Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

日日是好日 一日一日を大切に頑張って行きましょう ξ^_^ξ

コモンタイム(立麝香草、Thyme) Thymus 勇気 活気 活発 清涼感

2019-09-15 05:17:27 | Weblog

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆四国統一を成し遂げた名家長宗我部家の「お家騒動」が生み出した、7人の怨霊

2019-09-15 05:07:46 | Weblog

土佐の国主である長宗我部元親は、天正13年(1585)年に四国統一を成し遂げた。
ところが四国の覇者となったその翌年、秀吉の攻撃を受けて降伏。土佐一国へ押し込められてしまう。更に、豊臣秀吉に従って九州に出陣した際には、長男の信親が豊後戸次川の戦いで討ち死にするという不幸にも見舞われた。
元親には4人の男子がいたが、次男の親和と三男の親忠は、それぞれ讃岐の香川氏と土佐の津野氏の養子となっていた為、四男の千熊丸に家督を継がせようと考え、評定を行なった。これに異を唱えたのが、長宗我部一族の重臣、吉良親実と比江山親興である。次男の親和は養子に出たものの、その香川氏が潰されて浪人の身となっていた為、長幼の順からいっても親和を後継ぎにすべきだと進言したのである。
また元親は、亡き長男の信親の娘を千熊丸に娶らせようと考えていたが、吉良と比江山は、叔父と姪の結婚は良くないと、これにも反対した。千熊丸可愛さに目がくらんでいた元親は、酷く不機嫌になって評定の席を立ってしまった。 これに付け込んだのが、かねてから吉良親実と反目していた久武親信である。親信は元親の歓心を買って自分の勢力を伸ばそうと、「吉良親実と比江山親興をこのまま許しておいては御家の一大事を招きます」と事あるごとに元親に讒言を行なった。これを信じた元親は、天正16(1588)年、吉良親実と比江山親興に切腹を命じた。憤激した親実は、「主家の衰運は明らかである」と腹を掻き切ると、腸を掴み出し投げつけて死んだという。更に、親実に従っていた7人の武士たちも次々に斬られて非業の死を遂げたのである。

*何処にでも現れる7人の怨霊  
この後、長宗我部家の本拠である岡豊城下では無気味な出来事が次々に起こるようになった。
親実の屋敷跡や墓の辺りには、夜な夜な鬼火が現われ、首のない武士たちが白馬を駆って疾走するようになった。人々はこれを、憤死した親実と親興、そして親実に殉じた腹心の7人の祟りだと恐れ慄いた。
怪異は城内にも出現した。月夜の晩には、吉良と比江山の旗印をつけた軍兵が城門から風のように城内に侵入し、そのまま通り過ぎて行ったという。その為、見張りの兵たちまで気味が悪いと怯えるようになった。 いつしか怨霊は「7人みさき」と呼ばれるようになった「7人」というのは吉良一門の7人で、吉良のことは恐れて数に入れず、比江山も数えられていない。「みさき」とは、人が死んでなる神で、怨霊のことだという。
7人みさきに遭遇した者は、その日から高熱を発して譫言を口走り、急死するという。 讒言をした久武親信の子どもたちも精神に異常をきたして次々に死んで行き、親信の妻も悲嘆のあまり自害して果てた。
怨霊を恐れた人々は、吉良親実と比江山親興を神として祀り、その怒りを鎮めようとした。高知市にある吉良神社は、吉良親実を祀った神社である。
だが、その後も土佐では、城下ばかりでなく農村や漁村にまで7人みさきが現われるようになった。いつしか「7人みさきは人間を一人殺すと先頭の者が成仏できるが、殺された者が加わる為に常に7人である」とも言われるようになり、今も恐怖の対象となっている。


長宗我部元親


岡豊城址


                                                        日本史ミステリー
                                                               背筋も凍る.....今なお消えない「呪い」の伝説 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆「おくのほそ道」を著した俳人「松尾芭蕉=幕府の隠密説」のこれだけの証拠

2019-09-13 05:00:25 | Weblog

 

江戸時代の俳人松尾芭蕉。各地を旅してその折々の様子や発句をまとめた「野ざらし紀行」「笈の小文」などの紀行文も有名だ。中でも江戸を出発して北上し、奥州平泉から出羽方面へと向かい、日本海側へ出て南下し、越後、加賀を経由して大垣まで足を伸ばした150日間の紀行文「おくのほそ道」は、不朽の名作として名高い。
だが、芭蕉の紀行旅は、名所旧跡を見て門人たちと交流し、俳句を詠むというのは表向きの口実で、その裏では秘密の使命を帯びていたのではないかと噂されて来た。そう、芭蕉の正体は幕府の命を受けて各地を視察する隠密ではなかったかというのである。
文化人である俳人と忍者、意外な組み合わせのようにも見えるが、戦国時代には連歌師が旅をして情報収集の役割を果たした例もある。 幕府が隠密を放てば各藩に警戒されるが、著名な俳人が旅行する分には怪しまれることはない。その隠密説を裏付けるのが芭蕉の代表作「おくのほそ道」である。
これを紐解くと、幾つかおかしな事実が浮かび上がるのだ。 例えば芭蕉は、時には1日40㌔㍍を歩くという健脚ぶりである。
また旅費についても、「おくのそほ道」や同行した弟子の曾良が記した「曾良日記」には金銭についての記述がほとんどない。もちろん各地の門人たちからの支援や句会に参加した礼金もあったと考えられるが、150日もの旅ともなれば宿泊代や飲食費、馬代、船賃などに相当な金額がかかる。
だが、これらの莫大な資金が幕府から支給されていたと考えれば辻褄が合うのではなかろうか。 同行した曾良についても、村松友次氏は「芭蕉の作品と伝記の研究」の中で、「曾良日記」に神社仏閣の配置や、距離・方向などが執拗までに細かく記されていること、当時は一定の資格がなければ出入りできない日光にも、日光の養源院に手紙を届けるという名目でお宮の中に通されているといった事実から、この旅には何らかの大きな力が働いていたのではないかと推測している。
折しも幕府は諸藩の調査書である「土芥寇讎記」を制作中であったとされ、芭蕉が松島の瑞巌寺を訪れた際には、入念な調査を行なっている。しかも同寺は仙台藩の軍事要塞ともいわれていた。

*芭蕉が生まれたのは忍者発祥の地  
ただし、芭蕉がいつ何処で忍者になったのか不思議に思う人もいるだろう。実は芭蕉の出自に忍者説の重大な根拠が隠されていたのである。芭蕉は伊賀上野の武士の家の生まれである。伊賀といえば甲賀と並ぶ二大忍者集団の伊賀忍者発祥の地である。応仁の乱の頃よりゲリラ戦で活躍し、戦国時代には山がちな地形を利用して織田信長の軍を撃退するほど戦闘能力を誇った。本能寺の変で堺にいた徳川家康が三河へ帰還する際、難所の伊賀越えを手助けしたのが伊賀衆であり、その功績により服部半蔵などが家康に召し抱えられた。 芭蕉の主君藤堂家はその服部半蔵の親戚にあたり、芭蕉は同国の高名な忍者、百地三太夫の子孫でもあるという。芭蕉は伊賀村付大将・藤堂新七郎家に仕えていたが、親しくしていた同家の若君の死を契機に藤堂家を辞し、江戸に出た経歴を持つ。このような出自の芭蕉が、幼い頃に多少なりとも忍者の修行を積み、生涯藤堂家と繋がりを持っていたとすれば.....。
俳人として活躍するその裏で、忍者としての能力を駆使し、幕府や旧主家からの密命を果たしていたのかも知れない。

        

                                          日本史ミステリー
                         激動の瞬間ーーー光と影が入り交じる伝説


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆「天皇親政」を行なおうとした後醍醐天皇が倒幕の裏で用いていた邪教の秘術

2019-09-12 04:12:27 | Weblog




神奈川県藤沢市の浄光寺には、鎌倉幕府を倒した天皇として有名な後醍醐天皇の肖像画が残されている。教科書にも掲載されるこの肖像画をよく見ると、他の歴代天皇のものと明らかに異なる雰囲気を持っている。
後醍醐天皇は、後宇多天皇の次男として生まれ、兄の後二条天皇が幼少の皇子を残して早世した為、21歳で皇太子となり、文保2(1318)年に即位した。そして天皇が即位以来の悲願としたのが、鎌倉幕府の倒幕である。彼は、「国の政治は天皇自ら行なうのが本来の姿である」と考え、天皇親政を実現させようとしたのだ。しかし、幕府側も簡単には倒されない。
正中元(1324)年、元弘元(1331)年と、2度に渡って倒幕の陰謀が明るみに出てしまい、正中元年の際には処罰は免れたものの、元弘元年の陰謀発覚時には、隠岐に流されてしまったのである。 この窮地に臨んで後醍醐天皇の闘志は消えるどころか、増々燃え上がった。
3度目の正直となる元弘3(1333)年、隠岐を脱出して倒幕の兵を挙げると、これに呼応して楠木正成や赤松則村らが挙兵。更には幕府の御家人である新田義貞や足利尊氏らが次々と幕府を裏切り、鎌倉や京都の六波羅探題などを攻略し、執権の北条高時らを自害へと追い込んだ。 こうして鎌倉幕府は崩壊し、後醍醐天皇は翌年、新政権を打ち立てるに至った。

*天皇が信じていた禁断の密教の内容  
初志貫徹した後醍醐天皇の決意の固さが、倒幕成功の源だった.....と言いたいところだが、実は、後醍醐天皇の大願成就の裏には、当時邪教とされていた宗派の力が存在していたという。
後醍醐天皇の肖像画をよく眺めてみてほしい。天皇は衣服の上に袈裟を巻き、金剛杵と呼ばれる法具を右手に持っている。そう、その宗教とは密教。幾つかに別れた密教の教えの中でも平安時代末期に密教僧・仁寛によって始められた真言立川流である。
立川流では、「究極の悟りは男女の交合を以て可能とする」とし、性行為でエクスタシーを得ることが即身成仏への近道だと説く。 本来仏教に於いて、好色は罪である。当然、真言宗の総本山である高野山はこれを認めず、立川流を邪教としていた。 ところが、時の天皇である後醍醐天皇は立川流の非常に熱心な信者であった。しかも、立川流を大成させたといわれる僧・文観を召し抱え、その補佐を受けていたのである。
後醍醐天皇も文観の教えを受け、危険な魔の世界の呪術に自ら手を染めて行く。天皇が行なったのは「どのような非法悪行でも成就させるが、一歩間違えれば行者自身が滅ぼされる」という最も危険な秘法、「大聖歓喜天浴油供」であった。浴油供は隠密裏に行なうもので、聖天(十一観音菩薩の化身)の好物とされる酒、大根、歓喜団(菓子)などを供え、熱した油を入れた器の中に聖天像を安置し、その像に油を注いで洗い清めながら成就を祈るというものだった。
自ら法衣を纏った天皇が、護摩の灰の舞う中で幕府を呪いながら一心不乱に像に油を注ぐ様子は、何かが乗り移ったような妖気すら漂わせていたという。
かくして後醍醐天皇が狂気の祈祷を行なっていた頃、鎌倉幕府は末期的状況に陥っていた。
諸国で悪党が盛んに活動するなど、政局が非常に不安定になり、武士層からの支持を次第に失って行ったのだ。 そして、それと時を同じくして、政治の中心にあった鎌倉幕府の執権、北条高時の身には奇怪な出来事が起きていた。 「太平記」によると、ある日、酒を飲んでいた高時は、何処からともなく現れた田楽法師たちに囃し立てられ、狂ったように田楽を踊り始めた。何事かと集まり、その様子を見た周囲の者たちは、腰を抜かさんばかりに驚いた。何と、お囃子をしていた田楽法師たちは、異形の化け物だったというのである。
やがて元弘3(1333)年5月、鎌倉幕府は終焉の時を迎える。教科書にも登場する鎌倉幕府滅亡の歴史に、法衣姿の天皇を重ね合わせたとき、隠された真実に戦慄を覚えるはずだ。

       
                       日本史ミステリー
                         激動の瞬間ーーー光と影が入り交じっる伝説


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コリアンダー(Coriander、カメムシソウ、パクチー)Coriandrum sativum 隠れた才能 隠れた長所

2019-09-10 09:46:26 | Weblog

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

菜根譚 後集37項

2019-09-08 14:31:12 | Weblog


秋明菊(Japanese anemone)


時当喧雑、則平日所記憶者、皆漫然忘去。
境在清寧、則夙昔所遺忘者、又恍爾現前。
可見、静躁稍分、昏明頓異也。

時、喧雑に当らば、則ち平日記憶する所の者も、皆漫然として忘れ去る。
境、清寧に在らば、則ち夙昔遺忘する所の者も、又恍爾として前に現わる。
見るべし、静躁稍分るれば、昏明頓に異なることを。


「喧騒と静寂の分かれ目」
騒がしくゴタゴタしている時に出会うと、普段記憶していることまで全部ボンヤリとして忘れてしまう。
これに対して、サッパリと安らかな環境にいると、とっくの昔に忘れてしまったことまで、ほのかに目前に現われて思い出される。
環境が静かであるか騒がしいかの何れかに少しでも分かれると、ボンヤリするかハッキリするかと云う判断の違いが、直ちに出て来ることを知っておくべきである。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

菜根譚 後集36項

2019-09-07 16:00:57 | Weblog


千日紅


山林是勝地、一営恋便成市朝。
書画是雅事、一貪癡便成商賈。
蓋心無染着、欲界是仙都。
心有係恋、楽境成苦海矣。

山林は是れ勝地なるも、一たび営恋せば、便ち市朝と成る。
書画は是れ雅事なるも、一たび貪癡せば、便ち商賈と成る。
蓋し、心に染著無くば、欲界も是れ仙都なり。
心に係恋有ば、楽境も苦海と成る。


「風流も執着すれば俗物となる」
山林は元々優れた隠棲の地であるが、一度必要以上にそこに住むことに拘ると、そのままそこは賑やかな町中と同じになってしまう。
また、書や絵画は元々風流な鑑賞物であるが、一度必要以上にこれを得ることに取りつかれると、そのままそれは商人が利益を得る対象物と同じになってしまう。
思うに、心に外物に捉われて執着することがなければ、俗世間もそのまま仙人の住むような理想郷と同じであるが、心に係り引っ張られることがあると、安楽な境遇も、たちまち苦しみの世界になってしまう。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お辞儀草(Sensitive plant) Mimosa pudica 繊細な感情 感受性 敏感

2019-09-06 12:22:35 | Weblog

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

菜根譚 後集35項

2019-09-06 05:06:57 | Weblog




孔雀アスター Aster cv 一目惚れ


水流而境無声。
得処喧見寂之趣。
山高而雲不碍。
悟出有入無之機。

水流るるも境に声無し。
喧に処りて寂を見るの趣を得ん。
山高きも雲碍げず。
有を出でて無に入るの機を悟らん。


「喧騒の中にある静寂」
大河が満々と水をたたえて流れていても、その辺りでは水の音が少しも聞こえない。
人もこのような道理を理解すれば、騒がしい所に居ても静けさを見出す心境を得られるであろう。
また、山がどんなに高くそびえていても、白雲が去来するのを妨げることはない。
人もこのような道理を理解すれば、存在の世界に居ても存在に左右されない、無心に入る機会を悟ることができよう。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

菜根譚 後集34項

2019-09-05 15:54:57 | Weblog

 

禅宗曰、饑来喫飯、倦来眠。
詩旨曰、眼前景致、口頭語。
蓋極高寓於極平、至難出於至易。
有意者反遠、無心者自近也。

禅宗に曰く、「饑え来たらば飯を喫し、倦み来たらば眠る」と。
詩の旨に曰く、「眼前の景致、口頭の語」と。
蓋し、極高は極平に寓し、至難は至易に出ず。
意有らば反って遠く、心無くばは自から近きなり。


