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ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「昭和史裁判」

2012-01-17 08:26:05 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「昭和史裁判」という本を読んだ。
この本、不思議な本で、半藤一利と加藤陽子の対談というか、ディベートのかたちになっていて、この両名が広田弘毅、近衛文麿、松岡洋右、木戸幸一、昭和天皇を告発し、半藤一利が検察側、加藤陽子が弁護側という対立軸でディベートするという体栽になっていた。
この両名の言い分によると、昭和史を彩る人々の大部分が軍人になってしまって、文官、文民の立場は添え物のよう扱いでしかないので、今回はそういう政治家とか外交官という文民を俎上に乗せるということで、こういう人選になったということだ。
そもそも昭和の初期の時代というのは実に妙な時期だったと思う。
軍人が政治家になる、或いは軍人が政治を取り仕切る、ということは世界的にもたびたびあることで、そのこと自体はそう忌避すべき事ではないかもしれない。
イギリスのチャーチルも、フランスのドゴールも、アメリカのアイゼンハゥワーもケネデイーも、政治家になる前は軍人であったわけで、それほど奇異なものではない。
世界的な外交の場面ではむしろ戦争の本質を知らない文民よりも、戦争の実態を知りつくした軍人の方が外交交渉には有利であったかもしれない。
ところが我が国の場合は軍人の政治家がそういう風には機能しなかったようで、結果的に彼らは我々の同胞を奈落の底に突き落とす方向に機能した。
その状況おいて、ならば文民の政治家乃至は外交官は、そういう軍人政治家に対して如何なる手法で対抗し得たかと問えば、やはり明確な答えはあり得ない。
この本の著者のような歴史の研究者は、歴史の流れを個人の業績から勘案して、誰それがこう動いたので誰それがこう反応して、こういう結果を生じたという論理で推し進めるが、私の推察では、歴史というのはそういう個人の実績の積み重ねではないような気がしてならない。
例えば、昭和8年の松岡洋右の国際連盟脱退ということでも、本人も冷静に考えたら「早まったことをしたかな!」と自分自身反省をしているにもかかわらず、日本国民の大部分は大歓迎しているわけで、この我々同胞の庶民の熱情が、結局中国からの撤退を拒否する心情に結びついていたことを表している。
私自身も戦後教育で育った世代の一人であるが、戦後の我々の認識では、先の戦争の敗北の全責任が軍部、軍人の所為とされているが、これは極めて短絡的な左翼的な思考のなせるわざでもある。
私に言わしめれば、これら軍部、或いは軍人の後ろには、日本の民衆、大衆、庶民の精神的なフォローが歴然と存在していたと考えなければならない。
与謝野晶子の「君死にたもう事なかれ」という歌は、日露戦争に従軍する弟の為に歌われたと聞いているが、これが庶民の声なき声であったことは紛れもない事実だと思う。
問題とすべきは、こういう声なき声ではなく、大衆、民衆、庶民の大歓声、アジテーションに応える大きな歓喜の声の方である。
松岡洋右が国際連盟を脱退して、いきようようと日本に帰って来た時の、我々の同胞の歓迎ぶりである。
当然、松岡洋右は理由もなく国際連盟を脱退したわけではなく、その前段階には日本がしかけた柳条湖事件を始めとする満州国建国の問題が大きくからんでいたわけで、当時の国際社会は、この時の我々の行動を糾弾した結果として、この事態に至ったのである。
だが、私たちがよくよく考えなければならないと思うことは、この一連の我が方の軍、陸軍の行動を、我々の同胞は皆容認していたということである。
戦後の言い方でいえば、侵略行為を日本の国益の為の必要不可欠の行為と認識していたということで、我々の皇軍が間違ったことをする筈がないという自意識である。
別の言い方をすれば、日本陸軍、軍部の行動を日本全国民がフォローし、容認し、バックアップしていたということだが、歴史というものはこういう大衆の深層心理には脚光を当ようとせず、著名な個人の業績に摺り変えてしまう。
民主政治ということは、大衆の望むことを具現化する政治と言えるが、戦前・戦中の日本の政治は、そういう意味で、日本の庶民の願い、望み、希望、願望を具現化すべく機能していたことになる。
惜しむらくは、そういう期待を背負った軍人・軍部が、戦争の本質を知らないまま官僚主義に埋没して、現代の総力戦というものに対して全く無知のまま、国民の期待を裏切り続けたところに我々の不幸があったわけだ。
日中戦争で、日本が中国の都市を陥落させるたび起きた戦勝祈願の提灯行列をみて、我々の同胞は如何に好戦的であったか、という悟りに気がつかねばならない。
こういう国民の雰囲気を、煽りに煽ったのが言うまでもなくメデイアとしての新聞であったわけで、新聞が世論形成の大きなツールであったことは論をまたない。
ところが、新聞は新聞で生きて行かねばならないので、生きんが為に自らの信念を売ってでも、生き抜かねばならなかった、とは言える。
狼少年のように「オオカミが来る、オオカミが来る」と叫び続けなければらなかったし、「あっちの水は苦いぞ、こっちの水は甘いぞ」と嘘もつかねばならなったに違いない。
我々、庶民として「如何に生きるか」と自問自答した時、やはりメデイアとしての報道を全く無視するわけにもいかないと思う。
自分の迷いから抜け出す時、あるいは自分の悩みを自己裁定するとき、何らかの拠り所としてメデイアの情報に頼りたくなるわけで、こういう思考をする人は生来真面目な人だと思う。
真面目だからこそ大勢の人の言うことを順守して、その人達の望み叶える方向に努力しなければならない、という発想に至るものと推察する。
戦前・戦中に生きた知識人に「何故その時に声を上げなかったか?」と詰問すると、当然のこと「当時は治安維持法があって言いたいことが言えなかった」という答えが帰って来る。
全くその通りで、治安維持法があって、不用意なことを言えばすぐに特高警察が跳んでくる事は嘘でもなく事実そのものであろう。
戦前・戦中の知識人が一遍の法律、治安維持法をこれほど頑なに順守するということは、如何にも生真面目で、純朴で、素朴すぎる思考ではなかろうか。
私はこの知識人の言葉は信用ならないと思う。
彼は嘘を言っているわけで、言うべき事を言うべき時と場所で言う勇気がなかったということで、治安維持法の存在はその言い訳に過ぎず、本当は勇気がなかっただけのことだと思う。
今、車を運転する人で、道路交通法に違反していない人は一人もいないと思うが、一遍の法律があったから「言いたいことがあっても法律違反になるから言わなかった」などということが信じられるわけがないではないか。
昭和の初期という時空間において、日本の政治が混迷したのは紛れもない事実であろうが、ならば混迷しない政治などというものが果たしてありうるであろうか。
今でも政治は混迷していて、民主党政権になっても首相は既に3人も交代しているが、政治というのは混迷すのが常態なのではなかろうか。
我々は歴史の教訓として、「何故負けるような戦争をしでかしたのか」という点の究明に尽きると思う。
海軍兵学校でも、陸軍士官学校でも、東京帝国大学でも、並み以上に優れた人士が進学し卒業しているのに、何故負けるような戦争指導をしたのかという点である。
こういう人達の中には、アメリカと戦端を開いても勝ち目はない、ということがわかっていながら、ずるずると嵌り込んで行った節があるが、その基底には国民大衆の希望的観測をへし折る勇気がなかったということもあるのではなかろうか。
それにしても海戦のプロフェショナルの海軍の将兵が、ロジスティクの意義を最後まで理解していなかったという点はどう理解したらいのであろう。
ノモンハン事件から何一教訓を得ていないインパール作戦の無意味さ、こういう過誤を我々はどう考えたらいいのであろう。
負けるような戦争指導する軍人に何の価値があるのか、と言いたいが、我々の同胞はどこまでお人好しなのであろう。
戦争の敗北の責任を戦勝国が断じたことによって禊、或いは責任追及、はたまた国民の受けた仕打ちに対する報復を全て御破算する思考というのは明らかに能天気な発想だと思う。
先に、松岡洋右の国際連盟脱退を国民はこぞって大歓迎したと述べたが、それにはメデイアの提灯記事が大きく物をいったことは言うまでもないが、それと同じことが今でも起きている。
言うまでもなく昨年の3・11東日本大震災で、東京電力の福島原子力発電所の事故は甚大な被害をもたらしたことはまことに不幸なことである。
これを機に日本の原子力発電は全て否定的にとられるようになって、定期点検の後の再稼働が危ぶまれているが、こういう雰囲気を助長したのは言うまでもなくメデイアであって、メデイアに煽られると我々同胞の思考は意図も安易に逆転してしまう。
オイルショックの時はオイルの高騰にたまりかねて原子力発電に縋らざるを得なかったのに、一度事故が起きると、一斉に反対向きになるという節操のなさをどう考えたらいいのであろう。
被害に遭われて今も避難生活をされている方々には気の毒だけれども、だからと言って一度事故が起きたから原子力発電を今すぐに止めてしまう、というのはあまりにも世間受けを狙ったスタンドプレーなのではなかろうか。
普通に、冷静に、沈着に考えれば、ニ度と同じ事故を繰り返さないようにこれを教訓として再挑戦を計ろうという発想になるべきではなかろうか。
「事故が起きたから止めた!」では子供の発想ではないか。
原子力発電所が事故を起こして、放射能が周辺地域に飛び散って甚大な被害が出たことに対する告発は、避けて通れない課題であろうが、だからと言って「今ある原発を全部直ちに止めよ」という発想は、「正義の騎士」というニュアンスで捉えがちであって、如何にも安直な対処療法で、子供でも思いつく発想である。
そこを克服してこそ人類の英知であって、その為には生き残った人間は何を成すべか、と問うのがメデイアでなければならないが、「原発は危険だから止めましょう」では子供の使いでしかないではないか。
「もうこれ以上原発はいらない」という言い方も随分と驕った思考でしかないと思う。
自分さえ良ければ後のことは知らない、と言っているに等しいではないか。
メデイアの本質は、誰でも彼でも判り切ったことに金切り声をあげて大騒ぎして世論形成することではなく、今は隠れて人の目に触れていない事を掘り起こして、未来に生きる人間に資産として残すべき事に投資を促す事だと思う。
戦前の我々の同胞の中にも、「中国への侵攻は早期に止めて、アメリカとの開戦を避けるべきだ」、と将来を確実に見越した人もいたわけだが、世間というか世論というか、大衆レベルの人々は、全てそういう意見を封鎖してしまったではないか。
日中戦争、徐州徐州と人馬が行く時に、これを改めさせるにはどういう手法がありえたのであろう。
柳条湖事件からあれよあれよと言っているうちに満州国を作ってしまう行為に、どういう対処の仕方あったのであろう。
具体的な軍事行動の実践は、言うまでもなく皇軍、陸軍、関東軍の無節操で独善的な行為であったが、天皇陛下に嘘を言ってまで、こういう行動に走った連中を如何様に静止し得たのであろう。
こういう陸軍の行動をヨイショしたのが言うまでもなくメデイア・新聞であったわけで、此処まで来るともう誰それが悪い、誰それに責任がある、などということは言えなくなってしまって、混沌あるのみという他ない。
その意味では、昨年の3・11大震災の原発事故の収拾においても、責任の所在は誰にあるのかさっぱりわからない。
部外者が安易に関係者を非難することは簡単だが、関係者も悪意があってわざと処置を遺漏したわけでもないとなれば、全てが運命、天命、とそういう方向に持って行かざるを得ない。
先に治安維持法があってものが言えなかったと述べたが、この背景をもう一枚掘り下げて考えてみると、モノを言う人の周りにいる知人、友人、親族、同僚、こういう人達が真面目に法、つまり治安維持法に忠実たらんとして密告する恐れがあるので、モノが言えなかったということを考えねばならない。
庶民は国家の言うことに極めて忠実に従うので、この真面目さが結局周り廻って自分自身を奈落の底にまで突き落とすことになったのである。
学徒動員でも、学童疎開でも、勤労奉仕でも、防空演習でも、こういう行事というか、催事に従わないと仲間内で制裁しあっていたわけで、「こんなことをしているようでは戦争に勝てない」などという正論は仲間内で抑え込んでいたではないか。
1万メートルの上空を飛んでくるB―29にハタキとバケツで立ち向かう馬鹿らしさを、庶民の側から言い立てない生真面目さをどう考えたらいいのであろう。
つい数年前まで「勝った勝った」と提灯行列をしていたおなじ庶民、国民、大衆が、B―29にハタキとバケツで立ち向かおうとする生真面目さをどう考えたらいいんであろう。
ここで言う生真面目さというのは、こういう事態に至ってもクーデターも、革命も、暴動も起こさない真面目さという意味である。
挙句の果てに、焼け野原の東京を目の当たりにしながら、尚且つ徹底抗戦を唱える将兵の存在を考えると、戦争プロフェッショナルにあるまじきバカとしか言いようがないではないか。
このバカさ加減が、戦争を始める前から我々の民族の上にスモッグのように覆い被さっていたのではなかろうか。
真珠湾攻撃をして、軍艦だけを沈めてドックも燃料タンクもそのままで引き返してきた愚、ミッドウエイで自分の頭の上を無防備のままで爆弾を付け替える愚、ノモンハンで凝りていながらインパールを攻めようとした愚、これらは子供の戦争ごっこではないわけで、戦争のプロフェッショナルが犯したこれらの愚の数々をどう説明できるのであろう。
こういう軍人の犯した愚昧な行動に対して、戦後に生き残った我々の同胞は、戦争責任を一切問わない愚は何と言ったらいいのであろう。
あの戦争を主導したのは、我々同胞の中でも優秀と言われた海軍兵学校や陸軍士官学校のOBが行った行為だから、我々はそういう人達に責任を負わせるに躊躇したということであろうか。
戦勝国が行った裁きは、敗戦国として免れようもないが、我々が自分達で自分達の戦争指導者を裁くことに何故に躊躇したのであろう。
あの戦争による同胞の被害者の数は300万人とも言われているが、それだけの犠牲者を出しておきながら、同胞の中から責任を負ったものが一人も出ないというのはおかしなことではないのか。
戦勝国は彼らの論理で、彼らの立場で、彼らの憎むべき人材を勝手に処刑したが、それと我々が同胞の戦争指導者から受けた仕打ちは全く異質のもので、その清算は全く行われないまま今日に来ている。
松岡洋右の国際連盟脱退を熱烈歓迎し、シナ事変での凱旋の度ごとに行われた提灯行列の熱情も、このころは全て恢塵と化していたわけで、この裏切られたという感情は、戦後の我々は持ち合わせていなかったと言うことだろうか。
そんな事は決してない筈で、戦後の我々の同胞は、戦争指導者を相当に恨んでいたに違いないと思うが、責任追及ということになると、非常に寛容になってしまうということは一体どういうことなのであろう。
これは戦後の教育を受けた私の推測だが、戦前・戦中の国民は、彼ら自身が戦争遂行に大いに協力したわけで、勤労動員、学徒出陣、鉱物の供出、防空演習に積極果敢に協力した手前、今更、戦争指導者を白洲に引きづり出して、彼らだけを責めるわけにはいかなかったということではないかと思う。
彼らに追求の刃を向ければ、自分自身も彼らと同じ立場になってしまうので、口を噤まざるを得なかったということではないかと思う。
戦時中、同じ町内の住民でありながら、パーマを掛ければ非国民といい、体調が少し悪くて防空演習を抜ければ非国民といって、イジメ抜いた体験があるが故に、戦争指導者に対しても責任を追及することに躊躇したに違いない。
この小姑的なイジメの構図は、今でも立派に生きているわけで、大勢の意見に対して異端な意見を述べると、非協力者という烙印を押して、排除にかかるのはこのイジメの構図そのものである。
戦前の美濃部達吉の『天皇機関説』の排斥運動から、斎藤隆夫の排斥運動まで、全てイジメの構図であって、論理的に理詰めの議論をすれば、自分の方に勝ち目がなく、徒党を組んで少数意見を封殺する構図はイジメそのものである。
これが学識経験者のグループでも、国会議員のグループでも、幼稚園児の喧嘩のようなイジメの構図であって、これが国政レベルでも、軍の組織内でもあったわけで、そこに欠けていたのは成熟した大人の理性的な思考であった。
不思議なことに、我々日本民族は物作りには実に長けているが、政治的あるいは経済的な駆け引きには極めて稚拙で、口先3寸で武力を全く使わずに国益を進展させるという芸当が出来ない。
それをしようとすると、すぐに自分たちの腹の裏側まで探られてしまって、下心を見すかされてしまい、相手の罠に安易に引っかってしまいがちである。
こういう民族の性癖も、我々日本民族に特有の他にはない優秀さの現れであるが、それが為、我々は大いに損をしている。
先にも述べたように、日本海軍は軍艦は攻撃するが輸送船やドック、石油タンクまでは攻撃しないというのは、我々の武士道の精神の現れであるが、この武士道たるものが現代の国家総力戦には何に役に立たないということに気がつかなかったということだ。
アメリカとの戦争において、自分達の価値観で戦っても何の意味もないわけで、戦争である限り、何が何でも勝たねばならないのであって、武士道もへったくれもない筈である。
私はこの時代のことを考えるとき不思議でならないことに、この頃の日本では鉄腕制裁が至る場所で展開されていたのが不思議で不思議で仕方がない。
大の大人が、小学生をゲンコツで殴って、躾をしたつもりになっている姿が不思議で不思議でならない。
私自身は鉄腕制裁を受けた記憶がない。
もっとも小学生の時は女の先生だったということもあるが、人の話や本で読むと、そういうことが当たり前であったと言われている。
学校ばかりではなく、社会全般にそういうことがごく普通に日常茶飯事的に行われていたというが、無抵抗の人間を殴って何か得る所があったのだろうか。
悪戯をした子供がいる、監督者としての大人がいる、その監督者が懲罰として子供を殴ったとして、その子供が心から改心するであろうか。
この殴るという行為は、する人自身のモノの考え方にあるわけで、その人が殴って治るものではないと思えば、殴らずに済すこともできるわけで、この悪習が世にはびこったということは、「あいつがやるから俺もやる」程度のことだと思う。
現に戦争が終わったらそういう事は少なくなったわけで、人がやらなければ誰も真似しないという事でしかない。

「物語 現代史への旅」

2012-01-14 17:07:25 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「物語 現代史への旅」という本を読んだ。
監修、舛添要一となっていた。
大勢の人が書いた論説を一纏めにしたという感じの本であった。
しかし、現代史ということは我々の生きた時代と同時並行的に起きた事柄なので、リアルタイムの実感で以て語られる。
その事は同時に人が生きるということを問われているような気がしてならない。
我々のような市井の一市民としては、遥か遠くの出来事のような気がしないでもないが、メデイアの報道で見聞きしていると、すぐ目の前で起きている気がしてならない。
それと合わせて、世界の各地で何の関連もなく起きているように見える事件も、何かでつながっているようにも思えてならない。
世界の近現代史という時、必ずベトナム戦争はその中に入って来るであろうが、「ベトナム戦争でアメリカが敗北した」という認識は、私には不思議でならない。
ベトナム人はアメリカ本土に一つの爆弾も落としていないのに、敗北という言い方はおかしいと思う。
ベトナム戦争の元は、北からの共産主義の浸透にあったわけで、北ベトナムの共産主義者たちが勢力の拡大を求めなければ、ああいう形の泥沼化は避けられたと思う。
東南アジアのこの辺りの人々は、彼らの宗主国がフランスであったので、フランスに留学する人が多かったが、フランスという国家は非常に寛容な国で、アジアから来た留学生が共産主義に嵌り込もうが案外無関心であった。
こういう留学生は、その出自が比較的裕福で、そういう知識階層が安易に共産主義に傾倒してしまった。
その元のところには、やはりアジア固有の人知主義と言うべきか、縁故主義と言うべきか、地縁血縁が優先する古典的な思考があったわけで、ある種の封建主義から抜け出せずにいたということだと思う。
所謂、民度が低いということで、新しい民主的な近代思想に目覚めていないということであり、昔ながらの部族社会の延長でしかなかったということだと思う。
フランスが宗主国として彼らの上に君臨していた時は、彼らもフランスの監督のもとで、植民地支配という帝国主義的思考で生業を維持しておれたが、宗主国の力が弱まって自分達で自分達を律して行かねばならない状況に置かれると、彼らは何をどうしていいのか判らなくなってしまった。
彼らは、自分で自分達を統治するということに不慣れだったので、統治イコール私利私欲の蓄積と勘違いしてしまって、自分の同胞を如何に扱うかというノウハウを知らなかったということだ。
そういう状況において、優秀な頭脳がフランスに留学して、共産主義に被れると、北ベトナムの方に擦り寄ってしまうわけで、南ベトナムを支援していたアメリカは、海に突き落とされてしまったということだ。
この状況を日本から見ていると、我々の同胞の考え方も実に妙なものに見える。
あの時代、日本でもアメリカの「ベトナム戦争反対」という動きが大きなムーブメントとして渦巻いていたが、その運動の源泉にいる人達は、その大部分が日本の知識階級に属する人達で、大学教授やジャーナリストや、進歩的文化人と称せられる人たちであった。
だが、そういう人達がアメリカの戦争に反対するということは、アメリカに対する内政干渉ではなかったかと思う。
「戦争は絶対悪だから止めよ」というのならば、共産主義勢力に対してもアメリカに対する比重と同じ重さで説得しなければならないと思うが、共産主義者の戦争は「善」で、アメリカの戦争は「悪」だ、という認識は何ら整合性のあるものではない。
こういう状況下で真に問われるべきが教養・知性というものだと思う。
人間が成長するに従い学校教育を段階的に高度なものに進化させる理由も、最高度に達する教養・知性を追い求める為であって、それは真の真善美でなければならない。
ところが、そいうものはこの地球上にはあり得ないわけで、我々の追い求めるのは、その極致の価値観であって、それに向かって進むことに価値があるのである。
我々、日本人の目から見るベトナム戦争は、裸足のベトナム人をアメリカのハイテク兵器が無慈悲にも殲滅しようとしている図であって、感情的にアメリカに対して「ベトナム戦争反対」と言っているだけで、それは対岸の火事を面白がって眺めている図でしかない。
弱い者イジメをする腕白坊主を懲らしめて、溜飲を下げている構図でしかない。
こういう感情論は、教養・知性の対極にある思考の筈であるが、日本の知識階層はそういう思いに至っていない。
弱い者イジメをする腕白坊主を懲らしめる図というのは、究極の判官贔屓というもので、感情論が極値まで昇華した思考であるが、これでは近代民主主義とは相容れないものである。
南ベトナムの政府は、土俗的な封建主義から抜けきれずに極めて部族的な社会システムで、人々は不平不満に満ちているが、ならば北ベトナムは理想的な社会かといえば、こちらも同じように腐敗しているわけで、そういう混沌とした人の群れをアメリカはアメリカの論理で、中国は中国の論理で、ソ連はソ連の論理で後押ししていたのである。
ところがその中で、日本の知識階層がアメリカだけを悪し様に罵るということは、明らかに偏見そのものであって、彼らのおぞましいところはそれを見越して行動しているところである。
つまり、日本国内ではいくらアメリカの悪口を言っても許される、逮捕されない、拘束されないということがわかっているから、それに甘えて悪乗りしているだけのことである。
これと同じような混沌はベトナムだけの問題ではなく、世界各地で起きているわけで、アラブとイスラエルの問題でもベトナム戦争と何なら変わるものではない。
私が不思議に思うことは、ヨーロッパやアメリカ、そして日本や台湾、韓国というように、近代化を成した国とそうでない国の知の格差の根本は一体何がどうなっているのかということである。
現代史ということで言えば、ヨーロッパはいち早く近代化に成功したわけで、その過程においては、血で血を洗う抗争を何遍も繰り返して、その結果として過去の歴史から平和を学んだわけで、それが今EUとして結実している。
今のヨーロッパというのは明らかに成熟した社会だと思う。
封建主義、帝國主義、資本主義、社会主義というもろもろの思考を全部ミキサーにかけて得たものが今の高福祉社会だと推察する。
こういう過程を個人の精神の変遷で説いてみると、矢張り我欲の抑制ではないかと思う。
この世に産まれ出た人間は、誰でも自分の欲しい物を得ようと頑張るわけで、その欲望が生きる為のエネルギーとなって、個々の人々の精神を活性化させるので、人々が前に進む動機付けになっているのではないかと想像する。
ところが、この世に産まれ出た人間の欲望も、その人の産まれ落ちた場所とタイミングで大きく様変わりするわけで、アメリカの赤ん坊とアフリカのマサイ族や、オーストラリアのアポリジニの赤ん坊では、将来に思い描く世界がまるで違っていると思う。
マサイ族やアポリジニの赤ん坊でも、産まれて直ぐからアメリカで育てれば、アメリカ人と同じ発想の人間になると思う。
今の世界には地球規模で様々なトラブルが噴出しているが、その根源にある共通認識は、それぞれの民族の生い立ちに起因している筈である。
アフガニスタンの敬虔なイスラム教徒の家庭に産まれた赤ん坊は、長じて立派なイスラム教徒になる。
イランの赤ん坊も、イラクの赤ん坊も、クエートの赤ん坊も、全て長ずればそれぞれの国や民族を型作る成人になるが、そのことが世界の混沌の主原因だと思う。
つまり、それぞれの民族の生い立ちそのものが紛争の種なわけで、その種を潰すには和解しかないが、和解するということは、双方に妥協を強いられるわけで、それが許容できるかどうかにかかっている。
これは、その人その人の生き方の問題であって、朝鮮戦争でも、ベトナム戦争でも、共産主義者が自分達の勢力範囲を拡大したいという欲求におされて北から南へ侵攻してきたわけで、この拡張願望が心の底にあるかぎり、和平ということはあり得ない。
ヨーロッパの人々は、明らかにそういう拡張願望を過去のものとして、自分達の豊かな生活を楽しむ、という選択をしようとしているが、地球上の他の地域では、まだそういうゆとりを見いだせていない国や民族が掃いて捨てるほどあるので、その事が人類全体の脅威となりつつある。
ヨーロッパのように既に成熟した社会では、人々の根源的な欲求は理性や知性でコントロール可能であるが、未成熟な社会では人は欲望の赴くままに行動するわけで、それは先進国の過去の姿そのままでもある。
成熟した社会と、未成熟な社会が混然としている今の状況において、未成熟な社会の住人が文明の利器を充分に使いこなす事はいともたやすいことで、文明の利器というのは、そもそもその誕生の時から誰でもが安易に使いこなせるように出来ている。
その良い例が鉄砲であり車である。
ここで我々、今の地球人が考えなければならない事は、先進国とそうでない国々の文化・文明の格差ではなく、それぞれの精神の近代化乃至は民主化の格差を考えなければならないと思う。
今の中近東、イラン、イラク、アフガニスタン、シリア、エジプトという国々の基底に流れている潜在意識は太古のべドウインの意識のままだと思う。
それは無理もない話で、こういう地で生まれ落ちて、こういう地で育った人達は、こういう地域の古典的なものの考え方で以て思考を組み立てているわけで、決して近代的な民主主義を信奉しているわけではない。
極端なことを言うと、昔のべドウインが車を使い鉄砲を振り廻して、昔の部族主義のまま離合集散しているのが現状だと思う。
こういう地域の人々も、西洋先進国に留学して、近代的な知識を吸収しているが、その根っこにある彼らの民族としてのアイデンティティーを成している深層心理がべドウインのままなので、留学を終えて祖国に帰れば、祖国の基底のアイデンテイテイ―に埋没してしまう。
西洋に留学して世渡りの駆け引きだけは抜かりなく応用し、文明の利器を十分に使いこなす術は会得するが、今度はそれを先進国に向けて振り回すので、我々としては甚だ迷惑なのである。
彼らの産まれ落ちた土地からは石油が出るので、それが彼らの富の源泉になっており、それを出したり絞ったりして、自分達の欲求を満たそうとしているが、石油というものはいずれは枯渇するものだが、その時のことまでは考えていないみたいだ。
問題は、今は石油が出るので、労せずとも自分の欲求を満たすことができ、何でも金で解決できる。
考えなければならない点はここにあるわけで、彼らには金があるので、自分で考えて作るということを放棄しており、その部分が昔のべドウインのままだ、と私は言いたいのである。
金があるので、教育も大学まで無料と言われているが、石油に浮かんだ砂上の楼閣のような有様で良いわけないが、この辺りの物の考え方は、我々にとっては受け入れ難いものである。
中近東のエリアでもアフリカの奥地の新興国でも、人々の意識は太古のままの考え方を引きずっているわけで、精神の近代化乃至は民主化は遅々としており、決してスムースに進んでいるとは言えない。
昨年、2011年には3・11事件という大震災に見舞われて日本は大きな被害に見舞われたが、この時に起きた東京電力福島原子力発電所の事故がきっかけとなって我々は脱原発という雰囲気に包まれてしまっているが、こういう極端から極端への振幅の揺れというのも考えものではある。
しかし、これも日本国民の総意の一部であることは確かで、日本人の中の多くの人々が、「もう原発はいらない」と考えていることは確かだと言える。
我々の場合は、時の状況と周りの環境の変化で、国民の考えがあっちに行ったりこっちに来たりと自由自在に変化してしまうが、これもある意味では節操のない思考であるが、その分国民の大勢の意見が反映されている結果とも言える。
別の言い方をすれば、国民が何種類かの選択肢を持っているとも言えるが、それだけ思想的に近代化されてもおり、民主化されてもいるということである。
こういう民主化された近代国家の隣に、人類の誕生以来、精神の変革を全く経験していない古典的な思考の人達がいるわけで、当然、モノの考え方の衝突ということは免れないわけで、「金持ちであるが故に悪だ」、という論理になるのである。
イスラムの教えの中には、富めるものは貧者に施すことが義務とされているということであるが、これでは近代化はあり得ないではないか。
富める者は、その人が努力したから富めたのであって、何時も何時も働かずに施しばかり受けていれば、何時まで経っても貧者のままでしかないではないか。
自分の貧しさを他者の所為にして「金持ちが悪い」などという論法が通るわけがないではないか。
その良い例が東西ドイツであり、朝鮮半島の現状に見えたわけで、東西ドイツはその地の人々が思想的に成熟に至ったので、1990年10月に再統一を果たしたが、第2次世界大戦後からこの時に至る45年間は彼らの信奉する主義と体制が異なっていたので、民族の分断を余儀なくされていた。
それが再統一を果たしたということは、やはり彼らの社会の成熟度が増したということであって、それに反し、朝鮮半島ではまだそういう成熟度に至っていないということである。
問題は、ネイティブな人々を統治する思想と体制の選択であって、古典的な土地柄においては、有史以来の自然人に近い有り体で済ませているが、これが人々の意識が改革されると、自らの選択による傾向が強くなり、それが民主化の進展ということに繋がる。
だからネイティブな人々が意識改革するためには、非常に多くの情報がいるわけで、人々はそういう情報によって他者を見つめることを学び、新たな個人の欲望が喚起されて、民主化の進展が進むという構図になる。
北朝鮮の首脳が自分達の国民を抑圧して、何も情報を与えず、ただ黙々と為政者の思いだけを押し付けているが、それを国の中の人々は他との比較が出来ないので、ただ黙々と従っているにすぎない。
けれどもメデイアの進化は国境を越えていくらでも浸透するわけで、北朝鮮の人々が外界の様子を全く知らないということはあり得ないと思うが、そこはやはり締め付けが相当厳しいということなのであろう。
朝鮮半島に関しては、日本の敗戦が1945年で、この日に解放されたという認識であるが、その後北朝鮮と韓国に分断されたのが1948年ということだ。
この時からそれぞれに違った政治体制で今日まで来ているので、今これを統一するということは、想像以上に大変なことだと思う。
ドイツの統一でもそうであったろうが、分断された国家が再び統一するということは、南北の経済の格差を如何に克服するかが最大の課題として残るに違いない。
昨年、2011年は「アラブの春」と称して、中近東でイスラム系の独裁者追放されて、これらの国々の民主化が期待されたが、この地に住むネイティブな人々にとっては、民主化とか、民主主義とか、民主政治という概念そのものが理解されていないので、独裁者を追い払った後に何を築くか、という点で未だに不明瞭のまま迷走している。
これはこの地に住む人々、ネイテブな人々にとって有史以来初めての試練なわけで、明らかに情報の格差の現実であるが、前にも述べたように、こういう地域の人々でも、裕福な階層では先進国への留学という形でヨーロッパの事情を知っている人も大勢いる筈である。
ところがそういう人たちが、自分の身の回りの人たちに、啓発的な教育を施さなかったので、こういう実態を呈しているのである。
2001年にアメリカで起きた9・11事件の首謀者・オサマビンラデインは、サウジアラビアの富豪の息子ということらしいが、彼は富豪なるが故にヨーロッパに留学して、近代文明の恩恵を充分に享受しながら、彼らの古典的な価値観からに抜け切れずに、繁栄するアメリカに一矢報いたわけだ。
オサマビンラデインの家が富豪でありながら、彼がそういう行動に出たということは、やはりここにも彼の民族としての深層心理というか潜在意識のような、持って生まれた先天的な思考が潜んでいたといえる。
私流の言い方をすればべドウインの血が流れていたということだと思う。
中近東の地に住む人々に、べドウインの血が流れているとすれば、この真っただ中に建国されたイスラエルという国の人々には、ユダヤ人の血が流れているわけで、これはこれで有史以来の民族の確執を背負いこんでおりアラブ人との軋轢が絶えない。
ユダヤ人に関してはヒットラーのホロコーストを引っ張り出すまでもなく、この人々は世界中から嫌われているわけで、世界中の人々が彼らを嫌う心理は、我々、異教徒には理解し難いものがある。
2000年も前の宗教的なボタンの掛け違いが未だに共通認識として生き続け、それが宗教上の和解に至らないこと自体が、不思議でならないが、私の浅薄な思考では、ユダヤ人にも嫌われる理由があるような気がしてならない。
キリスト教徒の教範にそぐわない生き方を彼らがしているので、その部分に嫌われる要因が潜んでいるのではなかろうか。
ユダヤ人といえば金融という言葉を連想しがちであるが、彼らは世界から嫌われているからこそ、金融という設備投資を全く不要とする業界で利子を撒き上げて利得を稼いでいるが、これはピューリタン的な額に汗して働くという労働を最初から忌避した発想であるからこそ、敬虔なキリスト教徒から嫌われたのではなかろうか。
キリスト教徒から見れば、自分たちでさえ最も忌むべき労働を汗水垂らして行っているのに、彼らは金貸しで生業をしているのが許せない、という心境ではないかと想像する。
イスラエルの建国が1948年第2次世界大戦が終わっていくらか落ち着きを得た頃であるが、よりによってアラブのど真ん中に土地を得たものだから、周囲との軋轢は最初から予想されていたに違いない。
ところが、ユダヤ人は緻密な思考をする人達なので、周りのアラブ系の人達も彼らに協力するポーズを取れば、和解は成り立つように思えるのだが、それがそうならないところが我々には不可解極まりない。
その根本にあるのが宗教による軋轢なのであろうが、これも私の無責任な推測にすぎないが、理知的な行動をするイスラエル人に対して、アラブ系の人達が、昔のべドウインの発想のままに振舞うことが軋轢の根に横たわっているのではなかろうか。
教育ということを考えると、ユダヤ人は子弟の教育には極めて熱心だが、アラブ人は裕福なものは西洋に留学させるが、自分達で自分達の子弟を教育するということは考えていないのではなかろうか。
世の中の進化の基底には、次世代に対する伝統の継承を如何にすべきかも大きな課題であるが、伝統にこだわりすぎても進化を阻害するので、そういう事情を内包した教育が大事だと思う。
アラブとイスラエルの関係で言えば、イスラエルはその教育を自分たちの手で推し進めようとしているが、アラブ系の人達は、先進国への留学という形で高等教育を丸投げしてしまっている。
この発想の相異がそのまま思考の相異に反映されているように思えてならない。

「『論語』生き方のヒント」

2012-01-10 10:03:33 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「『論語』生き方のヒント」という本を読んだ。
サブタイトルには「人間通になるための50話」となっていた。
著者はひろさちやという人だが、私にとっては何もなじみのない人であった。
約10年ほど前の出版になっている。
落ちこぼれ人生の私にとっては論語といえば、「シ ノタマワク」という出だしのフレーズ以外何も知らなかったが、人生の指南書であるという認識は持っていた。
で、遅ればせながらほんのちょっと覗いてみる気になったけれど、最初の部分である種の衝撃を受けた。
というのも、一番最初の項目が「節操を失った日本人」という話で、その次が「災難にどっぷり浸る」というテーマであったが、昨年3・11東日本大震災を経験した我々にとっては充分に考えさせられる内容であったからである。
この著者はかなりの皮肉屋で体制サイドを相当に皮肉った論旨が多いが、去年の災害を経験した後では、こういう安易な体制批判は深く考えざるを得ない。
しかし、私自身もあの災害に対してはある種の思いを持っていて、災害は極めて不幸なことであるが、それを傍観者としてながめていて、被災者を救済するについてはやぶさかではないが、ただ「被災者が可哀そうだ」という感情論はいささか考えものだと思う。
被災の状況を自分の目で見れば、「そんな悠長なことを言っておれるか!」と、大勢の感情論に与しなければならず、冷静で理性的な思考は引っ込めざるを得ないかもしれないが、それを論語は「君子と小人」という対立軸にとって説いているのである。
「災難にどっぷり浸る」というフレーズの本旨は、災害にあったからといって慌てふためくな、そういう態度は浅薄な振る舞いで、心の練り上げられた出来た人間ならば、泰然自若と受忍すべきで、いくら嘆いたところで元に戻るわけではないと悟るべきだというものだ。
第3者的な傍観者の理屈としては最もなことであるが、現場の被災者にとっては、そんな心の余裕はないわけで、どうしても右往左往ということになりかねない。
この我々の済む地球というのは、常に災害の種を抱き込んだ存在で、火山帯は縦横無尽に地球上に存在し、活断層もそれと同じようにあちこちにあり、地殻はマグマの上に浮かんだ浮き輪のように少しずつ移動しているし、大気は常に変化して台風や日照りをもたらすわけで、我々人類というのは大災害の隙間で生きているようなものである。
地震というのも、究極の地球自体の鼓動なわけで、これから人間が逃れる術は多分ないと考えねばならない。
大災害というのは、人間の住んでいる場所でこういう地球自身の自然の営みが起きるから、人間が被害を受けるだけのことで、人間の住んでいない場所でいくら自然の活動が起きても、何ら被害は出ないのである。
地球自身の自然の活動、地球内部のマグマの活動や地殻の変動を人間サイドからコントロールすることはできないわけで、そう考えると災害というのは、この地球上の何処かには必ず存在し、それが何処で何時起きるか人間が把握できないところが不幸の源泉ということだ。
3・11の大災害というのは、地震と津波と原発事故が重なったので、世界的に注目されたが、津波と原発事故は、最初の地震よって誘発された災害である。
地震と津波はセットで起きがちであるが、これは明らか自然災害である。
ところが東電の原子力発電所の事故というのは、地震に誘発されたとはいえ、明らかに人為的な事故である。
自然災害であろうが、人為的な事故であろうが、被害に遭われた方々はまことに気の毒とは思うが、災害で命を無くされた方々を生き返らせることはあり得ないわけで、問題は、こういう状況下で生き残った方々が今度どう生き延びるかという生き方を考えなければならない。
当然、災害からの復興という話になるわけだが、その復興には地元だけのエネルギーでは不足するので、全国規模で支援をしようという意味で、政府が音頭を取っている。
私はこの部分で、元通りに復興する、しようという思考は、何となく人間の驕りのように見えてならない。
大災害は人間が集中して住んでいるところで起きるのだから、人間が集中せずにばらばらに居を構えれば被害が出ても大災害にはならない。
ならば、人間はバラバラに散らばって住めばいいが、そうなると生きる人間の側にとってまことに不都合で不便で寂しいので、集中する方向に吸引力が働く。
この部分が人間の驕りだと思う。
地球の鼓動というのは人間が生存する前からあるわけで、にも拘らず人間の都合で固まって住めば、ポンペイの遺跡や妻籠村の埋没という災害が再現されてもいた仕方ない筈だ。
災害というのは人間の人知を超えた出来事なわけで、人類はその災害から逃げるという方法しか免れる術は無いのであって、今までの場所に住みつづけながら、災害を乗り越えて今まで以上の発展を目指す、ということは自然を冒涜する考え方だと思う。
当然、災害対策ということになるが、完璧な災害対策を講ずるなどということは理論的にあり得ないわけで、そういう上での復興というのは次善の策でしかない。
だから人が生きるということは、そういう災害と共に有るということにならざるを得ない。
災害に対する対処の仕方としては、こういう方法しかあり得ないと思うが、考えなければならない事は、政府の方策が被災者の思いを汲み取っていない、という被災者の言い分にある。
これはある意味で当然といえば当然で、統治される側の要望を全て統治する側が組み入れることなど最初からあり得ないことで、統治される側の視点からすれば、政府は被災者の気持ちを理解していないという論法になる。
この本の著者は、こういう場面で、組織の下部構成員は自分の言いたい放題のことを大声で叫べば良いと言っている。
それを取捨選択し、仕事なり業務に反映させることが組織のトップの使命であって、下のものは思ったことを遠慮せず、どんどん言い募ればそれでいいと言っているがまさしく正鵠を突いていると思う。
論理的に整合性が立派に貫かれているが、民主政治というのは、下々の無責任な言いたい放題のテーマを汲み取ることで成り立っているわけで、民主党政権というのは、それを真面目に踏襲しようとしているので破綻をきたしているのである。
百人百様の意見を全部実現させようとしても、そんな事が出来るわけもないのに、それを安易に約束するから頓挫してしまうのである。
統治される側に対して、良い子ぶって人気を得ようとするから行き詰まってしまうのである。
論語というのは紀元前の話であって、この中にはメデイアの存在ということが考慮されていないが、世の中の動きには、世の中の有り体には、メデイアの存在が大きく関わり合っている。
同じ地震でも、戦時中の起きた濃尾大地震は、戦時下の報道管制で全国規模で報じられていない。
だから、あったかなかったか判りにくい存在であるが、その前の関東大震災では、報道規制されていなかったので自由に報道された。
だが、それがためにデマを呼び込み、朝鮮人排斥運動にまで行ってしまった。
3・11大震災もリアルタイムで津波や地震の詳細が放送されたので、世界からただちに支援の輪が広がった。
その映像を見た人は、目の前の惨状に驚愕して、被災者に同情を寄せるところまでは極めて人間的な心温まる光景である。
ところがこうした報道がなされると、映像に映しだされる側の被災者が英雄扱いされるようになって、「自分達は苦しんでいるのだからは、お前たちはもっと援助をせよ」という態度が見え隠れするようになってきた。
これはメデイアの報道の仕方、取材の仕方の問題かもれないが、被災者という立場を逆手にとって、横柄な態度をするようになってきた。
メデイアの世論のコントロールというのは、以前に椿発言という事例もあるにはあったが、メデイア側が率先して手を加えるということはあまりないと思う。
ところが、問題は、メデイアの報道を統治される側がどういう風に受け止め、理解するかという点に尽きる。
今の日本の大部分の国民は、メデイアの報道を心から信じている人はいないと思うが、3・11大震災を報道するテレビの映像を見れば、大きなインパクトを受けるのが自然だと思う。
あの映像を世界中が見ているわけで、そうであるとするならば、今度は逆に世界中から同情が集まるというのも自然の流れである。
人間が生きるということは、不合理、不条理なことの葛藤の中での生だと思う。
地震災害に出会った、原発事故で被害にあった、津波で家が流された、ということは生きる過程の予期せぬアクシデントであって、それはどこまで突き詰めてもアクシデント以外の何ものでもない。
そのアクシデントから如何に立ち直るかには、色々な手段・方策があると思うが、今まで住んでいた場に再び拠点を置くというのも一つの選択ではあるが、他の場所に行って人生そのものをリセットするというのも選択肢としては有りうるはずである。
ここで被災者の側としては自分の好き勝手なことを言うわけで、それを鵜飼いの鵜匠よろしく絶妙な手綱裁きでコントロールするのが本来の政治のお手並みの筈であるが、民主党政権は全ての人の全ての願望を皆公平に叶えようとするから、身動きできないでいるのである。
この著者の言うところによると、論語というのは物事の本質を真正面から突くところがあって、感情や人情で価値観の揺らぐことを戒めている風に見える。
今の我々の常識では普遍化しつつある「弱者救済」という行為にも疑問を呈している。
「弱者救済」というフレーズは極めて理性的な概念であって、何人も否定のしようのない絶対的な善であるが、それは自然淘汰の全否定であり、落ちこぼれは落ちこぼれる何らかの理由があるから落ちこぼれるわけで、そんなものは救済に値しないという論理と正面から対立する。
そもそも何に対して落ちこぼれたのか、というところから掘り下げるべきで、ただ希望する大学に入れなかった、希望するセクションにつけなかったから落ちこぼれた、というのであればそれは甘えか世間知らずのどちらかなわけで、落ちこぼれの実態そのものが成り立っていない。
ただたんに怠ける口実にすぎないという論理だ。
だから物事のプリンシプルに忠実であれば、「弱者」と言うだけで救済しなければならない論理は成り立たないわけで、何に対して弱者なのかを見極めてから、必要な措置を講ずればいいということになる。
けれども今の民主党政権は、ただただ政権維持がしたいが為に、有象無象の国民に「良い格好シイ」を決め込もうとしているから立ち行かないのである。

「日本冷戦史」

2012-01-08 11:49:20 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「日本冷戦史」という本を読んだ。
サブタイトルには「帝国の崩壊から55年体制へ」となっているが、内容的には日本のイデオロギーの変遷史に近い物であった。
著者は下斗米伸夫氏である。
サブタイトルが示しているように、「帝国の崩壊」ということを戦中から説き起こしているが、その事は当然のこと、日本の和平工作から考証が始まっている。
終戦間際になって、当時の日本政府がソ連に和平の仲介を期待したことはよく知られた歴史的事実であるが、この事実は開戦前に「日本がドイツとの3国同盟を結べば対米戦になる」という明々白日の愚昧な選択をした思考と同じレベルの愚策であった。
当時の我々の同胞の大部分は、その愚昧さに気が付いていなかったという事だ。
松岡洋佑の主導で、日本がドイツと3国同盟を結ぼうとしたとき、ソ連を撒き込んで4国同盟として、連合国側に対抗しようとしたが、こういう発想が出ること自体、全く相手の本質を知らないということである。
此処で言う「相手」という言葉の定義は、英米と共にソ連についてもその実態を全く知らなかったということで、いわば世界について何も知らず、他民族の存在について全く意に介しておらず、唯我独尊的な独りよがりな思考に陥っていたということだ。
我々、日本民族はいうまでもなく海で囲まれた絶海の孤島の住民であって、大陸に住む人々との接触には極めて不慣れであるので、物の考え方が唯我独尊的な思考になることはある程度いた仕方ない面がある。
それを克服するために学問というものがある筈なのに、その学問が大陸の人々との接触を促進する方向には向かず、むしろそれらに対する優越感を助長する方向に作用してしまった。
我々と似た環境にあるのがイギリスであるが、イギリスとヨーロッパの間の海の広がりは、日本と朝鮮との広がりよりも狭いわけで、その分大陸との行き来は頻繁に行われていたと考えられる。
当然のこと、イギリスと海峡を隔てたヨーロッパ大陸との軋轢は何度もあって、その度に勢力争いが繰り返され、覇権争いが続いたに違いないが、第2次世界大戦後はそういう血で血を洗う行為が愚昧なことだと悟った双方は、歴史から学んだ教訓を厳守しているとみなして良いと思う。
このイギリスは、我々の民族と同じように、ある意味で絶海の孤島の住民であったが、大陸との距離が我々よりも近かったので、大陸との接触の仕方が我々よりも長けていた。
それをこの本の雰囲気で言い換えれば、外交上手、外交巧者であったということである。
外交というのは双方で妥協をしない事には成り立たないわけで、自分の得することだけを相手に押し付けても反発を招くだけで、そこはやはりgive&takeでなければならないが、その中にも騙し合いという事は当然あるわけで、そこが我々の最も不得意とするところである。
ルールは公明正大であるが、そのルールの解釈や、そのルールの使い方はそれぞれに手練手管が要求されるわけで、此処に騙しのテクニックが必要になって来る。
こういう生き方そのものが、イギリスが絶海の孤島に生きる民族の生活の知恵でもあったわけだ。
同じように絶海の孤島の生きる日本民族にとって不幸なことは、我々の対岸にいる中国、いわゆる漢民族は、誕生以来、華夷秩序をもっていたわけで、その影響下にあった朝鮮民族も、中華思想にどっぷりとつかっていた。
だからあちら側では日本は倭の国、野蛮人の国という認識でいたわけで、お互い同士が細々と往き来していた頃には既に文化の格差があったので上下関係が暗黙の内に成立していたと考えられる。
我々から見て、アジア大陸の進んだ文化だと認識した文物は積極的に導入したが、我々の国情に合わないと思われるものは極めて上手に選択から外して、日本文化というものを形作ることに成功した。
物とか情報は、先方のそれがある場所から持ち帰り、研究し、本質を深めることは可能であるが、異民族同志がその場で利害を共にしながら生活する、共存共栄も目指すという社会科学的なことは、双方の大衆レベルの接触が深まらないことには克服できない。
ところが、我々にはそれが不得意な分野であった。
学校で英語を習ったから誰でも英語圏の人と話が出来るというわけではない。
ところがヨーロッパ圏の人々は、それぞれの母国語が起源を一にしているので、お互いの言語に近似性があるためバイリンガルの人が多いが、我々はそういうわけにはいかない。
しかし、我々、日本民族の中でも高等教育を受けた人は、もともとが頭脳明晰なので、外国語を習得することも上手で、外国人と対等に話のできる人も大勢いるはずである。
でも、そういう人達でも、生活体験は自分達の同胞の中だけのことが多いわけで、他の国の人々、異民族の人々がどういう発想をするのか、彼らの潜在意識が何を目ざ目指しているのか、彼らはこの案件にどういう狙いを持っているのか、という相手の深層心理を探るには極めて不寛容、無知であった。
日本が対米戦の前にドイツと同盟を結ぶ愚、終戦間際にソ連に終戦の仲介を求めた愚、当時の政治指導者、戦争指導者、外交官、内務省の官僚、宮内庁の官僚たちにこういう愚昧な行動が愚昧と映っていなかったという事は一体どういう事なのであろう。
この本は冷戦史という事で、冷戦という意味からして、日本共産党の内情を相当深く掘り下げて述べているが、この日本共産党というのも実に日本的な存在だと思う。
つまり、自分のアイデアというものは何一つ持たず、一から十まで外来の思想を翻訳、猿真似しているだけで、コミンテルンの指示がなければ何一つできないという意味では、保守系の政治と何なら変わるものではない。
国内での締め付けが厳しくなると中国に逃げ、中国共産党に擦り寄ったり、ソ連のスターリンに擦り寄ったりと、虎の威を借りるキツネのように、あっちの権威者こっちの権威者に日和見的に行ったり来たりしているではないか。
彼らの党、日本共産党の内側では何時もいつも火山のマグマのように権力抗争が渦巻いているわけで、それは自民党の派閥抗争と同じ次元のものと何なら変わるものではない。
当然と言えば当然で、彼らとても純粋な日本人であるからして、その行動パターンや潜在意識は、我々と何ら変わるものではない。
変わるのは彼らの持つイデオロギーだけで、彼らが何故に共産主義に傾倒し続けているのか、という部分である。
彼らは本当に我々、日本人同胞を、共産主義の理念としている平等社会にもっていこうと、心の真からそう考えていたのであろうか。
日本でコルホーズやソホーズを作って、同一労働同一賃金、人民公社のような社会を本気で作ろうと考えていたのであろうか。
少なくとも高等教育を受けた人間ならば、そんなことは実現不可能な夢物語だ、という事に気がつく筈だと思うが、彼らは本当にそういう理念の実現を目指していたのであろうか。
私個人としてはそう思えない。
彼らは日本共産党員という組織人であるが故に、その組織の温存のために、ああでもないこうでもないと理屈をこねて、自己の存在意義をアピールしていただけで、闘争のための闘争を演じていたにすぎないと考えざるを得ない。
旧日本陸軍が、「大東亜共栄圏の確立」「生命線の維持」と言いながら、自分たちの組織を生き延びさせるために意味のない戦争を繰り返していたのと同じ構図だと思う。
あの戦争末期の軍人や軍部の行動は、もう国民のための戦争でもなく、天皇の為の戦争でもなく、軍人が自分達の組織の存在意義を示すだけの戦争であったわけで、8月15日になっても尚も徹底抗戦を主張するという事は、そうでなければ説明が付かないではないか。
あれ以上戦争を継続すれば、日本民族、大和民族は、それこそ殲滅、根絶やし、全滅、玉砕になりかけていたわけで、沖縄の再現が繰り返される所であったが、あの時点で軍部の人々の思いは、国民のことも天皇のことも眼中になく、ただただ如何に軍部・陸海軍が組織として残せるかということだったと思う。
つまり、組織というものは組織として存在する意義がなければならず、軍隊組織はその意義として対外的には敵対する敵を排除し、自国民を救済し、守る義務を遂行することであって、その目的を全うすることがその存在理由であり、存在意義である。
ところが終戦間際の我々の軍隊は、自国民を救済し守る本来の義務を放棄して、自分たちの組織を温存するために、国民を犠牲にしていたということだ。
戦後の日本の共産党も、共産主義を日本民族に浸透させて、共産革命を推し進めるという本来の使命をなおざりして、自分達の派閥争い、覇権争いに現をぬかしていたということだ。
我が同胞の作る組織というのは、あらゆる組織がこういうジレンマから逃れられないようで、軍隊から、共産党から、自民党から、民主党から民間の企業に至るまで、我々の組織は必ず派閥争いに巻き込まれ、本来のその組織の持つ使命がなおざりにされて破綻をきたすようになっている。
この地球上に生まれた人間が生きるということは、他者との関係性無しではあり得ないわけで、他者と他者の接点では必ず何らかの軋轢が生まれるものと思う。
短い時間ならば多少我慢して、相手の勝手な行動を受忍するという事もありうるであろうが、これが土地の境界線のトラブルともなれば、どんな些細なことでも決して疎かにはできない。
それを別の言葉で言い表せば国益という表現になるわけで、それは人命であったり、土地の境界線であったりするわけで、こういう微妙な問題では決して妥協が許されない。
北朝鮮が日本の領域内から日本人を拉致するなどということは、もうそれだけで立派な戦争の口実になりうる行為である。
ところが日本は憲法でこういう戦争になっても仕方のない主権侵害でも武力行使はしませんと宣言してしまっているので、「返せ!返せ!」と声をからして叫ぶしか方法がないのである。
我々の国は戦後66年間、武力行使ということはしていないが、この間、日本の主権が侵害されたことがないというわけではない。
北朝鮮の日本人拉致の問題は、当然のこと、主権侵害の明白な事例であるが、その他にも当時韓国の野党であった金大中氏の東京のホテルからの拉致というのも完全に主権侵害であるし、中国漁船の巡視船への体当たり事件なども、明らかに主権侵害の事例であるが、日本は隠忍自重してきたということだ。
冷戦という意味からすると、1960年代の日本の学生運動の盛り上がりも、何となくソ連邦か中国共産党からの働きかけ、あるいは何らかの操作があったのではないかと思う。
この場合、日米安保闘争というのは明らかにソ連や中共を意識した条約で、冷戦のもう一方のイデオロギーでもあったわけで、それに対抗するあちら側の動きというのは、当然あったものと考えるのが妥当だと思う。
この時期は中国の文化大革命の時期と合致しているが、あの頃中国の文化大革命のニュースは余り日本には出回っていなかったように思うが、私だけの無知なのであろうか。
ソ連でも中国でも共産主義を信奉している国家では、西側陣営の共産党シンパの知識人を招いて、自分達の飛躍的な躍進の姿を見せびらかして、PRに勤めていたが、こういう見せびらかしをしてまで現状をカモフラージュしなければならなかったということは、ぞの時点で国家の発展は足踏みしていたということに他ならない。
彼らの国でも優秀な人材は掃いて捨てるほど居るに違いなかろうが、それでもこういう体たらくということは、人間のすることは実に下らないことだというに尽きる。
我々の国を敗戦に導いた戦争指導者、政治指導者を笑っておれない。
ところがこういう場面で、同じバカな指導者でも、国益を何処まで重く考え、国益の進展をどこまで真剣に考えているかでは大きな違いがある。
スターリンでも毛沢東でも、自国民を何千万人という単位で粛清している。
スターリンも毛沢東も、独裁者であるが故に、政策を誤った時には非常に多くの犠牲者を自国民の中から出しているが、そういう失敗は彼らの生存中は表面に出てこないわけで、独裁者が死んだ後から「実はこうだった!」と明るみに出てくるのが普通である。
安保闘争の初期の段階で、日本がサンフランシスコ講和条約で独立を回復するかどうかという時に、「独立する必要がない」と主張した大学の先生方の思考は一体どうなっているのかと言いたい。
この思考も、終戦の時に徹底抗戦を言い募った一部の軍人と同じレベルの思考能力でしかない、ということだ。
人の考えは百人百様なことは言うまでもないが、それにしても昭和20年8月の東京の現状を見ながら、徹底抗戦を唱える愚、占領から解放されて独立をしようかという時に、「占領のままの方が良い」という大学の先生方の愚、これを一体どういう風に説明したら良いのであろう。
こういう先生方が大学という象牙の塔の中にいれば、その後の大学紛争が起きるのもむべなるかなではある。
しかし、この安保闘争と関連して、大学紛争を始めとする各種の闘争が日本全国で湧きあがったが、その闘争には、それぞれにその種となる原因があることは理解できる。
ところが、その種を発芽させて、世間を騒がせる大きな闘争運動に発展させたのは、ソ連や中国からの何らかの指示に基づいた行動ではないかと思われてならない。
例えば、労働者の示威運動・デモ行進というのは法律で認められた労働者の権利であるので、街頭でプラカードを掲げて静かに行進する分には何ら問題はないが、これが道幅一杯に広がったジグザグデモとなると、明らかに法律で規制された違法行為になるわけで、平穏なデモ行進をジグザグデモに仕掛ける人間が、ソ連や中共から差し向けられているのではないかと思えてならない。
政府批判というのは何時でも何処でも誰でもしうることであって、何ら不謹慎なことではないが、自分の祖国の秩序を蔑にする思考や発想というのは、政府批判、或いは政治批判の枠を超えた行為だと思う。
我々の民族の先輩たちが、戦前にドイツやイタリアと3国同盟を結んだ経緯、及び終戦の間際にソビエットに終戦の斡旋を依頼しようとした愚。こういう愚かな思考は一体何処から来ているのであろう。
戦前も戦後も、政治指導者と言われるような人達は、諸外国の事情をこんなにも知らないままでいたものだろうか。
戦前でも一部の人は3国同盟を結べば対米戦に引き込まれるということを知っていたわけだし、ソ連に斡旋を頼めば足元を掬われることも重々判っていたと思う。
この地球上のあらゆる主権国家にとって、日本という国、日本民族の存在は極めて脅威的な存在であって、彼らは日本に対して並々ならぬ警戒心を抱いていると思う。
アメリカが日本を仮想敵国と見做すようになったのは、日露戦争に勝ったからに他ならず、アメリカも日本のこのバイタリティーに恐怖心を抱いていたわけで、何時かわ罠に嵌めようと手ぐすね捻って待っていたわけだ。
その罠にまんまと嵌められたのが真珠湾であって、アメリカ、イギリス、ソ連は、この開戦の日から連合軍側の勝利を確信していたのである。
そういう罠が仕掛けられているとも知らず、当時の日本の知識階層は、ドイツの快進撃に目を奪われて、3国同盟に夢を見たわけである。
日本を真から脅威と見ていたのはアメリカのみならずソ連も同じように日本の存在が恐ろしくて恐ろしくて仕方がなかった。
この場合は言うまでもなく日露戦争の例があるので、当然といえば当然で、日本をグウの音も出ないように叩き潰しておきたいのが本音であった。
同じ気持ちは中国にもあるわけで、中国から日本を見れば「あんな野蛮国がどうして」という感覚だと思う。
彼らが日本を恐れる最大の理由は、我々同胞のバイタリティーだある。
明治維新からほんのわずかな時間の近代国家の建設、ゼロ式戦闘機から戦艦大和の建造、戦後の復興、自動車産業の躍進、こういうものを眺めると、世界中が日本の存在が恐ろしくて恐ろしくてならないように思う。
こういう物作りに秀でているが故に、それを放任しておくと日本人が世界中を侵食してしまって、彼らの従来の価値観を壊してしまうのではないかという不安、そういう意味で我々の異民族との接触の不味さが、相手から嫌われる大きな理由でもある。
我々は、自分の手で何かものを作るということには長けているが、異民族と仲良く共存共栄を計る、というスフトの面になると途端に馬脚を現すわけで、それは自分達の価値観の押しつけにある様に思われる。
我々の仲間内で良い事だと思っていることを、親切心で相手に押し付けると、相手は大迷惑を被ることになりかねず、ここで善意でしたことが悪意に取られ、摩擦や軋轢に摺り替わってしまう。
例えば、戦時中に我々は朝鮮人に「創氏改名を強いた」と先方から糾弾されているが、日本の支配下の朝鮮で、朝鮮人の日常生活の中でも日本名を使った方が彼らも何かと便利であったので、日本名に改名する人が増えて来たが、その風潮をお節介な警察官が率先して音頭を取ったので、反日的な朝鮮人からすると日本の官憲が強制したという言い分になるのである。
筋の通った話でも、潜在意識として反日感情があると、日本を非難する方向に議論が傾くわけで、そこにもって来て日本の知識階層が、彼らに物分かりの良いポーズを見せたいが為に、反日的で売国奴まがいの論説を吹くので、日本の評価はますます下がるということになる。
この本は、米ソの冷戦構造の中にも、確実に日本の存在感が潜んでいるということを説いている。
世界大戦後の状況下で、ソ連が日本占領に案外淡白であったのは、スターリンが東ヨーロッパの問題を重視していたからだ、という論旨であるが案外本旨を突いているかも知れない。
スターリンが東ヨーロッパに関心を寄せたというのには、アメリカの原子爆弾に触発されて、自分達もすぐに作ろうとしたが、そこでウラン鉱石がこの地方にしか出なかったので、日本に構うことなく東ヨーロッパを重視することとなったというものだ。
ソビエット連邦のスターリンという人間は、我々の価値観からすると煮ても焼いても食えない実に嫌悪すべき人間だ。
日ソ中立条約がまだ1年も有効期間があるのに、アメリカに勝利を独り占めされてはなるものか、というわけで、わずか1週間の参戦で、北方領土をかすめ取ってしまったわけで、実に不愉快千万な振る舞いである。
ただここで我々が考えなければならないことは、これが現実の外交交渉というもので、外交という場面ではいくら相手を騙しても、武力という背景さえ有れば、それは正当化されてしまうということだ。
ソビエットの北方領土の問題でも、北朝鮮の拉致の問題でも、中国との尖閣諸島の問題でも、武力という背景さえあれば、黒を白とも言えるし、赤を黒とも言えるわけで、「間違っている」と抗議しても「ならば実力で取ってみよ」と言われるともう手も足も出ない。
だから基本的には口先3寸で、黒を白と言い包め、赤を黒と言い包める外交能力さえあれば、素手で相手からこちらの国益を引き出すことも可能であるが、そういう人材が我々の中にいるであろうか。
ところが我々の価値感では、こういう口先3寸の人間は評価が高くないわけで、信用ならない人間ということになっている。
こういう生真面目さが逆に世界から嫌われる大きな理由でもある。
この生真面目さは戦争にも立派に生きているわけで、対米戦の冒頭に真珠湾攻撃したが、その時にドックや油のタンクを攻撃しなかったのは、あきらかに日本の古武士の思考であった。
それは大将と大将の一騎打ちこそが真のイクサであって、日本古来の古典的な武士道の思考であった。
日本の潜水艦がアメリカの輸送船を攻撃しなかったのも、資源の節約という意味があったかもしれないが、古武士の古典的な思想なわけで、20世紀の国家総力戦の意味が、あの時代の日本の軍人には判っていなかったと言える。
我々は、あまりにも良心的な生真面目な戦争をしていたが、敵の方は空からの絨毯爆撃で、女子供という非戦闘員まで巻き込んだ無差別で無制限な攻撃を仕掛けてきたことになる。
彼らは、相手が日本人であったからこそ、こういう攻撃にも良心の呵責を感じることなく、ミッションの遂行が出来たわけで、それは彼らが我々を人と見做しておらず、猿か豚としか思っていなかったということでもある。
外交交渉でもビジネスの場面でも、相手と面と向かって話をする時は、イエロー・モンキーとかジャップという単語は出て来ないであろうが、彼らの深層心理、潜在意識の中には、必ずこの認識が隠れていると考えなければならない。

「戦艦大和の台所」

2012-01-05 10:15:40 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「戦艦大和の台所」という本を読んだ。
サブタイトルに「海軍食グルメ・アラカルト」となっているが、書いた人は私と同世代の高森直史という人だが、戦後の海上自衛隊に奉職した人のようだ。
軍艦には主計という職種があって、我々のようにいささかなりとも米軍の実情を知っているものからするとロジステックと言った方が解り易い。
主計というと、元総理大臣を務めた中曽根康弘氏が主計将校であったことは有名であるが、日本海軍のみならず、日本民族というのは組織の中でも陽のあたる場所を好む傾向があって、海軍という組織の中で日の当たるセクシュンといえば当然のこと兵科であって、直接軍艦の舵取りをしたり鉄砲を撃つセクションであることは論をまたない。
しかし、軍艦というよりも軍隊という組織は、そういう陽のあたる職域のみでは成り立たないわけで、縁の下の力持ちのような陽の当らないセクションで額に汗して働く下級兵士が居るから軍艦が動かせるわけだが、往々にして我々はそういう人の存在を忘れがちである。
「輜重兵が兵ならばチョウチョ、トンボも鳥の内」という言葉があるが、これほど兵站・ロジステイイクをバカにした言葉もないわけで、これだから日本軍は負けたと言っても過言ではない。
国家総力戦、現代の戦争ということが何に一つ判っていない軍人が戦争していたわけで、これでは結果は推して知るべしであって、歴史はその通りの軌跡をたどったではないか。
指揮官や、司令官や、参謀ばかりがいても戦争が出来ないことは子供でも判ることだが、海軍兵学校や陸軍士官学校を出た優秀と言われる人たちは、そういうことに全く無頓着だ。
そもそも旧日本軍では補給という事を軽んじていた。
その背景には、日本人という民族の置かれた地球規模の地勢的な条件が大きく作用していることは否めない。
それを一言で言えば、物資に恵まれていないので、充分な補給は最初から望めないということである。
日本でも海軍は軍艦という運命共同体を形作っているわけで、その軍艦はある程度の生活必需品を貯め込んで行動できるが、陸軍は充分な食料もないまま、戦線を無制限に伸ばすので、前線では補給が続かず点と線と延伸でしかなく、食糧を現地調達しなければならなかった。
現地調達できればまだ良い方で、食糧が枯渇しているにもかかわらず、撤退も出来ずに餓死するという状況にまで追い込まれていたということになる。
この本はそういう深刻な問題はさておいて、呉に戦艦大和のミュージアムが出来たので、それとタイアップして、海軍の食事を再現して、観光客誘致に資することを狙ったところにある。
横須賀には海軍カレーというのがあって、ご当地グルメになっているらしいが、そういう地域おこしの一環として、海軍の食事を掘り下げた読みものであった。
しかし、軍艦の艦長が毎度の食事をナイフとフォークでするフルコースの西洋料理を食していたという事は実に不可解なことだと思う。
これがイギリス海軍ならば不思議でもなんでもないが、日本においては極めて驕った立ち居振る舞いだと思う。
イギリス海軍の将校ならば、その大部分が元貴族の出身であるからして、食事に際しても従僕を従えてのフルコースであったとしても不思議ではないが、日本の海軍将校は全部とは言わないまでも、百姓、町民が玉石混交として混じっているわけで、そこに驕りが潜んでいたということになる。
我々の国は、明治維新を経て近代国家を目指した時、早急に富国強兵を成さねばならなかったので、広く一般国民の中から優秀な人材を即席練成しなければならず、身分制度を全否定して、たった一回のペーパーチェックで士農工商の身分にかかわりなく人士を採用した。
極めて公明正大な民主的な手法であったが、それは同時に悪貨が良貨を排除するようにも作用したわけで、社会的地位の上の者のノブレス・オブリージを喪失してしまった。
水飲み百姓の小忰が、兵学校に行って海軍将校になると、フルコースの食事をする身分になれたのだが、「三つ子の魂百まで」という言葉があるように、自分の出自の百姓根性は生涯抜け切れない。
そういう人が戦争指導していたのであれば、負けるべくして負けたと言っても過言ではない。
日本全国から秀才の誉れ高い若者が一堂に蝟集して、内容の濃い教育を受けてリーダーになるべき帝王学を身につけて、卒業後何年かすると軍艦の艦長としてフルコースの食事を供せられる身分になる。
こういう身分になると、戦争のこと、如何に戦うか、相手の状況はどうなっているか、兵站は大丈夫か、という事を全く考えない将官になってしまっているということである。
考えても見よ。
普通の頭脳の持ち主ならば、軍艦の総大将がフランス式のフルコースの食事を取っていて戦争に勝てると思う方が間違っているではないか。
平時であろうが、抗戦中であろうが、敵と戦うことを本務とする軍人ならば、貴族の真似などしている暇はない筈ではないか。
確かに高級軍人というのは、ある面では外交官的な使命を帯びることもあるが、その時はそれ専門の要人を出せば済むことで、常日頃から貴族のような立ち居振る舞いはもってのほかだと思う。
あの時代の書物を読むと、海軍でも陸軍でも司令官、指揮官、参謀の名前は次から次の出てくるが、その全てが海軍兵学校の何期の秀才、陸軍士官学校の何期生という言い方で語られており、その前の出自は一切伏せられている。
出自を伏せたまま、階級でその人物を語るので、こういう高級将校が作戦に失敗しても、その責任を追及しようとしない態度は、その辺りの卑しい心根が作用していたのではなかろうか。
人間というのはいくら高等教育を受けても、その人の持つ根源的な性質や性格は修正できるはずもなく、倫理観の醸成には教育は何の役にも立たない。
身分制度を全否定して、公明正大に、機会均等に、人材を公平な統一テストで募集しても、それで集まった人材は玉石混交であって、個々の人材の倫理観を高めることは不可能なことである。
にも拘らず、卒業後、在校中の成績順にポストを振り分けるなどという事は不合理極まりない。
明治維新を経て、我々の国が近代化を目指そうとしたとき、我々の同胞の大部分が、教育こそが立身出世のツールだと思い違いをしたわけで、そう考えること自体があさましく下卑な発想であった。
敗戦で何もかも失った後では、教育を立身出世のツールと悠長に考える間もなく、その日の糧を得るために、明日の糧を得るために、死に物狂いに働かざるを得なかった。
脇目も振らずに目の前の仕事をこなしていると、普通の人ならば、自分の仕事をもう少し楽にできないだろうかと考えるわけで、そこに合理的思考が生まれる。
ところがこれがピラミッド型の組織では、下の方はそういうアイデアを出しうるが、トップの方では自分が実際に仕事をしているわけではないので、そういう発想も湧かなければアイデアも出ない。
この本の主題である「軍艦の台所」というのは、狭いスペースで全員の食事を賄うという大命題をこなさなければならないので、それをする作業場は高度に合理化されていなければならない。
そういう意味で「必要が発明の母」という摂理に従って、合理化を極めた配置になっていると考えられる。
日本海軍の過酷な訓練は、軍縮協定で戦艦に量の枠がはめられたので、その量を連度でカバーしようという発想の元に「月月火水木金金」という連度向上の狙いがあってそうなったと言われている。
ところが、量の不足を連度でカバーしようという発想そのものが、日本の貧困を指し示しているわけで、その貧困をカバーするために、創意工夫が求められればよかったが、その部分で国の外に資源を求めに行こうとしたから、ジャパン・パッシングにあったとみるべきであろう。
どこの国でも、国の形というのはピラミット型の三角形の組織だと思うが、下々の方は窮すれば創意工夫で急場を凌ぐが、組織の上の階層になると、そういう知恵が働かなくて、国民の声を代弁するという形で、国益の進展拡張を露骨に示してしまう。
この部分を国民から選ばれた政治家が成すのであれば、まだ救いようがあるが、政治家の振りをする軍人がそれをした日には、実も蓋もない軍国主義に摺り変わるのも致し方ない。
という愚痴をいくら並べても前向きの思考には成らないが、問題は、人は窮すれば最適な打開策を必死に考えるという事が現実にあるわけで、組織の上の方の人、トップの人には、その自分達が如何に窮地に追い込まれているかという認識がない。
だから、政治家が政治を放り出し、軍人が戦う事を放棄して、嫌なことは他者の所為にして自らは保身に走るのである。
戦争に負けるという事は、何処かに負ける要因、因子、理由、原因、手法の過ち、手段の不適合があったから負けたわけで、その責を負うのは当然の事、旧大日本帝国軍隊である。
世界の人は実によく我々のことを観察している。
「日本の下士官、兵は世界で最も優れた戦士であるが、日本の高級将校はバカだった」という言辞はまさしく正鵠を得ている。
我々は今でも、海兵とか陸士を出た人を何となく崇める傾向があるが、その優秀であるべきこれらの人々が何故敗北ということに至ったのであろう。
日本の田舎のド百姓の小忰が、海軍兵学校に入って何年か後には一国一城の大将となって、艦長室でフルコースの食事を供されていたとすれば、負けるべくして負けたと言える。
明治維新の身分制度廃止に伴う、四民平等、機会均等、公明正大、画一的教育という究極の民主主義の結果が、「味噌も糞も一緒くた」にしたわけで、その中でも「三つ子の魂百までも」という風に、の心根というのは教育では変えられない、ということが実証されたわけだ。

「連合艦隊司令長官山本五十六」

2012-01-04 08:48:07 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「連合艦隊司令長官山本五十六」という本を読んだ。
著者は半藤一利氏である。
昨年が太平洋戦争の開戦70周年という事で、山本五十六が何かと話題になって、映画にもなったようであるが、その映画制作に協力するという形で、この本が出来上がったらしい。
山本五十六と言えば、当然のこと日独伊の3国同盟に反対して、アメリカとの対決を避けたいと考えていた人だが、時世の流れはそういう風にならずに、日米開戦に至ったというのがもっぱら彼の評価であった。
その時の状況から戦後の反省として、海軍善玉、陸軍悪玉という世評が確定したとも言われている。
その中でも彼は一貫して、非戦論を展開していた、という事で戦後の人々の彼に対する評価は当然のこと「正義の味方」という位置付けて語られている。
先に読んだ阿川弘之の「軍艦長門の生涯」でも、連合艦隊司令長官の山本五十六については既に語り尽くされている感があるが、これらの本を読んでみると、歴史というのは一人二人の英雄で左右されるものではなく、基本的には大勢の人間の心の在り様によって大きく歪曲するものだと考えられる。
我々、戦後に育った人間は、民主主義というのは「人民の人民による人民のための政治だ」と教わって来たが、この民主主義の理念は、人民の集大成というものが衆愚だ、という真実を考慮していない理念だおれのスローガンに過ぎない、ということを考慮に入れていない。
その意味では共産主義者の革命熱と同じようなもので、革命で現行の秩序を破壊すれば明るい未来がやって来るに違いない、という極めて不確定な幻想を追い求める姿と瓜二つである。
こういう本を読んでいていつも不思議に思う事は、海軍兵学校の成績が話題になって、それが過大評価されているように見えてならない。
その中でも、海軍大学に進んで恩賜の短剣を授受された秀才、という言葉が随所に出てくるが、こういう学校秀才に対する認識がどうにも画一的で、秀才で有れば彼らがすべき仕事、乃至は任務をそつなくこなすに違いない、と頭から信じ切っている態度である。
海軍兵学校に入学したという実績は、その村一番その町一番の秀才だったには違いなかろうが、その村一番その町一番の秀才は、日本全国津々浦々にいるわけで、そういう秀才が本当に秀才であったならば、日本が勝つ見込みもない戦争に嵌り込んで行くわけがないではないか。
軍艦の艦長、連合艦隊の司令官というような人を話題の核として本にまとめようとすると、海兵何期の秀才とか、恩賜組とかいう言い方になりがちであるが、学校秀才と言われる人ほど当てにならない存在も他にないと思う。
幼児の時に神童と言われたが長ずるに及んで凡才となる人は掃いて捨てる程いるわけで、僅か18、9歳の若者が真に秀才かどうかは極めて不確定な要素であるにもかかわらず、我々の先輩諸氏は海軍兵学校に入ったというだけで、秀才と認識してしまったようだ。
彼らが真に秀才であったとすれば、彼ら自身が組織の内部から自浄作用を働かせて脱皮して然るべきだと考える。
彼らには彼らの身内における習慣とか因習があって、それが一つの既得権益を形成していて、それに抵触する改革は内側からはあり得ないわけで、それが結局のところ大日本帝国海軍が外圧、いわゆるアメリカの戦争勝利という大きな外圧で以て消滅させられるまで、彼ら自身では気が付かなかったという事ではないか。
日本がアメリカと戦争して敗北した遠因は、私の考えるところでは、明治憲法の不備だと思う。
明治憲法の中の天皇大権の統帥権もさる事ながら、その前に帝国議会が陸軍省と海軍省を政府の枠の外の置いたこと、つま閣外においたことが最大の理由だと思う。
これが為、シビリアン・コントロールが効かせようにも効かせれなかったわけで、こういう点が我々の民族の融通無碍な生き方そのものなのであろう。
良い意味にとれば柔軟性に満ちた発想という言い方も成り立つが、別の言い方をすれば、対処療法で、その場その場を何となく曖昧なままやり過ごし、先送りしてうやむやの内に忘れ去ってしまうような対処の仕方である。
明治憲法はドイツの憲法を参考にしているので、民主主義の理念が十分に反映されていないところがあるが、それを「不磨の大典」としてしまったので、悪い部分を修正するという事も出来ずに、昭和の時代まで来てしまったのである。
陸軍省と海軍省が政府の外側にあってはシビリアン・コントロールそのものがあり得ないわけで、まさしく軍部は天皇陛下の直轄であったわけである。
直轄ならば直轄でいいが、軍部が天皇の言うことを効かないでは誠に困った仕儀であって、国民に対しては天皇制を必要以上に強調しながら、自分達は天皇を政治利用していたということになる。
無理もない話だと思う。
昭和天皇が即位したとき、本人の年齢は26歳で、26歳で日本中の全ての政治を見なければならなかったことを考えると、いくら帝王学を身につけていたとはいえ、海千山千の古参の軍人政治家を抑えるには並大抵ではなかったかと想像する。
ここで私の疑問は、政治指導の中枢にいる人たちが、天皇陛下に嘘を言ったりごま化したりしながら、国民に対しては絶対的な服従を要求していたということである。
美濃部達吉博士の『天皇機関説』を何故あれほど厳しく糾弾しなければならなかったのかという疑問である。
天皇陛下自身が「これで良い」と言っているものを、寄ってたかってイジメ抜く心境というのは一体どう説明したら良いのであろう。
ここで私なりに考えることは、こういう昭和の初期の風評というのは、メデイアによって喚起された現象ではないかということである。
日露戦争の講和条約に対する不満とか、ワシントン軍縮会議、ロンドン軍縮会議に対する国民の不満というのは、メデイアのよって喚起された表層的な風評であって、国民大衆というのはその表層的な風評に弄ばれたというのが偽りのない事実なのではなかろうか。
こういう現象を鑑みると、あの未曾有の大戦争は、当時の日本国民の熱望によって引き起こされたと言っても過言ではないように思える。
満州国建国に対する国際連盟の勧告を蹴った松岡洋佑を熱烈歓迎したのは我々の同胞であったわけで、ロンドン軍縮会議をこぞって糾弾したのも、我々の同胞の一般庶民、国民であったわけで、この当時の日本国民は、全てイケイケドンドンの風潮に浮かれていた事実を厳粛に受け止めなければならない。
政府は国民の声を具現化するのに相当に迷い、逡巡し、悩み、躊躇していたが、それを綺麗さっぱり払拭してくれたのが日本陸軍という天皇の軍隊であったということになる。
当時の日本国民の立場からすれば、日本がドイツと手を結べば米英が出てくる、という国際関係の方程式など何ら考慮することなく、滅支鷹懲であったわけで、ドイツの快進撃に目を奪われて酔ってしまっていたという事だ。
この一連の情勢を国民に知らしめたのは言うまでもなく当時の日本のメデイアであったわけで、如何なる国家でも、如何なる民族でも、一寸先のことは解らなのが普通であって、そういう意味では我々の先輩諸氏が誤った判断をし、選択を誤るというのも無理からぬことではある。
判断を誤ったり、選択を間違えるという事はあるが、政治というのは全員参加でできる筋合いのものではないわけで、選ばれた代表団によって話し合いが進められ、双方の主張の妥協点を捜しあてて、落とし所に落とすというのが普通の外交交渉だと考える。
この外交団の決めてきたことは、普通の国民にとっては国益を損なっているようにみえても、それが精一杯の妥協点であったかもしれないわけで、それが自分達の思い通りではなかったと言って息まいても詮無いことである。
こういう微妙な問題を煽りに煽って、国民に奮起の渦を巻き起こすべく動くのがメデイアであるが、このメデイアの言説は極めて無責任なわけで、メデイアが無責任な存在であることは世間では普遍化した認識であるにもかかわらず、人々はこのメデイアの言説に振り回されるのである。
外交団が苦労してまとめてきた案件を、メデイアが真っ先に批判するという事は、その外交交渉の裏側に通じていない所為もあって、出た結果だけを見て色々不平を言うメデイアは無責任そのものであるが、そのメデイアの言説をそのまま鵜呑みにする大衆も、実に不甲斐ない存在である。
大衆の意見、いわゆる人民の人民による人民のための政治の根源にある情報というのは、メデイアによって醸成される極めて不確かな情報でしかないわけで、それでもって自分達の思い描く結論に導こうという思考は、究極のポピリズム、衆愚政治ということになる。
大衆、民衆、国民、臣民という言い方でなされる被統治者の熱望は、数が多いだけに民意を表していることは確かであろうが、この民意というのは案外曲者で、多数意見を採択して奈落の底の転がり落ちたというのが、あの戦争の敗北であったということを改めて考えて見る必要がある。
昭和の初期の時代において、我々の同胞の大部分は滅支鷹懲を頭から信じていたわけで、当時でも数少ない有識者は、そんなことをすればアメリカとイギリスが黙っていないという事は充分判っていた。
けれども国民の大部分と陸軍は、中国戦線の拡大こそが日本の生きる道と思い込んでいたわけで、その上、ソ連までも仮想敵国と認識していたという事は、あの時代の国際感覚が見事に失われていたという事に他ならない。
この時代になるともう江戸時代の鎖国状態では生き残れないわけで、世の中は大和民族が思い描いていたよりもうんとうんとグローバル化していたという事だ。
日本にとって中国大陸が生命線であるように、アメリカやイギリスにとってもアジア大陸は国家の存亡を担う生命線であったわけで、そういうヨーロッパ諸国民の裏事情に日本のメデイアは極めて疎かったという事だ。
その前に、我々日本民族というのは、余りにも傲慢過ぎたと思う。
日露戦争に勝ったことによって、余りにも無思慮に舞い上がってしまって、東郷平八郎が連合艦隊を解散する時に、「勝って兜の緒を締めよ」と注意を喚起したにもかかわらず、それを忘れて身の程を知らな過ぎたという事だ。
海軍兵学校が優秀だと言われているが、それと同じ比重で陸軍士官学校も優秀であったが、その優秀であるべき陸軍士官学校の卒業生が、何故に中国大陸で自らの組織のプリンシプルを見失って、天皇の言うことさせも無視した行動に出たのであろう。
人間の本質として、頭脳明晰、学術優秀であれば、先人の言った戒めの言葉を忘れてはならない筈なのに、それを無視して独断専行するということは、秩序を重んじる組織人としての軍人ではない、ということに他ならない。
昭和初期の日本の雰囲気としては、「狭い日本には住み飽きた、赤い夕陽の満州に海外雄飛」という雰囲気があったことは確かであろうと思う。
この雰囲気は、いわゆる貧乏からの脱出、日本の経済的な危機から何とか逃れたい、疲弊した農村から何とか日銭の入る仕事につきたい、という庶民、国民、大衆の願望が潜在意識として内在化していたと考えられる。
そして日本の陸軍、もちろん海軍でも同じであるが、軍隊を構成している生身の人間は、全て自分達の仲間としてのこういう零細な庶民からなっているわけで、こういう階層から陸軍士官学校に進んだ青年将校たちにしてみれば、自分たちの父母の貧困を目の当たりしている。
だから西洋列強の帝国主義のように露骨な富の収奪ではなく、この地を復興させて、外地も内地も同じように経済発展しよう、同じように富の底上げをしよう、という理想に燃えるのも無理からぬことである。
問題は、日本の陸軍は兵站を現地調達で賄おうとしたので、中国の大地に足を踏み入れるやいなや、現住民から食糧の調達をせねばならず、現地の人々との摩擦を引き起こした。
結果的に言うことを効かない現地人に対して、武力行使ということをせざるを得ず、そのため現地人から反感をもたれたので、ゲリラ戦に引き込まれ実質的には点と線みの占領ということになり、日中戦争は抜き差しならない泥沼化してしまったという事だ。
海軍でも陸軍でも此処まで来る間には大きな分岐点を何度も通過してきたに違いないが、その分岐点での選択が悪い方に悪い方に選んできたわけで、その時の判断力の低下を何と説明したら良いのであろう。
海軍でも、真珠湾攻撃を「成功だ、成功だ」と喜ぶ気持ちは判らないでもないが、結果的に見れば詰めが甘かったわけで、見た目の表層の実績だけで戻ってきてしまったという意味では、国家総力戦の真の意味を本当に理解していなかったと言える。
海軍は自分達の組織が消滅するまで、日本の古武士の戦の仕方を金科玉条としており、武将同士の一騎打ちという概念で捉えていた節が伺える。
最後の最後まで、兵站という考え方に重きを置かず、戦艦と戦艦の一騎打ちを望んでいたようだ。
真珠湾を攻撃した時に、船を修理する工廠を壊滅させ、燃料タンク炎上させておけば、アメリカ太平洋艦隊の復帰はもっともっと遅れたに違いないが、そういうところまでは知恵が廻っていなかった。
そして、戦争の話なると毎度私の頭の中に浮かんでくることは、世界の軍人が認めているように、「日本の下士官は世界でもっとも優秀な戦士だが、日本の高級将校はバカばかりだ」という言葉である。
海軍も陸軍も、それぞれに優秀な若者が蝟集した将校養成機関であったが、そこを卒業して本来ならば優秀な指揮官、司令官になるべき人たちが、世界の軍人から見てバカだったということは一体どういう事なのであろう。
現実にそういうクラスの人達がバカだったからこそ、日本は戦争に負けたわけで、歴史がそれを見事に実証したとも言える。
日露戦争が1904年、日米開戦が1946年、その間42年間であるが、戦後の40年間というものを考えると終戦から40年だと1985年昭和60年に当たるが、この間、海軍兵学校や陸軍士官学校は存在せず、軍人という人間は一人もいなかたことになる。
軍人という人間が一人もいなかったから戦後の復興が成就したとも言える。
村一番町一番の秀才が蝟集する軍人養成機関というものが、戦後の日本には一切存在せず、人々は額に汗して働くことを選択したわけで、サーベルの音をこれ見よがしに立てて、肩で風切って虚勢を張ることを遺棄したのである。
軍事力は経済発展の糧には成らなかったことが証明されたわけで、軍事力につぎ込む金を、生産設備の増強に投じたから経済大国になりえたのである。
しかし、組織というものは軍部のみにあるのではなく、民間企業でも官僚にもあるわけで、組織のメルトダウンというのは、今日でも頻繁にありうる現象ではある。
組織が壊滅する大きな理由は、矢張り組織のプリンシプルの消滅であろうと思う。
基本理念に忠実であるという事は、組織を維持していくうえで、ことのほか大事な要因だと思う。
如何なる組織でも、それが存立する根本的な理念とか、意義とか、目的があるはずで、旧日本軍はその存在意義を逸脱して、政治に関わりを持ったが故に、組織そのものが消滅の浮き身にあったという事だと思う。
日本海軍において、連合艦隊の旗艦が攻撃部隊と行動を共にしていないのが不思議で不思議でならなかったが、その理由が「燃料がなかった」というのだから今更ながら開いた口が塞がらなかった。
山本五十六が連合艦隊司令長官として真珠湾に出向いている攻撃部隊や、ミッドウエイ―にいる艦隊を遠隔操作しているのが不思議でならなかったが、それが燃料不足のため行動が共に出来なかったというのだから負けるべくして負けたと言わざるを得ない。
彼が「1年か1年半ならば戦える」と言ったのは、言い方を変えれば「燃料がそれだけしかないよ」ということであったわけだ。
にも拘らず対米戦が避けられなかったという事は、山本五十六の所為にするには余りにも酷過ぎると言わざるを得ない。
彼としてはその間に「和平工作をせよ」という事であったろうが、そうそう彼の思う通りにはいかなかったということであろう。

「軍艦長門の生涯」下巻

2012-01-02 08:47:53 | Weblog
前回に引き続き「軍艦長門の生涯」下巻を読んだが、近年稀に見る重厚長大な作品であった。
「あとがき」によると昭和47年8月から昭和50年2月まで産経新聞の夕刊に連載されたとなっているが、約3年半にわたって書かれたものを1日や2日で読めるものではない。
しかし、旧日本軍の組織というものは如何にいい加減なものであったか、という事が如実に浮き彫りにされている。
軍人が敵と戦うという前に、自分達の官僚組織の維持に汲々している姿が見事に描き出されている。
それは組織の各級・各セクションにおけるプリンシプルの喪失ということだと思う。
つまり、ことの本質を見失って外形ばかりを整えようという稚拙な思考に負けて、ことの本質を曲げてしまうという事だが、その背景には当然のこと、世情とか世評とか人々の潜在意識があることは論をまたない。
5・15事件や2・26事件における被告に対する世間の人々の同情は、そういう時の雰囲気を如実に表しているが、それに統治者が取り込まれてしまっては衆愚政治になってしまうわけで、あの時代はそれが現実化していたという事だ。
あの時代の大衆が、ああいうテロ行為を容認する背景には、当然のこと、為政者に対する反感が募っていたことは言うまでもないが、その基底には地球規模におけるもろもろの要因が関係しているわけで、一つや二つの要因でそういう世情が醸成されたわけではないと思う。
日本が奈落の底に転がり落ちたのは言うまでもなく対米戦をしたからに他ならず、何故そういう事態に至ったかと言えば、やはり中国における日本軍の行動がアメリカの琴線に触れ、アメリカの対日政策の奮起を促した点にあったと言える。
この部分の本質を見極めて、それを一般大衆に説くべき立場が本来ならばあの当時の政治指導者の役目であり、知識人の勤めであった筈であるが、誰もそのことに気が付いていなかった。
あの時代における日本陸軍の中国における行動は、まるで理性を欠いた行動で、中国人を舐め切った思考だと思う。
中国人を舐めていたばかりではなく、アメリカも日本を大いに牽制していたが、我々の側の先輩諸氏、或いは一般国民は、そのアメリカの真意を計りかね、舐めていたわけで、アメリカをも見くびっていたという事だ。
この時の陸軍の立ち居振る舞いを私の言葉でいえば「貧乏からの脱出」という言い方になるが、これは人類誕生以来の大命題なわけで、如何なる民族もそれを克服したものはいない。
であるが故に、共産主義というのがそれに挑戦しようとしたが、現実にはそれが絵に描いた餅に過ぎなかった、ということが実証されたに過ぎない。
その実験では大きな犠牲を払って、富の公平分配は不可能ということが証明されたことを歴史が示しているが、この時点ではその夢が未だに夢のままであったわけで、人々の中にはその夢を真剣に追いかけていた者もいた。
昭和初期に起きた様々なテロ行為の実施者、いわゆるテロの被告たちは、口先では天皇を擁護して、天皇と国民の間にいる為政者を国民の困窮の源泉と捉えて、それを撃てば天皇が善政を敷いてくれると思って、政府高官を撃とうとしたが、これは実質的に共産主義の論理と同じであった。
今の私共の感覚からすると何とも理解に苦しむが、基本的には当時の日本の経済が、それだけ疲弊していたという事だと思う。
だから天皇と国民の間にいる政府高官や財閥を宦官と認識して、それを撃てば世の中が良くなると思い違いをしたのである。
ここで戦後の教養人や知識階層が真摯に反省しなければならないことは、メデイアの存在とその役割である。
あの時代のメデイアが極めて日和見で、無責任な報道をしたという事は今更言い募っても詮無い事であるが、何時の時代でも世論形成はメデイアが主導するという事を肝に銘じておく必要がある。
平成24年という今日でも舌禍で大臣の椅子を棒に振った人はあまたいるわけだが、舌禍が果たして本当に舌禍であったかどうかは誰も検証しない。
舌禍。確かに穏当を欠いた言辞をついつい口にしてしまうことは本人の不注意であろうが、それが果たして大臣の椅子を投げ出すほどの重要な事かどうはまた別の話であって、メデイアはその言葉尻を掴まえては、舌禍としての寛容を許さない。
こういう時の雰囲気は、反対意見を言うとそれを一つの意見として認めず、短絡的に非国民という烙印を押しつけるかの如くである。
こういう雰囲気だから普通に正論が言えないわけで、正論を封じ込める仕儀はマスメデイアの側に顕著に存在するように思う。
この本を読んでつくづく思ったのは、軍という機構の中でセクションがいとも安易に変わる事である。
それは、大臣が一寸口をすべらせてメデイアの揚げ足とりにあい、言葉尻を掴まれて交代できるような事であれば、そのセクションの仕事或いは任務は、誰でも彼でも、猫でも杓子でも、馬鹿でもチョンでもその椅子に座れば出来るのかという単純な疑問が湧く。
この本のよると長門が誕生して、終戦後ビキニ環礁で原爆実験に供されるまで27年間と言われているが、この間艦長は32人交代しているという事だ。
単純に考えると、艦長は1年も勤めないうちに交代するわけで、こんなに頻繁に交代しても軍艦の艦長というものは果たして本当に務まるものであろうか、という素朴な疑問が湧く。
これは艦長だけの交代の例であるが、この例から察するに、海軍という組織全体において、上から下まで常に人事異動によって、人が立ち替わり入れ替わっていると考えられる。
人事異動というのは何も海軍だけの話ではなく、陸軍でもその他の官僚でも同じように、あらゆる組織にはついて回ることであろうが、そこにもやはり何故人事異動が必要かというプリンシプルはあると思う。
海軍のみならず、陸軍でもその他の官僚でも、席の温まる間もない人事異動というのは、彼ら同志、つまり仲間内の庇い合いというか、利徳の公平さというか、自分達の利益の公平さ、標準化という事が潜んでいるのではなかろうか。
つまり、仕事とか任務の遂行という事よりも、待遇にバラツキのないように、或いはその逆に気に入らない人間にはハンデイーとしてぺナルティーを課す、というような懲罰の意味も含まれているのかもしれない。
軍艦の艦長が1年間も居つかないというのをどういう風に考えたらいいのであろう。
それと合わせて、彼ら海軍のみならず陸軍においても同様であるが、作戦に失敗しても責任を一切取らないというのは一体全体どういう料簡なのであろう。
海軍でも陸軍でも、司令官、指揮官ともなれば、それ専門の士官学校を出た人たちがなっている筈で、当然、自分に任された計画とか作戦が失敗すれば、責を負わなければならないことは判っている筈なのに、それをしないという事は一体どういう事なのであろう。
2・26事件等においては、反乱兵士たちに公然と同情を寄せて良い子ぶった陸軍将校も居たが、天皇陛下が毅然とプリンシプルを貫かれたら、なりを潜めてしまった人もいるわけで、自分の発言に対する責任、自分のしたことに対する責任というものをどういう風に考えていたのであろう。
この本の中にも記述されているミッドウエイ―海戦、レイテ沖海戦、マリワナ沖海戦等々の失敗に際して、司令官、指揮官が責を負ったという話が全くない、というのは一体どういう事なのであろう。
私の個人的な想像では、その理由は責任を追及する側も、責任を負う側も、いわば海軍兵学校の先輩、同輩、後輩という関係に中で、お互いに庇い合ってのことだと推測する。
そういう感情を抱いたまま、陸軍と駆け引きしながらの戦争遂行であったので、日本がいよいよ敗北という場面に至っても、彼らには敗北の責任という概念は遂に湧いて来なかったようだ。
しかし、私が不思議で不思議でならないことは、あの昭和20年8月15日という日においても、日本の将兵の中で、徹底抗戦を唱えていた人がいたという現実である。
有象無象の無知蒙昧な大衆が言うのならば、まだ理解の枠内に収まるが、卑しくも軍人としての将兵が、あの東京の惨状を目の前にしながら、なおも徹底抗戦を唱える心情というのは不可解千万である。
この本を読むまでもなく、我々が日米開戦にのめり込んで行った経緯も、不可解と言えば極めて不可解で、大部分の知識階層は勝ち目がないという事が解っていながら、ずるずると嵌り込んで行ったというのは一体どうしてなのであろう。
私の個人的な推測では、あの当時の国民大衆の総意が、シテはならない戦争に踏み込ませたと考える。
一言でいえば、衆愚ということで、愚かな国民の声なき声を具現化しようとしたのが、有象無象の庶民の中から村一番町一番と言われた秀才が蝟集した兵学校、士官学校の出身者に先導されたという事だ。
つまり、言い方を変えれば村一番町一番と言われた秀才が、秀才であるが故に、有象無象の無知な大衆の声なき声を代弁したとも言えるわけで、こういう馬鹿な大衆が言うことは無知蒙昧な戯言であったが、それを真に受けたという事だ。
無知蒙昧な戯言を大衆に吹き込んだのは、言うまでもなくその当時のメデイアであったわけで、その事を考えると、言いたいことが言えない雰囲気をよくよく考察しなければならないと思う。
言いたいことを言う、言うべきことを言う、とそれは時流に棹さすことになるわけで、そのお先棒を担ぐのがメデイアということになる。
メデイアは正論を述べると、それを大勢の思い願う事に対する反抗的な言辞ととられるわけで、それを口にすると不特定多数の有象無象の輩から猛烈な糾弾を浴びされて非国民扱いされかねない。
物事のプリンシプルは此処で大きく歪曲されて、筋の通らない話が堂々と罷り通るということになる。
本来ならば、ここで教養知性豊かな知識人という階層の人々が、世論の過ちを正す言辞を弄すれば、事のプリンシプルが厳正に保たれるが、そういうクラスの人々が多数意見に迎合すると、雪崩をうって奈落の底に転がり落ちるということになるのである。
日本が対米戦に嵌り込んで行った経緯は、例の3国同盟に加入したからに他ならないが、この日独伊の3国同盟に入る入らないの選択は、あの時点では相当に難しい判断であったに違いない。
ただ結果から見ると、我々の同胞の大部分はドイツの快進撃に幻惑されて、ドイツがヨーロッパで覇権を握ると思ったのもいた仕方ない面がある。
問題はこの部分に内在するわけで、ヒットラーの快進撃を何の疑いも持たず頭から信用する、という部分に我々の経験の至らなさがあったわけで、その事を解り易い言葉で表現すれば、軽佻浮薄という事で、メデイアを頭から信用した報いでもあったわけだ。
メデイアなどというものは、何時の時代でも何時の世でも、決して信用してはならない、という鉄則を蔑にした報いでもある。
それを裏側から考察すれば、イギリスやアメリカの本質を知らない無知と言える。
あの時点の国民にそれを期待することはしょせん無理な話であって、それを素直に説くのが本来の知識階層の役目であったけれど、こういう人もこういう人で食って行かねばならないので、その為には世間に迎合する他なかったという事だと思う。
政治というのは人の意見を聞くことも大事な要件なわけで、右を取るか左を取るかという岐路に立たされたときの判断というのは極めて難しいとは思う。
日独伊の3国同盟に入るか入らないかの決断は非常に難しい判断であって、こういう時に人の意見を聞けば、三者三様の答えが出て、ますます決断がしにくくなる。
甲論乙駁で、どれが真の答えか判らなくなってしまうわけで、そういう場合の判断材料は、広範な教養知性で判断するしか方法はないが、多数の人の言う事が真に正しいなどという事はまずあり得ない。
この時のことを今振り返って眺めても、多数意見は3国同盟に与する方を選んでいたわけで、その意見に従ったばかりに日本は奈落の底の転がり落ちてしまった。
今だから「3国同盟は間違いであった」ということになるが、あの時点でドイツの実態を明確に認識していた日本人が果たして何人いただろう。
ただ言えることは、ドイツ人は日本人をバカにしていたということは確かだと思う。
もっともドイツ人のみならず、アングロサクソン系のヨーロッパ人は押し並べて皆日本人をバカにしていたわけでドイツ人だけではない。
我々に比べると中国人も我々と同じようにバカにされながら、それでも中国人は彼らを上手に手なずけて、日本民族と対決するように仕向けたところは流石に4千年とも5千年とも言われる歴史の知恵である。
日本がドイツと手を結ぼうかという時に、中国人はドイツ人に対日戦向けのトーチカを上海に作らせていたわけで、そういうドイツと我々は手を結ぼうとしたのである。
我々は中国からもドイツからも手玉に取られ、愚弄されていたわけで、阿呆を絵に描いたようなものではないか。
我々の国の中で正論を貫けば非国民と言われ、それが為敢えて世間に迎合しなければならなかったとも言えるが、世の中というのは所詮、馬鹿と阿呆の騙し合いでしかなく、正義も真実も馬鹿にかかったら何の値打もないものになってしまう。
人々は所詮自己満足の内にしか生きておれないわけで、それにしても教養・知性というのは不可解な代物だと思う。
というのは、戦争も切羽詰まって来ると士官が不足するようになって、予備士官という制度が出来て、大学生が即席練成されて中尉に任官するというシステムが出来たらしい。
それに東大生が多数採用され、軍務についたと書かれているが、同じ東京帝国大学、東大の学生でありながら、戦前と戦後では教養・知性のベクトルが180度相反しているわけで、これは一体どういう事なのであろう。
その背景には当然のこと時代の雰囲気が大きく影響していることは判るが、時代の雰囲気で教養・知性がコロコロと価値観を変えるという事は一体どういう事なのであろう。
大日本帝国海軍も帝國大学も所詮は官僚なわけで、官僚の力学が作用しているかぎり、真の自分達の存在意義を真に理解しているとは言えず、その場その時の雰囲気に流されて、自己保存に汲々しているということなのであろうか。
普通、旧制大学まで進んだ人ならば、軍隊には否定的な観念を持つのが常識的に思えるが、この時代には大学生が進んで国に奉仕するというのは当時の普通の人々の精神性を具現化している姿なのかもしれない。
だとすればその時代の精神性の奇異な有り様は、司馬遼太郎の言う「奇態な時代」をモロに言い表していることになる。
この時代にも大勢に迎合していないニュートラルな思考というのはあるような気がするが果たして本当にそういうものは無かったのだろうか。
だとすれば、我々、大和民族の精神性というのは随分いい加減なもので、時の雰囲気でどういう風にも日和見的に変化する、寄らば大樹の陰、長いものには巻かれろ、人の振り見て我が振り直せということになってしまうではないか。
我々、日本民族も人として、生物として、生を維持しなければならないので、食わんが為に節操を捨てるということも往々にしてあるとは思うが、時の雰囲気にこうも安易に迎合する民であったのだろうか。
海軍の中において兵学校出身という事は他の官庁でいえばキャリアー組という事で、ノンキャリアーとは処遇が最初から違うわけで、その待遇の相異の中には、戦争を遂行する、戦うという本来任務を二の次に捉えて、人の使い方に傾倒した身の処し方のみに関心が向いていたに違いない。
でなければ、艦内では禁止されていた筈の上級者の下級者に対する鉄腕制裁など有りうるわけがない。
あの時代、戦前という時空間では何故に鉄腕制裁という事が蔓延したのであろう。
普通の大人ならば、無抵抗の人間を殴ることなど、考える間もなく無意味なことは自明であるべきなのに、大の大人がそれをするという事は、ただ単に階級を傘にしたイジメに他ならない。
それをキャリアー組が見て見ぬ振りをするというのは、まさしく倫理観の喪失以外に何ものでもない。
兵営の中のイジメ、初年兵イジメというのは、どこの国の軍隊にも多かれ少なかれ存在する様であるが、それが士官のグループには無くて、兵のグループにはあるという事は、士官と兵の間の倫理観の相異だろうと推察できる。
しかし、それが良いことではないことに変わりはないわけで、ならばそれを止める方向に理性が機能しなければならないと思う。
しかし、狭い軍艦の中でキャリアー組が下士官の制裁行為を見て見ぬ振りをするという事は、完全に倫理観の喪失を具現化しているわけで、それが司令官・指揮官の作戦失敗についても責任追及が成されない大きな理由になっているのではなかろうか。
大の大人が綿密な計画の元にち密な計算に基づいて作戦を練り上げて、それが失敗したからといって、のほほんとはしておれないのが普通ではなかろうか。
次の作戦のために指揮官・司令官を温存するなどいう事は完全にご都合主義そのもので、一度失敗した司令官が2度目には成功すると考える事は余りにもご都合主義過ぎると思う。
彼らの仲間内の庇い合い以外の何ものでもない。
だから太平洋戦争・日米戦は、日本海軍の海軍の為の戦争であって、アメリカに勝つという意義、プリンシプルを忘れた、ただ単に自己の存在意義を示す為の振る舞いであったということになる。

「軍艦長門の生涯」

2011-12-28 09:26:15 | Weblog
弟からの連絡で阿川弘之の「軍艦長門の生涯」という本に叔父さんの事が書いてあるという事を知った。
早速、紀伊国屋書店で聞いてみると、「もう既に廃版になっていて置いていない」というものだから、こういう時こそ図書館だ、と思って図書館に走った。
あるにはあった。
本を検索する機械で調べると、単行本と文庫本の両方があった。
私はいつも図書館の開架式書棚から本を借りていたので、その本が何処に在るのか係員に聞いてみた。
すると、その本は地下の書庫にあるという事で、持ってきてくれた。
いつも図書館を利用している割に、図書館のシステムには不案内で、どういう本が開架式の書棚で、どういう本が閉架式になるのさっぱり分からないが、兎に角、目の前に持ってきてくれたので、それを借りて読みだした。
どうせ大きな活字の読みやすいものだろうと思ってが、どうしてどうして、小さな活字で、上下二段組みで、頁数も多く、目次もないままで、読むのに骨が折れた。
私達の叔父さんの話はあるにはあったが、ほんのささやかなエピソードの一こまでしかなかった。
しかし、阿川弘之氏は戦艦「長門」をメインテーマにしつつ、大正時代から昭和の初期、日本が戦争に敗北するまでの近現代史を綴っている。
著者自身がかっては海軍の軍人であったので、戦艦「長門」を基軸としながら海軍という組織を綿密に暴きたい、という意図が垣間見れる。
海軍の軍人の一人として、日本があの戦争に巻き込まれていく過程を見つめつつ、何故それを阻止できなかったか、という疑問点を探り出すとしているように見える。
この本は上下2巻に分かれていて、上巻は「長門」の誕生から昭和10年の2・26事件までのことが綴られているが、こういう大きな軍艦ともなると、艦長がたびたび変わるわけで、この艦長をはじめとする海軍、或いは陸軍でも同じであるが、人事異動というのは官僚システムの大きな病理だと私は思う。
軍の組織のみならず、官僚全般について、或いはこの世のあらゆる組織について言えることが、人事異動という事である。
この人事異動の弊害という事は、誰も問わないが、これは由々しき問題だと思う。
普通の人が普通に仕事をするのに、少なくとも1年、出来れば3、4年という習熟期間が必要だと思う。
如何なる官職でも、人事異動で赴任して直ちには実のある仕事はできないのが普通で、新しい仕事に慣れるまで3、4年という年月があって然るべきだと思う。
ようやく仕事に慣れた頃また転勤では実りある仕事は成しえないのが当然であって、これでは時間と経費のロス以外の何ものでもない。
官僚の世界では、転勤が多いほど出世が早いようだが、こんなことは論理的におかしなことだ。
日本海軍でも、陸軍でも、官僚でも、組織のトップにいる人達は、それ相当の篩をかいくぐって来た人達で、そんじょそこらの駆け出しの山猿ではない筈だ。
言い方を変えれば、眉目秀麗、学術優秀なエリートである筈である。
ならばこういう組織論の根源的な矛盾は重々周知の上で組織に与しているということになるが、そこを深く掘り下げて考える人がいなかったいうことであろうか。
甲論乙駁という言葉があるが、同じ一つのことでも見る位置,見る視線、視線の高低あるいは角度というものでいろいろな意見が出ることはごく当たり前のことである。
だから複数の人間が集まればいろんな意見が出て当然であるが、そういう様々な意見を一つに集約しなければ物事は前に進まないわけで、これがなかなか難しい所である。
ある限られた人間集団の中で、一つの事柄に対して様々な意見が出るという事は、その集団の知性が豊かで教養が高ければ高いほど様々な思考が噴出して、さまざな意見が出るが、その集団の知性が凡庸で、鈍感で有れば、意見の相異の幅はそれだけ小さなものになる。
ここで重要なことが、一人一人が自分の頭脳でその事柄の本質を吟味、咀嚼することだと思うが、こういう状況下で人は案外他人の意見に惑わされることがある。
別の言葉で言い換えれば、意見が合ってしまうという事で、別々の人が別々に考えて結果として同意見になるというのならば問題はないが、他の思惑を秘めながら相手に合わせてしまうという場合は由々しき問題と言わねばならない。
人間の集団はどうしても、意識するしないに関わらず、気の合うもの同士が集まってしまう傾向がある。
俗な言い方をすれば、派閥の形成ということになるが、この派閥というものが出来ると、自分の考えが主体性を失い、大勢の仲間の意見に迎合しやすくなってしまう。
自分一人があくまでも自己の意見に固執して反対し続けていると、仲間との輪を壊してしまいかねないので、不承不承とは言え、自己の考えを妥協させてしまって、大勢に従ってしまうという事が往々にしてある。
歴史上ではこの大勢が必ずしも正しい選択をするとは限らないが、民主主義の原理というのは、大勢の意見を敷衍することであって、結果として国家が奈落の底に転がり落ちるということもあるわけだ。
組織のリーダーが大勢の意見を押しのけて、自分の信念で以て自己の政策を推し進めると、大勢の側としてはそういうリーダーを独裁者と言って糾弾する。
政治というものは実に不思議なもので、民主主義でも国家が立ち行かなくなることもあるが、独裁者の国でも独裁者がその国を滅亡の淵に導くこともあるわけで、完全なる統治というのは果たしてどういうものなのか、人類はいまだに答えを見出していないのではなかろうか。
人の集団が気の合うもの同士でグループを作るのは人間の業のようなもので、理性や知性でコントロールできない不可侵なものだとすると、大きな組織になればなるほど、人事異動というのは必須になるのもやむを得ないとは思う。
しかし、現実に仕事を推し進めるという観点から見ると、丁度、仕事を覚えた頃にまた転勤では、経費と労力の無駄以外の何ものでもない。
海軍ばかりではなく陸軍でもおなじ、文官としての官僚でも同じなわけで、民間の企業でも同じだと思う。
海軍でも陸軍でも官僚でも、組織のトップにいる人はボンクラではないわけで、ならば当然その辺りの非効率は判っていそうだし、判っておればそれを改善するのがトップのトップとしての存在意義であったのではなかろうか。
組織の中側にいると案外気が付かないかもしれないが、海軍でも陸軍でも、その他の官僚でも、トップに立つ人は基本的に学校時代の成績順にその座が廻って来るわけで、お互いに仕事が判った頃、再び転勤するわけで、結果として何もわからないまま出世だけするということになる。
その上、学校秀才というのは記憶力の優秀なものがなるわけで、創造力や思考力という能力は、評価の対象にはなっていない。
タコがタコつぼの中で天下国家を論じているようなものである。
この本の中には5・15事件と、2・26事件も話題になっているが、こういう一連の事件を引き起こした青年将校に対する評価が案外甘く、彼らに同情する組織のトップの心情が吐露されているが、組織のトップが青年将校の下克上の雰囲気を容認するような思考そのものが基本的に売国奴的である。
ワシントン軍縮会議の結論に対する国民の不満というのは、基本的には諸般の事情を知らない一般国民の無知が原因ではあるが、それに便乗しようとする組織のトップの在り様は、まさしく亡国的な立ち居振る舞いであったといわねばらない。
ここで、国民へ何を知らせて何を隠すかという事が大きな問題になるが、そこで活躍すべきが本来ならば知識階層としてのメデイアでなければならない。
メデイアというのも、社会の構成員として食って行かねばならないので、人々に売れる記事、大衆の喜ぶ記事を書いて、大いに売り上げを伸ばして稼がねばならない。
だから人々・大衆の喜ぶ記事を書き、喜ぶように報道するわけで、或る時は戦争を煽り、軍国美談を捏造し、悲劇を美談したてにもするわけで、極めて無責任な振る舞いを演じているのである。
5・15事件や2・26事件を引き起こした青年将校たちも、そういうメデイアの報道を真に受けて、政治の混沌は政治家と財界のトップに有る、と早とちりというよりも、政治の内情に全く疎かったわけで、短編急に事を急ぎ過ぎたという事だ。
これは反乱を起こした首謀者達が余りにも無知で、偏った教育というか、思い込みと言うか、何とも言いようがない。
青年将校と言われている人達も、そんじょそこらの凡庸ではない筈であるが、何人も世界の全てを知るという事はできないわけで、彼らを無知というのは少々酷であるが、テロ行為をしてしまった以上無知と言われてもいた仕方ない。
問題とすべきはそういう青年将校に同情を寄せた人々の存在こそが日本が奈落の底に転がり落ちた最大の原因といわなければならない。
世情の乱れが政府高官に有るという発想は、あまりにも単純な思考であって、それに同情を寄せる陸軍のトップも、世間の一般大衆も精神的にどこか異常であったというべきである。
この時代のことを司馬遼太郎氏は「奇態の時代」と表現していたが、言い得て妙だと思う。
世情の混沌の遠因を政府高官と財閥の癒着に結び付ける思考は、典型的な共産主義の思考と軌を一にしているわけで、完全に共産主義のドグマに陥った物の考え方である。
それはこの当時の世界に蔓延していた風潮そのものであった。
日本だけの特異なムードではなく、世界的に不況が蔓延していたわけで、その暗雲から逃れようと各国が苦悩していたということだ。
こういう状況下でもアメリカとイギリスは極めて豊かな国で、極端な見え見えの富国強兵策を弄しなくとも、何とか景気を維持できたが、ドイツ、フランス、イタリア、そして我々の日本にはそういうゆとりがなかったので、不景気打開の為に戦争が必要であったという事だ。
ところが「景気回復のために戦争する」という事は人類の理念に反しているので口に出来ないが故に、いろいろは欺瞞策を講じなければならなかった。
それがポロポロと露見したのが様々なテロ行為であったと考えなければならない。
「景気回復のために戦争する」という事は普通の常識のある人は口に出来ない言葉なので、そういう言い方は誰もしていないが、旧日本陸軍・関東軍の中国における行動は、当人たちが意識するしないにかかわらずそれを見事に体現しているではないか。
アメリカの対日戦参戦の遠因は言うまでもなく中国大陸におけるアメリカの国益の擁護であったわけで、そこに日本が勝手に国益の進展を計ろうとしたので、それを阻止しようと経済制裁を発動したのである。
日本が中国に手を伸ばしたのは言うまでもなく景気浮上の為に戦争を仕掛けたわけで、その結果として満州国の建国があったのだが、こういう姑息な手法は世界の協賛が得られず結果として墓穴を掘ったということになる。
ここで考えねばならないことは、我々生きた人間は物事のプリンシプルを尊重し、倫理に沿った生業を維持しなければならないという事だと思う。
法や秩序を厳守して、正邪を法に照らして判断すべきで、同情とか憐憫というような感情で物事を判断してはならないということだと思う。
この本は軍艦「長門」について語ることが本旨で、余り陸軍のことについては深入りしていないが、陸軍がかってに中国大陸で戦争をし掛けて、満州国を建国するなどという行為は、普通の常識では考えられないことであって、その一つ一つの事件に、整合性のある法に則った処理をしておれば、ああいう事態にはならなかったと思う。
2・26事件では天皇陛下が毅然たる意思を示されたからああいう形で終始したが、日中戦争では一応勝ち戦なるが故に、ずるずると事後承認という形で事態収拾が先延ばしされてしまったので、対米戦になり国が滅ぶところまで行ってしまったという事だ。
それで戦後66年来、ずっと反省はしているが、決定的な原因というのは結局は判らずじまいで、我々日本民族による総括もしたようなしないような曖昧なままである。
反省はしているが、その反省から教訓を引き出すという事はしていない。
反省だけなら猿でもする。

「名古屋地名の由来を歩く」

2011-12-27 08:27:14 | Weblog
いつもならば「例によって……」という書き出しであるが、この本は自分の金で買った本だ。
どうせ私の金だから高価なものではない。
家内といつも行くスーパーの上に紀伊国屋書店があって、家内のアッシーでそこに行く度に店内に入って本の背表紙のみを見て何となく読んだような気分に浸っていたが、あまりただで読んだ気分に浸っていても申し訳ないと思って、すこしばかり義理で散在した。
というわけで「名古屋地名の由来を歩く」という本を買ってみた。
著者は谷川彰英という人で、奥付きによると長野県、松本の人で、筑波大学の教授をしていたという経歴であって、地元とは関係の薄い人だ。
だからこそ地元民には気が付かない視点で書かれているので、我々地元に住む人間にとっては興味ある所である。
俗に「東男に京女」という俚言があるが、こういう言い伝えというか、文字通りの俚言というものは、民族を越えて何処にでもあると思う。
人間の歴史の中で、人々の生活の中から出てくる属性というか、俗物性というか、パターン化というか、思い込みあるいは思い入れというような先入観のような思考というのはごく自然に出来上がると思う。
そういう俚言を集めて見ると、名古屋、いわゆる尾張、或いは三河というエリアは、非常に評判が悪いように思う。
ビジオネス面において「名古屋で成功すれば全国展開しても間違いがない」とか、「関西、関東から名古屋に展開することは非常に困難だ」とか言われている。
それでいて大阪と東京に挟まれて「名古屋飛ばし」という言い方もあるわけで、どうも我々の存在というのは、特異な位置付けのような気がしてならない。
この本は地名についての考察を深めているので、地元民の気質にまで深入りはしていないが、物の考え方の中には、地域エゴということも当然あるわけで、その中には中央と地方の確執という問題も、自然に内包されていると思う。
普通の日本人が名古屋という土地柄を思い浮かべる時、名古屋人は堅実な考え方をする、と言う面があろうかと思うが、これは両刃の刃と同じで、良い面と悪い面を併せ持っているのは当然である。
人々が堅実な生き方をしている、という事は文句なく良い評価の部分であるが、その反面「堅実なるが故に排他的となる」と他の地域から来た方々にとっては甚だ迷惑な話になると思う。
排他的になるという部分に、この地域が古代より恵まれた地域であった、ということが言えていると思う。
古代という時代に「恵まれていた」という事は、いうまでもなく農業生産が豊穣であったということだと考えざるを得ない。
農産物が豊富であるからして、今でいうところの既得権益を維持しようという深層心理が機能して、その既得権益をよそ者に取られてなるものか、という心理が作用したのに違いない。
この地に居ながら、この地の思考について行けない部分が多々ある。
例えば、オリンピックを誘致しようとしたとき、行政サイドは非常に乗り気であったが、市民サイドが誘致そのものに反対して、結局は韓国に取られてわけだが、こういうオリンピックという国家プロジェクトに近いようなイベントを拒否する思考というのは、何とも田舎っぽい発想と言わなければならない。
戦後の風潮として、民意を大事のすることが民主主義の基本であることは論をまたないが、これも行き過ぎると衆愚政治になりかねないわけで、名古屋ではこの民意が衆愚と紙一重の状態になっていると考えられる。
国がオリンピックを誘致して景気浮上の梃子にしようと考えた時に、それに反対して、「自分達の住まい方に悪影響が出るから反対だ」という論理は、完全に地域エゴだと思う。
オリンピックを誘致してそれを景気浮上のバネにした時、その恩恵は日本全国に行き渡るわけで、それが名古屋人にとっては面白くないという事なのであろう。
日本全体の底上げは可能かも知れないが、開催地には良い事だけではなく、負の遺産も残されるに違いない、という心配を危惧しているという事だと考える。
愛知万博の時でも、さんざん反対運動が盛り上がって、折角世界各地から観光客が来るというのに、その観光客に外の景色を見せない手当てをしたりと、大幅に規模縮小してしまった。
中央に反発する気風というのも時と場合によっては大事なことかもしれないが、余りにも見え見えの地域エゴは見苦しいものだ。
日本の国民的なイベントに反対運動を起こして、粋がるところなどまさしく田舎侍そのものの発想である。
事ほど左様に新しいことに尻ごみする風潮というのは名古屋人の特徴ではないかと思う。
しかし、物作りの現場では常に効率を考えて仕事をしているわけで、そこでは古い仕方のままということはあり得ない。
常に革新を目指しているが、物を作らない人、口先だけの生業の人は、人の振る舞いに様々な難癖をつけてそれを喜びとしているのである。
物作りの現場は苦しい作業の連続で、如何に手を抜いて同じ効率を上げるか、と常に考えていると思う。
その発想がテクノロジ-の進化に繋がっているように思えてならない。
物作りという狭い領域では常に革新を無意識のうちに実践しているが、自分より上の権力者が金太鼓の鳴り物入りで押し付けてくるイベントには抵抗を示す、というのはある意味で反骨に見えるが、裏を返せば地域エゴに他ならない。
地名と地域の土俗性との間には関連性があるようにも見えるが、この本でもそれを断定するには及んでいない。
つまり確かな事は判らないという事で、それはそれでいた仕方ないが、所詮、地名というのは何故そうなったかははっきりとした事は判らないという事なのであろう。
町村合併で新しく出来た名前ならばそのいきさつは単純明瞭であろうが、太古からの地名は、そういう訳には行かないのも無理からぬことである。
地元に住んでいると、何に気なしに無意識で使っている地名が、この本を読んでみると新鮮に見えてきたことは確かである。

「普通列車の謎と不思議」

2011-12-24 08:26:55 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「普通列車の謎と不思議」という本を読んだ。
著者は谷川一巳という人だが知った人ではない。
内容的には鉄道ファンの雑学的な知識の切り売りに近い内容であるが、普通列車にこだわった論旨が面白い。
鉄道好きというと、大方の人が特急列車のような優等列車に関心を向けるのが当り前であろうが、敢えて普通列車にこだわっている点がユニークである。
前にも述べたが、鉄道業界の仕事も奥行きが深くて、広く深く掘り下げて行けば興味が尽きないものがあることは良くわかる。
普通列車に関する記述だけでもこれだけの本が書けるわけだから、鉄道全般について語るとなるとテーマは尽きないに違いない。
鉄道と言えば、昔は国鉄であったものが今はJRというようになったが、このいきさつについては鉄道ファンとはまた別の視点が必要になるのではなかろうか。
国鉄、日本国有鉄道が民営化されてJR各社になる最大の理由が、採算性の問題であったように記憶しているが、この採算性の悪さの根源は、一つや二つの理由があったわけではなく、労働組合との確執が最大のネックであったわけで、民営化という事は組合つぶしの要因を含んでいたことは自明のことだと思う。
私の素人考えでは、日本国有鉄道の理念は、日本全国津々浦々に至るまで国民の足としての鉄路を確保することでなかったかと思う。
今流の言葉でいえば、交通弱者の救済という言い方になろうが、日本のどんな僻地にも移動の手段を確保しておくための施設としての日本国有鉄道であったのではなかろうか。
だから国鉄の理念からすれば、赤字路線であったとしても黒字路線の利益を再配分することで、僻地の鉄路を維持することが前提で、国鉄の存立という事が考えられていたのではないかと思う。
それを採算性の面からのみ考えて、赤字路線をあっさり切り捨てるというやり方は、合理的ではあるが日本国有鉄道の理念とは相容れないわけで、それだからこそ7社の民間企業に分割したという事であろう。
我々が考えなければならないことは、採算性の悪化の部分に、組合員の横暴という経営実態があるわけで、組合員が健全経営に協力しなかったから採算性の悪化を招き、それが組合つぶしの理由つけとなって、民営化が推し進められたという事だと思う。
国鉄の採算性が悪いという実態は誰に対しても公開できるが、組合つぶしという事はそれとは逆に誰に対しても口にすることが憚れることで、こちらは表面化していないが、内実はその辺りにもあると考えられる。
旧国鉄の組合を詳しく知るものではないが、普通に世間で言われている話としては、戦後、敗戦によって旧満州の満鉄の社員を大勢い引き受けたが、それが占領政策の合理化の要求によって人員整理を強いられ、それを受けて労働組合員が先鋭化したという背景があるようだ。
組合員の中に共産主義者が大勢潜入して、過激な要求を繰り返し、普通の常識では飲めないような要求を強いて、常軌を逸した組合運動を展開したので当局側の反発を招き、労使交渉が泥沼化してしまったので、その打開策として採算性の重視という企業の本質を突く大義名分で民営化が推進されたのであろう。
この国鉄の組合の中に潜り込んだ共産主義者にとっては、国民の利益でもなく、国鉄の利益でもなく、組合員・労働者の利益でもなく、ただただ国家を騒乱状態にもっていくことが彼らの至上命令であったわけで、国労、動労の内部からそういう破壊分子、共産主義者、共産党員、その他の過激な分子を排除する自浄作用が出てこなかったところが民営化に転がり込んだ最大の理由であろう。
鉄道の仕事をしようという人に、嫌々その業界に入っていった人はいないと思う。
昔、戦後しばらくの頃、デモシカ先生というのが居た。
大学は出たけれど就職難で職がないので先生「デモ」するか、先生「シカ」できないと卑下した言い方であるが、こういう人はその業界に嫌々ながら入らざるを得なかった、と言うことはあったかもしれない。
ところが、鉄道マンに嫌々その仕事に就いたという人はまずいないのではないかと思う。
普通の民間企業の労働組合ならば、自分の企業が潰れてしまうような無理な要求を出せば、自分達が路頭に迷うようになってしまいかねないので、おのずから要求にも自制作用が働くけれど、国鉄の組合の場合、経営の後ろの居るのが政府という事なので、常識を逸した要求をしてくるわけで、その部分に自制作用とか、普通の常識とかが通用しない部分があった。
それは組合というものが共産主義者に乗っ取られてしまっており、彼らに組合運営を牛耳られてしまっているが故に、こういう事態を招くのである。
共産主義者或いは共産党員というのは国家の利益とか、国民の利益とか、普通の人々の福祉ということには全く無関心なわけで、日本国内を騒乱状態、混沌とした状態にもって行くことが彼らの使命なわけで、そういう方向に運動をしていたのである。
こういう共産主義者と共産党員に支配された労働組合を潰す事が目的で民営化という事業が推し進められたに違いない。
採算性云々という話は、組合つぶしということをはっきり言えないので、その方便として採算性を持ちだしただけで、国鉄の組合の労働慣行というのは、大いに研究の余地があると思う。
だが、その情報はあまり外部に漏れてこない。
この世の中にはいろいろな職業があって、その職業による働き方もさまざまであろうが、その中でも鉄道関係者の働き方は複雑怪奇であろうと想像はする。
始発列車と終列車、終点と始点での運転手と車掌さんの配置、その間の保守点検等々のことを考えると素人では想像もつかない態様ではないかと思う。
だからこそ、その内部の仕事の仕方は普通の人にとっては不可解に見えるが、それが普通の会社の勤務態様とは大きくかけ離れたものになっているのではないかと思う。
問題は、そういう複雑な仕事を推し進めている人が、普通の常識を兼ね備えた人達ならば何ら危惧することはないが、それをする人が共産主義者となると甚だ困るわけで、それだからこそ民営化が推し進められたという事だと思う。
「共産主義者を差別するな」という論理は一見整合性があるかに見えるが、ならば彼らが普通の常識人として行動すれば、普通人として差別することなく扱えるが、彼らは自分たちの体制や規範や倫理観をことごとく否定する行動をとっているわけで、いわば自分の祖国を潰そう潰そうと画策していたのである。
自分の祖国を壊そうという人間に対して、普通の国民がフォローできるわけがないではないか。
戦後の日本の政治は、こういう人達によって常に批判に曝されてきたわけで、自民党政治がすべて良かったというわけではないが、戦後の復興を成したのは左翼思想の対極にあった保守本流の政治がそれを成したことは認めざるを得ない。
私自身の生き方も70年を越してしまったが、その間鉄道の発展もつぶさに見てきたわけで、鉄道という社会的インフラも実に良くなった。
しかし、こういう人間の進化というものは、ただ一国だけの実績でなりたつものではないように見える。
例えば、日本の敗戦、今から66年前の日本はそれこそ廃墟で、大都市は全て焼け野原に過ぎなかった。
それが今ではビルの林立になっているが、この光景は何も日本だけのものではない。
日本が侵略したとされる中国では、国鉄を解体に導いた共産主義者とその党が、自分達のつまり彼らの同胞を殺し、粛清し、下放し、血祭りにあげながら日本の復興の後を追いかけて今日に及んでいる。
第2次世界大戦が終わってからというモノ、アジアの復興、進展というのは、日本だけが復興し延びたわけではなく、世界中がそれなりに進展したわけで、そうであるとするならば、モノの考え方もそういう状況に合わせた発想にならなければならなかったに違いない。
それが国鉄の民営化という形で露呈したと言える。
つまり合理性の追求であり、採算性の優先であり、古典的な理念の払拭であったと考えられる。
古典的な理念の払拭という部分に、国鉄の中だけの問題ではなく、その外側で起きたモーターリゼーションの勃興という事が、国鉄という存在を片隅に追いやったと言えるのではなかろうか。
山間僻地の庶民の足であった国鉄の赤字ローカル線が、車という戸口から戸口への移動を可能にする文明の利器が普及することによって、存在意義を失ってしまったわけで、これはある種の産業革命でもあったという事だ。
ところがこの車というものがガソリン、いわゆる石油、化石燃料に依存しているわけで、それを輸入に頼っている我が国の立地条件から、再び車に対する新たな見直しの機運が出て、再び公共の交通機関が脚光を浴びるようになった。
これは時代の大きなうねりに翻弄されている図だと思う。
66年前の状況が瞼にこびりついている旧世代のシーラカンスとしては、公共の乗り物というのは乗車率100%で採算がペイすると思っており、空気を運んでいるような状態では採算割れすると思っていたが、これはどうも間違っているようだ。
昨今の風潮としては、隣の人と体が触れ合う混み方というのは、人権にかかわる問題という感覚のようだ。
つまり、公共の乗り物というのは、がらがらの状態こそが人権に配慮した乗り物であって、押し合いへしあいするような乗り物は公共企業として失格だという認識である。
だとすればこれはコストを天文学的に高騰させる要因であるが、そのコストは国なり行政が負担せよという論法になる。
こういう発想は基本的に間違っているが、庶民の側からすれば、自分の都合の良い時に来て、何時でも座席が確保できて、料金が安ければこんな良いことはないわけである。
そういうものを他者に望むという事は、そのコストをだれが負担するかという議論抜きで、自分たちの都合の良い要求のみを羅列する庶民に対して、それを諌める発言があって当然である。
ところが、世の知識階層というのは、庶民を諌める発言に極めて臆病で誰もそれを言わない。
国鉄の民営化の時も、民営化すべきかそれとも僻地の交通弱者の便を計るべきか、相当に議論がなされ、その結果として分割民営化なされたものと考えるが、この時の隠れたテーマである組合つぶしの方は、一向に表面化していないところは日本の政治の極めて老獪な部分だと考える。
今、私の関心は、この組合の思考を旗を振って応援した戦後の日本の進歩的知識人の存在である。
戦後の日本民族の大きな社会問題においては、どの闘争においても、進歩的知識人という人が反対派の方に与するわけで、政府、与党、自民党が国民のためにと考えて施策する計画を、ことごとく反対してきた実績をどう考えたらいいのであろう。
進歩的知識人と称するオピニオンリーダ-が、自分たちの政府をフォローするのではなく、盾突いてばかりいて世の中が良くなるわけがないではないか。
人が何か大きな仕事を成そうとすれば、賛否両論が出ることは極めて自然なことである。
だから、民主主義というのは、大勢の意見の方を実践すれば、大勢の人が幸福になるであろう、という発想できているが、それでは反対意見の人は不満なわけで、此処で我々日本民族の優しさが顔を出して、反対意見の人の納得をどうして得るかということになるのである。
基本的には、反対意見の人に、賛成に回るように納得させる術などあり得ないが、だからと言ってそういう人をきっぱりと切り捨てることが出来ないわけで、問題がこじれにこじれるのである。
民主主義が多数決原理であれば、少数意見はきっぱりと切り捨てるべきである。
多数意見に従わない人は、それ相応に決められた処置をすべきであるが、此処で我々の温情主義が顔を出して、「それでは可哀そうだ」となるから先方が突け上がるのである。
国鉄の組合員の話に戻せば、違法ストをした人はルールに従ってきっぱりと処分すべきで、あくまでも法の枠内での労働組合の権利の行使にとどめておくべきで、法を乗り越えた違反者を組合員が擁護し、庇い合い、助け合うからだらだらだらと混迷が続いたのである。
この部分に戦後の日本の知識階層が判ったような、物分かりの良い、日和見で、良い子ぶった態度を示すから、自分たちの立ち居振る舞いに整合性があると錯覚したのである。
民主主義社会の中で、多数決原理で物事決めることが前提となっている中で、少数意見を尊重していては、民主主義そのものを否定することに繋がるではないか。
問題とすべきは、この単純で明快な原理原則を、日本の知識階層、大学教授やメデイアのトップや、様々なシンクタンクの人々が理解せずに、自分達の選出した政府・与党に反旗を翻している現実である。
主権国家のオピニオン・リーダーと称せられる人々が、政府に盾突くような国家が良い国であるわけがないではないか。
政策や施策に対する賛否両論は当然あるが、それと反対闘争のやり方は別の次元の問題で、政府のすることが気にくわないからと言って、国労や動労の組合活動を支援したり、成田闘争の反対派を支援するという事は、正義の履き違いだと思う。