愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 206 飛蓬-113 コロナ・第3次緊急事態宣言

2021-04-26 10:09:45 | 漢詩を読む
国内でのコロナ感染増加第4波に対処すべく、この4月25日~5月11日の間、活動自粛の第3次緊急事態宣言が発せられた(4/23)。第2次宣言の解除後、1カ月半ほど経過した時点での再再度宣言である。但し今次の対象は4都府県に限られるが。

早期の収束を願いつつも、思いは裏切られっぱなし。本より無生物に近いコロナに、霊長類・人の思惑への忖度を期待する方が無理であろうが。折ごとに“コロナ生活”の状況の一断面を“漢詩”として切り取ってきて、今回は7作目となる。虚しさが増すこの頃ではある。

xxxxxxxxxxxxxxx  
<漢詩原文および読み下し文> [下平声五歌六麻韻] 
 辛丑孟夏第三次告紧 
浮雲処処独煎茶, 浮雲 処処たり 独(ヒト)り茶を煎(ニ)る, 
燕子翩翩悦奈何。 燕子(エンシ) 翩翩(ヘンペン)たり 悦(ヨロコビ)や奈何(イカンゾ)。 
碍寄南枝冠病禍, 南枝(ナンシ)に寄るを碍(サマタゲ)る冠病(コロナ)の禍(カ), 
近来人事欲消磨。 近来(キンライ) 人事(ジンジ) 消磨(ショウマ)せんと欲(ホッ)す。 
 註] 
  翩翩:鳥の軽やかに飛ぶさま。  碍:妨げる。 
  南枝:「古詩十九首 其一」、“越鳥巣南枝”に依った。生まれ故郷を懐かしむ意。 
  結句:「賀知章の回郷偶書 其二」から「近来人事半消磨」の句をほぼ丸ごと 
   活用させてもらった。“近来”:近頃; “人事”:人間社会のできごと; 
   “消磨”:すり減ること。 
   
<現代語訳> 
 令和三年初夏 第三次緊急事態宣言  
碧天のあちこちに浮雲がゆっくりと流れゆく中、一人茶を淹れて一服している、 
中庭の植え込み上空を燕が軽やかに舞っている。古巣に帰ってきたのだ、 
 喜びやいかに? 
人々は猶もコロナ禍で禁足、定期的に訪れていた故郷に近づくことさえ憚られる、 
長引くコロナ下での生活には、この頃、故郷の記憶も薄れそうで、気が滅入ってくるよ。 

<簡体字およびピンイン> 
 辛丑孟夏第3次告紧 Xīn chǒu mèngxià dì 3 cì gào jǐn  
浮云处处独煎茶, Fúyún chùchù dú jiān chá, 
燕子翩翩悦奈何。 yànzi piānpiān yuè nài。 
碍寄南枝冠病祸, Ài jì nán zhī guān bìng huò,  
近来人事欲消磨。 jìnlái rénshì yù xiāo. 
xxxxxxxxxxxxxxx 

雨後の両三日、黄砂によると思われる霞みも晴れて、あちこちと浮雲が漂う紺碧の空の下、山の稜線もくっきりと見えている。作業に取り掛かる前、お茶を一服しながら、一日の段取りに想いを巡らす朝のひと時である。

ビル6階の窓越しに外に目をやると、植え込みの上空を数羽の燕が右に左に、上へ下へと大きく輪を描いて舞っている。時に微かにチッチッと鳴き声を発している。巣立った “旧巣”を忘れずに、長旅の後、無事に “貧しき主(アルジ)の元へ”帰って来たのであり、喜びが溢れて舞に興じているように見える。

季節は巡る。コロナ感染者数の増減も波打つが、特に一定の周期はない。しっかりと対策を取れば減じ、怠れば増える、このことは、これまでの経験から明らかになっている。今般第4波発現への対処として3回目となる緊急事態宣言(ブレーキの強化)が発令された。

