愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題317 飛蓬-170   紅の 千入のまふり  三代将軍 源実朝

2023-01-30 14:09:05 | 漢詩を読む

天空に広がる真っ赤な夕焼け空の情景を目にして、この夕焼けの色こそ、紅の深染めの絹衣の色であるのだ、と感嘆の想いを詠っています。絹衣から無辺の天空に思いを馳せ、真っ赤な夕焼け空の情景を直截に歌にして、読者に迫る力は、実朝の真骨頂と言えよう。

 

“技”を凝らした歌より、眼前の“情景”あるいは、 “想い”を直截に詠んだ歌が、やはりよい。五言絶句の漢詩にしました。

 

oooooooooooooo 

 詞書] 山の端に日の入るを見てよみ侍りける 

紅の 千入(チシホ)のまふり 山の端に

   日の入るときの 空にぞありける  (源実朝 金塊和歌集・雑・633) 

  (大意) 紅に繰り返し染めて深染めされた色、それは日が山の端に沈んだと

   きに見られる夕焼けの空の色であるのだなあ。

  註] 〇千入:幾度も染料に浸して染めること、“入”は染める度合いを 

   いう語; 〇まふり:色を水に振り出して染めること。      

<漢詩> 

  美麗紅染衣   美麗(ウルワシ)き紅染(クレナイゾメ)の衣(コロモ)   [下平声六麻韻]

屢次染紅紗, 屢次(ルジ) 染められし紅(クレナイ)の紗(ウスギヌ), 

娟娟彩自誇。 娟娟(ケンケン)として 彩(イロドリ)自(オノズカラ)誇る。 

弈弈何所似, 弈弈(エキエキ)たる 何に似たる所ぞ, 

正是映晚霞。 正(マサ)に是(コ)れ 夕陽に映える晚霞(バンカ)の色。 

 註] ○屢次:何度も、しばしば; 〇紅染:紅花により染色する染色法; 

  ○紗:薄手に織られた絹織物、但し歌では特定されていない; 〇娟娟:清

  らかで美しいさま; ○弈弈:非常に美しいさま、光り輝くさま; ○映:反映する、光を受けて照り輝く; 〇晚霞:夕焼け。 

<現代語訳> 

 美しい紅染めの衣  

幾度も繰り返し深染めされ、紅に染まる薄絹の色、

清らかで美しく映える彩は、これ見よがしに自ら誇示するが如くに見える。

その美しく輝くさまは、何に譬えられようか、

これは正に山の端に日が沈む頃の、この真っ赤な夕焼けの空の色なのだ。

<簡体字およびピンイン> 

 美丽红染衣   Měilì hóng rǎn yī 

屡次染红纱, Lǚcì rǎn hóng shā 

娟娟彩自誇。 juān juān cǎi zì kuā.  

弈弈何所似, Yì yì hé suǒ sì,    

正是映晚霞。 zhèng shì yìng wǎn xiá.  

xxxxxxxxxxxx  

 

歌人・源実朝の誕生 (11) 

 

「§1章 実朝の歌人としての天分・DNA」は、父・頼朝譲りであることを見てきました。文武両道に秀でた頼朝の才のうち、“武”の面については、嫡男・頼家(第2代将軍)が勝れていたことは、よく語られることである。

 

向後、実朝の“文才のDNA”が如何に育まれていったか、すなわち、「§2章 教育環境、特に和歌の指導に関わった師や協力者」について、諸資料を参考にしつゝ、触れていきたいと思います。

 

先に(2回)に、「実朝に和歌を学ばせるために、母・政子は、歌人・源光行(1163~1244)を師に当て、……」、「……光行は、教材として『蒙求(モウギュウ)和歌』や『百詠和歌』を用意した」ことに触れました。

 

まず、「実朝の“和歌の師”」としての“源光行”は避けて通れないお人である。その出自は、頼朝および光行ともに清和源氏の祖・源経基の十代(?)末の裔であり、頼朝は経基嫡男・満政の、一方、光行は次男・満仲の流れである。

 

但し、源平合戦において、光行の父・光季および叔父・飯富季貞は平家方にあった。戦後、1183年、京都にいた光行および従兄弟の源宗季は、鎌倉に下向して、頼朝に、父および叔父の謝罪と助命を願った。

 

その結果は不明であるが、光行は、その才能を頼朝に認められて、鎌倉幕府が成立すると、政所の初代別当となり、朝廷と幕府との関係を円滑に運ぶために、鎌倉・京都間を往復した。1191(建久2)年3月3日、京都で頼朝の政治を称える『若宮社歌合』が開催されたが、その企画者とされている。

