校教育では、その出自の卑しさがいささかも是正されなかった、ということに尽きる。
私自身も昭和の戦争指導者の破廉恥な振る舞いに義憤を感じる点では彼女と同じものを共有しているが、こういう人達は当然のこと当時の日本社会のエリートであったわけで、そういう人たちが自分の立ち居振る舞いに何故に無感覚になってしまったのであろう。
先にモラルの問題に行きつくと述べたが、確かにモラルそのものであるが、そのモラルを破壊せしめた要因には一体何があったのであろう。
今でも政治家や官僚の犯罪は後を絶たないわけで、これも一重にモラルの問題に行き着くが、こういう罪を犯す人は、私利私欲の塊ということであろうか。
「俺も後から逝くから」と若者を特攻攻撃に就かせた司令官、部下を前線で戦わせながら酒池肉林に耽っていた司令官、自分の家族だけを先に引き揚げさせた司令官、こういう人達の心の内は一体どうなっていたのであろう。
彼らは、あの天皇制の元で、天皇陛下の赤子を預かって、作戦の失敗でその赤子を無駄に死なせた、ということは天皇陛下に背いていることになるが、そういうことを頭の隅でいささかなりとも考えた事があったであろうか。
天皇制への批判は数々あれど、あの時代は、その天皇の名の元に戦争遂行が成され、軍部は天皇にのみ責任を負っていた。
その軍部が安易に天皇の赤子である将兵を死なせた、では天皇に対してどう責任を負い、どう申し開きをするのであろう。
日本が戦争に負けたということは、日本の軍人が戦争が下手で作戦に失敗したからに他ならず、その失敗の積み重ねが敗北であったわけで、その事は同時に天皇を結果的に裏切ったことに繋がる。
日本の軍隊が天皇陛下の軍隊である限り、負けるような事があってはならなかった。
我々の周りでは、日本の高級将校は須らく陸士や海兵を出た優秀な人達という評価であったが、戦争に負けたという実績は、世界の戦争のプロが日本の将校を評価したことが事実として実証されたということであろう。
既に何度も言っているが、日本の軍隊を外国の将官から見ると、「日本の下士官兵は世界一優秀であるが、高級将校はバカだ」という評価は実に正鵠を得ているわけで、これは一体どういうことなのであろう。
このことは所詮、組織のメルトダウンということで、日本陸軍、日本海軍という組織そのものが崩壊していたということなのであろう。
日露戦争の時の乃木希助は、旅順の攻略が上手くいかず大勢の戦死者を出したので、天皇に詫びたという逸話が残っているが、日本の軍人たるものこうでなければならないと思う。
ところが、昭和の軍人が堕落したのは如何なる理由によるのであろう。
日本の高級将校はいずれも陸士や海兵を出ているわけで、そういう戦争のプロフェッショナルの養成機関を出ると、バカな将校になるということは一体どういうことなのであろう。
こんなことは何とも不思議であるが、歴史は見事にそれを実証しているわけで、だからこそ敗戦という結果があったではないか。 
陸士や海兵に入る若者は、その時点ではきっと身体強健、成績優秀な選りすぐりの人間であったに違いないが、それが軍務を通じて経年変化するとどうしてモラル的に堕落するのであろう。
私が推察するに、彼らはそういう養成機関を出た後、やはり同じような温室の中で純粋培養されるわけで、その間に失敗に対する責任追及ということが、同じ同窓生という好で徹底的に浸透しなかったからだと考えざるを得ない。
誰かが失敗しても、その失敗した誰かは、自分の先輩であり、同級生であり、後輩であるので、まあまあという処置でお茶を濁してしまうことになり、モラルが衰退してしまったに違いない。
元々、頭脳明晰な人達なので、失敗の理由も因果関係もきちんと把握できるであろうが、結果に対する責任という段になると、情に左右されて安易に流されてしまうのであろう。
「彼は作戦に失敗したけれども、一生懸命努力したのだから責任を負わせるに忍びない」という心理だと思う。
一生懸命努力したのならば、結果が失敗であったとしてもまだ情状酌量の余地はあるが、高級将校にあるまじき破廉恥な振る舞いをした軍人に対しては、どう考えたらいいのであろう。
澤地久枝さんが、戦争に憤慨し、政治家に憤慨する気持ちも大いに共感し得る。
しかし、私個人としては憲法第9条は見直すべきだと思う。
「それを見直すとすぐ戦争になる」という言辞は、戦前に「アメリカ人は軟弱だからすぐ手を上げるからイケイケドンドンで進め」というプロパガンダと同じだと思う。

「原発のコスト」

2012-01-21 09:15:00 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「原発のコスト」と言う本を読んだ。
サブタイトルには「エネルギー転換への視点」となっていた。
著者は大島堅一という学者であるが、原発と言うからには当然昨年の3・11に起きた東日本大震災に絡んだ東京電力福島第1発電所の事故の検証であることは言うまでもない。
私は学者ではないので、何でもかんでも言いたい放題の事を勝手に言い放って、無責任を決め込んでおれるが、学者ともなればそうはいかないと思う。
この著者も「あとがき」で、「大学1年生でも判るように描いたつもり」と述べているが、事故が起きた後で、いろいろ蘊蓄を並べることは誰でも出来ると思う。
東京電力福島第1発電所の原子炉のメルトダウンは、まことに壮絶な事故で、被害に遭われた方々の苦労は察して余りある。
私も部外者の一人としてテレビの映像を通じて被害に遭われた方々に同情を寄せる者の一人である。
しかし、これは災害であって、東電の事故に関しては、その対処の不味さという部分に人災の要素が無きにしも非ずではあるが、その元の部分には大地震という天災があったことはいなめない。
大きな天災によって、人災としての原子炉のメルトダウンが引き起こされた、とみるべきだと考えられる。
この著者は、原子力発電そののものが建設の時からこういう災害を内包しているから止めよ、という論旨で連ねられている。
事故が起きた後になって、「それ見た事か」という論説を展開することは実に安易なことであるが、それをそのままの形で本にする神経というのも相当にずぶとい強心臓だと思う。
話は少々飛躍するが、今、空を飛んでいる巨大な旅客機にはfail sefeと称して、3系統の安全策が講じられていて、電気的な系統と、機械的な系統と、最後に人力によるセフティーネットが講じられていると聞く。
それでも不幸にして落ちる時には落ち、犠牲者も出たり出なかったりするわけで、人間の作るものには絶対の安全ということはあり得ない。
その危険性のリスクを、最大限と言うべきか最小限と言うべきか、10分の1、100分の1、千分の1.万分の1などと極限まで突き詰めても、『絶対』安全ということはあり得ないが、それでもそれを追い求めて精進するのが人間の英知であり、科学者の挑戦であり、人類の誇りである筈である。
それでも落ちる時は落ちて犠牲者が出る。
巨大な旅客機が墜落して大勢の犠牲者が出たときに、「何故、第4のセフティーネットを考えておかなかったのだ」と、航空会社やメーカーや政府を責めても空しい訴えでしかないではないか。
人間は過去の経験から安全率を割り出して、そこからセフテーネットは3系統用意しておけば十分であろうと考えるのが普通だと思う。
事故が起きた後になって「何故もう一つ用意しておかなかったのだ」といっても詮無い事だ。
安全ということを考えるとき、普通の階段でもつまずいて転び怪我をすることがある。
こういう時、企業の安全担当者は「もっと安全でつまずかない階段を作れ」と改善命令を出すが、極当たり前の階段を怪我をしない階段に改善するなどということは、理論的に不可能である。
どうしてもと言うならば、階段そのものを無くして平屋にするしかない。
去年の3・11大震災の時の福島原発の事故に対するその後の議論は、「原発、原子力発電は危険だから止めてしまえ」というもので、そう安易にそんな事を言ってもいいものだろうか。
この事故をテレビの映像で見た普通の国民感情としては、そういう思いに至るのも無理ない面があるが、無知蒙昧な一般大衆がそういうのならば致し方に面もある。
ところが、専門家までは大衆に迎合して、大衆と同じレベルの発想でいて良いものだろうか。
あの事故をテレビの映像で追認する限り、最初の地震で原子炉の燃料棒はきちんと制御されて作動は止まった。
しかし、原子炉というのは、その後も炉を冷やす為に注水をしなければならなかったが、この為のポンプが地震と津波の影響で機能不全に陥り、結果として冷却が出来ずメルトダウンにいったという事だ。
ここで世論の批判は、「地震対策、津波対策、その他の緊急措置が不備なのは何事か」、という批判に変わったのだが、これは先に述べた旅客機のfail sefeの問題に置き替えて考えてみると、3系統の安全対策に対して、何故最後の第4のセフティーネッを用意しなかったかという問題につき当たる。
ただ、この場合でも、東京電力の事故後の対応の不味さというのは問われるべきで、それはあくまでも企業内の問題であって、今後の日本のエネルギーの問題とは次元の異なる話である。
先の旅客機の話で、3系統の安全策が講じられていても、落ちる時には落ちるわけで、だからと言って第4、第5の安全策を講じるとなると、もう旅客機そのものが成り立たなくなって、そういうものは出来ない、造っても意味がないということになる。
この本の著者は、原子力発電に関してもそういう状態になるように願っているわけで、原子力発電というものがコスト倒れに陥って、立ち行かなくなることを願っているのである。
その事は、結果として脱原発になるのだから、そうなればもう原発事故は無くなるのだから世の中はバラ色になるという論法である。
こういう発想は科学の敗北思想だと思う。
地震学は今回の地震が予知できなかったことで、相当のジレンマに陥って苦悶しているが、私に言わしめれば、地震、雷、火事、親父というものは、人類の英知で以てしてもコントロールし切れるものではないと思っている。
この地球上には、人間の知恵でコントロール不可能なものもあると思う。
先の飛行機の話ではないが、3系統のセフティ―ネットが用意されていても落ちる時は落ちるわけで、こうなればもうそれは人知の及ぶところではなく、天命と言わなければならないが、21世紀に生きる文明人は、この運命とか、天命とか、人知の及ばない出来事を認めようとせず、誰かに責任を負わせようとする。
誰かと言っても個人の責にという訳にもいかない場合は、企業なり政府なりにその責任を押し付けて、そこから金を引き出そうとするのである。
不慮の死を金蔓に摺り変えようとするのが、今の我々同胞の錬金術になっているわけで、実に由々しき問題であるが、それが災害や天災の被害者の権利と思われている。
原子力発電に関していえば、それは作る前から地元住民の金蔓になっているわけで、「住民の理解を得る」という目的で交付金がばらまかれ、住民の理解という部分で、反対者の数が多ければ多いほど、交付金の額は上がるということになる。
当然、事故が起きて被害が周辺住民に振りかかれば、その補償は立派な金蔓になることは請け合いである。
飛行機事故で大勢の犠牲者が出た、原発の事故で大勢の被害者が出た、こういう人達を何とか救済しなければいけないということで、被害者団体が結成され、それが裁判闘争に持ち込むと、裁判官の裁定は大方被害者に有利、端的に言えば「金を払え」という判決になる。
人情として、事故の被害者は気の毒だからそういう人達に同情する裁定が、人情味の有る裁判官の裁定ということになるのであろうが、別の視点に立つと、裁判が人情や感情で左右されたということにもつながるが、世間ではこういう傾向を多分容認すると思う。
犠牲者に対して「欲張りすぎる!守銭奴!」という批判は言い難いわけで、沈黙せざるを得ず、それがそのまま通るということになる。
今回の原発事故のような場合、到底、東京電力の資金だけではその補償額を賄えきれないと思うので、国家が肩代わりすることが考えられる。
という事は税金が投入されるということになり、同時に電気料金のアップにもつながり、全体として物価のアップにもなるに違いない。
これは3・11東日本大震災に関連して起きた原子力発電所の事故の補償によって引き起こされたわけだが、この災害に対してより良い補償をしようとするからこういうことになるのである。
私はこの大災害においても何なら被害をこうむっていないので極めて無責任なことを言うようだが、こういう自然災害に対して国家は被災者に対してどこまで支援すべきか、ということに大きな疑問を持っている。
日本人が日本という国土に住み続けている限り、災害に逢うリスクは皆均等に持っているわけで、昨年は東北地方が見舞われたが、その17年前は阪神地方が襲われた。
地震はあくまでも天災であって、誰かが意図的に起こしたものではない。
「地震で家がつぶれたから補償してくれ」という言い分には整合性があるかどうか甚だ疑問に思う。
地震が来て家がつぶれた人もつぶれなかった人もいるわけで、つぶれなかった人は事前に耐震補強していたからっぶれなかったとしたらこの問題をどういう風に考えたらいいのであろう。
国、自治体、行政システムが被災者を支援してフォローすることを咎めるわけではないが、被災者が「災害に逢ったのだから金寄こせ」ということになるといささか考えさせられる。
今回の災害で、こういう事例が既に出たかどうかは知らないが、過去の集中豪雨の被害者などは「行政の防災対策が悪かったのだから金寄こせ」という事例が各地にある。
災害を天命と捉えず、人災として摺り変えない事には、金を引き出すには根拠が弱いわけで、そのためには誰かの過失ということにしない事には、それが成り立たず「責任者は誰だ」という論法になる。
しかし、災害はやはり災害だと思う。
大昔に津波の痕跡があったのだから、それまで考慮に入れて対策を講じるべきだった、というのはあくまでも事後の後知恵であって、それを言い立てることはある意味で無責任に通じると思う。
やはり、この世の出来事には人知の及ばないことも有りうるので、その時は天命とあきらめる他ないが、これでは金をひねり出す根拠にならないので、どうしても悪人が必要になる。
誰かを悪人に仕立てて、その悪人がいたからこういう大惨事が起きた、だから金を出せ、無ければ国家が建て替えよという論理に繋がるのである。


「松井石根と南京事件の真実」

2012-01-19 13:28:52 | Weblog
何時もならば「例によって図書館で……」という書き出しになるところであるが、今回は久々に自分の金で買った本である。
いちいちこういうことを断れなければならない私の立場も実にさもしいものだ。
昨年の暮れあたりであっただろうか、家内のアッシーとして近くのスーパーに行って、その時本屋を覗いて衝動的に買ってしまったものだ。
「松井石根と南京事件の真実」という本で、この松井石根という人は、南京事件に絡んで東京裁判で有罪となり、絞首刑に処せられた人である。
そもそも、この南京事件というのが根も葉もない虚構の事件であったが、それが中国側の主張を全面的に採用することによって、有った事となってしまって、その責任者というわけで詰め腹を切らされたのが松井石根という人だという論拠である。
日中戦争の過程の中で、日本軍の南京占領という事実は免れようのない歴史的事実である。
日本軍が南京を占領した事が、同時に大虐殺を行ったという論理に飛躍するところが、歴史の歪曲であるが、この歪曲されて伝えられたことが真実として世界に広がった所に大きな問題があるのである。
この本の著者早坂隆という人も、私同様に南京事件の真実性に大いに疑問を持っていて、松井石根氏を弁護する論調で解き明かそうとしている。
氏の中国人に対する熱情をフォローする視点からこの本を記述しており、氏の中国に対する熱烈な思いが相手にいささかも伝わらなかった事を憂いている。
ところが、そもそもこの部分が中国に対する認識が甘かったように私には思える。
彼は若い時から中国通として認められ、中国に対して大いなる理解者というポーズを貫いて来たと語られているが、この彼の思い込みそのものが既に間違っていたのではなかろうか。
日本と中国という対比でみれば、確かに我々の文明の元は大陸にあったわけで、中国人が師で、我々は教わる立場であった事は間違いなく、その事実は双方で共通認識になっていて、日本の文化においては中国人、つまり漢民族が先生で我々日本人は子弟という立場に甘んじていた。
ところがここで我々の側が明治維新を経験すると、この立場は逆転してしまったが、彼らはこの逆転をなかなか受け入れられず、価値観の変化を受忍できなかった。
日清戦争で敗北しても、日露戦争で日本の実力を目の当たりにしても、彼らの意識の中ではそれを追認出来ず、彼らは彼らの中華思想の視点しでしか日本人というものを見れなかったということだ。
彼ら漢民族には、有史以来、中華思想というものが潜在意識として刷り込まれているわけで、彼らの周辺に起居する異民族は、全て『夷狄』という存在であって、彼らの認識からすれば漢民族よりも一段と下がった野蛮人という認識に過ぎない。
その意味で、我々日本人も、彼らの感覚からすれば東夷、すなわち「倭の野蛮人」でしかないわけで、対等の人間と見做していないということだ。
昭和の初期の時代に中国と関わった日本人の大部分は軍人であったので、この松井石根氏をはじめとして石原莞爾でも、その他の陸軍の高級将校でも、全て日本人の基準からして学術優秀、頭脳明晰な秀才ばかりであったが、他方中国の軍閥の頭目というような人は、山賊や夜盗の親分のような人も大勢いたわけで、中国の地そのものが混沌としていたことは否定のしようもない筈である。
そういう混沌とした中に、理論整然と筋道の立った話を持って行っても、それがそのまま通るとは限らないわけで、学校秀才と経験で得た知恵の実践者としての中国の要人との話し合いは、所詮キツネとタヌキの化かし合なわけで、知性や理性とは別の次元の葛藤になると思う。
大陸に住む人々、中国人やロシア人は異民族との接触の中で今まで歴史を築いて来たので、異民族との折り合いの付け方が我々とは比べものにならないぐらい狡猾である。
ところが、こういう生存のためにテクニックを我々は「卑怯だ」とか、「誇りも名誉も重んじない」とか、「中華思想だ」というような言辞で蔑み、一歩見下した思いで眺めていたが、これは彼らが広大な土地で異民族と共存する方法でもあったわけで、我々は島国の住人であるが故に、その事に全く無頓着でいたわけだ。
松井石根が自分では一生懸命「中国人の為に」と思い描いても、その思いは中国人にはいささかなりとも届いていなかった。
これを一言でいえば、彼は自分では一生懸命中国人を理解しているつもりでいったが、結果的に言えば、何にも判っていなかったという事だ。
自分の思いが、ただ空回りしていただけのことで、中国人については何一つ理解し切れていなかったということである。
私の世代の若い頃には「チャンコロ」という中国人に対する蔑称があって、これは日本の低レベルの大衆が好んで使った言葉であって、松井石根は彼の部下にこの言葉を使わないように言いつけたといわれている。
彼としては、中国人を自分と同等の位置において物事を考えたかったに違いないが、中国人の行動は、どこからどう見ても、我々の認識でいう「チャンコロ」という言葉にふさわしいように思えてならない。
それは完全に価値観の相異であって、恥と名誉を重んずる我々は、とても中国人と同じ行動はとれない。
辛亥革命の前まで、中国の地は西洋列強に蚕食されて、中国の都市には租界があって、その中には中国の主権が及んでいなかったが、事ほど左様に彼らは西洋列強に蔑まれていたにもかかわらず、日本が中国の地に足を掛けると、ちゃっかり西洋列強の側に身を置いて、連合国の一員に収まっていた。
ここで私なりの推測を言うと、中国、中華民国、蒋介石の国民党政府が、連合国側に机を並べた事実は、蒋介石の手腕と言うよりも、西洋列強、連合国側の戦略として、彼らが日本を包囲するために中国を引き込んだのかもしれない。
つまり、日本を中国戦線に張り付けておけば、日本としては2正面戦争は不可能だろう、という読みがあったのかもしれない。
その事のもう一枚奥の思考を掘り下げると、連合国、つまりイギリス、アメリカにとって日本が中国で戦争をしている限り、対日戦の整合性があるわけで、その意味からしても西洋列強にとって日本の台頭が恐ろしかったので、日本が真珠湾攻撃をするまえから、蒋介石を援助するための実質的な行動をしていたということに繋がる。
アメリカ、イギリスが日本の宣戦布告の前からシナ、蒋介石を支援していたということは、明らかに戦争行為に他ならないが、松井石根はこの点をどう考えていたのであろう。
我々の言う「チャンコロ」という言葉は、案外中国人の本質をストレートに内包した言葉なのかもしれない。
あの戦争を考えてみると、日本の本土に住んでいた同胞は、アメリカの無差別殺戮である空襲によって虐殺され、国土は恢塵と化し、文字通り焼け野原となったが、中国の地で戦っていた同胞は、本当に敗北したのであろうか。
あの東京裁判、極東国際軍事法廷は、勝者が敗者を裁いた見せしめの意味を込めた裁判であることは論をまたないが、戦争の勝敗が決したあのタイミングではいた仕方ない処置ではあろう。
アメリカも、イギリスも、オランダも、中国も、自分の国民に対して勝ったことの実績を示さねば、血を流した国民に対して申し訳が立たないので、勝利の証を何か掲示しなければならなかったことは察して余りある。
東京裁判が、勝者の一方的な裁量で、真実が歪められたまま、それが歴史的に定着した認識となったとすれば、これは由々しき問題と言わなければならない。
日本軍が日中戦争のさなか、昭和12年の南京の攻防戦で、30万人も無意味な殺傷を行った、ということが歴史的事実として認識されたとしてら、実に由々しい問題だと思う。
この裁判の行われた時期は敗戦の直後で、被告人に対する弁護も有るには有ったが、裁判の目的そのものが懲罰にあったわけで、被告人を利する証言は全部却下されてしまって、被告人の弁護は封殺されたままの裁判であった。
当然、本来の意味の公平さに欠けていたわけで、近代国家の公明正大な理知的な裁判ではないことは言うまでもない。
しかし、負けた側の我々からすれば、判決が不穏当であっても、それはそれなりに致し方ない。
だから、戦争には勝たねばならないわけで、戦争に負けるということはこういうことである。
だが、この裁判が歴史の真実を暴いたと思われると、大きな錯誤が潜むことになるわけで、間違ったことが真実として後世に伝えられることになリ、現にそうなっているではないか。
これは当事者にとってもっとも由々しき問題で、そんな事は何が何でも是正しておかねばならない。
この本は、松井石根が南京攻略の時の司令官だった事を認めたうえで、彼はそういう事態を極力避けるべく努力した事を縷々述べているが、それと真逆の事が歴史的事実として中国では宣伝され、それが真実として流布されていることは実に由々しき事態だと思う。
これはある意味で中国人の常とう手段で、嘘も百篇つき通せば真実になってしまうという事だ。
我々日本人ならばそういう破廉恥な振る舞いは自分の名誉に掛けて出来ず、嘘など最初からつけないが、我々ならば恥ずかしくてできない嘘を、百篇も繰り返すセンスが中国人なのである。
我々が中国人を「チャンコロ」と蔑称する理由は、我々なら恥ずかしくて我慢ならない事でも、彼らは平気で百篇も繰り返す心臓の強さというか、破廉恥な振る舞いと言うか、そういう価値観の相異が、そう言わしめていると思う。
松井石根はこの部分を理解し切れずに、中国人も、彼・松井と同じ思考をする人間と思い違いしていたのではないかと思う。
これは秀才によくありがちな思い込みではないかと思う。
日常の生活感覚から遊離した、秀才独特の発想であって、自分が秀才であることを忘れて、相手も自分と同じ思考、同じ考え方をするものと決め込んで、平等に話し合おうとするが、相手は極めて老獪にこちらの裏をかくのである。
松井石根の南京大虐殺が全くの嘘であって、誰かのフレームアップだといくら理論整然と証拠を並べて説明しても、聞く耳を持たない相手には「暖簾に腕押し」、「馬の耳に念仏」、「馬耳東風」でしかないわけで、一度確立した風評被害は、中国人の場合決して消し去ることはできない。
彼ら中国人の立場から日本人を眺めた場合、彼らには当然のこと中華思想がDNAの中に刷り込まれているわけで、それを消去してから対等に話し合うということはあり得ない。
ならば我々は、その現実を真摯に受け入れて、彼らのDNAを真正面から受けて立たねばならない筈だ。
ということは、彼らはどこまで行っても「チャンコロだ」という意識を捨ててはならない、と言うことに尽きる。
松井石根は、この部分であまりにも人が良すぎて、彼らを自分と同じ立場において話し合おうとしていたので結果として裏切られたのだと思う。
「チャンコロ」だからと言って、目の前で公然と相手を侮蔑したとすれば、それをする人の品格の問題なわけで、人と人が付き合おうという時に、そんな事が通ると思う方が阿呆なわけで、それは問題外である。
「面従腹背」という言葉があるが、組織に属している人は大なり小なり、この心得がない事には組織の中で生き残れないわけで、松井石根は自分自身頭が良かった故に、相手も自分と同じように思慮分別が有ると思ったが、相手は見事に面従腹背を貫いたということである。
我々の戦争の仕方を見ると、余りにも生一本なところが有りすぎる。
我々にとって戦う職業は武士という概念が抜け切れていない。
日本の歴史の中で、武力闘争を職業としていた階層は武士階級であったが、武士階級というのは、人々を統率するという矜持も持ち合わせていて、武士の名誉と秩序をことの他大事にした。
ところが、昭和の軍人もそういう武士の本懐を理想とはしていたが、根が水飲み百姓なものだから、煩悩には逆らえなかった。
そういう高級将校が、武士の矜持を示そうとしても、上滑りするのみで、世界の軍人から「日本の兵卒は優秀だが高級将校はバカだ」という評価を受けたのである。
ところが世界の常識では、高級将校は貴族の出身者が多く、兵卒はどこの馬の骨か判らない無頼漢、よた者、浮浪者なわけで、既存の社会では嫌われ者の集合であった。
日本軍が南京を攻略していた時、そこを守備していたのは蒋介石の隷下の唐生智であって、彼は部下に何の指示も与えず逃走してしまったので、中国軍は無統制、無秩序になってしまった。
蒋介石、唐生智の隷下の将兵も基本的には無頼の集合であったので、こういう事態を招いたのであるが、それに輪を掛けて、敗退する兵を戦わせるべく督戦隊と称する中国人が、中国人の同胞を後ろから撃ったわけで、自分達で殺し合いを演じたのである。
そういう自分達で殺し合いをするところが中国人の中国人足る所で、その結果を全て日本軍の所為に転嫁するところも、まさしく中国人の中国人足る所以である。
国際社会に、そういう事実を平気で歪曲して、虚偽の宣伝する所も、まさしく中国人の中国人足る所以である。
松井石根は、こういう中国人の本質を見抜けなかったわけで、こういうしたたかさがあったから中国人は有史以来連綿と生きてこれたのである。
南京の町を日本が攻撃した時、そこには外国人租界があったが、それが自由都市、安全地帯として機能していたということは、その部分だけ中国人の土地ではない、別の言い方をすれば西洋列強に支配されていたということであるが、そういう現実でありながら彼らの怒りは日本にだけ向かうというのは明らかに思惟的な行為と考えなければならない。
なおかつ、この時代には既に毛沢東の共産主義は相当に潜航していたので、彼らは正規の軍服というものを着ておらず、まさしく便衣隊そのもので、一般市民との見分けは成り立たないので、彼らの仕業を全部日本軍の所為に転嫁することは安易なことであったに違いない。
問題は、日本軍が南京を占領した時、「無辜の市民を虐殺した」という嘘を世間、世界、東京裁判であたかも真実かのように認知させたPRの上手さである。
論理的に検証すれば決して実証されないことでも、頑なに言い続けて、それを真実として認めさせてしまうこの狡猾さというのが中国人の中国人たる所以である。
これを改めさせるには、理性と知性で理論武装したとしても、言論では成しえないわけで、突き詰めていえば、もう一度戦火を交え、血で血を洗う生の殺し合いでなければ相手は自分達の過ちを認めないにちがいない。
当然のこと、戦後も66年を経過した我々の側にはそういう勇気も覇気もないわけで、嘘の事実が嘘のまま定着するということになっている。
中国は、我々の国から見て一衣帯水の隣国であるが、この地は有史以来、一極集中的な中央集権国家を目指しているが、この発想が我々にはどうにも納得のいかない部分である。
我々の側にも、中国を統一しなければ、させなければ、という機運が強かったと述べられているが、これは彼らの側からすれば、日本が自分の国益のための方便だ、と取られるのが当たり前の事だと思う。
彼らの立場からすれば、「俺たちことはほっといてくれ」という言い分になるのが自然の流れであって、日本人がいくら中国の統一を叫んでも、それは偽善でしかない。
松井石根をはじめとする親中派の日本の軍人がいくら中国の為と言った見たところで、彼らの視点から見れば、日本の利益を優先的に考えているとしか見えないわけで、心から信用出来ないでいるのは無理からぬことだと思う。
むしろそういう人達は、中国が西洋列強から蚕食されていながら、その西洋列強から支援を引き出し、イギリス、フランスの援蒋ルート、ドイツの上海地域の防御陣地の構築、アメリカのフライング・タイガーによる支援、等々こういう動きに注意を払うべきであって、その事に冷徹な分析をすべきであった。
この事実、西洋列強は中国を食い物にしながら、対日戦ではその中国と手を組み、対日戦が終われば再びお互いに対峙する関係になったわけで、この現実を今大きな視点で敷衍すれば、世界は寄ってたかって日本を袋叩きにしたということだ。
この昭和の初期の時代、日本が日露戦争で西洋列強を下した時から、世界は日本叩きに邁進したわけで、その事を別の言い方をすれば、世界中が日本の存在を真から恐れたということである。
だから日本を叩くためならば、呉越同舟、既存の価値観を超越して離合集散して結束を固めたのである。
そういう状況下で、日本という小さな国から大アジア主義、「日本と中国は一つになってアジアから西洋人を追い出せ」と言ってみたところで、それを聞く側の人達からすれば、日本の独善的な独りよがりな思考としか見えないのも無理からぬことだと思う。
彼らとしては、「都合のいいところだけ日本がつまみ食いするに違いない」と思のも無理ない話だと思う。
今、歴史の教訓として考えねばならないことは、こういう発想、つまり大アジア主義・「日本と中国は協力してアジアから西洋人を追い出す」という思考が、日本の学校秀才の思考であったという点を深く掘り下げて考えなければならない。
日本の学校秀才の考えることは、中国の人々には通じないという事が、陸軍士官学校や海軍兵学校の秀才には理解し切れないという点である。
当たり前といえば至極当たり前のことである。
日本の高級将校、高級軍人は、須らく立派な学校を卒業して、立派な地位についているが、相手の中国人の社会の構成員は、学識経験豊富な知性的な人々で出来ているわけではく、山賊や、軍閥や、夜盗の頭目がなっているわけで、論理的で理性的な話が通じるわけがない。
東大法学部を出た高級官僚が町のヤクザと話を付けるようなもので、その場は一応収まっているかもしれないが、その約束がそのまま続くとは思えない。
高級官僚は、それにふさわしい論理と秩序の中で生きているが、町のヤクザ、暴力団の世界には彼らの固有の文化が有るわけで、彼らは彼らの文化の価値観の中で生きているわけで、この両極端の世界が真から混じり合うことはあり得ない。
松井石根の唱える大アジア主義というのは、この両者を混じり合せて、お互いの価値観の障壁の壁を限りなく低くして、相互に信頼出来る世界を目指すという発想であるが、相手からすれば「いらんお節介だ」という論理である。
彼らの深層心理からすれば「倭国の分際で兄貴面するな」という認識になっていたものと推察する。
だからこそ、西洋列強に侮辱されながらも、それと上手にタッグマッチを組み、日本だけには服従したくない、という明快な意思表示であったという事だ。
あの第2次世界大戦を眺めた時、それはヨーロッパから始まったが、ヨーロパ戦線はある意味でお互いに理解しあえる部分があって、国益の拡張のせめぎ合いという認識が普遍化していたと思う。
ところがこの戦争に日本が加わるということは、世界的な日本パッシングに発展したという事だと思う。
あの時代の世界にとって、日本の存在というのは計り知れない恐怖に映っていたに違いない。
それが証拠に、対日戦のためには西洋列強はいままでさんざん食い物にしてきた中国を味方に引き込んで、日本攻略の足掛かりにしたではないか。
地球儀で眺めれば如何にも小さな国の日本に、世界中が寄ってたかって攻め込んできたわけだ。
アメリカはその後も世界各地で戦争を繰り返しているが、対日戦ほど真剣に取り組んだ戦争は他にないのではなかろうか。
朝鮮戦争も、ベトナム戦争も、湾岸戦争も、対日戦に比べれば、その真剣さには雲泥の差があるのではなかろうか。
あの時代において、世界中が日本の存在に恐れを抱いていたとなれば、東京裁判、極東国際軍事法廷が正義の名で行われたのではなく、怨恨で行われたのもむべなるかなであるが、それをそのまま真に受ける我々は、世界から哄笑されているのではなかろうか。
世界から恐れられる日本よりも、哄笑される日本の方が遥かに平和的ではある。