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閑話休題36漢詩を読む ドラマの中の漢詩22 『宮廷女官―若曦』-10

2017-04-23 15:13:14 | 漢詩を読む
ドラマの展開を見ます。今回の主人公は、差し詰め第十三皇子で、なるほど“命知らず”と言われているわけだ、と納得させられます。

先に紫禁城での‘中秋の宴’において、若曦が毛沢東の詩を詠じて、危うく難を逃れ、逆に康熙帝から褒美を賜る場面を見ました(閑話休題32)。その後、宴の中で、康熙帝は、第十皇子に対して、「歳の頃もよし、明玉を嫡福晋に」とのお勧めがあった。

胸中に若曦への強い想いがある第十皇子は、言を左右にして何とか断ろうとする。宴の場が険悪な空気に包まれる中、第八皇子らのとりなしで不承不承ながら「お受け致します」と。皇帝の言葉は絶対で、逆らえば反逆罪に問われるのです。

第十皇子と明玉の婚約成立の機を境にして、若曦と第十三皇子は一見暗鬱な日々を送っているように見えた。特に、若曦は、以後、数日間は床に伏してしまうほどである。

周りの人々は、若曦が第十皇子を、第十三皇子が明玉をひそかに想っていたのではないかと訝る。若曦と第十三皇子の当人同志でさえ、お互いに相手に対して同様の疑念を抱いている。実際は、彼ら二人は、それぞれ別の悩みを抱えていたのである。

後日、第十皇子と明玉の婚儀の披露宴の折、「ともに傷心か!付き合え!」と、第十三皇子は、若曦を抱えて、馬に跨り、山中に入り、焚火を焚き、酒を酌み交わしつつ、飲み明かす。二人して婚儀の披露宴をドタキャンしたのである。

酔うほどに、若曦は、「私はこの時代の人ではありません。300年後の現代人です」と告白する。第十三皇子は「???」。話は弾み、第十三皇子は、若曦の話に完全に感化、洗脳(?)されたようである。

後ほど、第十三皇子が第十四皇子に向かって、「“自由と平等”という思想を知っているか?人間は生まれながらに身分の貴賤や民族の区別はなく、思うがまゝに人生を送れる。天子でさえ運命を決める権利はない。」と、語る。

対して、第十四皇子は、「有り得ない!儒教の教えに反する。反逆罪で、斬首に値する。すべては天子が決めるのだ」と一蹴する。第十四皇子のこの考えは、当時(清代)の、恐らく、絶対的な“思想”であったろう。

第十三皇子が、同時代人に対して吹聴することができる程度に、“自由平等”の思想を理解できた、という事実は、彼が“命知らず”と言われる所以の一面を表しているように思われる。

別の機会に、「楚の襄王に夢あれど神女に心なし」、と若曦が第十三皇子をからかう場面があった。対して、皇子:「自分が明玉を好きだと思っていたのか?」。若曦:「では何故婚儀の夜、つらそうにしていた?」;皇子:「母の命日だった。古いことで、陛下は忘れていた」と。第十三皇子が暗鬱な日々を送っていた理由である。

この若曦の引用句「楚の襄王に夢あれど神女に心なし」には解説が要る。この句は、戦国時代末期の楚の国の詩人、宋玉(ソウギョク)(BC290~BC223)の作品『神女賦』に拠る。この賦の内容は概略次の様である。

楚の襄王(第21代;BC298~BC263)と宋玉が“雲夢(ウンボウ)の裏”で遊んだ折、襄王が昼寝をした。そこで夢の中に、非常に美しく、身のこなしが雅やかで、高貴な感じの一女性・神女が現れる。襄王はすっかり虜になり、誘いをかけるが、神女からそっぽを向かれる。

つまり、先の句は、俗に“片思い”という意味で使われているようである。勿論、宋玉の『神女賦』の意味するところは別にあるようですが、その点は後に触れます。なお“賦”とは、“韻を踏む文”で、屈原以来発展した文学形式で、宋玉はその大家である由。

実は、宋玉には『高唐赋』と呼ばれる作品があり、これは『神女賦』に先立って作られたようです。この作品の内容は、後世の漢詩と深い関連があるので、少し詳しく見て行きます。

宋玉は、楚の国の政治家で詩人の屈原(BC343?~BC277?)の弟子と言われている。屈原は、王族出身の人で、外交の才に勝れていて、懐王(第20代;BC328~BC299)の信任が厚かったが、誹謗する者がいて、国から放逐された。

