父からショッキングな告白をされたのはそんな状態の頃でした。一年の夏休み頃、「お父さんとお母さんは過去に妊娠中絶をしたことがある」と言うのです。その子は僕と二歳年下の弟康史の中間に生れるはずだったと言うのです。康史の後に死産の子がいたという話は小学生の頃から知っていましたが、まさかその前に中絶された子がいたとは思いもしませんでした。康史は現役で神奈川大学経済学部に入学し、川崎市で一人暮らしをしていたので、僕だけがこの話を聞かされました。この話を最初に聞かされた時はそれほど自覚できなかったけど、両親に対する不信感がシミのように残りました。
そんな頃、今度は訪ねてきた叔父から、どういう話の展開か忘れましたが、とにかく父が高校浪人をしていたという話を聞かされたのです(肺の病気のためと知るのはかなり後になってから)。叔父は父と不仲で酒を飲まずには訪ねてこられない人でした。そして、叔父が帰った後、僕はしつこく父をからかったのです。「まさかオヤジが高校浪人してたとはなー」とか言って、なぜかしつこくからかわざるを得なかったのです。歌なんかも歌っちゃったりして。その根底には中絶の他にも隠し事があったという怒りがありました。でも、僕が「それに比べてオレはすげえな!」と言ったら、さすがに腹が立ったのか、父は「オレのおかげだろうがあ、ふん!」と言って顔を左へ背けたのです。声は卑しい響きでした。僕の精神はその頃狂い始めていましたが、この言葉がさらに追い打ちをかけました。そして、それ以来、僕は大学に父の力を借りて入学してしまった、つまり不正入学をしてしまったという妄想に取り憑かれてしまったのです。以前、父がしていた「法政大学には知り合いがいる」とか「下駄を履かせて(試験の得点を水増しして)もらっても、落ちる奴がいるそうだぞ」という話も思い出して不信感を募らせました。
だから、僕は「不正は許せない!不正入学だったら退学する!」とか「不正入学などしたらオレの人生に汚点を残すことになるんだぞ!」とか「本当に合格したのかなあ」とか「小学生の頃はかったオレの知能指数どの位だった?」とか「何で何回もオレに受験させてくれたの?」という言葉を父に向かって繰り返すようになってしまったのです。最初は口に出すことにためらいがありましたが、そのうち何度も繰り返すようになりました。それに対して父は「そんなことするわけないだろ!」とか「そんなに自分の(した)ことが信じられないのか!」とか「学校に訊きに行けばいいじゃないか!」とか「受験にかかる費用や学費や生活費は誰が出してくれていたのか!」と言うのですが、僕は全然納得できないのでした。
あなたは『死の棘』という邦画をご存知でしょうか。その映画の主人公の妻の壊れ具合が自分の場合と似ていると思いました。精神分析のラカン風に言えば、「シニフィアン(音)とシニフィエ(意味)との基本的接着点が緩んでしまった」ということになるでしょうか。
最初の頃は≪バカ!≫とか≪死ね!≫とか≪まだ生きてる≫とかだった幻聴もその頃には家に盗聴器が仕掛けられているのではないかと疑うほど細かくなっていました。夜、部屋の中にいると≪本当のこと言いなさーい≫とか≪こぶし町の黒い霧ねっ≫とかいう女性の声や≪聞いたぞー≫とかいう子供の声が聴こえてきて苦しみに苛まれました。しかし、これは統合失調症の「筒抜け体験」と呼ばれる症状だったのでしょう。
「もう一度早稲田に挑戦してみようかなあ」という僕に対して「やってみるか!」と元気に答える父を見て、ああ、やっぱり父の言っていることは本当かもしれないなあと思いましたが、結局僕は再受験もせず、父の言っていることが本当だとしても嘘だとしてもどっちも同じことだ、どっちでもダメだと思い詰めてしまったのでした。論理的に考えてかなり変だけど、これが当時の僕の心理状態でした。
一年の秋、生物学の講義で『サイレント・スクリーム』というアメリカのドキュメンタリー映画を観たのも僕にとっては害になりました。これは人工妊娠中絶手術の様子を映したものだったのです。僕はこの映画を興味津々観はじめたのですが、妊婦の子宮内で胎児の頭と体が分離され、頭は潰され、体は切り刻まれ、最後にバキュームで吸い取られるという残酷な映像を見て気分が悪くなりました。映画のタイトル通り静かな叫び声をあげているような胎児の姿が目に焼き付いてしまいました。
この後、僕の記憶は混乱します。僕は一九九九年に『雨 花 そして僕』という本を文芸社から出版しましたが、その執筆期間中、はて僕が父から中絶の話を聞いたのはこの映画を観る前だったか後だったか判然としなくなっていたのです。だから、本文中には仕方なく控えめに父の中絶の話を大学入学の翌年としたのです。しかし、正しくは父の中絶の話はこの映画を観る前でした。ここにおいて訂正させていただきます。
