この世から本当に差別が解消されるなら誰も差別という言葉の意味を理解できなくなるだろう。
けれども誰にも差別という言葉の意味を理解できなくすれば差別が解消するわけではないだろう。
差別という言葉の意味を忘れた者は自我を育てるためにまた差別をし始めるだろう。
この世から本当に差別が解消されるなら誰も差別という言葉の意味を理解できなくなるだろう。
けれども誰にも差別という言葉の意味を理解できなくすれば差別が解消するわけではないだろう。
差別という言葉の意味を忘れた者は自我を育てるためにまた差別をし始めるだろう。
同質の人間に平和な社会は築けるか。
平等化を推し進め、均質の人間ばかりになれば、争いごとのない社会になるのだろうか。
僕は極めて懐疑的である。
自分の見たくない欠点と同じ欠点を持つ人間ばかり目につき、不満が鬱積しそうだからである。
美点が同じなら当たり前になってしまうし、果たしてそういう社会で人間の美質は保てるのだろうか。
そこのところみんなちゃんとわかっているのだろうか。
人間が最も自由を感じられるのは敵を拒否する時ではなかろうか。
だから、敵は有難い存在なのだ。
でも、単に相手をバカ呼ばわりする位では自己認識は深まらない。
もっと相手のことを知り、分析しないと。
未熟な人は、誰かが複雑な世界を物語にしてくれたおかげでパターン認識ができたのに、自分の知能が優れている(俺ならこんな間違いはしねえ)と思い込む。
それだけで収まらず、そういう人を憎みさえする。
自由が奪われそうな気がするからである。
やれやれである。
何となくユダヤ人の気持ちが分かるよ。
僕は真理(心理)という言葉の意味は知っているが、内容をすべて理解しているわけではない。
しかし、それでも生きてきたし、これからも生きるだろう。
「言葉では言い尽くせない」という言葉に慰められながら。
一
病院の一室にて
A:「う、う…、わが…、生涯に…、一片の…、く…、い…、な…」(ガクッと息絶える)
B:「残念、最後まで言い切れなかったね」
C:「でも、たかしさんらしいわ」
二
病院の一室にて
A:「わが生涯に一片の悔いなし!」
その後、彼は10年も生きました。
生きてしまいました。
「今日は死ぬのにもってこいの日だ」なんてネイティブアメリカンはカッコいいこと言うなあ。
それに比べて僕はダメだなあ。
市街地に買い物に行く途中で「この道路の上では死にたくないな…」なんて不安になっちゃうもの。
いつか僕にも生活空間(死に場所)についてのこだわりは捨てられるかなあ。
そして大きな時間の流れにこの身を委ねられるかなあ。
基本的に僕のバカなところとは、ずっと探し続けているのに、何を探したいか本人が分かっていないところである。
今日、職場のスタッフのHさんにそういう夢を何度も見たと話して気づいた。
そこが普通と違うのではないかと。
いくらなんでも「男であれ、女であれ、老人であれ、子供であれ、人はみな平等なのだから、自分が性欲を感じた相手は誰でもそれを受け入れなければ差別に当たる」などという信念を持ったバカはいないよね?
獣ならともかく、それでは精神の自由が保障されないからね。
だから拒む権利という選択権を認めなければならないのね。
よく考えてみると、不当に処女を奪われた女たちに遠慮して、本当のことが言えないというのはおかしい。
その場合、責められるべきは不当に処女を奪った奴だろ。
処女がいいという本音が言えない方がよっぽど有害だわ。
本人は正義の味方のつもりだろうが、他人の価値観を歪ませる方が罪は重いよ。
本当は自分の配偶者が非処女だったから癇に障っただけじゃないの?
また、匿名で他人に指図するのもおかしい。
年齢も性別も経歴も詐称しているかもしれないからね。
障害者差別解消法について精神障害者の僕が思うこと
① まず、行政機関が監督できるのは、障害者に対する差別行為(作為と不作為がある)だけであって、それには人間の差別意識までは変えられないという共通認識がほしい。
② なぜなら、法的な根拠があるとはいえ、上から指図して取り締まるには、限界があるから。
③ 要するに、罰則が怖いから差別行為をしないだけであって、それでは不十分だということ。
④ しかし、差別意識は抑圧すると、怒りが蓄積して、いずれ暴発するのではないかという危惧もある。
⑤ だから、根本的な解決には、障害者に対する愛や理解や信頼が必要になる。
⑥ そして、一般人を啓蒙する際には、論理的な言葉よりも、むしろ態度が重要になる。なぜなら普通の人はそちらを重視するから(自分に守れないことを他人に守らせるなよ)。
⑦ 最後に「できないこと」と「しないこと」の区別をできるだけ明確にする。つまり一般人には障害者は怠けているわけではないことを知ってもらう。
以上
「俺色に染まれ」っていう表現があるけど「俺色」ってどんな色?
地味な焦げ茶色とか鼠色だったら笑うな。
「お前が言う台詞じゃないよ!」って。
それにしても朝からくだらないこと考えているなあ、おれ。
差別心は醜い。
まともな大人ならみんな知っている。
そして差別心を抱かせる相手に怒りの矛先を向けるのは見当違いだということも分かるから何より自分自身が腹立たしくなるのだ。
でもそんな時迂闊な言動をとる者がいると怒りの矛先をその者に向けることができる。
まだそんなことを言う奴がいるのか!
等と。
しかし本音ではどこかホッとしているのだ。
お前のおかげで少し楽になれたよ。
差別行為は監督できても差別心はできない。
むしろそれを抑圧すると、怒りが蓄積して、暴発する危険がある。
だから何事もほどほどにするのがいいのだろう。
建て前と本音は別でいい。
純粋になろうとする(どちらか一方だけにしようとする)からおかしくなるのだ。
だいたい自分はいつも物事を公正に見ているというのが思い込みなのだ。
もしかして、自分の判断に自信があるのは、自分の認知のバイアス(歪み)に気づいてないからかもよ。
それ位の疑念はあった方がいいと思う。
2017年1月13日17時20分に脳科学者の茂木健一郎がツイッターで言論の自由について面白いことを語っているので引用させていただきます。
全体最適をトリビアルに謀ると、一見、言論の自由がお荷物に見える。しかし、言論の自由を抑圧して全体の合目的性を追求した社会は、結局行き詰まり、衰退することは、歴史上何度も証明されていることである。言論の自由を抑圧することは、自分たちの更新の可能性を否定することだ。
以上
う~ん、さすがだな。
一見、もっともらしいことを語る正義漢とは言うことが違う。
この人は人柄も好きだな。
威張らないし。
いい。