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愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 466歌と漢詩で綴る 西行物語-18

2025-04-28 09:21:35 | 漢詩を読む

 義清(ノリキヨ、西行)は、若い頃から桜の花を愛し、特に、吉野はよく訪れていたようである。時には庵を結んで滞在し、また高野山で修行を積む間にも訪れていた。義清の桜の花に寄せる心は、将に狂おしいほどで、立春の頃になると、吉野山が気に掛かり、落ち着きを失うほどである と。

  花が咲けば、心は花に向けて身から抜け出していき、花に止まったら、わが身に帰ってこなくなるのでは と心配している。次の歌は、この辺の事情を詠っています。その思いが嵩じて、春と秋が、夜と昼を取り替えっこするなら、更には、桜の花が散ることなく、また秋の月が曇ることがなかったら、いつまでも、花をまた月を愉しむことが出来て、苦しい思いをすることはないのだが、と何とも幼げな歌も残しています。

 

<和歌-1>  

吉野山 梢の花を 見し日より 

  心は身にも 添わずなりにき [山家集66]、続後拾遺集二 

 

<和歌-2>

あくがるる 心はさても 山桜 

  散りなん後(ノチ)や 身に帰るべき [山家集67] 

 

 

和歌と漢詩 

ooooooooooooo

<和歌-1> 

吉野山 梢の花を 見し日より 

  心は身にも 添わずなりにき [山家集66]、続後拾遺集二 

     (大意) 吉野山の桜の木の梢に咲いた花を見たその日から、心が我が身から  離れてしまい、身に添わなくなってしまったよ。

<漢詩>

     絕景吉野春    絕景 吉野の春    [上平声十一真 韻] 

遠望白雲妙入神, 遠望 白雲 妙(タエ)なること神に入る,

如今絕景吉野春。 如今(コンニチ)絕景なり 吉野(ヨシノ)の春。

開端一看梢花麗, 梢の花の麗(ウルワシ)さを一看(ヒトメミ)るを開端(キッカケ)にして,

心意推辭添我身。 心意(ココロ)は 我身に添(ソ)うを推辭 (コトワ)っている。

 [註]〇白雲:満山・満開の桜花で白雲が棚引いているように見えること; 〇入神:絶妙の域に達していること; 〇心意:心; 〇開端:きっかけとして; 〇推辭:断る。

<現代語訳>

 吉野山の春の絶景 

遥かに眺めると全山白雲が懸かったようで絶妙である、

今日 素晴らしい眺めの吉野山の春の景色である。

梢の花の麗しさを目にしてから、

心は、我が身から離れ、身に添おうとしない。

<簡体字およびピンイン> 

 绝景吉野春             Juéjǐng jíyě chūn  

远望白云妙入神,Yuǎnwàng báiyún miào rùshén, 

如今绝景吉野春。 rújīn juéjǐng jíyě chūn.   

开端一看梢花丽, Kāiduān yī kàn shāo huā lì,  

心意推辞添我身。 xīnyì tuīcí tiān wǒ shēn.  

ooooooooooooo   

 

<和歌-2> 

あくがるる 心はさても 山桜 

  散りなん後(ノチ)や 身に帰るべき [山家集67] 

    [註]〇あくがるる:身から離れてしまった; 〇さても:ところで、それにしても。

 (大意) それにしても 身から離れ、山桜に移ってしまっている心は、花が散った後には我が身に戻ってくるでしょうね。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                

<漢詩> 

     我心還否呀             我心は還(カエ)るや否(イナ)呀(ヤ)       [下平声六麻韻] 

看取山桜在栄華, 看取す 山桜 栄華に在るを,

心離身体宿留花。 心は身体を離れて 花に宿留(ヤド)る。

却是不久花凋謝, 却是(トコロ)で 不久(マモナ)く花は凋謝(オチ)よう,

心必回来我身呀。 心は必(キッ)と我が身に回来(カエ)るであろう呀(ヤ)。

 [註]〇看取:見る; 〇宿留:留まる; 〇却是:ところが; 〇凋謝:萎み落ちる。

<現代語訳> 

  我心は戻ってくるだろうか 

山桜が満開で、華やかなさまが目に入ると、

心は身を離れて花に留まってしまったよ。

それにしても、花は間もなく散るであろう、

さすれば、心は果たして我が身に帰ってくるであろうか。

<簡体字およびピンイン> 

    我心还否呀            Wǒ xīn huán fǒu ya 

看取山桜在荣华,Kān qǔ shānyīng zài rónghuá,        

心离身体宿留花。xīn lí shēntǐ sù liú huā.      

却是不久花凋谢,Què shì bùjiǔ huā diāoxiè   

心必回来我身呀。 xīn bì huílái wǒ shēn ya.  

ooooooooooooo   

  西行の歌には、花を話題にした歌が多く、中でも桜の歌が多い。歌の素材としての諸種植物について調べた結果(注1)によると、西行作2,000余首の短歌中、桜230首と1割強を占め、次いで松34首、梅25首と、特に桜が多い。万葉集の時代にあっては、梅が代表的な歌の素材であったことを考えると、驚きを禁じ得ない。

  西行は、心狂おしいほどに桜花を愛して止まないのである。花をつけた桜の木に勝る木は、世上、他に見いだせないと詠い、≪願わくは 花の下(シタ)にて 春死なん その如月(キサラギ)の 望月(モチヅキ)のころ≫と詠う。西行にとって、桜花は、至上の愛の対象なのである。何故に?向後、西行の歌を紐解きつゝ、詮索していきたい。

 西行の歌で、注意を惹かれるもう一点は、桜花と関りを持ちつゝ、人の“心”と“身”が、“分離して、別行動をとる”という“現象”である。先(閑話休題-458)にちょっと触れましたが、 “解離魂感覚”(注2)、あるいは“二元論的発想”(注3)と言われている。“心”が“我が身”を離れて行き、花に留まってしまうと訴える。今回対象としたいずれの歌においても、主な論調となっている。因みに、『山家集』1,552首中、この“現象”に触れたと思われる歌を拾って見ると、43首あった。西行の歌の特徴の一つと言えよう。

    似た表現で、例えば、美しい花を目にした時、花に “心(または魂)が奪われる”と表現されることはよくあります。この場合、“心(または魂)”の動きは、“受動的”であり、対象物が心を奪う主体である。一方、西行の世界にあっては、“心(または魂)”が、花の“美”に惹かれて、“心”自らの意思()で、”能動的“に、本来宿るべき”身“を離れて、花に移ってしまうと言うのである。 

 

注1:窪田章一郎『西行の研究』(東京堂刊、1961) 

注2:山折哲雄 『日本人の心情 その根底を探る』(NHKブックス, 1982年)

注3:高橋庄次『西行の心月輪』(春秋社、1995) 

 

井中蛙の雑録

〇 物事に対する“心”の対応について、「わき目もふらず心を一つのことだけに注ぐ」という意味の日本語表現に“一意専心”または“一心不乱”がある。中国語では“一心一意 Yīxīn yīyì”または“专心致志(專心致志) Zhuānxīn zhìzhì”である。“心をある方向に集中させる”という意味であり、この用語は、“心”の持ち主、“人”が主体であり、“人”が自らの心を操作、方向付けしているのである。

 “心”についての3様の表現・考え方の中で、今回の主題「“心”が“身”から離れて行く」は、面白い発想と言える。

  

 

 

 

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閑話休題 465 歌と漢詩で綴る 西行物語-17

2025-04-21 10:09:28 | 漢詩を読む

 義清(ノリキヨ、西行)は、出家前の若く駆け出しの頃、鳥羽院に随分と可愛がられたことを、折に触れ述べてきました。後になって、その状況を懐古する歌があり、ここに取り上げます。

 鳥羽院が保元元(1156)年(54歳)崩御し、その葬儀に参列した際、院を偲びつゝ、昔を思い出し、詠ったものである。西行(39歳)は、高野山に庵を結び、修行中であったが、直ちに上京し、葬儀に参列、夜通しご供養の読経を続けた。

 「浅からぬ契り」を思い出させた事柄というのは、在俗時、1139年に落慶を見た安楽寿院の建造途中、鳥羽院は、お忍びで三重塔の検分に出かけた。その折、権大納言徳大寺実能と義清のお二方にお声が掛かってきて、同道されたのであった。この度、崩御された院の遺骨は、この安楽寿院に納められたのであった。

 崩御された院のお側近くで、ご供養の読経を挙げるという奇遇は、出家した身だからこそ巡り合わせたことで、在俗の身であったなら、只々他所で嘆息するだけであったのだ と自らに言い聞かせ、慰めている。

 

<和歌-1>

今宵こそ 思い知らるれ 浅からぬ 

  君に契りの ある身なりける [山家集782] 

 

<和歌-2>

訪はばやと 思いよらでぞ 歎かまし 

  昔ながらの 我が身なりせば [山家集784] 

 

和歌と漢詩 

ooooooooooooo

<和歌-1> 

今宵こそ 思い知らるれ 浅からぬ 

  君に契りの ある身なりける [山782]、新拾遺集十 

 (大意)今宵の御葬送にめぐり合わせて思い知らされた、鳥羽院には浅からぬ契りのある身であったことを。

<漢詩> 

    和法皇因縁             法皇との因縁             [上平声四支韻]

淒淒離別法皇逝, 淒淒(セイセイ)たり 離別 法皇(ホウオウ) 逝(ユ)く, 

慘慘今宵肅殯儀。 慘慘(サンサン)たり 今宵 肅(シュク)なる殯儀(ソウギ)あり。 

乃知奇縁皇與我, 乃(スナワチ)知る 皇(コウ)與(ト)我に奇緣あるを, 

憶起検查建塔時。 塔を建(タ)てし時の検查を憶起(オモイオコ)しつつ。 

 [註]〇法皇:鳥羽法皇; 〇淒淒:悲しいさま; 〇慘慘:いたみ悲しむさま; 〇殯儀:葬儀; 〇:憶起:思い起こす; 〇検查:安楽寿院の建立時、法皇、徳大寺実能と自分と3人、密かに三重塔の実況検分に行ったこと; 〇塔:安楽寿院・三重塔。

<現代語訳>  

 法皇との奇縁を想う 

悲しいことに 鳥羽法皇が亡くなり、お別れすることとなった、

憂いに堪えず、今宵は厳かなる葬儀に参列した。

今宵こそ、改めて法皇と自分とに浅からぬ御縁のあったことを思い知った、

密かに安楽寿院・三重塔建設の実況検分に行ったことを思い起こしつつ。

<簡体字およびピンイン> 

    和法皇因缘             Hé fǎhuáng yīnyuán   

凄凄离别法皇逝, Qī qī líbié fǎhuáng shì,    

惨惨今宵肃殡仪。 cǎn cǎn jīnxiāo sù bìn.  

乃知奇遇皇与我, Nǎi zhī qí yù huáng yǔ wǒ,  

忆起检查建塔时。 yì qǐ jiǎnchá jiàn tǎ shí.    

 

<和歌-2> 

訪はばやと 思いよらでぞ 歎かまし 

  昔ながらの 我が身なりせば [山784] 

 (大意) ご供養のためにお訪ねしようなどとは思いもよることなく、ただ歎くだけであったろう、昔の在俗のままの身であったなら。

<漢詩> 

  感谢巧遇     巧遇に感谢   [上平声四支韻] 

不料可能訪殯儀, 不料(ハカラズ)も殯儀(ソウギ)に訪ねることが可能(デキ)て,

通宵更做念経滋。  通宵(ヨドオシ) 更に滋(シゲ)く念経(ドキョウ)を做(オクナッ)た。

只有嗟諮無巧遇,   只 (タダ)に嗟諮(ナゲ)くのみで有(アッ)たろう、巧遇(コウグウ)も                                    無く,

如逢在俗樣当時。 如逢(モ)し当時のように在俗のままであったなら。

 [註]〇不料:思いがけず、はからずも; 〇殯儀:葬儀; 〇通宵:夜通し; 〇念経:読経する; 〇滋:しげく、ますます; 〇嗟諮:「ああ」と嘆く; 〇巧遇:葬儀に参列し、読経を行う機会があったという奇遇。

<現代語訳>  

  奇遇に感謝 

図らずも、葬儀に参列することができ、

更に夜通し意を込めて読経し、院への供養ができた。

このような機会はなく、只に嘆息するのみであったろう、

もしも曽てのように 俗世に身を置いていたなら。

<簡体字およびピンイン> 

  感谢巧遇                Gǎnxiè qiǎoyù 

不料可能访殡仪, Bùliào kěnéng fǎng bìn ,  

通宵更做念经滋。 tōngxiāo gèng zuò niànjīng

只有嗟咨无巧遇, Zhǐyǒu jiēzī wú qiǎoyù,    

如逢在俗样当时。 rú féng zài sú yàng dāngshí.   

ooooooooooooo   

 両歌ともに長い詞書が添えられてあるが、本稿では省いた。その主旨は、前置きに要約したとおりである。

 

≪呉竹の節々-9≫ ―世情― 

 院政期、国政の頂に居られる鳥羽院が、その御幸に、お忍びとは言え、22歳の若い義清の同道を許されたということは、義清が如何に鳥羽院のお気に入りであったかが、伺い知れます。これは、1139年、鳥羽院の安楽寿院三重塔落慶検分の御幸に、主の実能と義清の二人だけが供奉することがあったという出来事である。

 後の話になるが、鳥羽院の崩御後、遺骨は件の安楽寿院三重塔に納められることとなり、またその供養の儀に参列でき、読経を挙げるという機会を得たという事実に対する西行の想いの深さが、今回読んだ歌に表れているようである。

 義清は、歌や漢詩文、蹴鞠、弓、等々、文武両道に優れた才を示していたことが、諸書に記載が見え、鳥羽院の日常の諸種催しごとに対応できていたようで、特に鳥羽院が愛していた所以でもあろう。

 一方で、佐藤家の棟梁たる義清は、荘園を守る立場から鳥羽院に対抗せざるを得ない立場に立ち至ったのである。前回見たように、佐藤家の荘園・田仲庄の南隣に、新たに荒川庄が開かれて、境界争いが絶えなかった。荒川庄の“領家(リョウケ)“および“本所(ホンジョ)”は、高野山および鳥羽院であり、それぞれ、義清にとっては、帰依している真言密教の聖地および国政の頂の御方である。特に、鳥羽院との関係から、荘園の紛争を表ざたに出来ない事情にあった。

 荘園制という仕組みの中で、荘園経営は佐藤氏族の存亡に関わる課題であり、義清は並々ならぬ苦悩を覚える立場におかれていたことになる。義清は、出家を模索していたことは十分に考えられる。一方、弟・仲清は荘園経営に積極的に関わる素質が備わっていたようであり、その点、義清は、出家を後押しされる環境にあったと言える。

 

井中蛙の雑録】― 休み ー

  

 

 

 

 

 

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閑話休題 464歌と漢詩で綴る 西行物語-16

2025-04-14 09:35:37 | 漢詩を読む

    出家する心を固め、間もなく出家しようとする頃に詠われた歌でしょう。先に、鳥羽院への暇乞いに際し、惜しむほどもないこの憂世からは、身を捨てたほうが却って身を助けるのだ と詠っていました(閑休460)。次の<和歌-1>は、同じ趣旨のことを詠っていると思われる。ここでは、身を捨てない人こそ身を捨てているのである と強調しています。

 鳥羽院の離宮・仙洞御所(藐姑射ハコヤ)の中庭一杯に植えられた菊花満開の折に催された歌会に、声を掛けられて歌一首を献上したことがありました(閑休450)。<和歌-2>では、その花に毎年馴染んできたが、その機会も間もなく無くなるのだ と感傷を詠っている。 

 

<和歌-1> 

身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 

      捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ 詞花集 巻十・雑下 (371)

 

<和歌-2> 

いざさらば 盛り思ふも ほどもあらじ 

  藐姑射(ハコヤ)が峯の 花に睦(ムツ)れし     [山家集1503]

 

和歌と漢詩 

oooooooooo  

 <和歌-1>

身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 

  捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ 詞花集巻十・雑下(371)

 [註]〇『詞花集』中、“題知らず”、“読人知らず” として載る。

 (大意) 出家して身を捨てる人は、本当に捨てているのでしょうか。そうで はなく本当は活かし、救っているのです。捨てない人こそ捨てているのです。

<漢詩> 

 出家救済身      出家は身を救済(スク)う          [下平声六麻韻]

出家人舍身,    出家して人は身を捨てる,  

真舍自身呀。 真(マコト)に自身(ワガミ)を舍てている呀(カ)。

不舍身人也, 身を不捨(ステザル)人也(ヤ),

才失自身嗟。 才(ソレコソ) 自身(ワガミ)を失っているのだよ。

 [註] 〇舍:捨てる; 〇元歌の“身を捨てる”の繰り返しのリズムを活かすように心がけた。

<現代語訳> 

  出家は身を救う 

人は出家して身を捨てるが、

真に我が身を捨てているのか。

身を捨てない人、

それこそ身を失っているのだよ。

<簡体字およびピンイン> 

 出家救济身      Chūjiā jiùjì shēn 

出家人舍身, Chūjiā rén shě shēn,  

真舍自身呀。 zhēn shě zìshēn ya.    

不舍身人也, Bù shě shēn rén yě, 

才失自身嗟。 cái shī zìshēn jiē.  

 

<和歌-2>

いざさらば 盛り思ふも 程もあらじ 

  藐姑射が峯の 花に睦(ムツ)れし [山1503] 

 [註]〇盛り:花の盛り; 〇程もあらじ:時間もあるまい; 〇藐姑射が峯:仙洞御所をいう; 〇花に睦れし:花に馴れ親しむ。

 (大意)今まで仙洞の花に馴染んできたが、その花の盛りを思うのも もう暫くのことである、自分は間もなく出家するのだから。

<漢詩> 

 対花留恋   花への留恋(ナゴリ)     [上平声四支韻] 

歴来仙洞院, 歴来 仙洞(センドウ)の院, 

親睦美花披。 美花の披(ヒラ)くに親睦(シタシ)む。 

騁懷於花盛, 花の盛りなるに 懷(オモイ)を騁(イタス)に, 

所剩無幾時。 所剩(ノコサレ)しは幾時も無し。 

 [註] 〇留恋:名残を惜しむ; 〇歴来:これまでずっと; 〇仙洞院:仙洞御所; 〇騁懷:思いを致す; 〇所剩無幾:(成)余すところいくばくもない。 

<現代語訳> 

 花への名残り 

これまで仙洞御所で、

美しく咲いた花に親しんできた。

この花の盛りに思いを致すのも、

もう暫くの間であることだ。

<簡体字およびピンイン> 

 对花留恋         Duì huā liúliàn 

厉来仙洞院, Lì lái xiāndòng yuàn, 

亲睦美花披。 qīnmù měi huā .   

骋怀于花盛, Chěng huái yú huā shèng, 

所剩无几时。 suǒ shèng wújǐ shí.  

oooooooooo   

 今や迷いが無くなったように思えるが、尚あれこれと過ぎ越し事が思い出されて来るこの頃である。

 

呉竹の節々-8≫ ―世情―

 佐藤義清(ノリキヨ、西行)を取り巻く世の状況について見てみます。佐藤家は、現和歌山県、紀の川の北部、下流近く、葛城山の南、高野山の西北の辺りの肥沃な土地に、広大にして、古くからの荘園・田仲庄を所有していた。

    一方、紀ノ川を挟んで対岸の地に、行尊僧正が新しく開いた荒川庄があった。行尊僧正は、後に天台座主になる。鳥羽天皇即位(1107)に伴い、その護持僧となり、加持祈祷によりしばしば霊験を現し、公家の崇敬も篤かった。

   当時、院政期にあっては、荘園の安寧経営を図るために、土地を所有する“在地領主”は、高度な権力者、主に摂関家に寄進して、“名義上の領主”にすることにより、土地を守る状況にあった。“在地領主”および“名義上の領主”は、それぞれ、“預所(アズカリショ)”または“領家(リョウケ)”および“本所(ホンジョ)”と称された。

   佐藤家の田仲庄にあっては、徳大寺家に寄進され、更に摂関家・藤原頼長に と重層して寄進されていた。一方、荒川庄にあっては、高野山、更に鳥羽上皇へと、やはり重層して寄進されていた。ここで問題なのは、古い田仲庄の領域は、紀ノ川を挟んで対岸に及んでいて、新しく開かれた荒川庄と境を接していたことである。そのため、境界争いが絶えなかったようである。

   このような状況にあって、義清は、14歳で元服、佐藤家の棟梁となる。早く官職につけて朝廷に送り込むことは、佐藤一族の悲願となった。15歳に内舎人(ウドネリ)を志願するが失敗、18歳に絹一万匹という巨額の成功(ジョウゴウ、買官)により、佐兵衛尉に任じられ、以後、徳大寺実能(サネヨシ)の随身となり、鳥羽院の下北面の護衛武者となる。北面武士としての活躍ぶりは、先に、伏見-関の屋-日野……と、恐らくは訓練のためであろう、馬を駆って遠乗りしている状況を読んできました(閑休451)。

 

【井中蛙の雑録】

〇藤原頼長は、日記『台記』を残して、義清の出家時期を後世に報せてくれた人である(閑休449)。太政大臣・摂政関白 藤原忠実の次男で、その公室は、徳大寺実能の娘・幸子である。保元の乱にあっては、真っ先に馳せ参じ、崇徳天皇側の指揮を執った。

〇行尊僧正について:百人一首歌人である。

      66番  もろともに あはれと思へ 山ざくら

            花よりほかに 知る人もなし  前大僧正行尊 

[参考] その漢詩訳は、拙著『こころの詩(ウタ) 漢詩で詠む 百人一首』(文芸社) をご参照。  

 

 

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閑話休題 463歌と漢詩で綴る 西行物語-15

2025-04-07 10:05:14 | 漢詩を読む

2025-04- 漢詩を読む

     今回対象とする歌は、『山家集』中、“空になる心は…”(閑休449)および前回(閑休461)に読んだ2首と並んで載っている歌である。出家直前の作と思われる。詞書にあるように、自ら出家することを胸に秘めつゝ、阿弥陀房という出家者の“柴の庵”を訪ねた折の印象を詠ったものである。

 

柴の庵と 聞くは悔(クヤ)しき 名なれども 

  世に好もしき 住居(スマイ)なりけり 

 

  俗世に身を置く都人の感覚と言えようか、“柴の庵”と 聞くと粗末に思えて、その名がちょっと悔しいが、訪ねてみると、好ましい住まいだよ と、先行き・出家の意を確認し、自らに言い聞かせて、納得しているように思える。

 

和歌と漢詩 

ooooooooo 

<和歌>

  [詞書] いにしへの頃、東山に阿弥陀房と申しける上人の庵室にまかりて        見けるに、何となくあはれにおぼえて詠める 

柴の庵と 聞くは悔(クヤ)しき 名なれども 

  世に好もしき 住居(スマイ)なりけり   [山家集725]

 [註]〇いにしへの頃:ずっと以前; 〇阿弥陀房と申しける上人:未詳; 〇悔しき:あまりに粗末すぎるように思えて悔しい。

 (大意) 柴で造られた庵と聞けば、聞くに忍びない粗末な名称であるが、この世の中では素晴らしい住まいなのだ。

<漢詩> 

 柴廬     柴(シバ)の廬(イオリ)          [上平声六魚 韻]  

曾訪前輩舍, 曾って 前輩の舍(スマイ)を訪ぬに, 

聞言叫柴廬。 聞言(キク)は 柴の廬(イオリ)と叫(イ)う。 

聴斯覚簡陋, 斯(カ)く聴けば 簡陋(ソマツ)なるを覚(オボ)ゆ, 

但是絕佳居。 但是(サニアラズ) 絕佳(スバラシ)き居(スマイ)ならん。 

 [註] 〇前辈:先達、先輩; 〇简陋:(建物や設備が)貧弱である; 〇绝佳:すぐれている。

<現代語訳> 

 柴の庵

曽て先達の住まいを訪ねるに、 

柴の庵であると言うのを聞いた。 

その名を聞くと、みすぼらしい感じを受けるが、

素晴らしい住まいなのだよ。

<簡体字およびピンイン> 

 柴廬    Chái lú 

曾访前辈舍,Céng fǎng qiánbèi shě,   

闻言叫柴庐。 wén yán jiào chái .    

听斯觉简陋,Tīng sī jué jiǎnlòu,    

但是绝佳居。 dànshì jué jiā .   

ooooooooo 

 『山家集』に従って、これまで読んできた歌を並べてみると:「そらになる心…(723)」、「世を厭ふ…(724)」、そして今回の「柴の庵と…(725)」は出家前の3連首のようです。次いで「世の中を…(726)」と続きます[()内数字は山家集中の付番]。東山の歌会で、出家の意向を仲間に打ち明けて以来、出家を実行するまでの、義清(西行)の微妙な心の内の動きが読み取れます。 

  

≪呉竹の節々-7≫ ―世情― 

 後鳥羽院崩御(1156)を機に起こった内乱・保元の乱では、後白河天皇勢が勝利を収めた。その際、実際に戦ったのは平清盛や源義朝らの武士であり、その指揮を執ったのは近臣の少納言入道信西(1106~1160)であった。

  少納言入道信西は、平清盛の軍事力を背景に、戦後の諸策を取り仕切った。まず戦後処理は、敵味方に分かれて戦った武士に身内同士で処刑を行わせるという過酷なものであった と。また反対勢力であった摂関家や大寺社の弱体化、排除を図り、荘園整理を行う。

 仕上げは、内裏の再建事業であった。桓武天皇が開いた平安京は、約170年後大火に遭い焼失します(960)が、1年ほどで再建された。以後、火事が絶えず、内裏は廃れてきて、貴族、多くは外戚の摂関家の邸宅が内裏 -“里内裏”- として充てられてきていた。その再建を推進したのである。費用は、寺社、貴族、源平の有力武士からも取り立てゝ賄い、2年で完成させた。その間、後白河天皇は、今様に没頭していたとされる。保元2(1157)年10月8日、後白河天皇は高松殿を出て、新造内裏に移った。 

 

井中蛙の雑録】 

〇後白河法皇は、今様など雑芸の歌謡を分類・集成した『梁塵秘抄』を著している。なお、“梁塵”とは、歌声が優れていることの譬え。中国、春秋時代、魯国の虞公という声のよい人がいて、その人が歌を歌うと、梁(ハリ)の上の塵までが動いたという故事 “梁塵を動かす” に拠る。

 

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閑話休題 462  得此失彼、天不予两

2025-03-31 09:09:58 | 漢詩を読む

 “西行シリーズ”はちょっと一服、休憩。「得此失彼、天不予两」<此(コレ)を得らば、彼(アレ)を失う、天は両(ニブツ)を予(アタエ)ず> という趣旨の自作漢詩を紹介します。日常、経験する事柄ですが、ある事柄を充足させると、別の面で不足を来すことに繫がり、バランスをとることの難しさに直面します。

  筆者の居住する地区は、日本で高度経済成長が為された70年代、山の斜面で造成された、いわゆる新興住宅地であった。今にして思えば、鹿やイノシシ、また雉(キジ)を含む大小さまざまな野鳥の類、更に毛虫やチョウ類と、季節によって、遠くにまた近くでよく出くわしたものである。

中でも身の周りで小鳥類を見、囀(サエズ)りを聞くのも楽しみの一つであった。一方で、道路に沿った電線に一列に止まった小鳥の下を歩いていて、糞を頭上に頂戴するという実体験もあった。ムクドリであったと思う。

  以上の体験を振り返りつゝ、昨今の状況を詠んだのが掲詩である。環境は整備され、我々・人にとっては、ある面で棲みよい街になった。しかし、別の面、例えば、野鳥の類に目を向ければ、野鳥の生息にとっては、必ずしも好ましい環境変化ではなかったように思える。諸々の事象について考えるなら、ある面で“得“するなら、別の面では”失 “っていることを思い知るのである。

 

漢詩 

oooooooooooooo 

<漢詩> 

  得此失彼               此を得らば彼を失う    [下平声二蕭韻] 

春天駘蕩遠撒薬, 春天 駘蕩(タイトウ)たり 遠くに薬を撒(マ)く音する, 

秋季晴明近剪條。 秋季 晴明(ハレアガ)り 近くで條(エダ)を剪(キ)る音。 

瞭望大街樹姿整, 大街(オオドオリ)を瞭望(リョウボウ)すれば 樹姿は整い、 

樹間無鳥木蕭蕭。 樹間には鳥無く木 蕭蕭(ショウショウ)たり。 

 [註]〇駘蕩:(春の)のどかなさま; 〇薬を撒く:除虫・殺虫剤の撒布; 〇剪條:樹形を整えるための枝の剪定; 〇瞭望:見渡す; 〇蕭蕭:樹木が風にそよぐ形容、風が物寂しい音を立てて吹くさま。

<現代語訳> 

 此を得らば彼を失う 

長閑な春の日 遠くで薬を撒く音が聞こえ、

秋の好天には 樹々の枝の剪定が行われる。

大通りを眺めやると 街路樹は剪定されて美しく整っている、

樹々の間には小鳥はほとんど見えず、囀(サエズ)りがなく寂しい思いである。

<簡体字およびピンイン> 

  得此失彼                 Dé cǐ shī bǐ 

春天骀荡远撒药, Chūntiān dàidàng yuǎn sā yào,     

秋季晴明近剪条。 qiūjì qíngmíng jìn jiǎn tiáo.     

瞭望大街树姿整, Liàowàng dàjiē shù zī zhěng,    

树间无鸟木萧萧。 shù jiān wú niǎo mù xiāoxiāo.    

oooooooooooooo 

 

井中蛙の雑録】 

〇ことわざ“天は二物を与えず”という趣旨の四字成句に「佳人薄命、才子多病」がありますが、この成句は、掲詩の状況を表現するには、適格とは言えそうにない。また、身辺の蔵書中に、相応しく、的確な成句を見出すこと出来なかった。そこで“得此失彼、天不予两” <此(コレ)を得らば、彼(アレ)を失う、天は両(ニブツ)を予(アタエ)ず>と造語して、詩の表題としました。優美な表現とは言えませんが、自然の摂理を言い表しているように思う。

 

 

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