あのね
夜空にね
星がね
輝いているのはね
目立とうとしているからではないんだよ
あれはね
実はね
恥ずかしがっているからなんだよ
それでね
時々耐えきれなくなってね
流れ星になっちゃうんだ
あのね
夜空にね
星がね
輝いているのはね
目立とうとしているからではないんだよ
あれはね
実はね
恥ずかしがっているからなんだよ
それでね
時々耐えきれなくなってね
流れ星になっちゃうんだ
悪者を叩くのは楽しい。
悪者が叩かれるのを見るのも楽しい。
その思いをみんなで共有できればなおさら楽しい。
そのためにはさほど罪のない者を悪魔にでっち上げることさえ厭わない(こうなるとどっちが悪者なのかといいたくなるが)。
そういう倒錯的なことが起きかねない日本社会である。
差別はなくならないと思う。
なぜなら、大人になってから差別意識を解消できるとしても、人間の自我の発達過程で必要とされる(違いを知って知能は高くなる)から。
それより問題なのは卑怯なことだと思う。
絶大な権力者ならいざ知らず、一人の人間を大勢で叩くのは恥ずかしい。
正義の建前(差別する者は差別されて当然)があっても美しくない。
それを知るべきだ。
白人が黒人を差別するなら黒人も白人を差別すればいいだけの話なのだが、それができないのは弱者だからというより少数派だからだと思う。
多数派の生き方に従わざるを得ないから少数派は苦しむのだと思う。
堕落しようがしまいが救ってくださるのが神。
のような気もする。
こういうのは人間技じゃねぇから。
そういうと真面目に生きている者のモチベーションを下げるという苦情が出そうだが、それは人間的な価値観である。
神が僕の前に出現したらどうなるだろうか。
「私は神です」とか自己紹介しちゃったりして。
だが、実はそれは悪魔かも。
どちらも人知を超えた存在なのでそれだけでは人間の僕には判別不可能だろう。
しかし、結局それを決めるのは己自身に任されていて、それには結果を待たねばならない。
ところで、僕をダメにしようと一生懸命な幻声は悪魔かもしれないが、それでも却ってよりよく生きることに役立てばよいと言えるのではないだろうか。
神が悪魔の存在を許しているのはこういう効果を熟知しているからかもしれない。
赤の他人に本当に生きていて欲しいのなら、言葉じゃなく、態度で示すべきではないかと。
己の生きざまを見せるしかないのではないかと。
ボロボロにされても生き抜くさまを。
かっこよさに捕らわれているのはかっこ悪いと、自意識過剰な奴が一番恥ずかしいということを悟るまで。