愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題335 飛蓬-188  夏3首-1 鎌倉右大臣 源実朝

2023-05-31 10:12:48 | 漢詩を読む

zzzzzzzzzzzzzzz 

金槐集中、四季の部で夏の歌は最も少ない(38首)が、その中で最も多いのがホトトギスを詠んだ歌のようである(22首)。ホトトギスは、新緑の深まる初夏に日本に渡来し、夏の訪れを告げる鳥、“時鳥”の字があてられるが、その他多くの当て字または呼び名がある。“杜鵑”は、中国故事由来の呼称のようである。

 

平安時代には、その初音を朝一番に聞くのを楽しみにして、夜明けまで待機することが流行っていたようである。またその年に初めて聞く鳴き声を“忍(シノ)び音(ネ)”といい、 “忍び音”を誰よりも早く聞こうと競っていたと。実朝の歌は、その京の言い伝えを念頭においた歌と言えようか。

 

oooooooooo 

  [詞書] 郭公を待つ 

郭公(ホトトギス) 必ず待つと なけれども 

  夜な夜な目をも さましつるかな  (金槐集 夏・123)

 (大意) ホトトギスが来て鳴くのを是非に待つということではないのだが、

  もしや来るのではないかと 夜な夜な目をさますのだ。 

  註] 〇必ずまつ:ぜひ待つというわけではないが、もしやと思って。 

xxxxxxxxxxx 

<漢詩> 

 等忍音     忍び音を等(マ)つ          [上平声十灰 ]

杜鵑鳴覚夏,  杜鵑(トケン)鳴いて 夏来たるを覚(オボ)ゆ, 

不必須等来.  必須(カナラズ)しも杜鵑の来(ク)るを等(マツ)にはあらず。 

或許会来叫,  或許(モシ)や来(キ)て叫(ナ)くことが会(アル)やもしれず, 

每夜醒頻催.  每夜(ヨゴト)醒(メザメル)こと頻(シキリ)に催す。 

 註] 〇忍音:その年、初めて聞くホトトギスの鳴き声; 〇或許:ひょっと

  したら……かもしれない。  

<現代語訳> 

 忍び音を待つ 

ホトトギスの鳴き声を聞くと夏の訪れである、

是非にもホトトギスを待っているというわけではないが。

もしや鳴き声が聞けるかもしれないと、

夜な夜な しきりに目を醒ますのである。

<簡体字およびピンイン> 

  等忍音    Děng rěn yīn  

杜鹃鸣觉夏,   Dùjuān míng jué xià,    

不必须等来.   bù bì xū děng lái. 

或许会来叫,   Huòxǔ huì lái jiào,

每夜醒频催.   měi yè xǐng pín cuī.

ooooooooo 

 

建暦元年(1211、実朝20歳)は、当時、鎌倉3大寺の一つ永福寺(ヨウフクジ)を尋ねている。前日の朝、ホトトギスの初声を聞いたという知らせを聞いて、自らその声を聞きたいものと訪ねたのであろう。

 

歌詠み仲間数人が連れ立って訪ねたようである。恐らくは、“初音”を聞いたのちに、ホトトギスを歌題にして、歌会を開こうという意図があったのではないでしょうか。しかし鳴き声を聞くことは叶わず、空しく帰途についたとのことである。

 

なお、実朝の掲歌は、次の歌を参考に詠まれたとされている。

 

桐の葉も ふみわけがたく なりにけり 

  必ず人を まつとなけれど (式子内親王 新古今集 巻五・秋歌下・534) 

 (大意) 桐の葉も落ちては積もり、人の来訪がないので踏み分けにくいほどに

    なってしまった。必ずしも、人を待っているというわけではないのだ

    けれど。

ふた声と きくとはなしに ほととぎす 

  夜ふかく目をも さましつるかな  (伊勢 後撰集 巻四・172)  

  (大意) 耳を澄まして、はっきりと聞いたということではないが、夜中に目を

    覚まして ホトトギスの鳴き声を聞いたよ。

 

zzzzzzzzzzzzzzz

待ちに待ったホトトギスの“忍び音”を聞くことが叶いました。但し、月光の下、深山の奥から出たばかりで、身近な里での鳴き声ではない。久方ぶりに旧友に逢えた際のような喜びの響きが感じられる歌ではある。 

 

oooooooooo 

あしびきの 山時鳥 み山いでて 

  夜ぶかき月の かげに鳴くなり (『金塊集』夏・127、『風雅集』夏・332)

 (大意) 山ホトトギスが 深山の奥から出て来て 深夜に月光のもとで鳴く

  ようになったよ。  

  註] 〇あしびきの:山の枕詞、特に意味はない; 〇月の影に鳴く:月光の

    下に鳴く。

xxxxxxxxxxx

<漢詩> 

  杜鵑鳴月影間  杜鵑 月影の間に鳴く [下平声一先-上平声十五刪韻]

夜深山杜鵑, 夜深(フカ)く 山杜鵑(ヤマホトトギス), 

逢時出深山。 逢時(トキヲエ)て 深山(ミヤマ)を出ず。 

月亮何明浄, 月亮(ゲツリョウ) 何ぞ明浄(メイジョウ)たる, 

嚶嚶月影間。 嚶嚶(オウオウ)として 月影(ツキカゲ)の間。 

 註] 〇杜鵑:ホトトギス; 〇逢時:時を得て; 〇明浄:明るくてきれい

   である; 〇嚶嚶:鳥の鳴き交わす声、友を求めて鳴く鳥の声、

   ここではホトトギス; 〇月影:月明かり。

<現代語訳> 

 月影で鳴くホトトギス 

深夜 山ホトトギスは、

時よろしく、深山を出たようだ。

月の何と明るく美しいことか、

月光輝く中で、友を求めて鳴いているか。

<簡体字およびピンイン> 

  鹃鸣夜深月影  Dùjuān míng yè shēn yuèyǐng jiān

夜深山杜 Còuhé shān dùjuān,  

出深山。 féng shí chū shēn shān.

月亮何 Yuèliàng hé míngjìng, 

嘤嘤月影間。 yīng yīng yuèyǐng jiān

oooooooooo

 

ホトトギスの漢字表記や異名は多く、実朝の歌でも一様ではない。因みに『金槐集』中、ホトトギスを詠う歌22首あり、郭公:10首、時鳥:8首、ほととぎす:4首と表記が異なる。いずれにせよ、“夏”部で、38首中22首と多い。

 

本来、“郭公”は“カッコウ鳥”の漢字表記である。平安時代の頃から和歌などでホトトギスを“郭公”とした例があるようである。両鳥は、似ていることから誤って記されたり読まれたりしたのではないかと考えられている。

 

鳥類学では、両鳥ともにカッコウ目・カッコウ科に属し、“種”名が、それぞれ、“ホトトギス”および“カッコウ”という事である。なお“ホトトギス”の鳴き声は、けたたましく「キョッキョッ キョキョキョキョ!」と、時に“東京特許許可局”と擬せられる。“カッコウ”の鳴き声は、もっとオトナシイようであるが、筆者は聞いたことがない。

 

実朝の掲歌は、次の歌を参考にした“本歌取り”の歌とされている。

 

五月雨に 物思いをれば 郭公 

  夜深く鳴きて いづち行くらむ (紀友則 『古今集』夏・153) 

 (大意) 五月雨に物思いに耽っていると、夜深くホトトギスが鳴いて飛び去っ

    てゆくのが聞こえる、何処へゆくのであろうか。

わが心 いかにせよとて 郭公 

  雲間の月の 影に鳴くらむ (藤原俊成 『新古今集』夏・110) 

 (大意) 私が寂しい思いに浸っているのに どうせよというので、ホトトギ

   スは、雲間からさす月光のもと、あのように哀しく鳴いているのだろう。

 

zzzzzzzzzzzzzzz

橘の花が盛りを過ぎ、そろそろ散り始めるころ、芳ばしい香りが漂っている。五月雨がしとしとと降っているが、なお香は衰えない。ちょうど時節は今ごろの歌でしょうか。近頃、街中では、八朔柑でしょうか、心地よい香りが漂っています。

 

作者・実朝は、ホトトギスの鳴き声に飽きず聞き入っている。勢いのある鳴き声に元気を貰っているのでしょう。

 

oooooooooo  

   [歌題] 郭公  

郭公 きけどもあかず 立花(タチバナ)の

    花ちる里の さみだれのころ (『金塊集』 夏・141、新後撰 209)  

 (大意) ほととぎすの声はいくら聞いても飽きない。橘の花が散る、五月雨の

    降る頃。

  註] 〇きけどもあかず:いくら聞いても聞き飽きがしない。

xxxxxxxxxxx 

<漢詩> 

  聴杜鵑      杜鵑を聴く       [上平声八斉韻‐四支韻] 

不断杜鵑啼, 杜鵑(ホトトギス) 啼(ナ)くこと断(タエ)ず,

貪聴不自持。 貪聴(ムサボリキク)を自持(ジセイ)することなし。

故郷橘花謝, 故郷 橘(タチバナ)の花 謝(チ)る,

正是梅雨期。 正(マサ)に是(コ)れ 梅雨(サミダレ)の期(コロ)。

  註] 〇自持:自制する。

<現代語訳> 

 杜鵑を聴く

ホトトギスは鳴くことを止めず、鳴いており、

聞き厭きることなく 貪るように聞いている。

故郷でのこと 橘の花が散り始めた、

五月雨の頃である。

<簡体字およびピンイン> 

  杜鹃     Dùjuān 

不断杜鹃啼, Bù duàn dùjuān ,

贪听不自持。 tān tīng bù zìchí

故乡橘花谢, Gùxiāng jú huā xiè,

正是梅雨期。 zhèng shì méiyǔ .  

oooooooooo 

 

明治の俳人・正岡子規は、実朝の歌を大いに賞賛し、「歌人・実朝の誕生」に一役かっていたことは先に述べました(閑話休題330:『歌人・実朝の誕生』)。正岡子規の号“子規”は、“ホトトギス”に由来しており、その因縁について 一言 追記しておきます。

 

正岡子規の本名は“常規”です。“常規”は、1895年(明治28年)、さる雑誌社の従軍記者として中国・遼東半島に渡りました。間もなく体調不良で帰国の途に就きますが、帰国の船中で喀血して重体に陥り、神戸で入院する。

 

一方、ホトトギスは“赤い口”を露わにして鳴くことから、「鳴いて血を吐く」と言われている。そこで喀血した自分とホトトギスを重ね、ホトトギスの漢字表記のひとつの「子規」を自分の俳号とした ということである。なおその折、ホトトギスにちなむ句を、一晩で数十句も作ったと言う。

 

次の歌は、実朝の掲歌の本歌と目されている。

 

橘の 花散る里の ほととぎす

    片恋しつつ 鳴く日しぞ多き   (大伴旅人 『万葉集』巻八 1473) 

 (大意) 橘の花の散る里でホトトギスは 花に片思いをしつゝ鳴く日が多い

    ことだ。  

五月山 卯の花月夜 ほととぎす

    聞けども飽かず また鳴かぬかも(作者不詳 『万葉集』第10巻 1953)

  (大意)  今、山は五月、将に卯の花がこうこうと照らし出される月の夜、

    ホトトギスの鳴き声が届き、いくら聞いていても飽きない鳴き声である。

    まだまだ鳴いてくれ。

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閑話休題334 飛蓬-187  宮柱 ふとしき立てて 鎌倉右大臣 源実朝

2023-05-29 10:05:54 | 漢詩を読む

焼失後再建なった、荘厳な佇まいの鶴岡八幡宮を言祝ぎ、都・鎌倉が万代に栄えんとの願いを込めて詠っています。歌の作年は不明であるが、将軍着任中の作で、為政者としての想いが込められた歌と言えよう。 

 

実朝は、“歌や蹴鞠を好み、武芸は廃れたようだ”、“凡庸な人だ”と評されていたようであるが、最近は見直されつゝある。歌には、為政者としての“思い”が込められているように読めた。この“思い”を汲んで、漢詩では、「余が統(ス)べる……」と踏み込んだ内容とした。

 

oooooooooo 

  [詞書] 慶賀の歌の中に

宮柱 ふとしき立てて 万代に 

  今ぞさかえむ 鎌倉のさと 

             (金槐集・貞享本 雑・676; 続古今集 賀・1902)

 (大意) 鶴岡の宮に厳めしく立派な宮柱を立てて神をお守りし 今から長い年

    月にわたってこの鎌倉の里は栄え続けてゆくことだろう。

   註] ○ふとしき:厳めしく堂々としているさま、“宮柱 ふとしき立てて”:

     宮柱を厳然と立てて宮殿を営むこと。

xxxxxxxxxxx 

<漢詩> 

  賀神殿      神殿を賀す   [去声十七霰韻]

峨峨搭立柱, 峨峨(ガガ)たり 立柱の搭(クミタテ),

肅肅聳神殿。 肅肅(シュクシュク)と聳(ソビエ)る神殿。

万代必昌盛, 万代 必(カナラ)ずや昌盛(ショウセイ)せん,

鎌倉餘統甸。 鎌倉 餘(ヨ)の統(ス)べる甸(テン)。  

 註] 〇峨峨:高く聳えたつさま; 〇搭:組み立てる; 〇肅肅:厳粛なさ

    ま; 〇昌盛:大いに栄える; 〇甸:天子の都城から五百里までの区域。

<現代語訳> 

 神殿を慶賀する 

高々と組み立てられた宮柱、

厳粛な佇まいで聳える神殿。

これから百世に亘って栄えることでしょう、

私の統べるこの鎌倉の都。

<簡体字およびピンイン> 

 贺神殿      Hè shéndiàn

峨峨搭立柱,  É é dā lìzhù, 

肃肃耸神殿。 sù sù sǒng shéndiàn

万代必昌盛, Wàndài bì chāngshèng, 

镰仓余统甸。 liáncāng yú tǒng diàn

oooooooooo

 

鶴岡八満宮は、前九年の役(1051~1062)での戦勝祈願のため、源義家(1039?~1106)により鎌倉・由比ガ浜辺に建設されたが、1180年、平家打倒の兵を挙げた源頼朝が現在地に移築したものである。以後源氏の氏神として崇拝されて来た。

 

歌は、神殿の築造中の状況を詠っているように読める。八幡宮は、火災に遭い、再建されているが、それは1191年、実朝誕生の前年の出来事であり、築造の状況を目撃したわけではない。

 

1208年、神宮寺が創建されており、実朝は、社寺建築の実際を目にしているはずである。その経験から、力強く、厳粛な神殿の再建のさまが想像されて、この歌に繋がったものと思われる。

 

先に、最近の研究から、「“実朝像”が見直されつつある」と述べたが、此処で具体的に論ずるには未熟な状況であるように思える。ただ言えることは、過去の論拠は、そのほとんどが、歴史書・『吾妻鑑』に拠っているということである。

 

容易に想像できることであるが、いつの時代、何れの国家・機関であっても、自らの“歴史書”が必ずしも真実を伝えるものではない という現実がある。時の権力に阿った記述であることが多いからである。

 

 “実朝像”についても、諸資料を参照しつゝ、『吾妻鑑』の“読み直し”が進められていて、興味ある知見が蓄積されつゝあり、今日、成果を楽しみに見守っている情況であると言える。 

 

さて、掲歌は、次の歌を参考にしたものとされています。

 

ふだらくの 南の岸に 堂立てて 

  今ぞ栄えむ 北の藤波  (新古今集 巻十九・神祇歌 1854) 

 (大意) 観音がすむという補陀落(フダラク)山の南に堂を建てて 今こそ栄える

  であろう北の藤波(フヂナミ)。  

  註] 〇ふだらく:補陀落山、インド南端の海岸にあり、観音が住むと言う八

  角形の山。山頂には池があるという; 〇北の藤波:藤原氏北家の象徴。 

 ※ 詞書に「興福寺の南円堂造り始め侍りける時、春日の榎本の明神、よみ給 

  へりける」とある。藤原氏の氏寺である興福寺を “補陀落山”に見立て、 

  また南門前にある“猿沢池”を“補陀落山頂の池”に見立てて、藤原氏の繁栄

  を願い詠ったもののようである。なお南円堂は八角形の造りであるいう。 

  “榎本の明神”とは、春日の地主神。歌の具体的な“作者”名は、不明である。  

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閑話休題333 飛蓬-186  春3首-1 鎌倉右大臣 源実朝 

2023-05-22 10:26:37 | 漢詩を読む

春の訪れとともに草木は芽吹き、野山は新緑の彩に包まれます。遠くの山影から“ケキョ”とひと声、恥じらい気味に幼い鶯の声が聞こえる。この鳴き声を聞くと、春の訪れが実感でき、自ずから生気の蘇るのが感じられます。春の歌三首、それぞれ、鶯、梅および桜を愛でる歌です。

 

oooooooooo 

   [詞書] 春の初めの歌 

うちなびき 春さりくれば ひさぎ生ふる 

   かた山かげに 鶯ぞなく  (金塊集 春・6; 玉葉集 ) 

  (大意) 春が来ると ひさぎの生える片山の山影で鶯が鳴きだす。

  註] 〇うちなびき:“春”にかかる枕詞; 〇さりくれば:やってくると;

   〇ひさぎ:楸、山地に自生する落葉喬木、アカメガシワとも呼ぶ; 

   〇片山陰:片側だけが山になっている山かげ、“片山”は孤山。 

xxxxxxxxxxx 

<漢詩> 

  孟春             [下平声八庚韻] 

春訪嫩芽萌, 春 訪(オトズレ)て 嫩芽(ワカメ)萌(モ)え, 

随風草木傾。 風に随いて 草木傾(ナビ)く。 

孤山楸樹茂, 孤山 楸樹(シュウジュ)茂り, 

山後遠鶯鳴。 山後(ヤマカゲ)に遠鶯(エンオウ)鳴く。 

 註] 〇嫩芽:若芽; 〇傾:靡くこと; 〇楸樹:楸(ヒサゴ)の木; 〇孟春:

  初春。  

<現代語訳> 

  初春 

春が来ると草木が一斉に芽吹き、

風につれて草木が靡く。

片山には ひさごが繁茂していて、

その山陰に鶯が来て鳴きだす。

<簡体字およびピンイン> 

  孟春    Mèng chūn 

春访嫩芽萌, Chūn fǎng nèn yá méng

随风草木倾。 suí fēng cǎo mù qīng

孤山楸树茂, Gū shān qiū shù mào, 

山后远莺鸣。 shān hòu yuǎn yīng míng

oooooooooo 

 

実朝の掲歌は、次の歌の本歌取りの歌とされる。

 

うちなびき 春さりくれば 笹のうれに 

   尾羽うちふれて 鶯なくも  (よみ人知らず 万葉集 巻十・1830) 

 (大意) 春の訪れとともに 一斉に笹のこずえに尾羽を触れながら 鶯が飛び

  来つゝ 鳴いている。  

ひさぎおふる 片山かげに しのびつつ 

   吹きけるものを 秋の初風  (俊恵 新古今集 巻三・274) 

 (大意) 楸が繁茂する片山の山影で 人目を忍ぶように吹いているのは秋風で

  ある。

 

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実朝は、軒端の梅を春の初花に見立てています。季節の変わりはそれぞれ季節の花に託して表現されますが、古い歌で、真実の花ではなく、“浪しぶき”を“花”に譬えて詠われている例もあります。

 

oooooooooooooo 

   [詞書] 梅花風ににほうという事を人々に詠ませ侍りし次(ツイデ)に

この寝(ネ)ぬる 朝明(アサケ)の風に かをるなり  

  軒端の梅の 春の初花 

    (金槐集 春・16; 新勅撰集 春上・31)  

 (大意) 目覚めると この明け方の風にのって 軒端の梅の初花の香が薫って

  くることだ。  

xxxxxxxxxxxxxxx 

<漢詩> 

 初花暗香     初花の暗香    [上声四紙韻]

黎明睡醒尙慵起, 黎明 睡醒(メザメ)て 尙 起くるに慵(モノウ)くも,

細細微風何快矣。 細細たる微風 何ぞ快(ココロヨ)きこと矣(カ)。

送給芳香春色穩, 芳香を送給(オクッ)て 春色穩(オダヤカ)にして,

房前梅樹初花視。 房前の梅樹に 初花を視る。

  註] 〇黎明:明け方; 〇睡醒:目覚める; 〇慵:ものうい; 〇细细:

  かすかに; 〇矣:(感嘆の)語気をあらわす。  

<現代語訳> 

 初花の微かな香り 

明け方、目覚めても起き上がるにはまだものういが、

そよそよと亘るそよ風の何と快いことか。

風に乗って芳ばしい香りが届き 穏やかな春の気配、

軒端の梅の木の花が咲き始めたのだ。

<簡体字およびピンイン> 

 初花暗香          Chū huā àn xiāng

黎明睡醒尙慵起, Límíng shuì xǐng shàng yōng , 

细细微风何快矣。 xì xì wéi fēng hé kuài . 

送给芳香春色稳, Sòng gěi fāngxiāng chūnsè wěn, 

房前梅树初花视。  fáng qián méi shù chū huā shì. 

oooooooooooooo 

 

実朝の掲歌は、次の歌の本歌取りの本歌とされています。

 

このねぬる 夜のまに秋は きにけらし 

  あさけの風の 昨日にも似ぬ (藤原季通朝臣 新古今集 巻四・287)   

 (大意) 寝ている間に秋は来たようだ、明け方の風が昨日とは違っている。

秋立ちて いく日もあらねば この寝ぬる 

  朝明の風は 袂さむしも (安貴王 万葉集 巻八・155) 

 (大意) 秋になって幾日も経っていないのにこうして寝ている朝明けの風は 

  袂に寒く感じられることだ。  

谷風に とくる氷の ひまごとに 

  うち出づる浪や 春の初花 (源当純 古今集 巻一・12) 

 (大意) 谷風に吹かれて溶けかけた氷がぶつかりあい、その隙間ごとにあが 

  る水しぶきこそ 春の初花であるよ。  

 

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「花を落とすの雨は是(コ)れ花を催すの雨」(頼鴨外)と詠われています。しかし花盛りの頃、降る春雨は、恨めしいものでもある。期待して、遥か桜の名所・葛城の高間山を眺めやると 春雨に煙っている と。

 

oooooooooooooo 

  詞書] 遠山桜  

かづらきや 高間の桜 ながむれば  

   夕ゐる雲に 春雨ぞ降る (金槐集 春・46、新後撰集 110)  

  (大意) 夕方、葛城の高間山の桜を眺めると、居座っている雲に春雨が降っ

   ている。

  註] ○かづらきや:詠歎的な表現; ○かづらきや高間:桜の名所、葛城 

   の高間山。「かづらき」は奈良県と大阪府の境をなす金剛葛城連山を指

   し、高間山はその主峰、金剛山の古名; ○夕ゐる雲:夕方、山にとど

   まっている雲。万葉語で、雲は夜のあいだ山に居座り、朝になるとまた 

   山を離れてゆく、と見られていた。 

  ※ 古く中国では、雲は「“岫(シュウ、山の洞穴)”から出る」と考えられてい 

   たようである(陶淵明《帰去来兮辞》)。  

xxxxxxxxxxxxxxx 

<漢詩>  

   遠山桜      遠山の桜  [上平声十五刪-上平声十二文通韻]

藹藹葛城高間山, 藹藹(アイアイ)たり葛城(カツラギ) 高間(タカマ)の山, 

聞桜花已好風熏。 聞くは 桜花 已(スデに)好風(コウフウ)熏(カオ)ると。 

欲看好景憑欄眺, 好景を看(ミン)と欲して 欄に憑(ヨ)りて眺(ナガ)むるに, 

春雨下来夕住雲。 春雨 来(モ)たらす 夕住(ユウイ)る雲。 

 註] 〇藹藹:木々の茂るさま; 〇夕住雲:“山に居座っている雲“という意

  味の造語。  

<現代語訳> 

  遠山の桜 

緑の木々がよく茂る葛城の高間山、

すでに桜の花が盛りで よい香りを漂わせていると聞く。

その素晴らしい光景を見ようと、欄干に凭れて遠く眺めてみると、

夜間には山に居座るとされる雲が春雨を降らせている。

<簡体字およびピンイン> 

   远山桜           Yuǎn shān yīng

蔼蔼葛城高间山, Ǎi ǎi géchéng gāojiān shān

闻樱花已好风熏。 wén yīng huā yǐ hǎo fēng xūn.  

欲看好景凭栏眺, Yù kàn hǎo jǐng píng lán tiào,  

春雨下来夕住云。 Chūn yǔ xià lái xī zhù yún

oooooooooooooo

 

実朝の掲歌は、次の歌の本歌取りとされています。

 

かづらきや 高間の山の 桜花  

  雲ゐのよそに 見てや過ぎなん (藤原顕輔 千載集 春・56)  

 (大意) 葛城の高間の山 いまや桜の花盛りだ、雲の彼方に眺めるばかりで通

  り過ぎてよいものか。 

かづらきや 高間の桜 さきにけり

  立田のおくに かかる白雲 (寂蓮 新後撰集 巻一・春87)  

 (大意) 葛城の高間の山の桜が咲いたよ。立田の奥には白雲がかかっている。

 

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閑話休題332 飛蓬-185  古寺の 朽木の梅も  鎌倉右大臣 源実朝

2023-05-15 09:40:22 | 漢詩を読む

春雨がしとしとと降る中、勝長寿院(ショウチョウジュイン)を訪れている。古い梅の枝葉もしっとりと濡れて、花の蕾が膨らんで、今にも開こうとしている。小雨も厭わず、春の息吹を感じつゝ、境内を散策している様子です。

 

oooooooooooooo    

  詞書] 雨そぼ降れる朝(アシタ) 勝長寿院の梅、所どころ咲きたるを見て、花

   にむすびつけし歌   

古寺の 朽木の梅も 春雨に 

  そぼちて花ぞ ほころびにける (源実朝『金槐和歌集』 春・27)  

  (大意) 古寺の朽ちた梅の木が 春の雨にしっとりと濡れて 花のつぼみが綻

  びだしている。 

  註] 〇そぼちて:しっとりと濡れて。

xxxxxxxxxxxxxx 

<漢詩> 

   春雨促茁梅花    春雨 梅花の茁(ホコロビ)を促す 

古寺院中梅朽柯,  古寺の院中 梅の朽柯(クチギ)あり, 

御寒独立带微霞。 寒を御(シノ)いで 独り立ち 微かに靄(カスミ)を帯びる。 

淅淅春雨湿枝葉, 淅淅(セキセキ)として春雨 枝葉を湿(ウルオ)し, 

稀稀南枝促茁花。 稀稀(キキ)として南枝に 花の茁(ホコロ)ぶを促す。 

 註] ○茁:草木が芽をだす; 〇柯:草木の枝や茎; 〇御:抵抗する、

  しのぐ; 〇淅淅:しとしとと小雨が降るさま; 〇稀稀:ぽつぽつと、 

  所どころ。 

<現代語訳> 

 春雨 梅花の開花を促す

古寺・勝長寿院の庭にある梅の古木、

寒に耐えて独りで立って、微かに春霞を帯びている。

しとしと降る春の小雨に、枝葉もしっとりと濡れて、

南枝に点点と花のつぼみが綻び始めたのが見える。

<簡体字およびピンイン> 

  春雨促茁梅花    Chūnyǔ cù zhuó méi huā 

古寺院中梅朽柯, Gǔ sì yuàn zhōng méi xiǔ ,   [下平声五歌-六麻通韻]

御寒独立带微霞。 yù hán dú lì dài wēi xiá.  

淅淅春雨湿枝叶, Xī xī chūn yǔ shī zhī yè, 

稀稀南枝促茁花。 xī xi nán zhī cù zhuó huā

oooooooooooooo 

 

勝長寿院は、鎌倉時代初期、1184年に頼朝が建てた寺院で大御堂(オオミドウ)とも、また幕府御所の南にあることから南御堂(ミナミミドウ)とも呼ばれていた。父・義朝の菩提を弔うために建てられた。

 

当時、鶴岡八幡宮、永福寺(ヨウフクジ)と共に、鎌倉の三大寺社の一つであったが、16世紀ころ廃寺となり、現在はその跡に石碑がある と。実朝は、よくここを訪れて、歌を詠んでいたようである。

 

歌人・源実朝の誕生 (26) 

 

“歌人・源実朝の誕生”を「§1章 実朝の天分・DNA、§2章 教育環境、特に和歌の師匠、§3章 後世での評価」として概観してきました。実朝の歌について、世の注目を惹くようになったのは、先ず賀茂真淵に遡り、実朝の万葉調の歌に感動されたことに始まり、また正岡子規がさらにそれを強調されたことによる。

 

本稿では、その経緯を中心に論を進めてきましたが、「実朝は、万葉歌人である」ということを意味するわけではない。事実、『金槐集』中、むしろ古今調、新古今調の歌も多く、それらが大半を占めているようである。言わば、実朝は、“all-round player”なのである。

 

本歌取りや模倣ではなく、素朴な実感に根差した発想と自由で大胆な用語や句法による、実朝独特の特徴的な歌が数多あり、それらが、当時の京都歌壇では見るを得ない新味をもたらし、それが後世人の注意をひくことに繋がったと言えよう。

 

師弟関係、あるいは歌仲間という関係で捉えることはできず、また直接的な交流もあり得ないながら、“非常に密な関係”にあり、触れずに通り過ごすことのできないのは、後鳥羽上皇と実朝の関係であろう。

 

後鳥羽上皇と実朝の関係を振り返ってみます。1203年9月7日、京都・朝廷は、千幡(実朝の幼名)を従五位下・征夷大将軍に任じ、10月8日、千幡は12歳で元服、後鳥羽上皇の命名により、“実朝”と称するようになった。

 

実朝は、1204年12月、後鳥羽上皇の寵臣・坊門信清の娘、また上皇の従妹でもある西八条禅尼を正室(御台所)に迎えている。斯様に一見関係は深そうに見えるが、これらは、政治的な一表現であり和歌とは直接に関係はない。 

 

唯、実朝は、後鳥羽上皇に対して非常な尊敬の念を抱いており、また和歌に関しても大きな影響を受けたことが伺い知れるようである。実朝の歌の大きな特徴に“本歌取り”の歌の多いことが通説となっている。

 

斎藤茂吉は、諸“歌集”や京都から寄せられた歌合(ウタアワセ)の記録等の“歌書”を対象にして、後鳥羽上皇の歌を本歌とした実朝の“本歌取り”の歌を調査している。それによると、実朝の歌57首が該当するとして挙げられている。

 

茂吉は、『……御製歌に実朝が接触し、当代の歌人にましました後鳥羽院の御作歌態度を実朝が尊仰し奉ったと看做(ミナ)すことは敢えて不条理ではなかろうとおもうのである』としている。(斎藤茂吉選集 『歌論 源実朝』岩波書店)

 

『後鳥羽院および実朝の歌の風格には類似があるとされる。第一:何らの屈託もなく他人の歌を模倣すること、第二:引き締まった長高の趣きを有し、一種の気品のようなものが漂っていること。』

 

『この両者の類似は、恐らくは両者の風格の類似であろうと思う。……風雅の道に遊ぶ数寄の精神の保持者である非職業歌人的性格が後鳥羽上皇にも実朝にもあり、そして、両者相似た境遇が自ずから王者的気品をもたらし、それが、両者の作歌態度や作風に類似あらしめた一番大きな理由であろうと思うのである』(小島吉雄校注 『金槐和歌集』日本古典文学大系 岩波書店)。

 

歌人・実朝の誕生」はここで締めとします。現今、“歌人”としてだけでなく、各方面から“源実朝”に関する研究成果が報告されています。以後、実朝の歌の漢詩化を進めつつ、折に触れ、現今の話題を取り上げていくつもりです。以後もご後援 よろしくお願いします。

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閑話休題331 飛蓬-184  み熊野の 浦の浜木綿 鎌倉右大臣 源実朝

2023-05-08 09:49:06 | 漢詩を読む

恋の歌、想いを訴えることができず、悩み多き時代の青年期実朝の歌である。今流に言えばplatonic loveでしょうか。将軍という特殊な環境に置かれながらも、はにかみ、悩んでいる姿が想像されて、微笑ましい限りである。

 

oooooooooo 

み熊野の 浦の浜木綿(ハマユフ) 言はずとも

   思ふ心の 数を知らなむ  (金槐集 恋・506)  

 (大意)熊野の浦の浜木綿(ハマユウ)ではないが、口に出して言わ(いう)ず

   とも、あなたを思う私の心の多いのを知ってもらいたいものである。

xxxxxxxxxxx 

<漢詩> 

  沈默語     沈默の語り    [下平声八庚韻]

文殊蘭寄語, 文殊の蘭(ラン) 語を寄すも, 

世人敢不声。 世人 敢(ア)えて声(カタ)らず。 

願為相察覚, 願わくは 為(タメ)に相(ア)い察覚(カンヅク)を, 

切切斯深情。 切切(セツセツ)たる斯(コ)の深き情(オモイ)。 

 註] 〇文殊蘭:熊野の浦の“浜木綿”の意と“(文殊菩薩の)蘭”の意を含めた;

  ○世人:世の中の人、ここでは作者自身; 〇察覚:察する、感づく、 

   気づく; 〇切切:心に強く迫るさま、切実である。   

 ※ 起句では、歌中の浜木綿(ハマユウ)の“ユウ”と“言う”の掛詞を念頭においたが、

  “文殊菩薩の蘭”として特に意味はない。歌の表現“意図”を示す一工夫であ

  る。  

<現代語訳> 

  言わず語り 

浜木綿(ハマユウ)は言うが、

私は敢えて声に出して言うことはしない。

願わくは語らずとも察して欲しいものである、

切切たるこの熱き想いを。

<簡体字およびピンイン> 

   沉默语       Chénmò yǔ

文殊兰寄语, Wénshū lán jì yǔ,  

世人敢不声。 shì rén gǎn bù shēng.   

愿为相察觉, Yuàn wéi xiāng chájué, 

切切斯深情。 qiè qiè sī shēnqíng

oooooooooo 

 

上掲の実朝の歌は、拾遺集に撰された万葉集中次の柿本人麻呂の歌の“本歌取り”の一例である。実朝は、特に、人麻呂の歌を愛していたようで、人麻呂の歌の“本歌取り”の歌は多いという(下記を参照)。

 

み熊野の 浦の浜木綿 百重(モモヘ)なす 

   心は思へど 直(タダ)に逢はぬかも 

       (柿本人麻呂 『万葉集』 巻四 496; 拾遺集 巻第十一 668 )

 (大意) 熊野の浦の浜木綿の葉が幾重にも重なっているように、幾重にもあ

  なたのことを思っていますが、直接に会えないことよ。 

 

歌人・源実朝の誕生 (25) 

 

賀茂真淵(閑話休題-329)、続いて正岡子規(同-330)の評価を得て、実朝は、当時、稀に見る万葉調の歌人であると注目される所となり、その歌風は、『万葉集』を味読することによって習得されたものであろうと、解されていた。

 

特に、定家から相伝私本の『万葉集』が贈られている(建歴三年十一月二十三日、実朝22歳)ことから、この『万葉集』に接したことが契機となり、実朝の歌風に飛躍が齎された、すなわち、万葉調の歌は、実朝晩年の作であろうと解釈されていた。

 

昭和初期、佐佐木信綱により定家所伝本『金槐集』が発見され、その奥書に定家の筆で「建暦三年十二月十八日」と記されていることが判明した。信綱は、実朝が書いたのを定家がそのまま写したものと推定している。

 

実朝の万葉調と目される歌のほとんどが定家所伝本に収められていることから、それらの歌は、定家から『万葉集』が贈られる以前、22歳までの作であることを意味し、これまでになされていた上述の推定に疑問符が付された。

 

“11月23日”から“12月18日”の短期間で、かほど多くの万葉調歌を作ることは考えにくいことから、信綱は、「定家から贈られる前に、すでに『万葉集』を所持し、味読していたのであろう」と推定している。この“推定”を否定することはできない。

 

斎藤茂吉は、別の可能性を提示している。一つは、和歌に関りのあった近臣で、京都歌壇との交渉があった人々が『万葉集』の一部の写しを持っていて、『万葉集』に関する知恵を実朝に与えたこともあろう。

 

今一つは、『万葉集』そのものではなく、勅撰集の歌を通じて『万葉集』の作者に接触し、それらの万葉歌人の歌の影響を受けた可能性である。事実、19歳(承元四年)の折、大江広元から三代集(古今、後撰、拾遺)、後に定家から『新古今集』、『近代秀歌』等の和歌文書が贈られている。

 

実朝は、“本歌取り”による作歌例が多い。そこで実朝の“本歌取り”の歌とそれら歌書中の“本歌”を逐一調べた。その結果、実朝は、『拾遺集』を愛読し、『拾遺集』中の柿本人麻呂、山部赤人や読み人知らずの万葉調の歌に心を惹かれ、特に人麻呂を尊敬していたようであることが示唆された。

 

すなわち、直接『万葉集』に頼ることなく、他の歌集に散見される万葉歌人の理解を通して万葉調の歌を詠まれていたことも十分に有り得ることが明らかにされたのである。併せて、これらの歌が、22歳までの作と言うことで、歌人・実朝の力量は並みでないことを改めて証明された としている。

 

『新古今集』や定家から贈られた『近代秀歌』中の「近代六歌仙」の歌を本歌とした歌も多く作られている。「……、定家から本歌取りのことを言われて、手本の歌もどしどし模倣しているのであるが、幽玄の余り難しいところは模倣していない」と、茂吉の印象である。

 

ただ、「……これは単に初学者だったという意味ではなく、全体として実朝の歌の傾向がそういう方向を取ろうと言うことを示しているのである」。定家の与えた手本に対して、これだけの作歌実行を直ちに行ったことは、「実朝がいかに歌が好きで、且つ勤勉であったかということを証するものだと思う」と論じている(斎藤茂吉選集・歌論『源実朝』(岩波書店,1982)に拠った)。

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