愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 163 飛蓬-70 コロナ禍中の 盂蘭盆会 

2020-08-31 15:20:32 | 漢詩を読む
コロナ禍中の 盂蘭盆会 

この夏、想定通りのコロナ第2波に襲われた。学校では夏休み短縮、職場ではテレワーク、さらにGo toトラベル運動等々、活動復活の努力を計りつゝ、一方では、不要不急の外出を控える。各人が行動様式の難しい判断を強いられる、例年にない夏であった。

大体、お盆の頃は、墓参、帰省、海・山行き、国内・外の旅と、多くの人々が活発に動き、“命の洗濯”を計る時期である。今夏は、得体の知れないコロナ相手に、皆さん各人が戸惑いつゝ送ったのではないでしょうか。この状況の一端を漢詩に綴ってみました。

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<漢詩原文および読み下し文> [下平声五歌韻]
 庚子歳盂蘭盆会  庚子(コウシ)の歳 盂蘭盆会
曽祁祁衆丘園道, 曽(カツ)て 祁祁(キキ)たる衆 丘園(キュウエン)の道をゆく,
疑是蟻群忙返窠。 疑うらくは是 蟻(アリ)の群の 忙ぎ窠(カ)に返(カエ)るかと。
今冠状栄人禁閉, 今 冠状(コロナ)栄(サカ)えて 人 禁閉(キンベイ)し,
低頭默祷去来波。 頭(コウベ)を低(タ)れて默祷(モクトウ) 去来(キョライ)の波。
 註]
 祁祁:数多く盛んなさま。    衆:大ぜいの人。
  丘園道:謝霊運「九日従宋公戯馬台集…」の「彼の美なる丘園の道」に倣
    う。“丘園”は 先祖の墳墓と農園。
  窠:昆虫などの巣穴。      冠状:コロナウィールス。
  禁閉:禁足。
  
<現代語訳>
  庚子(2020)の歳 盂蘭盆会(ウラボンエ)
曽ては、多くの人々がご先祖を祀るため、墳墓の地故郷に帰っていた、
(高速道での帰省する車の列は)恰も働き蟻の群れが列をなして、急ぎ巣穴
  に帰っていくような情景を思わせた。
今夏は、コロナが蔓延して、人は外出自粛で家に閉じ込もり、
故郷の方角に向かって、頭を垂れて黙祷しばし、寄せては返す波に似て、
  来し方あれこれと想いが過ぎる。

<簡体字およびピンイン>
 庚子岁盂兰盆会 Gēng zi suì yú lán pén huì
曾祁祁众丘园道, Céng qí qí zhòng qiū yuán dào,
疑是蚁群忙返窠。 yí shì yǐ qún máng fǎn . 
今冠状荣人禁闭, Jīn guānzhuàng róng rén jìnbì,
低头默祷去来波。 dītóu mòdǎo qùlái .
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我が国では、盆・暮れの時期は最も人の移動が激しい時期と言えるでしょう。飛行機、列車や自動車、いずれの交通機関でも“超”が付される利用者の数である。中でも、“高速道を走る…”というより、“高速道にある”車の列には驚かされます。

空から中継され、何十キロも渋滞する高速道の車列を見るたびに、獲物を巣へ運ぶ蟻(アリ)の行列を想像します。日常せっせと働いている人々と働きアリが重なって見えるのである。ともに“喜び”を運ぶ動きと言えるでしょうが。

余談ながら、地面がアスファルトやコンクリで舗装され、生活の場が地上何メートルもある高所にある現代では“アリの行列”は滅多に目に止まることはないであろうし、況や想像することもできないであろうと思われる。

アリの活動を追うと、アリは探し当てた獲物を小分けして小さい部分は一匹で、やや大きい部は数匹が共同で担いで(?)あるいは引きずりながら、一列縦隊に並んで、巣穴に運んでいます。

アリは本来暗い土中の穴で生活するため、目は退化して、視力は衰えている という。そこで巣穴を目指して進む列は、仲間のアリのお尻から分泌された匂い物質であるフェロモンによる標識を頼りにして行動している と。

しかしやたらとフェロモンを撒いては迷路を作るようなものである。巣穴への最善のルートはこれだ! と最終的に決定する過程は如何なものか、興味がありますが。いずれにせよ、巣穴で待つ女王アリの喜ぶさまを想像しつゝ先を急いでいるのでしょう。 

コロナ禍の中、今年の春期には“3無”と表現したように(閑話休題-157)、人のあらゆる社会活動はほとんど停止状態と言っても過言ではないほどに動きを止めていた。この夏は、十分な感染予防策を講じつゝ、緩やかな活動再開が図られている。

盂蘭盆会の時期の移動は、故郷を離れている多くの人にとって、“不要不急”の基準では測れない、特別な意義を果たすための行動と言える。すなわち墓参或いは爺ちゃん婆ちゃんや旧友との語らいを楽しみにして、帰省するのである。

今夏の交通状況は、コロナ第2波を反映して、どの交通機関でも“過疎“と報道されていた。恐らくは多くの人が”コロナの運搬者“の役目を担うことへの警戒感から、外出を控えた結果であろう。諸々の思いを胸に遠い故郷に向かって黙祷する盂蘭盆会であった。

コロナ感染症の予防法、治療法の一日も早い開発が待たれる日々である。
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閑話休題 162 飛蓬-69 小倉百人一首:(貞信公)小倉山

2020-08-28 10:18:06 | 漢詩を読む
(26番)小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば
今ひとたびのみゆき待たなむ
貞信公『拾遺集』雑集・1128

<訳>
小倉山の峰の紅葉よ。お前に人間の情がわかる心があるなら、もう一度天皇がおいでになる(行幸される)まで、散らずに待っていてくれないか。(小倉山荘氏)

ooooooooooooo
京都市の北西部に位置して、大堰川を挟んで南に嵐山、北に対座するのが小倉山。華やかな彩に染められた紅葉の頃の小倉山周辺は、現代もなお、格別素晴らしい。大堰川に遊んだ宇多上皇が、息子(醍醐天皇)にも見せたいものだ と漏らした と。

作者・藤原忠平は、宇多上皇が感動して漏らした意を汲んで、“醍醐帝はお出ましになるであろうから、それまで散ることなく、その装いを保っていてくれよ”と 紅葉に向かって訴えています(『拾遺和歌集』の詞書に拠る)。暗に醍醐天皇に行幸をうながしています。


やや日が西に傾いて、小倉山の南面が一杯に秋の陽光を受けている。秋風に微かに揺れている川面に小倉山の影が映っている。このような情景を想像して、漢詩にしてみました。下記ご参照。

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<漢詩原文および読み下し文>  [上平声五微韻]
 賞紅葉      紅葉を賞(メ)でる
小倉山峰披錦衣, 小倉山の峰は錦衣(キンイ)を披(ハオ)り,
在川面晃映夕暉。 川面に晃(ユ)れて 夕暉(ユウキ)に映(ハ)える。
喂楓葉要有情義, 喂(オイ) 楓葉よ 要(モシ) 情義(ジョウギ)が有らば,
至再行幸保秋緋。 再(イマイチド)の行幸(ギョウコウ)まで秋緋(シュウヒ)を保ってくれ。
 註]
  小倉山:京都市の北西嵯峨にある紅葉の名所、大堰川を挟んで嵐山と向かい 
   合う山。             錦衣:美しい着物、ここでは紅葉。
  喂:[感嘆詞]:もしもし、おい。   情義:人情と義理。
  秋緋:深紅色の秋の情景、ここでは紅葉の風景。
  行幸:天皇のお出まし。
                
<現代語訳>
 紅葉狩り  
小倉山の峰は錦衣を羽織っているように艶やかで、
大堰川の川面に影を揺らして、夕日に映えている。
おい、紅葉よ、もし人の情があるなら、
今一度の行幸があるまで、葉を落とすことなく美しい秋の彩を保っていてくれ。

<簡体字およびピンイン>
赏红叶 Shǎng hóngyè
小仓山峰披锦衣, Xiǎocāng shān fēng pī jǐn,
在川面晃映夕晖。 zài chuān miàn huàng yìng xīhuī.
喂枫叶要有情义, Wèi fēngyè yào yǒu qíngyì,
至再行幸保秋绯。 zhì zài xíngxìng bǎo qiū fēi.
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歌の作者・貞信公は藤原忠平(880~949)の没後の諡(オクリナ)である。関白太政大臣・藤原基経の四男で、藤原氏が栄える礎を築いた大人物とされている。60代醍醐天皇(在位899~930)の元で出世を重ね、早世した嫡男・時平(871~909)の後を承けて「延喜の治」と呼ばれる政治改革を行っている。

忠平は、61代朱雀天皇(在位930~946)の摂政となり、従一位に叙せられ、太政大臣に昇る。朱雀天皇の元服とともに関白に任じられる。かかる政治家でありながら、百人一首に撰ばれる歌を遺していることは、特筆に値するのではなかろうか。勅撰和歌集入集十三首。

忠平について語られる逸話の一つに次のようなのがある。醍醐天皇の頃、宮中に人相占い師を呼んだことがある。寛明太子(後の朱雀天皇)を見て、「容貌美に過ぎたり」と判じた。時平には「知恵が過ぎたり」、菅原道真には「才能が高すぎる」と。

忠平に関しては「神職才貌、すべて良し。長く朝廷に仕えて、栄貴を保つのはこの人」と絶賛した と。後の世の展開を見ると興味ある評価と言えそうである。親政を進めようと図る天皇、権力を強めようと図る外戚側との葛藤が繰り広げられた時代であった。

時の左大臣・時平が、天皇側に近い右大臣・菅原道真を陥れて大宰府に追いやった(901)。二年後に道真が没した後、都では時平縁者や醍醐天皇の病死、宮殿への落雷等々、異変が起こる。スワ!道真の怨霊の祟りか と。道真を雷神として祀り、復権させている。

藤原一族の内、道真の左遷に関わった人々の跡目は途絶えているとされている。一方、忠平の筋は栄え、3代後には道長が出て、藤原全盛期を迎えている。なお、忠平は、道真の左遷に反対であったと言われている。

和歌の世界でも才人が綺羅星の如く輩出している。本稿ですでに取りあげた歌人を挙げると、伊尹(閑話休題-161)・義孝(同-160)、公任(同-148)・定頼(同-147)、時代がグッと下って俊成(同-155)・定家(同-156)・寂蓮法師(同-152)、忠通(同-158)・慈円(同-153)と続く。

和歌の舞台、小倉山を含む一帯は平安時代には貴族の遊覧の場所として人気があったようです。この歌ができて以降、大堰川への行幸が毎年行われるようになったとか。また定家が百人一首を撰した「小倉山荘」はこの山の東の麓にあったとされている。

小倉山は歌枕として度々出てきます。やはり秋の紅葉の華やかで明るい風景が多く詠われているようです。和歌ではよく掛詞の技法が用いられて、表現できる世界を広げていますが、小倉山についても、例外ではありません。

ただ小倉山の“小倉”の読みを“お暗”に掛けて、“薄暗い”情景を詠う歌も多々あります。ここで“薄暗い”情景と“明るい”情景の「仲を取り持った(?)」歌を紹介しましょう。梨壷の五人の一人・大中臣能宣の歌です。

紅葉(モミジ)せば あかくなりなむ 小倉山
   秋待つほどの 名にこそありけり (『後拾遺和歌集』)
  [紅葉した時にはきっと赤(アカル)くなることだろう小倉山 「小暗(オグラ)」と
  いう名は秋の来るのを待っている間の名前であったのだ]
  
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閑話休題 161 飛蓬-68 小倉百人一首:(謙徳公)あはれとも

2020-08-21 09:12:39 | 漢詩を読む
  (45番) あはれとも いふべき人は 思ほえで
        身のいたずらに なりぬべきかな  
          謙徳公 (藤原伊尹) 『拾遺集』恋五・950
<訳> 私のことを哀れだと言ってくれそうな人は、他には誰も思い浮かばないまま、きっと私はむなしく死んでいくのに違いないのだなあ。(小倉山荘氏)

ooooooooooooooooo
あなた以外は考えられないのだよ、なぜにこうも冷たいの?と、純な恋心を詠っているように思える。作者は、のちに摂政・太政大臣にまで上り詰める方で、権謀術数も並みならぬ心得ある方と想像されますのに。女心を捉えることの難しさということでしょうか。

作者・藤原伊尹(コレタダ、924~972)は、前回取り上げた義孝の父親で、謙徳公は漢風の諡(オクリナ)である。歌人として特筆すべき業績は、和歌所・「梨壷」の別当(長官)として、『万葉集』の訓釈(読解)および『後撰和歌集』(第二代)の編纂に当たったことでしょう。

漢詩では、歌を作った背景・意図を明らかにするため、この歌に添えられていた『拾遺和歌集』の詞書の要約を“序”として添えました。下記ご参照ください。

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<漢字原文および読み下し文>   [去声十八嘯韻]
 冷酷的行為    冷酷な行為(シウチ)
序:我求愛了一个可愛的女性。她対我簡慢得很,越来越冷淡,連最后拒絶了
    会見。可向她恋心越発激烈化起来。于是写了一首絶句。
哀哉君拒我求愛, 哀しいかな 君は我の求愛を拒んだ,
誰憫恤余不能料。 誰が余(ワタシ)を憫恤(アワレ)に思うかは 料(ハカリ) 能(アタ)わず。
従来熱恋燃不已, 従来 熱い恋 燃ゆること已(ヤ)まず,
不久白白真死掉。 不久(ホドナ)く白白(ハクハク)として真(マコト)に死掉(シトウ)するか。 
 註] 
簡慢得:つれなく、粗末に。   余:わたし。
憫恤:不憫に思う、同情する。  料:予測する、推測する。
熱恋:熱烈な恋、恋焦がれる。  不已:…してやまない。
不久:やがて、ほどなく。    白白:むなしく、いたずらに。
死掉:死んでしまう。
<現代語訳>
 冷たい仕打ち
  序:私は、好きな女性に求愛したが、つれなく、冷たくされ、遂には逢っても
  もらえなくなった。しかし彼女への思いは増々激しくなってきた。そこでこの
  詩を詠んだ。   
哀しいかな、君は私の求愛を断った、
他に誰か私に同情してくれる人は予想だにできない。
わたしの恋い焦がれる思いは、これまでに止むということはなく、
やがてむなしく死んでしまうのであろうよ。
<簡体字およびピンイン>
 冷酷的行为    Lěngkù de xíngwéi
  序:我求爱了一个可爱的女性。她对我简慢得很,越来越冷淡,连最后拒绝了
    会见。可向她恋心越发剧烈化起来。于是写了一首绝句。
哀哉君拒我求爱, Āi zāi jūn jù wǒ qiú'ài,
谁悯恤余不能料。 Shéi mǐnxù yú bù néng liào.
从来热恋燃不已, Cónglái rèliàn rán bù yǐ,
不久白白真死掉。 bùjiǔ báibái zhēn sǐ diào.
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藤原伊尹は、性格は豪奢を好み、才色兼備の相当な貴公子であったようです。父・師輔は子孫に節倹を遺訓していたが、それを守るような性質ではなかった。そのような伊尹が、上掲のような歌を詠む情景など想像できませんが。

伊尹は、和歌に優れ、『後撰和歌集』(2首)以下の勅撰和歌集に38首を入首、また家集『一条摂政御集』(『豊蔭集』)がある。

伊尹の妹・安子が、62代村上天皇の中宮となり、設けた第二子および第四子が、それぞれ、冷泉(63代)および円融天皇(64代)と続く。さらに娘の懐子が冷泉天皇の女御として入内し、師貞親王(後の65代花山天皇)が誕生する。

父・師輔の代から着々と権力の座を築き上げ、外戚の力を発揮して、遂に伊尹は摂政・太政大臣の座まで昇り詰め(971)、氏の長者として名実ともに政権を掌握します。しかし翌年病に倒れ、上表して摂政を辞し、間もなく没する(享年49歳)。糖尿病であったと言われている。

村上天皇の御代は、和歌文化が花開いた時であったようです。後の世まで<“平兼盛”(忍ぶれど色に出でにけり…)対“壬生忠見”(恋すてふわが名は…)>の取り番が語り継がれている「天徳内裏歌合」を催した(960)のが村上天皇であった(閑話休題-132 & 133参照)。

村上天皇は『万葉集』の訓釈および『後撰和歌集』の編纂を行うよう勅命を出し、そのため御所内に和歌所を設けた(951)。勅命を進めるため、五人の撰者(寄人ヨリウド)が指名され、その長官(別当)に藤原伊尹が任命された。

選ばれた五人の歌人は、坂上望城(モチキ)、紀時文(トキブミ)、大中臣能宣(ヨシノブ)、清原元輔(モトスケ)および源順(シタゴウ)である。なおこの和歌所の中庭には梨の木が植えられていたので、そこを“梨壷”、また五人の歌人は「梨壷の五人」と称されている。

『万葉集』4500首余のうち約4000首の漢字に訓読をつけた「梨壷の五人」の功績や“大なり”と言える。今日我々が『万葉集』に親しめるのも彼らの努力の結果と言えよう。また全20巻、1400首余の『後撰和歌集』も完成している(958)。

村上天皇には、鶯宿梅(オウシュクバイ)の有名な逸話がある。その概要はこうである。

ある時、清涼殿の前の梅の木が枯れてしまい、帝は代わりを探すよう命じた。使いの者はあちこちと探して、都の外れにある家でやっと見つけた。「主命である」と告げて、掘り返し、内裏に移植した。

その梅は、前にあったものに勝るとも劣らぬ立派な紅梅で、天皇は大変喜んだ。ふと見ると、枝に短冊が結ばれている。不審に思い開けて見ると、下のような歌が女字で認められていた。

作者は只者ではないと調べさせると、紀貫之の娘・紀内侍(キノナイシ)ということであった。彼女は、父が亡くなった後、父が手入れしていたその紅梅を父の形見として慈しんでいたとのこと。そうと知った天皇は「さても残念なことをしてしまったものだ」と言われた由。

勅なれば いともかしこし 鶯の
   宿はと問はば いかが答へむ(『拾遺和歌集』雑下・よみ人しらず)
  [勅命とあらばたいへんおそれ多いことなのでお断りはできませんが、
もしこの紅梅に毎年巣を作るウグイスが帰ってきて
我が家はどうなってしまったかと尋ねられたら、
さて私はどのように答えたらよいのでしょう]
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閑話休題 160 飛蓬-67 小倉百人一首:(藤原義孝)君がため

2020-08-14 10:31:16 | 漢詩を読む
(50番)君がため 惜しからざりし 命さへ
ながくもがなと 思ひけるかな
藤原義孝 『後拾遺集』恋二・669
<訳> あなたに逢うためなら、どうなっても惜しくはない命だと思っていましたが、その願いが叶った今となっては、少しでも長くあなたとともに生きたいと思うようになったよ。(板野博行)

oooooooooooooo
“命を賭しても……”とまでは言わなくとも、何らかの場面で、この歌に詠われたような経験は、誰しもあるのではないでしょうか。青年歌人の思い詰めた恋が実った折の喜びが素直に詠われているように思われる。

公卿としての血筋もよく、また歌人としての血も存分に承けていたようです。年少の頃に大人を凌ぐ歌才を発揮しています。しかし惜しいことに、21歳の若さで亡くなっています。当時流行した疫病に倒れた ということである。

作者の生涯(?)を追うと、少々涼しく感じます。猛暑の今、考えを巡らせるに相応しいかな と思われる。上の歌は、七言絶句としました。漢詩としても青年の気持ちを“率直に詠えたように”思います。下記ご参照を。

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<漢字原文および読み下し文>   [上平声十一真十二文韻]
 纯潔的愛情 纯潔な愛情
何以伝懐入夢頻、 何を以ってか懐いを伝えん 夢に入ること頻(シキ)りなる、
不曾惜命為逢君。 曾ては君に逢う為に 命を惜しまず と。
一逢以後念增進、 一(ヒト)たび逢いし以後 念い增進(ゾウシン)す、
却願長生気氛氳。 却って長生を願う気 氛氳(フンウン)たり。
 註]
  氛氳:気の盛んなさま。

<現代語訳>
 純愛
頻りと夢にまで見る君へのこの想いをどのように伝えたらよいか、
曽て君に逢うためには命が惜しいなどと思うことはなかった。
この度やっと逢えてから 想いはますます募ってくる、
今や却って長生きしたいと願う気持ちでいっぱいなのです。

<簡体字およびピンイン>
 纯洁的爱情 Chúnjié de àiqíng
何以传怀入梦频, Hé yǐ chuán huái rù mèng pín,
不曾惜命为逢君。 bù céng xī mìng wèi féng jūn.
一逢以后念增进, Yī féng yǐhòu niàn zēngjìn,
却愿长生气氛氳。 què yuàn chángshēng qì fēnyūn.
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摂政太政大臣・藤原伊尹(コレタダ、924~972)の執政下で、トントンと出世します。父・伊尹は謙徳公(百人一首45番)として、また曽祖父・忠平(880~949)は貞信公(同26番)として、百人一首に撰出されている。

次の世代の書家で三蹟の一人として名を遺す藤原行成(972~1028)は義孝の子息である。政務ばかりでなく、文の世界でも優れた血をひく一族と言えます。義孝は、さらに容姿端麗、品行方正で詩歌管弦の才能も豊かであった と。

義孝の歌の天才ぶりを示す出来事として、後々面白い逸話が語られている。あるとき、父・伊尹が自宅で連歌の会を催した。その折、次の“上の句(五七五)”を出し、“下の句(七七)”を付けるよう参加者に注文した。

秋はなほ 夕まぐれこそ ただならぬ
  [秋というのはやはり夕暮れ時がとびきりだろうね]

参加者で誰も“下の句”を付け得たものはいなかった由。そこで進み出たのが、歳わずか13歳であった義孝、すらすらと次の“下の句”を詠みあげた と。

荻のうわ風 萩の下露
  [荻(オギ)の葉の上を吹きすぎる風の音 萩(ハギ)の下葉に結ぶ露の趣き]

参加していた一同感嘆の声を挙げた と。父・伊尹の喜びようはこの上なく、その天才ぶりを御堂・藤原道長に、さらにその娘・上東門院彰子にも使いを送り、報告させた と。上東門院彰子のもとには、紫式部等、名だたる女房がいたはずである。

なおこの歌は、早くから義孝の代表作とみなされていて、藤原公任が撰した『和漢朗詠集』(1013成立)に、「秋・義孝少将」を付して収められている。義孝は、中古三十六歌仙の一人で、勅撰集に12首撰されており、家集に『義孝集』がある。

一方、義孝は、幼少時から道心深く、父がなくなった際には出家を考えたが、同年に生まれたばかりの行成を見捨てることができず、思いとどまった と。以後も仏教への信仰心が篤く、信仰に関わる逸話が多く伝わっている。

義孝は、香りの強い野菜や食肉は一切断っていた。また仲間の殿上人から酒宴に誘われる機会がある際、食肉類の膳を目にすると、涙を流して、立ち去ることがあった。一方、公務の間も法華経を読誦していた と。

974年秋、都では天然痘が猛威を振るい、挙賢(タカカタ、953~974)・義孝兄弟共に感染して倒れます。寝殿の東西に臥す兄弟の間を、母親は右往左往していた。9月16日の朝、兄が先に亡くなります。

母親が義孝の元に行くと、義孝は床で法華経を誦していた。義孝は母親に「一旦息を引き取っても法華経を読み終えるまで、しばらく生き長えるので、通常通りの葬儀はしないように」と依頼した と。

亡くなった後も、母親や友人たちの夢に出て来て歌を詠んだようである。母親は、「通常の葬儀はしないように」との要望を忘れてしまったようです。義孝は、身体が失われて経の続きが読めなくなり、歎いて次の歌を詠んだ と。

しかばかり 契りしものを 渡り川
   かへるほどには 忘るべしやは(後拾遺集 哀傷 藤原義孝)
  [そのように約束しましたのに三途の川から帰ってくる間に忘れてしまわれた
  のでしょうか]

しばらくして、友人だった藤原高遠の夢で、今は極楽の風に遊んでいる と告げ、また賀縁法師の夢では楽しげに笙(ショウ)を吹いていて、悲しむには及びませんよ との歌を残した。周りの人々は、義孝が極楽に往生したものと確信した と。

<追記>
話が此処まで来ると、筆者の守備範囲を越してしまいます。お後は諸歴史説話書をご参照下さい。真夏日が続く毎日、微少なりとも“涼”を感じられたならば幸い。
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閑話休題 159 飛蓬-66 小倉百人一首:(崇徳院)瀬をはやみ

2020-08-07 09:45:48 | 漢詩を読む
(77番) 瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の
       われても末に 逢わむとぞ思う
              崇徳院 『詞花和歌集』恋・228
<訳> 川の瀬の流れが速く、岩にせき止められて急流が2つに分かれる。しかしまた1つになるように、愛しいあの人と今は分かれても、いつかはきっと再会しようと思っている。[板野博行]

ooooooooooooo
巌の如き障害にぶつかっても、乗り越えて再会を果たしたい という強い決意が感じられる恋の歌か。あるいは逆境にある崇徳院のある種 人生における決意を恋に託して訴えているのか。32歳ごろに作られた歌である。

前回、保元の乱を通して世の中の流れを追いましたが、崇徳院(1119~1164)の歌を鑑賞しながら、改めて院の対処、生きざまを見てみます。漢詩化するに当たっては、歌の趣旨を“恋”を含めて“人生”上の事柄・“人事”と捉えて対処しました。

歌中、「われ」は「割れ」と「別れ」、また“あはむ”は「合わむ」と「逢わむ」の、それぞれ、掛詞。「瀬をはやみ~滝川の」は「われても」の序詞、漢詩では起・承句に当てています。

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<漢字原文および読み下し文>  [去声二十三樣韻]
 希求再会 再会を希求(キキュウ)す
浅灘河水為激浪, 浅灘(センタン) 河水(カスイ) 激浪(ゲキロウ)と為(ナ)り、
碰到下游巌石上。 下遊(カユウ)の巌石(イワヲ)に碰到(ポントウ)す。
裂成両半終相会, 両半(リョウハン)に裂成(ワカレ)るも終(ツイ)には相会(アイア)う、
人事庶幾云一様。 庶幾(ネガウラク)は 人事(ジンジ) 一様(ドウヨウ)云(タ)らんことを。
 註]
  浅灘:浅瀬。         激浪:怒涛。
  碰到:ぶつかる、突き当たる。 下游:下流、川下。
  裂成両半:二つに割れる。   
  人事:世の中のできごと、ここでは、失恋や後に“保元の乱”の起こる源となった
    骨肉の争いなど。     庶幾:心から願うこと、願うらくは。
  云:…である、…たり。
<現代語訳>
 再会合を切に希む 
浅瀬では川の流れが速まり激流となり、
川下の巌にぶつかる。
流れは二つに分かれてしまうが、終にはまた合流する、
川の流れの様に、別れ別れとなった人事も、また再会の時が来るのを願うのだ。
<簡体字およびピンイン>
 希求再会     Xīqiú zàihuì
浅滩河水为激浪, Qiǎntān héshuǐ wéi jīlàng,
碰到下游岩石上。 pèng dào xiàyóu yánshí shàng.
裂成两半终相会, Liè chéng liǎng bàn zhōng xiāng huì,
人事庶几云一样。 rénshì shùjī yún yīyàng.
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前回触れたように、崇徳院は優れた和歌の才を示し、在位中にも頻繁に歌会を催していた。退位(1141)後は歌に没頭するようになり、当時の歌壇は崇徳院を中心に展開していた と。1150年には藤原俊成(閑話休題-155)に命じて、『久安百首』を編纂させている。

今回話題の歌・「瀬をはやみ」は、『久安百首』に載せられた一首である。したがって1150年以前、崇徳院30歳前後の頃の作と考えられます。これまでの崇徳院の身の回りを整理しつつ、歌の趣旨を探ってみたいと思います。

顕仁親王が1123年数え5歳に、74代鳥羽天皇の譲位により即位する、75代崇徳天皇である。1130年、関白・藤原忠通の長女、聖子が中宮に入り、天皇と聖子との夫婦仲は良好であった。しかし子供に恵まれなかった。1140年、女房・兵衛佐局に第一皇子・重仁親王が誕生する。

紆余曲折を経て、近衛天皇が即位(1142、76代)し、崇徳は上皇となる。しかし近衛帝は早世(1155)。崇徳上皇にとって我が子・重仁親王の即位の機会と目論んでいたが、鳥羽上皇の策により、雅仁親王が即位(77代後白河天皇)することになる。

崇徳上皇と雅仁親王とは、かつては仲の良い兄弟であった。母の待賢門院璋子が亡くなった折(1145)、雅仁親王がすっかり落ち込む時期があった。そこで崇徳院は弟を御所に呼び、元気を取り戻すまで同居していた という。10年後の事態からは想像できない兄弟愛が育まれた時もあったのである。

1156年鳥羽法皇が薨御。父危篤の報に接した崇徳上皇は直ちに車を走らせたが、門衛に阻まれてお目通りは叶わなかった。渋々引き返して後、再度参上したが、「崇徳に我が死の顔を見せてはならぬ」とのお言葉であった と再度阻止された。

崇徳上皇は、「父ながら、こんなにも我を嫌っていたのか」と落胆し、葬儀にも出席することはなかった と。法皇の薨御は1156年7月2日、同7月11日未明、崇徳上皇側に対する後白河天皇側の奇襲攻撃があった。保元の乱である。

さて和歌に戻って。崇徳上皇と妃・聖子は、実子を設けることは叶わなかったが、保元の乱に至る間、円満な夫婦関係を送っていた とされている。上皇の来し方を振り返って見たとき、上掲の歌は、実体験を基にした“熱烈な恋の歌”とは読めないように思われる。

父親に見放され、弟に背かれ、遂には剣を交えるという人生最大の逆境・障害に遭遇する崇徳院。川の流れに似て、いずれは心が解け合うことを夢見ていたであろう。遂に再会が叶わなかった逆境に置かれた状況を詠ったように読めますが、如何でしょう。

前回対象とした藤原忠通の歌を振り返ってみます。雄大な情景を詠った歌と読みました。保元の乱と重ねて読む研究者もいます。その歌を今一度思い浮かべて頂きたい:「わたの原 漕ぎ出でてみれば、久方の 雲ゐにまがう 沖つ白波。」

歌の中の「雲ゐ」は、天皇の玉座の脇にある「雲居の間」を、「沖つ白波」の「沖」から配流の島「隠岐」を、波立つ荒海 等々。これらの表現は、保元の乱の様相を想起させる。すなわち、忠通の歌は、保元の乱と重なり、同乱を予言していると読むのである。

“既視感”という言葉がある。“保元の乱”の始末を追うと、“あれ?どこかで経験したような気がするぞ? そうだあの歌二首が……!!” と。“乱”とその 数年以上前に詠まれたこれら二首の歌の情景を重ねて読めることは確かである。あたかも“既視”の如くに。

崇徳院は、時代に翻弄された一個の人間で、和歌を愉しむ繊細な心を持つ、心の優しいお方であったように想像される。配流先では、極楽往生を願い、仏教に深く傾倒していた と。五部大乗経の写経を行い、写本を戦死者供養のため寺に収めてほしい と朝廷に送ったが、送り返された由。遂に都に帰ることはなかった。

下の歌は、後白河院の院宣により 藤原俊成が撰した勅撰集『千載和歌集』(1188成立)に収められた崇徳院の歌である。

誓いをば 千尋の海に たとふなり
   つゆも頼まば 数に入りなむ(千載和歌集 釈教 崇徳院御製)
  [観音さまの誓願は千尋の海にたとえられる わずかでもお頼みすれば この
  わたしも救われる衆生のうちに入れていただけよう](小倉山荘氏)。
コメント
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