愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 148 飛蓬-55 小倉百人一首:(大納言公任) 滝の音は

2020-05-30 10:01:56 | 漢詩を読む
(55番)滝の音は 絶えて久しく なりぬれど
名こそ流れて なほ聞こえけれ
           大納言公任 『千載集』雑上・1035
<訳> 滝の流れる水音は、聞こえなくなってからもうずいぶんになるけれども、その名声だけは流れ伝わって、今でも人々の口から聞こえていることだよ。(小倉山荘氏)

ooooooooooooooo
京都市西北部 嵯峨野にある大覚寺、その境内にある大沢池、かつては滝の水が流れ込んでいた。その滝がなくなり、滝音も絶えて随分と経ってしまった。しかしその名声は長く語り継がれてきている。

容(カタチ)は無くなってもその“名だけ”、“名こそ”は後の世に語り継がれてきている。私もこうありたいものだ との感慨を込めた歌なのでしょうか。この歌に因んで、今日その滝は“名こその滝”と呼ばれていて、その名声は、作者・藤原公任の名共々令和の時に生きている。

藤原公任(キントウ、966~1041)は、平安時代中期の公卿、歌人。博学多才、「三船の才」を兼ね備えていたと言われている。上の歌を七言絶句にしてみました。陽光輝く春の情景を想定しています。

xxxxxxxxxxxxxxxxx
<漢詩原文および読み下し文>  [去声十七霰韻]
名古曾瀑布 名古曾(ナコソ)の瀑布(バクフ)
春陽燦燦嵯峨院、 春陽 燦燦(サンサン)たり嵯峨の院、
巌縫激流沫飛濺。 巌縫(イワマ)の激流 沫(シブキ)飛濺(ヒセン)す。
彼瀑布声絶好久, 彼(カ)の瀑布の声(オト)絶(タ)えて好久(ヒサシ)きも,
至今惟名尚伝遍。 今に至るも惟(タダ)名のみは尚(ナオ)伝遍(デンペン)す。
 註]
瀑布:滝。 院:庭園。
燦燦:日の光がキラキラと輝くさま。 
巌縫:大きな石組の間。   飛濺:飛び散る。          
好久:久しい、長い間。   伝遍:知れ渡る。

<現代語訳>
 名古曽の滝
春の光がサンサンと降り注ぐ嵯峨野にある庭園、
岩間を落ちる滝の激流 水しぶきを飛ばして下り、庭湖に注ぐ。
現在、彼の滝の音は絶えて久しいが、
その名声だけは今に至るもなお人々に遍く語り伝えられているのだ。

<簡体字およびピンイン>
名古曾瀑布 Mínggǔcéng pùbù
春阳燦燦嵯峨院、 Chūn yáng càncàn Cuó'é yuàn,
岩缝激流沫飞溅。 yán fèng jīliú mò fēijiàn.
彼瀑布声绝好久, Bǐ pùbù shēng jué hǎojiǔ,
至今惟名尚传遍。 Zhì jīn wéi míng shàng chuán biàn.
xxxxxxxxxxxxxxxx

中国の地図を頭に描いてみます。上海辺りで、東シナ海に注ぐ長江。上流へ辿っていくと、南西方向に進み、向きを変えて北西、さらに南西―北西方向とW字状を描いています。最初の凹部には鄱陽湖、続く山部に武漢、次いで第2の凹部に洞庭湖と続きます。

鄱陽湖の辺りには、廬山・九江があり、すでに陶淵明、李白、白楽天等々ゆかりの詩を“旅シリーズ”で読んできました。武漢は、黄鶴楼で有名ですが、近頃、別の話題で記憶に新しい都市である。本稿で話題とする舞台は第2凹部の洞庭湖です。

京都北嵯峨にある観光の名所大覚寺、その境内にある大沢池。この大沢池は、中国・唐文化への憧れが強かった第52代嵯峨天皇(在位809~823)が、中国の洞庭湖を模して築造した人工池の痕跡である と。

大沢池の北東約100m地点に石組が組まれて人口の滝が築かれていた。約16、70年後に作者・公任が訪れた頃には、滝の石組は土に埋もれて、滝の音も聞こえなくなっていたことは上掲の歌から想像されるところである。

大覚寺の前身は、嵯峨天皇が造営した(810~824)離宮で、876年に娘正子内親王(淳和天皇皇后)が、その子恒寂入道親王を開山に大覚寺として開創された と。当時、離宮の庭園には、唐風文化の理想郷を作るべく巨費を投じて滝を備えた人工湖・「庭湖」を作った。

現存の大沢池は、その人工湖の一部であるとされているが、今なお池中には北岸沿いに菊ガ島、当時の画家・巨勢金岡が配置したとされる庭湖石、天神島を確認できる。この二島一石の配置は、華道嵯峨流の基盤とされている と。

埋もれていた滝迹は、発掘調査が進み、石組も明らかにされている。滝から流れる豊富な水流は、その南方に開削された幅5~10mの蛇行溝を通って「庭湖」に注いでいた と。離宮の庭園は泉、滝、名石などの美を極めた庭園であった。

歌の作者・藤原公任に触れます。祖父・実頼、父・頼忠ともに関白・太政大臣を務め、また母(醍醐天皇の孫)、妻(村上天皇の孫)ともに二世の女王と、名門の出である。当然将来が期待されていた。なお前回読んだ「朝ぼらけ…」の作者・定頼は公任の長男である。

公任は、藤原道長(966~1027)と同年で、互いに対抗意識を持ちながら、青年時代から共に行動していたようである。出世争いも激しく、当初公任が先を走っていたが、後に道長に追い越されている。歌壇にあっては、公任が第一人者となった。

和歌の他、漢詩、管弦にも優れた才能を発揮し、道長に対して自らの才能を誇示した「三船の才」({三舟の才}とも)の逸話は特によく知られている。986年10月10日(旧歴)、円融上皇臨席の下、大堰川(保津川)において三舟の遊興が催された。

すなわち、川に漢詩の舟、管弦の舟、和歌の舟を出し、それぞれの分野の名人を乗せて、技量を競わせるのである。道長から乗る舟を尋ねられた公任は、和歌の舟を選んだ。勿論、公任の和歌は賞賛を受けたが、漢詩の舟を選んでおけばもっと名声が上がったはずだと悔やんだ と。

当時、男性貴族にとっては、「漢詩」の方が「和歌」よりも文化的に高く評価されていたのである。この自信に満ちた発言から、公任は「漢詩・管弦・和歌」の三才を持つ男ということで、「三船の才」の人と呼ばれるようになった と。

若い(30歳ちょっと過ぎ?)頃、私撰和歌集『拾遺抄』を撰しているが、後にそれを基に勅撰和歌集『拾遺和歌集』が編纂されている。これが因で公任は歌壇の第一人者と目されるに至ったようである。

私撰集『和漢朗詠集』および『三十六人撰』は出色と言える。前者は、白楽天などの漢詩文590首および紀貫之などの和歌220首を含む と。後者は、“三十六歌仙”として歌人を評価付けする用語の元となっている。勅撰歌人としては『拾遺和歌集』(15首)以下の勅撰和歌集に88首撰されている。

『紫式部日記』に次のような記載があるという:ある宴で、酔った公任が紫式部に対して「若紫は居られませんか」と声をかけた。式部は(光源氏に似た人も居ないのに、どうして紫の上が居るものかしら)と思い、その言を聞き流した と。当時の歌人たちの交流の状況が偲ばれて、心楽しくなります。
コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話休題 147 飛蓬-54 小倉百人一首:(権中納言定頼)  朝ぼらけ

2020-05-22 09:21:59 | 漢詩を読む
(64番)朝ぼらけ 宇治(うぢ)の川霧(かはぎり) たえだえに
あらはれわたる瀬々(せぜ)の網代木(あじろぎ)
         権中納言定頼『千載集』冬・419
<訳> 明け方、あたりが徐々に明るくなってくる頃、宇治川の川面にかかる朝霧も薄らいできた。その霧がきれてきたところから現れてきたのが、川瀬に打ち込まれた網代木だよ。(小倉山荘氏)

oooooooooooooooo
所は宇治川のほとりの別荘。寝起き端、縁に出ると風が頬を撫ぜ、ヒンヤリと心地よい。川面を見遣ると、立ち込めていた霧が徐々に薄れて途切れていく。霧の切れ間にはきれいに並んだ網代木が次第に見えてきた。やがてお日様も顔を覗かせるのでしょう。