 

後の代になるが、北条泰時の命で、光行は、和歌所・学問所などを設置している。歌については、光行は藤原俊成に師事しており、『新古今集』に「[詞書] 題しらす」で、次の一首撰されている: 

 

心ある 人のみ秋の 月を見ば

  なにをうき身の おもひでにせむ (新古今集 巻第十六 雑上・1541)

 (大意) 秋の月を見るのは、風情を解する人だけであるとしたら、

   辛いことの多い身にとっては 何を思い出の縁にしたものか 

 

以上、政治家、歌人としての光行を見てきたが、文学者としても、その子・親行とともに後世に貴重な業績を残している。すなわち、『源氏物語』の写本『河内本』およびその注釈書『水原抄』の著述である。

 

印刷技術のなかった当時、『源氏物語』などの著述は、写本として人々の間に広がり、読まれていった。特にbest-sellerであった『源氏物語』は、その写本は“万”とあったようである。当然、“書き写す”間に、誤字、誤記等々紛れ込んでいったはずである。

 

光行・親行親子は、協力して、当時伝来していた21部の『源氏物語』古写本を集め、突き合わしていき、「多くの疑問点を解消できた」としている。光行によって1236年2月3日に始められ、光行の没後、親行によって1255年7月7日に一旦完成させたとされる。光行・親行ともに河内守を歴任しているため、この写本は『河内本』の名称が冠せられ、伝えられている。

 

一方、親行は、藤原俊成(1114~1204)、徳大寺実定(1139~1192)、藤原定家(1162~1241)および久我通光(1187~1248)等と共同で、『河内本』の注釈書『水原抄』を著している。『源氏物語』の“源”を、偏(サンズイ・シ、水)と旁(ツクリ、原)に分割して命名したとされている。

 

光行には、特に実朝の教育に必要な教本として、『蒙求和歌』、『百詠和歌』および『新楽府和歌』の3部作を用意した。それらについては、次回以後に触れるつもりである。

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閑話休題316  飛蓬-169 木のもとの 花の下ぶし  三代将軍 源実朝

2023-01-23 14:26:07 | 漢詩を読む

今回の対象歌は、屏風絵を見て詠んだ歌である。屏風絵は、旅人が花の下に宿っている情景のようですが、歌の内容は、屏風絵に触発された作者・実朝自身の想いと月との関りを話題にしている。

 

歌の下(シモ)の2句は、「“衣手”に涙を思わせる露が置かれていて、そこに“月”が宿っている情況を想像させ、“月が衣手に馴れ親しむほどに、幾夜も寝(ヤス)んでいた”」という。失恋の痛手が相当深いことを想像させる歌である。 

 

oooooooooooooo 

  [詞書] 屏風絵に 旅人あまた花のしたに臥せるところ    

木のもとの 花の下ぶし 夜ごろ経て

      わが衣手に 月ぞ馴れぬる  (金塊集 春・51) 

 (大意) 大樹の下 花蔭に幾夜か休むうち、袖に置く露に宿る月が我が袖に馴れ

  親しんできたよ。 

 註] 〇花の下ぶし:花の下に寝(ヤス)むこと; 〇夜ごろ経て:夜を重ね。幾夜 

  か経て; 〇月ぞ馴れぬる:“月”を擬人化している。 

 ※ 新古今集中、「袖に月宿る」とは、「袖が濡れていて、その濡れた袖に月が

  映ずる」ことを意味する。“濡れる”は涙にぬれること。

<漢詩> 

  露宿在大樹下   大樹下に露宿す     [去声二十六宥韻] 

花蔭休休旁株躺, 花蔭 休休(シュウシュウ)として株(キカブ)の旁(ソバ)に躺(ヨコタワ)る,

誰知白白多夜逗。 誰か知らん 白白(ハクハク)たり 多夜(イクヨ)か逗(トドマ)る。 

荏苒夜夜重重睡, 荏苒(ジンゼン)として 夜夜 重重(カサネ)て睡(ネ)るに, 

露月徐徐親近袖。 露に宿る月 徐徐(ジョジョ)に袖に親近たり。 

 註] ○露宿:野宿する; 〇休休:心安らかに; 〇躺:横になる、寝る; 

  〇白白:いたずらに、むだに; 〇逗:とどまる; ○荏苒:なすことの 

  ないまま歳月が過ぎること; 〇重重:かさねかさね; 〇徐徐:ゆっく 

  りと、徐々に; ○袖:わが衣手; 〇亲近:馴れる、親しくなる。   

<簡体字およびピンイン>

 露宿在大树下     Lùsù zài dà shù xià  

花阴休休旁株躺, Huā yīn xiū xiū páng zhū tǎng, 

谁知白白多夜逗。  shéi zhī bái bái duō yè dòu.  

荏苒夜夜重重睡, Rěnrǎn yè yè chóng chóng shuì, 

露月徐徐亲近袖。  lù yuè xú xú qīnjìn xiù.  

<現代語訳> 

 大樹の花蔭で野宿 

大樹の花蔭で心安らかに横になり、 

空しく幾夜休んだことであろうか。 

なすこともなく一夜一夜と重ねて寝(ヤス)んで行くうちに、

露に宿る月が 徐々に我が袖に慣れ親しむようになってきたよ。 

xxxxxxxxxxxx  

 

実朝の歌は、五言絶句とするには内容が豊富、七言絶句とするには“材料不足”の、難しい作品であった。曲がりなりにも、“七言絶句”の形に整えましたが、研究を要する課題である。

 

歌人・源実朝の誕生 (10) 

 

実朝の父・頼朝の歌才を想像させる歌、京都朝廷並びに京都歌壇との繋がりを垣間見ておきます。

 

慈円(1155~1225)は、摂政関白・藤原忠通(1097~1164)の六男・九条兼実(1149~1207、カネザネ)と、母(加賀局)を同じくする兄弟である。多くの兄弟の中で、慈円が最も親愛の情を交わしたのが、兼実であったという。慈円は、2歳で母を、10歳で父を亡くしており、6歳年上の兼実を父親のように慕っていた と。

 

慈円は、11歳で延暦寺に入り、青蓮院門跡の覚快法親王の弟子となり、13歳で出家、道快と称して密教を学び、後に、慈円と改名していた。頼朝は、京都との繋がりを築く目論見を胸に秘めながら、1190年、上洛の際、兼実や慈円と親しく面談している。現況・行末、諸々の状況を語り合ったはずである。

 

その事情を想像させる、頼朝-慈円の間で交わされた贈答歌が慈円の『拾玉集』に多数収められているという。その一例は:

 

思ふこと いな陸奥の えぞいはぬ  

  壷のいしぶみ 書き尽くさねば   (慈円『拾玉集』 ) 

 (大意) 思っていることを伝えたいが、壷のいしぶみのように書き尽くすこと

  がどうしてもできず、思いを言い現わすことができない。 

 註] 〇いな陸奥の:“否(イナ)み”と“陸奥(ミチノク”); 〇えぞ知らぬ:“得ぞ~”= 

  ~し得ぬ; 〇壷のいしぶみ:かつて坂上田村麻呂が、奥州の蝦夷討伐後に

  「日本中央」と刻んだ という岩のこと、多賀城にあった石碑。 

 

この慈円の歌に対して、頼朝は次の返歌を贈っている。

 

みちのくの いはでしのぶは えぞ知らぬ 

  書き尽くしてよ 壷のいしぶみ (源頼朝 『新古今集』巻第18 雑歌下 1786) 

  (大意) 言いたいことは はっきりと言ってもらわないと知りようがありませ

  ん。“壷のいしぶみ”のように書き尽くしてください。

 註] 〇いはでしのぶ:岩手(イワデ、岩手)と信夫(シノブ、福島)=「言わで、忍ぶ(言 

   わずに黙っている)」; 〇えぞ知らぬ:知りえぬ。 

 

頼朝は、慈円とすっかり意気投合した風である、お互い話の内容には触れていませんが。陸奥の地名を歌枕に詠みこみ、また掛詞を駆使した詠いぶりなど、頼朝は、当代きっての歌人・慈円と渡り合える新古今調の歌人の一人と言い得よう。

 

なお、慈円は、優れた歌人で、生涯に詠んだ歌は6000首を越え、『拾玉集』という家集を編んでいる。また『新古今集』に92首撰されており、西行の94首に次いで2番目に多く撰されている と。更に百人一首にも撰されている。

 

1192年、後白河法皇が崩御すると、後鳥羽天皇の御代となり、頼朝は征夷大将軍に任じられる。一方、頼朝の後援で兼実が後鳥羽天皇の摂政となるや、その推挙で37歳の慈円は天台座主となる。しかし兄・兼実の失脚など、パトロンを失うと天台座主を辞するが、以後、再登壇を繰り返し、四度の座主を務めている。

 

