愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題81 飛蓬 漢詩を詠む-19 ― 洛陽-龍門石窟を訪ねる

2018-07-24 11:24:20 | 漢詩を読む
前回の杜甫の故郷の話に続いて、洛陽郊外にある龍門石窟について触れます。龍門石窟は、中国観光の名所の一つであり、多くの旅行記を通じて広く紹介されています。

今更の感はありますが、本稿では、まず筆者の見た現在の龍門石窟の姿を紹介し、次いで、杜甫の詩を通して、完成した当時の石窟の様子を想像してみたいと思います。

龍門石窟では、懸崖の壁面に蜂の巣を思わせる大小無数の洞穴を穿ち、その中に仏像が刻まれています。圧巻は、中心部にある廬舎那仏の大仏像(写真1)であり、その彫刻の歴史も物語性に富んでいます。

写真1:廬舎那仏像 座高17 m(龍門石窟)

現在の石窟の佇まいを七言絶句の形で書いて見ました。下記ご参照下さい。以下、龍門石窟について、歴史的な面を含めて、簡潔に紹介して、杜甫が訪ねた完成当時の姿を想像するための橋渡しとします。 

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拜訪龍門石窟(上平声 真韻)
瞭望薰風楊柳新、瞭望(リョウボウ) 薰風(クンプウ) 楊柳(ヨウリュウ)新(アラタ)にして、
懸崖万洞各仏宸。懸崖(ケンガイ)の 万洞(マンドウ) 各(ソレゾレ)仏の宸(シン)。
龍門大仏無言坐、龍門(リュウモン)の大仏は 無言で坐し、
脚下慢河寧静人。脚下(アシモト)には 慢(ユルヤカ)な河(カワ)と寧静(ネイセイ)の人。
註]
瞭望:展望する、遠く見渡す
寧静:安らかで静かなこと

<現代語訳>
龍門石窟を訪ねる
見渡すと、快い春風が吹き渡り、麓の柳の緑が改まっている、
断崖には無数の洞穴が穿たれてあり、それぞれ仏のお住まいとなっている。
龍門石窟の弥陀の大仏は、ただ無言で鎮座して見守っていて、
足元の伊河は緩やかに流れ、行き交う人々は心安らかである。
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龍門石窟は、洛陽の南約13 km、黄河の支流伊河のほとりにあります。北流する伊河を挟んで2山が対峙していて、宮城の門“門闕(ケツ)”のように見えることからこの辺りを“伊闕”または皇帝=竜の故に“龍門”(写真2)と称されるようになった由。

写真2:龍門石窟の“龍門橋”の一部

洞穴の大部分は伊河の左(西)岸/西山(写真3)にあり、廬舎那仏像も西山の中央部にある。壁面の大小さまざまな洞穴には仏像が彫られている。洞窟数:1,352個;大窟:西山28/東山7;仏像:97,306体とされている(日本大百科全書)。

写真3:龍門石窟西山の壁面

歴史的背景を覗いて見ます。三国分立時代からやっと晋が中国統一を果たしました(280)。しかし北方民族の侵入・圧迫を受けて西晋も間もなく滅びました(316)。その中枢は江南に逃れて、現南京を都として東晋を興します。一方、華北では“五胡十六国”時代と称されるように部族国家の乱立が続きます。

華北では、氐(テイ)族の国 前秦(苻堅)が一時華北の統一に成功しますが、全国統一を目指して東晋討伐軍を発します。90万とも言われる大軍を率いて臨んだにも拘わらず、東晋(謝玄)の8万の兵に惨敗を喫しています(淝水の戦い、383)。

前秦の衰えに乗じて、鮮卑(センピ)族の拓跋硅(タクバツケイ)が勢力を得て、自立し北魏(ホクギ)を興します(386)。拓跋硅は、平城(現山西省大同)を都と定め(398)、自ら帝を称します。第3代太武帝の時に華北統一に成功(439)し、此処に至って2大朝が並立する“南北朝時代”を迎えます。

1世紀以上にわたって小国が乱立した華北に対して、その間、東晋(南朝)では、国情が必ずしも安定していたとは言えないが、漢族を中心にして貴族文化が花開いていきました。陶淵明(365-427)が活躍したのもその頃でした。

統一された華北の北魏では、支配層は胡(コ)族でしたが国民の大部分は漢族です。また対する南朝では文化が花開いていることを目の当たりにして、南朝文化に憧れを抱くようになります。生活習慣を含めて、代を重ねるごとに漢化を進めていきます。

元来、北魏では仏教が栄えていて、平城はその中心でした。第5代文成帝の頃、平城の西約20 kmにある桑乾河の支流・武周川のほとり雲崗(ウンコウ)に石窟を造営しています。敦煌では既に石窟(莫高窟)がつくられていた(355/366~)が、その製作に関わった人たちが多数平城に移住させられていました。それらの人々も雲崗石窟の造営に動員されたことでしょう。

第7代・孝文帝に至ると、北に偏っている平城から中原の古都洛陽に都を遷しました(493)。国情が落ち着くにつれて、南朝文化へのあこがれ、さらに漢化を進める意図が強く働いたのでしょう。都造りと合わせて黄河の支流伊河のほとり龍門に石窟の造営も進められたのです(494)。 

以上、歴史を追ってみると、中国3大石窟が一つの糸で繋がれているように思えます。龍門石窟が、完成を見たのは中唐(玄宗)の頃と300年近くを要しています。龍門石窟でも北魏の作とされる仏像が残されています(写真4)が、左程大きくはありません。


写真4:北魏時代に彫られた仏像 ほぼ人と等身大(龍門石窟)

龍門石窟に関して、完成に長期間を要した点ならびに北魏期に大仏の造営が完成されなかった理由として、龍門の岩石は緻密で硬質な橄欖岩(カンランガン)であるため、北魏の技術レベルでは彫刻は容易でなかった と言われています。

写真1と4の像を比較すると、顔の輪郭や彫刻・装飾のきめ細かさ等々、違いが容易に見て取れます。これら様式の差は時代を反映したものとされています。詳細は他の著述を参照して頂きたく思います。

ただ、龍門石窟の造営に動員され、制作に関わった人々の数や関わった年月、技術の高さや思い等々想像すると、畏怖の念を禁じ得ません。きっと世の平安、人々の安寧を胸に秘め、粉塵を吸いつつ汗を流したに違いありません。

これら先人たちの魂は、廬舎那仏や諸仏像に宿っていて、平和な現代の波静かな川面や談笑して行き交う人々の安寧な姿を見て、安堵しているに違いないでしょう。

蛇足]
龍門石窟の廬舎那仏の造営に、唐の時の皇帝(高宗)は、皇后(後の武則天)の化粧料の一部を寄進した(?)。または皇后は、自ら寄進し、自分に似た像を彫らせた(?)。“廬舎那仏のモデルは武則天である”との説がある。それを否定する説が有力ですが、その真偽は不明である。

最近、中国TVドラマ『則天武后』が放映された。石窟の廬舎那仏を目にした時、TVドラマの主人公と重なって見えた。よく似ていた。TVドラマでは石窟の話題はありませんでしたが。




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閑話休題80 飛蓬 漢詩を詠む-18 ―杜甫-春夜喜雨

2018-07-13 10:53:02 | 漢詩を読む
前回、杜甫の故郷を訪ねた折の感想を述べ、その中で、杜甫の詩「春夜喜雨」について触れました。下にその詩を記載してあります。ご参照下さい。

杜甫の生まれ育った鞏義の“杜甫故里”にある記念館では「春夜喜雨」のビデオ映像が上映されていました。その一部をここに紹介します。下記のURLを開いてみて下さい。この詩の情景が見事に表現されています。

https://1drv.ms/v/s!Ahh2v_mmpeyzdpg25kFrse0qUq0

ビデオでは、‘杜甫故里’園内の“好雨”に潤う緑と、ビデオカメラで捉えられたコウライウグイス(黄鶯)の囀りも紹介してあります。

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春夜喜雨   春夜雨を喜ぶ
好雨知時節, 好雨(コウウ) 時節(ジセツ)を知り,
当春乃発生。 春に当(ア)たって乃(スナワ)ち発生す。
随風潜入夜, 風に随(シタガ)いて潜(ヒソ)かに夜に入り,
潤物細無声。 物を潤(ウルオ)して細(コマ)やかにして声(コエ)無(ナ)し。
野径雲倶黑, 野径(ヤケイ) 雲は倶(トモ)に黑く,
江船火独明。 江船(コウセン) 火は独(ヒト)り明らかなり。
暁看紅湿処, 暁(アカツキ)に紅(クレナイ)の湿(ウルオ)える処(トコロ)を看(ミ)れば,
花重錦官城。 花は錦官城(キンカンジョウ)に重からん。
 註]
野径:野の小道
江船:川に浮かぶ船
錦官城:成都の別称。特産品の錦を管轄する役所が置かれていたことから。錦城ともいわれる。

<現代語訳>
 春の夜 雨を喜ぶ
良い雨は、降るべき時節を知っており、
春になると降り出して、万物が萌え始める。
風につれて、人知れず夜に紛れ込み、
万物を潤して、しとしとと音もなく降っている。
野の小径も垂れこめた雲もすっかり真っ暗であり、
川面に浮かぶ船の漁火だけが明るく灯っている。
明け方に紅(クレナイ) の花が濡れている所をみれば、
錦官城の花々は雨の雫を含んで重たげに咲き誇っていることであろう。
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何時の頃か、映画の場面であろうと想像するが、月形半平太が、「春雨じゃ 濡れて行こう!」と名セリフを吐いて、颯爽と小雨の降る中を行く。この場面とセリフだけが、奇妙に、鮮明に記憶の奥に残っているのである。

今、ネット上で調べてみると、「月形半平太」は、大正時代に行友李風(ユキトモ リフウ)という人が書いた戯曲で、「国定忠治」と並んで、“新国劇”の代表作の一つである由。いろいろな意味を含めて、“時代物”であるようですが。

春に降る、頬を湿らす程度の小糠雨は、むしろ春の訪れを実感させてくれる“時節”の雨と言えるのではないでしょうか。万物が目を覚ます時期であり、明るい季節の到来といえるでしょう。

上掲の「春夜喜雨」は、まさに春の息吹を詠う詩と言えるでしょう。長安を襲った「安史の乱」(755) により、生活基盤を失った杜甫は、“蜀道の険”を越えて成都に赴きます(759)。妻子を伴った旅、如何ばかり苦難の旅であったか、想像に難くない。

成都では、これまでに得た多くの知己の援助もあり、成都郊外に「杜甫草堂」を築きます(760)。家族ともども暮らす草堂での生活にはやっと安らぎを覚えたことでしょう。

「春夜喜雨」は、成都に来て三年目、杜甫50歳の時の作とされています。音もなく降りしきる春雨の闇夜に一点の漁火が目に止まります。暁を迎える頃には、錦官城一円の花々が、潤いを帯びて一斉に赤に染まるようになる。

世の中の在りように‘チクリ’と苦言を呈する詩が多い杜甫ですが、「春夜喜雨」は、読む方も心休まる詩と言えるでしょう。
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