愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 216 飛蓬-123 小倉百人一首:(祐子内親王家紀伊)音に聞く

2021-06-28 09:23:36 | 漢詩を読む
72番 音に聞く 高師(たかし)の浜の あだ波は  
      かけじや袖の ぬれもこそすれかけじや袖の ぬれもこそすれ  
          祐子内親王家紀伊『金葉集』恋下・469        
<訳> 噂に高い、高師の浜にむなしく寄せ返す波にはかからないようにしておきましょう。袖が濡れては大変ですからね。(浮気者だと噂に高い、あなたの言葉なぞ、心に掛けずにおきましょう。後で涙にくれて袖をぬらしてはいけませんから)(小倉山荘氏)

ooooooooooooo 
浮名の高いあなたに恋するのは止します。直に捨てられて涙に暮れるのが落ちですから。歌の表面の意味は、‘高師の浜の寄せては返す徒波は、波しぶきに掛からないようにしなくては、袖を濡らしてしまうから。 

29歳の青年から、「…夜にお訪ねして話をしたい」との誘いの歌を贈られて、その返歌として、70歳を超えた祐子内親王家紀伊(ユウシナイシンノウノケ ノ キイ)が詠んだ歌である と。誘いをきっぱりと断っています。年季を思わせる技を凝らした歌である。

歌の表の意味を起・承句、本音を転・結句として、七言絶句の漢詩としました。起・承句と転・結句の両事象の繋ぎを強調するために、敢えて“袖”の字を重ねて用いた。

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<漢詩原文および読み下し文>  [上平声十三元韻] 
 君不是向慕的人 君は向慕(オシタイ)する人にあらず   
名高師浪来就翻, 名だたる高師(タカシ)の浪 来ては就(スグ)に翻(ヒルガ)える, 
袖上水花留下痕。 袖上の水花(スイカ) 痕(アト)を留下(トドメ)る。
見異思遷焉愛慕, 見異思遷(ウツリキ)な人 焉(イズク)んぞ愛慕(アイボ)せん, 
不然以后袖濡繁。 不然(サモナクバ) 以後 袖の濡れること繁(シゲ)からん。
 註] 
  高師:高師の浜、現大阪府堺市浜寺から高石市付近、歌枕。 
  水花:波しぶき。       見異思遷:四字成句、移り気である、浮気な。 
  愛慕:愛慕うこと。      不然:さもなくば。 
  袖濡:袖を濡らす、涙を流すこと。 

<現代語訳> 
 あなたは目ではありませんよ 
名だたる高師の浜の波は 寄せてはすぐに返す徒波よ、 
袖に掛かった波しぶきは 跡が残り困りものだ。
浮気な人を、どうしてお慕いすることなどできようか、 
お付き合いをしたならば 後は捨てられて袖を濡らすことになるだけだ。 

<簡体字およびピンイン> 
 君不是向慕的人 Jūn bù shì xiàng mù de rén  
名高师浪来就翻, Míng Gāoshī làng lái jiù fān,
袖上水花留下痕。 xiù shàng shuǐhuā liú xià hén.
见异思迁焉爱慕, Jiàn yì sī qiān yān àimù,
不然以后袖濡繁。 bùrán yǐhòu xiù rú fán.
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祐子内親王家紀伊は、後朱雀天皇の皇女・祐子内親王に、母・小弁(コベン)に次いで、女房として仕えた。紀伊の名は、夫(または兄?)の紀伊守・藤原重経に拠る。“一宮紀伊”、“紀伊君”とも呼ばれている。生没年は不詳で、祐子内親王家に出仕した以外、伝記的情報はほとんど知られていない。

歌人としての活動は、1056年、後冷泉天皇皇后・寛子が催した「皇后宮春秋歌合」に名が初めて見え、1113年、「少納言定通歌合」への出詠まで確認されている。そのほぼ50年の間、次の如く、多くの歌合や百首歌の催しに活発に参加・活躍している。

年順に列挙すると、「祐子内親王名所合」(1061)、「内裏歌合」(1078)、「高陽院殿七番和歌合」(前関白師実歌合)(1094)、「堀河院艶書合」(1102)、「左近権中将俊忠朝臣家歌合」(1104)、「堀河百首」(1105)および「少納言定通歌合」(1113)。

当歌は、「堀河院艶書合」に出詠された歌である。“艶書合(エンショアワセ)”とは、勝敗を決める競技ではなく、男女の歌人が恋文に替えて、和歌を詠み一方が贈ると、他方がやはり和歌の返歌で答えるという趣向の催しであり、歌の内容は本気な話ではないと。

件の“艶書合”、[“縣想文合(ケソウブミアワセ)”とも言われる]、の相手として、当時29歳の藤原俊忠が70歳を超えた紀伊に次のような誘いの歌を贈った: 

人知れぬ 思いありその 浦風に 
  波のよるこそ いはまほしけれ (藤原俊忠中将) 
 [誰にも知られていない私の想いを、荒磯(アリソ)の浦風に波が寄る(夜)ではないが 
 夜にお訪ねして伝えたいものです](注)荒磯:歌枕、北陸の有磯海(アリソウミ)。 
 
紀伊の返歌を読み直すと、歌枕:“有磯海”には“高師浜”、相手に対し“徒波(=浮気者)”とし、袖に波しぶきを“かけじ”(=あなたに心を“掛けじ”)ときっぱりと、交際を断っています。その“技”は、さすがに多くの歌合で磨かれたものでしょう。 

藤原俊忠は、俊成の父、百人一首の撰者・定家の祖父に当たる。紀伊の歌は、『後拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に31首、其の内、八大勅撰和歌集に6首入集されている。家集に『一宮紀伊集』がある。 
                  
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閑話休題 215 飛蓬-122 小倉百人一首:(能因法師)嵐吹く

2021-06-21 14:09:58 | 漢詩を読む
69 嵐吹く 三室(ミムロ)の山の もみぢ葉は 
    龍田(タツタ)の川の 錦なりけり 
          能因法師 『後拾遺和歌集』秋・366 
<訳> 山風が吹いている三室山(ミムロヤマ)の紅葉(が吹き散らされて)で、竜田川の水面は錦のように絢爛たる美しさだ。 (小倉山荘氏) 

ooooooooooooo  
晩秋の頃でしょうか。三室山が全山紅葉で彩鮮やかに染まっている。山風に吹かれて散った葉っぱは、麓の竜田川に集まり、川面が金糸・銀糸で織られた錦を敷いたようだ と。山・川2か所の歌枕が詠み込まれており、三次元の美の世界が現出されている。 

作者・能因法師(988~1051?)には、歌学書『能因歌枕』の著書があり、歌枕に拘りの強い方である。全国を行脚、歌枕の土地を尋ねており、特に奥州は2度も訪ねている。旅の歌人と評されている僧侶・歌人である。 

歌の情景が素直に漢詩で表現できたのでは と思います。七言絶句としました。 

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<漢詩原文および読み下し文>  [去声十五翰韻]  
 竜田河之錦     竜田の河の錦  
三室全山紅絢爛, 三室(ミムロ)の全山(ゼンザン) 紅(クレナイ)に絢爛(ケンラン)たり, 
山風楓葉飄飄散。 山風に楓(モミジ)の葉 飄飄(ヒョウヒョウ)として散ず。 
漸趨鋪満川一面, 漸趨(ヤガテ) 川一面に鋪満(シキツメラレ)て, 
真是竜田河錦粲。 真に是(コ)れ 竜田の河(カワ)の錦(ニシキ)粲(サン)たり。 
 註] 
  三室山:奈良・斑鳩町の山、竜田川は其の東麓を流れて、大和側に合流する。 
  絢爛:きらびやかなさま。    飄飄:風に舞うさま。 
  漸趨:だんだんと、やがて。   鋪満:敷き詰める。 
  粲:鮮やかに輝くさま。   

<現代語訳> 
 竜田川の錦 
三室の全山 紅色に染まって、絢爛たる美しさであるが、 
山風が吹くにつれ もみじ葉がひらひらと舞い散る。 
やがてもみじ葉が川一面に敷き詰められていき、 
真にこれ 竜田川の錦の燦たる輝きとなる。 

<簡体字およびピンイン> 
 龙田河之錦 Lóngtián hé zhī jǐn   
三室全山红绚烂, Sānshì quán shān hóng xuànlàn, 
山风枫叶飘飘散。 shān fēng fēng yè piāo piāo sàn. 
渐趋铺满川一面, Jiàn qū pù mǎn chuān yī miàn, 
真是龙田河锦粲。 zhēn shì Lóngtián hé jǐn càn. 
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能因は、俗名・橘永愷(タチバナノナガヤス)、近江守・橘忠望の子で、兄の肥後守・橘元愷の猶子となった。初め文章生となるが、1013年(26歳)頃出家した。和歌に堪能で、伊勢姫(百人一首19番)に私淑し、その旧居を慕って自身の隠棲の地も摂津国古曽部に定めた。 

古曽部(現高槻市古曽部町)には、能因の隠棲の地と伝えられる少林窟道場(松林庵)や、その墓とされる陵がある。なお、伊勢は、宇多天皇の寵愛を受けその皇子を生んだが早世した。宇多天皇の没後、古曽部の地に庵を結んで隠棲した。 

和歌は、中古三十六歌仙の一人、藤原北家長良流・藤原長能(ナガヨシ)に師事した。歌道における弟子として師から教えを受ける(師資相承/師承)の最初の例であると。後に能因は、相模(百65番)とともに「和歌六人党」の指導に当たっている。 

藤原公任(百55番)、相模ら多くの歌人と交流をもつと共に、「関白左大臣頼道歌合」(1035)、後冷泉天皇の「内裏歌合」(1049)などに参加している。当歌“嵐吹く”は、後冷泉帝の「内裏歌合」に出詠された歌である。 

能因の歌が初めて出るのは、『後拾遺和歌集』で、以後の勅撰和歌集に66首入集されている。歌集に『能因集』、私撰集に『玄々集』があり、歌学書『能因歌枕』がある。中古三十六歌仙の一人である。 

和歌の中で遭遇する地名の多くは“歌枕”とされる。本来、“歌枕”は歌で使われた言葉などを意味したが、現在では主に歌に現れた日本の名所旧跡を言う。ただ、単なる地名としてではなく、“竜田川”が“紅葉”を想起させるように、暗にある意味を伴って使われる。 

したがって、その土地に行ったことがあるとか見知っているとかということとは無関係なのである。ある情景や詠者の想いを導き出す役目を負って使用されているのである。漢訳に当たっては、暗に含んだ“意味”をも訳出することが重要であると思われる。 

能因は、旅の歌人と評されているほどに、諸国を巡り、旅の歌が多い。中でも歌枕の能因ならではの、東北の“白河の関”を一流の歌枕に育てた歌が遺されている。その歌には後に能因に纏わる逸話として語られるオマケつきである。その歌とは: 

都をば 霞(カスミ)とともに 立ちしかど  
  秋風ぞ吹く 白河の関 (『後拾遺和歌集』 羇旅) 
 [都を発ったのは 春霞のかかったころであったが、白河の関に着いたときは 
 秋風が吹いていたよ]  

この歌は、能因が実際に白河の関を訪ねて詠ったのではないという。出来栄えの良い歌ができたと自賛したが、都に居て発表するのはおかしいと思い、しばらく身を隠していた。その間、直射日光に身を晒して、日焼けして、十分に身支度をしていた と。 

それから、おもむろに「陸奥に修行に行った際に詠んだ歌です」と、お披露目を行った と。鎌倉時代に著された説話集・『古今著門集』(1254年成立)に載った逸話である。歌枕・“白河の関”は、“陸奥への入り口”、“関東の果て”を意味している。
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閑話休題 214 飛蓬-121 小倉百人一首:(相模)恨みわび

2021-06-14 10:28:30 | 漢詩を読む
(65番) 恨みわび ほさぬ袖だに あるものを 
      恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ 
          相模 (『後拾遺和歌集』恋・815)              
<訳>( あの人のつれない仕打ちに遭い、)恨んで恨む気力もなくなり、歎く涙で乾く暇がなく、涙を拭く袖さえ朽ちてしまうのが惜しい。それなのにこの恋の浮名のために、朽ちていくであろう私の名声が惜しいのです。

ooooooooooooo 
つれない仕打ちに萎えて、奮い立つ気力もなく、止め処なく流れる涙を拭く衣の袖が綻びてしまいそうだ。その上恋の浮名の為、名声が損なわれるのは何とも惜しいことである と。50歳くらいの頃の作品ということですが、半生を振り返った歌でしょうか。 

作者・相模は結婚が破綻するなど、必ずしも幸せな生涯であったようではない。後朱雀・後冷泉朝の歌壇での活躍は華々しく、数々の歌合せに出詠している。また男性貴族六人組の“和歌六人党”からは師と仰がれ、能因法師と共に歌の指導に当たっていた。 

当歌は、後冷泉天皇主催の「内裏歌合」(1051)に“恋”の題で出詠された歌である。七言絶句としました。 

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<漢詩原文および読み下し文>   [下平声十蒸・八庚韻] 
 抱怨人間談論   人間(ジンカン)の談論(タンロン)を抱怨(ウラ)む  
怨君気力不堪興, 君を怨む気力 興(オ)こすに堪えず, 
恐無乾間袖綻生。 涙で乾く間もなく 袖に綻(ホコロビ)が生ずるを恐れる。 
而且艶聞伝遍後, 而且(ソノウエ) 艶聞(エンブン)が伝遍せし後、 
不能容忍損名声。 名声を損(ソコ)なうことに容忍し能わず。 
 註] 
  人間:世間。         談論:噂話 
  不堪:とても……できない。  而且:その上。 
  伝遍:広く伝わる。 
 
<現代語訳> 
 世間の噂話が恨めしい 
君を恨む気力も萎えて、奮い起こすこともできず、 
涙で乾く間もなく、涙を拭く袖に綻びが生じそうである。 
その上、この恋の浮名が立ち、世間に伝わった後に、 
私の名声が損なわれてしまうのは耐えられないことである。 

<簡体字およびピンイン> 
 抱怨人间谈论  Bàoyuàn rénjiān tánlùn   
怨君气力不堪兴, Yuàn jūn qìlì bùkān xīng, 
恐无干间袖绽生。 kǒng wú gān jiān xiù zhàn shēng.  
而且艳闻传遍后, