愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題244 句題和歌 5  藤原俊成/白楽天「香炉峰下」

2022-01-03 10:21:56 | 漢詩を読む
新年明けましておめでとうございます。読者の皆さんのご健康と更なる発展・飛躍を祈念しております。詩歌を通して、日本文化と漢文化の交流に目を向けて、気の向くままに進めていく所存です。今後とも、ご贔屓によろしくお願いします。
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暁と つげのまくらを そばだてて
  聞くもかなしき 鐘の音かな  藤原俊成 (新古今和歌集雑下、1809) 

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黄楊枕(ツゲノマクラ)を枕にしてまだ寝(ヤス)んでいる朝まだき、夜明けを告げる鐘の音に眼を覚ます。枕を傾け高くして、猶残る鐘の音の余韻に耳を澄まし、弥増す悲しみに堪えている様子である。“黄楊”と“告げ”の掛詞の技法を駆使した歌と言える。

当歌は、白楽天の七言律詩(下記参照)の第三句:「遺愛寺(イアイジ)の鐘は枕を欹(ソバダ)てて聴き」に思いを得た歌で、“句題和歌”の一首と考えられます。本漢詩は、清少納言の『枕草子』でも話題にしており、当時、非常に有名であった漢詩でしょうか。

当漢詩は、楽天が越権行為の廉で江州の司馬に左遷された折に、廬山・香炉峰の麓に庵を新築して住まった。そこで詠まれた詩である(817)。「都の長安だけが故郷ではないワイ!」と、“胸中の思い”とは裏腹に、強がって見せている風情です。 

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<白楽天の詩> 
 香炉峰下新卜山居 草堂初成偶題東壁    [上平声十四寒韻] 
  香炉峰(コウロホウ)下 新たに山居を卜(ボク)し草堂初めて成り偶(タマ)たま東壁に題す 
日高睡足猶慵起, 日(ヒ)高く睡(ネム)り足りて 猶(ナ)お起(オ)くるに慵()モノウし,
小閣重衾不怕寒。 小閣に衾(シトネ)を重ねて 寒さを怕(オソ)れず。
遺愛寺鐘欹枕聴, 遺愛寺(イアイジ)の鐘は枕を欹(ソバダ)てて聴き,
香炉峰雪撥簾看。 香炉峰の雪は簾(スダレ)を撥(カカ)げて看(ミ)る。
匡蘆便是逃名地, 匡蘆(キョウロ)は便(スナワ)ち是(コ)れ名を逃るるの地,
司馬仍為送老官。 司馬は仍(ナ)お老を送るの官(カン)為(タ)り。
心泰身寧是帰処, 心(ココロ)泰(ヤス)く身(ミ)寧(ヤス)きは 是れ帰(キ)する処,
故郷何独在長安。 故郷 何ぞ独(ヒト)り長安にのみ在(ア)らんや。
 註] 香炉峰:廬山(江西省九江市の西南の名); 卜山居:山中に住まいの場所を 
  占い定めること; 遺愛寺:香炉峰の北方にあった寺; 欹枕:枕を縦にして、 
  頭を斜めに乗せること; 匡蘆:廬山のこと; 司馬:州の長官を補佐する役; 
  帰処:落ち着くべき所、最終目的地。 
<現代語訳> 
日が高く昇るまでずいぶん眠ったが、まだ起きるのは面倒だ、
小さな部屋でふとんにくるまっていると、寒くはない。
遺愛寺の鐘の音は枕をずらして耳をすまし、
香炉峰の雪は簾をあげて、布団の中から眺める。
廬山は俗世間から隠れ住むのにふさわしい土地であり、
老人が余生を送るにはちょうどよい。
身も心も安らかならば、ほかに望むことがあろうか、
長安の都へ帰りたがるのは愚かなこと、長安だけが故郷ではあるまい。
                    [石川忠久 NHK新漢詩紀行に拠る] 
<簡体字およびピンイン> 
 香炉峰下新卜山居 草堂初成偶题东壁 
   Xiānglú fēng xià xīn bo shānjū  cǎo táng chū chéng ǒu tí dōng bì    
日高睡足犹慵起, Rì gāo shuì zú yóu yōng qǐ, 
小阁重衾不怕寒。 xiǎo gé zhòng qīn bù pà hán. 
遗爱寺钟欹枕听, Yí ài sì zhōng yī zhěn tīng, 
香炉峰雪拨簾看。 xiānglú fēng xuě bō lián kàn. 
匡庐便是逃名地, Kuāng lú biàn shì táo míng dì, 
司马仍为送老官。 sīmǎ réng wéi sòng lǎo guān. 
心泰身宁是归处, Xīn tài shēn níng shì guī chù, 
故乡何独在长安。 gùxiāng hé dú zài cháng'ān. 
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歌の作者・藤原俊成は、八代勅撰集、第八代『新古今和歌集』の撰および百人一首の編者、定家(97番)の父親であり、自らも第七番『千載和歌集』の撰者となり、歌も百人一首に採られている(83番、閑話休題155)。“幽玄”という和歌の理念を確立した人である。

百人一首の歌では、「世の中よ 道こそなけれ 思ひ入(イ)る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる」と詠い、世の中の苦を逃れて隠棲するつもりで山に入ったが、鹿の悲しい鳴き声を聞き、山中でさえ安寧な世界ではないのだ と悟り、煩悩や苦しみの多い娑婆に舞い戻っている。

掲題の歌は、「世の中よ ……」と同じく、27歳の頃の作のようです。掲歌単独で読むと、通い婚の時代柄、後朝の歌かと思われるが、「世の中よ ……」と読み合わせると、浮いた話題ではないことが理解できる。寝覚めの鐘の音に苦悩は一層募るのでしょう。

白楽天の当漢詩について、避けて通れない話題の一つは、清少納言の『枕草子』で語られている当漢詩の第四句「香炉峰の雪は簾(スダレ)を撥(カカ)げて看(ミ)る」に纏わる、一条帝の中宮・定子と清少納言との遣り取りであろう。

雪が随分降り積もったある夜、中宮は、部屋の簾を下ろして、火を興した火鉢を中心にして女房達と談笑していた。中宮が「清少納言よ、香炉峰の雪はどうであろうかのう?」と問うたので、清少納言は人に命じて簾をあげさせた。中宮はニコッとされた と。

中宮は意図的に清少納言を試す心つもりであったようです。女房達のみなさんが楽天の詩について知らないわけではないが、“簾を上げる”ということには気づくことはなかった。この機転に、女房達は「やはり清少納言は、中宮に仕えるに相応しいお人である」と囁き合った と。

廬山と詩人について触れておきます。司馬遷は、紀元前126年、中国各地をまわる大旅行に出発、まず長江・淮水に向かう。その折に登った廬山の見聞が『史記』に記され、以後、陶淵明に始まり、多くの文人墨客が訪れている。彼らが詠んだ廬山についての詩詞は、4,000首を越すという。

歴史的な代表例を挙げると、六朝時代・東晋の詩人・陶淵明(365~427)は、40歳の頃、官職を辞して、廬山の麓に住んで創作を行い、「飲酒二十首」、「帰去来の辞」等、漢詩の世界に田園詩の伝統を遺している。作品は詩124首、文12首が遺されている と。

盛唐時代の詩人・李白(701~762)は、廬山を5度訪れて、廬山およびその周辺についての詩歌14首を遺している と。その一首「望廬山瀑布」は、中国古典詩歌の典範とされている。中唐時代の詩人・白居易(772~846)は、上記の詩に見られるように、左遷の結果とは言え、「廬山草堂」という庵を築いて廬山の麓に住み、詩の創作に没頭している。

宋代の文学者・蘇軾は、朝政誹謗の罪で入獄、死を覚悟したが、恩赦で死刑は免れて、黄州へ左遷された。その折に廬山を訪ねて、僧侶と交流する機会があり、仏教への思いに深く傾注する。廬山に関わる、禅問答を思わせるような詩が遺されている。後世、「唐代に香山(白楽天)有り、宋代に子瞻(蘇軾)有り」と言われているようである。
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1 コメント

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Unknown (lamphouse1535)
2022-01-05 18:03:04
明けましておめでとうございます

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