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梶原太刀洗水について

2018-01-13 09:09:03 | 日記
 「鎌倉趣味の史蹟めぐり」著者 長峰五幸 によりますと、次のような記述がありましたので投稿いたします。場所は、朝夷名切通し旧道登口の手前であります。
太刀洗い水とはいかにも勇猛なイメージのわく名前である。華々しい合戦のあと、ここで血刀をあらい、勝ちいくさに凱歌を秦したかのように想像される。が、伝説はもつと陰惨で孤独な、一人の男の悪業の次第をこう伝えている。
 殺したのは梶原平三景時。殺されたのは上総介広常。
 いずれも関東の豪族武士で、鎌倉幕府創立に際して陰に陽に将軍頼朝を助けてきた人たちである。それぞれ重く召抱えられ、お互いに何の意趣遺恨もないはずであった。
 治承4年(1180年)8月、石橋山の合戦に敗れて真鶴岬より安房国へ脱出した頼朝は、その地の支配者、上総介広常の大軍勢の参陣を得て勇躍、まきかえしに転じ、平家の追討軍を退け、関東地方の大部分を領有し、念願の鎌倉幕府樹立を果たしたのであった。新編鎌倉誌巻の八にも「武勇の名誉関東に振へり。・・・・・頼朝に属して義兵を助け、良策戦功多し」と書いてある。関東一円を掌握するには、こういう地方の大ボスをうまく味方につける必要があり、頼朝は天成の老練な政治力でもって、それに成功したのであった。
 治承5年(1181年)6月、頼朝が納涼逍遙のため三浦へ遊びに行ったとき、広常も出迎えたが、馬上で敬屈したのみで、下馬の労を惜しんだのはごう慢である、真から底から服従していかったに違いない、という解釈もある。また酒宴のさい、頼朝の水干を岡崎四郎義実が所望し、その場で拝領したところ、「あんな老いぼれが賞され、わしのような侍が拝領できないとは口惜しい」といきまいたため、両者は喧嘩になるところで、その場はうまく収まったが頼朝公は苦い顔をしたという伝えもある。
 しかし、田舎の大将の多少の思い上りや無礼、子供のような感情むき出しの態度くらいで老獪な頼朝がこれを憎み、殺そうとするわけがない。
 寿永2年(1183年)12月、頼朝は謀叛の疑いにより彼を殺したのであるが、殺したあとで間もなく広常に謀叛の企てのないことや事実無根であることが書類の上からも明白に証拠だてられ、頼朝はこれを殺したことを後悔したという。
 梶原景時に命じて、頼朝は千葉広常を討たせたのである。
 明智光秀が本能寺へ夜討ちをかけ、主君信長を弑逆し、多勢の将兵を巻きぞえに殺したり傷つけたのとは趣きが違っていた。もっと陰険で静かでおそろしい。
 密命をうけた景時は単騎、何食わぬ顔をして、朝夷名切通近くの上総介広常邸をぶらり訪れた。
 酒肴のもてなしを受け、主客は上気嫌で食後のひととき、盤をはさんで双六をうった。今の双六とはちがう。囲碁や将棋の原型のような、単純な点取りゲームだったと思われるが、そのゲームのヤマ場に事件は突発したのである。
 厠に立った客人は静かに盤のところに戻ってきた。
 主人は微笑して、盤面へ視線をおとし次の一手を打とうとした。
 その一瞬、機械のような動作で景時の手が刀の柄にかかり、引き抜かれると同時に主人の首筋へガッと切り込まれた。
 骨を断つ難い音が冬の夜空を震わせ、首は足もとに落ち、白い脛一秒の何文の一かの間、彼の目入った。
 鮮血は天井まで吹き出し、彼もザッと返り血を浴びて立っていた。血刀をぶらさげ、家来たちの斬りかかるのをゆっくり制すと頼朝公直筆の命令書をとり出し、低い声で言いはじめた。
「おのおのがた、これは梶原景時狂気の振舞いではない。頼朝公が殺せ、と仰せられたのである。いやな役目だが仕方がない。ひとりで俺はここへやってきた。今からお首級を大倉の幕府まで持参しなければならないが、それからならば斬るとも突くとも、どうぞ存分に主人の仇をうってくれ。梶原平三景時,逃げもかくれもしないであろう」
 内心おそれ戦きながらもとりつくろって、こう述べおわると彼は血まみれの首級を用意の布に収め、諸人只あ然と見おくる中を歩み去っていった。
 戸外は凍てつくような初冬の夜更けだった。月もなく、滑川上流のせせらぎの音と巳の馬の蹄の音が聞こえるばかりである。心身ともに疲れはてて大儀だったがふと岩の間にしたたり落ちる水流の音を聴いて駒を停め、彼は鞍から下りて口をすすぎ、刃の血糊を洗い落したのだった。刃は氷のように冷え、血痕は膠のように固くこびりついて容易には落ちない。ようやく刀を清めおわると、今度は首級を洗いはじめた。
 平然と洗っていた景時は、むしろ冷水に指をさらすのをぞくぞくと快くさえ思っていたのだが、湿った頭髪を伝わって、頭のシンのぬくもりがまだかすかに感じられるのには不気味の念を覚えないわけにはゆかなかった。
 テロリストは再び馬上の人となり、十二所、浄妙寺、杉本寺と通過して、鶴岡八幡宮手前大倉の幕府の堀を渡り黒い門の中へ吸い込まれるように入っていった。というような記述がありました。

(太刀洗水の源流)

(梶原太刀洗水の泉)

(太刀洗水川)

(太刀洗水の泉)


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