ただ一市民の感覚として、コロナに関し、今回の宣言発出を含めて、諸事の“決断”において遅きに失しているのでは?と思えてならない。潜伏期間が長いコロナで、症状発現時を目途に検査を進めている現況故に、特にその感が強い。我国のトップリーダーは、随分と悠長な性質の方か、と推察される。 

・ブレーキとアクセルを同時に踏む、・感染者数が増える傾向にあってもなお「未だx波とは言えない」、・都心部で異常に増加している段階で「未だ“うねり”になっているとは思えない(全国的に拡大していないという意味か?)」、・「変異種を甘く見ていた」、・「Y月までにはワクチン接種を終える」等々。

100 m徒競走で“フライング”という言葉をよく耳にする。同競技では失格とされる行動であるが、コロナではむしろ積極的に考慮・実践すべきことと思える。経験や科学データを基に“科学的発想法”を以て“洞察力”を働かせて先を読み、先手を打って早めの対策を講ずる(“フライング”)、このような心構えが欲しいものである。

今回の宣言では強力な対策が採られる。しかし、全国的に斯くも感染数が増えた状況では、結果を想像するに、やはり胸の奥で楽観的な希望が湧くことはない。無いもの強請りながら、「ワクチンの活用なくしては“神頼み・念力頼み”に終わるのでは」と。

With-coronaの生活下、感染蔓延状態の都心部と他府県間では特にそうであるが、故郷への訪問も“不要不急の移動”として、余儀なく自粛せざるを得ないのである。この状態が長引くと、懐かしの故郷の山や川、思い出の景色も色あせて行きそうである。

先の当blog(閑話休題-200)において、読者・吾一さんからコメントを頂いています。「感染させるのも人、感染するのも人…なんですよね」と。「自分を守り、他人を守る」の心掛けをより強くして、国民一人一人が“真摯に”(この言葉が虚しい言葉とならないよう願いも込めて)対応していくよう念ずる次第である。 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話休題 205 飛蓬-112 小倉百人一首:(三条院)こころにも

2021-04-19 10:24:06 | 漢詩を読む
68番 心にも あらで憂き世に ながらへば 
      恋しかるべき 夜半の月かな 
          三条院 (後拾遺和歌集 雑1・860)                  
<訳> 心ならずも、このつらい世の中に生きながらえることがあれば、きっと恋しく思い出すに違いない今夜の月であることよ。(板野博行) 

ooooooooooooo
運命に翻弄されるように、心ならずも退位を決意する三条天皇の心象風景を示す歌と言えよう。この先、さらに長寿を望むわけではないが、もしや命が永らえたなら、きっと今夜のこの月を懐かしく思い出すことであろう と。

作者・三条天皇(67代、生没年976~1017;在位1011~1016)の治世は、その前後を含めて皇位継承の問題を孕みつつ、天皇自身眼病等の病を患い、不安定な時代と言えた。対照的に藤原道長(966~1027)を核として、藤原氏の全盛を極めた時に当たる。

歌に添えられた「病気故に退位の決意をした」旨の詞書を活かして詩題とし、七言絶句の漢詩としました。

xxxxxxxxxxxxxxx  
<漢詩原文および読み下し文> [入声六月韻] 
  退位時詠懐    退位時 懐(オモイ)を詠む 
宿痾令我久煩悩、 宿痾(シュクア) 我をして久しく煩悩(ボンノウ)せしめる、 
時不与人為隠没。 時 与(クミ)せざれば 人は為(タメ)に隠没(インボツ)せん。 
本非所希長寿命、 本(モト)より希(ネガ)う所に非ずも もしや寿命 長ければ、 
必定懐念夜闌月。 必定(カナラ)ずや懐念(カイネン)せん 夜闌(ヤラン)の月。 
 註] 
  宿痾:長い間治らない病気。 煩悩:心身を悩まし苦しめる。 
  与:味方する。 隠没:隠れて見えなくなる。 
  必定:きっと、判断・推論の確実性を表す。 
  懐念:しのぶ、懐かしがる。 夜闌:夜半、夜更け。 

<現代語訳> 
 退位に際し懐を詠む    
長患いで久しく苦しい思いをしてきたが、 
人は時運に見放されては 姿を消すことになろう。 
本より生き永らえることは私の願いではないが、もしや寿命があるなら、 
必ずやこの夜半の月を懐かしく思い出すことであろう。 

<簡体字およびピンイン>  
 退位时咏怀 Tuìwèi shí yǒng huái  
宿痾令我久烦恼, Sù'ē lìng wǒ jiǔ fánnǎo, 
时不与人为隐没。 shí bù yǔ rén wéi yǐn. 
本非所希长寿命, Běn fēi suǒ xī cháng shòumìng, 
必定怀念夜阑月。 bìdìng huáiniàn yèlán yuè. 
xxxxxxxxxxxxxx 
三条天皇は、歌人と言えるほどに歌を残してはいない。勅撰和歌集に収められた歌は8首に過ぎず、其のうち半分は“月”を詠んだものである と。強い孤独感故に、“月”に対して親近感を抱いていたのでしょうか。 

三条帝の苦悶の元は、皇位継承の問題も絡みつつ、親政を執り行いたいという自らの思いに対して、権力を強めていく藤原氏、特に道長との確執にあったように思える。歌の理解に役立つ範囲で、これらの状況を整理しておきたい。 

三条帝前後の時期は、藤原氏がその権力構造が確定し、栄華を極めた時である。その陰で、仮名文字の普及も手伝って、歌の世界では和泉式部、紫式部、清少納言等々、綺羅星の如く宮廷女流歌人たちが活躍した頃に当たる。 

先ず藤原氏。藤原師輔(909~960)の娘・安子が62代村上天皇(在位946~967)の中宮となり、その第2および第5皇子が、それぞれ、後に63代冷泉(同967~969)及び64代円融天皇(同969~984)となる。すなわち師輔は両帝の外戚として確かな基盤を築くことに成功した。 

師輔の子息・兼家は娘たちを入内させることによりさらにその絆を強める。冷泉帝と娘・懐子の間に65代花山天皇(同984~986)、円融帝と娘・栓子の間に66代一条天皇(同986~1011)、次いで冷泉帝と娘・超子の間に67代三条天皇の誕生である。 

続いては兼家の5男・道長の時代となる。1011年、一条帝は薨御の直前に譲位、36歳の三条帝が誕生する。三条帝には東宮時代の妻・藤原済時の娘・娍子がおり、敦明親王を設けていた。同親王の孫・行尊については先に紹介した(閑話休題204)。 

1012年、道長は次女・姸子を三条帝の中宮として入内させるが、三条帝は娍子を皇后として譲らず、“2后並立”の状態となった。翌年、姸子には禎子内親王が誕生するが、皇子の誕生に恵まれなかった。これらの事情から、三条帝と道長は決定的に不和の関係となる。

外孫の早期即位を望む道長は、長女・彰子と一条帝の間に誕生している敦成親王(後の68代後一条天皇、在位1016~1036)への譲位を画策する。1014年、三条帝は失明寸前の眼病を患う。不老不死の妙薬(?)・仙丹の服用によるとされる。

道長による譲位圧力は、眼病を理由によりさらに強まる。三条帝は譲位(1016)し、太上天皇となる。翌年出家し、程なく42歳で崩御する。6年ほどの短い在位であった。なお1014,15年には、相次いで内裏が焼失するという災害があり、また眼病以外に精神疾患も患っていたとの記載もある。

8歳で譲位を受けた後一条天皇が11歳になった時(1018)、道長は三女・威子を女御として入内させ、後に中宮とした。道長の長、次および三女が中宮となったのである。藤原実資は日記『小右記』に、「一家立三后、未曾有なり」と感嘆の言を記している と。

威子の立后の日に道長の邸宅で諸公卿を集めて祝宴が開かれた。その折、道長は即興で次の歌を披露した と:

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 
  かけたることも なしと思へば 
 [この世は 自分(道長)のためにあるようなものだ 望月(満月)のように 
 何も足りないものはない] (Wikipedia) 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話休題 204 飛蓬-111 小倉百人一首:(前大僧正行尊)もろともに

