愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 139 飛蓬-46 小倉百人一首:(清原元輔)  契りきな

2020-03-25 14:35:21 | 漢詩を読む
  (42番) 契りきな かたみに袖を しぼりつつ
        末の松山 波こさじとは  
 
<訳> 二人は固く約束しましたよね。お互いに涙で濡れた袖を絞りながら、あの末の松山を波が決して越す筈がないように、どんなことがあっても二人の愛は変わらないようにしましょうと。(板野博行)

嘗ては契りを結んだ相手でしたが、どうしたことか、破局を迎えてしまった男性のボヤキです。受けた衝撃があまりにも大きくて沈み込んでいるのでしょうか。詞書(コトバガキ)によると、心変わりした女性に対する恨みを男性本人に代わって詠ったという。

上の歌中の「末の松山 波こさじ」は、“歌枕(ウタマクラ)”と呼ばれ、和歌を理解する上では非常に重要な表現要素の一つと言えるようです。和歌の漢語訳に当たって、数語からなる常套句の形で表現できるとよいなと思っているのですが。

本稿では“歌枕”について話題にします。上の和歌を七言絶句の漢詩にしてみました(下記参照)。

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<漢字原文および読み下し文>   [下平声八庚 九青韻]
.失恋男叨唠  失恋男の叨嘮(トウロウ)
曾発誓永相憶情, 曾て誓いを発す 永(トハ)に相憶(アイオモウ)の情、
被涙沾袖幾次擰。 涙に沾(ウルオ)えし袖を幾次(イクタビ)か擰(シボ)りつつ。
末松山濤襲不越, 末の松山 濤(オオナミ)襲うも越すことできず,
如斯長莫改心霊。 如斯(カクノゴト)くに長(トコシナエ)に心霊改める莫(ナ)からんと。
 註]
  叨嘮:愚痴。         発誓:固く約束する、誓う。
  擰:絞る。          
  末松山:現宮城県多賀城市にあり、昔は近くの海岸が名所であった。かつて決して波に
越えられることはなかったことから、歌では“永遠”の象徴として用いられている と。
  濤:おおなみ。         心霊:こころ。  
<現代語訳>
 失恋男の愚痴
曽て永久に想い合っていきましょう と誓いをした、
涙で濡れた袖を互いに幾度も絞りながら。
末の松山は 大波が寄せても越されたことがないという、
かくの如くに、長(トコシナエ)に心変わりがないように と。

<簡体字およびピンイン>
失恋男叨唠 Shīliàn nán dāoláo
曾发誓永相忆情,Céng fā shì yǒng xiāng yì qíng,
被泪沾袖几次拧。bèi lèi zhān xiù jǐ cì níng.
末松山涛袭不越,Mòsōngshān tāo xí bù yuè,
如斯长莫改心灵。rúsī cháng mò gǎi xīnlíng.
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“歌枕”とは、古くは意味は広く、和歌で使われる言葉や題材などを集めた書籍を意味していたようです。そのうちに和歌の題材を意味するようになり、今日では、題材としての日本の名所旧跡を指すようになってきた。

名所旧跡の風景もさりながら、その言葉の持つイメージも活かされるようになった。例えば、昔関所のあった「逢坂山」の、“坂”・“山”・“関”は、人が“逢う”のに障害となる。そこで男女が逢う恋愛に関わる歌に“歌枕”としてよく詠まれるようになった。

“末の松山”は、漢詩の註に触れたように、宮城県多賀城市にある名所である。和歌で使われるようになったのは、歴史上有名な、貞観地震(貞観十一年、869)に由来している。

当時の陸奥国(ムツノクニ/ミチノク)、現東北地方の東方沖を震源とする大地震、続く津波により多賀城一帯は海のようになった。その折、末の松山と呼ばれていた名所の台地は波に襲われることから免れた と。

その後、次のような津波の経験を読み込んだ東歌(アズマウタ)と呼ばれる歌謡が口伝えに東の国々で広まっていったということである:

君をおきて あだしこころを わがもたば 末の松山波もこえなむ
        (古今和歌集 東歌)
  あなたを差し置いて浮気心をわたしが持つようなことがあれば、
  末の松山を波が越えることでしょう (小倉山荘あ・ら・か・る・た)

清原元輔の歌は、この歌を基に詠ったのでした。このような歌を「本歌取り」と言うようです。「本歌取り」については、稿を改めて触れるつもりにしています。

“2011東日本大震災”は記憶に新しく、その被害の甚大さには心を奪われたものです。“貞観地震”に匹敵する災害であると伝えられていました。今回の地震・津波においても末の松山は、幸いに波に襲われるのを免れ得たということです。

この例に見るように、歌枕にはそれぞれに“歴史”が詰まっているように思われる。和歌を外国語に翻訳するに当たっても、心に留めておくべきことか と思われる。常套句としての表現法を望む所以ですが、上の漢詩では、七言を要しており、検討を要する。

作者・清原元輔(908~990)について簡単に触れます。清原深養父(フカヤブ、百人一首36番)の孫、清少納言(同62番、閑話休題-123参照)の父親です。平安中期、“梨壷の五人”(後注)の一人として、和歌の世界で多大な業績を残している。

一つは、『後撰和歌集』の編纂。今一つは、『万葉集』を現在のような20巻本の形に整えるとともに、訓点を施しています。『拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に約100首を入集、家集に『元輔集』がある。

頭の回転が速く、ウィットに富んだ面白い人で、ひょうきんな人柄であったようである。上の歌は、知人に代わって作られた“代作”である由、清原元輔ならではの名作と言えるのではないでしょうか。

注)
梨壷の五人:62代村上天皇の命(951、天歴五年)により、梨壷の和歌所で『後撰和歌集』の編纂や『万葉集』の訓点施しを行った五人の寄人(ヨリウド):清原元輔、紀時文、大中臣能宣、源順、および坂上望城。梨壷とは、庭に梨の木が植えられていたことから、昭陽舎の異称。
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閑話休題 138 飛蓬-45 小倉百人一首:(参議等)  浅茅生の

2020-03-17 14:15:43 | 漢詩を読む
(39番)浅茅生(アサジフ)の 小野(ヲノ)の篠(シノ)原(ハラ)
..........しのぶれど あまりてなどか 人の恋(コヒ)しき
...................参議等 『後撰集』恋・578
<訳> まばらに茅(チガヤ)が生える、篠竹の茂る野原の「しの」ではないけれど、人に隠して忍んでいても、想いがあふれてこぼれそうになる。どうしてあの人のことが恋しいのだろう。(小倉山荘氏)

告白することもできず、恋慕の念で悶々として耐え忍んでいる様子が読み取れます。歌に添えられた詞書(コトバガキ)によれば、この歌を“想いの人”に届けたということです。相手もきっと熱く感じ入ったのではないでしょうか。

本稿では和歌に出てくる序詞(ジョコトバ)について考えます。 [〇〇と掛けて△と解く、その心は ? ] という“謎々ことば遊び”があります。序詞とは、この“謎々ことば遊び”の類であろうと考えておりますが、如何でしょうか?

上の和歌を七言絶句にしてみました(下記)。その漢詩化には、序詞に関連して、非常な難題に遭遇しており、その一つの解決策を含んでおります。その是/非を念頭に置いて読んで頂き、ご意見頂けると有難いです。

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<漢字原文および読み下し文>  [下平声五歌韻]
...以荏字為想来想去 荏の字を以って想来想去と為る
浅茅生野荏草多, 浅(マバラ)に茅(チガヤ)の生(ハ)える野に荏草(ジンソウ)多し,
忍苦不説恋慕渦。 恋慕の渦を説(ツ)げえぬ苦(ク)を忍ぶ。
此懐就要溢出起, 此の懐(オモイ) 就要(イマニ)も溢出(イッシュツ)を起さん,
実在為何熱恋她。 実在(マコト)に為何(ナニユエ)に她(アノヒト)が熱恋(コイシ)からん。
..註]
  想来想去:あれこれと思いを巡らす。
  荏草:エゴマの草、シソ科の野草。  溢出:あふれ出る。

<現代語訳>
...荏の字を契機として思いを巡らす
「まばらな茅に荏もよく繁る野原」の「荏(rěn)」から連想される「忍(rěn)」の言葉通りに、
胸中渦巻く恋慕の念を告げ得ない苦しみに耐え忍んでいる。
この想いは今にも溢れ出そうであり、
真にどうしてこんなにも、あの人が恋しいのであろうか。

<簡体字およびピンイン>
...以荏字为想来想去 Yǐ rěn zì wèi xiǎnglái xiǎng qù
浅茅生野荏草多, Qiǎn máo shēng yě rěn cǎo duō,
忍苦不说恋慕涡。 Rěn kǔ bù shuō liànmù wō.
此怀就要溢出起, Cǐ huái jiù yào yìchū qǐ,
实在为何热恋她。 shízài wèihé rèliàn tā.
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“難題とその解決策”と先に述べた点は、元歌の「篠」を漢詩では「荏」に替えたことです。「翻訳者」として、元歌を修正(悪?)することが許されるであろうか?一応、この修正(悪?)の理由を以下に示し、弁解としたいのですが。

歌の「浅茅生の小野の篠原」の部は“序詞”で、和歌の大事な技法の一つとされるが、歌の本論と意味上の繋がりはないに等しい。「篠(しの)」は、「忍(しの)ぶ」の“掛詞”で、序詞を本論に繋ぐ役割を果たしています。

「忍ぶ」は歌の本論中、鍵となる語と言えるが、漢語で「篠(xiǎo)」と同音で「忍ぶ」の意味を持つ語は見当たらない。すなわち「篠(xiǎo)」を活かしたままでは、本論の物語展開へと発展させることができなくなります。

序詞の技法は、和歌の面白みを表現する上で、非常に重要な役割を果たしていると考えられ、漢詩化で無視することは許されないでしょう。そこで「忍」を導き出す工夫として、「忍(rěn)」と同音異字の「荏(rěn)」を「篠(xiǎo)」に替えた次第です。

「浅茅生の……」と掛けて「しのぶれど……」と解く、その心は「しの」でした、如何でしょう?この歌での謎々ことば遊びの“心”は「篠」一字(/語)の音(/訓)であると言えます。

序詞全体が表現するイメージまたは意味を謎々ことば遊びの“心”とする場合があります。次の歌をご覧下さい。柿本人麻呂の歌です:、

あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかもねむ

先にこの歌の漢詩化については紹介しました(閑話休題-118)。その中では、枕詞について考えましたが、実は序詞も含まれていました。但し本稿の歌とは、序詞の性格が異なります。

人麻呂の歌で「あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の」の部が序詞です。この部分を読んで生ずる“長い”という“イメージ/意味合い”が歌の本論である“秋の夜長”に繫がっていきます。ここでの謎々ことば遊びの“心”は、“長い”という“イメージ”でした。

因みに、専門的な表現に従えば、序詞を、掛詞の“語”で本論に繋ぐ場合は“無心の序”、一方、“イメージ/意味合い”で繋ぐ場合は“有心の序”として区別しているようです。“無心の序”とは言え、“心”を活かす技法の一つです、混乱の無いようご注意を!

掛詞が“ダジャレ”に、序詞が“謎々ことば遊び”に例えられることを考えると、文字の伝わる以前には和歌がこれらのことば遊びをしながら“歌”として親しまれていたことが想像され、心楽しくなります。

和歌を外国語へ翻訳するに当たって、序詞を含む伝統技術そのものに関しても丁寧に訳出しする工夫が大事であろうと考えます。その一つの工夫として、敢えて「篠」を「荏」に替えた所以です。

和歌の作者・源等(880~951)について簡単にふれます。第52代嵯峨天皇(在位809~823)のひ孫に当たり、祖父の代に臣籍降下して源姓となる。地方官勤めが長く、60歳過ぎて参議になった と。『後撰和歌集』に4首入っており、掲題の歌はその一首である。
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閑話休題 137 飛蓬-44 小倉百人一首:(菅原道真)  このたびは

2020-03-11 17:49:46 | 漢詩を読む
(24番) このたびは 幣も取り合えず 手向山
      紅葉の錦 神のまにまに 
訳)今回の旅は急なことだったので、捧げものの準備もできませんでした。そこでこの手向け山で手向ける幣としましては、美しい紅葉の錦を御心のままにお受け取りください。(板野博行)

宇多上皇が名所の吉野・宮瀧に行幸した折(898年秋)、同行した菅原道真(845~903)が詠った歌です。吉野に向かう途上、山城(京都)から大和(奈良)に入る峠道の手向山で旅の安寧を祈る場面です。

急な出立だったので道祖神にお供えする幣の準備もできなかった。「ここには素晴らしい“紅葉の錦”がありますので代わりに供えます」と。旅に出るのに「不届きな」という気がしないでもないが、“紅葉の錦”に免じて、神も心を和ませてくれたように思われる。

和歌の中の“掛詞(カケコトバ)”に触れます。“掛詞”は、言葉遊戯の一種で、ある意味“ダジャレ”(後述参照)なのだが、翻訳に際しては難題の一つです。今回は上掲の歌を例にしてその対応を考えます。上掲の歌は七言絶句の漢詩にしました。下記ご参照ください。

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<漢字原文および読み下し文> (上平声十四寒韻)
陪上皇御駕     上皇の御駕(ギョガ)に陪(オトモ)する
此度赶忙無幣紈、 此度(コノタビ)は赶忙(イソギ)のため幣紈(ヘイガン)なく、
到手向山祈旅安。 手向山(タムケヤマ)に到り旅の安(ヤスラケキ)を祈る。
折楓柯供石菩薩、 楓(カエデ)の柯(エダ)を折り石地蔵に供え、
随着神意天地寛。 神意に随い天地(アメツチ)の寛(カン)ならんことを。
 註]
上皇:天皇が位を退いてからの尊称。ここでは宇多上皇。 
此度:掛詞の一つで、「今度、今回」という意味と、“度”は“渡”に通じることから“旅”の意を込めて「この旅」の意とし,承句の中に訳出した。
赶忙:急いで、大急ぎで。
幣紈:幣帛(ヘイハク)、しろぎぬの弊(ヌサ)。神に祈るときに捧げるもの。布や紙で作った。今日見る玉串もその一つ。昔、旅の途中で道祖神に捧げて旅の安全を祈った。
手向山:京都から奈良に行くのに通る峠を指す固有名詞となっているが、かつては、“幣を手向ける山”という一般的な意味であった由。
供:捧げる、手向ける。手向山との掛詞の訳。

<簡体字およびピンイン>
 陪上皇御驾   Péi Shànghuáng yùjià
此度赶忙无币纨、  Cǐ dù gǎnmáng wú bì wán,
到手向山祈旅安。  dào Shǒuxiàngshān qí lǚ ān。
折枫柯供石菩萨、  Zhé fēng kē gòng shí púsà,
随着神意天地宽。  suízhe shényì tiāndì kuān。

<現代語訳>
 宇多上皇の行幸にお供する
今回の旅は、幣を用意することもできないほどに急いで出発したが、
手向山に至って旅の安全をお祈りすることになった。
彩鮮やかな楓の枝を手折って、幣に代えて道祖神の石地蔵に手向け、
神の御心のままに、この先 天地の神々が寛容でありますようにと祈った。
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歌の作者が“掛詞”の技法を用いたとき、作者の頭脳の中では両方の意味を考えていたはずである。したがって翻訳に当たっては、読者が両方の意味を理解できるように翻訳すべきである との基本姿勢で翻訳に臨むことにした。

その解決策は、同音(同訓)にこだわらない単語や熟語などを用いて両方の意味を直接的に訳出しすること以外、本質的に方法はないと思える。上の例は、次のようにその意味を、異音(異訓)語を用いて直接訳出しする方式に随っています。

上の和歌中、“掛詞”は、「このたびの」の“たび”で、その意味は「回数」と「旅行」、また「手向山」では、固有名詞の「手向山」と“供える”の意と。漢詩では、それぞれ、「此度」と「旅」、「手向山」と「供」に訳出しました。

和歌で“掛詞”の技法が広く利用されるようになった原因あるいは切っ掛けはなんだろう?興味深いことではある。中国から文字が伝わる以前に遡った日本の生活状況を想像し、“掛詞”の起源を愚考してみます。

日本語は、中国語や朝鮮語とは全く異なり、本来的に五・七調の韻律を持っていたとする日本語起源論を読んだことがある(*後注)。農作業中や恋の告白等々に、五・七調の“歌”の掛け合いが行われていたことは十分に想像できます。

時代を経るにつれて“五七五七七調”に収斂して、現代の和歌の形が整ってきた。ただ音声による掛け合いでは、同音(訓)異義の言葉については、相手は、話者の意図した意味とは異なった意味に理解または誤解することは十分に有り得る。

この現象を逆に利用すると一種の“言葉の遊技”、今様の“ダジャレ”となります。一方、より洗練された“掛詞”として“短い歌”の中で,より多くの物語を語るのに活用されていくようにもなった と考えられないであろうか。

作者の菅原道真について、簡単に触れます。学者の家系の家に生まれ、32歳で文章博士となり、右大臣にまで昇進します。この昇進が妬みを買い、讒言されて大宰府へ左遷され、2年後に病没します。ただし没後に復権し、今日、学問の神様“天神様”として祀られるようになった。

歌人として複数の家集や歴史書の編著があり、また漢詩の作者でもある。特記したいのは、和歌とその翻案の漢詩を対にして編纂した『新撰万葉集』2巻の編者とされている点です。ぜひ手に取って参照してみたい書物です。

*注) 大野晋著『日本語の起源』(文庫本であったが、随分昔のことで出版の詳細は不明である。)
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閑話休題 136飛蓬-43: 小倉百人一首 (右近) 忘らるる

2020-03-03 10:44:18 | 漢詩を読む
(38番) 忘らるる 身をば思わず 
誓いてし 人の命の 惜しくもあるかな
                 右近
<訳> 忘れ去られる私の身は何とも思わない。けれど、いつまでも愛すると神に誓ったあの人が、(神罰が下って)命を落とすことになるのが惜しまれてならないのです。(小倉山荘氏)

「忘れられたからといって、私はどうでもよいのよ。ただ天罰で貴方の命が縮まるのが惜しいのよ」と。あの人の身を案じているようにみえる作者の歌の本音はどこにあるのでしょうか?

“和歌を漢詩に翻訳する。多くの課題を抱えながらも、現在50余首の漢詩化を達成し、峠を越したところです。この辺で翻訳した漢詩を例証しながら、課題とその対応策を提示して、読者のご批評を仰ぎ、次に備えていきたく思います。

今回の和歌は、まさに漢詩化を始めた初っ端に、遭遇した難題の一つを含んでいます。七言絶句に仕立ててみました。以下、ご参照ください。

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<漢字原文および読み下し文>  [入声六月韻]
 遥想古情人 古(カツテ)の情人(コイビト)を遥想(オモイヤル)
初逢不管発誓愛, 初の逢(瀬)で愛を発誓(チカウ)も、
就你毁约天要罰。 就(スグ)に你(ナンジ)は毁約(キヤク)す 天 要(カナラ゙)ずや罰せん。
安憶此身君所忘, 安(イズク)んぞ憶(オモ)わん 君が忘れし此の身を,
却心甚惜君徂殁。 却(カエッ)て心 君の徂殁(ソボツ)を甚(ハナハ)だ惜しむ。
 註]
  遥想:思いやる。    不管:…にもかかわらず。
発誓:誓う。        你:あなた。
毁約:約束を反故にする。  徂殁:世を去る、死ぬ。
※“誓い”と“契り”:百人一首では、男女の約束事に“誓い”と“契り”が現れる。“誓い”は、神や仏にかけて約束することを言い、“契り”は、普通の約束、将来の約束を言う と。

<現代語訳>
 曽ての恋人を思いやる
初めての逢瀬の折、永遠の愛を神に誓ったのに、
今やあなたは誓いを反故にした、きっと天罰が下ることでしょう。
君が忘れてしまった私の此の身のことなど、何で私が思うことがあろうか、
却って心中 惜しむのは、君に天罰が下って命を縮めるであろうことなのです。

<簡体字およびピンイン>
 遥想古情人 Yáoxiǎng gǔ qíngrén
初逢不管发誓爱, Chū féng bùguǎn fāshì ài,
就你毁约天要罚。 jiù nǐ huǐyuē tiān yào fá.
安忆此身君所忘, Ān yì cǐ shēn jūn suǒ wàng,
却心甚惜君徂殁。 Què xīn shèn xī jūn cú mò.
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百人一首漢訳の数の上で峠を越したのを機に、和歌の漢詩化に当たっての苦労話を2,3紹介します。愚作の理解にお役に立てれば、と願いを込めて。

漢詩化に当たっては、五言または七言の絶句にすることを念頭に据えた。三十一文字からなる和歌は、・語数が少なく、・言葉の遊戯の面が強い。一方・物語性がありながら、・“結論“を導く過程は直接語られていない場合が多い。

語数が少なく、言葉の遊戯の面が強い、という点については稿を改めて触れます。本稿では、・物語性がありながら、・“結論“を導く過程は直接語られていないという面について考えます。

掲題の和歌はまさにその例と言えます。上の和歌と漢詩を対照して見て頂きたい。歌の“意味”は、直接的には漢詩の後半二行(転句と結句)で完全に表されています。しかしそれだけでは歌の“きっかけ”とか、なぜその“結論”に至ったかは伝わらない。

漢詩圏の外国の人にも読んでもらいたい、日本文化の一つ和歌を理解する一助になってほしい…との願いを叶えるには、後半二句のみでは不親切極まりないと思える。和歌の漢詩化を考えた際、初っ端に突き当たった点は、その対応法であった。

課題は、歌の“結論“を導くに至った”物語“をも含めて如何に漢詩に表現するか、すなわち”四行の短文“を一読すれば歌に含まれる”物語の全体像“が読み取れる、これを可能にするには如何なる対応をすべきか という点であった。

そんな折、貴重な講演会に接した。講師 王岩先生(南山大学非常勤講師)【司会 白雪梅先生(漢詩研究家、NHK漢詩サロン他講師)、主催 みのお中国文化に親しむ会(代表者 市村晃)】 による「与謝蕪村の俳諧2880句の漢訳」と題する講演であった。

講演では、俳句を漢訳する際の多くの経験が紹介された。その中で筆者にとって最も印象的であったのは、俳句中一単語で表現されている“情景”を複数の語を使って“膨らませて”表現し、“情景”を活き活きと蘇らせていく手法(?)であった。

その手法(?)をヒントに、“結論“を導くに至る過程の情景描写―(起句・承句)―を追加して、物語を完結させるという、現在の手法に至った次第である。和歌によっては、”いかなる情況下で詠った“と、詞書(コトバガキ)がある場合があるが、多くはない。

詞書のない和歌では、掲題の和歌がそうですが、歌の解釈は、ある意味、自由度は高く、読者に委ねられることになる。このような場合、追加された情景描写が、この読者の“読む”自由度を狭めるのではないかという心配はあります。

和歌の“物語”を読者に理解してもらう今一つの手立ては、“詩題”の設定です。 歌・詩のきっかけ”または内容を一言で提示することができます。但し詩題や、詞書のない和歌の場合の追加の情景描写は、翻訳者にとって最も荷の重い作業と言えます。
  
歌の作者・右近について簡単に触れます。平安中期の人ですが、生没年は不詳。右近衛少将藤原季縄の娘で、第60代醍醐天皇の皇后穏子(オンシ)に女房として仕える。960年「天徳内裏歌合」(閑話休題-132 & 133参照 )に出るなど、優れた歌人である。

恋の遍歴も華やかである。その遍歴は『大和物語』に語られているようで、藤原敦忠(百人一首43番)と結婚するが、敦忠は38歳で亡くなる。その後、恋の相手は高貴な男性ばかりで、百人一首に歌を残している男性でも4人数えられるようです。

上掲の歌には詞書がなく、相手は藤原敦忠であろうとされています。また歌の趣旨は、・捨てられたとはいえ、なおあの人の身を真に案じている、・口先だけで身を案じている風に見せている、あるいは、・いっそ神罰で死んでしまえ…と。

このように歌の解釈の自由度の高い歌にあっては、翻訳に当たって注意を怠ってはならない と自戒頻りです。読者のご批評を仰ぐ所以です。
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