プシコの架空世界

ホレホレ触るとはじけるゾ。
理性がなければ狂いません(妄想の形成にも理性の助けがいる)。

何を理解してほしいのか

2010年09月30日 09時43分43秒 | インポート

 僕は自分の狂気を理解してほしいなどとは思っていません。狂気は理解されないからこそ狂気とされると知っているからです。

 僕が理解してほしいのは狂気そのものではなく、それに陥らなければならなかったほど辛かった病者の事情です。

 人間は同じ国や同じ集団に属しているからといってみんな同じ程度のストレスを受けているわけではありません。時間の感覚も人それぞれ異なります。ライフイベントは個人的なもので他人が外から観察しているだけでは理解しがたいものがあります。

 だから話を聴いてほしいのです。相手になってほしいのです。危険を感じるからといって避けないでほしいのです。それは自己防衛のつもりでしょうが後々かえって問題を作ってしまうと思います。

 狂気に陥らないためにはどうしたらよいか、統合失調症者の失敗に学ぶことは多いと思います。

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 統合失調症へ
にほんブログ村
コメント (14)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

社会不適応

2010年09月29日 08時54分52秒 | インポート

 統合失調症にかかり社会からドロップアウトした僕は初めの頃一刻も早く元に戻りたいと焦っていました。そして社会に適応できなかった自分を責めて苦しんでいました。

 でも僕が一生懸命適応しようとしていた社会はそんなに素晴らしい所だったのでしょうか。僕が狂ったのはすべて僕の責任なのでしょうか。責任をすべて社会のするつもりはありません。ただ公正な判断(そんなものがあるとしてだが)を仰ぐと、どういうものになるか知りたいのです。

 狂いを許さない社会は狂っていないとどうして言えるのでしょうか。歴史的にも社会全体が狂っていたと思わざるを得ない事実が残っているし。でもそれは後になって分かること。狂った社会で覚めた者はどういう扱いを受けるのでしょうか。

 「正しいものは多数決で決まる」と言った現在少数派の彼女はどういうふうに自分を納得させているのでしょうか。

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 統合失調症へ
にほんブログ村

コメント (7)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

結びつけるもの

2010年09月28日 09時22分41秒 | インポート

 イギリスの精神医学者、R・D・レインの著書、『結ぼれ』と『好き?好き?大好き?』を読んだ感想。

 人と人を結びつけるものは何だ。

 人と言葉を結びつけるものは何だ。

 言葉と意味を結びつけるものは何だ。

 愛しているのか、いないのか。

相手の気持ちが分からない。

 訊いてみればいいってものでもない。

 だって「愛している」と言ってくれたからといって必ずしも本心は愛しているとは限らないから。

 本当なのか、嘘なのか、言葉だけ調べても分からない。

 それに相手が本当だと信じ込んでいる認識が間違っているかもしれないし。

 知性が損なわれたのはもともと頭が弱かったからではない。

 その前に基本的な信頼感が損なわれているのだ。

 症状に惑わされてはいけない。

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 統合失調症へ
にほんブログ村

コメント (11)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日仏結婚観の相違について

2010年09月27日 09時27分23秒 | インポート

 僕はずっと家族を養える力がなければ結婚する資格はないと考えてきた。

だけどフランス人の考え方では独りで生活できないからこそパートナーを見つけて一緒に暮らすということらしい。

 意外だった。自分の考えの狭さに気づかされた。

 僕はもう健常者のような働きはできないし、健常者と同等な暮らしもできないとあきらめている。結婚して二人で子供を育てて死んでゆくという夢を持っていたがそれもあきらめかけていた。

 でも同じ精神病を患う人の中からパートナーを見つけ共に生活することは不可能ではないだろう。

 わざわざ自分から選択肢を狭める必要はなかったのだ。

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 統合失調症へ
にほんブログ村

コメント (5)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

生命

2010年09月26日 09時45分27秒 | インポート

 精神病院に入院中習字をする機会があってその時僕は「生命」という字を書いた。何でも好きな字を書いてよいということだったので思いつくままそう書いたのだ。

 でも半紙に書かれた僕の字を見て僕は何だか書いてはいけない字を書いてしまったという罪悪感にとらわれてしまった。何かその字を書き表したことによって他の患者さんたちから責められているような気がしたのだ。

 精神病が重ければ重いほど精神的に辛くて苦しい。ぼんやりしているように見えてみんな生きるか死ぬかの瀬戸際で戦っている。そんな時「生命」などという字を見たらどう思うだろうか。励まされると思うだろうか。

でもそれは違う。逆に苦しくなるのだ。

 生きるか死ぬかとかいう問題は健康な時ほど考えない。そしてこういう存在に関わる問題は悩んでいる本人だけの問題で自分の納得するまで解決することはない。しかも他人の目にはよく見えない。風邪と似ているが誰でもひく風邪と違って他人には感覚的によく分からない。苦しそうな顔つきや身振りなどを見て何だか苦しそうだなと推測するくらいで何がその人を苦しめているのかという原因はその人に直接聴いてみるまで分からない。でも親しい間柄でもそういう機会はほとんどないというのが現状だ。

 その前に本人に苦悩を言語化できるほどの余裕がないこともある。本当に苦しいと人は言葉を話せなくなる。僕にもそんな時期があった。

 ところが最近「生命、いい言葉じゃないか」と思った。自意識などというちっぽけなものを超えてとにかく生きようとする意志みたいな力。力だ。太陽は燃え、月は満ち欠けし、星はめぐり、雲は流れ、雨は降り、川は流れ、草木は根を張り、葉を茂らせ、花を咲かせ、実を生らせる、虫も動物たちも動き回る。細菌もウイルスも生きている。気づけばこの星は生命でびっしり溢れている。善悪を超えてこの世は今日も動き続けている。何てすごいのだろう!

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 統合失調症へ
にほんブログ村

コメント (3)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

記憶

2010年09月25日 10時08分21秒 | インポート

アイポッドで音楽を聴いていてふと「この歌手は若いときの自分の声を保存してもらってうらやましいな」と思った。そして僕は若いときの自分の声を残しておかなかったことを少し悔やんだ。僕の声なんてたいして美声でもないし残しておく価値などないかもしれないけど時々どんな声だったか思い出すのもよいのではないだろうか。

でもそんなこともないような気もする。今と未来だけあればいい、昔のことなど思い出したくないと思うこともあるからだ。

それにしても記録と違って記憶は切ない。みんなと同じものを見て聴いてみんなと同じ気持ちを共有したと思い込んでいたのに実は自分独りのものであるからだ。コンサート会場などで熱狂している観客は一体感で満たされているように見えるが僕には美しい誤解に思える。

以前、BS放送でルパン三世の特集をやっていたが見ていて切なくてしょうがなかった。ルパン三世が放映されていたのは僕が小学生の頃だった。学校から帰ってきてインスタントラーメンや焼きおにぎりなどを食べながら観ていた。峰不二子らしき女が夕焼け(たぶん)空の下バイクに乗って疾走するエンディングのシーンがかっこいい。だけどこのシーンは誰の視点で観ているのだろう?バイクは疾走し続けるのにテレビの画面には真ん中に映り続けている。普通の人間の目にこんなことは生じるはずがない。僕たちはありえない映像をさりげなく見せられている。人間の分際で神のような視点を僕たちは無意識のうちに与えられている。だから僕はあんなに切なくてやつれてしまったのだと悟った。

映像だけではない。他人の人生を物語として知ることだってそうだ。こんなことができるのは人間だけだ。

よい思い出はいいものだ。だけど思い出はどんなものでも重い。肉体は弱いから普段はきれいさっぱり忘れていて時々ふと思い出すくらいがちょうどいい。そう思った。

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 統合失調症へ
にほんブログ村

コメント (4)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

テレビゲームと統合失調症

2010年09月24日 10時01分42秒 | インポート

 若い頃の僕のストレス発散法はゲームセンターでテレビゲームをすることでした。テレビゲームをしているときだけ嫌なことは忘れられ本当に無心になれました。無心になって楽しめる遊びなんてそうそうあるものではありません。だから当時の僕は本当に夢中になったのです。

シューティングゲームは単純です。敵を自分がやられる前にやっつける。スティックを操りボタンを押す。押しまくる。躊躇などしない。していられない。撃って、撃って、撃ちまくる。刺激と反応だけの世界。人間の内面の真実などからは程遠い世界。

攻撃欲を満足させられるという点ではよかった。あの攻撃欲を誰か他人に向けなくてよかった。現代の日本社会の成人男子の殺人率が低いのにはテレビゲームが一役買っているのかも知れません。

ところでドーパミンという神経伝達物質は快感を司るらしいです。テレビゲームをしていたときの僕は快感で満たされていたからさぞかしドーパミンも大量に分泌されていたことでしょう。5時間ぐらいやる日もありました。今から思うと中毒になっていたのでしょう。とにかく快感が欲しかった。

一方、ドーパミンの大量分泌は統合失調症の原因になるという仮説が有力ですが、これは自分のことを振り返ってみてうなずける説です。テレビゲームをやるなとは言いません。ただ適度にしておいたほうがいいと思います。なかなか適度というのが定まらないのだけれど・・・。

また今から思うと安易にストレスを解消してしまっていたことが悔やまれます。適度なガス抜きをするからいつまでたっても煮詰まらなかったのだとも思うからです。早いうちに苦悩の果てに突き抜けるという経験ができていれば精神が病むということも一時的で済んだのかも知れません。

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 統合失調症へ
にほんブログ村

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不完全

2010年09月23日 09時36分38秒 | インポート

AYHWH(聖書の神)が創造主だとしたらなぜこんな不完全な世界を創ったのかな?

B:神は完全な世界を創ったのだ。ただそれを認められなくなってしまった人間がいるだけさ。

A:その原因になったのはやはりアダムとハヴァが善悪を知る木の実を食べたためかな?

B:それはフィクション(虚構)だろう。神が全知全能だとしたらなぜそのうちアダムとハヴァが善悪を知る木の実は食べてはいけないという神の禁止を破るだろうことを知らなかったのか。

A:とにかく今の僕たち人間の多くは何かしら不全感を抱いて生きているね。

B:しかし不全感がなかったら世界や社会や自分を改善しようとする意志も生まれなかっただろうな。

A:「志あるところに道あり」か。

B:志とは願望のことで、道とは人生のことだな。

A:最後には人間も他の動物同様死ぬのだからせめて自分の人生には意味があったと思いたいものだね。

B:だから神は安易に手を出さないのかも。神に目的があるとしたらそれかな。

A:神が人間を命の木から遠ざけたのもそのためかな。

B:手を出しているとしても人間の自由意志を尊重するため気づかれないようにしているのかもしれないな。

A:人間の親が自分の子供に「一人で大きくなったような顔をして!」と言うことがあるけど、神にとって人間は自分の子供みたいなものなのかな。

B:そうだとしたらちょっと安心できるかな。

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 統合失調症へ
にほんブログ村

コメント (5)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人間コントロール説

2010年09月22日 13時03分45秒 | インポート

僕は先日「人間コントロール説」を思いついた。

普通の人間は己の行為を決定するのは己の意志だと思っているが、僕に言わせるとその意志を決定しているのは、己ではなく、もっと別の大いなる存在なのである。

「それでは自由意志はどうなる?行為の責任は誰が取るのだ?社会が成り立たなくなるではないか!」という非難はもっともだと思うが、僕は少しだけそう思うのである。

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 統合失調症へ
にほんブログ村

コメント (9)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古い涙

2010年09月21日 09時26分22秒 | インポート

 中学三年生の時は泣かなかった

 いや、泣けなかった

 あの頃の僕は泣けるほど強くなかった

 人前で泣けるほど人間を信じていなかった

 怒り狂えるほど自信もなかった

 一人の女の子の気持ちを汲んでやれるほど大人じゃなかった

 軽く生きることが自由だと思っていたから束縛されることが嫌だった

 十字架を引き受けるなど考えたこともなかった

 そのくせ愛とか平和とかいう言葉が好きだった

 だけどこの前泣いた

 悲しくもないのに泣けてしょうがなかったのはそれがあまりに古い傷だったから?

 でもとにかく泣けてよかった

楽にさせてもらえた

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 統合失調症へ
にほんブログ村

コメント (6)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

単純な真実

2010年09月20日 09時35分17秒 | インポート

 フォイエルバッハという哲学者は【最も単純な真実にこそ人間は最も遅く到達する】と言ったそうだ。僕はこの人の名前はマルクスがらみで知っていたのだが、このような言葉を残しているとは全く知らなかった。深い言葉だと思う。

そしてそれは僕に神父さんの言葉を思い出させた。神父さんは僕たちに「単純な人間になれ」とおっしゃったことがあった。

でも僕はその時その言葉に躓き、それを素直に呑み込めなかったのだ。

なぜなら僕は今よりもっと深く人間というものを知りたいという欲求があるのに、単純になったら複雑な人の気持ちを理解できなくなると思ったからだ。

でも神父さんがおっしゃった「単純な人間」とは別に「無神経な人間」ということではなかったのだ。単純な人間とは単純な真実を理解し実行できる人間というほどの意味だったのだろう。

単純な真実を知るためには複雑な事実も知っていかなければならないのだ。

ここに生きていかなければならない理由があると思う。

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 統合失調症へ
にほんブログ村

コメント (10)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

赤い月

2010年09月19日 09時47分36秒 | インポート

 そろそろ家に帰らなくてはならない時刻

ふと薄暗くなった東の空を眺めたらまん丸い赤い月が浮かんでいる

僕の口から思わず「不吉だ」という言葉が洩れる

するとすぐさま他の仲間も興奮した声で「不吉だ!」と言う

「不吉」という普段使わない言葉が使えたのが嬉しくて僕は大きな声で「不吉だ!不吉だ!」と叫ぶ

みんなも同様に叫ぶ

そうしてケンちゃんの家の庭で大騒ぎ

幸福な時代だった

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 統合失調症へ
にほんブログ村

コメント (6)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

失ったもの

2010年09月18日 09時19分35秒 | インポート

 世界を対象として客観的に捉えていくうちに僕たちはいろいろなものを発見した。でも同時に何かを失っていった。手足を動かしている一匹の小さな虫に宿る命を見よ。死体でも機能でもなく。それは何かつつましいもの。

 対極にあるものは何でもコントロールしようという傲慢さ。能力をつければ救われると思ったのだ、文明人は。そして能力のないものを蔑んでいったのだ。

たぶん僕たち文明人はもっと自分の素顔を見るべきなのだ。自分の不幸な顔つきを見るべきなのだ。

 文明は虚しい。文明は何か偽物っぽい。鳥になって飛びたいものだ。飛行機に乗るということではなく。イルカになって泳ぎたいものだ。船に乗るということではなく。

 空想のままでも幸せだった。そこには見果てぬというものがあった。

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 統合失調症へ
にほんブログ村

コメント (7)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

信じること

2010年09月17日 09時57分47秒 | インポート

 信じるとか、信じないとか、本当ならこういうことはあまり気にせずにいられたら、それに越したことはないのだろう。なぜならそういう時は苦しいものだからだ。

とにかくこういう問題が生じるのはまずだいたい何か不信感を抱かせるような出来事があったからで、健康な人でそういうこともなしにわざわざ人を疑ってみたりする人はそうはいまい。

 悪いという感覚は自分の心の流れが滞ったときに生じる(というより、滞ることによってそれまでは心によい流れがあったと気づかされるといった方が正確か)。そしてそういう状況をもたらした相手に敵意を抱く。

気持ちよく生きたいとほとんどの人が思っていると思う。そういう意味で人はみなよき存在者だと思う。だけど悪いという感覚が生じた時、そもそも自分の中に弱点があったからだと考えるのは難しい。

自分を絶対化していると他人の忠告がなかなか聞けない。相手はただ単に部分的にそうする方がいいと知っていたから教えただけなのに、自分の全存在を否定されたような気がして怒るのだ。

 自分は絶対的な存在者ではないという自覚があれば、他人の存在を意識し、それから信じようとするのだけれど、なかなかそれができない。

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 統合失調症へ
にほんブログ村

コメント (11)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カストルとポルックスの対話

2010年09月16日 09時32分05秒 | インポート

K:これだけ文明が発展したのにこの世に破滅する人間が跡を絶たないのは何故なのかな?

P:そうだね。単に不幸の軽重によるのではないね。何が人間を破滅する人間と破滅しない人間とに二分するのだろうね。

K:人間はみな最後には死ぬという点で一致するのだけどね。

P:それにしても自分が無限の存在者ではないと思考することは辛いことだね。

K:自分は無限の存在者だと思い込めたとしても別の苦しみが待っているけどね。

P:肉体は弱いからね。

K:ところで死を想えと言われるけど想ったって死そのものには触れられないよね。

P:確かにね。人間にできることは他人の死体を見たり触ったりすること位だね。

K:自分の死体は見たり触ったりすることすらできない。

P:そこに魂の不滅という観念が入り込む余地があるのだろうね。

K:生命というけど僕たちは生まれてこの方動きっぱなしだね。

P:心臓に向かって動け!と頭で考えたわけではないのにね。

K:自意識はあるけど自分というものが分からない。

P:人間とは不思議な生き物だね。

K:でもとにかく人間にとって己を知るということは大切なことだと思うよ。

P:己を知るためにはよく分からない他者と関わらなければならないよね。

K:滅ぶべき肉体が精神を持つというのは何だかややこしいね。

P:結局、人間の栄光も悲惨もそこに由来するのだね。

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 統合失調症へ
にほんブログ村

コメント (3)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする