愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題272 陶淵明(1) 園田の居に帰る (1)

2022-07-25 10:20:14 | 漢詩を読む

 

白楽天の長恨歌に次いで、“田園詩人”、“隠逸詩人”と称される、中國・六朝時代(317~581)東晋の陶淵明(365~427)の詩を読みます。詩を読みつつ、淵明の生きた時代や環境、淵明の生涯や人となり、また後代への影響などを垣間見ていきたいと思います。

 

当時、中国では乱立した諸国が興亡を繰り返す混乱の時代、一方、淵明は、出仕/辞職という生活を繰り返し、心の迷いの時であった。406年(淵明42歳)、意を決して官職を辞して故郷に帰ります。帰京の喜び、また農村での長閑な生活を詠い上げたのが、まず紹介する詩《園田の居に帰る 五首》である。 細分して何回かに分けて読んで行きます。

 

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<漢詩および読み下し文> 

 帰園田居 五首 其一 

1少無適俗韻、 少(ワカ)きより俗韻に適(カナ)う無く、 

2性本愛丘山。 性(セイ) 本(モ)と丘山(キュウザン)を愛す。 

3誤落塵網中、 誤って塵網(ジンモウ)の中(ウチ)に落ち、 

4一去十三年。 一(ヒト)たび去って十三年。 

5羇鳥恋旧林、 羇鳥(キチョウ)は旧林を恋い、 

6池魚思故淵。 池魚(チギョ)は故淵(コエン)を思う。 

7開荒南野際、 荒(コウ)を南野(ナンヤ)の際(サイ)に開かんとし、 

8守拙帰園田。 拙(セツ)を守って園田(エンデン)に帰る。 

  註] 〇俗韻:俗世間の調子; 〇塵網:世間の網、俗世間、仕途のこと; 〇一去: 

   園田の暮らしからいったん離れる; 〇十三年:29歳で初めて江州祭酒として 

   出仕し、彭沢の令を辞任して帰田するまでの十三年; 〇羇鳥:旅する鳥、渡り鳥; 

   〇故淵:もと棲んでいた水; 〇守拙:愚直な性格を押し通す、世渡り下手な 

   自分をそのまま保持すること。  

<現代語訳> 

1若い頃からわたしは世間と調子を合わせることができず、

2生まれつき自然を愛する気持ちが強かった。

3ところが、ふと誤って埃(チリ)にまみれた世俗の網に落ち込んでしまい、

4あった言う間に十三年の月日が経ってしまった。

5渡り鳥も曽て棲んでいた林を慕い、

6池の魚がもとの淵を慕うように、わたしも生まれ故郷がなつかしく、

7南の野で荒れ地を開墾しようと、

8世渡り下手な持ち前の自分を守り通して田園に帰る。

          [松枝茂夫・和田武司 訳註 『陶淵明全集(上)』岩波文庫に拠る] 

<簡体字およびピンイン> 

 帰园田居   Guī yuántián jū   

1少无适俗韵、 Shào wú shì sú yùn,     [韻 踏み外し]  

2性本爱丘山。 xìng běn ài qiū shān.    [上平声十五刪] 通韻 

3误落尘网中、 Wù luò chén wǎng zhōng, 

4一去十三年。 yī qù shí sān nián.     [下平声一先] 

5羇鸟恋旧林、 Jī niǎo liàn jiù lín, 

6池鱼思故渊。 chí yú sī gù yuān. 

7开荒南野际、 Kāi huāng nán yě jì, 

8守拙帰园田。 shǒu zhuō guī yuán tián. 

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陶淵明は、江州潯陽(ジンヨウ)郡柴桑(サイソウ)県(現江西省九江(キュウコウ)市柴桑区、廬山近傍)の人、名は潜(セン)、字は淵明。一説に名が淵明、字は元亮(ゲンリョウ)。曽祖父・陶侃(トウカン、259~334)は、淵明が最も誇りにしているご先祖の一人と言えるでしょう。まず陶侃(259~334)から始めて、淵明の出自を見ていくことにします。

 

   陶淵明 家系図 

  

統一王朝・西晋が滅び(316)、北方で五胡、南方で漢の十六国が乱立する五胡十六国時代となる。南方に逃れた司馬睿(後元帝)が建業(現南京)を首都に東晋を興します(318)。その間、西晋滅亡の契機となった“永嘉の乱” ―永嘉年間(307~312)に起こった異民族による反乱― に際し、陶侃の活躍がお上の目に留まり推挙され、313年、荊州刺史となります。

 

虐殺や飢饉が頻発し混乱する世上、各地で自衛のための武装集団が発生、やがて大規模な武装集団へと発展成長し、方々で乱が頻発する状況となっていった。そんな中、陶侃は諸乱、特に“蘇俊の乱(328)” の平定に寄与し、東晋最大の州鎮の統帥として大きな勢力を持つ長沙軍公となった。在任のまゝ没しています(75歳)。

 

淵明の母は、孟嘉の四女で、孟嘉は外祖父に当たる。孟嘉は江夏郡鄂県の人。陶侃の十女を妻とした。性格は穏やかで口数少なく、度量が広く、底なしの酒好きで人望が厚い人であった。征西大将軍・桓温(313~374)の参軍(軍事参議官)、さらに従事中郎から長史に昇進している。

 

陶侃は、淵明の最も誇りとする先祖であったろう。また外祖父・孟嘉を始め、陶侃の父・陶丹は、東呉の楊武将軍、淵明の祖父・陶茂は、武昌太守と、先祖はともに士族として活躍していたことが窺える。父は淵明8歳の頃に亡くなり、名前も伝わっていない。

 

ただ門閥が重視された当時にあっては、曽祖父にしても寒門と呼ばれる下級士族であり、淵明は恵まれた環境にあったとは言えないようである。淵明は、29歳(393)に江州祭酒として初めて官界に出るが、以後、出仕/辞任を繰り返し42歳(402)に田園に帰っている。

 

掲詩の冒頭、淵明自身は、若い頃から世間と調子を合わせることが苦手で、自然を愛する気持ちが強かった。鳥や池魚さえ、それぞれ、かつて棲んでいた林や淵を慕う、私が故郷を恋しく思うのは自然ではないか。故郷に帰って、農地開墾に励むよ と訴えています。

 

南朝梁の皇太子・昭明太子(蕭統、501~531)は、『陶淵明伝』で次のように書き起こしています。淵明は、若い時から理想が高く、博学で文章がうまかった。才気の渙発すること人に抜きんでて、天性の赴くままに行動を楽しんでいた と(『陶淵明全集(上)』)。今で言う、“宇宙人”であったか。

 

陶淵明については、その“生きざま”に兼ねがね興味を抱いており、また先に読者からもコメントを戴いた経緯があります。向後、彼の詩を鑑賞しながら、じっくりと淵明の生涯を振り返り、普段感じている多くの謎々を解き明かしていきたいと思います。

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閑話休題 271 飛蓬-153 遙遠懷故郷 次韻蘇軾《澄邁駅通潮閣》

2022-07-18 09:30:52 | 漢詩を読む

蘇軾の詩に、その韻を借り(次韻し)た詩作に挑戦しています。今回は、蘇軾が政争に利あらず“島流し”とされた最果ての島・海南島から、恩赦されて帰路につく際に作った《澄邁駅通潮閣》を対象としました。想いもかけず、骨を埋める場所と覚悟していた流刑の地を離れることができ、遥か彼方に大陸の影を眼にした際の喜び・胸の高鳴りを詠っています。

 

  20160701撮影 

 

蘇軾の詩に次韻した《遠くに在りて故郷を懐う》では、舞台は、九州の遥か南の小島・喜界島である。同島ではアサギマダラとは別に、「南の島の貴婦人」と呼ばれるオオゴマダラ蝶が生息しており、その蛹の宿は黄金の佇まいである(写真)。興味を引く点は、同島は、極わずかながら、今なお、より高く、より広く と成長を続けていることである。 

 

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<漢詩および読み下し文> 

 次韻蘇軾《澄邁駅通潮閣》 遙遠懷故鄉    [上平声十三元韻] 

  蘇軾《澄邁駅通潮閣》に次韻す 遠処(トオク)に在りて故郷を懷(オモ)う 

繚乱芙蓉夢里村, 繚乱たる芙蓉 夢の村, 

胡蝶乱舞奪人魂。 胡蝶(コチョウ)の乱舞 人の魂を奪(ウバ)う。 

何奇猶長珊瑚島, 何ぞ奇なる 猶(ナ)お長(チョウ)ず 珊瑚(サンゴ)の島, 

万里顧懷行古原。 万里 顧懷(コカイ)し 古原(コゲン)を行く。 

 註] 〇繚乱:花の咲き乱れるさま;  〇芙蓉:ハイビスカスの花;  〇胡蝶:蝶; 

  〇珊瑚島:サンゴショウの島;  〇顧懷:なつかしむ。 

<現代語訳> 

 遠くに在りて故郷を懐う   

深紅のハイビスカスの花が咲き乱れる夢の村、 

色々な美しい蝶の乱舞する情景は人の心を奪う。 

興味を引くのは今なお成長を続けているという珊瑚礁の小島であり、 

遥かに離れて野原を行くと、故郷の情景が二重写しに蘇ってくるのである。 

<簡体字およびピンイン> 

 次韵苏轼「澄迈驿通潮阁」   Cìyùn Sū Shì “Chéngmài yì tōngcháo gé” 

  遥远怀故乡     Yáoyuǎn huái gùxiāng   

繚乱芙蓉梦里村, Liáo luàn fú róng mèng lǐ cūn, 

胡蝶乱舞夺人魂。 hú dié luàn wǔ duó rén hún. 

何奇犹长珊瑚岛, hé qí yóu zhǎng shānhú dǎo, 

万里顾怀行古原。 wàn lǐ gù huái xíng gǔ yuán.   

 

oooooooooooooo 

<蘇軾の詩> 

 澄邁驛通潮閣    澄邁驛の通潮閣   蘇軾   [上平声十三元韻] 

余生欲老海南村、 余生(ヨセイ) 老(オ)いんと欲(ホッス)す 海南の村 

帝遣巫陽招我魂。 帝 巫陽(フヨウ)をして我が魂(コン)を招かしむ。 

杳杳天低鶻沒処, 杳杳(ヨウヨウ)として天 低(タ)れ 鶻(コツ) 沒する処, 

青山一発是中原。 青山(セイザン)一髪(イッパツ) 是(コ)れ中原。 

 註] 〇澄邁驛:海南島の北の宿場、通潮閣はその地の楼閣; 〇帝:天帝; 

  〇巫陽:屈原の「楚辞」に登場する巫女(ミコ)の名。天帝は巫陽に、体を離れ 

  彷徨っている屈原の魂を呼び戻すよう命じた; 〇杳杳:遠くかすかなさま; 

  〇鶻:ハヤブサ; 〇中原:本来は黄河中流域を指すが、ここでは海南島に 

  対する大陸本土をさす。 

<現代語訳> 

私は、ここ海難の村で余生を過ごそうと思っていた、

だが天帝が巫女の巫陽を遣わして屈原の魂を招かせたように、私は海を越えて帰れることになった。

はるか彼方、大空が垂れ下がり海と繫がり、ハヤブサの姿の没するあたり、

髪の毛一筋ほどに見える青い山並みこそ、懐かしき中原の地だ。 

             [石川忠久 NHK文化セミナー『漢詩をよむ 蘇東坡』に拠る] 

<簡体字およびピンイン> 

 澄迈驿通潮阁   苏轼   Chéngmài yì Tōngcháo gé    Sū Shì  

余生欲老海南村, Yú shēng yù lǎo hǎinán cūn, 

帝遣巫阳招我魂。 dì qiǎn wū yáng zhāo wǒ hún. 

杳杳天低鹘没处, Yǎo yǎo tiān dī gǔ mǒ chù, 

青山一发是中原。 qīng shān yī fà shì zhōng yuán. 

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中国・宋代にあっては、海南島への流刑は死刑に次ぐ重い刑であった。すでに恵州(現広東省東南部)に左遷されていた(1094)蘇軾は、「恵州で楽しんでいる」との中央への報告があって、1097年、さらに厳しい海南島への配置換えの令が下り、同島へ渡った(蘇軾62歳)。各流刑地での生活は監視され、中央に逐一報告されていたのである。

 

海南島では、かなり厳しい生活を強いられたことは想像に難くない。しかし恵州在住の頃から、陶淵明(365~427)のすべての詩に次韻して、自らの詩を作ると言う遠大な計画を始めていて、海南島で完成させている。逆境にあってなお楽天的で、情熱を燃やすこの人士は、その資質に一層磨きを掛けていったようである。

 

1100年正月、中央で哲宗(1077~1100)が崩御、徽宗(キソウ、1082~1135)が即位し、向太后(ショウタイコウ)の摂政へと政権が替わった。新体制でまず取り組まれた政策は、新法派一辺倒の宮廷人事を改め、旧法派も起用することで新旧両派の和解を進めることであった。

 

哲宗の時代に各地に流されていた旧法派の人々は、徽宗の即位を名目にした恩赦により刑が解かれた。蘇軾(65歳)は、同年5月に廉州安置に任じられ、海南島を離れて、対岸の雷州に向かう。その赴任の途上立ち寄った海南島の澄邁驛で詠まれたのが掲詩である。

 

なお、渡海の途上に作られた律詩《六月二十日夜渡海》で、次のように結んでいる:「九死南荒吾不恨 茲游奇絶冠平生 (南方の辺地で辛酸をなめたことも恨むことはない、私の生涯でかけがえのない体験だったのだから) と。面目躍如たる発想の詩と言えようか。

 

亜熱帯域の喜界島は、年を通じて緑豊かな土地である。地球物理学は筆者の理解の外であるが、島の生い立ちを生噛りで紹介すると、次のようである。初めごく小さな島として海面上に姿を現し、以後十数万年の間、毎年約2mmの等速で隆起してきたとされている。

 

島の周囲の海岸では、サンゴ虫の生育の好条件に恵まれ、今もサンゴ虫が盛んに繁殖を続けており、海岸周縁でのサンゴ礁は、形態上薄い裾礁として分類されるものである。島の海岸周縁がすべて裾礁である点および島の隆起速度が激しい点、世界でも珍しいということである。島の最高地点・百之台(標高200m)は十二、三万年前のサンゴ礁段丘であると。

 

アサギマダラ蝶については先に触れた(閑話休題249)。今ひとつ注目の蝶“オオゴマダラ”が生息している。「南の島の貴婦人」と称される美しい蝶で、羽は白地に黒のまだら模様で、羽を広げると約15cmと比較的大柄。インドや東南アジア等の暖かい地方で生息するが、日本では喜界島が北限とされている。蛹は黄金色の豪華な宿で羽化を待つのである。

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閑話休題270 句題和歌 22  白楽天・長恨歌(16・完)

2022-07-11 09:25:47 | 漢詩を読む

「天にあっては比翼の鳥となり、地にあっては連理の枝とならん」、漢詩への興味の有無に拘わらず、多くの人が耳にしたことのあるフレーズではないでしょうか。玄宗皇帝と楊貴妃が幸せの絶頂期にあって、誰も居合わせないところで二人が交わした誓いの言葉でした。方士との面接を終え、別れ際に貴妃がそっと打ち明けた一言です。

 

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<白居易の詩> 

   長恨歌 (16)

113臨別殷勤重寄詞、  別れに臨んで殷勤(インギン)に重ねて詞(コトバ)を寄す  

114詞中有誓兩心知。  詞中(シチュウ)に誓ひ有り 両心のみ知る 

115七月七日長生殿、  七月七日 (シチゲツシチジツ)長生殿(チョウセイデン) 

116夜半無人私語時。  夜半 人無く 私語(シゴ)の時 

117在天願作比翼鳥、  天に在りては 願はくは比翼(ヒヨク)の鳥と作(ナ)り 

118在地願爲連理枝。  地に在りては 願はくは連理(レンリ)の枝と為(ナ)らん 

119天長地久有時盡、  天長く地久しきも 時有りて尽く 

120此恨綿綿無絶期。  此の恨みは綿綿(メンメン)として絶ゆる期(トキ)無からん 

   註] 〇長生殿:華清宮の中の御殿; 〇比翼鳥:伝説上の雌雄一体の鳥、男女和合の 

    象徴; 〇連理枝:根の異なる二本の木が上で合体したもの、男女和合の象徴; 

    〇綿綿:長く続くさま。  

<現代語訳> 

113別れに際して、太真はねんごろに言葉を付け加えた、

114その中には二人だけしか知らない帝と交わした秘密の誓いの言葉があった。

115ある年の七月七日、長生殿で、

116夜半、おつきの人も無く、ささやき交わした時のこと。

117「天にあっては、願わくば比翼の鳥となり、

118地にあっては、願わくば連理の枝とならん」と。

119天地は長久と言えども、いつか尽きる時が来る、

120しかしこの恨みは連綿と続き、絶える時はないであろう。

               [川合康三 『編訳 中国名詩選』 岩波文庫 に拠る] 

<簡体字およびピンイン>   

113临别殷勤重寄词    Lín bié yīnqín zhòng jì ,     [上平声四支韻]

114词中有誓两心知。 cí zhōng yǒu shì liǎng xīn zhī. 

115七月七日长生殿、 Qī yuè qī rì chángshēng diàn, 

116夜半无人私语时。 yè bàn wú rén sī yǔ shí. 

117在天愿作比翼鸟、 Zài tiān yuàn zuò bǐ yì niǎo, 

118在地愿为连理枝。  zài dì yuàn wéi lián lǐ zhī. 

119天长地久有时尽、 Tiān cháng dì jiǔ yǒu shí jìn, 

120此恨绵绵无绝期。 cǐ hèn mián mián wú jué .   

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“比翼の鳥”、“連理の枝”について触れておきます。“比翼の鳥”とは、一説では、雄は左眼左翼、雌は右眼右翼という“一眼一翼”の鳥で、地上ではそれぞれ独立して歩けるが、空を飛ぶ時は2羽合体し、助け合わなければ飛べないという伝説上の鳥である。

 

つまり“比翼”とは“翼を並べて飛ぶ”という意である。“比翼の鳥”は、すでに漢代の類語・語釈辞典『爾雅(ジガ)』に載っているということである。その注釈によれば、マガモに似て、青赤色をしていると。後の人は仲の良い夫婦を“比翼の鳥”に譬えるようになった。 

 

“連理の枝”は、東晋代の小説集『捜神記』中の説話に由来し、その内容の概略は次のようである。戦国時代、宋国に仲睦まじい夫婦がいた。その夫人を、国王が横恋慕して奪い、夫を監禁する。夫人は耐えられず自殺し、夫も愛する夫人のため命を絶つ。

 

王は激怒して、これら二人を別々に、しかもすぐそばに埋葬した。お互いそばにいながら、いつまでも一緒になれない辛さを味わわせるためである。ところが数日後には両墓から木が生え、枝が抱き合うように絡み合い、また根も繋がって絡みついた。

 

その木の上では番の鳥が何とももの悲しい声で囀りあっていた と。なお“理”とは木目のことで、“連理”とは、近くに生えた二本の木が合体し、木目が連なることをいう。やはり夫婦の仲睦しさを表す。今日、“比翼の鳥”、“連理の枝”の両者を併せて夫婦の仲睦しさを表す故事成語として「比翼連理」が活きている。 

 

さて本論に還って、太真は「帝をお慕いする気持ちは何時までも変わることはない」と、その標に思い出の品々の片割れを方士に預けます。続いて「天に在りては……、地に在りては……」とある年の7夕の夜半、長生殿で誓った二人だけの秘密の言葉を漏らします。

 

「織姫と彦星は、毎年逢えるとは言え、年一度の逢瀬。私たちは、いつまでも仲睦ましく共に過ごしましょう」との誓いであったのでしょう。しかし「いつかきっと逢える」と願いつゝも、未だに願いは叶えられないという、胸奥の思いの吐露であったのでしょうか。

 

白楽天は、太真が「天に在りては……、地に在りては……」と漏らした裏に、悶々としている様子を読み取り、「この恨みは連綿と続き、絶える時はないであろう」と長編詩を締めた。通読して、ハッピーエンドではなく、読む人の心に余韻を残すような作品でした。

 

[蛇足] “長恨歌”の物語は、漢代(BC202~)の出来事として語り始められました。此処・終結の部に至って、舞台は唐代(618~)に建設された華清宮の“長生殿での誓い”として終わっています。語らずとも、“長久の時”を暗示する意図があったのでしょうか。 

 

<句題和歌>

 

この個所では句題和歌も多い (千人万首asahi-net.or.jp 参照)。主に「在天願作比翼鳥 在地願為連理枝」に関わる歌である。以下3首紹介します。

 

伊勢は、百人一首(19番、閑話休題173)歌人で、平安初期の女性歌人。 

 

 木にも生ひず 羽もならべで 何しかも  

   浪路へだてて 君をきくらん(伊勢『拾遺集』) 

  (大意) 木として隣り合って生えているのでもなく、羽を並べているわけでもない 

    波路を隔てて どのようにして君を聞くと言うのか (意思疎通はむりかも) 

 

崇徳院は、百人一首(77番、閑話休題159)歌人で、平安後期、75代天皇。

 

 恋ひ死なば 鳥ともなりて 君がすむ  

   宿の梢に ねぐらさだめむ(崇徳院『久安百首』) 

  (大意) 恋に焦がれて死んだなら、鳥にでもなって 君の住む宿り木の梢にねぐらを

   設けて住むことにするよ 

 

藤原俊成は、百人一首(83番、閑話休題155)歌人で、平安後期。『千載和歌集』の撰者。

 

 七夕は 今も変はらず 逢ふものを 

   そのよ契りし ことはいかにぞ(藤原俊成『為忠家初度百首』) 

  (大意) 織女星と牽牛星は、今でも七夕には逢っているというのに その夜に誓った 

   ことはどうしたというのか 

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閑話休題269 句題和歌 21  白楽天・長恨歌(15)

2022-07-04 08:48:34 | 漢詩を読む

漢からの使い・方士に対面した太真(楊貴妃)は、一言皇帝への謝意を述べた後、一気に捲(マク)し立てます。曽ては人形の如く、なすがままに無口に近かった楊貴妃が、思いの丈を語るさまは、皇帝との別れ以来、いかに募る思いを鬱積させていたかを想像させます。

 

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<白居易の詩> 

   長恨歌 (15)

101含情凝睇謝君王、 情を含み 睇(ヒトミ)を凝らして君王に謝す

102一別音容両眇茫。 一たび別れてより音容 (オンヨウ)両(フタ)つながら眇茫(ビョウボウ)たり

103昭陽殿裏恩愛絶、 昭陽殿裏 (ショウヨウデンリ)恩愛絶え

104蓬莱宮中日月長。 蓬莱宮中(ホウライキュウチュウ)に日月(ジツゲツ)長し

105迴頭下望人寰処、 頭(コウベ)を迴(メグ)らして下に人寰(ジンカン)を望む処

106不見長安見塵霧。 長安を見ず 塵霧(ジンム)を見る

107唯將旧物表深情、 唯(タ)だ旧物(キュウブツ)を将(モッ)て深情(シンジョウ)を表(アラワ)し

108鈿合金釵寄將去。 鈿合 (デンゴウ)金釵 (キンサイ)寄せ将(モ)ちて去らしむ 

109釵留一股合一扇、 釵は一股(イッコ)を留め 合(ゴウ)は一扇(イッセン) 

110釵擘黄金合分鈿。 釵は黄金を擘(サ)き 合は鈿(デン)を分かつ 

111但敎心似金鈿堅、 但(タ)だ心をして金鈿(キンデン)の堅きに似せしむれば

112天上人閒会相見。 天上 人間 (ジンカン)会(カナラズ)ず相見(アイマミ)えんと

   註] 〇音容:声と顔; 〇眇茫:遠くてぼんやりしか見えないさま; 〇昭陽殿: 

    漢の宮殿の名; 〇蓬莱宮:神仙山の一つ蓬莱山にある宮殿; 〇人寰: 

    人間世界、俗世。“寰”は領域; 〇処:……すれば; 〇旧物:二人が 

    結ばれた夜、固めの品として玄宗が贈った鈿合金釵、“鈿合”は螺鈿細工の 

    小箱、“金釵”は金のかんざし; 〇寄將去:玄宗のもとに届ける; 

    〇一股:二股のかんざしを折った片方; 〇一扇:“扇”は量詞で、扉・窓などを 

    数える。    

<現代語訳> 

101玉妃は思いを籠めて、道士を見つめ、帝への感謝を述べる。

102「ひとたびお別れしてから、お声もお姿も渺茫と霞んでしまいました。

103昭陽殿で賜った恩愛は断ち切られ、

104ここ蓬莱宮で過ごす月日も久しくなりました。

105振り返って、人の世を望みましても、

106長安の都は見えず、目に入るのはただ塵と霧ばかり。

107今はただ、懐かしい品々で慕わしい思いを表したく、

108螺鈿(ラデン)の小箱と黄金のかんざしをお持ちになってください。

109かんざしは裂いた一本を、小箱は分けた一枚を手元に留めましょう、

110かんざしの黄金と、小箱の螺鈿を二つに分けました。

111二人の思いがこのかんざしの黄金や小箱の螺鈿のように堅固でありましたなら、

112天上界と人界とに別れていてもいつか必ずお会いできる日があるでしょう。

               [川合康三 『編訳 中国名詩選』 岩波文庫 に拠る] 

<簡体字およびピンイン> 

101含情凝睇谢君王、 Hán qíng níng dì xiè jūnwáng,      [下平声七陽韻]

102一别音容両眇茫。 yī bié yīn róng liǎng miǎo máng. 

103昭阳殿里恩爱绝、 Zhāoyáng diàn lǐ ēn'ài jué, 

104蓬莱宫中日月长。 pénglái gong zhōng rì yuè cháng.

105回头下望人寰处、 Huí tóu xià wàng rén huán chù,     [去声六御韻]

106不见长安见尘雾。 bù jiàn cháng'ān jiàn chén .     [去声七遇韻] 通韻

107唯将旧物表深情、 Wéi jiāng jiù wù biǎo shēn qíng, 

108钿合金钗寄将去。 diàn hé jīn chāi jì jiāng .         [去声六御韻]

109钗留一股合一扇、 Chāi liú yī gǔ hé yī shàn,           [去声十七霰韻]

110钗擘黄金合分钿。 chāi bāi huáng jīn hé fēn diàn. 

111但敎心似金钿坚、 Dàn jiào xīn sì jīn diàn jiān, 

112天上人間会相见。  tiān shàng rén jiān huì xiāng jiàn. 

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曽ては皇帝の深い恩愛を賜った身でありながら、一別以来、神仙山の蓬莱宮にあって、帝の恩愛も絶えて久しくなり、お姿・お声ともに記憶が渺茫として参りました。また人間界に目を遣っても塵霧に遮られて、懐かしい長安を眼にすることはできません。さりながらお慕いする思いは、終ぞ絶えたことはありません。

 

今はただ、思い出の品々で私のお慕いする気持ちが変わらないことをお示ししたく思います。ここに螺鈿細工の小箱と黄金のかんざしがあります。小箱は蓋と身に分け、また二股のかんざしは一足づつに分けて、それぞれの片方を持ち帰り、帝にお届けください。

 

片方は私の許に留めおきます。二人の心が小箱やかんざしの金物と同様にいつまでも堅固であったなら、今は天上界と地上界に分かれていても、何時の日にか 必ずや再開が叶えられるでしょう と、思い出の品々の片割れを方士に手交します。

 

いよいよ長恨歌の大詰めを迎えようとする一歩手前の場面です。女性の細やかな心使い というか、人をしてホロリとさせる情の機微に触れる楊貴妃の提案でした。読者を虚実が綯い交ぜになった世界に導いていく長編ロマン、白居易の才の豊かさに感服させられます。

 

<句題和歌>

 

先に句題和歌に関する項で、紫式部『源氏物語』「桐壺」帖の中で、桐壺更衣が心労と産後の肥立ちがよくなく、実家での療養中に亡くなった後、使いの者が更衣の母親からの思い出の品々を‘贈り物’として桐壺帝に届ける場面がありました。

 

その折、帝は、‘贈り物’を前にして、「これが唐の幻術師が他界の楊貴妃に逢って得て来た玉の簪(カザシ)であったら……」と漏らす場面(閑話休題266、句題和歌19) 。話の先取りする結果となりましたが、『源氏物語』で言及された話題は、長恨歌の此処の箇所に関連する事柄でした。

句題和歌として藤原高遠の歌(下記)を紹介します。これまで長恨歌を細切れにして読んできましたが、初回の長恨歌(1)で紹介したのは高遠の歌(閑話休題247、句題和歌7)でした。その後、この項で紹介することはなかったが、ほとんどすべての箇所で高遠は句題和歌を詠んでおりました(千人万首asahi-net.or.jp)。藤原高遠は、大の“長恨歌”ファンであったことが窺われます。 

 

ここにても ありし昔に あらませば

   過ぐる月日も 短からまし(藤原高遠『大弐高遠集』) 

  (大意) ここ蓬莱宮にあっても、昔のように帝が傍にいて恩愛を受ける状況にあった

    なら、ここで過ごした長い歳月も長く感じることはなかったでしょうに。 

コメント
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