愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題79 飛蓬 漢詩を詠む-17 ― 河南省 杜甫故里を訪ねる

2018-06-29 14:52:27 | 漢詩を読む
この4月20日から4泊5日の中国中原の旅を楽しんだ。ハイライトは、詩聖杜甫の故郷と中国三大石窟の一つ竜門石窟を訪ねたことである。

杜甫の故郷を訪ねた日は、小雨模様の一日であったが、“きっと我々の来訪を喜び‘好雨’で迎えてくれているのだ”と皆で語り合ったものである。というのは、杜甫の素晴らしい詩「春夜雨を喜ぶ」を想い出していたからです。


写真1:屋内に祀られた杜甫の像

旅の模様は後に記すことにします。杜甫の故郷を訪ねた折の印象を七言律詩にしてみました。下に挙げました、ご参照下さい。

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春日拜訪杜甫故鄉 (下平声 先韻)
中年頗好賦詩篇,中年 頗(スコブ)る賦(フ) 詩(シ)の篇(ヘン)を好(コノ)み,
晚歲奇縁鞏義辺。晚歲(バンサイ)に 奇缘(キエン)有って鞏義(キョウギ)の辺。
特意拜訪杜故里, 特意(トクベツ) 杜(ト)の故鄉(コキョウ)を拜訪(ホウモン)するに,
好雨浥地草花妍。好雨(コウウ) 地を浥(ウルオ)して草花は妍(ケン)なり。
黃鸝競唱葉陰影,黃鸝(コウリ)は 競って唱(ウタ)う葉の陰影(カゲ)に, 
人们高吟杜墓前。人々は 高らかに吟ず 杜の墓前(ボゼン)。
料想本是詩聖導,料想(オモウ)に本是(モトコレ) 詩聖(シセイ)の導(ミチビキ)ならん,
誰能不動熱心弦。誰か 熱き心の琴弦(キンセン) に動(フ)れざらんか。
註] 
起聯(1,2句)および頷聯(3,4句)は、それぞれ王維「入山寄城中故人」および杜甫「春夜喜雨」を念頭においている
鞏義:河南省の一小都市
黃鸝:コウライウグイス
詩聖:杜甫の尊称
心弦:心の琴線

<現代語訳>
春の季節に杜甫の故郷を訪ねる
若い頃には賦や詩の作品の書物を好んで読んでいたが、
晩年になって奇しくも縁あって、杜甫の故郷 鞏義(キョウギ)の辺りを遊覧した。
特に杜甫の生まれ育った故郷、杜甫故里を訪ねたが、
ちょうど小雨が降って土地を潤し、草花が妍を競うように開いていた。
樹の葉陰では、コウライウグイスが賑やかに囀っており、
杜甫の墓前では、中国の杜甫研究者と日本の詩吟同好会の方々の吟の交歓。
これらの出来事はきっと詩聖・杜甫のお導きによるものであり、
誰しも熱い心の琴線に触れずには置かなかったであろう。
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この旅行には、白雪梅先生(閑話休題 53参照)が主宰する漢詩教室:朝日JTB交流文化塾、リッツ・カールトンホテル大阪およびNHKカルチャーセンター「漢詩サロン」(西宮ガーデンズ)の会員の中の有志14人が参加した。

このような旅行は毎年行われ、今回は10年目に当たる由。一般の観光旅行とは趣を異にして、漢詩の作者や漢詩に現れる場所など、漢詩に所縁のある地域を中心に巡っている と。筆者は今回初めて参加する機会を得たのである。

先ず、今回訪ねた箇所を下の略図に示しました。黄河の流域、中原の杜甫の生まれ故郷・鞏義にある華裕国際ホテル(写真2)に宿泊、そこを拠点にして、洛陽、鞏義および開封の各地点を訪ねました。

図:黄河沿い洛陽~開封の観光名所

写真2:華裕国際ホテル;学会参加者や結婚式参列者で賑わっていた

今回の目玉は、杜甫の故郷・鞏義を訪ねることであった。折しも、鞏義では「第一回 詩聖杜甫及び中華詩学研究国際シンポシウム」(於 成功学院大学大講堂、写真3)が開催され、その開会式典に参加する機会を得た。

写真3: シンポジウム会場前

残念ながら、司会者の発言内容はチンプンカンプンで、後ほど、白先生並びに現地案内人の解説に頼らざるを得なかったのだが、まず“本日の小雨模様は詩聖杜甫の歓迎の表れでしょう”との趣旨が述べられた由。

今一つ、このシンポでの研究発表者の一人に日本の下定雅弘(岡山大学)教授がおられる と。同教授の著書、著述は、筆者がこのブログを書き進めるに当たって度々参考とさせて頂いており、強い誇りを感じた次第である。

シンポ開会式典の触りの部分だけ参観させてもらい、杜甫故里に向かった。杜甫故里の正門(写真4)を通ると、広場に、正面に本を開いて立つ巨大な杜甫像があり、広場の両脇には杜甫の詩を彫った陶板が設置されている(写真5)。

写真4:杜甫故里の正門

写真5;広場の杜甫像と詩を彫った陶板

陶板に彫られた詩の一部、“国破れて山河あり”(「春望」)の部分を写真6に示しました。大文字で書かれた草書の部分は‘鏡文字’です。何故に‘鏡文字’としたのかは不明である。

写真6:陶板上の詩「春望」の部分

境内に入ると「百米長廊」と呼ばれる120m長に及ぶ道が続く。石碑が多いことから、別名「詩聖碑林」とも呼ばれている と。周囲には色とりどりの草花が咲き乱れ、また春に芽吹いた緑が小雨に濡れて濃さを増していた(写真7)。

写真7:「百米長廊」の周りの緑

境内には、大きい木々も栄えている。樹の葉陰でコウライウグイスの囀る声が耳に入った。日本の鶯とはかなり違う旋律である。‘黄鶯’、‘黄鸝’などと漢詩に出てくる一種の鶯である。残念ながら姿を目にすることはできなかった。

なお写真7で、道が行き着いた先に見える小高い山の麓に、杜甫が少年時代を過ごしたとされる揺洞“杜甫誕生揺”(写真8)がある。揺洞とは、山の麓に掘られた洞穴式住居のことである。黄河流域の山の麓ではしばしば目に入った。

写真8:杜甫誕生揺

揺洞の奥には、杜甫の幼少の頃、育てたと言われる伯母竇氏親子と杜甫の親密さがよく表れた像が設置されている(写真9)。竇氏は、実子以上に大事に杜甫を慈しみ育てたと言われています。なお、竇氏の実子は夭逝された由。

写真9:伯母竇氏の後ろの子が杜甫

杜甫故里は、面積248km2超と広く、記念館をはじめ多くの建造物が築造されている。また随所に大小さまざまな石碑が置かれていた。2007年に整備されて、今日に至っている と。因みに東京ドームの面積は46.7km2である。

杜甫は、晩年(765年, 53歳)に成都を発って、長江を下り、襄陽を経て洛陽、さらに長安に帰るつもりであったようです。途中、洞庭湖の辺りを遊覧している間に亡くなっています(720年、58歳)。

貧窮の中で亡くなり、遺体は洞庭湖の近くに仮葬されていた。杜甫の孫が遺体を故郷・鞏義に移し、本葬を行った と。鞏義市市区の西北数kmの所にある「杜甫陵園」(広さ22.7 km2)(写真10)がそうであり、その奥にお墓がある。

写真10:杜甫陵園の立派な大門楼

陵園内には、やはり杜甫の像(写真11)が立ち、建物の裏にある小高い山がお墓(写真12)である。お墓の銘には「唐杜少陵先生之墓」とあります。‘少陵’は、杜甫の号です。お墓が小山に見えるのは、埋葬の為の盛り土でしょうか。

写真11:杜甫陵園の内部

写真12:杜甫のお墓

このお墓の前で非常に特筆すべき素晴らしい光景が展開されました。我々の旅団の中に、関西某吟詠会の皆さんがおられて、詩聖杜甫に奉納吟を ということで、“国破れて山河あり”(「春望」)を吟じました。

偶々、白先生の馴染みの方が、旦那さん同道で杜甫のお墓参詣に来ておられた。その旦那さんが、実は上海大学文学部教授(?未確認)で、杜甫研究に関わっていて、開催中の杜甫シンポに参加のため鞏義を訪れていたとのことである。

この大学の先生、漢詩の日本流吟詠に感嘆していたようです。非常に朗らかな、明るい先生で、終には、腕を上下に振りながら、自ら「春望」の吟詠(?)を披露しました。何と何と、日本の歌謡曲「北国の春」の旋律で です。

翌早朝、我々旅団が次の観光地点に向けて出発の準備をしている間に、バスに乗り込んでこられて、別れの挨拶を述べられた。同じホテルに宿泊されていたのでした。

“好雨”と言い、また墓前での吟詠の交歓など、松下に眠る詩聖杜甫の導きに違いない と、感じ入ることしきりであった。合わせて、庶民レベルの“文化交流”の一つの型を見た思いである。

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閑話休題78 飛蓬 漢詩を詠む-16 ― 李白-孤蓬

2018-06-21 15:38:18 | 漢詩を読む
”蓬(ムカシヨモギ類)”を含む用語に関して、最後に“孤蓬”が出てくる李白の詩「友人を送る」を読みます。その詩は下に示しました。‘別れ’を詠った傑作の一首として評価されている詩です。

