愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 243 飛蓬-143 次韻蘇軾「和孔密州五绝 東欄梨花」 称賛加藤请正的成就

2021-12-27 09:25:45 | 漢詩を読む
加藤虎之助清正(1562~1611)は、安土桃山時代の武将、豊臣秀吉・子飼いの大名である。幼名・夜叉丸、元服後、虎之助清正と改名した。“関ケ原の戦い後、”肥後一国の領主となり、領内の川普請、新田開発を進め、今日の肥後平野の基礎をつくった。

清正築城とされる壮大堅牢な熊本城本丸御殿には、「昭君の間」と呼ばれる最も格式の高い部屋がある。その壁面には、煌びやかな金箔をバックに中国古代伝説に登場する王昭君物語に纏わる場面の絵が描かれている(下記写真参照)。 
 
    熊本城・「昭君の間」の壁画 
       右端で琵琶を抱え、白馬に跨る王昭君
狩野派の絵師・言信(源四郎)の筆になる、鉱石を砕いてつくられた粒子状の絵具・岩絵具(イワエノグ)を用いた障壁画ということである。なお、「昭君の間」は、豊臣秀吉の子・秀頼を迎えるために造られたとされています。

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 次韻蘇軾「和孔密州五绝 東欄梨花」          [下平声九青 八庚韻]
  称賛加藤虎之助请正的成就 
落雁邀客老松青, 落雁(ラクガン) 客を邀(ムカ)え 老松青し,
仰望峨峨熊本城。 仰(アオ)ぎて望む 峨峨(ガガ)たる熊本城。
白川循街潤花木, 白川は街を循(メグ)りて花木(カボク)を潤(ウルオ)し,
虎助遺民永光明。 虎助(トラノスケ) 民(タミ)に永(トハ)の光明を遺(ノコ)す。
 註] 落雁:“落雁の美女”・王昭君のこと、王昭君が琵琶を奏でると、美貌と琵琶の 
  音に誘われて飛んでいる雁が落ちたという伝説に拠る。熊本城の接見の間の壁画 
  には王昭君の絵が描かれている; 峨峨:高く聳え立つさま; 白川:阿蘇外輪に 
  発し、熊本市街を流れる川; 虎助:加藤虎之助清正公の略。
 
<現代語訳> 
 蘇軾「和孔密州五绝 東欄梨花」に次韻す 
  加藤虎之助清正公の業績を讃える 
昭君の間では、青々とした老松の木陰で琵琶を奏でる“落雁の美女”が賓客を迎える、
高く聳え立ち 遥かに仰ぎ見る熊本城。
阿蘇外輪に発する白川は街を巡って流れ 民の生活を潤しており、 
清正公は 築城・治水等 民に今に至る光明を遺している。

<簡体字およびピンイン> 
 次韵苏轼「和孔密州五绝 东栏梨花」    
  称赞加藤虎之助请正的成就 
落雁邀客老松青, Luòyàn yāo kè lǎo sōng qīng,
仰望峨峨熊本城。 yǎn wàng é é Xióngběn chéng.
白川循街润花木, Báichuān xún jiē rùn huā mù,  
虎助遺民永光明。 Hǔzhù yí mín yǒng guāngmíng.
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ooooooooooooo 
<蘇軾の詩> 
 和孔密州五絶 東欄梨花   [下平声九青 八庚韵]
梨花淡白柳深青, 梨花(リカ)は淡白 柳は深青(シンセイ)」, 
柳絮飛時花满城。 柳絮(リュウジョ) 飛ぶ時 花 城に满つ。 
惆悵東欄一株雪, 惆悵(チュウチョウ)す 東欄(トウラン) 一株(イッシュ)の雪, 
人生看得幾请明。 人生 看(ミ)得(ウ)るは幾(イク)请明(セイメイ)。 
 註] 五絶:絶句五首の意; 東欄梨花:密州の官舎の東の欄干の傍らに咲いていた 
  梨の花; 柳絮:柳の種についた白毛。暮春のころ綿のように乱れ飛ぶ; 
  惆悵:悲しみ歎くようす; 一株雪:梨の花を雪に譬えた; 请明:春分の後 
  十五日目。陽暦の四月五、六日ごろ。 
<現代語訳> 
 東欄の梨花 
梨の花はほんのりと白く、柳の葉は深い緑色, 
柳の綿が舞う頃、花は町中に咲き誇る。
胸が傷むのは あの東の欄干のそばに雪のように咲いていた梨の花の思い出、
短い人生 これから何回このような素晴らしい春の景色と出会えるだろう。
[石川忠久 「NHK新漢詩紀行」に拠る]
<簡体字およびピンイン> 
 東欄梨花     Dōng lán lí huā  
梨花谈白柳深青, Lí huā tánbái liǔ shēnqīng, 
柳絮飞时花满城。 liǔxù fēi shí huā mǎn chéng. 
惆怅东栏一株雪, Chóuchàng dōng lán yī zhū xuě, 
人生看得几请明。 rénshēng kàn dé jǐ qīngmíng. 
ooooooooooooo 

2016(平成28)年4月14~16日に激しい地震(最大震度7)が熊本地方を襲い、さしもの熊本城も倒壊した。あれから5年、天守閣は再建できたが、多くの重要文化財に属する建造物などは未だに手つかずの状態である と。

筆者が最近に熊本城を訪ねたのは、2011年4月であった。天守閣内を巡って、最も印象的で、鮮明に脳裏に焼き付いたのは「昭君の間」の障壁画(上掲写真参照)であった。人工物は壊れるという摂理があるにしても、障壁画の被災・復旧状況が気がかりな点ではある。再度観ることができるであろうか。

一方、同障壁画の鮮やかさ、と王昭君が何故に熊本城内に?との思いが綯い交ぜになって、未だに胸の奥に蟠っている。清正が秀頼公を迎えるために狩野派の絵師に描かせたもので、中国・明時代に著された帝王学の教科書・「帝鑑図説」に拠るとされている。同著書は、秀頼が愛読していた書物であったという。

それにしても、“図説”中幾百もの絵物語から王昭君の物語を選んだ意図は?気になります。結局、秀頼を同間に迎えることは叶えられなかったようで、「将軍の間」となる筈が「昭君の間」となった とダジャレで語られることがあるようです。方広寺鐘の「国家安康 君臣豊楽」に類するか?とも思える。

清正は、肥後に入国後、自ら船に乗り、何度も白川を往復して検分し、治水対策に意を注いだと。特に白川、坪井川について、流路を変更し、防衛上、城の内堀、外堀とし、また治水対策、流域の穀倉地帯への潅水など、今日の肥後平野の基礎を造ったとされる。

蘇軾の詩は、42歳の作(1077)。4年間の密州(現・山東省諸城市)知事を務め、徐州(現・江蘇省徐州市)知事に転任した。その折、後任の孔宗翰(ソウカン、孔子46代の孫)知事から詩を贈られたため、それに答えて詠った作品である。

起句での梨花の淡い白と柳の深い緑、絵画にも秀でた才の蘇軾の色使いの感性が現れた詩と言えよう。東の欄干の傍に咲いていた、あの美しい梨花の情景を思い出して、この先、何度見ることができるのであろう と感傷的に詠っています。

[註]
王昭君の伝説については、前回・閑話休題242 句題和歌シリーズをご参照ください。王昭君に纏わる漢詩および和歌を話題としました。

 
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閑話休題242 句題和歌 4  懐円法師/白楽天「王昭君」

2021-12-20 09:11:21 | 漢詩を読む
見るからに 鏡の影の つらきかな  
  かからざりせば かからましやは  懐円法師 (後拾遺集 雑三・1018 ) 
 <大意> 鏡を見るにつけ、鏡に映る私の姿の辛いことよ、
    このようでなかったなら、このようにはならなかっただろうに。 
 
oooooooooooo 
言い換えれば、“このような醜い姿でなかったなら、このような醜い姿にはならなかったろうに”、禅問答のような歌です。作者・懐円法師は、生没年不詳、またその生涯についても不明な点が多い。平安中期の叡山法師である。

この歌は、白居易(楽天)の詩「王昭君二首 其一」(下記)に題材を得た歌とされています。王昭君は、伝説的な古代中国四大美女の一人とされ、その美貌に飛ぶ雁も落ちる“落雁の美女”と称されている。詩・歌ともに王昭君の数奇な運命を詠ったものである。

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<白楽天の詩> 
 王昭君二首 其一  白楽天 『白氏文集』卷十四   [上平声一東韻] 
满面胡沙满鬢風, 面(オモテ)に满つる胡沙(コサ) 鬢(ビン)に满つる風, 
眉銷残黛臉銷红。 眉(マユ)は残黛(ザンタイ)銷(キ)え 臉(カオ)は红(ベニ)銷ゆ。 
愁苦辛勤憔悴尽, 愁苦(シュウク)辛勤(シンギン)して憔悴(ショウスイ)し尽し , 
如今却似画図中。 如今(ジョコン) 却(カエ)って画図(ガト)の中(ウチ)に似たり。 
 註] 胡沙:砂漠の砂; 黛:眉墨、 愁苦:思い悩んでくるしむこと; 辛勤: 
 つらく苦しいさま; 憔悴:心配や疲労などでやせ衰えること; 如今:いまごろ。   
<現代語訳 大意> 
 王昭君  
顔一面に吹き付ける砂漠の砂、鬢に吹き付ける異国の風、
美しかった黛も消え、頬の紅も色褪せた。
思い悩み、苦しみのため すっかりやつれ果てて、
いまや却って絵の中の醜い肖像画にそっくりになってしまっている。

<簡体字およびピンイン> 
 王昭君      Wáng Zhāojūn   
满面胡沙满鬓风, Mǎn miàn hú shā mǎn bìn fēng,
眉销残黛脸销红。 méi xiāo cán dài liǎn xiāo hóng.
愁苦辛勤憔悴尽, Chóukǔ xīnqín qiáocuì jǐn,
如今却似画图中。 rújīn què shì huà tú zhōng.
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まず王昭君について虚実、今に語られる伝説に触れます。姓は王、諱(イミナ)は檣(ショウ)、字を昭君。荊州南郡秭帰(シキ)(現・湖北省興山県)出身。前漢時代・第11代元帝(在位BC48~BC33)に仕えた美人の女官。後宮には大勢の女官がおり、王昭君は、終ぞ帝の寵愛を受ける機会はなかったようである。

前漢時代、匈奴が統一され、漢-匈奴間の関係を強固なものにするために、婚姻関係を結ぶ話があったのでしょう。元帝は、絵師に女官たちの肖像画を用意させた。いよいよ匈奴の呼韓邪単于(コカンヤゼンウ)が来朝、漢の婿となることを求めた。

元帝は、兼ねて用意していた絵をつぶさに検討して、最も醜い女官を選び、単于に嫁として送ることにし、王昭君が撰ばれた。王昭君は、出立に当たって、暇乞いの挨拶のため元帝を訪ねた。帝は驚いた:「…貌は後宮第一たり、善く応対し、挙止閑雅なり……。」

帝は後悔したが、後の祭り。外交を大事に思い、今更人を替えることはできなかった。事の次第を調べると、絵師たちの要求に応じて、女官たちは、大枚の賄賂を贈って美しく描くよう工作していた。王昭君は賄賂を断ったため、醜く描かれていたのであった。結果、絵師たちは全員、斬首の上、さらし首に処された と。 

匈奴に嫁いだ王昭君は、単于との間に1男、また単于の没後、義理の息子との間に2女を設けた。王昭君の陵墓は、現・内モンゴル自治区・フフホト市にある。陵墓の周囲には王昭君の郷里の家を再現した建物や庭園が整備されており、敷地内には匈奴博物館がある と。

後の世に、「一面に白い胡沙白い草の胡地にあって、この塚(陵墓)のみ青々としている」ことから、李白、杜甫等の詩中で“青塚(セイチョウ、青冢とも)“と称されるようになり、これが王昭君墓を表現する固有名詞となっていった と。

上掲の白居易の詩では、王昭君を、砂塵が吹きすさぶ胡地での生活に疲れ果てた悲劇のヒロインとして描いています。今や黛も消え、頬の紅も色褪せてしまい、結局、かつて絵師たちが描いた肖像画の醜い姿になってしまっているではないか と。 

掲題の歌では、懐円法師は、王昭君が鏡に映る自らの醜い姿に慨嘆している情況を詠っています。すなわち、美人であると自負心の強かった王昭君の、見た通りに描いて貰えばそれで好し(?)との思いに違い、醜く描かれたばかりに、今になって真の醜い姿になってしまったのだなあ と。

今日、市中、王昭君の絵と言えば、馬に跨って琵琶を抱えた、匈奴に赴く際と思しき姿が定番である。王昭君が琵琶を奏でると、その美貌と音色に魅せられて、飛んでいる雁も落ちて来たとのことで、“落雁の美女”と称されている。

掲題の歌の作者・懐円法師の生涯についてはほとんど不明である。親しく交流のあった歌人や、遺された勅撰集の歌、逸話などから推して、970年頃の生まれではないかと推察されている。歌は、後拾遺集のみに3首入集されており、掲題歌はその一首である。

[蛇足]
blog「閑話休題」は、現在、“漢詩-和歌の交流”の場として「句題和歌」シリーズ、および自作の漢詩を紹介する研鑽の場として「飛蓬」シリーズの2本立てで、交互に進めております。なお“飛蓬”とは、“行く先定まらぬ、風任せに彷徨う、根なしの蓬草”を意味します。
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閑話休題241 句題和歌 3  僧正遍照/白楽天

2021-12-13 09:04:54 | 漢詩を読む
蓮葉の にごりに染まぬ 心もて
  なにかは露を 玉とあざむく  僧正遍照 (古今集 巻三夏歌165 )
 <大意>蓮葉は濁った泥水に染まらぬ心で以て、どうして人目を欺いて、露を玉と見せ 
    るのか。 
 
oooooooooooo 
蓮は泥水の中に生えていながら、清浄な大きな葉や濁りのない美しい花を咲かせることから、仏性を表現するものとされる。しかしその葉が、人の目を欺いて、葉表に置く露滴を玉(ギョク)に見せているのはどういうことだ! と。

作者・遍照は、第50代桓武天皇(在位781~806)の孫という高貴な生まれでありながら、出家して天台宗の僧侶となり、“僧正”の職位まで昇った僧侶である。また歌僧の先駆者とされる歌人であり、六歌仙および三十六歌仙の中の一人である。

この歌は、白楽天の七言律詩「放言五首 其一」中、第6句「荷露雖團……」(下記参照)に想いを得た“句題和歌”とされています。“放言”とは、「言いたい放題、他への影響など無視した無責任な発言」と言うこと。和歌、漢詩共に興味を惹かれる作品と言えようか。

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<白楽天の詩> 
 放言五首 其一  白楽天 『白氏文集』卷十五   [上平声七虞韻]
朝真暮偽何人弁、  朝真(チョウシン)暮偽 (ボギ)何人(ナンビト)か弁(ベン)ぜん
古往今来底事無。  古往(コオウ)今来(コンライ) 底事(ナニゴト)か無からん
但愛臧生能詐聖、  但(タ)だ愛す 臧生(ゾウセイ)が能く聖を詐(イツワ)るを
可知甯子解佯愚。  知る可し 甯子(ネイシ)が解(ヨ)く愚(グ)を佯(イツワ)るを
草蛍有耀終非火、  草蛍(ソウケイ)耀(ヒカ)り有れども終(ツイ)に火に非(アラ)ず
荷露雖團豈是珠。  荷露(カロ)團(マドカ)なりと雖(イエド)も豈に是(コ)れ珠(タマ)ならんや 
不取燔柴兼照乗、  取らず 燔柴(ハンサイ)と照乗(ショウジョウ)と 
可憐光彩亦何殊。  憐(アワレ)む可し 光彩(コウサイ) 亦た何ぞ殊(コト)ならん
 註] 弁:識別する; 古往今来:(成)古今を通じて; 底事:なにごと、“底”は(書)なに; 臧・甯子:ともに人名で臧武仲(ゾウブチュウ)および甯武子(ネイブシ)、詳細は解説の部参照; 燔柴:生贄を柴で焼く儀式; 照乗:前後十二台の車を明るく照らしたという珠玉。

<現代語訳 大意>
朝には真実とされたことが暮れには虚偽とされる、何が真(マコト)か誰も判別などできない、
古来 このようなことは尽きることなく見聞きしていることだ。
ただ、臧武仲が聖王を煙に巻いたのは愛すべきことであるし、
また甯武子が非道の世に愚者を装ったのも納得できる。
草むらの蛍は光り輝いたとて、結局本当の火ではないし、
蓮の葉に置かれた露滴は丸いからと言っても、本当の珠ではあり得ない。
生贄を焼く炎や、照乗の珠が放つ光についても、私は取らない、
それらの輝きも、蛍の火や蓮の葉の露と何の異なるところがあろうか。
            
<簡体字およびピンイン>
 放言       Fàngyán 
朝真暮偽何人弁、 Zhāo zhēn mù wěi hé rén biàn, 
古往今来底事无。 Gǔwǎng jīnlái dǐ shì . 
但爱臧生能诈圣、 Dàn ài Zāngshēng néng zhà shèng, 
可知宁子解佯愚。 kězhī Níngzi jiě yáng . 
草蛍有耀终非火、 Cǎo yíng yǒu yào zhōng fēi huǒ, 
荷露虽团岂是珠。 hé lù suī tuán qǐ shì zhū. 
不取燔柴兼照乗、 Bù qǔ fán chái jiān zhào chéng, 
可怜光彩亦何殊。 Kě lián guāngcǎi yì hé shū. 
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白楽天/元稹の交流の続きでもある。白楽天の「放言五首」が書かれた背景、経緯を簡単に触れます。元稹は、810年、宦官・仇士元と争いを興し、江陵に士曹参軍として左遷されます。その折、思いの丈を詩に書いて白楽天に送っていたことは先に触れました。その中に「放言五首」の詩も含まれていた。

5年後、白楽天は、武元衡の反乱事件に絡み、越権行為の廉で江州に左遷されます。楽天は、自ら左遷された身柄、“風吹浪激、感慨万千”(風吹き、浪荒(スサ)み、思い千々)に胸が騒ぎ、元稹の詩に和して、上掲の「放言五首」を書き、元稹に贈った と。両者ともに、余程政・官界の“真(マコト)”の有りように我慢がならなかったのだ。

3,4句の臧生(臧武仲)および甯子(甯武子)について:臧武仲は、当時聖人と称されていたが、罪を得て自領の防を去る時、後嗣を立ててくれたなら去ると条件を提示して聞き入れられた。君主を威嚇したのではないと主張したが信じられないことだ と。

一方、甯武子は、国に正道が行われていれば知者として存分に活躍し、国に道が無ければその知を封印して愚者を装い、平気であった。その知者ぶりは真似出来るが、その愚か者ぶりは真似することが出来ない と。いずれも論語に拠る「子曰く、……」に続く句文である。

楽天の漢詩「放言」は、内容が多岐に渡り、かなり難解なため、<現代語訳>では、読み砕いて“大意”として記しました。但し筆者の理解不足による勘違い、思い過ごし等、あると思われます。その点斟酌してお読み頂きたく。

僧正遍照(816~890)の和歌に戻ります。濁りに染まぬ心と見做される蓮の葉が、どうして人目を欺いて、葉面に置いた露を珠玉にみせるのか と戯れている風にも見える。作者が“僧正”であるだけに、その真意を糺したくなるのは自然であろう。 

一方、遍照には次のような歌がある。平安京羅城門の西にあった寺・西大寺のほとりの柳をよんだ歌である。春雨の後であろう。掲題の歌に矛盾するようにも思える。

浅みどり 糸よりかけて 白露を 
   玉にもぬける 春の柳か(古今集 春27) 
  [浅緑の糸をより合わせて、白露を数珠に見立てて貫いている春の柳だよ]   

また僧正遍照には、出家前の作に、百人一首(12番)にも採られた、次のような情感溢れる歌がある(閑話休題128)。その評で筆者は、“生臭坊主”(?)に近い風情が感じられる歌であると記した。

天つ風 雲の通い路 吹き閉じよ 
   をとめの姿 しばしとどめむ  僧正遍照 (古今集 雑上・872;百人一首12番) 

掲題の歌で“蓮葉”を“遍照”に置き換えてみたらどうであろう。僧侶とて、泥と濁りのある俗世間を経験またそこに住み、一方、濁りを払い落すべく山に籠り、修行を積んできた身である。すなわち、遍照は、“わが身”と“蓮葉”を同体と考えているように推察する。

美しいものを美しいと見ることもあり、人を欺かねばならないこともある。世の諸々の濁りを眼にし、また諸々の欲に駆られることもある。 “人の目を欺いて、葉表に置く露滴を玉に見せているのはどういうことだ!”と自分に対して問うているのでは?このような僧侶としての“葛藤”を詠っているように思えるがどうであろう。
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閑話休題 240 飛蓬-142 十五夜望月 次韻蘇軾「春夜」

2021-12-06 09:05:22 | 漢詩を読む
今年の晩秋・十五夜の月は、地球にすっぽりと隠されてはいたが、美しい淡い赤銅色の衣を纏った姿を見せてくれた。否々、恥じらい気味に目を細めて、頭(コウベ)をチョコナンと傾けて、ちらりとウインクしていた風に感じ取ったのは、筆者だけであろうか?

太陽暦‘21年11月19日夕、幸いに好天気に恵まれ、日本全国で見ることができたようである。140年ぶりの天体ショーであった由。科学的な表現に従えば、「月のほぼ98%が隠れた“ほぼ皆既月食に近い部分月食”」でした。

北宋の詩人・蘇軾(1036~1101)の「春夜」に次韻した漢詩の作詩に挑戦したのだが、出来た詩は、なんと“秋夜”の“十五夜望月”となりました。月に対すると、ついファンタジーの世界に引き込まれていきます。“ほぼ皆既月食に近い部分月食”に誘われたわけではないのだが。


旧北宋首都・開封市街 撮影‘18.4.22

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 十五夜望月    [下平声十二侵韻]
  次韻蘇軾「春夜」  蘇軾「春夜」に次韻す
玉盤奕奕耀黃金、 玉盤(ギョクバン) 奕奕(エキエキ)として耀(カガヤ)く黃金(コガネ)、 
嬌艶夭夭素娥陰。 嬌艶(キョウエン)にして夭夭(ヨウヨウ)たり素娥(ソガ)の陰(カゲ)。 
天涯親愛同此刻、 天涯の親愛 此刻(コノトキ)を同(トモ)にす、 
但願永無時所沈。 但(タ)だ願うは 永(トワ)に沈む時の無きを。 
 註]  玉盤:玉でできた皿; 奕奕:非常に美しいさま; 耀:光り輝く; 
  嬌艶:あでやかな; 夭夭:若々しく美しいさま; 素娥:陸游・晩到東園に拠る、 
  姮娥(コウガ)または嫦娥(ジョウガ)ともいう; 陰:すがた、影; 親愛:愛する人。  
<現代語訳>
 十五夜望月 
  蘇軾「春夜」に次韻す 
非常に美しく黄金色に光り輝く玉盤のような十五夜の月、 
中に見える若く艶やかで美しい姿は、不老不死の薬を搗いている嫦娥でしょうか。
遠く離れたところにいる愛しい人も共にこの望月を見遣っている筈である、 
願うらくは、永久に沈むことなく、私たち相互の想いの交歓を断つことのないように。

<簡体字およびピンイン> 
 十五夜望月    Shíwǔyè wàngyuè  
  次韵苏轼「春夜」 Cìyùn Sū Shì “Chūn yè” 
玉盘奕奕耀黄金, Yù pán yì yì yào huáng jīn, 
娇艳夭夭素娥阴。 jiāoyàn yāo yāo Sù’é yīn. 
天涯亲爱同此刻、 Tiānyá qīn'ài tóng cǐkè, 
但愿永无时所沉。 dàn yuàn yǒng wú shí suǒ chén. 
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ooooooooooooo 
<蘇軾の詩> 
 春夜        [下平声十二侵韻]
春宵一刻値千金、 春宵(シュンショウ)一刻 値(アタイ)千金、 
花有清香月有陰。 花に清香(セイコウ)有り 月に陰(カゲ)有り。 
歌管楼台声細細、 歌管(カカン)楼台(ロウダイ) 声細細(サイサイ)、 
秋千院落夜沈沈。 秋千(シュウセン)院落(インラク) 夜沈沈。 
 註] 秋千:鞦韆の簡体字、ブランコ; 院落:中庭。
<現代語訳> 
 春夜
春の宵は、ひと時が千金に値する、
花には清らかな香りが漂い、月にはおぼろ雲がかすんでいる。
遠くの高楼からの歌や管弦の音も次第にかすかになり、
中庭にブランコがゆらゆらと揺れる中、夜はしんしんと深まっていく。
                    [白 雪梅 『詩境悠游』に拠る]
<簡体字およびピンイン> 
 春夜        Chūn yè 
春宵一刻値千金、 Chūnxiāo yī kè zhí qiān jīn, 
花有清香月有阴。 huā yǒu qīng xiāng yuè yǒu yīn. 
歌管楼台声细细、 Gē guǎn lóutái shēng xì xì, 
秋千院落夜沉沉。 qiūqiān yuànluò yè chén chén. 
ooooooooooooo  

「春夜」は、起承の二句で、止めることのできない“時”の大切さ、自然事象の華やぎの情景、転結二句で、昼間の管弦や、若い宮女たちの賑わいなど、人の活動が治まり、静かに更け行く春の宵。メランコリーな気分にさせる詩句ではある。

この詩の舞台は、北宋の都(960~1127)として栄えた現・河南省開封市である。上の写真は、現代の開封市の街並みの様子を示しています(1918.04.22.撮影)。やはり風情のある古い街という印象でした。

蘇軾は、22歳で科挙に合格、官界に身を投じており、活躍した時期は、都・開封の街の佇まいが爛熟期を過ぎようとする頃でしょうか。そろそろ政・官界にホコリも溜まる頃で、改革派・保守派とせめぎ合いが激しく、蘇軾は度々、左遷の憂き目に遭っています。

「春夜」は、蘇軾の若いころ、宿直している時の作であろうとされています。詩から、当時の華やぎ・賑わいが感じとれますが、一方、「歓楽極まりて哀情多し」(「秋風の辞」)と詠った、漢武帝の心境も、蘇軾の胸の隅にあったのではなかろうか。

蘇軾の詩に次韻する試みをしていますが、「春夜」が「秋夜」と真逆の情景となってしまいました。“金”・“陰”……、と韻字に想いを巡らしているうちに“望月”に辿り着いた次第です。ただ、いずれの場合も、止めることのできない今の“時”を“値千金”と感じていることは共通した感慨と言えます。

月の表面に見える“陰”については、色々な受け取り方があり、遠い昔から、洋の東西を問わず、多くの伝説を生んでいるようです。“月”および“月の陰”には、人の想像を刺激する力があるようです。此処では“陰”を“事物の姿・かたち”と採り、嫦娥と見立てました。

日本では一般に、“餅を搗くうさぎ”に見立てているようです。中国・インド辺りから伝わったのであろうとされています。中国では、嫦娥は、夫・羿(ゲイ)が西王母から貰った不老不死の薬を盗んで飲み、不老不死の命を得た。

嫦娥は、盗みの咎で月に追放され、そこでガマガエルに変身させられた、または同じ薬を再生しようと終生作業をつづけている、等々。嫦娥は、羿と結ばれる前には多くの男性から求婚されたようですので、さぞ美女であったろうと想像され、「十五夜望月」には魅惑的な女性像として登場願いました。

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