愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 220 飛蓬-127 小倉百人一首:(左京大夫顕輔)秋風に 

2021-07-26 09:13:18 | 漢詩を読む
(79) 秋風に たなびく雲の 絶え間より 
     もれ出づる月の 影のさやけさ 
            左京大夫顕輔(『新古今和歌集』秋・413) 

<訳> 秋風にたなびいている雲の切れ間から、漏れ出てくる月光の、なんという澄み切った明るさであろう。(板野博行) 

ooooooooooooo 
爽やかな秋風がそよそよと吹きわたる夕べ、彼方に棚引いている雲の切れ目から月の光が無数の筋となって放射している。何と冴え冴えとした明るさであろう。やはり秋の夕べの趣きを直截に肌で感じさせてくれる歌と言えそうである。

左京大夫(藤原)顕輔(1090~1155)は、歌道“六条藤家”2代目の歌人、勅撰和歌集・代六『詞花和歌集』(1151年頃成立)の撰者である。同家の歌風は、技巧を凝らすことなく、見て感じたことを淡々と率直に詠うことを旨としている。当歌はその歌風を見事に体現しているように思える。

五言絶句としました。 

xxxxxxxxxxxxxxx 
<漢字原文および読み下し文> 
 拖長雲間月影 拖長(タナビ)く雲間の月影 [上平声四支韻] 
天際秋風起、天際 秋風起り、
澄空日酉移。澄(ス)みきった空 日は酉(トリ)に移る。
月光雲縫漏、月光 雲の縫(タエマ)より漏(モ)れ、 
輝映冽明奇。輝映(カガヤキ) 冽(レツ)にして明なること奇(キ)なり。 
 註] 
  拖長:棚引く。      天際:山の端。 
  酉:西の方位。      縫:すきま、絶え間。 
  輝映:照り映える。   冽:澄み切って、清らかなさま。

<現代語訳> 
 棚引く雲間から射す月光   
山の端に秋風が起こり、
澄み切った青空、日は西に沈んだ。
月の光が棚引く雲の絶え間から漏れ出て射している、
その輝きのなんと澄み切って清らかなことか。

<簡体字およにピンイン> 
 拖长雲間月影 Tuō cháng yún jiān yuè yǐng   
天际秋风起、 Tiān jì qiū fēng qǐ, 
澄空日酉移。 chéng kōng rì yǒu . 
月光云缝漏、 Yuèguāng yún fèng lòu, 
辉映冽明奇。 Huīyìng liè míng . 
xxxxxxxxxxxxxxx 

藤原顕輔は、北家藤原氏の流れをくむ歌道“六条藤家”の家祖顕季(アキスエ)の三男である。官位は正三位・左京大夫に至る。父・顕季の跡を受けて、源俊頼(百人一首74番、閑話休題197)および藤原基俊(同75番、閑話218)の亡き後、歌壇の指導者として活躍、六条藤家を歌道師範家として確立する功績を挙げた。

六条藤家とは、顕季の邸宅が六条東洞院に、顕輔の邸宅が六条大宮にあったことによる呼称であるが、さらに今一つの歌道師範家、源経信(同71番、閑話196)および俊頼の“六条源家”と区別するためにそう呼ばれている。

なお顕季は、1118年、俊頼、藤原顕仲(アキナカ)らを招いて、歌聖・柿本人麻呂を祀る儀式“人丸影供(ヒトマロエイグ)”を催している。すなわち、人麻呂を神格化して和歌を献じることで和歌の道の跡を踏もうとした。後に歌合なども行われ、同会は近世に至るまで続けられたようである。

顕輔は、「鳥羽殿北面歌合」・「六条宰相家歌合」(1116)や「久安百首」(1150)など、多くの歌会・歌合で活躍、父から六条藤家の象徴である“人丸影供”を受け継いだ。また1144年、崇徳上皇から勅撰集撰進の命を受け、『詞花和歌集』を完成させた(1151完)。

子息・清輔(キヨスケ、同84番)および猶子・顕昭(ケンショウ)ともに優れた歌人・歌学者で、顕輔-清輔親子の時代は最盛期にあったようである。六条藤家の歌風は、伝統を重んじ『萬葉集』を尊重する保守的な歌風でした。清輔は、『萬葉集』を座右に置いていたと伝えられている。

同時代に、道長の流れをくむ俊成(同83番、閑話155)、定家(同87番、閑話152)、寂蓮(同97番、閑話156)など、新潮流の和歌を唱える一派が台頭していた。すなわち“幽玄”を説く俊成および“有心”を唱える定家ら、“御子左家(ミコヒダリケ)” の一派である。

“御子左家(ミコヒダリケ)”歌風は、革新的で、いわゆる“新古今調”として世に受け入れられるようになった。両派の歌に関する論争が最高潮に達したのは、1193・94年、左近衛大将・藤原(九条)良経の家において、俊成が判者を務めた「左大将家百首歌合」であったと思われる。

新風歌人の定家、家隆、慈円、寂蓮、保守派六条藤家の顕昭、経家らを含めた計12人、各人100首、計1200首、600番の歌合であった。俊成による判詞は、後代に強い影響を与えた文芸評論で、一方、顕昭は、判詞に反駁する『六百番陳状』を著している。

歌合の現場での討論は、口角泡を飛ばすだけに留まらず、後に歌に関する議論を「独鈷(ドッコ)と鎌首(カマクビ)の争い」と形容する句が生まれるほどの激しさであったようである。同歌合のより詳細な経緯や状況は、寂蓮の稿(閑話152)をご参照ください。

歌壇における両派の勢いは、当初“六条家”の勢力が優勢であったが、俊成の頃拮抗し、定家の頃に“御子左家”の勢いが優勢に転じた と。“六条家”は、『萬葉集』を尊重するあまり、訓詁(訓と解釈)・注釈に拘泥して衒学(ゲンガク)趣味に堕することが多かったと評されている。

顕輔の歌風は、当歌に見るような叙景歌ばかりでなく、述懐歌にも秀歌を残していると。『金葉和歌集』(14首)以下の勅撰和歌集に84首入集されており、家集に『左京大夫顕輔集』がある。顕輔は、1155年に薨去、享年66。
    
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話休題 219 飛蓬-126 小倉百人一首:(源 兼昌)淡路島 

2021-07-19 09:12:06 | 漢詩を読む
(78番) 淡路島 かよふ千鳥の 鳴く声に 
       いくよ寝覚めぬ 須磨の関守 
           源 兼昌(ミナモトノカネマサ)(『金葉和歌集』冬・270)
<訳> 淡路島から海を渡ってくる千鳥の、もの哀しくなく声のために、幾夜目を覚まさせられたことだろうか、須磨の関守は。(小倉山荘氏) 

oooooooooooo 
淡路島-須磨間の海峡を渡る千鳥のもの哀しい鳴き声を聞くにつけ、須磨の関守は、幾夜も眠りを妨げられて目覚め、心安らかに寝まることはなかったろうと。須磨の関守とは、紫式部作『源氏物語』中、光源氏の境遇を念頭に、設定した人物のようです。

光源氏は、右大臣家の姫君・朧月夜との密会が露見したのを機に、謀反の罪で官位は略奪されます。後見している東宮へ累が及ばないよう、自ら須磨に引き籠ることを決意します。家族、友人、恋人を都に遺し、須磨で孤独な日々を送っているのでした。

当歌は、さる歌合せの会で、「関路千鳥」の題で、源兼昌が“光源氏”の境遇を念頭に詠った歌のようである。五言絶句の漢詩としました。

xxxxxxxxxxxx  
<漢字原文および読み下し文>  [上平声十一真韻] 
 貶謫地須磨関人 貶謫(ヘンタク)の地須磨の関守   
溟濛淡路濱, 溟濛(メイモウ)たり淡路の濱(ウミベ),
群鴴往来頻。 群をなす鴴(チドリ) 往来すること頻(シキリ)。
吱吱些夜醒, 吱吱(チーチー)鳴く声に 些夜(イクヨ)か醒(ネザメ)たるならん,
須磨里関人。 須磨の関人(セキモリ)は。 
 註] 
  溟濛:(煙霧が立ち込めて)茫漠としたさま。 
  淡路:兵庫県の淡路島。    濱:海辺、水際、浜辺。 
  鴴:千鳥、冬の浜辺を象徴する鳥、その鳴き声は、妻や友人を慕って泣く 
   寂しさを表す。       吱吱:チーチー、小鳥の鳴き声。 
  関人:関守。 

<現代語訳> 
 左遷の地須磨の関守  
遥か彼方にかすかに霞んで淡路島の海辺が見える須磨の地、 
千鳥が群れをなして頻りに海を渡って行き来している。 
チイチイなく鳴き声に幾夜となく目覚めたことであろう、 
須磨の関守は。 

<簡体字およびピンイン> 
 贬谪地须磨关人 Biǎnzhé dì Xūmò guānrén  
溟濛淡路滨, Míng méng Dànlù bīn, 
群鸻往来频。 qún héng wǎnglái pín.  
吱吱些夜醒, Zhī zhī xiē yè xǐng,  
须磨里关人。 Xūmò lǐ guānrén.  
xxxxxxxxxxxx 
当歌では、孤独で寂しい情景のなかに関守(光源氏)を置いて、情緒豊かな素晴らしい歌に仕立てています。しかし『源氏物語』中の光源氏は、次の歌に表されたように、むしろ“陽”の感覚の持ち主のようです。 

友千鳥 もろ声になく あかつきは  
  ひとりねざめの 床も頼もし (『源氏物語』十二帖 須磨)
 [群れをなした千鳥が揃って鳴く暁は 独り寝の目覚めの床でも心強く感じられる]  

作者・源兼昌は、貴族、歌人である。宇多源氏の裔で、美濃介・源俊輔の子息。その生没年および伝記は不明である。官位には恵まれず従五位下、皇后宮少進に至るが、その後出家している。歌合の出詠状況から1128年頃には生存していた。

「国信卿家歌合」(1100)や「堀河次郎百首和歌」(1116)、さらに「内大臣忠通家歌合」(1115、1118、1119)などに出詠、堀河院歌壇とその下部集団である忠通家歌壇で活躍した。1128年には、源顕仲主催の「住吉歌合」に出詠している。

『金葉和歌集』に初出で、同集以下の勅撰和歌集に計7首入集されている。家集はあったらしいが、伝わっていないと。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話休題 218 飛蓬-125 小倉百人一首:(藤原基俊)契りおきし

2021-07-12 08:48:07 | 漢詩を読む
75番 契(チギ)りおきし させもが露(ツユ)を 命にて  
      あはれ今年の 秋も去(イ)ぬめり 
           藤原基俊(『千載和歌集』雑・1023)
<訳> お約束してくださいました、よもぎ草の露のようなありがたい言葉を頼みにしておりましたのに、ああ、今年の秋もむなしく過ぎていくようです。(小倉山荘氏)

ooooooooooooo 
出家した息子の栄達の糸口となる機会を得られるよう、面識のある有力者にご尽力をお願いしたところ、「私が世にある限り叶わぬことがあろうか、信じるがよい」と心強いお言葉を戴いていた。だがこの秋も空しく過ぎようとしているよ と嘆いています。

藤原基俊(1060~1142)は、息子・光覚が興福寺の維摩会の講師に選ばれるよう、度々前太政大臣・忠通(76番)にお口添えをお願いしていた。同講師を務めると、先が開かれるのである。だが中々実現しないことに、息子を思う父として不満を訴えた歌でした。

『新古今和歌集』に載る清水寺の釈教歌:“なほ頼め……:「私がこの世にいるうちは頼りにしていいぞ」”の趣旨を“専憑恃”の表現に託して、当歌を七言絶句としました。 

xxxxxxxxxxxxxxx 
<漢詩原文および読み下し文>  [上声四紙韻] 
 疼愛児子父的心 疼愛(カワイイ)児子をもつ父の親心 
大事拜托知人士, 大事を知る人士(ジンシ)に拜托(ハイタク)するに,
放心建議専憑恃。 専(モッパラ)憑恃(ヒョウジ)せよとの建議(イケン)に放心(アンシン)する。
靠山約定待下去, 約定(ヤクソク)を靠山(タノミ)として待(マチ)下去(ツヅケ)ているに,
嗟惋今秋徒過矣。 嗟惋(アア) 今秋も徒(イタズラ)に過ぎていくよ。 
 註] 
  大事:重要なこと、此処では息子の出世の糸口となること。
  拜托:お願いする。      人士:有力な人。
  専憑恃:ただひたすら頼りにしておれば、力の限りなんとかしますよ。
  靠山:頼みにして。      嗟惋:ああ、嘆息。 
  矣:感嘆の語気を表す。 

<現代語訳> 
 可愛い子を持つ父の親ごころ  
大事な事柄を知りあいの有力なお方にお願いしたところ、
“ひたすら頼りにしていなさい”との心強いお言葉を戴き、安心していた。
その約束を頼りにずっと待ち続けているのだが、
ああ、今年の秋もむなしく過ぎてしまうよ。

<簡体字およびピンイン> 
 疼爱儿子父的心 Téng'ài érzi fù de xīn 
大事拜托知人士, Dà shì bàituō zhī rénshì,
放心建议专凭恃。 fàngxīn jiànyì zhuān píngshì.
靠山约定待下去, Kàoshān yuēdìng dāi xiàqù,
嗟惋今秋徒过矣。 jiē wǎn jīnqiū tú guò .
xxxxxxxxxxxxxxxx

当歌、並びに漢詩中“専憑恃”の意味を理解するための、歌の要、“させもが露を” の部についての補足説明。基俊の依頼に対し、忠通は、次の歌を贈ったと: 

なほ頼(タノ)め しめじが原の さしも草 
  我が世の中に あらむかぎりは (『新古今和歌集』釈教歌・1916、清水観音) 
 [それでもなお信じ続けなさい、しめじが原のさしも(=させも)草のように胸を 
 焦がすほどに。私がこの世にあるかぎり、きっと望みは叶うでしょう。]

「私に任せて」との“お言葉”で、基俊にとっては、頼もしい恵の“露”(=甘露、不死の神酒)であり、安心して頼りとしていたことでしょう。

基俊は、藤原北家中御門流、右大臣・藤原俊家の四男で、道長の曽孫に当たる。名門の出ながら、従五位上左衛門佐に終わった。自らの学識を誇って高慢であり、公事(クジ)に怠惰であったからであろうと推測されている。

歌壇への登場は遅かったようであるが、院政期における歌壇で指導的立場にいた。堀河朝歌壇で頭角を現し、『堀河百首』や『内大臣歌合』に出詠するなど、自ら詠歌を進めていた。また鳥羽・崇徳朝では諸家の歌合で判者を勤め、その判詞に歌論を展開した。

歌風は、伝統的立場を重んじ、古典尊重の規範的態度を崩さず、典拠を重視した高い格調の歌を目指していた。一方、新しい革新的な歌風を求める源俊頼(74番)と鋭く対立しつつ、共に歌壇の指導的立場にあり、俊頼-基俊時代と称されている。

漢詩文にも通じ、詞歌集『新撰朗詠集』(鳥羽帝のころ成立?)を撰している。朗詠用の和歌・漢詩を集め、『和漢朗詠集』(1013頃、藤原公任撰)に倣って編集されたという。歌学に関し、大江匡房(73番)らと『萬葉集』の訓点付与の作業にも関わっていた。

晩年には俊成(83番)を弟子に迎えている。『新撰朗詠集』の他『相撲立詩歌』を撰している。漢詩集『本朝無題詩』に17首の漢詩を遺しており、『金葉和歌集』以下の勅撰和歌集に100首入っている。家集に『基俊集』がある。中古六歌仙の一人である。1138年、出家し、覚舜と称した。1142年死去、83歳。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話休題 217 飛蓬-124 小倉百人一首:(権中納言匡房)高砂の

2021-07-05 09:30:42 | 漢詩を読む
73番 高砂の 尾の上の桜 咲きにけり 
      外山(トヤマ)の霞 たたずもあらなむ 
           権中納言匡房(マサフサ)(『後拾遺集』春・120) 
<訳> 遠くにある高い山の、頂にある桜も美しく咲いたことだ。人里近くにある山の霞よ、どうか立たずにいてほしい。美しい桜がかすんでしまわないように(小倉山荘氏)。 

oooooooooooo 
遥かな若葉の山の面に満開の桜が、恰もピンクの真珠が散りばめられたかのように点在している。どうか今は、手前の里の丘陵に霞が立ち、桜を望む視界を遮らないように祈るよ と。遠近・縦・横に広がる悠々とした、長閑な里の春の情景を詠っています。

当歌は、内大臣・藤原師通(モロミチ)の邸での宴で、“遥かに山の桜を望む”の歌題で詠われた権中納言・大江匡房の歌である。お酒の効果も働いているのではなかろうか。実景ではなく、想像の世界を詠った歌のようである

匡房は、幼少より神童と称えられ、8歳で『史記』・漢書に通じ、11歳で漢詩を賦したとされている。当歌には漢籍の素養の影響が感じられるように思われる。七言絶句としました。歌のスケールと趣旨を活かされたか、不安ではある。

xxxxxxxxxxxxxx 
<漢詩原文および読み下し文>   [下平声十一尤韻] 
 賞山上桜花    山上の桜花を賞す  
遥高山頂美花稠、 遥(ハル)かな高い山の頂 美花 稠(チュウ)たり、 
恰似鑲嵌淡紅球。 恰(アタアカ)も淡紅(タンコウ)の球(タマ)を鑲嵌(チバメタ)るに似たり。 
願慎前陵冒雲気、 願うらくは前の陵(オカ)に雲気の冒(タ)つこと慎むを、 
恐遮蔽景入双眸。 景の双眸(ソウボウ)に入るを遮蔽(シャヘイ)するを恐れる。 
 註] 
  稠:稠密である、咲き誇っている。  鑲嵌:ちりばめる。 
  淡紅:桜色の。           球:真珠。 
  冒:立ち上がる。          雲気:雲霧、もや。 
  双眸:両眼。
<現代語訳> 
 山上の桜花を賞す   
遠い山の頂きに桜の花が咲き誇っている、 
恰も桜色をした真珠をちりばめたように見える。 
前の丘陵で靄が立ちこめないよう祈っているよ、 
立ち込めた靄で美しい視界が遮られることを恐れるのである。 

<簡体字およびピンイン> 
 赏山上樱花     Shǎng shānshàng yīnghuā    
遥高山顶美花稠,Yáo gāo shān dǐng měi huā chóu,
恰似镶嵌淡红球。Qiàsì xiāngqiàn dàn hóng qiú.
顾慎前陵冒云气,Gù shèn qián líng mào yúnqì, 
恐遮蔽景入双眸。kǒng zhēbì jǐng rù shuāngmóu. 
xxxxxxxxxxxxxxx

匡房(1041~1111)は、中国の史書・詩文を学ぶ“紀伝道”(=”文章道”)を家学とする学者の家柄・大江氏の裔で、幼少のころから神童と称されていた。なお曽祖父・母は、匡衡・赤染衛門(59番)であり、父は、大学頭・成衡である。

匡房は、詩文に関する自叙伝『暮年紀』に「4歳時に初めて書を読み、8歳時に史漢に通い、11歳時に詩を賦して、世では神童と言われていた」と記している と。16歳に文章得業生(モンジョウトクギョウセイ)となったが、18歳で合格した菅原道真より早い。

1058年、官吏登用試験・対策に及第、1060年、治部少丞に任じられ、従五位下に叙せられた。トントンと昇進したが、以後昇進は停滞、一時引退を考えたが、思い留まる。1067年、東宮・尊仁(タカヒト)親王(のちの後三条天皇)の学士を務め、信頼を得て、以後実力を発揮していく。

後三条帝が即位する(1068)と、貞仁(サダヒト)親王(のちの白河天皇)の東宮学士、さらに白河帝が即位する(1073)と、善人(タルヒト)親王(のちの堀河天皇)の東宮学士となり、三代続けて東宮学士を務め、「三帝の師」と称された。

3代の天皇に信頼されていた。後三条朝では、蔵人に任じられ、左衛門権佐、右小弁を兼ね、三事兼帯の栄誉を得る。親政「延久の善政」の推進に重要な役割を果たす。

白河朝でも引き続き蔵人に、また左大弁に任じられ、1086年、従三位に昇叙され、公卿に列した。堀河朝では、正三位・参議(1088)、従二位・権中納言(1094)と順調に昇進した。1097年、大宰権帥に任じられる。鳥羽帝の1111年、大蔵卿に遷任されるが、同年薨去。享年71。

和歌や漢詩はもとより,歴史、有職故事、遊芸から兵学まで通じていたと言われ、著書も多方面に亘っている。和歌については、『後拾遺和歌集』(2首)以下の勅撰和歌集に114首が入集されている。歌集に『江帥集』がある。

多岐にわたる著書のうち、幾つかを挙げると、文人として:『本朝無題詩』、『中右記部類紙背漢詩集』、『本朝続文粋』;有職故事書『江家次第』;世事逸話集の『遊女記』、『傀儡子記』、『狐媚記』;伝記の『本朝神仙伝』等々。

匡房が誕生した際には、曾祖母・赤染衛門は健在であったようで、曽孫の為に産衣(ウブキヌ)を縫わせて、次の和歌を添えて贈っている。いわゆる予祝(ヨシュク、前祝い)の歌である:

雲のうえに のぼらむまでも 見てしがな 
  鶴の毛衣(ケゴロモ) 年ふとならば (『後拾遺和歌集』巻7 賀・438;赤染衛門) 
 [殿上人になるまでも見届けたいものだ 産着を着るこの子は年経て大きくなった
 らきっとそうなっていることでしょう]
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする