例によって図書館から借りてきた本で「昭和史裁判」という本を読んだ。
この本、不思議な本で、半藤一利と加藤陽子の対談というか、ディベートのかたちになっていて、この両名が広田弘毅、近衛文麿、松岡洋右、木戸幸一、昭和天皇を告発し、半藤一利が検察側、加藤陽子が弁護側という対立軸でディベートするという体栽になっていた。
この両名の言い分によると、昭和史を彩る人々の大部分が軍人になってしまって、文官、文民の立場は添え物のよう扱いでしかないので、今回はそういう政治家とか外交官という文民を俎上に乗せるということで、こういう人選になったということだ。
そもそも昭和の初期の時代というのは実に妙な時期だったと思う。
軍人が政治家になる、或いは軍人が政治を取り仕切る、ということは世界的にもたびたびあることで、そのこと自体はそう忌避すべき事ではないかもしれない。
イギリスのチャーチルも、フランスのドゴールも、アメリカのアイゼンハゥワーもケネデイーも、政治家になる前は軍人であったわけで、それほど奇異なものではない。
世界的な外交の場面ではむしろ戦争の本質を知らない文民よりも、戦争の実態を知りつくした軍人の方が外交交渉には有利であったかもしれない。
ところが我が国の場合は軍人の政治家がそういう風には機能しなかったようで、結果的に彼らは我々の同胞を奈落の底に突き落とす方向に機能した。
その状況おいて、ならば文民の政治家乃至は外交官は、そういう軍人政治家に対して如何なる手法で対抗し得たかと問えば、やはり明確な答えはあり得ない。
この本の著者のような歴史の研究者は、歴史の流れを個人の業績から勘案して、誰それがこう動いたので誰それがこう反応して、こういう結果を生じたという論理で推し進めるが、私の推察では、歴史というのはそういう個人の実績の積み重ねではないような気がしてならない。
例えば、昭和8年の松岡洋右の国際連盟脱退ということでも、本人も冷静に考えたら「早まったことをしたかな!」と自分自身反省をしているにもかかわらず、日本国民の大部分は大歓迎しているわけで、この我々同胞の庶民の熱情が、結局中国からの撤退を拒否する心情に結びついていたことを表している。
私自身も戦後教育で育った世代の一人であるが、戦後の我々の認識では、先の戦争の敗北の全責任が軍部、軍人の所為とされているが、これは極めて短絡的な左翼的な思考のなせるわざでもある。
私に言わしめれば、これら軍部、或いは軍人の後ろには、日本の民衆、大衆、庶民の精神的なフォローが歴然と存在していたと考えなければならない。
与謝野晶子の「君死にたもう事なかれ」という歌は、日露戦争に従軍する弟の為に歌われたと聞いているが、これが庶民の声なき声であったことは紛れもない事実だと思う。
問題とすべきは、こういう声なき声ではなく、大衆、民衆、庶民の大歓声、アジテーションに応える大きな歓喜の声の方である。
松岡洋右が国際連盟を脱退して、いきようようと日本に帰って来た時の、我々の同胞の歓迎ぶりである。
当然、松岡洋右は理由もなく国際連盟を脱退したわけではなく、その前段階には日本がしかけた柳条湖事件を始めとする満州国建国の問題が大きくからんでいたわけで、当時の国際社会は、この時の我々の行動を糾弾した結果として、この事態に至ったのである。
だが、私たちがよくよく考えなければならないと思うことは、この一連の我が方の軍、陸軍の行動を、我々の同胞は皆容認していたということである。
戦後の言い方でいえば、侵略行為を日本の国益の為の必要不可欠の行為と認識していたということで、我々の皇軍が間違ったことをする筈がないという自意識である。
別の言い方をすれば、日本陸軍、軍部の行動を日本全国民がフォローし、容認し、バックアップしていたということだが、歴史というものはこういう大衆の深層心理には脚光を当ようとせず、著名な個人の業績に摺り変えてしまう。
民主政治ということは、大衆の望むことを具現化する政治と言えるが、戦前・戦中の日本の政治は、そういう意味で、日本の庶民の願い、望み、希望、願望を具現化すべく機能していたことになる。
惜しむらくは、そういう期待を背負った軍人・軍部が、戦争の本質を知らないまま官僚主義に埋没して、現代の総力戦というものに対して全く無知のまま、国民の期待を裏切り続けたところに我々の不幸があったわけだ。
日中戦争で、日本が中国の都市を陥落させるたび起きた戦勝祈願の提灯行列をみて、我々の同胞は如何に好戦的であったか、という悟りに気がつかねばならない。
こういう国民の雰囲気を、煽りに煽ったのが言うまでもなくメデイアとしての新聞であったわけで、新聞が世論形成の大きなツールであったことは論をまたない。
