(55番)滝の音は 絶えて久しく なりぬれど
名こそ流れて なほ聞こえけれ
大納言公任 『千載集』雑上・1035
<訳> 滝の流れる水音は、聞こえなくなってからもうずいぶんになるけれども、その名声だけは流れ伝わって、今でも人々の口から聞こえていることだよ。(小倉山荘氏)
ooooooooooooooo
京都市西北部 嵯峨野にある大覚寺、その境内にある大沢池、かつては滝の水が流れ込んでいた。その滝がなくなり、滝音も絶えて随分と経ってしまった。しかしその名声は長く語り継がれてきている。
容(カタチ)は無くなってもその“名だけ”、“名こそ”は後の世に語り継がれてきている。私もこうありたいものだ との感慨を込めた歌なのでしょうか。この歌に因んで、今日その滝は“名こその滝”と呼ばれていて、その名声は、作者・藤原公任の名共々令和の時に生きている。
藤原公任(キントウ、966~1041)は、平安時代中期の公卿、歌人。博学多才、「三船の才」を兼ね備えていたと言われている。上の歌を七言絶句にしてみました。陽光輝く春の情景を想定しています。
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<漢詩原文および読み下し文> [去声十七霰韻]
名古曾瀑布 名古曾(ナコソ)の瀑布(バクフ)
春陽燦燦嵯峨院、 春陽 燦燦(サンサン)たり嵯峨の院、
巌縫激流沫飛濺。 巌縫(イワマ)の激流 沫(シブキ)飛濺(ヒセン)す。
彼瀑布声絶好久, 彼(カ)の瀑布の声(オト)絶(タ)えて好久(ヒサシ)きも,
至今惟名尚伝遍。 今に至るも惟(タダ)名のみは尚(ナオ)伝遍(デンペン)す。
註]
瀑布:滝。 院:庭園。
燦燦:日の光がキラキラと輝くさま。
巌縫:大きな石組の間。 飛濺:飛び散る。
好久:久しい、長い間。 伝遍:知れ渡る。
<現代語訳>
名古曽の滝
春の光がサンサンと降り注ぐ嵯峨野にある庭園、
岩間を落ちる滝の激流 水しぶきを飛ばして下り、庭湖に注ぐ。
現在、彼の滝の音は絶えて久しいが、
その名声だけは今に至るもなお人々に遍く語り伝えられているのだ。
<簡体字およびピンイン>
名古曾瀑布 Mínggǔcéng pùbù
春阳燦燦嵯峨院、 Chūn yáng càncàn Cuó'é yuàn,
岩缝激流沫飞溅。 yán fèng jīliú mò fēijiàn.
彼瀑布声绝好久, Bǐ pùbù shēng jué hǎojiǔ,
至今惟名尚传遍。 Zhì jīn wéi míng shàng chuán biàn.
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中国の地図を頭に描いてみます。上海辺りで、東シナ海に注ぐ長江。上流へ辿っていくと、南西方向に進み、向きを変えて北西、さらに南西―北西方向とW字状を描いています。最初の凹部には鄱陽湖、続く山部に武漢、次いで第2の凹部に洞庭湖と続きます。
鄱陽湖の辺りには、廬山・九江があり、すでに陶淵明、李白、白楽天等々ゆかりの詩を“旅シリーズ”で読んできました。武漢は、黄鶴楼で有名ですが、近頃、別の話題で記憶に新しい都市である。本稿で話題とする舞台は第2凹部の洞庭湖です。
京都北嵯峨にある観光の名所大覚寺、その境内にある大沢池。この大沢池は、中国・唐文化への憧れが強かった第52代嵯峨天皇(在位809~823)が、中国の洞庭湖を模して築造した人工池の痕跡である と。
大沢池の北東約100m地点に石組が組まれて人口の滝が築かれていた。約16、70年後に作者・公任が訪れた頃には、滝の石組は土に埋もれて、滝の音も聞こえなくなっていたことは上掲の歌から想像されるところである。
大覚寺の前身は、嵯峨天皇が造営した(810~824)離宮で、876年に娘正子内親王(淳和天皇皇后)が、その子恒寂入道親王を開山に大覚寺として開創された と。当時、離宮の庭園には、唐風文化の理想郷を作るべく巨費を投じて滝を備えた人工湖・「庭湖」を作った。
現存の大沢池は、その人工湖の一部であるとされているが、今なお池中には北岸沿いに菊ガ島、当時の画家・巨勢金岡が配置したとされる庭湖石、天神島を確認できる。この二島一石の配置は、華道嵯峨流の基盤とされている と。
埋もれていた滝迹は、発掘調査が進み、石組も明らかにされている。滝から流れる豊富な水流は、その南方に開削された幅5~10mの蛇行溝を通って「庭湖」に注いでいた と。離宮の庭園は泉、滝、名石などの美を極めた庭園であった。
