H.S.クシュナー 斎藤武[訳]『なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記』から引用。
P.137
聖書のなかのヨブの友人のことを憶えているでしょうか? 三人の友だちがヨブを訪れた時、彼らは心の底から、多くのものを失い病に苦しむヨブを慰めたいと願っていました。しかし、やることなすことはほとんどみな裏目に出て、結果的にはヨブをますます嘆き悲しませることになってしまったのです。ヨブの三人の友だちの失敗を通して、人生に傷ついた人は何を必要としているのか、また、友として隣人として、私たちはどうすればそのような人を助けてあげることができるのか、学ぶことができるかもしれません。
彼らの最初のまちがいは、ヨブが「なぜ、神は私をこんな目にあわせるのか?」と問うた時、ヨブが質問を発しているのだと思い、その質問に答えてやればヨブを助けることになる、と考えたところにあります。実際は、ヨブのことばは神学的な問いなどではまったくなく、悲痛の叫び声だったのです。ヨブのことばのあとに続くものは疑問符(?)ではなく、感嘆符(!)であるべきだったのです。
ヨブが友人たちに求めていたものは――「神はなぜ、私にこんな仕打ちをするのか?」と言ったときヨブがほんとうに求めていたものは――神学ではなく、思いやりの心だったのです。神についての説明などではありませんし、まして、自分の神学の欠陥を指摘されることでもありませんでした。ヨブは友人たちに、自分はほんとうに正しい人間で、ふりかかったこの災難は悲劇的であり、まったく公平を欠くものである、と言ってもらいたかったのです。
しかし、友人たちは神について話すことに熱中するあまり、ヨブのことなどほとんど眼中にないかのようでした。ヨブについて話したことといえば、義なる神によってこのような運命に定められてもしかたのないことをヨブがしでかしたにちがいない、と告げたことだけでした。
友人たちはヨブのような状況に陥ったことがありませんでしたから、ヨブを裁いたり、そんなに泣き不平を言うものではないと忠告したりすることが、どんなに心ない行為であり、ヨブを苦しめているかを認識できなかったのです。かりに、彼ら自身もヨブと同じような喪失の経験をしていたとしても、それでも、ヨブの嘆きを非難する権利はないのです。
(中略)
ヨブは助言より同情を必要としていました。適切で正しい助言であったとしても同じことです。助言するにふさわしい時や場所は、もっとあとにやってくるものです。彼が必要としていたものは、苦しみを分かちもってくれる愛情だったのです。説得するように神の意志の神学的な説明をするのではなく、だれかが自分の痛みをわかってくれているのだという実感だったのです。身体的な慰め、力を分け与えてくれる友、責めないで抱きしめてくれる友が必要だったのです。
忍耐と敬虔の模範たれと勧める友よりも、怒り、泣き、叫ぶことを許してくれる友を必要としていたのです。「元気を出せよ、ヨブ。悪いことばかりじゃないんだから」と言うような人ではなく、「ああ、なんてひどいことだ、どう考えたらいいんだ」と言ってくれる人が必要だったのです。「ヨブを慰めようとした人たち」というのは、だれかを助けようとしながら、相手の必要や感情よりも自分たちの欲求や感情にとらわれてしまい、事態をますます悪くしてしまう人のことをいう、きまり文句になっています。
ヨブのような義人とは言えないものの統合失調症で何十年も苦しむほど他人より特別悪いことをした覚えのない僕にはこの文章は慰めとなりました。
弱っている人に石を投げるような人はたぶん病みかけているのでしょう。
否認や抑圧や解離という自我防衛機制が働いているのでしょう。
結局人は愛せないから苦しむのだね。