それから、この映画を観た後は夜寝る時、夏であろうと冬であろうと上半身裸になり、厚い掛布団を首に挟まなくては眠れなくなってしまったのです。そうしないと首の辺りがジワーッとしてきて眠るどころではなくなってしまったからです。再びTシャツを着て眠れるようになったのは四十歳を過ぎてからです。
それにしても、なぜこの問題が僕に重くのしかかったか不審に思われるでしょうか。あなたは生きているのだからそれでいいではないかというわけですね。前に死産の弟の話をしましたけど、当時、この話を父からされてもショックは受けませんでした。ただ、同じ兄弟なのになぜ僕は生きていて弟になるはずだった子は死んだのだろうという不思議な気持ちになっただけでした。それ以上考えても分からないので、仕方なく何人かの友だちに「僕にはもう一人弟ができるはずだったんだって!」となぜか得意げに話したのだと思います。だけど、中絶された子がいたという事実を知った時は様相が違いました。僕が先に生れていなければその子は死なずに済んだのではないかという罪悪感が生じました。それから、順番によれば僕が中絶されていたかもしれないということ。これは僕が生まれてきたのはたまたまであり、決して絶対的に望まれて生まれてきたわけではないことを意味し、僕としては存在の根拠が揺らぐことだったのです。だから、あれほど苛立ち不安になったのだと思います。例えば、天井にシミを見つけたらその裏側に赤ちゃんの死体が隠されているのではないかとか、肛門が痛くなったら寝ている間に父に犯されたのではないかと疑ってしまったのだと思います。また、≪(父は)若い頃、子供の頭かち割って血を売ってた!≫とかいう怖い幻聴が聴こえたりしたのだと思います。電車に乗っている時、突然気分が悪くなり、連結部分に嘔吐したこともありました。こんな風だから「お前には関係ない。これはお父さんとお母さんの問題だ」と強く言われても僕には効果がなかったのです。
それにしてもなぜ父は僕に己の情けない過去を話したのでしょうか。僕は初め愛する彼女に中絶など不幸なことをさせるなというメッセージを受け取りました。僕は成人した頃から父に「素人の女の子とは遊びで付き合うな」とか「タダより高いものはないぞ」とか「オレはお前の反面教師なんだ」と言われていたのでそう思いました。でも、これは頭だけ思考だけの理解でした。また、若かった僕にとって玄人の女性とならセックスしてもいいという父の考えには抵抗感がありました。僕は大勢の中の一人になるのが死ぬほど嫌だったのです。
僕には父に対する誤解がありました。父を強い人間だと思っていたのです。父は右目しか見えないのに全然苦にしていなかったり(「オレは能力が高いからこれ位が丁度いいんだ」とか言っていました)、その原因(海の砂が左目に入っていた時、冷やすべきところを温めろと言われたそうです)を作った藪医者のことも全然恨んでなかったり、父が泣いたところなど見たことがないし、テレビのコマーシャルが流れる保険会社の当時人事部長でなんだかんだ言っても頼れる人だったのでそう思い込んでいたのです。
しかし、父が亡くなってから八年後、父について回想しているうちに父にも弱いところがあったと思うようになりました。中絶をして傷ついたのは母だけでなく、父もまた傷ついたのだと思うようになりました。父は自分の犯した過去の失敗も息子である僕のために役立てられるなら意味があったと思いたかったのでしょう。父は無神論者だったので素直に許しを請えず、自己救済を図るにはこういう手段(精神分析でいうところの「合理化」)しか取れなかったのでしょう。
両親の失敗は望まない妊娠をしただけでなく、それを精神的に未熟な僕に話したことですが、その前に聞かされる側がどんな気持ちになるかもっと想像してほしかったです。そして、いわゆる「喪の作業」を施してくれていたら、後々これほど問題もこじれなかったと思うのです。
中絶問題と不正入学の疑いによって僕の学問への意欲はかなり減退しましたが、それでも僕には大学を四年間で卒業するという目標があったため休学することはありえませんでした。二年生の頃、普通自動車の運転免許も取得しました。運送会社でアルバイトもしました。自分なりにとてもがんばっていました。
僕の学業態度に父が口をはさむことはありませんでした。父が心配していたことは僕が悪い女に捕まることでした。僕にさりげなく『あげまん入門』とかいう本を読ませようとしていました。しかし、その心配は無用でした。僕には彼女などいなかったからです。僕が恋愛におくてだったのは女の子に対するトラウマ(心的外傷)があったからです。これから恋に関するトラウマの話をします。
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