作者・権中納言定頼は、前回(閑話休題146)に述べたように、小式部内侍をからかって、逆にやり込められたという、その人です。上の歌では、なんらの技巧を凝らすことなく、夜明けとともに始まる宇治川の情景の変化が見事に詠われていて、筆者好みの歌です。

漢詩化するに当たっては、作者の立つ状況・位置を詠み込みました。歌の理解に役立てば幸いである。七言絶句にしてみました。

xxxxxxxxxxxxxxx
<漢詩原文および読み下し文>  [上平声十四寒韻]
宇治川黎明情景 宇治川 黎明(レイメイ)の情景
遠山颯颯朔風寒、 遠山(エンザン) 颯颯(サツサツ)として朔風(サクフウ)寒く、
払暁悠悠倚欄干。 払暁(フツギョウ) 悠悠(ユウユウ)として欄干に倚(ヨ)る。
処処宇治川霧散、 処処(ショショ) 宇治の川霧(カワギリ)散じ、
網代木顕頭浅灘。 網代木(アジロギ) 頭を顕(アラワ)す浅灘(センタン)に。
 註]
  颯颯:風の吹き寄せる音。  朔風:北風。
払暁:明け方。       悠悠:ゆったりと落ち着いたさま。
倚:寄りかかる。
  網代木:“網代”を張るために浅瀬に打ち込んだ杭。“網代”は、氷魚(ヒオ、アユの稚魚)をとるために竹や木を編んだもの。
  浅灘:浅瀬。
<現代語訳>
 宇治川の明け方の情景
遠くの山からさわさわと吹いてくる北風が頬を撫ぜてひんやりとする、
明け方、欄干に凭(モタ)れて屋外を見遣る。
切れ切れに至る所で宇治の川霧が晴れてきて、
その晴れ間に、浅瀬に打ち込まれた網代木がその頭を現わしてきた。

<簡体字およびピンイン>
宇治川黎明情景 Yǔzhìchuān límíng qíngjǐng
远山飒飒朔风寒, Yuǎn shān sàsà shuò fēng hán,
拂晓悠悠倚栏杆。 fúxiǎo yōuyōu yǐ lángān.
处处宇治川雾散, Chùchù Yǔzhì chuān wù sàn,
网代木显头浅滩。 wǎng dài mù xiǎn tóu qiǎntān.
xxxxxxxxxxxxxxx

平安時代には宇治川の辺りは貴族の別荘が建てられ、有名なリゾート地であったらしい。冬になると川面に霧が発生し、貴族たちの詩情を駆り立てたようだ。また琵琶湖で育った鮎の稚魚“氷魚(ヒオ)”が生息し、氷魚漁が宇治の主産業であった と。

紫式部の『源氏物語』「宇治十帖」が読まれるに及び、宇治の風物の人気に拍車が掛けられたようである。歌の世界では“宇治の川霧”は定番となって、歌枕として頻繁に詠いこまれるようになっていった。

氷魚を獲るのに、“網代(アジロ)”と呼ばれ、“網の代わり”に竹などでできた仕掛けが用いられ、川の浅瀬には“網代”を固定する“木の杭(網代木)”が打ち込まれていた。想像するに、“網代木”は、川上を開口部に、氷魚を誘い、囲い込むよう、整然と並んで立てられていたことでしょう。

明け方、微風に流されていく霧の晴れ間に、網代木が見え隠れしつつ変わっていく情景、やはり味わい深い、佳い歌と率直に感じいります。この情景、今は昔語りとなっているようです。平等院の宇治川沿いの「あじろぎの路」が、網代漁の場所であった として語られている。

宇治川は氾濫して洪水を起こすことが屡々であった。鎌倉時代中期、奈良西大寺の僧・叡尊(1201~1290)の発案で、「川の氾濫被災は、魚の殺生による」として、氷魚漁は禁止された。漁具等は川中島に埋められ、埋跡に供養のために石塔が建てられた。塔の島の十三重の石塔として遺っている。

漁師の失業対策として、叡尊は茶の栽培を興した。嘗ては 宇治川河畔は茶畑で、この茶葉を宇治川の霧が霜から守り、良質なお茶が育った。今日味わえる香ばしい宇治茶の誕生である。

