年末ジャンボ宝くじ、連番で20枚買ってありましたが、300円が2枚だけしか当たりませんでした。
僕が見た宝くじの夢は正夢にはなりませんでした。
僕のばか、ばか、ばか・・・。
これから同じようなことがあっても二度と信じません。
「宝くじは愚か者に課せられた税金」という表現がありますが、次回に期待しよう(懲りてない)。
大掃除が終了しました。
スギ薬局で買ってきた雑巾とガラスマジックリンで照明の笠や主要な窓を拭きました。
脱衣場と風呂場の窓の汚れはカビキラーも使って拭き取りました。
それから、僕がテレビを持ち上げている間に、母のダスキンハンディモップでキャビネットの隠れた部分を拭いてもらいました。
さらに母が掃除機をかけなかった所をクイックルワイパーでモップ掛けしました。
う~ん。
さっぱりした。
午後は母と鴨の肉(毎年、大みそかに家では鴨南蛮を食べるのね)を買いに所沢西武百貨店まで行く予定だったのですが、疲れたので、母に一人で行ってもらいました。
予約しておいた正月用の食料品を引き取りに生協に行ってあげたいのですが、救援に来ている知り合いの職員と会うかもしれないので、行けません。
お母さん、ごめんなさい。
カバラ数秘術にはその年の自分の運勢を簡単に占う方法があるそうです。
どうやって占うかというと、その年(例えば今年なら2013年)と自分の誕生日(僕の場合、6月15日)を構成している数字を全部足して(2+0+1+3+6+1+5=18)出た数字をさらに一ケタになるよう足す(1+8=9)。
こうして出た1から9までの数字のうちのどれかがその年の自分の数字になります。
1から9までの数字の意味を簡単に表します。
1 スタート、始まり
2 人間、出会い
3 開花
4 基礎固め
5 転機、チャレンジ
6 奉仕
7 勉強
8 流れのままに
9 別れ、けじめ
僕の場合、今年は9の年だったけど、確かに本を出版するなど、今までやってきたことを形にしたり、次に行くために自分に必要なものと不必要なものを判断したりした集大成の年だったので、当たっているかも。
さらに来年は1の年で、作業所に通い出すつもりなので、これも当たっているかも。
とにかく、やる気はあるので、無理しない程度に、がんばります。
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先ほど、母に頼まれてペットボトルで作られた風車を解体したのですが、その時、針金が指に刺さり、流血しました。
それ自体は大したことではないのですが、以前、僕の家をリフォームしてくれた大工さんが古釘で怪我をなされた時にしてくれた破傷風の話を思い出して、恐怖心に捕われました。
その大工さんは病院へ行って治療を受けたのですが、僕も受けねばならないのではないかと、さもないと、苦しんで死んでしまうのではないかと妄想を膨らませました。
破傷風の毒性が強いことは知っていたので、それだけ不安感も増したのですが、母には「お前には何も頼めない!」と怒られました(せめて、「大丈夫?」くらい言ってほしかった)。
ともかく、傷口をよく洗って、消毒をし、絆創膏も張ったのですが、潜伏期間が数週間もあるそうなので、心配です。
インド占星術には「グルチャンダラ・ヨーガ」というアスペクトが規定されています。
伝統的な宗教や文化を表すグル(木星)が、ラーフやケートゥといった凶星とコンジャンクション(合)することによって傷いて、その本来の役割を見失い、チャンダラという低俗なレベルに堕落してしまうという意味があるそうです。
恩知らずで、ファナティック(狂信的)な宗教性を表すとも。
でも、この解釈に僕は素朴な疑問があります。
惑星扱いされているラーフやケートゥは、実は太陽と月の軌道の交点で、ここに太陽と月が重なった時に蝕が起こります。
昔の人が、本来の輝きを失っていく太陽や月を見て、不吉と捉えたのも理解できます。
しかし、当たり前ですが、単にこの位置に木星が来ても木星は消えません。
それなのに、なぜこのアスペクトを不吉とするのか納得できません。
また、グルチャンダラ・ヨーガは裏切りのアスペクトとされているようですが、所属する集団が悪かった場合、裏切った方に正義があるわけで、全体としてはその方が望ましい結果になるのではないでしょうか。
仮面ライダーがショッカーを裏切ったように。
要するに、自分に都合のいいルールのもとで、自分を無反省に肯定している者こそ悪者なのではないでしょうか。
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用事のため少しの間ピピーちゃんから離れていたオヤジ天使は、彼女の近くまで帰ってきた時、ある異変に気づいた。
なんとピピーちゃんのボディに落書きがされていたのだ。
どうやらスプレーを使ったらしい。
黒字で「ばか」と書いてあった。
それを見たオヤジ天使は生れてはじめて怒りで気が狂いそうになった。
自分のことならともかく、ピピーちゃんを傷つける者は許せない!
オヤジ天使は全方位にピピー光線を発射するため封印を解いた。
悪い奴はみんなこの世からいなくなれ!
しかし!
オヤジ天使は発射寸前で思いとどまった。
いかん!これでは関係ない人たちまで巻き込んでしまう!
それに安易な解決法はなしにしたのではなかったのか!
結局、オヤジ天使は振り上げた拳をもとに戻し、落書きを消すことにした。
よく見ると、道路にはタバコの吸い殻が落ちていた。
少し悲しい気持ちになりながら、オヤジ天使はピピーちゃんのボディを拭いた。
歴史の皮肉といえば、何と言っても、ユダヤ人の救世主になるはずだったイエスの存在がユダヤ人迫害の最大の原因となってしまったことだろうなあ・・・。
でも、歴史はまだ終わっていない。
そこに希望を見出すしかない。
この世にメシアは2000年近く再来していない。
ところで、人は「メシア」という言葉を使う時、「メシアとはこういうものだ」というイメージを漠然とながらも抱いているものだ。
そして、自分のイメージ通りでないと、受け入れないのである。
彼らは「メシアの外見は目立った特徴がある(かっこいい)はずだ」とか「メシアにはカリスマ性があるはずだ」などと無根拠に信じている。
しかし、人の姿を取る以上、メシアも人間的な惨めさとは無縁ではないはずだ。
食ったり、排泄したり、性欲の処理に悩んだり、病気や死の恐怖に捕われたりしたことがないなんてことはないはずだ。
そうでなければ、彼は人間の苦悩を理解したとはいえず、いったい何のために来たのか、訳が分からなくなる。
僕は個人的な苦悩を救ってくれた者こそメシアと呼ぶべきだと思っている。
ユダヤ教徒は認めようとしないが、キリスト教徒にとってメシア来訪は歴史的事実である。
彼は故人であるが、現在その教えは世界中に広がり、実践されている。
メシアは分身の術の使い手だったのである。
だから、もう一度メシアを待望する必要性はないのかもしれない。
僕たちは、人生経験を積みながら、その教えの本質を理解し、それぞれの現場で応用すればいいだけなのかもしれない。
大袈裟な革命は必要ないのかもしれない。
中年男性Oにはあることが気になっていた。
それは何かというと、「神」とか「仏」とかいう言葉が何故存在するのかということであった。
正直に言うと、Oは自分の人生の中でそれらに遭遇したことはなかった。
しかし、世間では日常的にそれらの言葉が使用されている。
それが奇妙に思えていたのであった。
Oは統合失調症の寛解者だった。
統合失調症とは幻覚や妄想に苦しめられる病だった。
しかし、最近読んだ脳科学の本に書いてあったのだが、錯視の実験をすると統合失調症者は健常者よりズレが少ない結果になるそうだ。
つまり、よりありのままを見ているということ。
この事実を知って、Oは「だから統合失調症者は辛いのだな・・・」と悟った。
だから、「これからはなるべく楽しい夢を思い描こう」と思ったのである。
「どうせ自分は自分にしかなれないのなら、その中身を豊かにしてやれ」と思ったのである。
存在を二重に捉えてしまう能力を逆手に取ろうというわけである。
ポンペンは存在する。
太陽や雲や空に。
幼児の笑顔や子犬の振る舞いや小鳥のさえずりに。
看護婦さんの瞳の輝きに。
ポンペンはこの世に満ち溢れている。
これまで気づかなかっただけである。
ここで言う「ポンペン」とは喜びの総称である。
世の中には「完成されたものを好む人」と「未完成なものを好む人」がいるように思われる。
異性についていえば、男性は処女を好み、女性は女性経験の多い男性を好む傾向があると思われる。
商品としては、骨董品でもない限り、中古品より新品の方に価値があるはずだが、なぜ女性は中古の男性に価値を見出すのか。
たぶん、女性経験の豊富な男性の方が、そうでない男性より、女性の取り扱いがうまいはずだという思い込みがあるからだろう。
それが真実か確かではないが、そう考えることに合理性がないわけではない。
ここで僕が「そんなことはないよ」と力んでみてもしょうがない。
とにかく男女関係は、どちらか一方の思惑で、作られるわけではない。
それは、相互に作用しあうから、固定されることはない。
でも、それが生の本質かもしれない。
約束したから安心というわけでもない。
そもそも不安だから約束なんてするのだから。
普通の感覚の持ち主なら「殺人は善である」という者に対して違和感を持つだろう。
そして、彼に「社会不適合者」という烙印を押し、何らかの方法を使って矯正しようとするかもしれない。
しかし、弁証法はこの場合有効でないと思う。
例えば、「殺人は善である」をテーゼにしてしまった者が弁証法を用いても「殺人は悪である」というアンチテーゼを経由して「殺人は善であることもあれば悪であることもある」というジンテーゼに至るのが関の山だからだ。
要するに弁証法では、周辺を回るだけで、人間の本質までは変えられないのだ。
そういう者を生まれつきの「悪人」と決めつけ、徹底的に差別する善悪二元論よりはマシだと思うが、問題は解決しない。
結局、そういう者には「自分は大切にされていない」という被害者意識があるようなので、大切にしてやるしかないのだろう。
為政者が、平和な社会を実現するために、その国民に対する支配を徹底させたくなる気持ちは分かる(彼としては善意なのね)。
しかし、そのための方法が問題になる。
たとえ、いくら法律や監視を強化しても、国民をうまくコントロールすることはできないだろう。
技術的に無理と言うより、罰を恐れて為政者の言いなりになるような人間には良心が育たないからだ。
心の底から他人を愛したり信じたり理解したいという良心が。
そういう人間ばかりが構成する社会が本当に貧しい社会だと思う。
傲慢かもしれないが、優れた作家の本を読むと、「僕はこの人の生まれ変わりかもしれない・・・」などと妄想してしまう。
たぶん、作品に「これには僕の隠された真実が書いてある・・・」と思うほど、リアリティーを感じるからだろう。