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プシコの架空世界

ホレホレ触るとはじけるゾ。
理性がなければ狂いません(妄想の形成にも理性の助けがいる)。

NOTE(19)精神科病院へ行く

2015年09月30日 00時30分00秒 | 日記

十月二十七日に起こしたアクションの後、僕は仕事を休みました。でも、僕の脳の興奮はまったく収まらず、僕の車で父を椿峰へ連れて行ったりしました。その様子を第三者が見たら狂気を感じたでしょうが、僕はまったく本気だったのです。父が心配そうに「一緒に病院へ行こう」と言うので一九九一年十一月二日に埼玉県三郷市にあるみさと協立病院へ行くことに同意しました。しかし、それは僕に病識があったからではなく、そう頼まれる前日に父がいつの間にか帰宅していた弟と共にキリスト教のI牧師さんを呼んだりしたからです。僕は父と弟にも「立ち去れ、サタン!」と言ってしまいましたが、完全に理性を失ったわけではなく、これ以上家族を困らせたくなかったのです。この時、僕はI牧師さんから同害報復の本当の意味(汝、己の欲せざるところ人に施すことなかれ)を教わりました。責任の取れないことは初めからするなと理解しました

みさと協立病院を選んだのは近所のMさんのアドバイスがあったからです。彼女は代々木病院精神科の看護婦長にまでなった人でした。この方にはその後もいろいろ世話になりました。

所沢市から三郷市まではかなり遠いのに二台のタクシーを交通手段にしたのは僕がそう要求したからです。僕と父、母と弟に分かれてもらいました。でも、途中で職場の同僚であり救世主であるM・HさんをY・Mさんが洗脳しそうだという幻聴が聴こえてくるので、彼を守るため(この時僕は自分がダビデ王の生まれ変わりだと思い込んでいる。その根拠は旧約聖書の彼の物語を読んだ時、<これはオレのことが書いてある!>と強い衝撃を受けたから)、僕は腹がすいたと道路右側にあるコンビニエンスストアに立ち寄らせ父が代金を支払っている隙に来た道の方へ逃げ出しました。まったく知らない土地だったけど誰かに最寄りの駅を訊いて帰れると思いました。しかし、タクシーに乗り込んで追いかけてきた父に簡単に捕まってしまいました。僕が「神の名を心の中で唱えてみよ!」と言うと、父はまつげの長い目を閉じ口をもごもごさせる。「聴こえない!」と僕が叫ぶと、目を開け「病院へ行こう!」と必死の形相で訴えてくる。仕方なく僕は神さまにM・Hさんの無事を祈り再びタクシーに乗り込みました。

なぜ僕はM・Hさんを救世主と思ったのか。たぶん彼が劇団出身者でかっこよかったことと名前に「真」という字があったからだと思います。僕は彼と名前に「美」という字があるA・Nさんと三人で組んで「真・善・美」の調和を完成させ、ベルゼバブ、レビヤタン、モロク、バール、アシュモダイ、レギオンなどの悪の軍勢と戦うつもりでいたのです。僕は「愛あるところに神あり」とか、「罪に対し罰をくださるのは神、また贖い出すのも神」とか信じていました。そのため僕はA・Nさん宅へ訪問した際、悪魔の名を使ったり、M・Hさんには僕のいろんな言葉を書きなぐった聖書を預かってもらったりしたのです。僕自身の名前に「善」という字はないのですが、「隆史」という名前が「リュウシ」と読めることから僕の守護天使はルシファーだと思っていました。時間の流れが変だけどサタンになる前のこの熾天使に僕は守られていると信じていたのです。M・Hさんは大天使ミカエルにA・Nさんは大天使ガブリエルに守られていると信じていました。また、僕たちは前世では家族だと信じたりもしました。<僕とA・Nさんは夫婦でM・Hさんは子供だ>という妄想に捕われていました。今から思うと、これらの妄想によって僕は自己救済を図ろうとしていたのでしょう。

病院へ着いたらたくさんの声が出迎えてくれました。でも、声だけで人影はまばらでした。しかし、それについて僕は変だとは思いませんでした。自分にテレパシー能力がついたと思っていたからです。

初診時に女医のM先生が病気と治療の必要性を丁寧に説明してくれたことは非常によかった。「どの位で治りますか」という質問に「最低三年はかかります」と返答された時には我が耳を疑いましたが、それはむしろ思いやりのある言葉だったのです。ちなみにこの時は自律神経失調症と診断されました

受診後、僕は職場へ訪ねて行ったのですが、処方された向精神病薬が効きすぎてだるかった(精神病者を怠け者のように捉えている人は是非この薬を飲んでみてほしい)ので、体を休憩室で横たえていました。そうしたら「かわいそうに」という小さな声が聴こえました。僕はもうこの職場へは戻れないだろうと感じました。

けれども、僕は断薬を試みようとは思いませんでした。僕がかけたさまざまな迷惑も病気ということで片づけられるならとっととそうしてもらいたいと思ったからです。そうすれば自分のことに専念できると思いました。

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NOTE(18)同害報復(タリオ)

2015年09月30日 00時00分00秒 | 日記

統合失調症の急性期に陥った頃、僕は自分が住むこぶし団地の住人のほとんどが悪魔だと思うほど追い詰められていました。何故かこぶしの花は秋の七草の女郎花(オミナエシ)だと勘違いして(確か辞典にはそう書いてあったはずなのだけど、統合失調症の友人MI君に間違いを指摘されるまでそう思い込んでいました)、ここの住人は前世では罪深い遊女だったのだと思い込んでいました。そして、それに対抗するために僕は自宅のすべての窓にシールを貼ったのです。シールにはヘブライ語で神の名を書き日本語で「神の名を心の中で唱えてみよ」と書いておきました。僕には<悪魔は神の名を心の中で唱えられない>という妄想があったからです。それから、ノートに人物名を列挙し、それらにいちいち悪魔の名を対応させていく作業をしました。この着想が【目には目を歯には歯を】という同害報復(タリオ)の観念の影響を受けていたことは間違いありません。そして、「神さま、地獄の一番奥底にこいつらを閉じ込め封印してください!」と締めくくったのです。僕は外から呪いの言葉を吐きながら歩いていく住人たちが狭山湖で入水自殺すると思い込んでいました。まるで新約聖書のガダラの豚の逸話のようですが。

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NOTE(17)サンシャレンゴウとツチミカド

2015年09月29日 00時30分00秒 | 日記

大学卒業後、生協に就職しても状況は一向に好転しませんでした。僕は幻聴と妄想のせいで仕事に集中できず、ミスばかりしていました。けれども、相変わらず本人に病識はないし、周囲もバカな奴が入ってきた位にしか思わなかったのでしょう(実際バカ呼ばわりされたし)。組合員さんたちが加入するのも脱退するのも僕のせいだと思い込んでいた僕は独りでずいぶん苦しみました。

夏休みに日立製作所に就職した大学の友人のところまで埼玉県庁に就職した友人の運転する車で訪ねて行ったのですが、途中のパーキングエリアや企業城下町の日立市でも僕の噂話が聴こえるので、なぜ、こんなところまで?と妄想が拡大する原因になりました。

その頃、僕にはサンシャレンゴウとツチミカドという謎の二大勢力が対立しているという妄想がありました。この二つの名称は職員たちのヒソヒソ話に何度も現れていました。今から思うと幻聴だったのですが、当時は事実だと思っていました。そして、≪(僕が)セイノさん(サンシャレンゴウの正体不明のリーダー)に似ている、似ている…≫と聴こえてくるのです。あたかも僕をその人の後継者に仕立て上げようとするかのように。一方、ツチミカドという組織には僕の父が属していて、職場の上司のYMさんは過去に父の命を狙ったことがあったが、未遂に終わったとか聴こえてくるのです。父は組織の有力者でしたが、過去に妊娠中絶という罪を犯しているためにその力を十分に発揮することができない。サンシャレンゴウは僕が覚醒して父の味方になることを恐れている。僕が敵視していたNOは実はサンシャレンゴウに属していて途中で刺されて死んだとか聴こえてくる。僕は自宅の居間で父が母に「タカシをいじめるからだ…」と話しているのを見る。僕がYMさんに「NOは死んだんですか?」と訊いたら「知らないよ!」と返事されました。僕が職場で涙を流したのはNOのためでした。


また、空笑なるものも出ました。それは何も可笑しいことなんかないのに「くっ、くっ、くっ…」と笑ってしまうのです。自分でもいけないと思うのですが、制御できないのです。

僕の異変に気づいたのか、YMさんに「話がある」と言われたのはアクションを起こす数日前です。そこで、彼に過去に遡って自分に起こっていることを話したら、「君、楽しい思い出、それだけしかないの」とか「何で君、他人のせいにばかりするの」と言われ、応えました。それから、センター長のKIさんから自宅に電話があり、僕の母は僕がおかしなことを言っていると告げられたそうです。共同購入の「お誘い」という生協に未加入の人を勧誘する仕事をお誘いは誘惑につながるから悪と断罪して途中で投げ出し、そのままセンターにも戻らずトラックで帰宅してしまったのは、先に述べたANさん宅を訪ねる数時間前のことです。

途中不思議なことが起きました。イスラエルの神の名(YHWH)を思い浮かべるとイスラエルの神の名を大合唱する子供たちの声が聴こえるのです。しかし、これはいわゆる統合失調症の「思考化声」という症状だと思います。なぜかというと、僕が神の名を<ヤハウェ>と思うと≪ヤハウェ!ヤハウェ!≫の大合唱となって、<ヤーウェ>と思うと≪ヤーウェ!ヤーウェ!≫の大合唱となって聴こえたからです。これはさすがに自分でも変だと思いました。ちなみにイスラエルの神の名はユダヤ人でさえ正確な発音ができなくなっています。【虚しくあなたの神YHWHの名をあげるな】という戒めを忠実に守った結果です。

僕の職場はYMさんとHNさんという二人の先輩によって支配されていて、でも本当に悪いのはどちらか一方で、僕はその一人に向かって「立ち去れ、サタン!」と言わねばならないと思い込んでいました。僕としては大真面目で、そうすれば救世主であるMHさんや同僚たちの洗脳を解けると信じていたからです。でも、どちらが本物の悪なのか見分けがつかない。また、その手続きが面倒で根拠はないのですが、更新する度、いちいち所沢市の椿峰というところまで行ってノートに書き記さねばならないことになっている(ハルマゲドンを意識していたかも)。夕焼け空に≪ヨッド、へー、ヴァヴ、へーって書くんだよ、オラー!≫というHNさんの声が響き渡った後に≪ブモ~!≫という牛のような鳴き声が響き渡る。僕はもう少しで悪魔を封印できそうだったのですが、ノートに神の四文字(テトラグラマトン)を書き忘れたために取り逃がしてしまったのです。歩行者の「あ~あ」とか「惜しかったね」とかいう声が僕の悔しさを増幅させます。結局、そこで決着はつけられず、職場において僕がYMさんとHNさんの両方に「立ち去れ、サタン!」と言ったのはこういう経緯があったからでした。両方に言ってしまえば、どちらか一方には当てはまるだろうと思ったのです。後で二人には謝りましたが、悪いことをしました。この症状はいわゆる統合失調症の「させられ体験」とは違うと思います。僕の場合、<~をしろ!>という命令が下ったのではなく、<立ち去れサタンと言う!>という意志が自分の意識内で燃え上がるような感じでした。「させられた」というとちょっとニュアンスが違ってしまうと思います。

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NOTE(16)就職活動

2015年09月29日 00時00分00秒 | 日記

僕は大学時代、就職活動なるものはほとんどしませんでした。公務員になろうと受験勉強をしていたからです。何故、公務員を目指したかと言うと、安定した職業だからという理由もあったのですが、それよりも大学を不正入学したのではないかという妄想があったため、今度こそ実力で試験に受かってやろうと思っていたからです。

僕が受験したのは国家公務員二種試験と地方公務員(埼玉県)上級試験と東京都庁採用試験と第三セクターと呼ばれる団体の試験でした。けれども、全部不合格でした。

そして、結果が出てから仕方なく就職活動をして採用されたのが生活協同組合さいたまコープだったのです。何故、ここを選んだかと言うと、その一号店が僕の住んでいるこぶし団地内にあって昔からなじみ深かったことと、食品の安全性にこだわりつつ、営利を目的としないイメージがあったからです。当時、僕は営利を罪悪視していたのです。それから、生協というネームに惹かれました。生活を協同するって何かいいじゃないですか。でも、正式名称は消費生活協同組合だというのを知ったのはガイダンスにおいてでした。なんだ、消費生活を協同するだけかと少しがっかりしました。

父は僕が就職活動をする時、「オレのことは当てにしないでくれな」と言い放ちました。そして、生協に決めようとした時には「生協なんかに入れるために大学へ行かせたんじゃないぞ!」と怒りました。また、別の時には僕と弟に「お前ら二人ともオレは超えられなかったな」と嬉しそうに言いました。普通、親というものは子が自分を乗り越えてくれることを望むものではないでしょうか。でも、うちの場合は違っていました。

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NOTE(15)性の抑圧

2015年09月28日 00時30分00秒 | 日記

ところで、僕は過去に一度だけ風俗店(覗き部屋)を利用したことがあります。あれは法政大学の卒業式があった日の夜のことでした。僕は大学の友人たちと一緒に居酒屋や新宿の高層ビル内のレストランで珍しい銘柄の酒を数種類飲んだ後に歌舞伎町のその店にフラッと入ったのです。

僕は極度の恥ずかしがり屋で(高校生の頃など自宅の風呂に入る時でさえ鍵を閉め腰にタオルを巻いていた)売春婦に自分の裸を晒すことには強い抵抗感がありましたが、覗き部屋なら服を脱ぐ必要はないのでその心配はないと思ったのです。エロ本を見るような軽い調子でその店に入ったのです。

個室に入ると窓越しに中心の部屋を見ることができるようになっていました。中心の部屋は円筒形になっていてその周りに窓がいくつもありました。窓はマジックミラーになっていて、こちらからは相手を見ることができるけど、相手からはこちらを見ることができないようになっていました。個室には安っぽい椅子とティッシュペーパーとおしぼりとゴミ箱が備えてありました。そして、女性が中心の部屋で服を脱ぐというサービスでした。

僕はそれを見て興奮しました。だけど、同時に彼女はこの仕事を好きでしているのだろうかとか、彼女の両親はこのことを知っているのだろうかとか、余計なことを考えてしまいました。彼女から受ける印象が予想と違って暗いので、そんなことを考えてしまいました。また、彼女が近づくにつれ、彼女に欲情している自分を見られているような恥ずかしさで僕の気持ちは萎えてしまいました。

結局、射精できず、時間が来たので不完全燃焼のまま外へ出ました。僕が友人たちにそのことを話したら彼らも同様でした。

これが僕の唯一の風俗体験です。そして、これから七カ月後、僕は統合失調症の急性期に陥ります。今から思うと、僕の統合失調症の原因の一つに性の抑圧があったことは否めません。僕が妄想を逞しくしたのは生身の女性相手に性欲を満たすことを禁じてきたことが大きいと思います。

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NOTE(14)被害妄想と誇大妄想と血統妄想

2015年09月28日 00時00分00秒 | 日記

僕の恋敵NOが彼にとって邪魔な存在である僕を彼が所属している宗教団体を使って破滅させようとしているというのが僕の被害妄想でした。彼は僕の高校時代の友人でANさんたちとグループ交際していた時一緒だった男子です。僕がグループ交際から抜けたのは彼が彼女を好きだと言ったことも大きいです。彼女の家を訪ねる前日に彼の家まで訪ね、彼の口から「そんなことはない」とか「付き合ったことさえない」ときっぱり答えてもらったのにかかわらず、僕は<彼は嘘をついている><彼の魂は悪魔に乗っ取られている><悪魔は彼を使って破滅させたくなるほど価値のある僕を苦しめる>という被害妄想と誇大妄想と<僕の血筋は天皇の流れを汲むものだから>という血統妄想に捕われていたのだからかなり深刻な状態でした。しかし、そんな不安定で危険な状態もアクションを起こしたことで周囲に認知されたわけです。

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NOTE(13)恋愛妄想と関係妄想

2015年09月27日 00時30分00秒 | 日記

特に僕が高校三年の頃出会ったA・Nさんに対しては酷いものでした。彼女は二歳年下の女子高生で僕の友人M・Dの妹の友人でした。僕は高校最後の夏休みに四人組でM・Dの伊豆の別荘へ泊まらせてもらったのですが、そこへ彼女たち四人組もやってきたのです。その他にお互いの高校の文化祭にも行ったし、できたばかりのディズニーランドへも行きました。けれども、僕は素直になれず、受験のためと偽ってグループ交際から離脱したのでした。僕の恋愛妄想の種はこの時蒔かれました。

恋愛妄想の大失敗をしたのは僕がすでに社会人になっていた二十六歳の頃のことです。これによって僕の異常性が周囲に認知されることになるわけですが、僕は日本社会に「ストーカー」という言葉が広まる時代に先駆けて図らずもそのようなことをしてしまったのでした。

別れてから八年も経つのに僕は一九九一年十月二十七日の月曜日の夜に突然彼女の自宅へ訪問し告白したのでした。彼女の住所は電話帳から狭山市に住む彼女と同じ名字の家へ電話をかけ、「Aという名前でA女子高を出ている人はいないか」と尋ねまくって調べました。そして、彼女の住所が分かると今度はゼンリンの住宅地図を片手に場所を確認しました。しかし、僕が彼女の家へ訪ねて行った時にはすでに彼女には彼氏がいて(幻聴が言った通りだ!)、数日後には結納を控えている身でした。それでも、今言っておかなければ一生後悔すると思った僕は「(僕と)結婚して!」とプロポーズしたのでした。

結果は散々で、彼女の弟に羽交い絞めされたり、「二度と来るんじゃねえぞ!」と怒鳴られたりしました。駆けつけた彼女の婚約者とは彼女には二度と会いに来ないという約束をしてしまいました。僕はこの大阪出身の彼が同じく大阪出身の職場のH・Nさんと関係していると思いました。そして、彼女は僕を守るため敢えて冷たい態度を取ったのだと解釈してしまいました。でも、車内から全世界に向けて僕に起こっていることを訴えて(僕の声は拡声器を使ったように響く)帰宅すると、彼女から電話があったそうで、両親は今度僕が訪ねてきたら警察を呼ぶとまで言われたそうです。よほど気味悪がられたようです。変な宗教にでも入っているのではないかと疑われたそうです。しかし、それも仕方ありません。僕はベルゼバブ(悪魔の頭の名)がどうのこうのと言って彼女を説得しようとしたのだから。

なぜこんなことになってしまったのか。彼女とは八年間音信不通でしたが、実は僕の中では関係は続いていたからです。なぜなら、受験勉強をしている頃も大学生活を送っている頃も夜な夜な彼女の声が屋外から聴こえてきたからです。彼女は他の数名と共に僕を非難しているのですが、僕は彼女が僕を非難するのは愛情の裏返しからだと解釈していました。彼女は僕を愛しているのですが、僕が高いところへ行ってしまったので僕を貶めて自分のところまで引きずりおろそうとしているというわけです。

でも、残酷に思われましたが、僕は一度もそれに応じませんでした。彼女が処女だと確認できないうちは相手にしたくなかったのです。男と女はヴァージン同士で結婚すべきであり、結婚してからも貞操は守らねばならないというのが僕のこだわりでした。

それにしても、なぜ彼女はいつまでたっても告白してこないのだろう。そう訝った僕はある日、彼女の住所から勝手に狭山事件を連想し、彼女は地区出身者ではないかと疑ったのです。そこで、所沢市の図書館で関連本を探したら、日本の地区が載った本を見つけたのです。そして、パラパラとページをめくってみると、なんとそこに僕の母の実家がある村が載っているではありませんか。ここから僕の関係妄想は発展します。僕の父方の名字は姓氏辞典で調べたら桓武天皇の流れを汲む家柄だったので、僕には天皇との血が流れているのだ、僕にはこの二つを統合する使命があるのだと思い込んでしまったのです。こうなると、もはやマンガですが、本人だけは本気でした。

母にこの話をしたのはかなり後になってからですが、確かに村の外れにそのような家が数軒あったと教えてくれました。病気になった母を看てくれた看護婦さんもそのような人だったけど、優しくて、全く普通の人だったそうです。

差別される者の悲しみは精神病になって少し分かるようになりました。何より固定されてしまうことが辛いのです。善いことをしても悪いことをしてもあいつは何々だからと決めつけられる不自由さ。心ある人なら分かってくれると思います。

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NOTE(12)初恋とトラウマの話

2015年09月27日 00時00分00秒 | 日記

僕の初恋は結構早くて小学三年生の頃のことでした。僕はある日突然恋に目覚めたのでした。相手の名前はMKさん(真という字が入っている)といいました。だけど、この恋は僕の一方的な片思いでした。彼女が二学期途中で引っ越してしまったので告白できませんでした。僕は彼女を好きになったのに、そのことをクラスメイトに知られるのが怖くて(ケンカするより怖い)、一度も彼女と話せませんでした。しかし、それでも彼女には僕の気持ちに気づいてほしかったので、彼女が下校すると後を追い、彼女が歩く反対側の歩道で思いっきり手を振りながら歩いたのです。彼女の家は学校と僕の家の四分の一位の距離にありましたが、当時の体感では二分の一位でした。僕のハートは彼女に奪われているのに、本来負けず嫌いなため、彼女が僕を好きになったら思いっきり振り回してやろうという悪魔的な発想も湧きました。

女教師は教壇上の彼女が十月十三日に通学を止め十五日には引っ越すと説明しました。僕は彼女のことを忘れまいと、誰にも気づかれないように、家の中の柱にこの三つの数字を刻みつけました。でも、一人だけ僕の気持ちに気づいた同級生がいました。KSといいましたが、不覚でした。彼は帰り道が同じだったのです。しかし、僕は知らんぷりして逃げました。彼は廊下へ出ようとする僕の背後から「うそつけ!」という怒りの言葉を浴びせましたが、僕は<何でお前が怒るんだよ>と思いました。

それでも、僕はとにかく彼女が僕の前から消えたのだから、もうこれ以上彼女に苦しめられることはないと、問題は解決したと思いました。けれども、解決などしていなかったのです。悲しい時にしっかり悲しんでおけなかったために、とてつもない重荷が僕に課せられることになったのです。惚れっぽい性分の僕は、その後も小・中・高と多くの女子を好きになりましたが、本当に好きになった女子とは満足に口をきけなくなるのでした。

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NOTE(11)二つのショッキングな話

2015年09月26日 00時30分00秒 | 日記

父からショッキングな告白をされたのはそんな状態の頃でした。一年の夏休み頃、「お父さんとお母さんは過去に妊娠中絶をしたことがある」と言うのです。その子は僕と二歳年下の弟康史の中間に生れるはずだったと言うのです。康史の後に死産の子がいたという話は小学生の頃から知っていましたが、まさかその前に中絶された子がいたとは思いもしませんでした。康史は現役で神奈川大学経済学部に入学し、川崎市で一人暮らしをしていたので、僕だけがこの話を聞かされました。この話を最初に聞かされた時はそれほど自覚できなかったけど、両親に対する不信感がシミのように残りました。

そんな頃、今度は訪ねてきた叔父から、どういう話の展開か忘れましたが、とにかく父が高校浪人をしていたという話を聞かされたのです(肺の病気のためと知るのはかなり後になってから)。叔父は父と不仲で酒を飲まずには訪ねてこられない人でした。そして、叔父が帰った後、僕はしつこく父をからかったのです。「まさかオヤジが高校浪人してたとはなー」とか言って、なぜかしつこくからかわざるを得なかったのです。歌なんかも歌っちゃったりして。その根底には中絶の他にも隠し事があったという怒りがありました。でも、僕が「それに比べてオレはすげえな!」と言ったら、さすがに腹が立ったのか、父は「オレのおかげだろうがあ、ふん!」と言って顔を左へ背けたのです。声は卑しい響きでした。僕の精神はその頃狂い始めていましたが、この言葉がさらに追い打ちをかけました。そして、それ以来、僕は大学に父の力を借りて入学してしまった、つまり不正入学をしてしまったという妄想に取り憑かれてしまったのです。以前、父がしていた「法政大学には知り合いがいる」とか「下駄を履かせて(試験の得点を水増しして)もらっても、落ちる奴がいるそうだぞ」という話も思い出して不信感を募らせました。

だから、僕は「不正は許せない!不正入学だったら退学する!」とか「不正入学などしたらオレの人生に汚点を残すことになるんだぞ!」とか「本当に合格したのかなあ」とか「小学生の頃はかったオレの知能指数どの位だった?」とか「何で何回もオレに受験させてくれたの?」という言葉を父に向かって繰り返すようになってしまったのです。最初は口に出すことにためらいがありましたが、そのうち何度も繰り返すようになりました。それに対して父は「そんなことするわけないだろ!」とか「そんなに自分の(した)ことが信じられないのか!」とか「学校に訊きに行けばいいじゃないか!」とか「受験にかかる費用や学費や生活費は誰が出してくれていたのか!」と言うのですが、僕は全然納得できないのでした。

あなたは『死の棘』という邦画をご存知でしょうか。その映画の主人公の妻の壊れ具合が自分の場合と似ていると思いました。精神分析のラカン風に言えば、「シニフィアン(音)とシニフィエ(意味)との基本的接着点が緩んでしまった」ということになるでしょうか。

最初の頃は≪バカ!≫とか≪死ね!≫とか≪まだ生きてる≫とかだった幻聴もその頃には家に盗聴器が仕掛けられているのではないかと疑うほど細かくなっていました。夜、部屋の中にいると≪本当のこと言いなさーい≫とか≪こぶし町の黒い霧ねっ≫とかいう女性の声や≪聞いたぞー≫とかいう子供の声が聴こえてきて苦しみに苛まれました。しかし、これは統合失調症の「筒抜け体験」と呼ばれる症状だったのでしょう。

「もう一度早稲田に挑戦してみようかなあ」という僕に対して「やってみるか!」と元気に答える父を見て、ああ、やっぱり父の言っていることは本当かもしれないなあと思いましたが、結局僕は再受験もせず、父の言っていることが本当だとしても嘘だとしてもどっちも同じことだ、どっちでもダメだと思い詰めてしまったのでした。論理的に考えてかなり変だけど、これが当時の僕の心理状態でした。

一年の秋、生物学の講義で『サイレント・スクリーム』というアメリカのドキュメンタリー映画を観たのも僕にとっては害になりました。これは人工妊娠中絶手術の様子を映したものだったのです。僕はこの映画を興味津々観はじめたのですが、妊婦の子宮内で胎児の頭と体が分離され、頭は潰され、体は切り刻まれ、最後にバキュームで吸い取られるという残酷な映像を見て気分が悪くなりました。映画のタイトル通り静かな叫び声をあげているような胎児の姿が目に焼き付いてしまいました。

この後、僕の記憶は混乱します。僕は一九九九年に『雨 花 そして僕』という本を文芸社から出版しましたが、その執筆期間中、はて僕が父から中絶の話を聞いたのはこの映画を観る前だったか後だったか判然としなくなっていたのです。だから、本文中には仕方なく控えめに父の中絶の話を大学入学の翌年としたのです。しかし、正しくは父の中絶の話はこの映画を観る前でした。ここにおいて訂正させていただきます。

それから、この映画を観た後は夜寝る時、夏であろうと冬であろうと上半身裸になり、厚い掛布団を首に挟まなくては眠れなくなってしまったのです。そうしないと首の辺りがジワーッとしてきて眠るどころではなくなってしまったからです。再びTシャツを着て眠れるようになったのは四十歳を過ぎてからです。

それにしても、なぜこの問題が僕に重くのしかかったか不審に思われるでしょうか。あなたは生きているのだからそれでいいではないかというわけですね。前に死産の弟の話をしましたけど、当時、この話を父からされてもショックは受けませんでした。ただ、同じ兄弟なのになぜ僕は生きていて弟になるはずだった子は死んだのだろうという不思議な気持ちになっただけでした。それ以上考えても分からないので、仕方なく何人かの友だちに「僕にはもう一人弟ができるはずだったんだって!」となぜか得意げに話したのだと思います。だけど、中絶された子がいたという事実を知った時は様相が違いました。僕が先に生れていなければその子は死なずに済んだのではないかという罪悪感が生じました。それから、順番によれば僕が中絶されていたかもしれないということ。これは僕が生まれてきたのはたまたまであり、決して絶対的に望まれて生まれてきたわけではないことを意味し、僕としては存在の根拠が揺らぐことだったのです。だから、あれほど苛立ち不安になったのだと思います。例えば、天井にシミを見つけたらその裏側に赤ちゃんの死体が隠されているのではないかとか、肛門が痛くなったら寝ている間に父に犯されたのではないかと疑ってしまったのだと思います。また、≪(父は)若い頃、子供の頭かち割って血を売ってた!≫とかいう怖い幻聴が聴こえたりしたのだと思います。電車に乗っている時、突然気分が悪くなり、連結部分に嘔吐したこともありました。こんな風だから「お前には関係ない。これはお父さんとお母さんの問題だ」と強く言われても僕には効果がなかったのです。

それにしてもなぜ父は僕に己の情けない過去を話したのでしょうか。僕は初め愛する彼女に中絶など不幸なことをさせるなというメッセージを受け取りました。僕は成人した頃から父に「素人の女の子とは遊びで付き合うな」とか「タダより高いものはないぞ」とか「オレはお前の反面教師なんだ」と言われていたのでそう思いました。でも、これは頭だけ思考だけの理解でした。また、若かった僕にとって玄人の女性とならセックスしてもいいという父の考えには抵抗感がありました。僕は大勢の中の一人になるのが死ぬほど嫌だったのです。

僕には父に対する誤解がありました。父を強い人間だと思っていたのです。父は右目しか見えないのに全然苦にしていなかったり(「オレは能力が高いからこれ位が丁度いいんだ」とか言っていました)、その原因(海の砂が左目に入っていた時、冷やすべきところを温めろと言われたそうです)を作った藪医者のことも全然恨んでなかったり、父が泣いたところなど見たことがないし、テレビのコマーシャルが流れる保険会社の当時人事部長でなんだかんだ言っても頼れる人だったのでそう思い込んでいたのです。

しかし、父が亡くなってから八年後、父について回想しているうちに父にも弱いところがあったと思うようになりました。中絶をして傷ついたのは母だけでなく、父もまた傷ついたのだと思うようになりました。父は自分の犯した過去の失敗も息子である僕のために役立てられるなら意味があったと思いたかったのでしょう。父は無神論者だったので素直に許しを請えず、自己救済を図るにはこういう手段(精神分析でいうところの「合理化」)しか取れなかったのでしょう。

両親の失敗は望まない妊娠をしただけでなく、それを精神的に未熟な僕に話したことですが、その前に聞かされる側がどんな気持ちになるかもっと想像してほしかったです。そして、いわゆる「喪の作業」を施してくれていたら、後々これほど問題もこじれなかったと思うのです。

中絶問題と不正入学の疑いによって僕の学問への意欲はかなり減退しましたが、それでも僕には大学を四年間で卒業するという目標があったため休学することはありえませんでした。二年生の頃、普通自動車の運転免許も取得しました。運送会社でアルバイトもしました。自分なりにとてもがんばっていました。

僕の学業態度に父が口をはさむことはありませんでした。父が心配していたことは僕が悪い女に捕まることでした。僕にさりげなく『あげまん入門』とかいう本を読ませようとしていました。しかし、その心配は無用でした。僕には彼女などいなかったからです。僕が恋愛におくてだったのは女の子に対するトラウマ(心的外傷)があったからです。これから恋に関するトラウマの話をします。

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NOTE(10)学歴コンプレックス

2015年09月26日 00時00分00秒 | 日記

でも、結局浪しても早稲田大学には合格できず法政大学に入学したわけです。その頃には精神的に疲れ切っていました。何となく億劫で日本武道館で行われた入学式には参加しませんでした。入学資料をもらうため事務局に電話するのがやっとでした。

その後もさらに僕の苦難は続きます。それまでに現役生より三年も多く費やしたというコンプレックスに捕われたからです。そして、僕の頭はみんなより後れを取っているのだから一生懸命勉強して良い成績を残すのだという考えでいっぱいになったのです。しかし、これは劣等感を誤魔化す強迫的な観念でした。本当はサークルにでも入って大学生活をエンジョイすればよかったのですが、僕は自分で自分を欺いたのです。

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NOTE(9)誤算

2015年09月25日 01時00分00秒 | 日記

若い頃の僕は大学受験を甘く見ていました。有名一流校だって浪人すれば入れると高をくくっていたのです。僕の第一志望は早稲田大学法学部で第二志望は早稲田大学政治経済学部でした。なぜ、僕が有名大学にこだわったかというと、絶対的な保証が欲しかったからです。プライドが高い割に自信がなかった僕にはそれが唯一の道に思われたのです。僕はかっこよく生きたかった。素敵な彼女を得るためにはそれに見合う実力がなければならないと思い込んでいたので上昇志向で生きていました。そうしないと一生相手を繋ぎ止めておけないような気がしていたのです。相手の奴隷になるのはまっぴらごめんでした。こういう不純な動機ともう何年も浪人しているのだからそれを挽回できるほどステイタスの高い大学でなければならないという思いもありました。

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NOTE(8)初めての幻聴

2015年09月25日 00時30分00秒 | 日記

しかし、初めての幻聴が聴こえたのもこの頃でした。僕は見知らぬ若夫婦とその子供と思しき三人連れと道路ですれ違う際、いきなりその婦人から≪オオバカモノサマ!≫と叫ばれた後、笑われたのです。当時は幻聴などというものがあるとは知る由もなく、ただただ不快な気持ちでいっぱいになりました。この体験は彼女の発した言葉が変な日本語だったので印象に残りましたが、冷静になってみると、幻聴はそれ以前からあったのかもしれません。

また、幻視があったのもこの頃でした。僕はやはり大学受験を目指していた中学時代の友人H・Oと共に一晩中自転車で所沢市内をうろついていたのですが、明け方に舗装中の道路の向こうから首のないベージュ色の作業服を着た男がこちらに走ってくるのを見たのでした。驚いて一目散に逃げたのですが、あれが見えたのは僕だけだったのでしょうか。

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NOTE(7)不健康な浪人生活

2015年09月25日 00時00分00秒 | 日記

僕は一九八七年に法政大学法学部法律学科(学籍番号8710509)に入学しましたが、それまで三浪していました。今から思うと、この三年間の不規則な生活が精神衛生上極めてよくなかった。自宅浪人の孤独感や何度も試験に落ちたという劣等感や他の仲間たちに後れを取っているといった焦燥感などで僕の精神はだんだん病んでいくのに受験勉強ははかどらない。勉強はなるべく集中できるようにと静かな夜間に行なっていたのですが、生活のリズムは狂っていました。勉強より夜明けの空が気になって仕方なかったり、自慰を何カ月我慢できるかなど愚かなことを試みたりしていました。こういう生活でたまったストレスの発散法はアニメを観たりテレビゲームをしたりする位でした。

実は僕、一九八五年に拓殖大学商学部経営学科に補欠で入学したのですが、大学生活を楽しめず、十一月半ばで通学を止め、翌年の春の通知も無視していたら除籍されるという過去がありました。でも、その頃には再受験の目標があったせいか、全然落胆しませんでした。

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NOTE(6)病識がない

2015年09月24日 01時00分00秒 | 日記

僕の統合失調症の主症状は幻聴と妄想でした。妄想の種類はたくさんあるけど、僕の場合、被害妄想と関係妄想と恋愛妄想と誇大妄想と血統妄想がありました。詳しいことは後で述べますが、この病気を発症したのは僕が二十歳の頃です。でも、これも症状のうちですが、いわゆる病識というものがなくて、実際に精神医療のお世話になったのは二十六歳の時でした。それまでの六年間、僕は誰の助けも借りず、一人で病気と闘っていたのです。



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NOTE(5)ニュータイプ

2015年09月24日 00時30分00秒 | 日記

若い頃の僕はテレビゲームで遊ぶのが大好きでした。なぜ、あれほど熱中したのか自己分析してみると、中学生の頃観た『機動戦士ガンダム』という人気アニメの影響があったことは間違いありません。かっこいいモビルスーツと呼ばれるロボットや人間臭いドラマ自体も好きだったのですが、僕はこのアニメの「ニュータイプ」という概念に行かれてしまったのです。新人類になりたい。僕は無意識のうちにそう願っていました。でも、このまま現実の生活を続けて社会人になっても高が知れている。だから、ゲームセンターへ足を運ぶ。敵にやられる前にスティックを操ってボタンを押す。撃って、撃って、撃ちまくる。ステージをクリアする度に得られる快感はたまらなかった。無心に遊べたのはよかったけど、今から思うと、本当にバカだったなあ。

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