作者・権中納言定頼(995~1045)に触れます。藤原定頼のことで、最終官位が権中納言である。百人一首では作者名は、作詞の時期ではなく、ほぼ最終官位が冠せられている。博学多才な文人、藤原公任(百人一首55番)の長男である。

父親の才能をしっかり受け継ぎ、和歌に書道、管弦にと才能豊かである。諸所の歌合せに参加し、中古三十六歌仙の一人に選ばれている。『後拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に45首入っており、家集『定頼集』がある。

少々茶目っ気のある人であったのでしょうか。前回に触れた小式部内侍に遣り込められた話もそうであるが、いま一つその人柄を想像させる逸話が語られている。

一条天皇の大堰川行幸にお供した折の事である。父・公任も同行していた。例に拠って、同行の各人それぞれ感想の歌を披歴した。定頼の番が回ってきて、読み手が上の句を読み出した:
「水もなく 見え渡るかな 大堰川」 と。

満々と水を湛えている大堰川を前に、「えらいこっちゃ」と父・公任は顔面蒼白、ヤキモキしていたことは想像に難くない。読み手は、間を置いて:
「峰の紅葉は 雨と降れども」。

なんと、紅葉を雨に見立てて詠んだのである。歌の素晴らしい出来栄えに、居合わせた人々からは感嘆の声が上がり、父・公任も胸を撫で下ろした と。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話休題 146 飛蓬-53 小倉百人一首:(小式部内侍)  大江山

2020-05-15 09:50:09 | 漢詩を読む
(60番)大江(オホエ)山 いく野の道の 遠(トホ)ければ
まだふみもみず 天の橋立
小式部内侍 『金葉集』雑上・550
<訳> 大江山を越え、生野を通る丹後への道は遠すぎて、まだ天橋立の地を踏んだこともありませんし、母からの手紙も見てはいません。(小倉山荘氏)

oooooooooooooo
秀でた母(和泉式部)を持つ故に、自作の歌も「母の代作では?」と周りから疑われる。ある歌会に招かれた折、知人の男性から「歌会用の歌は如何?母から送ってもらいましたか?」と揶揄された。「母は遠国・丹後にいる。母からの便りなどありません!」と、即座に状況証拠を歌にして、反論しています。

和泉式部の娘・小式部内侍(コシキフノ゙ナイシ)の歌を取りあげました。小式部内侍は、年少ながら余りにも歌が上手く、彼女の歌は母の代作では?との噂があったという。即座にできた上の歌で、その歌才は天下に認められるようになった と。

漢詩では、歌の背景は,詞書を要約して“序”として添えました。大江山、生野、天の橋立、丹後と地名が多く、漢詩化するには難渋しました。何とか形を整え、小式部内侍の思いは伝えられているかな と思っています。あわせてご鑑賞ください。

xxxxxxxxxxxxxxxx
<漢詩原文および読み下し文>  [上声二十五有韻]
 釋疑  疑いを釋(ト)く
序:我的母親在丹後国府是一個有名的歌人。最近応一個歌会的邀請為我参会準備了。諸位好像懐疑我的歌是母親的作品。有個男人開翫笑,説了我一定收到母親的信跟歌吧。于是我即時贈了他這首歌。

越過大江達丹後, 大江(オオエ)を越えて丹後(タンゴ)に達する,
由生野道遥遠走。 生野(イクノ)の道を由(ヘ)て 遥かに遠く走(ユ)く。
尚未踏上天橋立, 尚(ナオ)未(イマ)だ天橋立に踏上(フミイッ)たことなし,
况母親信何処有。 况(イワ)んや母親(ハハ)の信(タヨリ)は何処(イズク)にか有(ア)る。
 註]
  大江:大江山、大枝山ともいう。山城・丹後の境界をなす山。
  丹後:丹後国、現京都府宮津市、名勝地・天橋立がある。
  生野道:現京都府福知山市字生野、当時の丹後への経由地。
 ※ 生野(いくの)と走(いく)、踏(ふみ)と信(便り、ふみ)は、それぞれ歌の掛詞を活かした。
<現代語訳>
 疑いを晴らす
 序:私の母は有名な歌人で、現在丹後の国府に行っている。最近,私はある歌会に招かれて、参加することになった。しかし多くの方々が、私の歌は、母が作ったのではないかと、疑っているようだ。ある男の方が私をからかって、歌会に間に合うようにお母さんから便り(歌)は届きましたかと言った。そこで直ちに次の歌を彼に贈った。

大江山を越え、丹後の国府に行くには、
生野の道を経由して遥か遠くに行く。
天橋立にはなお未だに足を踏み入れたこともないし、
況や母からの便りは何処にあるというの、見たこともありませんよ。

<簡体字およびピンイン>
 释疑 Shìyí
 序: 我的母亲在丹后国府是一个有名的歌人。最近应一个歌会的邀请为我参会准备了。诸位好像怀疑我的歌是母亲的作品。有个男人开玩笑,说了我一定收到母亲的信跟歌吧。于是我即时赠他这首歌。
 Xù: Wǒ de mǔqīn zài Dānhòu guófǔ shì yī gè yǒumíng de gērén. Zuìjìn yīng yī gè gēhuì de yāoqǐng wèi wǒ cān huì zhǔnbèi le. Zhūwèi hǎoxiàng huáiyí wǒ de gē shì mǔqīn de zuòpǐn. Yǒu gè nánrén kāiwánxiào, shuōle wǒ yīdìng shōu dào mǔqīn de xìn gēn gē ba. Yúshì wǒ jíshí zèng tā zhè shǒu gē.

越过大江达丹后, Yuèguo dàjiāng dá Dānhòu,
由生野道遥远走。 yóu shēngyě dào yáoyuǎn zǒu.
尚未踏上天桥立, Shàng wèi tàshàng Tiānqiáolì,
况母亲信何处有。 kuàng mǔqīn xìn hé chù yǒu.
xxxxxxxxxxxxxxxxx

前回の和泉式部の稿(閑話休題145参照)で触れたように、両親の結婚は999年頃で、小式部内侍の誕生を1年後、さらに義父の丹後赴任を1013年と仮定すると、“大江山~”の歌は、小式部内侍の10代前半の頃の作品と推定される。

その頃にはすでに歌人として人々の話題に登っていたようであるが、年少故であろう、彼女の歌は母の代作では との疑いの目で見られていたようだ。ある歌会から参加の声が掛かってきた。本来、母に掛かるはずであったろうが、母は夫に伴って丹後に赴いていた。

同じく同歌会に参加予定されていた中納言定頼(サダヨリ、百人一首64番)が小式部内侍の局にやってきて、「歌会用の歌はどうされます?丹後の母から便りは届きましたか?」と、暗に母の代作を匂わせる意地悪な質問をした。

小式部内侍は、即座に上の歌を詠んで中納言に贈り、反論した。本来なら贈られた歌に対して返歌で答えるのが習わしであろうが、中納言は、返す言葉も歌もなく、引き留める袖を振り切って、その場からそそくさと逃げ出した という。この一件以後、疑いは晴れ、内侍の歌人としての名声は高まったという。

小式部内侍は、母とともに第66代一条天皇の中宮・藤原彰子に仕えていた。母・和泉式部と区別するため「小式部」という女房名で呼ばれるようになった と。また母とともに、「女房三十六歌仙」の一人に選ばれている。

小式部内侍は、やはり母同様に恋多き女性で、歌の世界でも指導的な立場にある多くの高貴な男性たちと交際していた。子供は3人設けているが、公卿の藤原公成との間に、後に頼忍阿闍梨となる3人目の子供を出産した。その折、産後の肥立ちがよくなかったのでしょうか、20代の若さで亡くなっています(1025)。

周囲の人々も驚き、またその才能を惜しんだ。母・和泉式部の嘆きは尋常でなかったことは、前回に触れましたが、娘の逝去を悼む歌を数多く残しているようです。その一首(『学研全訳古語辞典』に拠る)を紹介します。詞書に「孫どもを前にして詠んだ」とある。

とどめおきて 誰をあはれと 思うらむ
   子はまさるらむ 子はまさりけり(『後拾遺集』 哀傷・和泉式部)
[亡くなった娘は、この世に自分の子供たちと母親の私を残して、いったい誰のことをしみじみと思い出しているのだろうか。きっと我が子を思う気持ちの方がまさっているのだろう。私もあの子との死別がつらくて、ひたすら思っているのだから。]

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話休題 145 飛蓬-52 小倉百人一首:(和泉式部)  あらざらむ

2020-05-08 15:47:09 | 漢詩を読む
(56番)あらざらむ この世の外の 思ひ出に
今ひとたびの 逢ふこともがな
             和泉式部 『後拾遺集』恋・763
<訳> もうすぐ私は死んでしまうでしょう。あの世へ持っていく思い出として、今もう一度だけお会いしたいものです。(小倉山荘氏)

oooooooooooooo
病に臥して末期に近い状態で、‘今一度あなたにお逢いし、愛していただけたら′ と、心残りの文を男の元に届けています。強烈な情念が感じられる歌です。

華々しい恋の遍歴を経、父親からは勘当され、時の大臣・藤原道長からは「浮かれ女」と評された和泉式部の歌が今回の話題です。たぎる情熱は、最後まで燃え尽きることがなかったようです。

漢詩では、歌の詞書に沿いながらも、作者の情熱に後ろから押される感じで、少々オーバーな表現になったかな と思わないでもありませんが。併せてご鑑賞ください。

xxxxxxxxxxxxxxxx
<漢詩原文および読み下し文>   [上声四紙韻]
 恋愛没有竟時   恋愛に竟時(キョウジ)なし
病床予躺寄君信, 予(ワタシ)は病床に躺(ヨコ)たわりしまま君に信を寄す、
屋頂烏啼告人死。 屋頂(オクジョウ)では烏(カラス)啼き 人に死期を告げるあり。
作為今生懐念録, 今生の懐念(オモイデ)の録(ロク)と作為(シ)て,
只再一次想逢你。 只だ再一次(イマイチド) 你(アナタ)に逢(ア)いたく想う。
 註]
  竟時:終るとき。      躺:横になる。    
作為:……とする。     懐念:しのぶ。    

<現代語訳>
 恋に終る時無し
体調思わしくなく病床で横になっている中、便りを差し上げます、
幻想か、屋上では烏が鳴いて、死期の近いことを告げているようです。
今生の思い出のよすがに、
今もう一度だけあなたにお会いしたいものです。

<簡体字およびピンイン>
 恋爱没有竟时 Liàn'ài méiyǒu jìng shí
病床予躺寄君信, Bìngchuáng yú tǎng jì jūn xìn,
屋顶乌啼告人死。 wūdǐng wū tí gào rén sǐ.
作为今生怀念录, Zuòwéi jīnshēng huáiniàn lù,
只再一次想逢你。 zhǐ zài yīcì xiǎng féng nǐ. 
xxxxxxxxxxxxxxx

作者・和泉式部の紹介から始めます。同僚の先輩・紫式部は、和泉式部について、「恋文や和歌は素晴らしいが、素行には感心できない」と『紫式部日記』に記しているという。この一言に尽きるか と。掲題の歌を理解するには必須と思われるので、まず素行・恋の遍歴、併せて彼女の生涯を通覧してみます。

20歳の頃、和泉守橘道貞と結婚(999以前)、和泉国(現大阪府南部)に赴きます。‘和泉式部’と称される所以である。帰京後、道貞との関係が破局。弾正宮(為尊親王、冷泉天皇第3皇子)との恋が原因のようである。“身分不相応の恋”だ と、父親から勘当される羽目に。

不幸にも弾正宮が早世(26歳、1002)。翌年、彼の弟・帥宮(敦道親王)の求愛を受けて同居、結果、帥宮の正妻が退居するという大騒動となる。しかし帥宮も早世(27歳、1007)します。その後、一条天皇・中宮彰子(道長の娘)の女房として仕える(1008~11)。以後、丹後守・藤原保昌と再婚(1013)、丹後に赴きます。

橘道貞とは一子・小式部内侍を設けています。彼女も母親に似て、歌の才能に恵まれ、百人一首に歌(60番)が採首されています。彼女は、母に先立ち1025年に亡くなりました。娘を亡くした和泉式部の落胆は計り知れず、仏教への傾倒も伺えるという。

娘を亡くした悲しみを癒すためにと、1027年、藤原道長が小庵を建て、和泉式部に贈った と。それが元となった寺・誠心院が今日京都中京区に残っており、和泉式部寺とも呼ばれている と。

さて、「浮かれ女」と評した藤原道長が、和泉式部に対して、中宮彰子に仕えることを認め、また庵を贈っています。それらの事実は、道長が和泉式部の和歌の才能を認めていた故である と評されています。

和泉式部の生没年は不詳である。ただ上に挙げた遍歴の年代を基に推論することは可能である。すなわち生年は979年以前、また道長から庵を贈られたのは48余歳の頃であり、その頃までは病床に臥すなど、健康上問題はなかったと推論される。以後の動静は不明である。

併せて、掲題の和歌の作年代は48歳以後と推定されます。当時の寿命を勘案するなら、「今生の思い出に今一度」との文は、かなり高年齢時の訴えであると言えます。まさに“恋に終りなし”と言えようか。一方、文の送り先の男性は、果たして誰であろうか?謎である。

和泉式部は、越前守大江雅致と越中守平保衡の娘との間に生まれる。母がさる内親王付の女房であった関係で、和泉式部は同内親王付の女童であったらしい。幼少のころから宮中に身を置いていたようですが、数々の優れた歌を残すほどの教育を如何様に身に着けたかは不明である。

和泉式部は、中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人に数えられている。また中宮彰子に仕えた歌人ベスト5 =“梨壷五歌仙 [紫式部(百人一首57番)・赤染衛門(59番)・伊勢大輔(61番)・和泉式部・馬内侍]= の一人として数えられている。

『拾遺和歌集』以下、勅撰和歌集に246首採用されており、死後初の勅撰集『後拾遺和歌集』では最多入集歌人であるという。複数の家集が伝えられている。次の歌は、勅撰集『拾遺和歌集』(成立:1005~1007)に初めて採られた歌とのことである:

暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき
   はるかに照らせ 山の端の月(拾遺和歌集 哀傷1342)
[今暗い道にあって さらに暗い煩悩の道へと 入っていく私。はるかな遠い場所から そんな私を照らしておくれ、山の端に懸かる月よ]

 書写山円教寺(兵庫県姫路市)を訪ね、性空上人に贈った歌とされている。『拾遺和歌集』の成立年代から推して、この歌は、弾正宮の逝去に遭った後、20歳代前半の作と思われます。恋愛一筋でない面が伺えて、一編では書き尽くせないお人と感じ入っている次第である。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話休題 144 飛蓬-51 小倉百人一首:(紀友則) ひさかたの

2020-05-01 14:00:13 | 漢詩を読む
(33番)  ひさかたの 光のどけき 春の日に
       しづこころなく 花の散るらむ
                紀友則
<訳> 日の光がのどかにさすこの春の日に、どうして落ち着いた心もなく、桜の花は散ってしまうのだろうか。(板野博行)

oooooooooooooo
桜の花が舞い散るのを見て、柔らかい春の日和だというのに、どうしてこんなに散り急ぐのであろうか と。ひらひらと舞い散る花の情景も素晴らしい。でももっとゆっくりと楽しませてくれてもよいものを と惜しがっているようです。

作者の紀友則は、紀貫之のいとこに当たる人で、三十六歌仙の一人。『古今和歌集』の編纂に携わっていたが、完成を見ないで病没した。上の歌は、日本人の心情を見事に表現した秀歌とされています。

北の地域では、まだ花を楽しむことができるでしょうか。ただ、今年は全国的にコロナ禍に見舞われて世の安寧が損なわれ、花の心に想いを致す機会が失われたのでは と危惧しています。上の歌を五言絶句の漢詩にしてみました。和歌と併せて、ご鑑賞頂きたく。

xxxxxxxxxxxxxxxx
<漢字原文および読み下し文>  [下平声七陽韻]
 春日看落花有懐  春日 落花を看(ミ)て懐(オモイ)有り
晴朗麗春日, 晴朗にして麗(ウラ)らかなる春日(シュンジツ),
悠閑久方光。 悠閑(ユウカン)たる久方(ヒサカタ)の光。
軟風花飘散, 軟風(ナンフウ)に花 飄散(ヒョウサン゙)す,
怎落得連忙。 怎(ナニユエ)に落ちること連忙(レンボウ)なる。
 註]
  晴朗:空が晴れ渡ってのどかなさま。  悠閑:穏やかにゆったりしている。
  久方:枕詞「ひさかたの」の当て字。  軟風:そよ風。
  飘散:(風に)ひらひら散っている。   怎:どうして、何ゆえに。
  連忙:急いで、すぐに。

<現代語訳>
 春の日 桜花の散るのを見て懐う
空は晴れ渡り麗らかな春の日に、
穏やかに射す春の日の光。
そよ風に桜の花びらがひらひらと舞い散っている、
花は 何ゆえにこうも忙しげに散り行くのであろうか。

<簡体字およびピンイン>
 春日看落花有怀 Chūnrì kàn luòhuā yǒu huái
晴朗丽春日, Qínglǎng lì chūnrì,
悠闲久方光。 yōuxián jiǔfāng guāng.
软风花飘散, Ruǎn fēng fēi piāosàn, 
怎落得连忙。 zěn luòde liánmáng.
xxxxxxxxxxxxxx

今回の歌でも、枕詞(マクラコトバ)が出てきました。“ひさかたの”は、天、月、雲、光などに掛かる枕詞です。歌の意味を訳する上で特に意味を持つ語ではありませんが、和歌にとっては大事な要素と言えます。漢詩でも“当て字”を用いて敢えて表現しました。

作者・紀友則(?~905)は、平安時代前期に活躍した歌人で、菅原道真(845~903)と同時代の人である。菅原道真については、先にごく簡単に紹介しました(閑話休題137)が、補足を兼ねてここで再登場して頂きます。

菅原道真は学者の家系に生まれながら、文章博士、遂には右大臣にまで昇進します。その昇進および活躍ぶりが、周囲の妬みを買い、謀反を計画したとの讒言にあい、大宰府へ太宰員外帥として左遷され、2年後、失意のうちに没します。

以後、都では数々の天変地異に見舞われ、また要人たちが相次いで死没していきます。それらの異変は、菅原道真の怨霊によるのであろうとされ、世の中を恐怖の渦中に陥れた感さえあります。以後、菅原道真の霊を慰めようと、“神”として祀られることになりました。

菅原道真左遷の基となった讒言の主謀者は時の左大臣・藤原時平ではないかとされています。但しその真偽は不明であり、ここでは、同時代人・紀友則の境遇との対比を際立たせる意図もあって、一般論(?)として藤原時平を“悪者”として見ます。

一方、本稿の主人公・紀友則との関連でみると、藤原時平の異なった面が見られるように思われる。但し、この点も、明確な記録はなく、先人たちの推測の域に限られるようですが。

紀友則は、歌人としては高く評価されていたようですが、40歳過ぎまで無官で、不遇のようであった。その彼の才能を認め、取り立てたのは藤原時平ではなかったか と推測させる事柄が『後撰和歌集』に残る贈答歌―以下その要旨を示す―で読み取れるという。

偶々、友則が時平と会う機会があったようです。その折に時平は、友則の年齢が40過ぎである事を聞き驚き、「その歳になるまでどうして花も咲かず、実も結ばなかったのか」と問う歌を友則に贈った。

紀友則は、「人事異動が行われる春は、毎年違うことなくきているのに、自分のような花の咲かない木をなぜ植えたのか」と嘆きの歌を返したという。この遣り取りの後に、紀友則は、土佐掾、続いて大内記の職を得ているという。

内記とは、天皇の命令を伝える公文書などを書いたり、宮中の記録を作ったりするエリート職であり、後に紀貫之もこの役職に就いている。それらの事象の時系列から推して、紀友則が官職を得たのは時平の恩情・推薦によるのでは と推測される と。

勿論、歌の贈答を契機に、友則の才能を認めた故であることは論を俟つまい。就職という現実面から離れて、和歌の世界で周りを唸らせ、出世の切っ掛けとなったとする逸話もあります。

禁中で行われたある歌合せで、「初雁」という秋の題で和歌を競うことになった。その折の紀友則の歌は:

春霞 かすみて往(ユキ)にし 雁がねは 今ぞ鳴くなる 秋霧の上に
 [春霞にかすんで飛んで去った雁が、今また鳴くのが聞こえる、秋霧の上に]

初句の“春霞”と聞いた時、周りの人たちは、季節が違う と大いに笑った。が第二句以下の展開を聞いて、黙り込んでしまった と。やはり、今回話題の歌と共に、一味違う歌であるように思われ、その優れた歌才には感服する次第である。

紀友則は、三十六歌仙の一人であり、『古今和歌集』の45首を含めて、『後撰和歌集』や『拾遺和歌集』などの勅撰和歌集に計64首収められている。また歌集に『友則集』がある と。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする