執行草舟が、西田幾多郎から受け取った言葉。
西田幾多郎の著作の、膨大な思索から、執行草舟が受け取ったのが
愛は、知の極点である
という西田幾多郎の言葉。
ちょっと独特。
普通、西田幾多郎って言ったら、誰もが、「絶対矛盾的自己同一」云々を言う。
執行草舟は違う。
そう。
違っていい。
本を読むこと、コミュニケーションすること、というのは、何を受け取るか」。
送り手がAと伝えても、受け手がA’とかBだと「受け取った」ら、コミュニケーションされた内容は、B。コミュニケーションは受け手が主役。
執行草舟の本の読み方は、万事、そういう感じ。
「何が書かれているか」ではない。
「著者が何を伝えようとしているか」でもない。
「読者が何を受け取るか」が大事。
だから内容はわからなくてもいい。
内容はわからなくても、わからないなりに、読者が何かを「受け取る」ことがある。
全集とか稀覯(きこう)本を蔵書として持つ効果も、そこにある。
内容が重要なんじゃない、「その本がそこにあること」が何かを語りかける。
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人は誤解されるのではない。
理解される努力が足りないだけ。
世の中の「誤解」というのは、そう「受け取った」ということ。
何を受け取られていいように、どう受け取られてもいいように、慎重にコミュニケーションしたいですね。
人(や組織)は「どうあるか」より、
「どう見られるか」だったりする。