歴史上の偉人をさん付けして呼ぶと何か馬鹿にしているような気がするのは僕だけであろうか…。
ゴータマ・シッダールタさんとか、ソクラテスさんとか、イエスさんとか、ニーチェさんとか…。
馴れ馴れしいのは確かだが…。
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歴史上の偉人をさん付けして呼ぶと何か馬鹿にしているような気がするのは僕だけであろうか…。
ゴータマ・シッダールタさんとか、ソクラテスさんとか、イエスさんとか、ニーチェさんとか…。
馴れ馴れしいのは確かだが…。
人間もどき。
最近、この言葉を知ったのだけど。
妙に引っかかる言葉で。
では、人間って何だと。
考えれば考えるほど遠ざかるような。
つまり罠だ。
なぜこんな罠を仕掛けるのだ。
こんなことをして何の得があるというのだ。
まあ、ブログの自己紹介の欄にキカイダー(人造人間)の写真を使っている僕がこんなこと言うのもなんだけど。
たぶん自己の正当性を証明する必要に迫られたことがない者がこんな表現をしても平気でいられるのだろうな。
松本卓也著『人はみな妄想する――ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』から抜粋。
ミレール(1975)は論文「母体」のなかで、欠如(無)としての主体、というラカンの議論を次のように形式化している――ある全体があるとき、その全体の外には何もない。何もない、ということは無があると考えることができる。それゆえ、今度は全体と無を含んだ新しい全体を考えることができる。この再―全体化の過程は、無限に繰り返すことが可能である。そして、ある構造のなかからその都度「無」として出現するものが、ラカンのいう欠如としての主体に相当する。
う~ん、なるほど。
僕たちが物事を「ある」とか「ない」と語れるのは「ある」からなのね。
例えば、僕が「リンゴがない」と言えるのは「リンゴ」という概念はこの世にすでに「ある」からなのね。
では、僕が時々襲われていた「虚無(ゼロ)」についてはどうだろうか?
この場合、「無がある」という変な言い方になる。
「ないモノ=欠如したモノ」。
「あるけど、分からないモノ」。
言語で構造化された無意識の中にもない(絶対的に欠如している)が故に何が欠如しているかが分からないモノ。
だから、想像するしかなく、僕はそれをとりあえず「神」と名づけ、「日中良い生活を心がけますから見逃してください」と言葉にして祈ったのだが、なかなか不安は消えなかった。
しかし、今はあれがラカンの言うところの現実界だったのだろうかと思っている。
物凄く苦しいのは確かだが、生き残ることは可能なので、絶望しないでほしい。
「現実を語ってみろ」と言われたので、とりあえず目の前にある「コップ」と言ってみる。
すると「現実とはコップのことなのか」と誤解されてしまう。
さらに「そのコップはどんな色や形や大きさをしているのか」と訊かれる。
う~ん、そして悟る。
「こんなこと続けったってとうてい現実なんて語れないよ」と。
「傍(はた)」とは、その事に関係のない立場(の人)。
「楽(らく)」とは、きゅうくつさ・苦しみ・苦労など、精神的・肉体的な悩みがなくて、安らかなようす。
「傍を楽にすること」が「働く」の意味だと聞いた。
すなわち、働いているつもりでも、傍を苦しめている人は働いているとは言えないのだろう。
自分の思い通りに行かない現実を否認して空想の世界に留まるより、少しでも現実認識を深めた方がいいかなと。
仕組みが分かればそれだけコントロールも可能だろうし。
それがアートというものだろう。
ナルシシズムについて。
松本卓也著『人はみな妄想する――ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』から抜粋。
フロイトは、人間の性愛は、(1)自体性愛、(2)ナルシシズム、(3)対象愛の順に発展していくと考えた。
(1)自体性愛は、人間の最初の性愛の段階である。この段階では、いまだ身体の統一的な 像(自我)はできておらず、ひとは自らの身体のバラバラの諸部分を性愛の対象とし、それらの諸部分によって欲動を満足させている。例えば、聞き慣れた母親の声を聞きながら、おしゃぶりをすることによって自らの欲動を満足させている幼児は、自分の口唇の左右に自分の耳があることを知らないし、その二つの満足を関連づけることもできていないのである。
(2)次いで、身体の統一的な像ができてくると、ひとは自らの身体像そのものを性愛の対象とすることができるようになる。フロイトは、水面に映った自分の姿に惚れ込んだナルシスにこの段階をなぞらえ、これをナルシシズムと呼んだ。
(3)最後に、自らの身体像ではなく、人や物といった外的世界の対象が性愛の対象とされるようになる。この性愛が対象愛と呼ばれる。
この一連の発展は、性的なエネルギーであるリビードの備給のされ方からも捉えることができる。自体性愛の段階では、ひとはリビードを自らの身体の部分に備給している。次に、ナルシシズムの段階では、リビードは自我(自らの身体像)に備給される(このときのリビードは「自我リビード」と呼ばれる)。最後に、対象愛の段階になると、リビードは外的世界の人や物といった対象に備給されるようになっている(このときのリビードは「対象リビード」と呼ばれる)。
さて、フロイトが人間の性愛の発展の一段階であるナルシシズムについての考察を深めたのは、精神病の観察からであった。というのも、(特に発病後の)精神病では、ナルシシズムへの退行として理解されるべき現象がよくみられるからである。そのような現象の代表例としては、精神病の病初期にみられる世界没落体験や、慢性期にみられる誇大妄想があげられる。
(1)世界没落体験:世界没落体験とは、精神病の急性期にしばしばみられる体験であり、世界が日常的な意味を失い、今にもこの世の終わりがきてしまいそうに感じられる不安な体験のことである。この体験は、外的世界に対するリビード備給の撤収の結果として理解できる。私たちが日常において体験している外的世界は、外的世界の対象(人や物)に私たちがリビードを備給することによって外的世界として成立している。しかし、精神病では外的世界の対象へのリビード備給が消滅し、ついには外的世界そのものが崩壊してしまう。例えば、シュレーバーは、現実の世界に存在する人間すべてが意味や重要性を失い、「束の間に組み立てられた男たち」、すなわちハリボテのような存在にすりかわってしまったと述べている。世界没落体験は、こういった外的世界の崩壊現象の極北と言える。
(2)誇大妄想:精神病では、自己に対する評価が異常に高まる誇大妄想の状態に至ることがある。精神病でみられるこのような現象は、対象リビードが減少し、反対に自我リビードが増加した状態、すなわちナルシシズムに退行しているために生じると考えられる。反対に、神経症では対象リビードは放棄されておらず、この点に神経症と精神病の鑑別点を求めることができる。
僕はスキゾフレニーというよりパラノイアなのかもしれない。
今、再読している松本卓也著『人はみな妄想する――ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』という本の症例シュレーバーのことが書かれてある箇所を読んでそう思いました。
この人物と僕の症状って生まれた時代も国も違うのに何となく似ているのです。
精神病理学ではスキゾフレニーとされるけどラカン派の精神分析ではスキゾフレニーとパラノイアの二つに分けることを知ったのはこの本を読んだおかげです。
ラカン派の精神分析はかなりいい線行ってると思います。
次回の精神科の受診日は9月2日(水)ですが、この点について主治医のY先生に詳しく聴いてみるつもりです。