精神崩壊。
一度も壊れたことのない者はそれを理解できない。
また最初から壊れている者もそれを理解できない。
最初は壊れてなくて途中から壊れた者だけがそれを理解しうる。
その差が分かるからだ。
ただそれも昔の記憶を失ってなければの話だが。
仮にマルクス主義は科学だと認めてもそれを信じる人は感情的なのよね。
みんなの幸せを目指すという動機は良いのだが、完全な平等などあり得ない以上、共産主義社会はユートピアにはならないだろうね。
人は相も変わらず不平不満(何であいつの彼女は美人なんだ!)から自由にはなれないだろう。
そうすると今度はエゴを捨てろとか言いだして不自然極まりない社会(禁欲かさもなければフリーセックス奨励か)になる。
だが、そこには何の美質も見られない。
猿山のサルと一緒である。
それはむしろディストピアである。
同じ女の声で「まだ家がある」という幻聴が過去に何回かあったのだけど、それのどこがいけないの。
あんた共産主義者?
私有財産とか否定しているの?
でも、あんたとは関係ないから。
他人の物を欲しがってはいけません。
二項対立的に物事を捉える人の害悪は大きい。
「敵が暗ければ自分は明るい」というのもその一例だ。
だからわざわざ敵を落ち込ませるような粗探しをして貶めようとするのだろう。
そしてそれが見つかれば大喜び(なっ、おれの言った通りでしょ!)。
つまり本当に明るい人なら思いやりを示す場面で反対のことをしているのだ。
世間ではこういう人こそネクラと見做すのだが、勝ち負けにこだわりすぎて判断力が狂ってしまっているのだ。
他人を憐れんだフリをする奴気持ち悪い。
憐れみまで手段として用いる(自分が優位に立つためなら相手を気の毒な存在にすることさえ厭わない)ところが情けない。
腐った根性。
それにしても彼らには心が穢れているという自覚はないのだろうか。
それとも本人ではもはやどうしようもなくなっているのだろうか。
つまり手遅れ。
関わりたくない。
なぜ他人を貶めるのか。
それによって罰を与えているつもりなのだ。
だが、狂信者には秤など備わってないのだ。
その罰がその罪と本当に釣り合うかどうか確かめる秤が。
それが厄介なところ(例えば指導者の名前を呼び捨てにされたくらいで怒る)。
つまりやることが恣意的で感情的で際限がないのだ。
それなのに他人を裁こうとするから迷惑がられるのだ。
二項対立的に物事を捉える人は「敵が悪ければ自分は正しい」と考える。
だから、一生懸命敵を求め、その粗探しをして貶めようとする。
それこそが悪だということも知らずに。
あまりに人間的な過ちだが。