2021-04-12 09:16:43 | 漢詩を読む
66番 もろともに あはれと思へ、山ざくら 
     花よりほかに 知る人もなし 
        前大僧正行尊(ギョウソン) (『金葉和歌集』雑521) 
<訳> 私がお前を見てしみじみといとしく思うように、お前も私をいとしく思ってくれ、山桜よ。私にはお前より他に理解してくれる人もいないのだから。[板野博行] 

ooooooooooooo  
山籠して厳しい修験道の修行中、思いもかけず満開の山桜に出遭い、「ともに愛おしみあいましょう」と感動を詠っています。「花よ、私には心を通わし合えるのは、お前の他には誰もいないのだよ」と。

作者・行尊は、平安後期の天台宗・僧侶、歌人。12歳で出家して近江・園城寺(オンジョウジ)に入り密教を学び、のちに大峰山など霊山を巡って修験の修行を重ねた。67代三条天皇の曾孫に当たり、上流貴族出身の高僧として霊験を顕し、“験力無双”と謳われた。

「修行中に思いもかけず満開の山桜に出遭い詠った」との詞書を起・承句に取り込んで、七言絶句の漢詩としました。

xxxxxxxxxxxxx 
<漢詩原文および読み下し文>   [下平声十二侵韻]  
 入山辛勤的修炼   入山(ニュウザン)し辛勤(シンキン)なる修練 
晨陟険陘夕默念、 晨(アシタ)に険陘(ケンケイ)を陟(ノボ)り 夕べに默念(モクネン)す、
山桜灼灼幽礀潯。 山桜 灼灼(シャクシャク)たり幽礀(ユウカン)の潯(ホトリ)。
寄言新友相憐愛、 言(ゲン)を寄す 新しき友よ 相(アイ)憐愛(リンアイ)せん、
除汝花外無賞心。 汝(ナンジ)花の除(ホカ)に賞心(ショウシン)無し。  
 註] 
  辛勤:勤勉である、懸命である。    険陘:険しい坂道。 
  灼灼:花が燃えるように明るく輝くさま。幽礀:ひっそりとした渓谷。 
  潯:(谷川の)ほとり。        憐愛:いとおしむ。 
  賞心:「心を一つにして景物を賞玩する友」の意。謝霊運の詩に借りた。 

<現代語訳> 
 山籠し修行に勤める  
夜が明けるとともに険しい山道を歩き、暮れると黙座して念(オモイ)を練る、
ひっそりした谷間の辺で、一際 色鮮やかに咲いた山桜に出逢った。 
共に孤独な身、新しい友に一言申し上げたい、お互い慈しみ合いましょう と、 
私には 汝・花の他に自然を愛で、心を通わせ合う友はいないのだ。

<簡体字およびピンイン> 
 入山辛勤的修炼   Rù shān xīnqín de xiūliàn   
晨陟险陉夕默念, Chén zhì xiǎn xíng xī mòniàn, 
山樱灼灼幽涧浔。  shān yīng zhuó zhuó yōu jiàn xún.   
寄言新友相怜爱, Jì yán xīn yǒu xiāng lián'ài, 
除汝花外无赏心。 chú rǔ huā wài wú shǎngxīn. 
xxxxxxxxxxxxxxx 
 
行尊(1055~1135)は、67代三条天皇(在位1011~1016)の曾孫に当たり、参議・源基平(モトヒラ)の子息である。10歳で父を亡くし、12歳で明尊の下で出家して近江・園城寺(三井寺)に入り、頼豪(ライゴウ)から密教を学ぶ。

のちに大峰山、葛城山、熊野などで修業を積み、25歳で頼豪から阿闍梨潅頂を受けた。[阿闍梨(アジャリ):教授、軌範など高僧の敬称;潅頂(カンチョウ):密教で香水を頭に注ぐ儀式]。30歳のころ、修行を終えて山を下る。

以後、加持祈祷の効験を謳われ、鳥羽天皇(74代、在位1107~1123)の即位に伴いその護持僧となり、しばしば霊験を顕し、公卿の崇敬も篤かった と。天台座主(1123)、大僧正(1125)に任ぜられる。大僧正として、宇治平等院を本寺としたので、平等院僧正とも呼ばれる。

山を下りた頃はすでに歌人としての名声は立っていた。大峰修行中の作などは西行の先例として後代から高く評価されている と。太皇太后宮寛子扇歌合(1089)や他の歌合に出詠、また広田南宮歌合(1127)では判者も務めている。

上掲の「もろともに」は、その「詞書」から、若く修業を積んでいた頃の歌と解る。やさしい“友愛の情”で山桜に話しかけていると言うよりは、自分は苦行中の孤独な身、心の内を話し合えるのは君しかいないのだ と“哀憐と共感の情”を吐露している。

歌壇活動は必ずしも多いとは言えないが、『金葉和歌集』(白河法皇の命、1127年成立)に初めて収録、それ以後の勅撰和歌集に49首入集されている。家集として、主に修業時代の歌を集めた『行尊大僧正集』がある。

行尊が“衣冠を着て歌を詠んでいる柿本人麻呂像”を夢に見て、それを写したという画が伝わっていて、人麻呂像の最初のものとされている。画もよくしたようである。また能筆であったとの話も伝わっている。

園城寺は、1081と1121年に2度、かねて対立していた延暦寺の襲撃を受けて焼失する。1134年8月、再建なった金堂の落慶供養が営まれ、行尊は年来の宿願を果たした。翌年2月、病により入滅。81歳。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話休題 203 飛蓬-110 小倉百人一首:(後京極摂政前太政大臣)きりぎりす

2021-04-05 09:54:43 | 漢詩を読む
91番 きりぎりす 鳴くや霜夜(シモヨ)の さむしろに  
     衣(コロモ)かたしき ひとりかも寝む 
       後京極摂政前太政大臣(九条良経(ヨシツネ)『新古今集』秋・518) 
<訳>こおろぎが鳴く、霜の降りる寒々とした筵に、衣の片袖を敷いて、私はただ独りぼっちで寝るのであろうか。 (板野博行) 

ooooooooooooo   
霜が降り寒さも増してきたが、互いに衣の袖を枕にしあい、重ねて掛ける相手もなく、一人で寝なくてはならい と侘しい思いを詠っています。妻が亡くなった直後に詠まれたと伝えられています。

作者は、平安末~鎌倉初期の公卿・歌人・書家、藤原(/九条)良経(1169~1206)。摂関家直系、九条家2代の当主で、トントンと出世し、従一位・太政大臣まで昇り詰めたが、38歳に突然没している。勅撰和歌集『新古今和歌集』の仮名序を執筆、巻頭歌を飾っている。

詩題を「亡き妻を憶う」として、五言絶句の漢詩にしました、歌の趣旨を限定する恨みはありますが。

xxxxxxxxxxxxxxx
<漢詩原文および読み下し文>  [下平声八庚韻] 
 憶已故的妻子 已故的妻子(ナキツマ)を憶(オモ)う  
唧唧蟋蟀鳴, 唧唧(チチ)として蟋蟀(シッシュツ)鳴き, 
霜夜早寒生。 霜夜 早(ツト)に寒(カン)生(ショウ)ず。 
鋪衣一只袖, 衣の一只(カタホウ)の袖を鋪(シ)き, 
筵床該臥煢。 筵床(エンショウ)に煢(ヒトリ)で臥(フ)す該(ベキ)ならんや。 
 註] 
  已故:今は亡き、故。      唧唧:ジイジイ(虫の鳴き声、擬声語)。 
  蟋蟀:きりぎりす、こおろぎ。  鋪:敷く、広げる。 
  一只:対としてある物の“片方”。 煢:孤独、独りぼっち。 
<現代語訳> 
 亡き妻を憶う  
コオロギがジイジイと鳴き、 
霜の降る夜、早くも寒気が増してきた。 
自分の衣の袖を自分で敷き枕にして、 
むしろの床で独り寝ることになるのだなあ。 