歌の作者・藤原公任に触れます。祖父・実頼、父・頼忠ともに関白・太政大臣を務め、また母(醍醐天皇の孫)、妻(村上天皇の孫)ともに二世の女王と、名門の出である。当然将来が期待されていた。なお前回読んだ「朝ぼらけ…」の作者・定頼は公任の長男である。
公任は、藤原道長(966~1027)と同年で、互いに対抗意識を持ちながら、青年時代から共に行動していたようである。出世争いも激しく、当初公任が先を走っていたが、後に道長に追い越されている。歌壇にあっては、公任が第一人者となった。
和歌の他、漢詩、管弦にも優れた才能を発揮し、道長に対して自らの才能を誇示した「三船の才」({三舟の才}とも)の逸話は特によく知られている。986年10月10日(旧歴)、円融上皇臨席の下、大堰川(保津川)において三舟の遊興が催された。
すなわち、川に漢詩の舟、管弦の舟、和歌の舟を出し、それぞれの分野の名人を乗せて、技量を競わせるのである。道長から乗る舟を尋ねられた公任は、和歌の舟を選んだ。勿論、公任の和歌は賞賛を受けたが、漢詩の舟を選んでおけばもっと名声が上がったはずだと悔やんだ と。
当時、男性貴族にとっては、「漢詩」の方が「和歌」よりも文化的に高く評価されていたのである。この自信に満ちた発言から、公任は「漢詩・管弦・和歌」の三才を持つ男ということで、「三船の才」の人と呼ばれるようになった と。
若い(30歳ちょっと過ぎ?)頃、私撰和歌集『拾遺抄』を撰しているが、後にそれを基に勅撰和歌集『拾遺和歌集』が編纂されている。これが因で公任は歌壇の第一人者と目されるに至ったようである。
私撰集『和漢朗詠集』および『三十六人撰』は出色と言える。前者は、白楽天などの漢詩文590首および紀貫之などの和歌220首を含む と。後者は、“三十六歌仙”として歌人を評価付けする用語の元となっている。勅撰歌人としては『拾遺和歌集』(15首)以下の勅撰和歌集に88首撰されている。
『紫式部日記』に次のような記載があるという:ある宴で、酔った公任が紫式部に対して「若紫は居られませんか」と声をかけた。式部は(光源氏に似た人も居ないのに、どうして紫の上が居るものかしら)と思い、その言を聞き流した と。当時の歌人たちの交流の状況が偲ばれて、心楽しくなります。
名こそ流れて なほ聞こえけれ
大納言公任 『千載集』雑上・1035
<訳> 滝の流れる水音は、聞こえなくなってからもうずいぶんになるけれども、その名声だけは流れ伝わって、今でも人々の口から聞こえていることだよ。(小倉山荘氏)
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京都市西北部 嵯峨野にある大覚寺、その境内にある大沢池、かつては滝の水が流れ込んでいた。その滝がなくなり、滝音も絶えて随分と経ってしまった。しかしその名声は長く語り継がれてきている。
容(カタチ)は無くなってもその“名だけ”、“名こそ”は後の世に語り継がれてきている。私もこうありたいものだ との感慨を込めた歌なのでしょうか。この歌に因んで、今日その滝は“名こその滝”と呼ばれていて、その名声は、作者・藤原公任の名共々令和の時に生きている。
藤原公任(キントウ、966~1041)は、平安時代中期の公卿、歌人。博学多才、「三船の才」を兼ね備えていたと言われている。上の歌を七言絶句にしてみました。陽光輝く春の情景を想定しています。
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<漢詩原文および読み下し文> [去声十七霰韻]
名古曾瀑布 名古曾(ナコソ)の瀑布(バクフ)
春陽燦燦嵯峨院、 春陽 燦燦(サンサン)たり嵯峨の院、
巌縫激流沫飛濺。 巌縫(イワマ)の激流 沫(シブキ)飛濺(ヒセン)す。
彼瀑布声絶好久, 彼(カ)の瀑布の声(オト)絶(タ)えて好久(ヒサシ)きも,
至今惟名尚伝遍。 今に至るも惟(タダ)名のみは尚(ナオ)伝遍(デンペン)す。
註]
瀑布:滝。 院:庭園。
燦燦:日の光がキラキラと輝くさま。
巌縫:大きな石組の間。 飛濺:飛び散る。
好久:久しい、長い間。 伝遍:知れ渡る。
<現代語訳>
名古曽の滝
春の光がサンサンと降り注ぐ嵯峨野にある庭園、
岩間を落ちる滝の激流 水しぶきを飛ばして下り、庭湖に注ぐ。
現在、彼の滝の音は絶えて久しいが、
その名声だけは今に至るもなお人々に遍く語り伝えられているのだ。
<簡体字およびピンイン>
名古曾瀑布 Mínggǔcéng pùbù
春阳燦燦嵯峨院、 Chūn yáng càncàn Cuó'é yuàn,
岩缝激流沫飞溅。 yán fèng jīliú mò fēijiàn.
彼瀑布声绝好久, Bǐ pùbù shēng jué hǎojiǔ,
至今惟名尚传遍。 Zhì jīn wéi míng shàng chuán biàn.
xxxxxxxxxxxxxxxx
中国の地図を頭に描いてみます。上海辺りで、東シナ海に注ぐ長江。上流へ辿っていくと、南西方向に進み、向きを変えて北西、さらに南西―北西方向とW字状を描いています。最初の凹部には鄱陽湖、続く山部に武漢、次いで第2の凹部に洞庭湖と続きます。
鄱陽湖の辺りには、廬山・九江があり、すでに陶淵明、李白、白楽天等々ゆかりの詩を“旅シリーズ”で読んできました。武漢は、黄鶴楼で有名ですが、近頃、別の話題で記憶に新しい都市である。本稿で話題とする舞台は第2凹部の洞庭湖です。
京都北嵯峨にある観光の名所大覚寺、その境内にある大沢池。この大沢池は、中国・唐文化への憧れが強かった第52代嵯峨天皇(在位809~823)が、中国の洞庭湖を模して築造した人工池の痕跡である と。
大沢池の北東約100m地点に石組が組まれて人口の滝が築かれていた。約16、70年後に作者・公任が訪れた頃には、滝の石組は土に埋もれて、滝の音も聞こえなくなっていたことは上掲の歌から想像されるところである。
大覚寺の前身は、嵯峨天皇が造営した(810~824)離宮で、876年に娘正子内親王(淳和天皇皇后)が、その子恒寂入道親王を開山に大覚寺として開創された と。当時、離宮の庭園には、唐風文化の理想郷を作るべく巨費を投じて滝を備えた人工湖・「庭湖」を作った。
現存の大沢池は、その人工湖の一部であるとされているが、今なお池中には北岸沿いに菊ガ島、当時の画家・巨勢金岡が配置したとされる庭湖石、天神島を確認できる。この二島一石の配置は、華道嵯峨流の基盤とされている と。
埋もれていた滝迹は、発掘調査が進み、石組も明らかにされている。滝から流れる豊富な水流は、その南方に開削された幅5~10mの蛇行溝を通って「庭湖」に注いでいた と。離宮の庭園は泉、滝、名石などの美を極めた庭園であった。
歌の作者・藤原公任に触れます。祖父・実頼、父・頼忠ともに関白・太政大臣を務め、また母(醍醐天皇の孫)、妻(村上天皇の孫)ともに二世の女王と、名門の出である。当然将来が期待されていた。なお前回読んだ「朝ぼらけ…」の作者・定頼は公任の長男である。
公任は、藤原道長(966~1027)と同年で、互いに対抗意識を持ちながら、青年時代から共に行動していたようである。出世争いも激しく、当初公任が先を走っていたが、後に道長に追い越されている。歌壇にあっては、公任が第一人者となった。
和歌の他、漢詩、管弦にも優れた才能を発揮し、道長に対して自らの才能を誇示した「三船の才」({三舟の才}とも)の逸話は特によく知られている。986年10月10日(旧歴)、円融上皇臨席の下、大堰川(保津川)において三舟の遊興が催された。
すなわち、川に漢詩の舟、管弦の舟、和歌の舟を出し、それぞれの分野の名人を乗せて、技量を競わせるのである。道長から乗る舟を尋ねられた公任は、和歌の舟を選んだ。勿論、公任の和歌は賞賛を受けたが、漢詩の舟を選んでおけばもっと名声が上がったはずだと悔やんだ と。
当時、男性貴族にとっては、「漢詩」の方が「和歌」よりも文化的に高く評価されていたのである。この自信に満ちた発言から、公任は「漢詩・管弦・和歌」の三才を持つ男ということで、「三船の才」の人と呼ばれるようになった と。
若い(30歳ちょっと過ぎ?)頃、私撰和歌集『拾遺抄』を撰しているが、後にそれを基に勅撰和歌集『拾遺和歌集』が編纂されている。これが因で公任は歌壇の第一人者と目されるに至ったようである。
私撰集『和漢朗詠集』および『三十六人撰』は出色と言える。前者は、白楽天などの漢詩文590首および紀貫之などの和歌220首を含む と。後者は、“三十六歌仙”として歌人を評価付けする用語の元となっている。勅撰歌人としては『拾遺和歌集』(15首)以下の勅撰和歌集に88首撰されている。
『紫式部日記』に次のような記載があるという:ある宴で、酔った公任が紫式部に対して「若紫は居られませんか」と声をかけた。式部は(光源氏に似た人も居ないのに、どうして紫の上が居るものかしら)と思い、その言を聞き流した と。当時の歌人たちの交流の状況が偲ばれて、心楽しくなります。