愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題42 漢詩を読む ドラマの中の漢詩27 『宮廷女官―若曦』-15

2017-06-24 15:42:58 | 漢詩を読む
先に『虬髯客伝』を紹介しましたが、ここで今一つの話題“竹林の七賢”の一人、嵆康(ケイコウ)について触れます。

曹丕による魏王朝、劉備による蜀王朝および孫権による呉王朝建国の結果、三国が鼎立した三国時代、魏王朝では、3代目明帝(在位226~239)の代に至って、政治が乱れ、国力が衰え始めます。

子供がなかった明帝の没後、傍系の幼い斉王芳が即位し、二人の重臣、曹一族の曹爽(ソウソウ)および魏建国の武勲者・司馬懿(イ) (179~251)が補佐することになった。司馬懿は、蜀の諸葛亮との五丈原での戦いが有名ですが、魏国4代に仕えた譜代の一人です。

以後、曹一族を代表する曹爽と建国の功臣司馬懿との熾烈な権力闘争が繰り広げられることになります。当初、曹爽派の圧力が強く、司馬懿は、“病い”で表舞台から遠ざかり、司馬氏追い落としがなるかに見えた。

司馬氏は、相手の油断に乗じて一気にクーデターを起こし(249)、実権を握ります。以後、息子の司馬師、その弟の昭と徐々に曹氏の力を削ぎ、昭の息子・炎に至って、魏を倒し、西晋王朝を建てます(263)。司馬氏3代4人掛かりの政権簒奪劇の幕は下ります。

嵆康(ケイコウ)(210~263)は、曹一族対司馬氏間の熾烈な権力闘争が繰り広げられた時代に生きています。竹林に隠棲し、6人の仲間と清談を交わし、詩を吟じ、琴(名人であった)を弾じ、酒さらには“五石散”(麻薬)に溺れる生活を送ります。

衣服は着換えることをせず、蚤をわかせていたとか。時には山中を歩き回り、また鍛冶仕事に熱中することもあった と。但し、このような“奇行”は、偏に権力争いに明け暮れる俗世間、特に司馬氏から身を遠ざけるための知恵のようであった。

嵆康は、若くして優れた才能を持ち、幅広い教養を身に着け、特に老荘思想を基にした思想の持主であった。詩編や哲学書ばかりでなく、多様な分野で著作を残しており、後年、時代を代表する傑出した哲学者、詩人であったと評価されています。

嵆康のご先祖が曾て曹操出生地の近くに住まっていたという地縁、また自分の妻が曹操のひ孫に当たるという因縁があり、父ばかりでなく自身も曹氏に仕えた経歴があります。権力闘争が渦巻く中、嵆康の置かれた立場は微妙であったと言えよう。司馬氏から身を遠ざけることは自然の成り行きでしょうか。

そんな折、嵆康は、ある事件に巻き込まれます。年下の友人・呂安の妻が兄・呂巽に強姦されるという出来事があった。嵆康が仲裁した結果、一応表ざたになることなく収まるかに見えた。

しかし呂巽は疑心に駆られて、「呂安は母親を虐待した」と事件をデッチあげ、呂安を逮捕・投獄させます(262)。嵆康は、法廷で敢然と呂安を弁護しますが、嵆康の反儒教的言動も災いして、司馬氏の意に染まず、嵆康もともに投獄される結果となります。

嵆康は、獄中で生涯の総決算として86句からなる自伝的長編詩「幽憤の詩」を、また当時十歳であった息子への遺言と言うべき「家誡(カカイ)」を著します。「幽憤の詩」は、末尾に示しました。抜粋ですが、嵆康の生涯および冤罪に対する無念さが伝わるよう留意して、より多くの句を挙げています。

なお、嵆康の他、竹林で清談を交わした仲間には、山涛、阮籍、王戒、劉伶、阮咸および向秀があり、“竹林の七賢”と称されています。司馬氏との関わりについて言えば、嵆康以外、他の6人は、胸の内は別にして、何らかの形で司馬氏と関わりを持っていたようです。

さて、『宮廷女官―若曦』のドラマに戻って、第十三皇子が、嵆康の思想に通じていることを思えば、やはり“命知らずの皇子”と言われていることが納得できるように思われます。

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幽憤の詩
1,2 嗟余薄祜、少遭不造。 嗟(アア) 余(ワレ)祜(サイワイ)薄く、少(ワカ)くして不造(フゾウ)に遭(ア)う。
5,6 母兄鞠育、有慈無威。 母と兄 鞠育(キクイク)し、慈(イツクシミ)有るも威(キビ)しさ無し。
11,12 抗心希古、任其所尚。 心を抗(タカ)くして古(イニシエ)を希(ネカ)い、其の所(トコロ)尚(トウト)ぶに任(マカ)す。
13,14 託好老荘、賤物貴身。 好(コノ)みを老荘に託し、物を賤(イヤ)しみ身を貴(トウト)ぶ。
15,16 志在守樸、養素全真。 志は樸(ボク)を守るに在り、素を養い真を全(マット)うせんとす。
17,18 曰余不敏、好善闇人。 曰(ココ)に余 敏(サト)からず、善を好むも人に闇(クラ)し。
23,24 民之多僻、政不由己。 民は之(コレ)僻(ヨコシマ)多く、政(マツリゴト)は己(オノレ)に由(ヨ)らず。
25,26 惟此褊心、顕明臧否。 惟(コ)れ此の褊心(ヘンシン)、 臧否(ゾウヒ)を顕明(ケンメイ)せんとす。
37,38 仰慕厳鄭、楽道閑居。 仰ぎ慕(シタ)う厳(ゲン)と鄭(テイ)、道を楽しみて閑居(カンキョ)す。
39,40 興世無営、神気晏如。 世と営(イトナ)む無く、神気(シンキ)は晏如(アンジョ)たり。
45,46 理弊患結、卒致囹圄。 理 弊(ヤブ)れて患(カン)結び、卒(ツイ)に囹圄(レイゴ)を致(イタ)す。
49,50 実恥訟冤、時不我与。 実(マコト)に冤(エン) 訟(ウッタ)えらるるを恥ず、時は我に与(クミ)せず。
65,66 古人有言、善莫近名。 古人 言う有り、善 名に近づく莫(ナ)かれと。
67,68 奉時恭黙、咎悔不生。 時に奉(ホウ)じて恭黙(キョウモク)し、咎悔(キュウカイ)生ぜず。
77,78 予独何為、有志不就。 予(ヨ)独(ヒト)り何為(ナンス)れぞ、志有るも就(ナ)らず。
81,82 庶勗将来、無馨無臭。 庶(コイネガ)わくは将来勗(ツト)めん、馨(カオリ)無く臭(ニオイ)無きを。
85,86 永嘯長吟、頣性養寿。 永く嘯(ウソブ)き長く吟じ、性を頣(ヤシナ)い寿(ジュ)を養わん。
註] 
句頭の数字:句の番号、便宜上筆者が付した;
幽憤:心の底から湧き起こる憤怒; 祜:幸い;
不造:不幸、父を亡くしたこと; 鞠育:養い育てる;  抗:高い;     所:おもい(意); 樸:ありのままの本性;素:まごころ;    僻:よこしまな; 褊心:狭量な心;
臧否:善悪; 晏如:安らかで落ち着いたさま;
囹圄:牢獄; 恭黙:慎み深く控えめな;
咎悔:わざわい; 庶:請い願わくは; 頣:養う

<現代語訳>
1,2 ああ、私は幸薄き身だ、幼くして父が亡くなるという不幸に遭った。
5,6 母と兄とに育てられ、慈に満ちていたが、厳しいことはなかった。
11,12 志を高く持し先人を敬慕し、その思いを尚んできた。
13,14 老荘の教えに親しみ、外物を賤しんで内面を大事にしてきた。
15.16 志してきたことはありのままの本性を守り、真心を養い全うすることにあった。
17,18 私は愚かであった、善を良しとしながらも人を見る目がなかった。
23,24 民の非道は横行し、政は皇帝の手から離れていった。
25,26 この狭量な自分ではあるが、善悪をはっきりさせようとした。
37,38 仰ぎ慕うのは厳君平と鄭子真、道を楽しみながら世俗を離れて心静かに暮らしている。
39,40 世間と関わることなく、気は安らかで落ち着いている。
45,46 道理は破れて災厄が絡みつき、ついに獄に入れられた。
49,50 冤罪で訴えられたことは実に恥ずかしい、時は私に味方することはない。
65,66 古人の言にいう、善行をなすも名声を求める莫れ と。
67,68 時の流れに従い慎み深く控えめに過ごしていたなら、禍に遭うことはなかったのだ。
77,78 わたしだけがなぜに、志を抱きながら成就できなかったのか。
81,82 願わくはこれから先、芳香もまた悪臭も放たないよう努めて行こう。
85,86 長く嘯きまた吟じて、本姓を養い、天寿を全うすることにしよう。
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閑話休題41 漢詩を読む ドラマの中の漢詩26 『宮廷女官―若曦』-14

2017-06-14 11:28:30 | 漢詩を読む
唐の創建者の一人李世民(第二代皇帝、太宗;598~649)の建国初期の頃の詩を詠みます。

まず、唐建国の頃の中原の状況、李世民の唐建国までの凡その流れを見ておきます。

李世民は、李淵(第一代皇帝 高宗;在位618~626)の次男で、長男に建成、弟に元吉がいた。兄弟の中で李世民は武術、特に騎兵術に勝れていたようである。

前代の隋の高祖楊堅(在位:581~604)は、西晋の滅亡後分裂していた中国をほぼ300年ぶりに統一した。しかし第二代皇帝煬帝(在位:604~618)は、失政を布き、再び国に混乱をもたらした。すなわち、中原では群雄が割拠し、また北方では突厥等の侵略が絶えなかった。

李淵は、煬帝と縁の繋がりのある家系の人であるが、世が乱れる中、太原で挙兵します(617)。この時、李世民19歳。李世民は、父に従い長安を目指して進軍します。翌年、李淵軍は長安を平定して、煬帝の孫・楊侑(ヨウユウ、13歳)を擁立して唐を建国します。

その年、兄の李建成は立太子して、皇太子となり、李世民は秦王となります。621年、武勲が華々しかった李世民は、さらに“天策上将”の特別称号を授けられますが、対皇太子関係は微妙になってきたようです。

626年、李世民の精鋭が、玄武門に待ち伏せして、参内する建成および元吉を殺害します。いわゆる、“玄武門の変”です。この歴史的な変の表事情や裏事情は、いろいろと歴史書に語られています。

詳細は省きます。一言、先に取り上げた魏徴について触れておきます。魏徴は、李建成派の参謀長とも言える人で、建成に対して「皇太子の地位を保ちたいなら李世民を殺す必要あり」と進言した と。

“変”の後、李世民は、魏徴を呼び、「汝は我が兄弟を離反させた、何事か!」と叱責した。対して魏徴は、「皇太子がもし自分の言に従っていれば、今回の禍が起こることはなかった」と、大胆不敵に直言した と。

魏徴は、死を覚悟の発言であったろうが、李世民は、“正しいと信ずることを述べる人物”としてその才を認め側近に置いた。以後、政治の舵取り役として“諫言大夫”と称されるほどに重用されていったことは、先(閑話休題39)に触れた通りです。

この年、李世民は帝位を譲位されて、第二代皇帝として即位します。翌年、“貞観(ジョウガン)”と改元され、以後、統一国家の建設に全力が投入されていきます(“貞観の治”)。すなわち、内政の充実、北方・西方異民族の平定など、以後200数十年続く唐の土台を築き、中国史上有数の名君の一人とされています。

世が進み、平穏になるにつれて、いろいろと逸話が語られることも世の常と言えましょうか。李世民について、“北方に天子が現れる”と語る短編伝奇小説『虬髯客伝』は先に触れました(閑話休題39参照)。

また、李世民が4歳のころ、さる御仁が李淵を訪ねた折、幼少の李世民を見て、「龍や鳳凰の姿をしている、成人後は人民の苦難を救い、安心させることだろう(済世安民)」と言ったという。それで李世民と名付けた と。

この李世民も、後継者の選定には失敗したようで、続いて、一代限りながら、“武則天”の武周朝を挟んで、唐は続いていくことになります。

さて、ここで取り上げる李世民の詩は、何時の作品かは定かではありません。恐らく、対外的な戦争及び政争を含めて、戦に明け、戦に暮れた時を経て、世の平穏が見えた初期の頃の作と想像しています。

世の移ろいを、春から初夏に向けての季節の移ろいに擬しているのではないでしょうか。20数句の長い詩です。中間部は省略して示しました。“詩を題する”と結ぶ最終句には、この詩を読む側も安堵感を覚えます。

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初夏   李世民
<原文と読み下し文>
一朝春夏改、     一朝(イッチョウ) 春夏 改まり,
隔夜鳥花遷。     隔夜(カクヤ) 鳥花(チョウカ)遷(ウツ)ろう。
陰陽深浅葉,     陰陽 深浅(タンセン)の葉,
暁夕重軽煙。     暁夕(ギョウセキ) 重軽(チョウケイ)の煙。
…中略…
玉簪微醒酔夢,    玉の簪(カンザシ) 微(カス)かに酔夢(スイム)を醒(サ)まし,
開却両三枝。     開却(カイキャク)す 両三の枝。
初睡起,暁鶯啼。   初めて睡(ネムリ)から起きれば,暁(アカツキ)に鶯啼(ナ)く。   
倦弹棋。       棋(キ)を弹(ダン)ずるに倦(ウ)む。
芭蕉新綻,徙湖山,  芭蕉 新たに綻(ホコロ)び,湖山 徙(ウツ)ろい,    
彩筆题詩。      彩筆(サイヒツ) 詩を题す。

[註]
隔夜:一夜を越す、宵越し
玉簪:玉のかんざし、ユリ科の植物。夏から秋に白色で香りのある花をつける。花は夕方開き、朝閉じる。
彩筆:絵筆
题詩:詩を作って書き記す

<現代語訳>
いったん春が過ぎて初夏を迎えると、宵越しに小鳥や花も移り変わっていく。
日差しの加減で葉の緑も濃くあるいは浅く、朝夕立つ炊煙も様々にあがる。
…中略…
玉のかんざしはかすかに眠りから覚めて、何本か枝を伸ばしている。
目が覚めて、起きだすと、暁に鶯の鳴き声が聞こえる。
飽きるほどに囲碁も打ってきた。
芭蕉の葉は裂けたばかりで、山や湖も移り変わっていく、
筆を執って詩を作り書き留めることにする。
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