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送友人
青山橫北郭,青山(セイザン) 北郭(ホクカク)に橫たわり,
白水遶東城。白水(ハクスイ)東城(トウジョウ)を遶(メグ)る。
此地一為別,此の地一(ヒト)たび別(ワカ)れを為(ナ)し,
孤蓬万里征。孤蓬(コホウ)万里(バンリ)に征(ユ)く。
浮雲遊子意,浮雲(フウン)遊子(ユウシ)の意,
落日故人情。落日(ラクジツ)故人(コジン)の情。
揮手自茲去,手を揮(フル)って茲(ココ)自(ヨ)り去れば,
蕭蕭班馬鳴。蕭蕭(ショウショウ)として班馬(ハンバ)鳴く。
註]
青山:青々と草木が茂った山
北郭:まちの北方
白水:日に白く輝いて見える川、または清く澄んだ川
東城:まちの東方
浮雲:旅に出る友人の不安で頼りない心情を象徴する
落日:沈みゆく夕日、別れを惜しみ、沈み勝ちな気分を表している
故人:昔馴染みの友、ここでは自分を指す
班馬:別れ行く馬

<現代語訳>
友人を送る
青い山並みが街の北側に横たわり、
白く照り輝く川は、街の東側をめぐって流れている。
この土地に別れを告げてしまうと、
君は風にちぎれた根無しけ草のように、
万里の彼方をさすらうのだ。
空に浮かぶ雲は、旅人である君の心、
落ち行く太陽は私の気持ちを表しているだ。
互いに手を振って、ここから去って行こうとするとき、
別れ行く馬も寂しげにいなないた。
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この詩が、何時・何処で作られたか、また友人とは誰であるかなどは定かではないようです。

作者の李白についてはこれまで度々触れてきました。李白は、42歳から約2年間、玄宗皇帝の下、宮廷詩人として過ごしています。この詩の内容から推して、その頃長安で作られたもののように思われますが。 

この律詩で鑑賞したい一点は、見事な対句法です。青山 / 白日、一 / 万、浮雲 / 落日、手を揮る人 / いななく馬。それらの対句法により自然の情景と人情の機微が静的 / 動的に、また視覚的 / 聴覚的に、見事に表現されています。

さて、飛蓬、孤蓬、飄蓬および転蓬と“蓬”に拘ってきました。絶対的とは言ませんが、それぞれの詩で詩の内容と合った意味合いの用語が用いられていることは明らかなように思われます。

一つの旅行記を目指している本稿の副副題として“飛蓬”を当てましたが、あながち間違ってはいなかったか と胸を撫で下ろしている次第です。

蛇足ながら、似たような意味合いの用語として日本では“浮草”・“風来(坊)”や“旅がらす”などが使われています。古く漢文化を受容して来た日本で“蓬”を含む用語が定着していないのは、環境の違いに拠るのでしょうか。

以後、本稿では“飛蓬”の副副題の下、旅の情景や感想などを記して行く所存です。出かける旅の遠近・方向に関わることなく、飛び回る“飛蓬”本来の意味あいの稿を志していきます。
コメント (1)
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閑話休題77 飛蓬 漢詩を詠む-15 ― 曹植-転蓬

2018-06-09 16:03:44 | 漢詩を読む
“蓬(ムカシヨモギ類)”に纏わる用語“転蓬”が含まれる曹植の詩「吁嗟(ウサ)篇(嘆きのうた)」を読みます。

曹植(192~232)は、三国時代の魏王・曹操(155~220)の四男です。多芸多才、学識豊にして、武人として、また政治的感性も勝れていたようです。兄の曹丕(文帝、187~226)との後継争いに敗れ、地方に追いやられました。

政治に関与して世のために尽くしたいと大志を抱き、度々政策を上奏しながらも聞き入れられず、却って地方を転々と移封されます。その不幸な身の鬱積する想いを詠ったのが「吁嗟篇」で、起句に“転蓬”が出てきます。

以下に詩「吁嗟篇」を挙げました。24句から成る長編ですが、その最初と最後の数句を示してあります。

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吁嗟篇。
1 吁嗟此転蓬、 吁嗟(アア) 此の転蓬(テンポウ)、
2 居世何独然。 世に居(オ)ること 何ぞ独り然(シカ)る。
3 長去本根逝、 長(トワ)に本(モト)の根を去りて逝(ユ)き、
4 夙夜無休間。 夙夜(シュクヤ) 休間(キュウカン)無(ナ)し。
…… …
…… …
19 流転無恒処、 流転(ルテン)して恒処(コウショ)無(ナ)く、
20 誰知吾苦艱。 誰か知らん 吾が苦艱(クカン)。
21 願為中林草、 願わくは中林(チュウリン)の草と為(ナ)り、
22 秋隨野火燔。 秋には野火(ヤカ)に隨(シタガ)いて燔(ヤ)かれん。
23 糜滅豈不痛、 糜滅(ビメツ) 豈(ア)に痛(イタ)まざらんも、
24 願與株荄連。 願わくは株荄(シュガイ)と連(ツラ)ならん。
註]
吁嗟:激しい嘆きをあらわす感嘆詞
夙夜:朝早くから夜遅くまで
休間:ゆっくりとする
苦艱:つらい目にあって、苦しみ悩むこと
中林:林中と同じ
野火:秋の収穫が終わって耕地に放つ火
燔:焼く
糜滅:粉砕すること
株荄:株と根、元の血縁をいう

<現代語訳>
ああ、この転蓬の身よ、
この世にあって、なぜわたしだけがこんな運命なのか。
元の根を離れて久しく、
朝も夜も休む時もない。
…… …
…… …
転々とするばかりで、落ち着く場所はなく、
このわたくしの辛さを知る人はいない。
できるものなら林の中の草になって、
秋の野火とともに身を焼かれたい。
粉々に砕かれて痛くないはずはないが、
それでも元の株や根につながっていたい。
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詩の中間、5~18句は省略しましたが、その内容は、概略次のようです。転封また転封と、封地を移される自らの境涯を、天地自然の中、風に舞い、飛ばされる蓬草に託して詠っています。

「東かと思えば西、北へ かと思えば南へ。いきなりつむじ風に逢い、果てしなく雲のむこうに消えるかと思えば、深い淵に突き落とされる。ひらひらと風に舞い、数々の沼沢を過ぎ、また五岳の山々を越して行く。」

曹植は、政治的には斯様な不遇な生涯を送り41歳の若さで世を去っています。その生涯の概略を追っておきます。

後漢の権威が失墜して、世が乱れ、‘黄布の乱(184)’を契機に豪族たちの世直しの主導権争いが繰り広げられました。終には、魏・呉・蜀の三国鼎立がなります。その間の歴史の流れは、多くの歴史書や小説で活写されている通りです。

魏王・曹操の正室は丁氏でしたが子がなく、また側室劉氏に2男子いたが、早世した。一方、卞(ベン)氏は、長子は早世し、他に4男子(曹丕、曹彰、曹植及び曹熊)あり、丁氏が亡くなる(197)と正室となります。すなわち卞氏の子息は正嫡となります。

曹操の後継争いが表面化していく中で、特に才能豊かな曹丕と曹植の間には側近を巻き込んで争いが激しくなりました。217年、結局、曹丕が天子に指名されます。

曹操が没する(220)と、曹丕は、後漢の献帝から帝位の禅譲を受けて初代の魏皇帝“文帝”となります。曹植の側近たちは迫害を受けまたは殺害され、彼自身は繰り返し転封されるという生涯を送ることになります。

この時代、文学の面でも大きな変革が見られています。曹操は各地から文才の士を集め、詩や文章を競作するとともに批評し合う文人集団を作っていた。「建安の文学」と讃えられる一時代が築かれたのでした。

曹操・曹丕・曹植の親子は、中心的な存在で“3曹”と称されています。また「建安の七子」または「鄴下の七子」と呼ばれる才能の傑出した人々も仲間でした。“建安”、“鄴下”とは、それぞれ、彼らが活躍した時代の年号であり、また曹操が都を置いたところ“鄴(ギョウ)”を表しています。

以前の詩文は、主に集団で歌う仕事歌や芸能歌謡など集団の連帯感を確認するものであった。作者の人生、境遇が歌い込込まれるようことはあまりなかったようです。

建安の頃には次第に私的な体験を詠む詩が現れてきていた。詩作の視点が集団から個へと向かってきたのです。このことはまた、作者の個性や適性が認められるようになったということでもあります。

詩の内容ばかりでなく、形式も確立されていきます。漢詩の歴史はこの時代に始まるといわれるほどであり、上に挙げた詩のような“五言詩”が主要な詩型として定着していきます。「これぞ漢詩!」という基本型が確立されたわけです。

このような詩の変革・確立には曹植の功績が非常に大きかったとされています。南朝時代(420~589)には、「曹植は、倫理、道徳の世界における孔子に匹敵する、偉大な詩人」と絶賛された と。また唐の杜甫が現れるまでは、曹植は中国で最高の詩人であると評されていた と。

上に挙げた曹植の詩「吁嗟篇」は、当時の漢詩の内容・形式を知る上で、代表的な詩と言えそうです。また曹植の‘うめき’が聞こえてくるような、“転蓬”の意味合いがひしひしと伝わってくるような詩と言えるでしょうか。
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