国を追われた屈原は、南方をさまよったあげく、洞庭湖に注ぐ湘江の支流、汨羅(ベキラ)川の淵に身を投じた。その命日は、旧歴5月5日、屈原を祀る行事で、わが国でも“端午の節句”として今日名残をとどめている。

宋玉の “高唐赋”は、かなり長い作品であるが、後の世ではその“序の部”が有名になっています。その概要は以下の通りです。

襄王が宋玉を伴って雲夢の裏の高唐(コウトウ)の館に遊んだことがあった。巫山の楼台の上を見上げると不思議な雲が掛かっていて、立ち昇るかと思うと、急に姿を変え、変幻極まりない。そこで襄王は宋玉に

「これは如何なる雲か?」 と訊ねると、宋玉は、

「これは朝雲(チョウウン)と申します。」と言った。さらに襄王は、「朝雲とはどういうことか」と問うと、宋玉は以下のように解説した:

昔、先王が高唐に遊んだ時のことである。饗宴のはて、少々疲れたので、しばらく横になって昼寝をした。うとうととまどろんで、夢とも現(うつつ)ともつかぬうちに艶(あで)やかな一人の女性・神女が現れた。

神女は、「私は巫山(フザン)に住む者ですが、高唐に来てみると、貴方様もここに いらっしゃると聞きましたので、参りました。 どうか枕をともにさせてください。そこで先王は、同衾してその女性を寵愛した。

やがて別れの時が来ると、その女性は、「私は巫山の南の嶮に住んでいますが、朝(アシタ)には雲となって山にかかり、 夕には雨となって山に降り、朝な夕なあなたの傍にまいります」 と言って、姿を消した。

不思議な夢から醒めた王が、翌早朝に巫山の方を眺めてみると、夢の中の神女が言った通り、巫山には美しい光をうけた朝雲が漂っていた。王はその神女を偲んで廟を建てさせてこれを「朝雲廟(チョウウンビョウ)」と名付けた、と。

興味を引くのは、夢見る王が、“高唐赋”では“先王”であり、『神女賦』では“襄王”となっている点です。宋玉は、「先王は、子孫繁栄、五穀豊穣で国を富ませ、一方、襄王は、その逆である」と批判する意図があったものと解釈されています。

後世、この“高唐赋”の序文を基にして、“巫山の夢”、“高唐の夢”、“朝雲暮雨”などの四字術語、または“朝雲”、さらには“朝”や“雲”、“雨”などの一字で、男女の親しい関係や情交を表現するようになっているのです。(本文はつづく)

上記の『 』で囲んだ部分の原文と読み下し文を参考までに下に示した。

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高唐赋 并序(抄)  宋玉

<原文(部分)>
昔者先王嘗遊高唐、怠而昼寝。夢見一婦人、曰、
「妾巫山之女也。為高唐之客。聞君遊高唐,願薦枕席。」
王因幸之。
去而辞曰、
「妾在巫山之陽,高丘之阻。旦為朝雲,暮為行雨。朝朝暮暮,陽台之下。

<読み下し文>
昔(ムカシ) 先王 嘗(カツ)て高唐に遊び、怠(オコタ)りて 昼寝す。夢に一婦人見えて、曰(イワ)く、
「妾(ショウ)は巫山の女也。高唐の客と為(ナ)る。君 高唐に遊ぶを聞く,願わくは枕席(チンセキ)を薦(スス)めん。」
王 因(ヨ)って之を幸とす。
去るに辞(ジ)して 曰く、
「妾 巫山の陽,高丘の阻(ソ)に在り。旦(タン)に朝雲(チョウウン)と為(ナ)り,暮に行雨(コウウ)と為る。朝朝暮暮(チョウチョウボボ),陽台の下。
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閑話休題35漢詩を読む ドラマの中の漢詩21 『宮廷女官―若曦』-9

2017-04-11 17:03:48 | 漢詩を読む

馬、飛燕を踏む」の話題を続けます。

中国地図の上で、西安を西へ甘粛省・蘭州を経て、やや北西に辿ると、武威に到る。武威の北門を出て北1km辺りに雷台と呼ばれている人工の高台(南北106mX東西60m、高さ8.5m)が設けられている。この高台には雷神廟が建てられてあり、道教の雷神(雨を降らせる神)が祀られているという。

中国とソ連(当時)の間が冷戦状態にあった1969年、この高台に防空壕を掘った際、その地下で大型のレンガ製の墳墓が発見された。前・中・後の3室からなり、長さ19mの後漢(25~222)末期の墓である と。

その副葬品に、軍団のミニチュアとも言える馬39頭、車14両、人物45体、牛1頭があった。いずれも小型(馬の高さ4, 50cm前後?)の銅製品であり、西安の秦時代に構築された兵馬俑とは趣を異にしている。

この副葬品の中で、特に注目されたのが一頭の奔馬の像である。右の後足で、空飛ぶツバメを捉え、他の3本脚は空を駆り、首はもたげていなないている。甘粛省博物館の同像を紹介する記事では、次のように表現されている:

「その全身から、人を圧倒する勢い、しなやかさ、力強さ、スピード感などが伝わり、造形は愛くるしく精緻で、構造は巧妙で、工芸品の域を超越した素晴らしい境地に到達している と」(下の写真参照)。(http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/kaogu/museum/200304.htm)
        雷台漢文化博物館にあるモニュメント

専門家の考証によって、この奔馬は、西域から中国に入ってきた「汗血馬」をモデルにして創作されたものであるという。この奔馬に対し、郭沫若氏(1892~1978)が「馬踏飛燕」(馬、飛燕を踏む)と命名している。実物は、甘粛省博物館に収納されている由。

かつて日、米、英、仏などで展示会が開かれ、「芸術作品の最高峰」と絶賛された由。1983年、中国・国家旅游局は、この奔馬を中国観光のシンボルマークとすることを決めている。以上、本稿の主テーマである「馬、飛燕を踏む」の由来である。

ドラマ中、第十三皇子が若蘭の乗馬術に対して「馬踏飛燕」と譬えたことは、若蘭の技倆に対して、“非常に素晴らしい”と絶賛したことを意味している。但し、その奔馬像の発見が20世紀の世においてであることを考えると、第十三皇子の発言としては、やや異な感じはある、が“まあ、好し”か。

また、ドラマ中、第四皇子が、若曦から「好きな詩人は?」と問われて、即座に「王維」と答える場面がありました。続けて、「好きな詩は?」との問いには、口を閉ざしていました。この問答は、非常に意味ありげです。この点は改めて別の機会に触れることになるでしょう。

西域の大宛国から得た「汗血馬」に「天馬」の美称を与えたのは、前漢の武帝であったことは、前回に触れた。以後、多くの漢詩で「天馬」が出てきますが、ここでは王維の詩を紹介します。

まず、王維について簡単に触れておきます。すでに当ブログで取り上げた李白、杜甫とはほぼ同時代の人で、李白、杜甫が、それぞれ、“詩仙”、“詩聖”と呼ばれているのに対して、王維は“詩仏”と呼ばれています。

王維は、699(?)年、現・山西省太原に生まれ、15歳で長安に遊学している。作詞のほか、書家であり、また音楽分野では琵琶の名手、絵画の分野では“南画の祖”とされる程に、多芸多才である。21歳で進士に及第し、非常に若くして太楽丞に任官している。

また、若い頃は非常な美男子であり、彼の秀でた才芸とあいまって、社交界で多いに持てはやされていたと言われている。蛇足ながら、王維の若い頃の石立像があるが、その顔つきは、ドラマ中第四皇子のそれと瓜二つに見えます。

さて、“天馬”を読み込んだ王維の詩は、読み下し文と現代訳を合わせて下に挙げました。王維45歳時の作とされています。

表題中の劉司直は、並みの役人であり、また、安西への赴任も左程大事な出来事ではないはずです。しかし“異邦人には懼れさせるようにし、また彼らとの和親はならず”と大仰な事態のごとく劉司直を送り出しています。

この詩が作られたのは、唐の絶頂期に当たるころでしょうか。楊貴妃が後宮に入り、世が傾き始める直前と思われ、大唐の威を感じさせます。また「天馬(汗血馬)」が同道するとなれば、威勢も上がるのでしょう。

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送劉司直赴安西  劉司直の安西に赴くを送る   王維

<原文>     <読み下し文>
絶域陽關道  絶域(ゼツイキ) 陽関の道
胡沙與塞塵  胡沙(コサ)と塞塵(サイジン)、
三春時有雁  三春(サンシュン)の時に雁(カリ)有るも、
萬里少行人  万里 行人(コウジン)少なし。
苜蓿隨天馬  苜蓿(モクシュク) 天馬(テンマ)に随(シタガ)い、
葡萄逐漢臣  葡萄(ブドウ) 漢臣(カンシン)を逐(オ)う。
當令外國懼  當(マサ)に外國をして懼(オソレ)しめ
不敢覓和親  敢えて和親を覓(モトメ)ず。

[註]
安西:敦煌の北東部の街。当時、西域の都護府が置かれていた。
三春:春の三ヶ月(初春、中春、晩春;旧1、2,3月)。
陽関:甘粛省西部、敦煌の南西に位置して、北にある玉門関とともに西域交通の要地。
苜蓿(モクシュク):ウマゴヤシの別名、牧草。
天馬:駿馬、汗馬または汗血馬の美称。
 
<現代語訳>
地果てる陽関の道、
砂漠と砂ほこりが舞う。
春には雁の飛来があるが、
見渡せば人影はごく少ない。
天馬には牧草が伴い、
役人にはブドウが伴う。
まさに異邦人には恐れを抱かせるようにすべきであり、
決して和睦の方策など採ってはならない。
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閑話休題34 漢詩を読む ドラマの中の漢詩20 『宮廷女官―若曦』-8

2017-04-01 15:50:51 | 漢詩を読む
ドラマ中、「馬、飛燕を踏む」という意味深な表現が出てきました。これを機会に中国歴史上、“戦”と“馬”のかかわりについて見てみます。

ドラマの展開を追います。先に中秋の宴で、若曦が康熙帝からご褒美を頂いたところまで話は進みました。そこでまたある出来事が起こりましたが、その件は改めて触れることにして、その後、開催された馬術競技の模様を中心に見て行きます。

今回の主人公は、第八皇子の側福晋・若蘭です。若蘭は、度々姿を見せてきましたが、非常に謎めいています。いつでも数珠をまさぐりながら仏に対している。傍には、勇ましい男性が、奔馬に跨って砂漠を疾駆させる大きな絵が描かれた屏風が置かれてある。

若蘭と第八皇子との関係は全く冷淡であり、若蘭は、寡黙で、第八皇子の前で笑顔を見せたことがない。若曦も常々不思議に思っていて、周りの付け人達にそのわけを問うが、口をつぐむだけである。

いよいよ馬術競技の日。若蘭は、競技場へ出かけることを頑なに断っていました。「屏風の乗馬風景を見るだけでなく、自然の中で演じられる馬術競技を見ると気も晴れますよ」という若曦の説得が功を奏したようで、若蘭も競技場に姿を見せた。

まず、明玉の馬上での演技が披露された。さすがに北方騎馬民族の血を引く一人である。疾駆する馬上で、数々の見事な演技を披露して、参観者から“満州族のお手本”だと称賛された。

気をよくした明玉は、特に若曦に向かい、「さあ、お次の番だ」とばかりにけしかける。しかし、若曦は競技できるほどに乗馬が巧みではなく、尻込みしている。明玉は、得たり とばかりに、“北方で育った身であろうに……”と蔑むような、悪口雑言を浴びせる。

競技場は気まずい異様な空気に包まれた。そのときである。“私が演ります”と、若蘭が進み出て、傍にいた馬の手綱を取るや、さっそうと馬に跨り、駆けさせた。

疾駆する馬上に立ち上がっては、しっかりと両手で手綱をとり、“ハイッ、ハイッ” と長い髪をなびかせて、飛んでいるようである。かと思うと、馬の脇腹に自分の背中を預けて、両手を大の字に広げてぶら下がったまま疾駆させる。

仏前で数珠をまさぐる日常の若蘭の生活ぶりからは想像できない、数々の見事な演技を披露した。参観者すべてが、呆気にとられた。

やがて、素晴らしい!見事だ!人馬一体だ!等々、称賛の声が上がった。この中で、第十三皇子が「馬 飛燕を踏むだ」と言うと、皆が納得した風であった。「誰かさんは、熊を踏む ね」と 若曦。 ここでも若曦と明玉は火花を散らします。

ここで若蘭の身元が明かされます。かつて若蘭は、若い将軍と深い恋仲にあった。偶々、第八皇子が北方の地を訪ねた折、馬に跨って平原を疾駆させる若蘭に一目惚れして、彼女の父親に「側福晋として迎えたい」 と申し出た。

若蘭と将軍の仲を知る父親は、将軍を敢えて戦場に送ったようである。結果、将軍は戦死する。屏風の絵は、馬に跨ったこの将軍が平原を疾駆する様子であり、仏に手を合わせるのは、せめてもの将軍への弔いである と。

さて、“馬 飛燕を踏む”の意味・由来を見ていきます。

広大な平原で暮らす農耕民族の古代中国では、馬は主に農耕用であり、また軍略上の馬の役割は、戦車を駆動させることであったようです。戦車による戦術では、山岳地帯での展開には自ずと限界がある。

一方、北方匈奴の遊牧民族は、各人が馬に跨り、機動性を活かした騎馬戦を得意としていた。中国の北方域では、常にその騎馬軍の侵入に悩まされていて、“長城”を築き、侵入を防ぐという守備の対応処置をとるほかに手立てはなかったようだ。

機動性に富んだ騎馬軍団の侵入に常々悩まされながら、中国側で馬の活用を積極的に取り入れようとする発想がなかった事は不思議な気がする。中国では馬に跨るという風習や技術がなかったこと、また機敏性に勝れた馬種が存在していなかったこと等々、考えられているようですが。

北方騎馬民族に刺激を受け、中国で最初に馬に跨ることを思いついたのは、戦国七雄の一つ、趙の国の第15代武霊王(BC325~BC299)であった由。勿論、衣服も、中国本来の習俗を捨て、北方民族のそれに従うことを意味しており、古い習俗に逆らうことになります。

この様子は、今にその歴史を伝える術語として、“胡服騎射(コフク キシャ)”の四字術語の形で残されています。すなわち、馬に跨れるように二股のズボンを穿き、弓を引きやすい上着を着けることを表す術語です。

ただ武霊王のこの発想は、宮廷の高官や家臣団には中々受け入れられず、王自ら土下座して頼んでやっと受け入れられたという。そこでBC308年、やっと中国最初の騎馬軍団が誕生した由である。以後、趙国が強大になったことは論を待たない。

それを契機に、各国が騎馬軍団の威力を知り、その活用を図ってきたであろうことは想像に難くない。悲しいかな、中国国内では、敏捷さに勝れた馬種が存在せず、また飼育管理が容易ではなかったのでしょう。強く健康な北方の馬を手に入れることが、防衛の要と考えられるようになった。

前漢、第四代皇帝、武帝(在位BC141-BC87)は、李広、衛青や霍去病などの名将軍を得て、北方匈奴の撃退に成功しています[この項、閑話休題15 (2016. 9. 13投稿)を参照]。

さらに武帝は、西域の諸族と謀って、西方から匈奴を挟撃することを計画し、交渉のため張騫を月氏に派遣した。途中、張騫は匈奴に捉えられて、10年以上も抑留される。しかし脱出に成功し、その足で、西域諸国を巡る大旅行を行っています。

張騫がこの西域旅行で得た成果の一つに、大宛国(現:シルダリア川中・上流;ウズベキスタンの辺)では「汗血馬」を産するという情報があった。「汗血馬」とは、血の汗を流して、一日千里を駆けると言われる有名な名馬です。

この「汗血馬」を欲した武帝は、大宛国に外交交渉の使者を送るが、大宛国王は、この使者を殺害して、「汗血馬」の提供を断った。そこで武帝は、2度にわたり遠征軍を送り、大宛国を降して約3000頭の繁殖用馬及び多数の名馬を得た と。

武帝は、「汗血馬」を得て、その喜びを「西極天馬の歌」の詩として残している。この詩についてはドラマで紹介されたわけではないが、参考までに、下に示しました。そこでこの大宛国より得られた優れた馬に対して「天馬」の称が与えられることになったのです(「宮廷女官―若曦」:第3~5話から)。

この話題については次回で今少し触れます。

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西極天馬歌   西極天馬の歌 漢武帝
本文           読み下し
天馬来兮 從西極。 天馬来たりぬ 西極より。
経万里兮 帰有徳。 万里を経て 有徳(ウドク)に帰せん。
承霊威兮 降外國。 霊威(レイイ)を承(ウ)けて 外国をくださん。
渉流沙兮 四夷服。 流沙(リュウシャ)を渉(ワタ)って 四夷(シイ)は服しぬ。 

註]
有徳:富み栄えること; 霊威:不思議な威力;
流沙:砂漠; 四夷:四方の異民族; 兮:語調を整えるための助字

現代訳
西域から天馬がもたらされた。
万里を経て、繁栄を招来することになろう。
その神霊の威力で異国を下すであろう。
砂漠を越えて、四方の異民族が服するようになるのだ。
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