愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 152 飛蓬-59 小倉百人一首:(寂蓮法師)  村雨の

2020-06-26 16:42:39 | 漢詩を読む
(87番)村雨(ムラサメ)の 露もまだひぬ 槇(マキ)の葉に
霧立ちのぼる 秋の夕暮れ
寂蓮法師『新古今和歌集』秋・491
<訳> にわか雨が通り過ぎていった後、まだその滴も乾いていない杉や檜の葉の茂りから、霧が白く沸き上がっている秋の夕暮れ時である。(小倉山荘氏)

ooooooooooooo
にわか雨が通り過ぎたあと、谷間に霧が濛濛と立ちこめて、真木の梢が墨絵のように浮いて見える。幻想的な秋の夕暮れの情景である。あるいは仙人が棲んでいるのでは との思いも湧くように思える。

前回、『新古今和歌集』の中で「三夕の歌」と世に讃えられる歌3首を、寂蓮法師の歌も含めて紹介しました。今回の歌も、同集に撰されている“秋の夕暮れ”を詠った一首です。庵を出ると眼前に谷間の山が広がっているのでしょう。

このような情景を想像しながら、五言絶句の漢詩にしてみました。何の飾りもなしに、情景そのままを淡白に と心がけて翻訳しました。

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<漢詩原文および読み下し文>  [去声七遇韻]
 山中秋薄暮  山中 秋の薄暮(ユウグレ゙)
驟雨沾嘉樹, 驟雨(シュウウ) 嘉樹(カジュ)を沾(ウルオ)し,
未干葉清露。 葉の清露(セイロ) 未だ干(カワ)かず。
茂林濛濛起, 茂林(モリン)に濛濛(モウモウ)として起り,
雰満秋薄暮。 雰(キリ)が満(ミ)つる 秋の薄暮(ハクボ)。
 註]
  驟雨:にわか雨、村雨。  嘉樹:よい木材になる木、真木。
  清露:清く澄んだ水滴。  濛濛:霧が立ち込めるさま。
  
<現代語訳>
  山中 秋の夕暮れ時
にわか雨が通り過ぎて、木々が潤っており、
木々の葉に着いた水滴はまだ乾いていない。
林の葉陰から濛濛と起こっている、
霧が視界に満ちている秋の夕暮れである。

<簡体字およびピンイン>
 山中秋薄暮  Shān zhōng qiū bómù 
骤雨沾嘉树, Zhòuyǔ zhān jiāshù,
未干叶清露。 wèi gān yè qīnglù.
茂林蒙蒙起, Màolín méngméng qǐ,
雰满秋薄暮。 fēn mǎn qiū bómù.
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作者・寂蓮法師(1139~1202)は、俗名・藤原定長。藤原俊成(1114~1204、百人一首83番)の弟である阿闍梨俊海の息子ですが、12歳の頃、俊海の出家を機に子供のなかった俊成の養子となった。

後に俊成に子供・定家(1162~1241、同97番)が誕生したため、俊成の元を離れた。30歳過ぎに出家し、山籠もりの修行や全国行脚を続けたのちに、嵯峨野に庵を結んで住み着いた。今回および前回紹介した歌ともに、この庵の周囲の情景でしょう。

後々の話題の理解を助けるために、ここで寂蓮法師を取り巻く当時の歌壇の状況を簡単に整理しておきます。

寂蓮の血は藤原道長に遡り、道長から5代目に当たるようだ。寂蓮の叔父(義理父)の俊成は、和歌に“幽玄”の、また従弟(義理弟)の定家は“有心(ウシン)”の理念を注いで、革新的な歌を目指した。

俊成の曽祖父・長家(道長の息子)は、醍醐天皇の皇子・兼明親王から「御子佐第(ミコサテイ)」を譲り受けて住した。以後、俊成・定家・寂蓮に繫がる血筋は「御子佐家(ミコサケ)」と称され、彼らを中心とする一大歌人集団が形成されていく。

一方、藤原顕輔(1090~1155、同79番)およびその息子・清輔(1104~1177、同84番)を中心とする有力な歌人集団があった。顕輔の父・修理大夫藤原顕季が六条烏丸に住していたことから、「六条家」流と称されている。彼らの作風は“保守的”であったとされている。

俗な表現をするなら、歌壇にあって、当初は「六条家」の勢力が優勢であったらしいが、「御子佐家」の勢いは、俊成のころ拮抗し、定家のころ逆転して優勢に転じた と。革新的な、いわゆる“新古今調” の歌風が世に受け入れられていったようである。

最後(第八)の勅撰和歌集となる『新古今和歌集』は後鳥羽院(1180~1239、天皇在位1183~1198)の院宣により撰され、1205年に完成した。寂蓮も撰者に命じられましたが、途中病没したため、撰者として名は連ねられていない。

後鳥羽院は寂蓮について、「真実堪能(カンノウ)」(対象から詩情を引き出すのに熟達している)と称賛しており、高く評価していたようである。寂蓮は嵯峨野に隠棲後も度々後鳥羽院主催の歌合に参加しており、話題の「村雨の」の歌もその際に紹介された一首である と。

寂蓮は、旺盛な“遊び心”の持ち主でもあったという一面を示す歌を紹介して本稿の結びとします。ある秋の台風で、嵯峨野の庵の檜皮葺(ヒワダブキ)屋根が吹き飛ばされるという災難にあって、友人の慈円(同95番)に宛てた手紙に添えられていた という。

わが庵(イホ)は 都の戌亥(イヌイ) 住み詫びぬ
   憂き世のさがと 思いなせども(拾玉集 巻第五)
[わたしの草庵は都の西南にあって住みにくい、屋根が飛ばされたのも憂き世のさが(=宿命/嵯峨)だと思うのですが](小倉山荘氏)

この歌は、先に紹介した喜撰法師(同8番、閑話休題149参照)の次の歌をもじった、“本歌取り”の歌と言えます。

わが庵は 都の辰巳(タツミ) しかぞすむ
   世をうじ山と 人はいふなり
[わたしの草庵は都の東南にあって 鹿の棲むようなところ、こうしてちゃんと暮らしているのに他人は世を憂いと思って宇治山に住むというようですな]

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閑話休題 151 飛蓬-58 小倉百人一首:(良暹法師) 寂しさに

2020-06-20 16:44:01 | 漢詩を読む
(70番) 寂しさに 宿を立ち出でて 眺むれば
       いづこも同じ 秋の夕暮れ
               良暹法師(リョウゼンホウシ)、(『後拾遺和歌集』)
<訳> あまりの寂しさに堪えかねて、自分の住まいを出てあたりを見渡してみると、結局どこも同じ、寂しい秋の夕暮れであることだ。(板野博行)

ooooooooooooo
一人でいてあまりの寂しさに庵を出て、外を見渡してみると、どこも同じように寂しい秋の夕暮れの情景であるな と独り言ちています。色づいた木の葉、風の音や虫の鳴き声等々、すっかり秋の気配の中にいる孤独な自分を感じたのでしょう。

作者は、修行の場・比叡山を降りて、京都・大原に庵を結んだ。その折の秋の夕暮れのひと時という。多くの僧と集団生活をしていただけに、修行中の身とは言え、一人でいることの寂しさが、ひしひしと胸に迫ってきたのでしょう。

庵を出て、遠くを望むと涼やかな秋の微風にススキの穂が揺れている。近くの庭の竹林の影では、漏れ出た夕日を浴びた草むらでコオロギが鳴き始めた。このような風景の中の庵を想像して、上の歌を五言絶句の漢詩にしました。下記ご参照。

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<漢字原文および読み下し文> [下平声十二侵韻]
秋夕片刻  秋の夕の片刻(ヒトトキ)
微風薄穗蕩、 微風(ソヨカゼ)に薄(ススキ)の穗(ホ)蕩(ユ)れ、
竹影促織吟。 竹影に促織(ソクショク)吟(ギン)ず。
因寂出庵眺、 寂(サビシサ)因(ユエ)に 庵を出でて眺(ナガ)むれば、
秋夕遍処深。 遍処(イズコ)も秋の夕(ユウ)の気配 深し。
 註]
薄:ススキ。         促織:コオロギ。
眺:見渡す。
  
<現代語訳>
 秋の夕暮れのひと時
そよ風が吹いて薄の穂が揺れ動き、
庭の竹の影では、コオロギの鳴き声が聞こえる。
寂しさゆえに、庵を出てあたりを見渡してみると、
いずこもすっかり寂しい秋の夕暮れの気配である。

<簡体字およびピンイン>
 秋夕片刻 Qiū xī piànkè
微风芒穗荡 Wéifēng máng suì dàng,
竹影促织吟 zhú yǐng cùzhī yín. 
因寂出庵眺 Yīn jì chū ān tiào,
秋夕遍处深 qiū xī biànchù shēn.
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冬の季節はとりわけ寂しさが増す。人や草木もすべて生き物の息吹が感じられなくなるから とする歌を、前回(閑話休題150)対象としました。今回は秋の季節、特に“秋の夕暮れ”を詠った歌を2,3取り上げ、読んでみます。

万葉集では、大部分の歌が何らかの形で季節を詠み込んでおり、中でも“秋”を詠った歌が最も多いという。その内容は多義に渡っていて、収穫、人恋しさ、旅情等々、秋ならではの情景を風、虫や動物、花や草木の変化などを通して詠っている と。

古来、秋の季節は日本人の感性に響く何かがあるということでしょうか。日が徐々に短くなる、草木は葉を落とし……と、諸々の事象が衰亡に向かうように見えて、ややもすると、“寂しい・わびしい”との“想い”に傾く傾向があります。日が落ちる“夕暮れ”はとくにその感が強いようです。

当然のことながら、“寂しい・わびしい”という思いだけに拘っていてはならないであろうことを“秋の夕暮れ” の歌を通して考えてみたいと思います。“秋の夕暮れ”が歌に登場するのは、今回取り上げた良暹法師の歌が最古らしい。

“秋の夕暮れ”の表現は、『古今和歌集』(913完、第一勅撰和歌集)以前の歌集では見当たらず。『後拾遺和歌集』(1086完、第四)に初めて今回話題の歌があり、『新古今和歌集』(1205完、第八)の頃、多く詠われるようになった と。

清少納言は、「秋は夕暮。……、いとおかし。 日入り果てて、風の音、虫の音など、はた いふべきにもあらず(改めて言うまでもない)」(枕草子、1000頃完)と述べている。以後の歌人たちはこの影響を受けたと言えるのでしょうか。但し“いとおかし(情趣深い)”であり、“寂しい”ではありません。

『新古今和歌集』に“秋の夕暮れ”を詠った百人一首歌人の歌3首が並んで載っており「三夕(サンセキ)」と呼ばれていて、有名である。それら3首が百人一首に取り上げられているわけではないが、“秋の夕暮れ”を語るには絶好の歌群と言えます。以下に示しました。

三石の歌(訳はいずれも小倉山荘氏に拠った):
さびしさは その色としも なかりけり まき立つ山の 秋の夕暮れ(寂連法師)
[寂しさを感じさせるのはどの色というものではなかったな 真木(=杉や桧)の立つ山の秋の夕暮れをみて気づいたよ]

心なき 身にもあはれは しられけり しぎたつ澤の 秋の夕暮れ(西行法師)
[世を捨てたこの身にも情緒は感じられるものだ 鴫(シギ)の飛び立つ川の秋の夕暮れには]

見渡せば 花も紅葉も なかりけり 裏のとまやの 秋の夕暮れ(藤原定家)
[見渡してみると春の花も秋の紅葉もないのだった 海辺の苫屋(=漁師の小屋)の秋の夕暮れは]

“秋の夕暮れ”に、良暹法師は、周りのあらゆる事物に“さびしさ”を感じています。寂連法師(百人一首87番)は、特にこの色だから秋を感ずるというのではなく、常緑樹の山を見て“さびしさ”を感じています。秋の“寂しさ”を感じるのは、人間自身の心の中にある“寂しさ”によるものであるとしているようです。

西行法師(同86番、閑話休題114参照)は、秋の夕暮れに、渓流から鴫鳥が飛び立つのを見て“あわれ”を覚えた と。世を捨てた身だからといって“あわれ”の情が失われるものではない と。寂しさとは異なる、ある種の“情趣”を詠っています。

定家(同97番)は、海辺で“花もない、紅葉もない”無彩色の世界で“感ずること”があったという。ただ“無彩色のように見えて、実は心の中では”花・紅葉“”を想像していることを忘れてはなるまい。如何なる感動であろうか?

本より花や紅葉の存在を期待できない海辺で、花や紅葉を心に想い描き、敢えて“花もない、紅葉もない”と訴えている、その心は? 花や紅葉、言い換えれば、“華やかさ”に対する非常な“こだわり”を感じます。背景のみすぼらしい漁師の苫屋がひと際引き立てているように思われます。

さて話題の歌の作者・良暹法師は、平安中期の僧・歌人。生没年不詳、出自、経歴も不明である。比叡山の僧で、祇園別当となり、その後大原に隠棲し、晩年は雲林院(京都・紫野)に住んだと言われている。1038年9月の「権大納言師房家歌合」などいくつかの歌合に出詠しているという。
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閑話休題 150 飛蓬-57 小倉百人一首:(源宗于朝臣)  山里は

2020-06-12 16:55:31 | 漢詩を読む
(28番)山里(ヤマザト)は 冬ぞ寂しさ まさりける 人目(ヒトメ)も草も かれぬと思へば
          源宗于朝臣『古今集』冬・315 
<訳> 山里では、とりわけ冬の寂しさが身にしみて感じられるなあ。誰も訪ねてこないし、草木も枯れてしまったと思うと。(板野博行)

oooooooooooooo
山里にあっては、そうでなくとも寂しい感じがあるのに、冬にはとりわけ寂しさが増す。人も草木もすべての生き物に息吹が感じられなくなるから と。ただ「人目も」には、作者個人の置かれた境遇の反映があるように思われますが。

「悲しいかな 秋の気たるや」(宋玉:九弁)と、“秋”期の寂しさを詠う詩や歌は、漢詩、歌の世界ともによく見ます。“冬”を題材にした歌は、百人一首の中でこの歌が唯一ということです。

作者・源宗于(ムネユキ、9世紀末~939)は、皇族の血を引く人ですが、出世に恵まれず不遇の生涯であったようです。三十六歌仙の一人で、紀貫之などと仲がよく、同時代の人である。上の歌を五言絶句にしてみました。

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<漢詩原文および読み下し文> [入声一屋韻]
 山村里冬季 山村の冬季
山村够寂了, 山村では够(ジュウブン)に寂しきに,
尤其冬季熟。 尤其(トリワケ)冬季の熟期には寂しさなお募る。
因考人離去, 人は離去(タチサ)り、
還草木萎縮。 還(マ)た 草木の萎縮(イシュク)を 考える因(タメ)なり。
 註]
  山村:山里。         够:足りる、十分である。
  尤其:とりわけ、抜きん出て。 熟:十分に、熟した。
  因:(原因、理由)のために。 離去:人の足が離れる。
  萎縮:萎れ、枯れる。

<現代語訳>
 山里の冬
山里はそうでなくとも十分に寂しさを感じるのに、
とりわけ冬の最中には一層寂しさが募る。
人の足が遠のき、訪れる人もなく、
また 草木も萎れ、枯れてしまったことが思われるからである。

<簡体字およびピンイン>
 山村里冬季 Shāncūn lǐ dōngjì
山村够寂了,Shāncūn gòu jìle,
尤其冬季熟。yóuqí dōngjì shú.
因考人离去,Yīn kǎo rén lí qù,
还草木萎缩。hái cǎomù wěisuō.
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歌は、難解な技巧表現もなく、率直な思いが詠われているように思う。漢詩も五言絶句として率直に翻訳できました。ご批評頂ければ有難い。

作者・源宗于朝臣は、58代光孝天皇の孫で、59代宇多天皇の甥に当たります。894年に臣籍降下されて “源”姓を賜っている。最終官位は正四位下右京太夫ということであり、必ずしも恵まれた境遇ではなかったようである。

源宗于は、三十六歌仙の一人に上げられ、優れた歌人である。諸歌合せに参加し、また紀貫之との贈答歌が伝わっており、交流があったようである。『古今和歌集』(6首)以下の勅撰和歌集に15首入っており、家集に『宗于集』がある。

平安時代中期の説話集に『大和物語』がある。恋愛・伝説などを主題にした和歌を主とした歌物語集である。その中に右京太夫の名で、源宗于が身の不遇をかこつ挿話が幾篇かあるという。

その一つ。ある時、宇多天皇が紀伊の国から石のついた海松(ミル)という海藻を奉られたことがあり、そのことを題材にした歌を読む会が催された。その折、源宗于は次の歌を詠った と:

「沖つ風 ふけいの浦に 立つ波の なごりにさえや われはしずまぬ」
[沖から風が吹いて、吹井の浦に打ち寄せた波の残りの浅い水たまりにさえ 石のついた海松のように、わたしは沈んだまま浮かびあがれないでいるのでしょうか]

源宗于は、官位を上げてくれ といつもの思いを吐露したのでした。しかし宇多天皇は、「なんのことだろうか。この歌の意味が解らない」と側近にもらしたという。なお、海松(ミル)は、緑藻の一種、吹井の浦は、現和歌山県・紀ノ川河口あたりをいう と。

この歌を読み合わせてみると、「山里は…」で、冬の寂しい情景を主題とされたのには、やはり不満の境遇にあることが投影されたものと想像される。その上で、漢詩では、“そう(冬)でなくとも”と強調する起句から書き起こしました。

一方、“山里”を俗世界から隔てられた別世界であると詠む歌もいくつかある。先に紹介した藤原公任(閑話休題148)の一首を紹介しておきます:

「憂き世をば 峰の霞や へだつらむ なほ山里は 住みよかりけり」(千載和歌集)
[憂き世を峰にかかる霞が隔てて見えなくしているのだろう やはり山里というのは住みよいものだったよ](小倉山荘氏)。
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閑話休題 149 飛蓬-56 小倉百人一首:(喜撰法師)  わが庵は

2020-06-05 15:53:23 | 漢詩を読む
  (8番) わが庵は 都のたつみ しかぞ住む
        世をうじ山と 人はいふなり
              喜撰法師 『古今和歌集』 雑下・983
<訳> 私の庵は都の東南にあって、このように(平穏に)暮らしているというのに、世を憂いて逃れ住んでいる宇治(憂し)山だと、世の人は言っているようだ。(小倉山荘氏)

ooooooooooooo
世間の人は、「何ぞ辛いことでもあったのかな?この世の中がいやになって、宇治山に隠れ棲んでいるようだ」と噂している。私はこのように心身ともに安寧な暮らしをしているというのに。やれやれ 人の噂はほんに仕様ないわ。

と 飄飄と独り言ちている喜撰法師の様子が思い浮かんできます。紀貫之と同時代(?)の人で真言宗の僧侶、歌人です。というのは、その生没年や素性がほとんど知られていない人です。紀貫之は、六歌仙の一人に選んでいます。

歌ではやはり“掛詞”が出てきます、“憂じ”と“宇治”。また “然(シカ)”と“鹿” の表現もそれらしく思えますが、この表現は必ずしも“掛詞”とは評価されていないようです。漢詩化では、前者は活かしましたが、後者は敢えて無視しました。

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<漢詩原文および読み下し文>  [下平声一先・上平声十五刪韻]
 山中悠々      山中(サンチュウ)悠々(ユウユウ) 
我庵在京辰巳辺, 我が庵は京の辰巳(タツミ)の辺に在(ア)り,
過活身寧也心閑。 身は寧(ヤス)く也(マタ)心閑(シズカ)に過活(クラ)しおる。
人言逃避世憂悒, 人は言う 世の憂悒(ユウユウ)から逃避(トウヒ)し,
只好隠居宇治山。 宇治山に隠居する只好(ホカナ)かったかと。
 註]
  辰巳:東南。         過活:暮らす。
  寧:安らかに落ち着いている。 閑:安静なさま。
  憂悒:憂鬱である。      只好:せざるを得ない。
 ※ “憂”悒と“宇治”山は、掛詞“うじ山”の意を活かした。

<現代語訳>
 山中悠々
私の庵は都の東南の辺りにあって、
身は安らかに また心も静かに暮らしているのだ。
世の人々は、私が世の憂さ、煩わしさから逃れて、
宇治の山に隠遁せざるを得なかったのだ と噂しているようだ。

<簡体字およびピンイン>
 山中悠々   Shān zhōng yōu yōu
我庵在京辰巳边,Wǒ ān zài jīng chénsì biān,
过活身宁也心闲。guòhuó shēn níng yě xīn xián.
人言逃避世忧悒,Rén yán táobì shì yōuyì,
只好隐居宇治山。zhǐhǎo yǐnjū Yǔzhì shān.
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宇治川の辺は、平安時代の中ごろ以降、貴族の別荘地として賑わっていたことは先(閑話休題147)に触れました。喜撰法師が活躍したころは、上掲の歌から推察されるように、特に山手は世捨て人が棲家を求めていた処のようであった。

“宇治”の地名は、古く記紀の時代に遡り、第十五代応神天皇の皇子、菟道稚郎子(ウジノワクイラツコ)に由来するという。応神天皇とは、中国南北朝時代(439~589)の『宋書』などに現れる「五人の倭国王」の最初の一人・讃に当たるのではないかとされている天皇である。

“宇治山”は、歌枕の一つとされているようですが、現在の地図の上では“宇治山”はなく、“喜撰山/喜撰岳”と表記された山がそうである と。実際に喜撰山中には、喜撰法師に所縁があると伝わる“洞穴”などが存在するようである。

今日、歌の作者・喜撰法師の名・“喜撰”を冠した名称は、宇治地方の、山名に限らず、地名、施設名、商品銘柄などに度々見ることができる。喜撰法師その人についてはほとんど知られていないのに拘わらず である。歌の威力というべきか。

喜撰法師は、先に触れたように、その生没年をはじめ、伝説の類は別にして、その素性もほとんど知られていない。和歌も上掲の歌のほか、もう一首が残されているだけである。

ただ、『古今和歌集』の仮名序に、紀貫之による次のような記載があり、その人柄を偲ぶことができるようだ。「ことばかすかにして始め終わり確かならず。言わば秋の月を見るに、暁の雲に逢えるがごとし。詠める歌、多くきこえねば、かれこれをかよはして知らず。」

話は変わって、江戸時代の狂歌師、随筆家・蜀山人こと大田南畝(1749~1823)に『狂歌百人一首』なる作品があります。小倉百人一首をパロデイ化したものである。上掲の歌と関連した一首が非常に素晴らしいので紹介します。

わが庵は みやこの辰(タツ)巳(ミ) 午(ウマ)ひつじ
  申(サル)酉(トリ)戌(イヌ)亥(イ) 子(ネ)丑(ウシ)寅(トラ)う治

十二支を“辰”に始まり卯(ウ)まですべて順序良く並べて歌にしたものです。“五七五七七”としっかりと形を整え、“卯で治まり(宇治)”と、ご丁寧に“掛詞”も用意されていました。
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