吉本隆明・森山公夫著『異形の心的現象 統合失調症と文学の表現世界』という本を読む。
その中で二人は精神病とか神経症とかが発病するにあたって、その人の生れ落ちてからの、そもそもは胎児からの、発育環境が大きく関係しているのではないか、という問題を取り上げています。
これは森山によると、フロイト以降問題にされてきたところで、森山自身は「生育の構造」と呼んでいるそうですが、胎児から生まれてきて乳児になり、そこで母親とか、あるいは母親代理とか近親者とか、そういう関係がだんだん広がって行って、そこからさらに幼児へと世界が広がって行く。
そのなかで三歳くらいまでの、特に母親との関係を中心にして、そこで自分がきちんと受け止められているかどうか、受け止められた体験を持てているかどうか、母親と子どもがきちんと触れ合える体験を中核にして育ったかどうか、そういうことが一番大きな問題になってくると思いますと語っています。
「生育の構造」は横から見れば性格というふうに言えるとも。
それともう一つ、孔子以来の「狂狷(きょうけん)」を引き合いに出して、「狂気」というのはすべての人間に関係することだと思うと語っています。
孔子は友を得ようとすれば、まず「中庸」がいい、だけどそんな人は滅多にいないから次にいいのは「狂狷」であると言ったそうですが、「狂」というのは物事にひどく熱中していることだし、「狷」というのは、頑固に自分を固守することだけど、これは実は裏表であって、こういう構造はすべての人間の中にあるのではないかと語っています。
それを受けて、吉本はなぜそうなのか、というのは分からない。
しかし、図式的に言ってしまえば、個人個人で違いがあるけれど、ここからこっちは健常でこっちから異常ではないかという、この境目の閾値(いきち)の塀が高い人と低い人がいると考えると、低い人は健常だという方からすぐ異常の方に移りやすい、高い人は移りにくいという、そういう違いがある。
そしてその違いが何で決まるかは、生まれてから1歳未満になるまでの、母親との関係だと語っています。
それが強固(親密)になっていくと閾値は高くなると言うのです。
森山はそれを「ベーシック・トラスト(人間への基本的信頼)」と言います。
エリクソンの言葉だそうです。
きちんと触れ合えた、あるいは受け止められたという体験が重要で、やはり人間関係で基本的な信頼関係がどの程度作られているかというところで閾値が違ってくるという言い方ができると思うと結論しています。
ああ、僕の疑い深い性格は自分のせいではなかったのだな?
でも僕の母親が悪いわけでもないことは頭では理解できている。
彼女は生活のために仕方なく外へ働きに出ていたのだ。
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