神は十戒で「殺すな(殺すはずがない)」というが、それは神の呪いではないかと。
なぜなら他の生命を殺して食べて生きながらえている者としては「生きるな(死ね)」といわれているに等しいから。
聖書の神は十戒で「殺すな(殺すはずがない)」と示しているけど人には「殺す」という意味が理解できると思ってるからこそそれを否定してるんだよな。
なぜ「殺す」という意味が理解できるかというと日々殺しているからなんだよな。
今日は天赦日と一粒万倍日と寅の日が重なる大変縁起のいい日で物事を始めたり財布を購入したり使用し始めたりするのに適した日だそうで。
それを信じて(すぐ信じる僕)アマゾンでアーノルドパーマーの財布を購入しました。
代引きで3930円。
火曜日に届く予定ですが、金運が上向けばいいなと思っております。
人は禁じられるとこの世には「してはならないこと」と「してもよいこと」の二つがあることを知る。
そして前者を悪と呼び後者を善と呼ぶ。
とにかく禁じるということは自由を制限するということに変わりはない。
自由とは選択権があるということである。
複数の選択肢が目の前に提示された時にどれかを選ぶことが許されている状態が僕の言う自由である。
だがあるものを選ぶということは他のものは捨てるということである。
選択にはこういう残酷さが伴うことを忘れてはならない。
とはいえ自由権に拒む権利が含まれるのは当然の帰結だ。
「したいことをする」というだけでなく「したくないことはしない」という権利が保障されることによって自由は成り立つ。
自由が建前の世の中なのにこんなにも個人の人生が思い通りにいかないのは他者も拒否権を持っているからだ。
しかし禁じられるとかえってしたいという誘惑に駆られるのが人の性だ。
善と悪の葛藤に疲れるからだ。
だから人の欲望を掻き立てたいのなら禁じればよい。
こうして今日も人の生活は営まれる。
昨晩、繁華街で右手をあげたらものすごい勢いで上空に引き上げられるという夢を見ました。
街の灯りが遠ざかり視界が漆黒の闇に包まれた時に恐怖を覚えました。
このままでは月まで行ってしまうと焦ったら夢から覚めました。
他者の承認がないと自信が持てないという心性が根本的な問題ではないかと。
しかしそれは誰でも同じだと思うんだけど。
妄想者は現実の他者の評価を待つことなく空想で自分の存在価値を作り出そうとするけど、それも他者を必要としていることに変わりはない。
自分は他者に嫉妬されるほど価値がある。
そう思い込んでる。
僕の場合は悪魔が破滅させたくなるほど自分には価値があると思い込んでました。