前回の精神科の診察を受けた帰り道、東浦和駅前の道路で携帯電話を使って話していた若者の言葉に思わず反応してしまった。
それは「つまんない男だねぇ~」というものだったが、その言葉がいまだに忘れられない。
なんか芝居がかったセリフで、僕のことを責めているような気がして、しょうがないのだ。
「おもしろい男」とか「つまらない男」というのは他人が決めることかもしれないが、なにより、僕は心の奥底で自分のことを「つまらない男」と思っているのだろう。
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前回の精神科の診察を受けた帰り道、東浦和駅前の道路で携帯電話を使って話していた若者の言葉に思わず反応してしまった。
それは「つまんない男だねぇ~」というものだったが、その言葉がいまだに忘れられない。
なんか芝居がかったセリフで、僕のことを責めているような気がして、しょうがないのだ。
「おもしろい男」とか「つまらない男」というのは他人が決めることかもしれないが、なにより、僕は心の奥底で自分のことを「つまらない男」と思っているのだろう。
何か知らんが、「たーんとお食べ」というセリフが気になる。
僕が子供の頃のアニメかなんかで、登場人物の母親が子供に言うセリフなのだが、何度も思い出してしまう。
46歳の成人男性が日中、真面目に考えるほどのことか!と怒られそうだが、いたって真面目に考えているのである。
少し前、「間違ったら間違った所まで戻ればいい」とテレビでコメントしている人がいたが、僕にとってそれは難しいような気がする。
何て言ったって、母親が気持ち悪がるに違いない。
数日前、墓参りの帰り道、弟から「歪んでる」と言われた。
僕の関心事が、一般人が抱くものとは、かなりずれていることが気になったらしい。
言われてみると、確かにそうなので、反論はしなかった。
問題なのは、そう気づいても、あまり苦にならない僕の精神である。
だんだん「恥」の感覚が薄れてきているのが原因かもしれない。
食後、気持ちよく床の上に寝転がっていたら、「トド!」と母から言われた。
母には僕の姿が浜辺に打ち上げられたトドのように見えるらしい。
母は「ト~ドちゃん、ト~ドちゃん」と繰り返した後、「痩せろよ」と言う。
でも母に悪気はないので、そう言われても僕は全然気にならない。
僕は母と暮らせて幸せだ。
ジョン・マルティノー著 青木薫訳『星たちのダンス 惑星が描きだす美の世界』という本を読む。
著者は幾何学者だそうだが、この本を読むと、宇宙には設計者がいるような気がしてくる。
たとえば「第十五章 太陽、月、地球」から。
地球から眺めると、太陽と月は同じ大きさに見える(皆既日食)。現代の宇宙論によれば、これは単なる偶然の一致でしかない。しかしかつては、もっとも重要な天体である太陽と月がまったく同じ大きさになっていることは、完璧な天地創造が行われた証拠だと考えられていたのである。
月と地球の大きさの比は、3:11である[99.9%]。そのため、もしも月を地球の表面にまで引き下ろしたとすれば、月の中心を通る円周の長さと、地球に外接する正方形の周の長さは等しくなる。いにしえの人びとはこの関係のことを知っていて、きわめて注意深く選んだマイルという長さの単位のなかにこれを隠したのかもしれない。
地球と月の大きさの比は、地球にとってもっとも近い二つの惑星、金星と火星の関係からも引き出せる。驚いたことに、金星と火星とがもっとも近づいたときの距離と、もっとも遠ざかったときの距離の比は、3:11になっているのだ[99.9%]。地球は、この二つの惑星のあいだで軌道を描いている。
3:11という比は二十七・三パーセントに等しく、月はたまたま二十七・三日で地球の周囲をひとめぐりする。この日数はまた、地球から見た太陽黒点の平均回転周期でもある。太陽と月はとても相性のよいカップルのようだ。
月と地球のマイル
月の半径=1080マイル=3×360
月の直径=2160マイル=6×360=18×1×2×3×4×5
地球の半径=3960マイル=11×360=33×1×2×3×4×5
地球の半径+月の半径=5040マイル=1×2×3×4×5×6×7=7×8×9×10
地球の直径=7920マイル=8×9×10×11
1マイルは5280フィート=(10×11×12×13)-(9×10×11×12)
う~ん、よく分からないが、すごい!(バカだな、オレ)。
スラヴォイ・ジジェク著『ラカンはこう読め!』から引用。<o:p></o:p>
もう何十年も前からラカン派の間では、〈大文字の他者〉の知がもつ重要な役割を例証する古典的なジョークが流布している。自分を穀物のタネだと思いこんでいる男が精神病院に連れてこられる。医師たちは彼に、彼がタネではなく人間であることを懸命に納得させようとする。男は治癒し(自分がタネではなく人間だという確信がもてるようになり)、退院するが、すぐに震えながら病院に戻ってくる。外にニワトリがいて、彼は自分が食われてしまうのではないかと恐怖に震えている。医師は言う。「ねえ、きみ、自分がタネじゃなくて人間だということをよく知っているだろ?」患者は答える。「もちろん私は知っていますよ。でも、ニワトリはそれを知っているでしょうか?」。ここに精神分析治療の真の核がある。症候の無意識的真理を患者に納得させるだけでは十分ではないのだ。無意識そのものにこの真理を引き受けさせなければならないのである。<o:p></o:p>
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ちなみに〈大文字の他者〉とは「象徴界」のこと。どこからどうみても立派な、完璧な他者。象徴界とは「シニフィアン(言葉の「音」)」の世界なので、あるのは純粋に構造だけで、だからそこでの出来事も、意味じゃなくて構造にしたがって起こることになる。その作用は人間生活の全般に及ぶが、意識されるより、「無意識」であることがずっと多い。<o:p></o:p>
もしこれが不在だとしたら、人びとが頼れる社会的絆(信頼を保証し、義務の支えとなる基本的な象徴的契約)がなくなってしまうということになり、とても恐ろしいことになるのだ。<o:p></o:p>
ウィキペディア参照。<o:p></o:p>
哲学および論理学における「自己言及のパラドックス」または「嘘つきのパラドックス」とは、「この文は偽である」という構造の文を指し、自己を含めて言及しようとすると発生するパラドックスのことである。<o:p></o:p>
この文に古典的な二値の真理値をあてはめようとすると矛盾が生じる。<o:p></o:p>
「この文は偽である」が真なら、それは偽だということになり、偽ならばその内容は真ということになり・・・というように無限に連鎖する。<o:p></o:p>
同様に「この文は偽である」が偽なら、それは真ということになり、真ならば内容から偽ということになり・・・と、この場合も無限に連鎖する。<o:p></o:p>
紀元前4世紀の古代ギリシアの哲学者ミレトスのエウブリデスは「ある人は自分が嘘をついていると言う。さて、彼は本当のことを言っているか、それとも嘘をついているか?」と言ったという。<o:p></o:p>
斉藤環著『生き延びるためのラカン』から引用。<o:p></o:p>
P55<o:p></o:p>
哲学者デカルトの有名な言葉に「われ思う、ゆえにわれあり」というのがあるよね。この世界のすべては幻想かもしれないけど、いま考えている自分という存在だけは確実だ、という命題。ラカンはこれをパロディにした。「私は考える。または私は存在する」というふうにね。どういうことだろう。<o:p></o:p>
「私は考える」と考えるとき、その「私」という言葉は、すでに「私の存在」の身代わりでしかない。僕たちはけっして、自分という存在の根拠を手に入れることはできないのだ。<o:p></o:p>
でも、だからといって嘆くにはあたらない。人間のあらゆる文化は、現実を言葉のシステムに置き換えること、すなわち「象徴界」を獲得することで、初めて可能になったものだ。むしろ、その獲得がうまくいかなかった精神病者は、常に現実に接しているために苦しめられているとも考えられる。<o:p></o:p>
平和で文化的な生活とひきかえに、僕たちは「現実」そのものを捨てた。もう「現実」は、決して僕たちのものにはならない。いや、実はたった一つだけ、誰にでも現実を手に入れられる瞬間がある。それは僕たちが「死ぬとき」だ。それじゃあ困るって?でもそれは、人間が人間であり続けるためには、しかたのないことなんだ。<o:p></o:p>
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そういえば、大学時代、倫理学の講師がデカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」の「われ」が最初にあるのはおかしいと言っていたな。<o:p></o:p>
スラヴォイ・ジジェク著『ラカンはこう読め!』から引用。<o:p></o:p>
P63<o:p></o:p>
マルクス兄弟の映画の一本で、嘘を見破られたグルーチョが怒って言う。「おまえはどっちを信じるんだ? 自分の眼か、おれの言葉か?」。この一見ばかばかしい論理は、象徴的秩序の機能を完璧に表現している。社会的仮面のほうが、それをかぶっている個人の直接的真実よりも重要なのである。この機能は、フロイトのいう「物神崇拝的否認」の構造を含んでいる。「物事は私の目に映った通りだということはよく知っている。私の目の前にいるのは堕落した弱虫だ。それにもかかわらず私は敬意をこめて彼に接する。なぜなら彼は裁判官のバッジをつけているので、彼が話すとき、法が彼を通して語っているのだ」。ということは、ある意味で、私は自分の眼ではなく彼の言葉を信じているのだ。確固たる現実しか信じようとしない冷笑者(シニック)がつまずくのはここだ。裁判官が語るとき、その裁判官の人格という直接的現実よりも、彼の言葉(法制度の言葉)のほうに、より多くの真実がある。自分の眼だけを信じていると、肝腎なことを見落としてしまう。この逆説は、ラカンが「知っている[騙されない]人は間違える」という言葉で言い表そうとしたことだ。象徴的機能に目を眩まされることなく、自分の眼だけを信じ続ける人は、いちばん間違いを犯しやすいのである。自分の眼だけを信じている冷笑者が見落としているのは、象徴的虚構の効果、つまりこの虚構がわれわれの現実を構造化しているということである。美徳について説教する腐敗した司祭は偽善者かもしれないが、人びとが彼の言葉に教会の権威を付与すれば、彼の言葉は人びとを良き行いへと導くかもしれない。<o:p></o:p>
大澤真幸著『量子の社会哲学 革命は過去を救うと猫が言う』から引用。<o:p></o:p>
P209<o:p></o:p>
この状態を解説するために、先の「ヴェール」の比喩を延長させてみよう。コメディアンのマルクス・ブラザーズの有名なジョークこそ、この場にふさわしい。「こいつは愚か者のように見えます。愚か者のふりをしているんです。でも皆さん、惑わされてはいけません。奴はほんとうに愚か者なんです!」。愚か者としての姿は、賢者という真の姿を隠すヴェールや仮面ではない。それは、本質を隠蔽したり、不完全にしか表現しない「単なる現れ」ではない。ヴェールの向こう側に、何かすごい秘密を見出すのではなく、正確に同じヴェールそのものを見るほかないのだ。このジョークにおいて、愚か者としての姿(現れ)は、表面的な現れであると同時に隠された本質でもあるという二重性を帯び、分裂している。量子力学の世界は、これに似ている。<o:p></o:p>
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そういえば、僕の高校時代の友人M・Dは時々、「マルクス兄弟」という言葉を口にしていたな。<o:p></o:p>
またその彼が「個性っていうのは癖のことだよな」と言っていたことも思い出す。<o:p></o:p>
当時の僕はその意見に反対したけど、彼の方が正しかったのかもしれないな。<o:p></o:p>
スラヴォイ・ジジェク著『ラカンはこう読め!』という本から引用。<o:p></o:p>
逆説的なことに、「真に生きる」ためには、自分自身の死を通り抜けなければならない。「死の前に生はあるか」――これはヴォルフ・ビーアマン〔現代ドイツのユダヤ系詩人・作詞家〕がその歌のひとつで投げかけた問いだ。これは「死後の生はあるか」というありふれた観念論的な問いを唯物論的に裏返しにしたものだ。唯物論者を悩ます問いはこうだ――私はいまここでちゃんと生きているのだろうか、それとも生存しか頭にないただの動物として生育しているだけなのか?<o:p></o:p>
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ああ、人間は「唯物論」的でもあり「観念論」的でもある、不思議な存在だったのですね。<o:p></o:p>
大澤真幸著『量子の社会哲学 革命は過去を救うと猫が言う』という本の内容の一部を紹介。<o:p></o:p>
典型的な「唯物論」であるレーニンの「反映説」が「観念論」に陥らざるをえないのは、それが、実在の外部に、まさにその実在を観照し、それを自らの中に鏡のように映し出す「意識それ自体」を措定せざるをえないからだが、この「意識それ自体」こそ「神」の原型ではないかという。<o:p></o:p>
それが実在に対して超越し、宇宙を総体として認識することができるとされるからだ。<o:p></o:p>
こうして、唯物論は、まさに自らが論破しようとした宗教へと転ずるのだが、このことを前提にした上で、今度は宗教の方に眼を移してみると、宗教そのものの内に、唯物論と観念論が混在していることがわかるそうだ。<o:p></o:p>
言い換えれば、宗教は観念論と唯物論の間を横断しているそうだ。<o:p></o:p>
それでは、両者を分かつ境界線がどこにあるかというと、たとえば、キリスト教がその上に置かれるそうだ。<o:p></o:p>
なぜならキリストが、つまりは神が死ぬキリスト教は、神の存在を――超越的な意識それ自体の存在を――否定する宗教だからだそうだ。<o:p></o:p>
十字架上のキリストの最後の言葉は、自らを見棄てる神への呪詛の言葉だが、この瞬間、キリストは、自身が完全に遺棄されたのを、したがって超越的な他者(第三者の審級)の不在を感得し、引き受けたのだといってよいそうだ。<o:p></o:p>
キリスト教の真理は、イエスという歴史的事実と不可分に結びついている。<o:p></o:p>
世俗的・経験的世界の内に棲まう、何でもない他者を媒介にしなくては、真理はありえないという真理観は、唯物論的である。<o:p></o:p>
このように、われわれは、宗教が唯物論へと転ずるのを認めることができるそうだ。<o:p></o:p>
昨日の読売新聞の夕刊に「幻聴妄想かるた」の記事が載っていました。<o:p></o:p>
これは「ハーモニー」という世田谷区の共同作業所のメンバーさんとスタッフさんによって作成されたようです。<o:p></o:p>
内容は「おとうとを犬にしてしまった」とか「新宿の女番長が そんなことは話しちゃいけないと言ってくれる」とか「佐賀、長崎、徳之島 この世界から抜け出せない」とか「コンビニに入るとみんな友達だった」とか「若松組が床をゆらす」とか「若松組が毎日やってくる」とか「警察から連絡あり 若松組構成員 半分逮捕しました」とか、一見、不条理な札のオンパレードだけど、解説本が付属していて幻聴や妄想が生まれた背景を知ることができるようになっているそうです。<o:p></o:p>
発行は2008年だけど、予想以上の反響があり、昨年、医学書院が出版を決めたそうです。<o:p></o:p>
精神疾患患者の症状を遊びながら理解しようというコンセプトがとてもいいと思います。<o:p></o:p>
メンバーさんは自分の幻聴や妄想を他人に笑われるのは平気なようです。<o:p></o:p>
それより怖がられたり、危険だと思われたりするのが一番悲しいと言っています。<o:p></o:p>
この気持ち、僕もよく分かります。<o:p></o:p>
このカルタを看護学生の教育に使う大学なども出てきたようです。<o:p></o:p>
この傾向、僕としては大変望ましいです。<o:p></o:p>
もっとやってくれ!という感じです。<o:p></o:p>
1週間程前、友人のOさんに誘われて、近くのミューズという文化会館で『破片のきらめき』という映画を観た。<o:p></o:p>
精神科病院内で芸術活動をしている患者たちのドキュメンタリー映画だったが、とてもよかった。<o:p></o:p>
映画のタイトル通りの内容だった。<o:p></o:p>
なぜそのように感じたのだろうと考えてみた。<o:p></o:p>
そしてそれはたぶん創作に打ち込む彼らの姿勢がひたむきだからだろうという結論に達した。<o:p></o:p>
こういうものは教えて身につくものではないから。<o:p></o:p>
精神的に病んでいるのかもしれないが、それを持っている彼らは、幸せな人たちだと思った。<o:p></o:p>
そして僕は彼らがそれだけは一生手放しませんようにと願わずにはおれなかった。<o:p></o:p>
朝から家の前の道路に大きなトラックが3台止まっている。<o:p></o:p>
確認したら、雨水管の補強工事をしているらしい。<o:p></o:p>
頑丈そうな身体をした男たちが、大きな声を張り上げて、仕事をしている。<o:p></o:p>
偉いなぁ~と、オヤジ天使は思う。<o:p></o:p>
そして鏡を見ながら、「あひる口」をしてみる。<o:p></o:p>
う~ん、かわいくないな。<o:p></o:p>
やっぱり歳のせいかな・・・などと思いつつ。<o:p></o:p>
ちなみにオヤジ天使は今年の6月で47歳になる。<o:p></o:p>