義清(ノリキヨ、西行)は、若い頃から桜の花を愛し、特に、吉野はよく訪れていたようである。時には庵を結んで滞在し、また高野山で修行を積む間にも訪れていた。義清の桜の花に寄せる心は、将に狂おしいほどで、立春の頃になると、吉野山が気に掛かり、落ち着きを失うほどである と。
花が咲けば、心は花に向けて身から抜け出していき、花に止まったら、わが身に帰ってこなくなるのでは と心配している。次の歌は、この辺の事情を詠っています。その思いが嵩じて、春と秋が、夜と昼を取り替えっこするなら、更には、桜の花が散ることなく、また秋の月が曇ることがなかったら、いつまでも、花をまた月を愉しむことが出来て、苦しい思いをすることはないのだが、と何とも幼げな歌も残しています。
<和歌-1>
吉野山 梢の花を 見し日より
心は身にも 添わずなりにき [山家集66]、続後拾遺集二
<和歌-2>
あくがるる 心はさても 山桜
散りなん後(ノチ)や 身に帰るべき [山家集67]
和歌と漢詩
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<和歌-1>
吉野山 梢の花を 見し日より
心は身にも 添わずなりにき [山家集66]、続後拾遺集二
(大意) 吉野山の桜の木の梢に咲いた花を見たその日から、心が我が身から 離れてしまい、身に添わなくなってしまったよ。
<漢詩>
絕景吉野春 絕景 吉野の春 [上平声十一真 韻]
遠望白雲妙入神, 遠望 白雲 妙(タエ)なること神に入る,
如今絕景吉野春。 如今(コンニチ)絕景なり 吉野(ヨシノ)の春。
開端一看梢花麗, 梢の花の麗(ウルワシ)さを一看(ヒトメミ)るを開端(キッカケ)にして,
心意推辭添我身。 心意(ココロ)は 我身に添(ソ)うを推辭 (コトワ)っている。
[註]〇白雲:満山・満開の桜花で白雲が棚引いているように見えること; 〇入神:絶妙の域に達していること; 〇心意:心; 〇開端:きっかけとして; 〇推辭:断る。
<現代語訳>
吉野山の春の絶景
遥かに眺めると全山白雲が懸かったようで絶妙である、
今日 素晴らしい眺めの吉野山の春の景色である。
梢の花の麗しさを目にしてから、
心は、我が身から離れ、身に添おうとしない。
<簡体字およびピンイン>
绝景吉野春 Juéjǐng jíyě chūn
远望白云妙入神,Yuǎnwàng báiyún miào rùshén,
如今绝景吉野春。 rújīn juéjǐng jíyě chūn.
开端一看梢花丽, Kāiduān yī kàn shāo huā lì,
心意推辞添我身。 xīnyì tuīcí tiān wǒ shēn.
ooooooooooooo
<和歌-2>
あくがるる 心はさても 山桜
散りなん後(ノチ)や 身に帰るべき [山家集67]
[註]〇あくがるる:身から離れてしまった; 〇さても:ところで、それにしても。
(大意) それにしても 身から離れ、山桜に移ってしまっている心は、花が散った後には我が身に戻ってくるでしょうね。
<漢詩>
我心還否呀 我心は還(カエ)るや否(イナ)呀(ヤ) [下平声六麻韻]
看取山桜在栄華, 看取す 山桜 栄華に在るを,
心離身体宿留花。 心は身体を離れて 花に宿留(ヤド)る。
却是不久花凋謝, 却是(トコロ)で 不久(マモナ)く花は凋謝(オチ)よう,
心必回来我身呀。 心は必(キッ)と我が身に回来(カエ)るであろう呀(ヤ)。
[註]〇看取:見る; 〇宿留:留まる; 〇却是:ところが; 〇凋謝:萎み落ちる。
<現代語訳>
我心は戻ってくるだろうか
山桜が満開で、華やかなさまが目に入ると、
心は身を離れて花に留まってしまったよ。
それにしても、花は間もなく散るであろう、
さすれば、心は果たして我が身に帰ってくるであろうか。
<簡体字およびピンイン>
我心还否呀 Wǒ xīn huán fǒu ya
看取山桜在荣华,Kān qǔ shānyīng zài rónghuá,
心离身体宿留花。xīn lí shēntǐ sù liú huā.
却是不久花凋谢,Què shì bùjiǔ huā diāoxiè
心必回来我身呀。 xīn bì huílái wǒ shēn ya.
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西行の歌には、花を話題にした歌が多く、中でも桜の歌が多い。歌の素材としての諸種植物について調べた結果(注1)によると、西行作2,000余首の短歌中、桜230首と1割強を占め、次いで松34首、梅25首と、特に桜が多い。万葉集の時代にあっては、梅が代表的な歌の素材であったことを考えると、驚きを禁じ得ない。
西行は、心狂おしいほどに桜花を愛して止まないのである。花をつけた桜の木に勝る木は、世上、他に見いだせないと詠い、≪願わくは 花の下(シタ)にて 春死なん その如月(キサラギ)の 望月(モチヅキ)のころ≫と詠う。西行にとって、桜花は、至上の愛の対象なのである。何故に?向後、西行の歌を紐解きつゝ、詮索していきたい。
西行の歌で、注意を惹かれるもう一点は、桜花と関りを持ちつゝ、人の“心”と“身”が、“分離して、別行動をとる”という“現象”である。先(閑話休題-458)にちょっと触れましたが、 “解離魂感覚”(注2)、あるいは“二元論的発想”(注3)と言われている。“心”が“我が身”を離れて行き、花に留まってしまうと訴える。今回対象としたいずれの歌においても、主な論調となっている。因みに、『山家集』1,552首中、この“現象”に触れたと思われる歌を拾って見ると、43首あった。西行の歌の特徴の一つと言えよう。
似た表現で、例えば、美しい花を目にした時、花に “心(または魂)が奪われる”と表現されることはよくあります。この場合、“心(または魂)”の動きは、“受動的”であり、対象物が心を奪う主体である。一方、西行の世界にあっては、“心(または魂)”が、花の“美”に惹かれて、“心”自らの意思(!)で、”能動的“に、本来宿るべき”身“を離れて、花に移ってしまうと言うのである。
注1:窪田章一郎『西行の研究』(東京堂刊、1961)
注2:山折哲雄 『日本人の心情 その根底を探る』(NHKブックス, 1982年)
注3:高橋庄次『西行の心月輪』(春秋社、1995)
【井中蛙の雑録】
〇 物事に対する“心”の対応について、「わき目もふらず心を一つのことだけに注ぐ」という意味の日本語表現に“一意専心”または“一心不乱”がある。中国語では“一心一意 Yīxīn yīyì”または“专心致志(專心致志) Zhuānxīn zhìzhì”である。“心をある方向に集中させる”という意味であり、この用語は、“心”の持ち主、“人”が主体であり、“人”が自らの心を操作、方向付けしているのである。
“心”についての3様の表現・考え方の中で、今回の主題「“心”が“身”から離れて行く」は、面白い発想と言える。