99番 人もをし 人も恨(ウラ)めし あぢきなく
世を思ふ故(ゆえ)に もの思ふ身は
後鳥羽院(『続後撰和歌集』雑・1199)
<訳> あるときは人をいとしく思い、またあるときは恨めしく思う。つまらないこの世を思うがゆえに、あれこれと思い悩むことが多いわが身は。(板野博行)
ooooooooooooo
人が愛おしく思われることもあれば、また恨めしく思われることもある。この世の中は何ともつまらなく、儘ならない状態にある。しかし良い方向に仕向けたいとの思いがある故に、一人で思い悩むのである。
トップの座にあって、孤独の感に苛まれる、苦悩の後鳥羽院の歌である。公卿から武家の世へ、また鎌倉でも源氏から北条氏へと力が移りつゝある激動の時代、遂には爆発する(承久の乱)が、マグマでエネルギーが蓄えられている頃の歌に読める。
後鳥羽院33歳の時の歌で、承久の乱の9年前の作である。七言絶句としました。
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<漢詩原文および読み下し文> [上平声九佳・四支韻]
考慮世上的苦悩 世上(セジョウ)を考慮コウリョ)する苦悩
載愛載恨対人懐,時には愛(イト)おしく、時には恨(ウラ)めしく、人に対する懐い、
一何没趣世上姿。 一(イツ)に何ぞ没趣(ツマラ)ぬ世上の姿よ。
煢煢对此抱希望, 煢煢(ケイケイ)として此(コレ)に对するに希望を抱き,
苦悩紛紛多所思。 苦悩紛紛(フンプン)として思う所多し。
註]
載~載~:~することもあれば、~することもある。
没趣:つまらない。 此:前に述べたこと、ここでは、つまらぬ世上姿。
煢煢:孤独で頼るところのないさま。 紛紛:ごたごたと忙しないさま。
<現代語訳>
世の中を思うが故の苦悩
時には人を愛おしく思い、また時には恨めしく思うことがあり、
何とつまらぬこの世の中の状況か。
孤独の中でこの世の中の状況を良くしたいとの思いがある故に、
苦悩が多く、あれこれ思い悩むのである。
<簡体字およびピンイン>
考虑世上的苦恼 Kǎolǜ shìshang de kǔnǎo
载爱载恨对人怀,Zài ài zài hèn duì rén huái,
一何没趣世上姿。 yī hé méiqù shìshàng zī.
茕茕对此抱希望,Qióng qióng duì cǐ bào xīwàng,
苦恼纷纷多所思。kǔnǎo fēnfēn duō suǒ sī.
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後鳥羽帝(1180~1239、在位1183~1198)は、高倉帝の第4皇子、異母兄の第一皇子は先帝・安徳帝で、後白河帝の孫に当たる。源平の争いが始まった年、治承4年の誕生である。平氏に擁された安徳帝が都を逃れている間、4歳の時に践祚された。
安徳帝が壇ノ浦で入水・薨御するまでの2年間、2帝が並立していた。皇位の象徴 “三種の神器”がない状態での即位である。安徳帝の入水後も“神器”の一つ“剣”は失われたままであった。癒しようのない傷として、後々胸の奥に沈殿していたであろうことは想像に難くない。
1198年土御門帝に譲位して以後、土御門、順徳、仲恭と、3代23年間、上皇として院政を敷いた。上皇になると、院政機構の改革を行うなど積極的政策を採り、また公事の再興、故実の整備に取り組み、廷臣の統制にも意を注いだ。
一方、頼朝没後、力が北条氏へと移りつゝあった鎌倉から、子のいない実朝の後継に上皇の皇子を迎える「宮将軍」の構想が提示され、朝幕関係は安定するかに見えた。しかし実朝が暗殺された(1219)ことから、上皇は「宮将軍」を拒絶し、良好な関係に終止符が打たれた。
上皇は、討幕の意を固め、時の執権・北条義時追討の院宣を出し、畿内、近国の兵を招集して幕府に挑んだ、「承久の乱」(1221)である。しかし多勢に無勢、準備不足もあって、ほぼ一カ月の戦闘で大敗を喫した。上皇は、隠岐島に配流された。
歌人としては、土御門帝への譲位(1198)の頃以後、和歌に興味をもち始めたようである。当時、世上「新儀非拠達磨歌」(新しい、前例のない、わけのわからない歌)と半ば揶揄されていた定家(百-97番)の歌に、特に興味を持ったようである。
1199年以後、歌会や歌合を盛んに主催しており、中でも「正治初度百首和歌」(1200. 7)では、式子内親王、九条良経、俊成、慈円、寂蓮、定家、家隆等々、九条家歌壇の御子左家の歌人に詠進を求めている。
この百首歌を機に、上皇は俊成に師事し、定家の作風の影響を受け、歌作は急速に進歩していったようである。この頃新たな歌人を発掘して周囲に仕えさせ、これら新人は、後に新古今歌人として成長する院近臣一派の基盤となっていく。
同年(1200. 8)、飛鳥井雅経、院宮内卿、鴨長明、源具親など、近臣を中心とした新人を対象に「正治後度百首和歌」を主催している。両度の百首歌を経験して、和歌への想いを深くして、勅撰集の撰進を思い立ち、和歌所を再興した (1201)。
一方で、当代の主要歌人30人に百首歌を求めて二組に分け、歌合形式で判詞を加える、未曾有の大規模な歌合「千五百番歌合」を主宰した。新古今期の歌論の充実、新進歌人の成長など、文学史上大きな価値のある催しであったと評されている。
それらの企画を経て1201年11月、定家、有家、家隆、雅経、寂蓮、源通具の6人に勅撰集編集の命を下し、『新古今和歌集』の撰進が開始された。「千五百番歌合」がその主な資料となり、その中から90首が入集されていると。
隠岐への配流後も歌作は衰えることはなく、また多くの歌合を催している。都での華やかな新古今歌風に対し、隠岐では懐旧の念による切実な望郷の心情の歌が多いと。配流地での18年間のわびしい生活ののち、同地で崩御された。「顕徳院」の諡号が贈られたが、後に「後鳥羽院」の追号に変更された。
後鳥羽院は、文武に亘って多芸多才で、歌人としては当代一流で、『新古今和歌集』の撰には自ら深く関与した。家集に『後鳥羽院御集』『遠島御百集』、歌学書として『後鳥羽院御口伝』がある。日記「後鳥羽院宸記」がある。
世を思ふ故(ゆえ)に もの思ふ身は
後鳥羽院(『続後撰和歌集』雑・1199)
<訳> あるときは人をいとしく思い、またあるときは恨めしく思う。つまらないこの世を思うがゆえに、あれこれと思い悩むことが多いわが身は。(板野博行)
ooooooooooooo
人が愛おしく思われることもあれば、また恨めしく思われることもある。この世の中は何ともつまらなく、儘ならない状態にある。しかし良い方向に仕向けたいとの思いがある故に、一人で思い悩むのである。
トップの座にあって、孤独の感に苛まれる、苦悩の後鳥羽院の歌である。公卿から武家の世へ、また鎌倉でも源氏から北条氏へと力が移りつゝある激動の時代、遂には爆発する(承久の乱)が、マグマでエネルギーが蓄えられている頃の歌に読める。
後鳥羽院33歳の時の歌で、承久の乱の9年前の作である。七言絶句としました。
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<漢詩原文および読み下し文> [上平声九佳・四支韻]
考慮世上的苦悩 世上(セジョウ)を考慮コウリョ)する苦悩
載愛載恨対人懐,時には愛(イト)おしく、時には恨(ウラ)めしく、人に対する懐い、
一何没趣世上姿。 一(イツ)に何ぞ没趣(ツマラ)ぬ世上の姿よ。
煢煢对此抱希望, 煢煢(ケイケイ)として此(コレ)に对するに希望を抱き,
苦悩紛紛多所思。 苦悩紛紛(フンプン)として思う所多し。
註]
載~載~:~することもあれば、~することもある。
没趣:つまらない。 此:前に述べたこと、ここでは、つまらぬ世上姿。
煢煢:孤独で頼るところのないさま。 紛紛:ごたごたと忙しないさま。
<現代語訳>
世の中を思うが故の苦悩
時には人を愛おしく思い、また時には恨めしく思うことがあり、
何とつまらぬこの世の中の状況か。
孤独の中でこの世の中の状況を良くしたいとの思いがある故に、
苦悩が多く、あれこれ思い悩むのである。
<簡体字およびピンイン>
考虑世上的苦恼 Kǎolǜ shìshang de kǔnǎo
载爱载恨对人怀,Zài ài zài hèn duì rén huái,
一何没趣世上姿。 yī hé méiqù shìshàng zī.
茕茕对此抱希望,Qióng qióng duì cǐ bào xīwàng,
苦恼纷纷多所思。kǔnǎo fēnfēn duō suǒ sī.
xxxxxxxxxxxxx
後鳥羽帝(1180~1239、在位1183~1198)は、高倉帝の第4皇子、異母兄の第一皇子は先帝・安徳帝で、後白河帝の孫に当たる。源平の争いが始まった年、治承4年の誕生である。平氏に擁された安徳帝が都を逃れている間、4歳の時に践祚された。
安徳帝が壇ノ浦で入水・薨御するまでの2年間、2帝が並立していた。皇位の象徴 “三種の神器”がない状態での即位である。安徳帝の入水後も“神器”の一つ“剣”は失われたままであった。癒しようのない傷として、後々胸の奥に沈殿していたであろうことは想像に難くない。
1198年土御門帝に譲位して以後、土御門、順徳、仲恭と、3代23年間、上皇として院政を敷いた。上皇になると、院政機構の改革を行うなど積極的政策を採り、また公事の再興、故実の整備に取り組み、廷臣の統制にも意を注いだ。
一方、頼朝没後、力が北条氏へと移りつゝあった鎌倉から、子のいない実朝の後継に上皇の皇子を迎える「宮将軍」の構想が提示され、朝幕関係は安定するかに見えた。しかし実朝が暗殺された(1219)ことから、上皇は「宮将軍」を拒絶し、良好な関係に終止符が打たれた。
上皇は、討幕の意を固め、時の執権・北条義時追討の院宣を出し、畿内、近国の兵を招集して幕府に挑んだ、「承久の乱」(1221)である。しかし多勢に無勢、準備不足もあって、ほぼ一カ月の戦闘で大敗を喫した。上皇は、隠岐島に配流された。
歌人としては、土御門帝への譲位(1198)の頃以後、和歌に興味をもち始めたようである。当時、世上「新儀非拠達磨歌」(新しい、前例のない、わけのわからない歌)と半ば揶揄されていた定家(百-97番)の歌に、特に興味を持ったようである。
1199年以後、歌会や歌合を盛んに主催しており、中でも「正治初度百首和歌」(1200. 7)では、式子内親王、九条良経、俊成、慈円、寂蓮、定家、家隆等々、九条家歌壇の御子左家の歌人に詠進を求めている。
この百首歌を機に、上皇は俊成に師事し、定家の作風の影響を受け、歌作は急速に進歩していったようである。この頃新たな歌人を発掘して周囲に仕えさせ、これら新人は、後に新古今歌人として成長する院近臣一派の基盤となっていく。
同年(1200. 8)、飛鳥井雅経、院宮内卿、鴨長明、源具親など、近臣を中心とした新人を対象に「正治後度百首和歌」を主催している。両度の百首歌を経験して、和歌への想いを深くして、勅撰集の撰進を思い立ち、和歌所を再興した (1201)。
一方で、当代の主要歌人30人に百首歌を求めて二組に分け、歌合形式で判詞を加える、未曾有の大規模な歌合「千五百番歌合」を主宰した。新古今期の歌論の充実、新進歌人の成長など、文学史上大きな価値のある催しであったと評されている。
それらの企画を経て1201年11月、定家、有家、家隆、雅経、寂蓮、源通具の6人に勅撰集編集の命を下し、『新古今和歌集』の撰進が開始された。「千五百番歌合」がその主な資料となり、その中から90首が入集されていると。
隠岐への配流後も歌作は衰えることはなく、また多くの歌合を催している。都での華やかな新古今歌風に対し、隠岐では懐旧の念による切実な望郷の心情の歌が多いと。配流地での18年間のわびしい生活ののち、同地で崩御された。「顕徳院」の諡号が贈られたが、後に「後鳥羽院」の追号に変更された。
後鳥羽院は、文武に亘って多芸多才で、歌人としては当代一流で、『新古今和歌集』の撰には自ら深く関与した。家集に『後鳥羽院御集』『遠島御百集』、歌学書として『後鳥羽院御口伝』がある。日記「後鳥羽院宸記」がある。