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東京物語


監督 小津安二郎
出演 笠智衆、東山千栄子、原節子、杉村春子、山村聡、三宅邦子、香川京子

 小津監督というとローアングルということを聞く。確かに低い位置からのカメラで、しかもそのカメラがほとんど動かない。だから、おちついて映像を見ることができる映画だ。ただし、映像はおちついているが、テンポは早い。熱海の話をしていたら、次の画面は熱海。お母さんが具合が悪いといっていたら、もう死んでる。だから、一見、かったるい映画と思うかも知れないが、決してかったるい映画ではない。よく見るとスピーディーな映画だ。
尾道から老夫婦が東京にやってきた。東京には医者をやっている長男。美容院をやっている長女。死んだ次男の嫁がいる。老夫婦は東京見物。宿をとらず、子供たちの家に泊めてもらう。
 長男長女は口では「おとうさん、おかあさん、ゆっくりしてくださいな」というが、自分の仕事に追われて、さしたる歓待はしない。正直、邪魔だ。だから、熱海に追いやったりする。そんな中で次男の嫁だけが夫婦に良くしてくれる。
 小津はこの長男長女を決して親不孝とは描いていない。かといって親孝行とも描いていない。そのあたりのかねあいは、さすがに見事であった。家族をきれいごとではなく、本音を描いているわけ。そういう子供たちの態度を、受け止める笠智衆のおとうさんが良い。
 先般、亡くなった原節子。伝説の美人女優とのことだが、それほどの美人には見えなかった。まだ、香川京子の方がきれいだ。原節子ははででハイカラな顔立ちで、ハリウッド女優を思い起こさせる女優さんだな。
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コメント
 
 
 
Unknown (悠々遊)
2016-04-12 00:58:38
美人顔というのはそれぞれの好みでしょうが、私も原節子は美人とは思いませんね。
戦後のアメリカへの憧れブームで、バタ臭い顔立ちが好まれたのかもしれませんが。
むしろ若かりし頃の岡田茉莉子のほうが美人だと思いますな、私には。
「東京物語」とそのリメーク? の「東京家族」ともに見ました。
 
 
 
悠々遊さん (雫石鉄也)
2016-04-12 11:26:40
私も、原節子は好みではありません。私は、この映画では香川京子の方が好みです。
「東京家族」私も観ました。次回の「とつぜん映画館」でレビューします。
 
 
 
象徴 ()
2016-04-13 22:37:27
原節子さん、お綺麗だと思います。アメリカ人への憧れ、とは、転じれば、ブロンドに対するアメリカへの偏見がありますね。アメリカは、多元的な人種によって支配された国です。それを、映画というフォーマットを通して、美しい者に対する好印象を煽る、というのは、小津映画もまた、メディアとしての性格を残しているからだと思います。

彫像的な美女ですね。「白痴」では、その造形的な綺麗さに、悪辣の華が添えられていました。小津映画のシンボルと観られるあたり、この作品での成功がうかがわれます。作品を庶民の葛藤で済まさず、一つのベンチマークとするにあたり、代表者として選ばれたという気がします。
 
 
 
隆さん (雫石鉄也)
2016-04-14 10:41:08
原節子、私はさしてきれいな人とは思いませんが、きれいと思う人がたくさんいたのでしょうね。
原節子人気はアメリカへのあこがれかどうかは、私にはよく判りません。
 
 
 
紀子には男がいると思います (さすらい日乗)
2016-06-23 08:06:06
この作品の最大のカギは、原節子が演じた紀子です。
彼女は独身を守っているのでしょうか、私は男がいると考えいます。それがラストの紀子の慟哭なのです。

小津に紀子造形のヒントを与えたのは、当時彼の愛人だった村上茂子です。彼女は、当時大船楽団の一員で、『東京物語』では熱海でアコーディオンを弾いています。
彼女は、戦前に結婚したが夫は戦死し、戦後はピアノを教えながら大船楽団にもいたのです。
こうした女性の姿が、紀子のヒントになったのだと私は思っています。
こうした女性のことは、『早春』の戦友会の場面でも語られています。
 
 
 
さすらい日乗さん (雫石鉄也)
2016-06-23 08:59:03
紀子に男がいる。私は、それはこの映画を観る興味とは直接関係ないと思います。
 
 
 
なにを描きたかっのが、重要だと思うのです。 (さすらい日乗)
2016-06-23 10:25:25
きれいごととして見たいお気持ちは分かりますが、一番重要なことは小津安二郎がなにを表現したかっただと思うのです。そう考えると、やはりラストの原節子の慟哭の意味を教えざるを得ないと思うのです。
 
 
 
さすらい日乗さん (雫石鉄也)
2016-06-23 10:54:34
私は娯楽として映画を観ているのです。その映画の監督がなにを表現したかったかは、監督の都合であって、観客たる私には関係ありません。
ようは面白くその映画を観ればいいわけです。私はラストの原節子=紀子の慟哭の意味に興味はなくとも、この映画を楽しめたわけです。
 
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