現実主義者の慈円は、当時、対立する鎌倉と後鳥羽上皇との友好関係を保つべく、血気に逸る上皇をことあるごとに諫めていた。上皇の考えを改めさせるために、歴史の推移を「道理」という考えからとらえた歴史哲学書『愚管抄』を著している。しかし功を奏することなく、「承久の乱」が起こるに至った。

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閑話休題315  飛蓬-168 我が恋は 逢はで閑話休題315  飛蓬-168 我が恋は 逢はでふる野の  三代将軍 源実朝代将軍 源実朝

2023-01-17 11:10:43 | 漢詩を読む

源実朝の歌を漢詩にする試みを進めています。前回同様、掛詞を駆使した歌です。新勅撰集に撰された歌で、新古今調の影響を強く受けた歌と言えます。ただ、“技術”に凝り過ぎて、訴える“想い”が軽く感じられるように思われます。

 

“幾夜も幾夜も”のフレーズは、漢詩では“幾世”としました。その意図は、“今生では逢瀬は遂げられないのか!”との強い“想い”を訴えたいことによります。

 

oooooooooooooo 

 詞書] 久恋 

我が恋は 逢はでふる野の 小笹原 

  幾よまでとか 霜の置くらむ 

          (『金塊集』恋の部・464;『新勅撰集』恋四・904) 

 註] 〇ふる野:“経る”と“布留”の掛詞、“布留野”は奈良の地名; 〇幾よ: 

  “幾節(ヨ)”、“幾夜”、“幾世”の掛詞; 〇霜の置く:我が頭髪の白くなるこ 

  とを寓意。 

 (大意) 我が恋は、あたかも布留野のささ原に幾節も枯れ残さぬほどに霜が 

  置くようなものだ。すなわち、恋人に逢わずに幾夜も幾夜も過ごして頭髪

  には霜がおくことであろう。 

<漢詩> 

   陷入情網             [上平声二冬-一東韻]

我恋有如相不逢, 我が恋は 有如(アタカモ) 相逢うこともなく, 

布留霜篠幾節空。 布留野(フルノ)で霜に篠(ササ)の幾節(イクヨ)もが空(キエ)る如きか。 

要求幾世等下去, 幾世(イクヨ) 等(マ)ち続けることを要求(モトメ)るか, 

到白髮而遊晚風。 白髮となり、而(シカ)して晚風に遊ぶに到(イタ)るまでか。 

 註] ○情網:恋の闇路; 〇有如:…のようだ; ○布留:“布留野”の略で、

  奈良の地名; 〇篠:細いタケ、ササ。“笹”は国字; ○幾節:“幾夜”の掛

  詞、“幾夜も幾夜も”の意を表すか; 〇空:消えてなくなる、尽きる。 

 ※ 「長煙一空、皓月千里」(長煙一(ヒトタビ)空(ツ)き、皓月(コウゲツ)千里):長く 

  立ち込めたもやがさっと消えると、皓皓たる月が千里の彼方まで照らす(范

  仲淹・岳陽楼記。)

<現代語訳> 

  恋焦がれる想い 

我が恋は、恰も相い逢うこと叶わず、

布留野で降りた霜に篠の幾節もが枯れて消えていくようなものだ。 

一体 幾世待ち続けなければならないというのか、

白髪となり、歳月を重ね、よろめくようになるまでか。 

<簡体字およびピンイン> 

  陷入情网       Xiànrù qíng wǎng 

我恋有如相不逢, Wǒ liàn yǒu rú xiāng bù féng,

布留霜筱几节空。 bùliú shuāng xiǎo jǐ jié kōng

要求几世等下去, Xūyào jǐ shì děng xiàqù, 

到白发而游晚风。 dào bái fà ér yóu wǎn fēng.  

xxxxxxxxxxxx  

 

上掲の実朝歌は、1193年、藤原良経が主催した『六百番歌合』(判詞:藤原俊成)に際して、藤原有家が提示した歌(下記)を本歌とした本歌取りの歌でないかと示唆されています(渡部泰明編『源実朝 虚実を越えて』 勉誠出版)。

 

我が恋は 布留野の道の 小笹原

  いく秋風に 露こぼれ来ぬ   (『六百番歌合』 779・旧恋) 

 (大意) 我が恋は、布留野の道の小笹原に置いた露のように、秋風が過ぎるご 

  とにこぼれ落ちていく 

 

歌人・源実朝の誕生 (9) 

 

源頼朝は、1190及び1195年の二度上洛を行っている。第一回目は、義経次いで奥州藤原氏の討伐を果たした翌年、1190年10月3日である。上洛軍は史上最大とされ、先陣・畠山重忠が現 茅ヶ崎辺りに至っても、後陣・千葉常胤は未だ鎌倉を出発していなかったという。両地点間は、約15km と。

 

11月7日に京都入りし、約一月間京都に滞在、後白河法皇と、計8回会談が行われた由。頼朝は、法皇より日本国総追捕使および日本国総地頭の地位を授けられ、名実ともに全国の軍事警察権を握ることになりました。しかし頼朝が最も切望した征夷大将軍を授かることは、法皇が反対で叶わなかった。

 

第2回目の上洛は、後白河法皇の没3年後、1195年2月、頼朝は政子と頼家・大姫を伴って上洛する。世の中が治まり、ある種、家族旅行の雰囲気が漂っていたのではないでしょうか。頼家は6月3日と24日に参内し、都で頼朝の後継者としての披露が行われた。後鳥羽天皇の御代である。

 

さて、前回提示した頼朝の歌である。本歌は、上洛の“道すがら”詠まれたとされています。さほど緊張感のなかった第2回目上洛時のようにも思える。しかし、頼朝が「日本国第一の大天狗」と喝破した後白河法皇を「得体の知れないお方だ」と、曇り空の富士に後白河法皇の姿を重ねたようにも読めますが。

 

道すがら 富士の煙も 分かざりき 

  晴るる間もなき 空の景色に 

           (『新古今集』巻第十 羇旅・975) 

 (大意) 道中、空に晴れ間を見せることはなく、富士山の噴煙も分からないほ 

  ど曇っていたよ。 

 

この頼朝の上洛中、忘れてならない人物、慈円(1155~1225)が京都におられました。頼朝は、慈円とも会合を重ねていたようである。慈円は、京都にあって世の情勢を客観的に見る立場にあり、現状さらには将来見通しなど、特に、京都/鎌倉の関係等々、話題とされたのではないでしょうか。

 

慈円には、「一切の法(真理・存在・規範)は、ただ道理“という二文字がもっている。その他にはなにもない」とする主張があった。すなわち、 歴史のすべての事実や事件は、”道理“が現れたものとして正当視し、「あるものをある」と認める現実主義の考え方でもある。

 

我々はよく、歴史的事象を「時代の大きな流れだよ」、とか「時代の流れには逆らえない」と表現しますが、此処でいう“流れの方向”が、慈円の言う“道理”が現れた“事象”であるよう愚考されるが、如何であろうか。

 

当時の京都vs.鎌倉の関係の状況の中で評するなら「公武合体派」、「現実主義者」と言うことである。慈円自身、自らの一生を顧みて、「名利の二道をあゆむ」と率直に告白しています。

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閑話休題 314 飛蓬-167 浅茅原 主なき宿の 三代将軍・源実朝

2023-01-09 09:51:16 | 漢詩を読む

実朝が“師”と仰ぐ藤原定家(1162~1241)撰集の『新勅撰和歌集』(1235成立)に入集された実朝の歌の漢詩化に挑戦しました。技術的にも、歌風としても新古今調の影響を強く受けた歌のようで、若い人の作とは思えない歌でもある。

 

技術的な面で、和歌の特徴である“掛詞”やことばの“縁”等々、巧みに詠み組まれていて、漢詩化するに当たっては難渋する歌であった。旨く翻訳・表現できたか、ご批判頂けると有難く思っています。 

 

oooooooooooooo 

 [詞書] 荒れたる宿の月という心を 

浅茅原 主なき宿の 庭の面に 

  あはれいくよの 月かすみけむ (『金塊集』秋部・560;

                    『新勅撰集』雑一・1076) 

 註] 〇浅茅原:丈低く茅の生えた原、荒れ果てた様子をいう;〇あはれ:あ 

  あと嘆ずる語、うら寂しい; 〇幾夜の月かすみけむ、幾世月が照ったこ 

  とであろう;“すむ”(住む・澄む)、“よ”(夜・世)は掛詞で、それぞれ、宿や 

  月の語と“縁”づけられている; 〇けむ:……だっただろう。 

 (大意) 荒れ果てた主のいない家の庭には、ああ、月は、どれだけ長い間照 

  り続けていたのであろうか。 

<漢詩> 

 月光在荒涼庭園  荒涼たる庭園の月光   [上平声十三元韻]  

已無家人浅茅原, 已(スデ)に家人無く 浅茅原(アサジガハラ), 

庭面皎澄清月存。 庭面に皎(アカル)く照り澄(ス)みわたる清月(セイゲツ)存(ア)り。 

豈不悲涼風嫋嫋, 豈(ア)に悲涼(アハレ)ならざらんか 風 嫋嫋(ジョウジョウ)たり,

月光幾世空照園。 月光 幾世(イクヨ) 空(ムナシ)く園を照らしきたるならん。 

 註] 〇浅茅原:荒れ果てた様子をいう; 〇皎:白く光って明るいさま;

  〇悲涼:あはれである、うら寂しい; 〇嫋嫋:音声が長く響いて絶えないさま。

 ※ “家人(住人の“住む”)”と月光が“澄む“、”いくよ“は”幾夜“と”幾世“、それ 

  ぞれ、歌の掛詞の関係。“月”の縁語と取れば、”幾夜“が妥当であろうが、

  時間幅をより広く採って、漢詩では”幾世“を活かした。 

<現代語訳> 

住人がすでに居なくなって、荒れ果てた庭園、

清らかな月光により皓皓と、澄み切った明かりで照らされている。

嫋嫋と微風が吹きわたり、何ともあはれさを感じずにはおかない、

この月光は、幾世に亘って、空しく庭園を照らし続けてきたのであろうか。

<簡体字およびピンイン> 

   月光在荒凉家园    Yuè guāng zài huāngliáng jiā yuán  

已无家人浅茅原, Yǐ wú jiā rén qiǎnmáo yuán, 

面皎月存。  tíng miàn jiǎo chéng qīng yuè cún. 

不悲凉嫋嫋, Qǐ bù bēiliáng fēng niǎo niǎo, 

月光几世空照园。 yuè guāng jǐ shì kōng zhào yuán. 

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実朝の上掲の歌は、次の歌に倣って詠まれたものと指摘されている。すなわち、歌い出しの2句、「浅茅原 主なき宿の」を恵慶(エギョウ)法師の歌から借りた“本歌取り”の歌と言える。とは言え、実朝の歌では、本歌とは異なった、別の世界を展開しています。 

 

恵慶法師は、荒れた庭の桜花に、“散るも良し か” と達観して対しているが、実朝は、なお皓皓と草木を照らす月光に拘りを感じているようである。

 

 [詞書] 荒れ果てて人も侍らざりける家に、桜の咲き乱れて侍りけるを見て 

浅茅原 主なき宿の 桜花 心やすくや 風にちるらん 

                  (恵慶法師 『拾遺集』・春・62) 

 (大意) 住む人がなく、荒涼とした庭に咲いた桜、今満開である。賞でる人

  はいないし、心置きなく、風に散っていくことであろう。

 

このような“本歌取り”は、実朝の歌を大きく特徴付ける一つとされていて、多くの歌で応用されています。対象の本歌は、広く『万葉集』~「新古今集」に亘っており、実朝の脳裏には、先人の歌が如何ほど消化され、蓄えられているか、想像を絶するようである。

 

歌人・源実朝の誕生 (8) 

 

実朝について、歌人という面から、年を追ってその生涯を簡単に振り返って見てきました。向後は、§実朝の歌人としての天分・DNA、§教育環境、特に和歌の指導に関わった師や協力者、および §後世、“実朝像”がいかに構築されていったか 等について触れていくつもりです。 

 

DNAを問えば、遠い先祖には、56代清和天皇(850~880)、その第6・貞純親王の長子が臣籍降下して“源”姓を賜り、源経基(ツネモト)を名乗る。“経基流清和源氏”の元祖である。遥かに下って、その末裔・源義朝(1123~1160)は、平治の乱(1160)で、後白河法皇側に与して敗戦、東に逃れる途中、尾張で殺害される。

 

義朝正室の長子・頼朝は、北条氏の支配領域である伊豆(蛭ケ小島?)に配流の身となる。14歳時である。この地方の霊山・箱根権現や走湯権現に帰依して、読経に専心、亡父・義朝や源氏一門を弔いながら、一地方武士として過ごしていきます。

 

流刑中、伊豆の豪族・北条時政の長女・政子と結婚(1175頃?)。一方、以仁王による平氏打倒の令旨を受けて挙兵するが、“石橋山の戦い”で敗北、安房国に逃れる(1180.08.29)。安房、上総、下総を平定して、父・義朝の住んでいた鎌倉に入る(同年10.07)。以後、同地は幕府の本拠地として発展することとなる。

 

以上、NHK『鎌倉殿…』の復習でした。さて、父・頼朝の歌才に目を向けます。頼朝は、和歌の才にも優れ、『新古今集』に2首入集している。その一首:

 

道すがら 富士の煙も 分かざりき 

  晴るる間もなき 空の景色に  (『新古今集』巻第十 羇旅・975) 

 (大意) 道中、空に晴れ間を見せることはなく、富士山の噴煙も分からない 

  ほど曇っていたよ。  

 

当時、富士は噴煙を上げていたようである。富士は、真っ青な空に、冠雪の峰が聳え、煙が昇る情景を目にし、感動を覚えるように思えます。しかし定家は、どんよりと曇る雨空や雪空の下、煙も富岳も目にすることのない情景を佳しとします。真の姿は、“頭”・“心”で“理知的に見る”ものと言うことであろう。

 

頼朝・「道すがら……」の歌は、将に定家の意に叶った歌と言えよう。すなわち、頼朝は、“新古今調”作歌の奥義(?)に達していることを示しています。“道すがら”とは、内乱の諸勢力を抑え、幕府体制を整えた後に上洛していますが、“その折”ということである。上洛については次回に触れます。 

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閑話休題 313 飛蓬-166 梅が香を 夢の枕に 他一首 三代将軍・源実朝

2023-01-02 14:32:30 | 漢詩を読む

読者の皆さん 明けましておめでとうございます。昨年は慌ただしい年でした。安寧な世界を念じております。源実朝の歌の漢詩訳に挑戦しています。

 

  『金槐和歌集』から、春の訪れを告げる梅花の“花便り”に関わる源実朝の歌2首を漢詩にしてみました。一首目は、快い春眠の枕辺に“暗香”が漂い、私の目覚めを促し、安眠を妨げているよ と。春の訪れを喜ぶ想いを逆説的に訴えているようです。

  二首目は、梅の花はやっと咲いたが、相棒の鶯が未だ来ないよ。何故だ?早く来て、春の歌声を聞かせてほしい、と催促しています。「這えば立て 立てば歩めの親心」に近く、快い春の訪れを待ちわびる想いでしょうか。

  これら実朝の歌を口ずさむ間、王安石の「梅花」の情景が重なってきました。第二首目は、「梅花」の韻を借りた漢詩となりました。参考までに、末尾に「梅花」の詩の解説を添えました。

oooooooooooooo 

 [詞書] 梅の花、風に匂うということを、人々によませ侍りしついでに 

梅が香を 夢の枕に さそひきて 

     さむる待ちける 春のはつ風  (『金塊和歌集』巻上・春・15)

 (大意) 梅の芳しい香りが春の初風に乗って運ばれてきて、私の春の夜の夢

    の枕辺で漂っている、あたかも私の目覚めるのを待っているようである。

 

<漢詩> 

  妨碍春眠花訊    春眠を妨碍(サマタゲ)る花訊(カシン)    [上平声一東韻 ]

梅花若開前院中, 梅花 開いたが若(ゴト)し 前院の中(ウチ), 

隨風夢枕暗香籠。 風に隨(シタガ)いて 夢枕に暗香(アンコウ)籠(コモ)る。 

有如等待人覚醒, 人の覚醒するを等待(マツ)が如(ゴト)く有り, 

送馥正是春初風。 馥(フク)を送るは 正(マサ)に是(コ)れ春の初風。 

 註] ○妨碍:妨げる; 〇花訊:花だより; 〇暗香:どこからともなく漂

    ってくる梅花の香り; ○籠:こもる、こめる; 〇等待:待つ; 

   〇馥: ふくよかなかおり。

<現代語訳> 

  春眠を妨げる花だより 

前庭の梅の花が咲きだしたようである、そよ風に運ばれてきたか、夢の枕辺に微かな香りが満ちている。私が目覚めるのを促しているようだ、その香りを送っているのは春の初風なのだ。

<簡体字およびピンイン> 

   妨碍春眠花讯     Fáng'ài chūn mián huāxùn

梅花若开前院中, Méihuā ruò kāi qián yuàn zhōng,    

随风梦枕暗香笼。 suí fēng mèng zhěn àn xiāng lóng

有如等待人觉醒, Yǒu rú děng dài rén jué xǐng,  

送馥正是春初风。 sòng fù zhèng shì chūn chū fēng

 

xxxxxxxxxxxxxxxx  

  [詞書] 梅の花咲けるところをよめる

わがやどの 梅の初花 咲きにけり 

  待つ鴬は などか来鳴かぬ  (『金槐和歌集』 巻上・春・13) 

 註] 〇などか:どうして……か、疑問。下に否定が来る。

 (大意) 私の家では最初の梅の花が咲いたよ。待ち望んでいる鶯は、どうし

    て来て鳴かないんだ。  

<漢詩>

  和王安石 梅花

   盼望鶯来啼  鶯の来(キ)啼(ナ)くを盼望(マチノゾ)む [上平声十灰韻]  

我宿初花梅、 我が宿の初花の梅、 

忍寒到底開。 寒を忍んで到底(ヤット)開く。 

鶯啊翹首盼, 鶯(ウグイス) 啊(ヤ) 翹首(クビヲナガク)して盼(マチノゾ)むに, 

為何未来陪。 為何(ナニユエ)に未(イマ)だ来て陪(バイ)せぬか。 

 註] 〇盼望:待ち望む; 〇到底:とうとう、やっと; 〇啊:感嘆詞、

  よ!、や!、問い詰める意; 〇翹首:首を長くして、頭をもたげて; 

  〇為何:何故に; 〇陪:お付き合いする、此処では期待に応えて“鳴く”こと。 

<現代語訳> 

  王安石・梅花に和す  鶯の来て鳴くを待つ 

我が家の初花を付けた梅の木、寒に耐えて来て やっと初花が咲いたよ。鶯よ! 首を長くして待ち望んでいるというのに、何故に未だに来て鳴いてくれないのだ。

<簡体字およびピンイン> 

  盼望莺来啼    Pànwàng yīng lái tí

我宿初花梅, Wǒ sù chū huā méi

忍寒到底开。 rěn hán dàodǐ kāi 

莺啊翘首盼, Yīng a qiáoshǒu pàn,

为何未来陪。 wèihé wèi lái péi. 

 

oooooooooo  

  梅花     王安石   [上平声十灰韻] 

墻角数枝梅, 墻角(ショウカク) 数枝(スウシ)の梅, 

凌寒独自開。 寒(サム)さを凌(シノ)ぎて 独自(ヒトリ)開く。 

遙知不是雪, 遙かに 是(コ)れ雪にあらざるを知るは, 

為有暗香来。 暗香(アンコウ)の来る有るが為なり。 

 註] ○墻:塀、壁; ○為有:…があるためである;  

<現代語訳> 

庭の塀の角に、数本の梅が寒を凌いで白い花を咲かせた。遥か遠くからも、それが雪ではないと分かるのは、どこからともなく漂ってくる香りがあるからだ。 

                   (白梅雪 『詩境悠游』に拠る)

<簡体字およびピンイン> 

   梅花         Méi huā

墙角数枝梅, Qiáng jiǎo shù zhī méi,

凌寒独自开。 líng hán dú zì kāi.

遥知不是雪, Yáo zhī bù shì xuě,

为有暗香来。 wèi yǒu àn xiāng lái.

xxxxxxxxxxxx  

 

  王安石(1021~1086)は、地方官を歴任後、朝廷に入り、宰相に至る。北宋の人、 “新法党”の領袖として大胆な政治改革を断行し、伝統を重んじる“旧法党”と対立する。のちに隠棲して著述に専念する。

  蘇軾(1036~1101)は、後輩に当たる。「安石の改革は急進に過ぎる」との立場の“旧法党”であったため、睨まれ、投獄や度重なる左遷の憂き目に遭わされている。詩文化の面では、両者は肝胆相照らす(?)関係であったようである。ともに唐宋八大家に数えられている。

 

歌人・源実朝の誕生 (7) 

 

 『金槐和歌集』の成立後の作歌活動は、明らかに緩やかになっている。京都歌壇の活動は、『後鳥羽院秋十首歌合(ウタアワセ)』および『後鳥羽上皇四十五番歌合』の記録を、それぞれ、1214および1215年に入手し、後鳥羽院との関係は密に保たれている。

  お膝元の鎌倉でも、『観桜和歌会』(1217)、や右大臣就任に伴う昇任祝いの和歌会(1218)も催されている。しかし活発な作家活動を思わせる記録は見当たらない。

  因みに、『金槐和歌集』の“定家所伝本”と“貞享(ジョウキョウ)四年本”の歌数差(56首)を、単純に同集成立(1213)後、没する(1219)までの6年間に作られた歌数と仮定した時、本格的な作歌開始(1206)から同集成立までの7年間の歌数(663首)に比較して極端に少ないことが解ります。

  恐らくは“政務”に忙殺される日々であったのでしょうか。最近の研究によれば、随時随所で的確な政治的判断がなされていたことが明らかにされているようである。さればこそ、周りから煙たがれる存在となっていったのでしょう。

  正岡子規は、《……あの人をして今十年も活(イ)かして置いたならどんなに名歌を沢山残したかも知れ不申候。……》と、『歌よみに与ふる書』の巻頭で、嘆息し、書いている。

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