「自然に生きる」
禅の宗旨を説いた語句に、「腹が減ったならば飯を食い、眠くなったら寝る」と言っている。
また、詩の妙旨を説いた語句に、「詩と云うものは実際目の前に見える景色を題材とし、普通使用している言葉で表現する」と言っている。
思うに、最も高遠な真理と云うものは、最も平凡なものの中に宿っており、至難な事柄は最も平易なものの中から出て来る。
だから、殊更に意を用いて技巧を加えたならば、却って真実から遠くなり、自然なままに無心であったならば、自ずから真実に近くなる。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆無実の罪を着せられた? フランス・カペー王朝を断絶させた、「秘密結社」の呪い

2019-09-05 04:07:12 | Weblog

1328年、987年から続いたフランスのカペー王朝が断絶し、ヴァロワ朝の歴史が始まった。
歴史上、王朝が滅びることは珍しくないが、カペー朝の場合、敵から攻撃されたわけでもなく、世継ぎがいなかったわけでもない。 1314年に没したフィリップ4世にルイ、フィリップ、シャルルという3人の王子がおり、王位継承者は十分に存在したにも関わらず、何故か皆、王座に座った途端、死の世界へと引きずり込まれ、遂には断絶してしまったのである。...

*4人の王が次々と即位して間もなく死亡  
この恐ろしい死の連鎖の最初の犠牲者は、フィリップ4世の長男ルイ10世だった。
1314年、父のフィリップ4世の後を継ぎ、25歳で国王となったものの、それから僅か2年後の1316年に死去してしまうのだ。この時王妃が妊娠していた為、その間は、フィリップ4世の次男フィリップが摂政となり、出産を待った。
そして王子ジャンが生まれ、直ぐにジャンは即位したが、数日後に亡くなってしまう。
1317年1月、摂政だった次男が即位してフィリップ5世となったが、その5年後の1322年に死亡。フィリップ5世の息子は父よりも早く亡くなっていたので、フィリップ4世の三男が即位してシャルル4世となった。しかし、シャルル4世の治世も僅か6年で終わる。シャルル4世の息子も早くに亡くなっていた為、ここでカペー朝は途絶えたのである。

*テンプル騎士団の莫大な財産に目を付けた国王  
さて、このカペー朝の断絶は、テンプル騎士団のジャック・ド・モレーの呪いだと実しやかに囁かれている。この断絶は、そもそもフィリップ4世が無実の罪のテンプル騎士団の人々を投獄し、拷問し、火刑に処して壊滅させたことが原因と言われているのだ。
テンプル騎士団は、元々エルサレムをイスラム教徒から防衛する為に12世紀に結成された宗教騎士団である。彼らの下にはヨーロッパ中から寄付が集まり、その財力を利用して金融業にまで進出。14世紀には莫大な財産を有し、フランス王家に大金を貸して財政を助けるほどであった。
フィリップ4世の統治下のフランスであっても、圧倒的な財力と信者の尊敬に加え、騎士団としての軍事力を兼ね備えていたテンプル騎士団は、国王にとっては目障りな存在だった。しかも当時のフランス王家は財政的な危機に瀕していた。そこで王は、王権を脅かす存在の排除と、豊かな財物の確保の一挙両得を狙うことにしたのである。

*王は、騎士団を貶める噂を流した.....  
王は、先ずテンプル騎士団の評判を徹底的に貶め、彼らにあらぬ罪を着せることにした。
例えば、騎士団員は実は神を冒涜する輩で、キリストを否定している。悪魔礼拝を行なっている、夜な夜な悪魔やその配下の者たちと乱交を繰り広げている。騎士団の団員は男色家である、入信の儀式では、団員の長の尻にキスしなければならないーーーなどといったエゲツナイ噂を流し、民衆の間に騎士団の禍々しいイメージを植え付けたのだ。

*いまわの際の騎士団長が残した「壮絶な予言」  
そして遂には、騎士団の団員とみると逮捕して、恐ろしい拷問にかけて行くようになる。
しかも、フィリップ4世は、テンプル騎士団狩りを行なう前に、ローマ教皇クレメンス5世を取り込み、騎士団は解散してその財産を国のものにするとの約束を取り付けていた。
こうして逮捕された騎士団の団員のうち54人は、体中に数え切れない楔を打ち込まれ、火刑に処せられて行った。 その1人だった団長のジャック・ド・モレーは、フィリップ4世のあまりに非道な行ないに対して憤りを爆発させ、「今年中に、お前らは神の法廷に呼ばれるだろう」と不気味な予言を残したという。
実際、その予言通り、ジャック・ド・モレーが処刑された1314年に、フィリップ4世は46歳で衰弱死したばかりか、フィリップ4世と結託したクレメンス5世も亡くなっている。
偶然か、それとも呪いの結果か、カペー朝は不可解な死の連鎖によって、終焉を迎えたのである。

    
                                 世界史ミステリー
                    迷信か、それとも..... 戦慄が走る呪いのミステリー

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆院政をしいた「治天の君」 後白河法皇が「三十三間堂」を建立した信じがたい理由

2019-09-03 04:17:33 | Weblog





平安時代末期、保元・平治の乱を巧みに勝ち抜いた後白河法皇は、平清盛、木曽義仲、源義経、源頼朝らを利用して、30年以上もの長きに渡って院政をしき、朝廷内に隠然たる権力を保ち続けた。
法皇は、生涯を通じて寺院の造営にも熱心だった。現在では観光スポットとしても名高い三十三間堂も、法皇が平清盛に命じて長寛2(1164)年に建てさせた仏堂である。
かつて周囲は法住寺殿と呼ばれ、院政の場を兼ねる院御所であった。この法住寺殿に隣接する千体御堂が三十三間堂である。三十三間堂は、地上16㍍、奥行き22㍍、南北の長さは120㍍におよび、内部に千一体もの千手観音立像と二十八部衆立像および風神・雷神像、千手観音坐像が安置されている。だが、三十三間堂というのは通称で、正式な名は「蓮華王院」という。これは法皇の前世に於ける名前「蓮華坊」から取られており、創建の背景には不思議な出来事があったのだ。

*夢に現れた僧が告げた法皇の前世  
後白河法皇は、常日頃より頭痛に悩まされていて、どんな医師、薬師が施術を行なっても効果がなかった。さしもの法皇も、これではなす術がない。
その頃、貴顕(身分が高く名声を持った高貴な人)の間では熊野への参詣が流行していた。法皇も熊野に参詣に赴いた折、頭痛の治癒を祈願したところ、「因幡堂に参籠せよ」という託宣を得た。因幡堂とは京の市中にある薬師参りで知られる寺である。法皇はそこに籠って祈り、最後の満願の日になったところ、夢枕に、貴い様子の僧が現れた。
そして、法皇の前世は蓮華坊という名の熊野の僧侶であると語り、「蓮華坊は全国行脚の修行をしたので、その功徳によって現世では帝位に就くまでの身分に生まれることができた。だが、前世のドクロが朽ちずに川の底に沈んでいる。それを柳の木が貫くようにして生えているので、風が吹く度にドクロに触れ、頭が痛くなるのだ」と告げたのである。
法皇は、お告げで言われた川の底を調べさせた。 すると、果して本当にそのようなドクロが見つかったのである。そこでドクロと柳の木を引き上げさせると、そのドクロ観音像の頭部に納め、柳の木を梁にして三十三間堂を建立した。
すると、あれほど法皇を苦しめていた頭痛がピタリと治まったという。
今も、三十三間堂の観音像にお参りすると、頭痛平癒の御利益があるとされている。
また、毎年1月には、正月に汲んだ初水を霊木の柳の枝で参拝者に注いで祈る「柳のお加持」という法要が行なわれている。これも、後白河法皇の頭痛が止んだことにあやかる頭痛封じの法要である。

        

                      日本史ミステリー
                                      激動の瞬間ーーー光と影が入り交じる伝説


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする