昭和時代の団地の子供たち。
あの無防備な笑顔たちがこんなにも懐かしくなるとは思わなかったよ。
僕も子供の頃はたくさんの太陽に囲まれて思いっきりはじけていたのに。
それでも僕の人生に子ども時代があって良かった。
あの頃の僕は僕なりに力一杯生きていた。
ケンカでも何でも思いっきりやらなかった時ほど後で後悔する。
あの頃は遠い過去になってしまったけれど、記憶は僕の中で今でも息づいている。
昭和時代の団地の子供たち。
あの無防備な笑顔たちがこんなにも懐かしくなるとは思わなかったよ。
僕も子供の頃はたくさんの太陽に囲まれて思いっきりはじけていたのに。
それでも僕の人生に子ども時代があって良かった。
あの頃の僕は僕なりに力一杯生きていた。
ケンカでも何でも思いっきりやらなかった時ほど後で後悔する。
あの頃は遠い過去になってしまったけれど、記憶は僕の中で今でも息づいている。
なぜあの時もっとあの人を思いやれなかったのだろう。
多分それは僕が自分の感情に正直に生きたかったから。
でもそれは真実だったけど真理の道ではなかった。
初めて生身の女性と一対一で交際したのは僕が33歳の頃のこと。だけど僕のこだわりは残っていて、そのせいで彼女を傷つけてしまった。
交際は彼女の告白から始まったけど、しばらくたったある日、僕は彼女に「処女じゃなかったら、付き合いだすこともなかったろう」と言ってしまった。
僕は彼女が処女だと思っていたから、そう言ったのだけれども、彼女は僕が彼女の体だけを求めていると思ってしまったようだ。
彼女は過食症を患っていて、精神的にも不安定なところがあった。
僕は彼女の存在を丸ごと受け入れてあげることができなかった。
彼女を傷つけてしまったことを今でも済まないと思っている。
「僕の人生のシナリオはすでに出来上がっていて、僕はただそれをなぞっているだけなのではないか?・・・」。僕はこんなことを妄想することがあった。
そして「本の中の言葉全てにアンダーラインを引くなら、アンダーラインを引かないことと同じかな?」と考えることもあった。
そんな僕が「語るということは騙るということだ」とか言われるのを聴いて、なるほどと思ったことがある。
でも他人の客観的な視点から見たらどうでもいいようなことが、本人にとってはどうしても譲れないという点であったりするものだ。
だけどそうだからこそ、誰の人生でもない、自分の人生だと言えるのだと思う。
無垢な魂は命にとって敵か味方か?
無垢な魂の持ち主は人を疑うことができないような気がする。
そんな人がこの「生馬の目を抜く」世の中で自分の命を守ることなどできるのだろうかと心配である。
でもこの世にそういう人がいてくれないと困ると思ったりもする。
世間の人の多くは騙されないようにと知恵を磨く。騙す人の手口を学習する。でもそうすることによって自分も穢れてしまう。
「人をみたら泥棒と思え」という教えを守っていれば騙されにくくなるかもしれないが、世間の人がそういう人ばかりだと思うと生きづらくなる。
ここに無いものを有ると言うのは、嘘とは限らない。僕たちは何かが無いと言う時、それは自分の目の前に無いだけで、世界のどこか(自分や他者の意識の中も含む)には有るからである。
僕たちは、本当の意味で、知らないもの(見たことも聞いたことも考えたことも無いもの)を有るとか無いということはできない。
要するに僕たちは、自分の意識の中に有るから、それが有るとか無いと言えるのである。
ちなみに、知らないもの(自分の意識の中に無いもの)を有るとか無いと言っても、意味はないので無害だ。
今、僕は意味の有る虚無を恐れている。
でも、上に述べたことを前提にして考えると、僕は虚無を知っていることになる。僕は、本当の意味で、虚無が有るとか無いと言える。
そうすると虚無もまた対象化できていることになる。虚無(何も無くて、空っぽなこと)が有るというのはおかしな表現だけど本当のことだ。
正体が分かれば恐怖も少しは和らぐかと思うが、光も空気も音も無いとっても圧迫感の有るものだと表現するのがやっとなのである。
外見が美しいという理由で人を好きになるならこんなに苦しまない。それはいずれ必ず衰えるから。
世の中には美しい人や頭のいい人は五万といる。だけど僕はそういった人をいちいち好きになったりはしない。我慢しているのではなく、関心が湧かないのだ。
でも好きになるときは好きになる。というよりは好きになってしまう。理由は後づけで何とでも言えるが、なぜ好きになるのか、本当のところは分からない。同じような人は他にもたくさんいるからだ。
占いが流行るのも分かるような気がする。人は運命とか相性とか自分を超えたものに惹かれる傾向があるようだ。
打算的に人と付き合うよりはましな気がする。
人間は悪を知らずに善を知ることはできない。善を知らずに悪を知ることもできない。
だから社会から善悪を隠してはいけないと思う。
それは自分も罪を犯す可能性はあるのだからとか、人間はみな同じなのだからという理由で、反省もしていないうちにお互い許し合おうなどという、白も黒もごちゃ混ぜにした「灰色の社会」ではいけないということです。そういう社会は「寛容な社会」というよりは「馴れ合いの社会」と言った方がいいと思います。
社会の中から「犯罪者」というレッテル貼りはなくなったほうがいい。だけど偉い人でも普通の人でも障害者でも全ての人が、善いことをしたら敬われ、悪いことをしたら軽蔑される、それを前提にした上で悔い改めた人は許される社会であって欲しい。
そして人間は一個人の人生で善を志向していければいいと思う。
生きやすいように社会を変えることも大切だが、一人ひとりの人間がこれは悪だと気づいたらしないことも大切だと思う。
もし障害者年金が、自動的に僕の口座に振り込まれるのではなく、他人から直接面と向かって手渡されるのだったら、僕はもっと他人に支えられて生かされていることに恥を感じることだろう。そのうち卑屈になることだろう。
空を飛ぶ鳥のように自分だけの力で思い切り羽ばたくことのできないもどかしさ・・・。毎日毎日今日も明日も薬を飲み続けなければならない疲れやすい体を気遣いながらの生活・・・。
このつらさ健常者に分かってもらえるだろうか?
僕が自立できなくなったこと。障害者になったこと。弱者になったことには意味があると思う。
毎日、他人に、生き物に、自然に、そして神に与えられていることに感謝できたらいい。そして自分も何らかの形で与えていけたら最高。
思っているだけでなく、それができるから人間は動物以上の存在者ということになっているのだ。
人間は憲法に書いてあるから尊厳があるわけではない。
感じよう。これ以上独りで思考を積み重ねるのはやめよう。自分の外にいくら熱を放っても対象がなければ直ちに消えてしまうから。そうではなくて心を静めて今この時この場で感じてみよう。
僕は愛されている。
昼だけでなく夜も神様の贈り物なのではないか?
夜眠れない時など得体の知れない虚無に押しつぶされそうになっていた。僕はそれが怖かった。できれば避けたかった。「また夜がくる」とうんざりすることも度々あった。
でも今晩気づいた。それも愛してしまえばいいのではないか?その時不安が和らいだ。
そうだったのだ!訪れるものを知って、理解して、信じて生きていければいいのだ。
A:自分の価値は、思考(何を考えたか)ではなく、行為(何をしたか)で決まると思うんだけど。
B:でも行為は思考に従うんじゃないの?
A:無意識の行為というのも結構あると思うよ。
B:善い行為をした人が善い心の持ち主だとは必ずしも言えないんじゃないの?
A:そうだね。でも、とにかく自分の存在を認めることは大切だね。
B:自分の存在は己の意志の力だけによって定まるものではないね。自分についての評価は他者という存在に委ねられているからね。
A:だから自分独りで自分の価値など想像しようとすると妄想になるだけなんだろうね。
B:僕たちは生きている、生きているというけど、実は生かされているんだろうね。
A:だから、他者に中傷されると、あれほど傷つくんだね。
B:イエス・キリストの説いた愛とはお互いの存在を認め合おうということだと思うよ。そしてその愛に自分を委ねることができた時、救われているんだと思うよ。
人が一日に食べられる食べ物の総量には限界がある。
だからといって、一日に食べられる食べ物の総量を一食で食べてしまえば、一日が終わってくれるわけではない。
僕が分かっていなかったのはこういうこと。
人が一生に経験できることには限界がある。
だからといって、一生分の経験をしてしまえば、一生が終わってくれるわけではない。
一生分の経験をするだと?そんなことがどうやってできようか!それに圧倒されてしまい、する前から萎縮してしまった。
人生は食べ物のようにじっくり味わったほうが良い。
今から思うと、当時の僕は生から解放されたかったのだろうな。
あの日旅立ったのは強かったから?それとも弱かったから?中学生のころの意識がおぼろげながら記憶に残る。
大学時代「志ある所に道あり」という言葉に励まされたこともあった。まだ「頑張って!」という言葉が僕の中で特別の位置を占めていた。
でも僕はいつの間にか森の中に・・・。
今の僕には「信じられるのは自分自身だ」とか「自分を信じろ」とかいう言葉が空疎に聞こえる。
不完全ゆえに完全を求めていた。《無理しないで!》と僕の中の無意識は何度も警報を鳴らしていたのに・・・。
でも立ち止まることができなかった。立ち止まっている余裕なんか無くなっていた。
僕が自意識過剰になったのは僕が自分自身のことばかり考えてきたからではない。むしろ全ての人に善く思われたいと反射的に自分を世間に合わせてばかりいたからだ。(それにしても世間って何だ?)
他人の目(評価)ばかり気になっていた。そして自分が本当に求めているものが何か分からなくなっていた。
答えを安易な占いに求め、占いの結果に一喜一憂していた。
僕はいつしか立派な森の住人になっていた。
本当に罪悪感と劣等感があった。
本当に葛藤があった。
本当に幻聴が聞こえた。
本当に(被害・恋愛・誇大・血統)妄想があった。
本当に僕を中傷する人間に対して暴力をふるいたかった。
本当にその衝動を抑えた。本当に耐えた。
本当に傷ついても傷つかぬふりした。
本当に苦しかった。
本当に悪魔と闘った。本当に怖かった。
本当に疲れた。
(精神病と診断され)
本当に治るまで最低三年はかかると言われ耳を疑った。
本当に人を呪った。
本当に望みをつないだ。
本当に少しでも早く病気を治そうと焦った。
本当に神(YHWH)に心の平安を与えてくださいと祈った。
本当に好きだった人が結婚してしまうことが悲しかった。
本当に人の優しさがありがたかった。
本当に父と母が面会に来てくれるとうれしかった。
本当に薬の副作用が辛かった。本当にだるかった。
本当に非常口から見えた夕日が美しかった。
本当に退院できたとき解放感を感じた。
(職場復帰して)
本当に自分が惨めだった。
本当に自分の未来を悲観した。
本当に幸福な人たちがねたましかった。
本当に死ぬほど寂しかった。
本当に大切なものが分かった。
本当に大腸炎と帯状疱疹になったときは痛かった。
本当に他人に理解されたかった。
本当に彼女が欲しかった。
本当にイヤな思い出を忘れたかった。
本当に過去の行いを悔いた。
本当に父は僕を愛して死んでいった。
(病気が寛解して)
本当に喜んだ。
本当に健康の大切さを知った。
本当に恋をしてときめいた。
本当に失恋して落ちこんだ。
本当に母には長生きして欲しい。
いろいろあったけど今から思うと本当ばかりの日々だった。
そもそも皆が敵に見え出したのはある不幸がきっかけだった。
どんな不幸が僕を襲ったかはここでは言わないけど、とにかく僕は傷ついて罪悪感と劣等感に捕らわれてしまった。
僕はそれから逃れたかった。
そして僕は、己の運命を恨みつつも、この世から不幸の原因を無くさなければならないという理想を唱えとんがった。
僕の心はOからQに変化した。
でも、それからは動こうとすると棒が邪魔をして思うように動けなくなった。
僕は苦しかった。
また自分以外の人たちにも迷惑をかけてしまった。
そして僕は、とうとう疲れ果て、病気になって動けなくなってしまった。
でも、そうしたら意外なことに、周囲の人たちが優しく接してくれるようになった。
それが絶望していた僕の心にしみた。
しばらくして僕は初めから許されていることに気づいた。
悲しいときは素直に悲しめば良かったのだと僕は悟った。
僕はテレビゲームをやっている。
魔法使いを操ると魔法使いは呪文を唱える。
すると怪物は苦しみ倒れる・・・。
いつものパターンだ。
だけど今日はいつもと違って僕の頭の中にこんな疑問が浮かぶ。
(なぜこの呪文でこの怪物は苦しみ倒れるのだろう?)。
《なぜかって?それはこの呪文が怪物の過去を思い出させるからだよ》。
「えっ?」。
僕は驚いて画面の中の魔法使いを見つめる。
《そんなに驚かなくていいよ。よくあることさ》。
僕は不安になったけど勇気を出して「カコって昔のこと?」と聞いてみる。
《そうだよ。怪物が人間だった頃のことだけどね》。
「怪物も人間だった!?」。
《そうだよ。そして苦しむのはそれだけ善い心が残っているからなんだよ》。
「なんで善い心が残っていると苦しむの?」。
《大人になったら分かるよ》。
「大人になったら苦しむの?じゃあ大人になんてなりたくないなー」。
《でも、大人になれば、いっぱい素敵な言葉に喜べるんだよ》。
「大人になるのも悪くないの?」。
《そのためにはテレビゲームばかりしてないで皆と遊ばないとね!それじゃバイバイ!》。
(人間が怪物になってしまうことがあるってことは、僕も怪物になってしまうこともあるってことか・・・)。
僕は少し不安になったのでテレビを消した。