愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 231 飛蓬-138 小倉百人一首:(後鳥羽院)人もをし

2021-10-04 09:43:20 | 漢詩を読む
99番 人もをし 人も恨(ウラ)めし あぢきなく  
     世を思ふ故(ゆえ)に もの思ふ身は 
          後鳥羽院(『続後撰和歌集』雑・1199) 
<訳> あるときは人をいとしく思い、またあるときは恨めしく思う。つまらないこの世を思うがゆえに、あれこれと思い悩むことが多いわが身は。(板野博行) 

ooooooooooooo 
人が愛おしく思われることもあれば、また恨めしく思われることもある。この世の中は何ともつまらなく、儘ならない状態にある。しかし良い方向に仕向けたいとの思いがある故に、一人で思い悩むのである。 

トップの座にあって、孤独の感に苛まれる、苦悩の後鳥羽院の歌である。公卿から武家の世へ、また鎌倉でも源氏から北条氏へと力が移りつゝある激動の時代、遂には爆発する(承久の乱)が、マグマでエネルギーが蓄えられている頃の歌に読める。 

後鳥羽院33歳の時の歌で、承久の乱の9年前の作である。七言絶句としました。 

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<漢詩原文および読み下し文> [上平声九佳・四支韻] 
考慮世上的苦悩 世上(セジョウ)を考慮コウリョ)する苦悩 
載愛載恨対人懐,時には愛(イト)おしく、時には恨(ウラ)めしく、人に対する懐い、 
一何没趣世上姿。 一(イツ)に何ぞ没趣(ツマラ)ぬ世上の姿よ。 
煢煢对此抱希望, 煢煢(ケイケイ)として此(コレ)に对するに希望を抱き, 
苦悩紛紛多所思。 苦悩紛紛(フンプン)として思う所多し。 
 註] 
  載~載~:~することもあれば、~することもある。 
  没趣:つまらない。    此:前に述べたこと、ここでは、つまらぬ世上姿。 
  煢煢:孤独で頼るところのないさま。 紛紛:ごたごたと忙しないさま。 

<現代語訳> 
  世の中を思うが故の苦悩 
時には人を愛おしく思い、また時には恨めしく思うことがあり、
何とつまらぬこの世の中の状況か。 
孤独の中でこの世の中の状況を良くしたいとの思いがある故に、 
苦悩が多く、あれこれ思い悩むのである。 

<簡体字およびピンイン> 
考虑世上的苦恼 Kǎolǜ shìshang de kǔnǎo 
载爱载恨对人怀,Zài ài zài hèn duì rén huái,
一何没趣世上姿。 yī hé méiqù shìshàng .  
茕茕对此抱希望,Qióng qióng duì cǐ bào xīwàng,
苦恼纷纷多所思。kǔnǎo fēnfēn duō suǒ .
xxxxxxxxxxxxx  

後鳥羽帝(1180~1239、在位1183~1198)は、高倉帝の第4皇子、異母兄の第一皇子は先帝・安徳帝で、後白河帝の孫に当たる。源平の争いが始まった年、治承4年の誕生である。平氏に擁された安徳帝が都を逃れている間、4歳の時に践祚された。

安徳帝が壇ノ浦で入水・薨御するまでの2年間、2帝が並立していた。皇位の象徴 “三種の神器”がない状態での即位である。安徳帝の入水後も“神器”の一つ“剣”は失われたままであった。癒しようのない傷として、後々胸の奥に沈殿していたであろうことは想像に難くない。

1198年土御門帝に譲位して以後、土御門、順徳、仲恭と、3代23年間、上皇として院政を敷いた。上皇になると、院政機構の改革を行うなど積極的政策を採り、また公事の再興、故実の整備に取り組み、廷臣の統制にも意を注いだ。

一方、頼朝没後、力が北条氏へと移りつゝあった鎌倉から、子のいない実朝の後継に上皇の皇子を迎える「宮将軍」の構想が提示され、朝幕関係は安定するかに見えた。しかし実朝が暗殺された(1219)ことから、上皇は「宮将軍」を拒絶し、良好な関係に終止符が打たれた。

上皇は、討幕の意を固め、時の執権・北条義時追討の院宣を出し、畿内、近国の兵を招集して幕府に挑んだ、「承久の乱」(1221)である。しかし多勢に無勢、準備不足もあって、ほぼ一カ月の戦闘で大敗を喫した。上皇は、隠岐島に配流された。

歌人としては、土御門帝への譲位(1198)の頃以後、和歌に興味をもち始めたようである。当時、世上「新儀非拠達磨歌」(新しい、前例のない、わけのわからない歌)と半ば揶揄されていた定家(百-97番)の歌に、特に興味を持ったようである。

1199年以後、歌会や歌合を盛んに主催しており、中でも「正治初度百首和歌」(1200. 7)では、式子内親王、九条良経、俊成、慈円、寂蓮、定家、家隆等々、九条家歌壇の御子左家の歌人に詠進を求めている。

この百首歌を機に、上皇は俊成に師事し、定家の作風の影響を受け、歌作は急速に進歩していったようである。この頃新たな歌人を発掘して周囲に仕えさせ、これら新人は、後に新古今歌人として成長する院近臣一派の基盤となっていく。

同年(1200. 8)、飛鳥井雅経、院宮内卿、鴨長明、源具親など、近臣を中心とした新人を対象に「正治後度百首和歌」を主催している。両度の百首歌を経験して、和歌への想いを深くして、勅撰集の撰進を思い立ち、和歌所を再興した (1201)。

一方で、当代の主要歌人30人に百首歌を求めて二組に分け、歌合形式で判詞を加える、未曾有の大規模な歌合「千五百番歌合」を主宰した。新古今期の歌論の充実、新進歌人の成長など、文学史上大きな価値のある催しであったと評されている。

それらの企画を経て1201年11月、定家、有家、家隆、雅経、寂蓮、源通具の6人に勅撰集編集の命を下し、『新古今和歌集』の撰進が開始された。「千五百番歌合」がその主な資料となり、その中から90首が入集されていると。

隠岐への配流後も歌作は衰えることはなく、また多くの歌合を催している。都での華やかな新古今歌風に対し、隠岐では懐旧の念による切実な望郷の心情の歌が多いと。配流地での18年間のわびしい生活ののち、同地で崩御された。「顕徳院」の諡号が贈られたが、後に「後鳥羽院」の追号に変更された。

後鳥羽院は、文武に亘って多芸多才で、歌人としては当代一流で、『新古今和歌集』の撰には自ら深く関与した。家集に『後鳥羽院御集』『遠島御百集』、歌学書として『後鳥羽院御口伝』がある。日記「後鳥羽院宸記」がある。

   
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