武道では飛んでくる矢は「打ち落とす」のではなく「よける」のが鉄則とされています。
仏道にも同じ話があります。
お釈迦様が弟子たちと托鉢して歩いているときのこと、ある町民から文句を言われました。
「お前達は托鉢といいながら、人に物をもらって生きているではないか。
俺達は額に汗して働いているのに」と町民の延々とつづく文句を黙って聞いていました。
やがて、町民が疲れて黙ると、お釈迦様はやおら口を開きました。
「言いたいのはそれだけですか?」
「そうだ」
「じゃさようなら」
と言ってその場を去りました。
弟子達は納得ができません。
お釈迦様に詰めよりました。
「お前達は毒蛇を渡されたら受けとるか」
「まさか、受け取りません」
「受け取らなければ、その毒蛇は誰のものになる」
「持って来た人がそのまま持ち帰るしかないでしょう」
「そうだろう、だから私は悪口という毒蛇を受け取らなかったのだ」
『悪口という汚れた心は、あの人が持ってかえたのだよ』
この有名なやり取りを
高校時代に違う高校生から絡まれた時に試してみました。
「言いたいのはそれだけですか」
ではさようなら!
相手はさっぱりしたのと何か不満がたまったままの変な気持ちで私を見送っていました。
悪口は確かに気になるものです。
しかし、そのつど受け入れていては身が持ちません。
おだても同じといいますから受け取らないで
よけるようにしましょう。
「よける力」生きる知恵です。
『野火焼けども尽きず
春風吹いてまた生ず』 (白楽天)
野火に焼かれても草の根は残り、春風が吹くと、また草の根は芽生えてくる。
この歌の意味には、人生の逆境に遭って苦しみ悩む時もあるだろう、しかし、野焼きが一杯肥料を蓄えてくれるのと同じように、それを克服すると、いずれ芽生えて、花咲く時が来るよ。とのエールの心が込められています。
皆様の今の苦しみが乗り越えられて、花咲く時が来ますようにと祈念して送る言葉とします。
昔のキリシタンはイエスの言う「愛」というラテン語の「カリタス」を訳す時に、「御大切」にという言葉を使いました。
愛を恋愛とかに間違われるからだと思います。
イエスの「隣人を愛しなさい」という言葉は「隣人を大切にしなさい」という意味なのです。
神様を愛そうと思ったら、人を大切にしなければならないと述べているのです。
仏教は愛(love)というのは欲望の内だからと否定されていますが、愛を「大切に、親切に」と訳せば仏教も否定はしないと思います。
人はそれぞれ役目を持って生きています。
自分の為に生きているという人は次の段階を知る事でしょう。
あなたの役目を自覚してください。
旅人の足を洗うこと。
髪を結うこと。
着物をつくること。
国を守ること。
感動を与えること。
すべての人は何らかの役目を持って生まれて来たのです。
その役目に差は無いのです。
人の為に自分ができること。
神様が与えてくれたこと。
あきらめないで見つけると神様からご褒美を頂けます。
聖母マリアの微笑みを。
青草が芽ぐむころ野遊びや野山のそぞろ歩きをすることを古代「踏青(とうせい)」と呼びました。
踏むには麦踏み、異国の土を踏む、お百度を踏むのように足に渾身の力を加える精神的な意味合いもあります。
幼子と何時までも青春の志を抱いて私達も青き大地を踏みましょう。