<簡体字およびピンイン> 
 忆已故的妻子 Yì yǐgù de qīzi  
唧唧蟋蟀鸣,Jījī xīshuài míng, 
霜夜早寒生。Shuāng yè zǎo hán shēng. 
铺衣一只袖,Pū yī yī zhī xiù, 
筵床该卧茕。yán chuáng gāi wò qióng.  
xxxxxxxxxxxxxxx

藤原(/九条)良経は、藤原忠通(1097~1164、百人一首76番、閑話休題158)の孫、慈円(1155~1225、同95番、閑話休題153)の甥に当たる。関白・九条兼実(1149~1207)の次男であるが、同母兄・良通が早世したため、嫡男、九条家二代目当主となった。

26歳で内大臣、36歳で従一位・太政大臣とトントン拍子に昇進した。摂関家とは言え、その官位、和歌、漢詩、書道、……と、万能の才の持ち主、完璧な人物と評されていた。しかし1206年突然亡くなった。享年38歳。

但し一時期、挫折を味わっている。1196(建久7)年、政敵・源通親(ミチチカ)らに陥れられて父・兼実は関白を罷免され、叔父・慈円は天台座主を辞任するなど、縁者は朝廷から追放された。

良経は、九条家で一人だけ廟堂に止まったが、蟄居の身となった(「建久7年の政変」)。しかし1199年、後鳥羽院の意向で、蟄居のままで左大臣となり、翌年出仕を許され朝廷に復帰する。

後鳥羽院(在位1183~1198)は、良経の歌才を愛おしく思っていたに違いない。後鳥羽院は、「……あまりに佳い歌が多く、平凡な歌がないことが良経の欠点だ」と漏らしたことがあると、伝えられている。

当時、歌壇では藤原俊成・定家で代表される御子佐家の新風の和歌と、伝統を重んじ保守的な歌風の六条藤家の顕昭、経家らの2大門閥の激しい争いが展開された時期である。その状況は、俊成の歌を紹介した閑話休題155を御参照ください。

良経は、和歌について俊成の師事を受けた。1190年頃から叔父・慈円を後援・協力者として歌壇活動を活発に行い、歌合などを主催している。活動は御子佐家との結びつきが強く、同派歌人の後援・庇護者でもあったが、六条藤家歌人との交流もあった。

和歌の議論を「独鈷(ドッコ)と鎌首(カマクビ)の争い」と呼ぶようであるが、その用句を生むことになる新旧両派の歌論の場となったのは、1193・94にかけて良経が企画し、自邸で催した「六百番歌合」である。

良経が選んだ、彼自身を含めた新進歌人12人 -権門から4人、六条藤家から4人、御子佐家4人- がそれぞれあらかじめ用意された題で詠った100首、計1200首について、判者俊成の下、左右の組に分かれて争う600番の歌合であった。

この歌合では、歌の理念を巡る新旧両派の議論は非常に活発であった。またその他多くの歌合を主催しており、この良経歌壇は、『新古今和歌集』の形で結実する新風和歌の育成を促す土壌となった。

その後は後鳥羽院歌壇へと移行するが、やはり良経を含む御子佐家一派は活動の中核的な位置を占める。後鳥羽院の院宣による『新古今和歌集』(1205成立)が撰集されるが、良経はその仮名序を書き、また彼の歌がその巻頭歌を飾っている。

良経の歌は、『千載和歌集』以下の勅撰和歌集に多数入集し、自選の家集『秋篠月清集』は六家集のひとつとなっている。漢詩集『詩十体』があったが散逸して現存しない と。他に漢文日記『殿記』がある。

世は保元・平治の乱、源平の争いと騒々しく推移する中で、良経は短い生涯をあっけなく閉ざした。才能豊かであった良経は、華麗な王朝文化の終わりを予兆するかのように、一瞬キラッと輝いた一つの流星であったように思えてならない。

 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする