愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題352 金槐和歌集  足引きの 山より奥に 鎌倉右大臣 源実朝

2023-07-31 09:16:02 | 漢詩を読む

山の奥に宿があって、そこで隠れ棲んでいると、“時の流れが止まってしまう”、このような棲家に住んでみたいものである と。一見、子供じみた空想の世界であるように思えるが、人間の本質に触れる根源的な想いの歌ではなかろうか。

 

oooooooooo   

 (詞書) 老人憐歳暮 

足引きの 山より奥に 宿もがな 

  年退(ノ)くまじき 隠家(カクレガ)にせむ  (金槐集 冬・583) 

 (大意) 山の奥に宿があるとよいなあ。そこでは年が過ぎ去って行くことがなさ

  そうだから、隠れ住みたいものである。 

  註] 〇足引きの:“山”の枕詞; 〇宿もがな:宿があって欲しい; 

  〇年退(ノ)くまじき:年の去って行きそうもない。 

xxxxxxxxxxx 

<漢詩> 

 歲暮懷     歲の暮に懷(オモ)う    [下平声九青韻]

足曳深山裏, 足曳(アシビキ)の深山の裏(ウチ), 

子欲隠野亭。 子(シ)は 野亭(ヤテイ)に隠(カクレ)住まんと欲す。 

寧為心好独, 寧(イズ)くんぞ 心 独(ドク)なることを好む為(タメ)ならんか, 

直据想年停。 直(タ)だに年の停(トドマ)るを想うに据(ヨ)る。 

 註] 〇足曳:“山”の枕詞; 〇野亭:粗末なあずまや; 〇年停:年が去り

  過ぎていくことなく、止まっていること。 

<現代語訳> 

 歳の暮に思う 

深山の奥で、 

私は、棲家があったなら 隠れ住みたい思っている。 

独りになりたいということではない、

そこでは 年の去りゆくことがなく、止まっていると想えるからである。 

<簡体字およびピンイン> 

 岁暮怀       Suìmù huái

足曳深山裏, Zú yè shēn shān li,  

子欲隐野亭。 zi yù yǐn yě tíng.    

宁为心好独, Níng wéi xīn hǎo dú,  

直据想年停。 zhí jù xiǎng nián tíng.   

oooooooooo   

 

実朝は、“人の老い”とか“時の流れの速さを実感させる歳の暮”の頃を主題にした歌を比較的多く詠っている。掲歌はその一つで、ここでは、時の流れが止まる世界、恐らくは“不老不死・永遠の生命”が叶えられる世界が山の奥にあるなら と。

 

“不老不死・永遠の生命”を保つことは、人間の根源的な願望と言えよう。叶えられるか否か の論はさておき、誰しもが胸の奥に密かに仕舞い込んでいる“想い”ではなかろうか。このような“想い”を率直に歌にする、実朝の真骨頂でしょう。  

 

下記の歌は、実朝の歌の本歌であるとして挙げられている。実朝の歌の世界は本歌に比して、途方もなく広く深いように思われる。 

 

み吉野の 山のあなたに 宿もがな 

  世の憂き時の かくれ家にせむ 

     (読人知らず 『古今集』 巻十八・雑下・950)  

 (大意) 吉野の山の向こう側に宿があったらいいのに、世の中が嫌になった

  時の隠れ家にするのに。 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話休題351 金槐和歌集  秋3首-2 鎌倉右大臣 源実朝

2023-07-27 09:13:10 | 漢詩を読む

zzzzzzzzzzzzz -1 

 

ジリジリと照り付ける夏は去りつゝあり、あらゆる事象が爽やかな秋の訪れを報せてくれる。中でも、身辺ではなく、“遥か遠くの山から聞こえて来る”蝉の声がそうだ と。この歌の佳さを決定しているように思える。 

 

ooooooooo 

  [詞書] 蝉の鳴くをきゝて 

吹く風は 涼しくもあるか おのずから 

  山の蝉鳴きて 秋は来にけり (『金槐集』 秋・158) 