ところが、新聞は新聞で生きて行かねばならないので、生きんが為に自らの信念を売ってでも、生き抜かねばならなかった、とは言える。
狼少年のように「オオカミが来る、オオカミが来る」と叫び続けなければらなかったし、「あっちの水は苦いぞ、こっちの水は甘いぞ」と嘘もつかねばならなったに違いない。
我々、庶民として「如何に生きるか」と自問自答した時、やはりメデイアとしての報道を全く無視するわけにもいかないと思う。
自分の迷いから抜け出す時、あるいは自分の悩みを自己裁定するとき、何らかの拠り所としてメデイアの情報に頼りたくなるわけで、こういう思考をする人は生来真面目な人だと思う。
真面目だからこそ大勢の人の言うことを順守して、その人達の望み叶える方向に努力しなければならない、という発想に至るものと推察する。
戦前・戦中に生きた知識人に「何故その時に声を上げなかったか?」と詰問すると、当然のこと「当時は治安維持法があって言いたいことが言えなかった」という答えが帰って来る。
全くその通りで、治安維持法があって、不用意なことを言えばすぐに特高警察が跳んでくる事は嘘でもなく事実そのものであろう。
戦前・戦中の知識人が一遍の法律、治安維持法をこれほど頑なに順守するということは、如何にも生真面目で、純朴で、素朴すぎる思考ではなかろうか。
私はこの知識人の言葉は信用ならないと思う。
彼は嘘を言っているわけで、言うべき事を言うべき時と場所で言う勇気がなかったということで、治安維持法の存在はその言い訳に過ぎず、本当は勇気がなかっただけのことだと思う。
今、車を運転する人で、道路交通法に違反していない人は一人もいないと思うが、一遍の法律があったから「言いたいことがあっても法律違反になるから言わなかった」などということが信じられるわけがないではないか。
昭和の初期という時空間において、日本の政治が混迷したのは紛れもない事実であろうが、ならば混迷しない政治などというものが果たしてありうるであろうか。
今でも政治は混迷していて、民主党政権になっても首相は既に3人も交代しているが、政治というのは混迷すのが常態なのではなかろうか。
我々は歴史の教訓として、「何故負けるような戦争をしでかしたのか」という点の究明に尽きると思う。
海軍兵学校でも、陸軍士官学校でも、東京帝国大学でも、並み以上に優れた人士が進学し卒業しているのに、何故負けるような戦争指導をしたのかという点である。
こういう人達の中には、アメリカと戦端を開いても勝ち目はない、ということがわかっていながら、ずるずると嵌り込んで行った節があるが、その基底には国民大衆の希望的観測をへし折る勇気がなかったということもあるのではなかろうか。
それにしても海戦のプロフェショナルの海軍の将兵が、ロジスティクの意義を最後まで理解していなかったという点はどう理解したらいのであろう。
ノモンハン事件から何一教訓を得ていないインパール作戦の無意味さ、こういう過誤を我々はどう考えたらいいのであろう。
負けるような戦争指導する軍人に何の価値があるのか、と言いたいが、我々の同胞はどこまでお人好しなのであろう。
戦争の敗北の責任を戦勝国が断じたことによって禊、或いは責任追及、はたまた国民の受けた仕打ちに対する報復を全て御破算する思考というのは明らかに能天気な発想だと思う。
先に、松岡洋右の国際連盟脱退を国民はこぞって大歓迎したと述べたが、それにはメデイアの提灯記事が大きく物をいったことは言うまでもないが、それと同じことが今でも起きている。
言うまでもなく昨年の3・11東日本大震災で、東京電力の福島原子力発電所の事故は甚大な被害をもたらしたことはまことに不幸なことである。
これを機に日本の原子力発電は全て否定的にとられるようになって、定期点検の後の再稼働が危ぶまれているが、こういう雰囲気を助長したのは言うまでもなくメデイアであって、メデイアに煽られると我々同胞の思考は意図も安易に逆転してしまう。
オイルショックの時はオイルの高騰にたまりかねて原子力発電に縋らざるを得なかったのに、一度事故が起きると、一斉に反対向きになるという節操のなさをどう考えたらいいのであろう。
被害に遭われて今も避難生活をされている方々には気の毒だけれども、だからと言って一度事故が起きたから原子力発電を今すぐに止めてしまう、というのはあまりにも世間受けを狙ったスタンドプレーなのではなかろうか。
普通に、冷静に、沈着に考えれば、ニ度と同じ事故を繰り返さないようにこれを教訓として再挑戦を計ろうという発想になるべきではなかろうか。
「事故が起きたから止めた!」では子供の発想ではないか。
原子力発電所が事故を起こして、放射能が周辺地域に飛び散って甚大な被害が出たことに対する告発は、避けて通れない課題であろうが、だからと言って「今ある原発を全部直ちに止めよ」という発想は、「正義の騎士」というニュアンスで捉えがちであって、如何にも安直な対処療法で、子供でも思いつく発想である。
そこを克服してこそ人類の英知であって、その為には生き残った人間は何を成すべか、と問うのがメデイアでなければならないが、「原発は危険だから止めましょう」では子供の使いでしかないではないか。
「もうこれ以上原発はいらない」という言い方も随分と驕った思考でしかないと思う。
自分さえ良ければ後のことは知らない、と言っているに等しいではないか。
メデイアの本質は、誰でも彼でも判り切ったことに金切り声をあげて大騒ぎして世論形成することではなく、今は隠れて人の目に触れていない事を掘り起こして、未来に生きる人間に資産として残すべき事に投資を促す事だと思う。
戦前の我々の同胞の中にも、「中国への侵攻は早期に止めて、アメリカとの開戦を避けるべきだ」、と将来を確実に見越した人もいたわけだが、世間というか世論というか、大衆レベルの人々は、全てそういう意見を封鎖してしまったではないか。
日中戦争、徐州徐州と人馬が行く時に、これを改めさせるにはどういう手法がありえたのであろう。
柳条湖事件からあれよあれよと言っているうちに満州国を作ってしまう行為に、どういう対処の仕方あったのであろう。
具体的な軍事行動の実践は、言うまでもなく皇軍、陸軍、関東軍の無節操で独善的な行為であったが、天皇陛下に嘘を言ってまで、こういう行動に走った連中を如何様に静止し得たのであろう。
こういう陸軍の行動をヨイショしたのが言うまでもなくメデイア・新聞であったわけで、此処まで来るともう誰それが悪い、誰それに責任がある、などということは言えなくなってしまって、混沌あるのみという他ない。
その意味では、昨年の3・11大震災の原発事故の収拾においても、責任の所在は誰にあるのかさっぱりわからない。
部外者が安易に関係者を非難することは簡単だが、関係者も悪意があってわざと処置を遺漏したわけでもないとなれば、全てが運命、天命、とそういう方向に持って行かざるを得ない。
先に治安維持法があってものが言えなかったと述べたが、この背景をもう一枚掘り下げて考えてみると、モノを言う人の周りにいる知人、友人、親族、同僚、こういう人達が真面目に法、つまり治安維持法に忠実たらんとして密告する恐れがあるので、モノが言えなかったということを考えねばならない。
庶民は国家の言うことに極めて忠実に従うので、この真面目さが結局周り廻って自分自身を奈落の底にまで突き落とすことになったのである。
学徒動員でも、学童疎開でも、勤労奉仕でも、防空演習でも、こういう行事というか、催事に従わないと仲間内で制裁しあっていたわけで、「こんなことをしているようでは戦争に勝てない」などという正論は仲間内で抑え込んでいたではないか。
1万メートルの上空を飛んでくるB―29にハタキとバケツで立ち向かう馬鹿らしさを、庶民の側から言い立てない生真面目さをどう考えたらいいのであろう。
つい数年前まで「勝った勝った」と提灯行列をしていたおなじ庶民、国民、大衆が、B―29にハタキとバケツで立ち向かおうとする生真面目さをどう考えたらいいんであろう。
ここで言う生真面目さというのは、こういう事態に至ってもクーデターも、革命も、暴動も起こさない真面目さという意味である。
挙句の果てに、焼け野原の東京を目の当たりにしながら、尚且つ徹底抗戦を唱える将兵の存在を考えると、戦争プロフェッショナルにあるまじきバカとしか言いようがないではないか。
このバカさ加減が、戦争を始める前から我々の民族の上にスモッグのように覆い被さっていたのではなかろうか。
真珠湾攻撃をして、軍艦だけを沈めてドックも燃料タンクもそのままで引き返してきた愚、ミッドウエイで自分の頭の上を無防備のままで爆弾を付け替える愚、ノモンハンで凝りていながらインパールを攻めようとした愚、これらは子供の戦争ごっこではないわけで、戦争のプロフェッショナルが犯したこれらの愚の数々をどう説明できるのであろう。
こういう軍人の犯した愚昧な行動に対して、戦後に生き残った我々の同胞は、戦争責任を一切問わない愚は何と言ったらいいのであろう。
あの戦争を主導したのは、我々同胞の中でも優秀と言われた海軍兵学校や陸軍士官学校のOBが行った行為だから、我々はそういう人達に責任を負わせるに躊躇したということであろうか。
戦勝国が行った裁きは、敗戦国として免れようもないが、我々が自分達で自分達の戦争指導者を裁くことに何故に躊躇したのであろう。
あの戦争による同胞の被害者の数は300万人とも言われているが、それだけの犠牲者を出しておきながら、同胞の中から責任を負ったものが一人も出ないというのはおかしなことではないのか。
戦勝国は彼らの論理で、彼らの立場で、彼らの憎むべき人材を勝手に処刑したが、それと我々が同胞の戦争指導者から受けた仕打ちは全く異質のもので、その清算は全く行われないまま今日に来ている。
松岡洋右の国際連盟脱退を熱烈歓迎し、シナ事変での凱旋の度ごとに行われた提灯行列の熱情も、このころは全て恢塵と化していたわけで、この裏切られたという感情は、戦後の我々は持ち合わせていなかったと言うことだろうか。
そんな事は決してない筈で、戦後の我々の同胞は、戦争指導者を相当に恨んでいたに違いないと思うが、責任追及ということになると、非常に寛容になってしまうということは一体どういうことなのであろう。
これは戦後の教育を受けた私の推測だが、戦前・戦中の国民は、彼ら自身が戦争遂行に大いに協力したわけで、勤労動員、学徒出陣、鉱物の供出、防空演習に積極果敢に協力した手前、今更、戦争指導者を白洲に引きづり出して、彼らだけを責めるわけにはいかなかったということではないかと思う。
彼らに追求の刃を向ければ、自分自身も彼らと同じ立場になってしまうので、口を噤まざるを得なかったということではないかと思う。
戦時中、同じ町内の住民でありながら、パーマを掛ければ非国民といい、体調が少し悪くて防空演習を抜ければ非国民といって、イジメ抜いた体験があるが故に、戦争指導者に対しても責任を追及することに躊躇したに違いない。
この小姑的なイジメの構図は、今でも立派に生きているわけで、大勢の意見に対して異端な意見を述べると、非協力者という烙印を押して、排除にかかるのはこのイジメの構図そのものである。
戦前の美濃部達吉の『天皇機関説』の排斥運動から、斎藤隆夫の排斥運動まで、全てイジメの構図であって、論理的に理詰めの議論をすれば、自分の方に勝ち目がなく、徒党を組んで少数意見を封殺する構図はイジメそのものである。
これが学識経験者のグループでも、国会議員のグループでも、幼稚園児の喧嘩のようなイジメの構図であって、これが国政レベルでも、軍の組織内でもあったわけで、そこに欠けていたのは成熟した大人の理性的な思考であった。
不思議なことに、我々日本民族は物作りには実に長けているが、政治的あるいは経済的な駆け引きには極めて稚拙で、口先3寸で武力を全く使わずに国益を進展させるという芸当が出来ない。
それをしようとすると、すぐに自分たちの腹の裏側まで探られてしまって、下心を見すかされてしまい、相手の罠に安易に引っかってしまいがちである。
こういう民族の性癖も、我々日本民族に特有の他にはない優秀さの現れであるが、それが為、我々は大いに損をしている。
先にも述べたように、日本海軍は軍艦は攻撃するが輸送船やドック、石油タンクまでは攻撃しないというのは、我々の武士道の精神の現れであるが、この武士道たるものが現代の国家総力戦には何に役に立たないということに気がつかなかったということだ。
アメリカとの戦争において、自分達の価値観で戦っても何の意味もないわけで、戦争である限り、何が何でも勝たねばならないのであって、武士道もへったくれもない筈である。
私はこの時代のことを考えるとき不思議でならないことに、この頃の日本では鉄腕制裁が至る場所で展開されていたのが不思議で不思議で仕方がない。
大の大人が、小学生をゲンコツで殴って、躾をしたつもりになっている姿が不思議で不思議でならない。
私自身は鉄腕制裁を受けた記憶がない。
もっとも小学生の時は女の先生だったということもあるが、人の話や本で読むと、そういうことが当たり前であったと言われている。
学校ばかりではなく、社会全般にそういうことがごく普通に日常茶飯事的に行われていたというが、無抵抗の人間を殴って何か得る所があったのだろうか。
悪戯をした子供がいる、監督者としての大人がいる、その監督者が懲罰として子供を殴ったとして、その子供が心から改心するであろうか。
この殴るという行為は、する人自身のモノの考え方にあるわけで、その人が殴って治るものではないと思えば、殴らずに済すこともできるわけで、この悪習が世にはびこったということは、「あいつがやるから俺もやる」程度のことだと思う。
現に戦争が終わったらそういう事は少なくなったわけで、人がやらなければ誰も真似しないという事でしかない。
この本、不思議な本で、半藤一利と加藤陽子の対談というか、ディベートのかたちになっていて、この両名が広田弘毅、近衛文麿、松岡洋右、木戸幸一、昭和天皇を告発し、半藤一利が検察側、加藤陽子が弁護側という対立軸でディベートするという体栽になっていた。
この両名の言い分によると、昭和史を彩る人々の大部分が軍人になってしまって、文官、文民の立場は添え物のよう扱いでしかないので、今回はそういう政治家とか外交官という文民を俎上に乗せるということで、こういう人選になったということだ。
そもそも昭和の初期の時代というのは実に妙な時期だったと思う。
軍人が政治家になる、或いは軍人が政治を取り仕切る、ということは世界的にもたびたびあることで、そのこと自体はそう忌避すべき事ではないかもしれない。
イギリスのチャーチルも、フランスのドゴールも、アメリカのアイゼンハゥワーもケネデイーも、政治家になる前は軍人であったわけで、それほど奇異なものではない。
世界的な外交の場面ではむしろ戦争の本質を知らない文民よりも、戦争の実態を知りつくした軍人の方が外交交渉には有利であったかもしれない。
ところが我が国の場合は軍人の政治家がそういう風には機能しなかったようで、結果的に彼らは我々の同胞を奈落の底に突き落とす方向に機能した。
その状況おいて、ならば文民の政治家乃至は外交官は、そういう軍人政治家に対して如何なる手法で対抗し得たかと問えば、やはり明確な答えはあり得ない。
この本の著者のような歴史の研究者は、歴史の流れを個人の業績から勘案して、誰それがこう動いたので誰それがこう反応して、こういう結果を生じたという論理で推し進めるが、私の推察では、歴史というのはそういう個人の実績の積み重ねではないような気がしてならない。
例えば、昭和8年の松岡洋右の国際連盟脱退ということでも、本人も冷静に考えたら「早まったことをしたかな!」と自分自身反省をしているにもかかわらず、日本国民の大部分は大歓迎しているわけで、この我々同胞の庶民の熱情が、結局中国からの撤退を拒否する心情に結びついていたことを表している。
私自身も戦後教育で育った世代の一人であるが、戦後の我々の認識では、先の戦争の敗北の全責任が軍部、軍人の所為とされているが、これは極めて短絡的な左翼的な思考のなせるわざでもある。
私に言わしめれば、これら軍部、或いは軍人の後ろには、日本の民衆、大衆、庶民の精神的なフォローが歴然と存在していたと考えなければならない。
与謝野晶子の「君死にたもう事なかれ」という歌は、日露戦争に従軍する弟の為に歌われたと聞いているが、これが庶民の声なき声であったことは紛れもない事実だと思う。
問題とすべきは、こういう声なき声ではなく、大衆、民衆、庶民の大歓声、アジテーションに応える大きな歓喜の声の方である。
松岡洋右が国際連盟を脱退して、いきようようと日本に帰って来た時の、我々の同胞の歓迎ぶりである。
当然、松岡洋右は理由もなく国際連盟を脱退したわけではなく、その前段階には日本がしかけた柳条湖事件を始めとする満州国建国の問題が大きくからんでいたわけで、当時の国際社会は、この時の我々の行動を糾弾した結果として、この事態に至ったのである。
だが、私たちがよくよく考えなければならないと思うことは、この一連の我が方の軍、陸軍の行動を、我々の同胞は皆容認していたということである。
戦後の言い方でいえば、侵略行為を日本の国益の為の必要不可欠の行為と認識していたということで、我々の皇軍が間違ったことをする筈がないという自意識である。
別の言い方をすれば、日本陸軍、軍部の行動を日本全国民がフォローし、容認し、バックアップしていたということだが、歴史というものはこういう大衆の深層心理には脚光を当ようとせず、著名な個人の業績に摺り変えてしまう。
民主政治ということは、大衆の望むことを具現化する政治と言えるが、戦前・戦中の日本の政治は、そういう意味で、日本の庶民の願い、望み、希望、願望を具現化すべく機能していたことになる。
惜しむらくは、そういう期待を背負った軍人・軍部が、戦争の本質を知らないまま官僚主義に埋没して、現代の総力戦というものに対して全く無知のまま、国民の期待を裏切り続けたところに我々の不幸があったわけだ。
日中戦争で、日本が中国の都市を陥落させるたび起きた戦勝祈願の提灯行列をみて、我々の同胞は如何に好戦的であったか、という悟りに気がつかねばならない。
こういう国民の雰囲気を、煽りに煽ったのが言うまでもなくメデイアとしての新聞であったわけで、新聞が世論形成の大きなツールであったことは論をまたない。
ところが、新聞は新聞で生きて行かねばならないので、生きんが為に自らの信念を売ってでも、生き抜かねばならなかった、とは言える。
狼少年のように「オオカミが来る、オオカミが来る」と叫び続けなければらなかったし、「あっちの水は苦いぞ、こっちの水は甘いぞ」と嘘もつかねばならなったに違いない。
我々、庶民として「如何に生きるか」と自問自答した時、やはりメデイアとしての報道を全く無視するわけにもいかないと思う。
自分の迷いから抜け出す時、あるいは自分の悩みを自己裁定するとき、何らかの拠り所としてメデイアの情報に頼りたくなるわけで、こういう思考をする人は生来真面目な人だと思う。
真面目だからこそ大勢の人の言うことを順守して、その人達の望み叶える方向に努力しなければならない、という発想に至るものと推察する。
戦前・戦中に生きた知識人に「何故その時に声を上げなかったか?」と詰問すると、当然のこと「当時は治安維持法があって言いたいことが言えなかった」という答えが帰って来る。
全くその通りで、治安維持法があって、不用意なことを言えばすぐに特高警察が跳んでくる事は嘘でもなく事実そのものであろう。
戦前・戦中の知識人が一遍の法律、治安維持法をこれほど頑なに順守するということは、如何にも生真面目で、純朴で、素朴すぎる思考ではなかろうか。
私はこの知識人の言葉は信用ならないと思う。
彼は嘘を言っているわけで、言うべき事を言うべき時と場所で言う勇気がなかったということで、治安維持法の存在はその言い訳に過ぎず、本当は勇気がなかっただけのことだと思う。
今、車を運転する人で、道路交通法に違反していない人は一人もいないと思うが、一遍の法律があったから「言いたいことがあっても法律違反になるから言わなかった」などということが信じられるわけがないではないか。
昭和の初期という時空間において、日本の政治が混迷したのは紛れもない事実であろうが、ならば混迷しない政治などというものが果たしてありうるであろうか。
今でも政治は混迷していて、民主党政権になっても首相は既に3人も交代しているが、政治というのは混迷すのが常態なのではなかろうか。
我々は歴史の教訓として、「何故負けるような戦争をしでかしたのか」という点の究明に尽きると思う。
海軍兵学校でも、陸軍士官学校でも、東京帝国大学でも、並み以上に優れた人士が進学し卒業しているのに、何故負けるような戦争指導をしたのかという点である。
こういう人達の中には、アメリカと戦端を開いても勝ち目はない、ということがわかっていながら、ずるずると嵌り込んで行った節があるが、その基底には国民大衆の希望的観測をへし折る勇気がなかったということもあるのではなかろうか。
それにしても海戦のプロフェショナルの海軍の将兵が、ロジスティクの意義を最後まで理解していなかったという点はどう理解したらいのであろう。
ノモンハン事件から何一教訓を得ていないインパール作戦の無意味さ、こういう過誤を我々はどう考えたらいいのであろう。
負けるような戦争指導する軍人に何の価値があるのか、と言いたいが、我々の同胞はどこまでお人好しなのであろう。
戦争の敗北の責任を戦勝国が断じたことによって禊、或いは責任追及、はたまた国民の受けた仕打ちに対する報復を全て御破算する思考というのは明らかに能天気な発想だと思う。
先に、松岡洋右の国際連盟脱退を国民はこぞって大歓迎したと述べたが、それにはメデイアの提灯記事が大きく物をいったことは言うまでもないが、それと同じことが今でも起きている。
言うまでもなく昨年の3・11東日本大震災で、東京電力の福島原子力発電所の事故は甚大な被害をもたらしたことはまことに不幸なことである。
これを機に日本の原子力発電は全て否定的にとられるようになって、定期点検の後の再稼働が危ぶまれているが、こういう雰囲気を助長したのは言うまでもなくメデイアであって、メデイアに煽られると我々同胞の思考は意図も安易に逆転してしまう。
オイルショックの時はオイルの高騰にたまりかねて原子力発電に縋らざるを得なかったのに、一度事故が起きると、一斉に反対向きになるという節操のなさをどう考えたらいいのであろう。
被害に遭われて今も避難生活をされている方々には気の毒だけれども、だからと言って一度事故が起きたから原子力発電を今すぐに止めてしまう、というのはあまりにも世間受けを狙ったスタンドプレーなのではなかろうか。
普通に、冷静に、沈着に考えれば、ニ度と同じ事故を繰り返さないようにこれを教訓として再挑戦を計ろうという発想になるべきではなかろうか。
「事故が起きたから止めた!」では子供の発想ではないか。
原子力発電所が事故を起こして、放射能が周辺地域に飛び散って甚大な被害が出たことに対する告発は、避けて通れない課題であろうが、だからと言って「今ある原発を全部直ちに止めよ」という発想は、「正義の騎士」というニュアンスで捉えがちであって、如何にも安直な対処療法で、子供でも思いつく発想である。
そこを克服してこそ人類の英知であって、その為には生き残った人間は何を成すべか、と問うのがメデイアでなければならないが、「原発は危険だから止めましょう」では子供の使いでしかないではないか。
「もうこれ以上原発はいらない」という言い方も随分と驕った思考でしかないと思う。
自分さえ良ければ後のことは知らない、と言っているに等しいではないか。
メデイアの本質は、誰でも彼でも判り切ったことに金切り声をあげて大騒ぎして世論形成することではなく、今は隠れて人の目に触れていない事を掘り起こして、未来に生きる人間に資産として残すべき事に投資を促す事だと思う。
戦前の我々の同胞の中にも、「中国への侵攻は早期に止めて、アメリカとの開戦を避けるべきだ」、と将来を確実に見越した人もいたわけだが、世間というか世論というか、大衆レベルの人々は、全てそういう意見を封鎖してしまったではないか。
日中戦争、徐州徐州と人馬が行く時に、これを改めさせるにはどういう手法がありえたのであろう。
柳条湖事件からあれよあれよと言っているうちに満州国を作ってしまう行為に、どういう対処の仕方あったのであろう。
具体的な軍事行動の実践は、言うまでもなく皇軍、陸軍、関東軍の無節操で独善的な行為であったが、天皇陛下に嘘を言ってまで、こういう行動に走った連中を如何様に静止し得たのであろう。
こういう陸軍の行動をヨイショしたのが言うまでもなくメデイア・新聞であったわけで、此処まで来るともう誰それが悪い、誰それに責任がある、などということは言えなくなってしまって、混沌あるのみという他ない。
その意味では、昨年の3・11大震災の原発事故の収拾においても、責任の所在は誰にあるのかさっぱりわからない。
部外者が安易に関係者を非難することは簡単だが、関係者も悪意があってわざと処置を遺漏したわけでもないとなれば、全てが運命、天命、とそういう方向に持って行かざるを得ない。
先に治安維持法があってものが言えなかったと述べたが、この背景をもう一枚掘り下げて考えてみると、モノを言う人の周りにいる知人、友人、親族、同僚、こういう人達が真面目に法、つまり治安維持法に忠実たらんとして密告する恐れがあるので、モノが言えなかったということを考えねばならない。
庶民は国家の言うことに極めて忠実に従うので、この真面目さが結局周り廻って自分自身を奈落の底にまで突き落とすことになったのである。
学徒動員でも、学童疎開でも、勤労奉仕でも、防空演習でも、こういう行事というか、催事に従わないと仲間内で制裁しあっていたわけで、「こんなことをしているようでは戦争に勝てない」などという正論は仲間内で抑え込んでいたではないか。
1万メートルの上空を飛んでくるB―29にハタキとバケツで立ち向かう馬鹿らしさを、庶民の側から言い立てない生真面目さをどう考えたらいいのであろう。
つい数年前まで「勝った勝った」と提灯行列をしていたおなじ庶民、国民、大衆が、B―29にハタキとバケツで立ち向かおうとする生真面目さをどう考えたらいいんであろう。
ここで言う生真面目さというのは、こういう事態に至ってもクーデターも、革命も、暴動も起こさない真面目さという意味である。
挙句の果てに、焼け野原の東京を目の当たりにしながら、尚且つ徹底抗戦を唱える将兵の存在を考えると、戦争プロフェッショナルにあるまじきバカとしか言いようがないではないか。
このバカさ加減が、戦争を始める前から我々の民族の上にスモッグのように覆い被さっていたのではなかろうか。
真珠湾攻撃をして、軍艦だけを沈めてドックも燃料タンクもそのままで引き返してきた愚、ミッドウエイで自分の頭の上を無防備のままで爆弾を付け替える愚、ノモンハンで凝りていながらインパールを攻めようとした愚、これらは子供の戦争ごっこではないわけで、戦争のプロフェッショナルが犯したこれらの愚の数々をどう説明できるのであろう。
こういう軍人の犯した愚昧な行動に対して、戦後に生き残った我々の同胞は、戦争責任を一切問わない愚は何と言ったらいいのであろう。
あの戦争を主導したのは、我々同胞の中でも優秀と言われた海軍兵学校や陸軍士官学校のOBが行った行為だから、我々はそういう人達に責任を負わせるに躊躇したということであろうか。
戦勝国が行った裁きは、敗戦国として免れようもないが、我々が自分達で自分達の戦争指導者を裁くことに何故に躊躇したのであろう。
あの戦争による同胞の被害者の数は300万人とも言われているが、それだけの犠牲者を出しておきながら、同胞の中から責任を負ったものが一人も出ないというのはおかしなことではないのか。
戦勝国は彼らの論理で、彼らの立場で、彼らの憎むべき人材を勝手に処刑したが、それと我々が同胞の戦争指導者から受けた仕打ちは全く異質のもので、その清算は全く行われないまま今日に来ている。
松岡洋右の国際連盟脱退を熱烈歓迎し、シナ事変での凱旋の度ごとに行われた提灯行列の熱情も、このころは全て恢塵と化していたわけで、この裏切られたという感情は、戦後の我々は持ち合わせていなかったと言うことだろうか。
そんな事は決してない筈で、戦後の我々の同胞は、戦争指導者を相当に恨んでいたに違いないと思うが、責任追及ということになると、非常に寛容になってしまうということは一体どういうことなのであろう。
これは戦後の教育を受けた私の推測だが、戦前・戦中の国民は、彼ら自身が戦争遂行に大いに協力したわけで、勤労動員、学徒出陣、鉱物の供出、防空演習に積極果敢に協力した手前、今更、戦争指導者を白洲に引きづり出して、彼らだけを責めるわけにはいかなかったということではないかと思う。
彼らに追求の刃を向ければ、自分自身も彼らと同じ立場になってしまうので、口を噤まざるを得なかったということではないかと思う。
戦時中、同じ町内の住民でありながら、パーマを掛ければ非国民といい、体調が少し悪くて防空演習を抜ければ非国民といって、イジメ抜いた体験があるが故に、戦争指導者に対しても責任を追及することに躊躇したに違いない。
この小姑的なイジメの構図は、今でも立派に生きているわけで、大勢の意見に対して異端な意見を述べると、非協力者という烙印を押して、排除にかかるのはこのイジメの構図そのものである。
戦前の美濃部達吉の『天皇機関説』の排斥運動から、斎藤隆夫の排斥運動まで、全てイジメの構図であって、論理的に理詰めの議論をすれば、自分の方に勝ち目がなく、徒党を組んで少数意見を封殺する構図はイジメそのものである。
これが学識経験者のグループでも、国会議員のグループでも、幼稚園児の喧嘩のようなイジメの構図であって、これが国政レベルでも、軍の組織内でもあったわけで、そこに欠けていたのは成熟した大人の理性的な思考であった。
不思議なことに、我々日本民族は物作りには実に長けているが、政治的あるいは経済的な駆け引きには極めて稚拙で、口先3寸で武力を全く使わずに国益を進展させるという芸当が出来ない。
それをしようとすると、すぐに自分たちの腹の裏側まで探られてしまって、下心を見すかされてしまい、相手の罠に安易に引っかってしまいがちである。
こういう民族の性癖も、我々日本民族に特有の他にはない優秀さの現れであるが、それが為、我々は大いに損をしている。
先にも述べたように、日本海軍は軍艦は攻撃するが輸送船やドック、石油タンクまでは攻撃しないというのは、我々の武士道の精神の現れであるが、この武士道たるものが現代の国家総力戦には何に役に立たないということに気がつかなかったということだ。
アメリカとの戦争において、自分達の価値観で戦っても何の意味もないわけで、戦争である限り、何が何でも勝たねばならないのであって、武士道もへったくれもない筈である。
私はこの時代のことを考えるとき不思議でならないことに、この頃の日本では鉄腕制裁が至る場所で展開されていたのが不思議で不思議で仕方がない。
大の大人が、小学生をゲンコツで殴って、躾をしたつもりになっている姿が不思議で不思議でならない。
私自身は鉄腕制裁を受けた記憶がない。
もっとも小学生の時は女の先生だったということもあるが、人の話や本で読むと、そういうことが当たり前であったと言われている。
学校ばかりではなく、社会全般にそういうことがごく普通に日常茶飯事的に行われていたというが、無抵抗の人間を殴って何か得る所があったのだろうか。
悪戯をした子供がいる、監督者としての大人がいる、その監督者が懲罰として子供を殴ったとして、その子供が心から改心するであろうか。
この殴るという行為は、する人自身のモノの考え方にあるわけで、その人が殴って治るものではないと思えば、殴らずに済すこともできるわけで、この悪習が世にはびこったということは、「あいつがやるから俺もやる」程度のことだと思う。
現に戦争が終わったらそういう事は少なくなったわけで、人がやらなければ誰も真似しないという事でしかない。