 (大意) そよ風が涼しくなってきたかと思うと 山からツクツクブシの鳴き声

  が聞こえてきた、秋の訪れが実感されるようになったよ。 

  註] 〇山の蝉:晩夏に聞けるツクツクボウシ、秋の訪れを告げる鳴き声

  でもある。類聚本では、歌題は「寒蝉啼」となっている。  

xxxxxxxxxx

<漢詩>

   聞寒蝉       寒蝉(カンセン)を聞く         [下平声七陽韻] 

何処微風至, 何処(イズコ)よりか微風至り,

蕭蕭覚快涼。 蕭蕭(ショウショウ)として快(ココロヨ)い涼を覚ゆ。

遙聞山蝉叫, 遙(ハルカ)に聞く 山蝉(サンセン)の叫(ナ)くを,

茲自悟秋陽。 茲(ココ)に自(オノズ)から秋陽なるを悟る。

 註] 〇蕭蕭:樹木が風にそよぐ形容; 〇山蝉:山から聞こえる寒蝉(ツクツクボ

  ウシ)の鳴き声; 〇秋陽:秋日。  

<現代語訳> 

  ツクツクボウシを聞く 

何処からともなく そよ風が吹きわたり、

木の葉が揺れて 涼しさが快い。

遥かに山の方からツクツクボウシの鳴く声が聞こえてくる、

自ずと秋の訪れが感じられるようになったよ。 

<簡体字およびピンイン> 

   闻寒蝉      Wén hánchán

何处微风至, Hé chù wéifēng zhì,

萧萧觉快凉。 xiāoxiāo jué kuài liáng.  

遥闻山蝉叫, Yáo wén shān chán jiào,

兹自悟秋阳。 zī zì wù qiū yáng.  

ooooooooo 

 

実朝の掲歌の参考歌として、次の歌が挙げられている:

 

おのずから 涼しくもあるか 夏衣 

  日もゆふ暮れの 雨のなごりに  (藤原清輔 『新古今集』 巻三・夏・264) 

 (大意) いつの間にか涼しくなってきたようだ。夏衣の紐を結うぐらいに涼し 

  いよ、夕暮れの雨のお陰で。  

 

川風の 涼しくもあるか うちよする 

  浪とともにや 秋は立つらん (紀貫之 『古今集』 秋・170) 

 (大意) 川に吹く風のなんと涼しいことだろう。岸に寄せくる波とともに 秋

  も訪れるのだ。  

 

山の蝉 啼きて秋こそ 更けにけれ

  木々の梢の 色まさり行く (後鳥羽上皇 『後鳥羽院御集』) 

  (大意) 山の蝉が鳴いているうちに 秋は更けて行き、木々の梢も色づいて

  いくことだ。 

 

 

zzzzzzzzzzzzz -2 

 

天の河原で 織姫との逢瀬を待っている牽牛星であるが、待てど暮らせど織り姫は姿を見せない。ただ秋風が通り過ぎていくのみである と。何とも遣る瀬無い情景の歌である。 

 

oooooooooo 

  詞書] 秋のはじめによめる

彦星の 行き逢いを待つ ひさかたの 

  天の河原に 秋風ぞ吹く 

     (『金槐集』 秋・166; 『新勅撰集』 巻四・秋上・208)   

 (大意) 牽牛星が 織女星と行きあうのを待っている天の河原に秋風が吹いて

  いる。  

xxxxxxxxxx 

<漢詩> 

 等待織女牽牛星    

        織女を等待(マツ)牽牛星   [上平声一東韻]  

金氣滿天漢, 金氣 天漢に滿ち,

牽牛対岸濛。 牽牛の対岸 濛(モウ)たり。

側足須織女, 足を側(ソバ)だてて織女を須(マ)つ,

只有素秋風。 只(タダ) 素秋風(アキカゼ)のみ有り。

 註] 〇金氣:秋気; 〇天漢:天の川、銀河; 〇牽牛:彦星、牽牛星;

  〇濛:霧などが立ち込めて暗くはっきりしないさま; 〇側足:つま 

  先立ちする; 〇須:待つ; 〇織女:織姫、織女星; 〇素秋:秋。   

<現代語訳> 

 織り姫との逢瀬を待つ彦星 

天の河には秋季漲って、

彦星の立つ河の対岸は霞んでいる。

彦星は岸辺で爪先立ちして 織り姫の来るのを心待ちしているが、

ただ 秋風が吹きすぎていくばかりである。 

<簡体字およびピンイン> 

  等待织女牵牛星   Děngdài zhīnǚ qiānniú xīng

金气满天汉, Jīn qì mǎn tiān hàn,   

牽牛对岸濛。 qiānniú duì àn méng

側足须织女, Cè zú xū zhīnǚ, 

只有素秋风。 zhǐ yǒu sù qiū fēng.   

oooooooooo 

 

定家は 『新勅撰集』中に 実朝の歌25首を入集させており、中でも秋の歌10首と 秋の歌を高く評価している。掲歌はその一つである。掲歌の参考歌として次の歌が挙げられている。

 

彦星の ゆきあいを待つ かささぎの  

  渡せる橋を われのかさなむ 

    (菅贈太政大臣* 『新古今集』 巻十八・雑下・1700 )  

 (大意) 彦星が逢瀬を待つという鵲の渡す橋を、私に貸してほしい。

  それを渡って都へ行こうものを。 

  註] *菅原道真:右大臣の時、大宰府に左遷され、2年後に大宰府で没した 

  (903)。没後、993年に再評価されて“贈正一位・太政大臣”の位を授か

  る。 

 

 

zzzzzzzzzzzzz -3 

 

勝長寿院を尋ねて 廊下で月を愛でている。秋の夜長 ゆっくりと月を眺めつゝ 想いに耽っていたい。どうか急いで更け行き、月の傾くことのないように と祈る気持ちである。“七月十四日”とは、旧暦の表記でしょう。

 

ooooooooooooo 

  詞書] 七月十四日の夜 勝長寿院の廊に侍りて 月さし入りたりしに詠む

ながめやる 軒のしのぶの 露の間に 

   いたくな更けそ 秋の夜の月  (『金槐集』 秋・174)

 (大意) 軒のしのぶ草に露を置く折ふし 月をながめてもの思いをしている

  が、 この秋の夜の月よ 早々に更け、傾かないでくれ。  

  註] ○ながめやる:物思いにふけりながら遠くをみやる; 〇ながめやる

   軒のしのぶの:露を言い出すための有心の序; 

   〇露の間に:少しの間に。  

xxxxxxxxxxxxxxx 

<漢詩> 

 秋月夜興趣    秋月夜の興趣(オモムキ)  [上平声四支韻]  

簷端瓦韋降露滋, 簷端(ノキバ)の瓦韋(シノブグサ) 露降(オ)りること滋(シゲシ),

遙遙望月浸沉思。 遙遙 月を望みて 沉思(チンシ)に浸(ヒ)たる。  

莫急深夜清幽極, 急ぐ莫(ナカ)れ 夜の深けるを 清幽(セイユウ)極まらん,

漫漫秋夜興熟時。 漫漫(マンマン)たる秋夜 興(キョウ)の熟する時。

 註] 〇遙遙:はるかなさま; 〇清幽:(景色が)清らかで静かである; 

  〇興:興趣、おもしろみ。  

<現代語訳> 

 夜長の秋 月夜の興趣 

軒端のしのぶ草に露がいっぱい下りている折、

遥かな月をながめやって 物思いに浸っている。

この清らかでしずかな夜 更けるのを急がないでくれ、

夜長の秋の夜に興が乗っているこの時。 

<簡体字およびピンイン> 

 秋月夜興趣    Qiūyuè yè xìngqù 

檐端瓦韦降露滋, Yán duān wǎ wéi jiàng lù ,

遥遥望月浸沉思。 yáo yáo wàng yuè jìn chén

莫急深夜清幽极, Mò jí shēn yè qīngyōu jí, 

漫漫秋夜興熟时。 màn màn qiū yè xìng shú shí

oooooooooooooo 

 

勝長寿院は、頼朝が 父・義朝など源氏一門の霊を祭るために建てた寺院である。大御堂とも、また幕府御所の南に位置していることから南御堂とも呼ばれた。勝長寿院は、鶴岡八幡宮、永福寺とともに 当時、鎌倉の三大寺社の一つであったが、現在は廃寺となっている。 

 

実朝は、折あるごとにそこを尋ね、歌を詠んでいたようである。中でも梅や桜、また月は 実朝の好んだ題材のようで、勝長寿院はじめその他処々で、多く詠む対象としている。

 

実朝の掲歌は、次の歌の本歌取りの歌であるとされている。

 

  まつ恋といへる心を 

君待つと ねやにも入らぬ まきの戸に 

  いたくなふけそ 山の端の月 

        (式子内親王 『新古今集』 巻十三 恋三 1204)   

 (大意) あなたを待って寝やにも入らず、槙(マキ)の戸の傍で過ごしている、

  山の端の月よ 早々に傾き、没することのないように。  

  註] 〇まきの戸:杉、檜などの板でできた戸; 〇山の端の月:山の稜線

  近くの月。 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話休題350 金槐和歌集  武士の やそうじ川を 鎌倉右大臣 源実朝

2023-07-24 09:19:49 | 漢詩を読む

青年・実朝の歌である。宇治川の流れが速いことに言寄せて、早くもこの一年も過ぎ去らんとしている と。年の瀬になると 老いの身の誰しもが抱く想いではあると推察するのであるが。

 

歌の上二句:“武士の やそうじ川を”を、漢詩ではそっくりそのまゝ七言絶句の起句として活かした。

 

ooooooooooooo 

  [歌題] 歳暮

武士(モノノフ)の やそうじ川を 行(ユク)水の  

  流れてはやき 年の暮かな 

      (『金槐集』・冬・343; 『新勅撰集』巻六冬・93)  

 (大意) 宇治川を流れる水の流れの何と速いことか 同じように時のめぐり 

  も早く もう年の暮を迎えようとしている。  

  註] 〇武士のやそ:“うじ”を言い出すための修辞; 〇武士のやそうじ川:

  一つの成語と見てよい。  

 ※ 上三句:「流れてはやき」を言うための序。○宇治川:近畿地方を流れる

  淀川の京都府内での名称。 

xxxxxxxxxxxxxxx 

<漢詩> 

   歲暮       歲暮(セイボ)     [下平声一先韻] 

武士八十宇治川、 武士(モノノフ)の八十(ヤソ)宇治川(ウジガワ)、 

活活河水若飛然。 活活(カツカツ)として河水 飛ぶが若(ゴト)く然(シカリ)。 

荏苒宛転時運去、 荏苒(ジンゼン)と宛転(エンテン) して 時は運(メグリ)去(ユ)き、 

弥弥日月逼残年。 弥弥(イヨイヨ) 日月 残年に逼(セマ)る。

  註] 〇武士の八十:宇治(川)を言い出すための修辞; 〇宇治川:川の名;

  〇活活:水が勢いよく流れるさま; 〇荏苒:なすことのないまま 

  歳月が過ぎるさま; 〇宛転:転がるようにして巡りゆくさま; 

  〇残年:年の暮、年末。   

<現代語訳> 

  年の暮 

武士(モノノフ)のやそ宇治川、

河水 飛ぶが如くに勢いよく速く流れている。 

歳月も何らなすことがないまゝ転がるように過ぎて、

今や年の瀬を迎えようとしている。 

<簡体字およびピンイン> 

   岁暮              Suìmù

武士八十宇治川、 Wǔshì bāshí yǔzhì chuān,      

活活河水若飞然。 huó huó hé shuǐ ruò fēi rán.  

荏苒宛转时运去、 Rěnrǎn wǎn zhuǎn shí yùn qù, 

弥弥日月逼残年。 mí mí rì yuè bī cán nián. 

ooooooooooooo  

 

実朝の歌は 人麻呂の次の歌の本歌取りの歌であるとされている。

 

もののふの やそうじ川の あじろ木に 

  いさよう波の ゆくえしらずも  

    (柿本人麻呂 『万葉集』 巻三・264 ;『新古今集』 巻十七・1650) 

 (大意) 宇治川の網代木(アジロギ)に流れを遮られて ゆらゆらと揺れ動いて

  いる波 何処に行くのであろうか。  

    註] 〇網代木:網代を支える杭。

 

なお、斎藤茂吉は 実朝が掲歌を詠むに当たって、上記の人麻呂の歌に加えて、次の歌も参考にされたのではないかとして挙げている(『歌論六 源実朝 斎藤茂吉選集 第十九巻』岩波書店、1982) 

 

おちたぎつ 八十氏(ウジ)川の 早き瀬に 

  岩こす波は 千代のかずかも (源俊頼朝臣 千載集 賀・615)

 (大意) 激しく落ちて流れる宇治川の早瀬の 岩を越す波の数は無数で 

  あり、君の千代なることを言祝いでいる。  

 

山吹の 花のつゆそふ たま川の

  流れてはやき 春のくれかな (後鳥羽上皇 風雅集 春下・281) 

 (大意) 山吹の花に露が降りた井手の玉川では 水の流れは速い、同様に 

  時の流れも速く、今や春の終りを迎えようとしている。 

  註] ○井出の玉川:歌枕。京都府綴喜(ツヅキ)郡井手町を流れる川、 

  六玉川のひとつ。奈良時代に橘諸兄(タチバナノモロエ、684~757)がヤマブキ

  を好んで 邸宅に植えるだけでなく、玉川沿いにも植えたと言われている。

  現在なお、玉川の両岸約1,5kmに山吹約5,000株が植栽されていて、

  花時(4~5月)の光景が素晴らしい とのことである。 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話休題349 金槐和歌集  春3首-2 鎌倉右大臣 源実朝

2023-07-20 15:29:52 | 漢詩を読む

zzzzzzzzzzzzz -1 

 

春・如月、これから花の盛りを迎えようとする頃、その機を棄てて 夕暮れの空を北に帰っていく雁。群れで行くとは言え、行く先はなお夕暮れの空である。無常感さえ漂う、孤独な実朝の心情が窺い知れるようである。

 

ooooooooooooo 

  [詞書] 如月の二十日あまりの程にやありけむ、北向きの縁に立ち出でて、

   夕暮れの空を眺めて一人居るに、雁の鳴くを聞きてよめる。 

ながめつつ 思うも悲し 帰る雁

  行くらむ方(カタ)の 夕暮れの空  [『金槐集』 春・57]  

 (大意) 夕暮れ時、鳴き声に誘われて目を向けると 北へ帰る雁の群れが目に 

  はいる。雁の飛んで行く先は なお夕暮れの空、ながめつつ 思うだに 

  悲しみが増してくる。   

xxxxxxxxxxxx 

<漢詩> 

 黃昏空聴雁声   黃昏の空 雁声を聴く   [上平声一東韻]

後廈聴嚶夕照紅, 後廈(コウカ) 嚶(オウ)を聴く 夕照(ユウヒ)紅なり, 

孤単眺望傍晚空。 孤単(コタン) 眺望(チョウボウ) す傍晚(ユウグレ)の空。 

惟見雲間帰雁度, 惟(タ)だ見る 雲間に帰雁(キガン)度(ワタ)るを, 

馳念旅雁悲愈隆。 旅雁に念(オモイ)を馳せ 悲しみ愈(イヨイヨ)隆(タカ)まる。 

 註] 〇黃昏:夕暮れ; 〇後廈:家屋の後方の濡れ縁、廊下; ○嚶:鳥の

  鳴き声; ○孤単:独りぼっちである; ○傍晚:夕暮れ; 

  ○旅雁:遠くへ飛んで行く雁; 〇隆:勢いが盛んになる。  

<現代語訳> 

 夕暮れの空に雁の鳴き声を聞く

西の空が夕焼けで染まるころ 北側の縁側で鳥の鳴き声を聞き、

一人で夕暮れの空を見上げた。

惟だ目に入るは 雲間に北に帰る雁の群れのみ、

遠く北に帰る雁に想いを馳せると、悲しみが弥増してくるのだ。

<簡体字およびピンイン> 

 黄昏空听雁声     Huánghūn kōng tīng yàn sheng

后厦听嘤夕照红, Hòu shà tīng yīng xīzhào hóng

孤单眺望傍晚空。 Gū dān tiào wàng bàngwǎn kōng

惟见云间归雁度, Wéi jiàn yún jiān guī yàn dù,   

驰念旅雁悲愈隆。 chí niàn lǚ yàn bēi yù lóng

ooooooooooooo 

 

実朝の歌は、次の歌を参考にした本歌取りの歌とされている。

 

ながめつつ 思ふもさびし 久方の 

  月のみやこの 明け方の空  (藤原家隆 『新古今集』 巻四 秋上・392) 

 (大意) ぼんやりと明け方の月を見ながら、月の都を想像するだに寂しくなる。 

 

zzzzzzzzzzzzz -2 

 

山中に桜の花が咲いている屏風絵を見て詠った歌である。“絵”には 先ず“音”はなく、ときには“動き”もない。“音”や“動き”を感ずることは、“絵”を前にした鑑賞者の感性に委ねられる。“山中に満開の桜”を描いた屏風絵に、実朝は、如何なる“音”を、また“動き”を感じ取っているのでしょうか。 

 

ooooooooooooo

   [詞書] 屏風に 山中に桜のさきたる所 

山風の さくらふきまく 音すなり 

  吉野の滝の 岩もとどろに     (『金槐集』 春・71) 

 (大意) 桜の花に吹きつけ 巻きあげる山風の激しい音がしている。あたかも

  吉野の滝水が岩に轟き落ちる音のようだ。  

xxxxxxxxxxxxxxx   

   山風襲擊桜花      山風 桜花を襲擊(シュウゲキ)す  

山風狂吹打花闌,  山風 狂吹(キョウスイ)し花 闌(タケナワ)なるを打(オソ)い,

勁爆声音一震震。  勁爆(ハゲシ)き声音(オト)の 一(イツ)に震震(シンシン)たる。

猶如聴到吉野里,  猶(アタカモ) 聴到(キク)が如し 吉野の里,

瀑布撞岩轟響頻。  瀑布 岩に撞(ブツ)かり 轟響(トドロクオト)頻(シキリ)なるを。

 註] 〇狂吹:吹き巻きあげる; 〇勁爆:激しい; 〇震震:雷、鼓、車馬

  など、激しく轟く音の形容; ○猶如:まるで…のようである; 

  〇轟響:とどろく、鳴り響く。  

<現代語訳> 

  山風 櫻花に吹き付ける  [上平声十四寒‐上平声十一真通韻] 

山風が咲き誇る桜花に吹きつけて、

巻きあげる激しい音がしている。

恰も 吉野の滝水が岩にぶつかり、

頻りに轟きわたる音を聞いているかのようである。

<簡体字およびピンイン> 

   山风袭击樱花     Shānfēng xíjí yīnghuā 

山风狂吹打花阑, Shān fēng kuáng chuī dǎ huā lán,  

劲爆声音一震震。 jìngbào shēngyīn yī shēn shēn

犹如听到吉野里, Yóu rú tīng dào jíyě lǐ,  

瀑布撞岩轰响频。 pùbù zhuàng yán hōng xiǎng pín.  

ooooooooooooo 

 

歌に表わされた“音”は、桜に吹きすさぶ嵐のごとき音、と吉野の滝水が岩に轟き落ちる音。こんもりとした山の奥深い所に滝の存在を想像するのは、自然のように思われ、滝水の轟音はまだしも、異な感はない。

 

しかし春たけなわ、満開と思しき櫻花を前に 吹きすさぶ山嵐を想像するのは、並みの人には想像に難い。絵中、森の木の枝や葉が靡き、桜の花が乱れ飛んでいる情景であるなら……と、つい理屈っぽく考えるのである。

 

この点を、先人たちの研究成果・考え方を紹介して、疑問の答えとしたい(以下、三木麻子『源実朝』に依る)。

 

新古今時代の屏風歌は、「絵画に強く依存せず、観念的に詠まれた題詠をそのまま屏風歌として色紙形に推すケースが多かった」という。こう指摘した上で、やわらかな春の風を嵐のように聞く実朝の感性について、「人と絵画が一つになって荒れ狂うといった趣の歌」であって、「なにか内面に鬱屈したものがなければ出て来ぬ姿であり、調べであろう」ともいう。[「」内:角川書店『鑑賞日本古典文学第十七巻 金槐和歌集』(片野達郎)]。

 

実朝の歌の参考歌として、次の歌が挙げられている。

 

山風に 桜吹きまき 乱れなむ 

  花の紛れに 立ち止まるべく 

     (僧正遍照 古今集 巻八離別・394) 

 (大意) 山風が桜を吹き巻いて散り乱してほしい さすれば、あなたが花に紛

  れて立ち止まってくれるであろうから。  

 

zzzzzzzzzzzzz -3 

 

桜の花の盛りを過ぎ、そろそろ花期の終わるころ、夕べの春雨に濡れ、枝葉に宿した雨露がポツリポツリとこぼれ落ちるさまである。桜の盛りの頃が華やかな風情であるだけに、一層陰鬱な気にさせる歌である。 

 

ooooooooo 

  [詞書] 雨中夕花

山桜 今はのころの 花の枝(エ)に 

  ゆふべの雨の 露ぞこぼるる (金槐集 春・80) 

 (大意) 山桜が散り終わろうとするころ 花の枝に置かれた夕べの雨露が 

  別れを告げる涙のように こぼれ落ちている。  

  註] 〇今はのころ:今は別れむのころ、花の散り終わろうとするころ。

xxxxxxxxxx 

<漢詩> 

  季春桜花     季春の桜花     [下平声二蕭韻] 

山桜雕謝際, 山桜 雕謝(シボミチ)らんとする際(キワ),

清露乃盈條。 清露 乃(イマ)し 條(エダ)に盈(ミ)つ。

前夜残春雨, 前夜の残(ナゴリ)の春の雨,

塗塗露珠跳。 塗塗(トト)として露珠(ロシュ)跳(ハ)ねる。

 註] 〇雕謝:(花や葉が)しぼみ落ちる; 〇盈:満ちる; ○乃:すなわち;

  〇條:細長い枝; 〇残:名残の; 〇塗塗:露がたっぷりと膨らんで

  いるさま; 〇露珠:露の玉。

<現代語訳> 

  晩春の山桜 

散ってしまいそうな際にある山桜、

その枝には澄んだ露が満ち満ちている。

昨夜の名残の春雨なのだ、

たっぷりと膨らんだ露の玉がこぼれ落ちている。

<簡体字およびピンイン> 

   季春樱花     Jìchūn yīnghuā

山樱雕谢际, Shān yīng diāo xiè jì,

清露乃盈条。 qīng lù nǎi yíng tiáo.    

前夜残春雨, Qián yè cán chūn yǔ,   

涂涂露珠跳。 tú tú lù zhū tiào

ooooooooo 

 

実朝の歌の参考歌として 次の後京極摂政・藤原良経の歌が挙げられている:

 

立田姫 今はの頃の 秋風に 

  しぐれを急ぐ 人の袖かな (九条良経 新古今集 巻五・秋下・544) 

 (大意) 秋の女神である紅葉を司る立田姫が去ろうとする晩秋の頃、秋風

  を受けてまだ秋なのに時雨を急いで降らせて人の袖を濡らしている。  

  註] ○立田姫(/竜田姫):秋を司る女神、竜田山を神格化したもの、竜田山 

  が平城京の西にあったため、陰陽五行説で西と秋が一致することから秋の 

  女神とされた; 〇いまは:臨終、ここでは立田姫の臨終なので、秋の 

  終わりを指す; ○しぐれ:晩秋から初冬にかけて降ったりやんだりする

  雨。 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話休題348 金槐和歌集  おほ君の 勅を畏み 鎌倉右大臣 源実朝

2023-07-17 09:04:03 | 漢詩を読む

『金槐集』・定家本を締めくくる歌の一つである。太上天皇(後鳥羽上皇)から“御書”を頂き、感激を新たに、忠誠を誓った歌と言えようか。さまざまな思いが起こり、交錯する中、他言はならぬ と自戒しています。

 

ooooooooo 

   [詞書] 太上天皇御書下預時歌 

おほ君の 勅を畏(カシコ)み ちゝわくに

心はわくとも 人にいはめやも  (金塊集 雑・661) 

 (大意) 大君から勅を頂いた、恐れ多いことである。心乱れるほどにいろいろ

  な思いが湧いてきたが、他言はできないことだ。 

  註] 〇太上天皇:後鳥羽上皇か; 〇御書下預時:建歴三年八月か; 

    〇勅を畏み:勅のおそれ多さに; ○ちゝわくに:とやかくも、

    さまざまに; 〇心はわくとも:心は思い乱れるとも; 

    〇人にいはめやも:決して他言しない。

xxxxxxxxxx 

<漢詩> 

 奉大君勅   大君より勅を奉(ウ)く    [下平声七陽韻]

粛奉大君勅、 粛(ツツシ)みて 大君(オオキミ)の勅(チョク)を奉(ホウ)ずる、

孰当不祗惶。 孰(ダレ)か当(マサ)に祗(ツツシ)み惶(オソレ)ざらんか。

参差別念過、 参差(シンシ)として別念過(ヨギ)るも、

固覚豈能詳。 固(モト)より覚(サト)る 豈(ニ)詳(ツマビ)らかにし能(アタ)わんかと。

 註] ○奉:(目上の人から)頂く; 〇孰:だれ、だれか; 〇祗惶:恐れ多い

   と思う; 〇参差:長短・高低が不揃いのさま; 〇別念:いろいろと

  違う思い。  

<現代語訳> 

  大君より勅を頂く 

謹んで大君より勅を頂いた、

誰が恐れ多く思わないであろうか。

心乱れて様々に思いは湧いてくるが、 

その思いを どうして他人に打ち明けることができようか。

<簡体字およびピンイン> 

 奉大君勅   Fèng dà jūn chì 

粛奉大君勅、 Sù fèng dà jūn chì, 

孰当不祗惶。 shú dāng bù zhī huáng. 

參差別念過、 Cēn cī bié niàn guò, 

固覚岂能详。 gù jué qǐ néng xiáng. 

ooooooooo 

 

『金槐集』の定家本は、巻頭に次の歌を載せている(詳細は、閑話休題-308参照):

 

今朝見れば、山も霞(カスミ)て 久方の 

  あまの原より 春は来にけり (『金塊集』 春・1) 

 

この歌は、『新古今集』の巻頭を飾る太政大臣藤原良経の歌を本歌とした“本歌取り”の歌とされており、後鳥羽上皇と因縁のある歌と言えよう。『新古今集』の巻頭の歌に対応させるように、『金槐集』では掲歌の「今朝みれば……」を巻頭に置き、後鳥羽上皇への忠誠を表しているように思われる。

 

巻末では、前々回(閑話休題-346)に紹介した660番の歌:「君が世に 猶ながらえて 月きよみ 秋のみ空の かげをまたなむ」を筆頭に、続けて、掲歌(661番)を含めて、後鳥羽上皇関連の歌計4首が収められている。

 

但し巻末での4首の配置は、定家本と貞享本でやや異なる。定家本では、全663首中、後鳥羽上皇関連歌が660、661、662および663番と、巻末を締めている。一方、貞享本では、これら4首は、719首中、それぞれ、672、679、681および680番と、集の中ほどに不揃いに配置されている。 

 

これらの事実から、五味(後注)は、定家本に見られる巻末の配置は、実朝の意図ではなく、その編纂に関わった定家の意図に因るであろうとしている。すなわち、定家は、実朝の歌を見て、その朝廷への厚い忠誠を読み取り、このような構成にしたのであろうと。

 

したがって、その定家本における巻頭・巻末の歌の配置から、定家が実朝の歌をどう評価していたのかは伺えても、実朝の想いを探るのは危険である と警告している。心に留めておくべきことのように思われる。

 

注] 五味文彦『源実朝 歌と身体からの歴史学』 角川選書、2015 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする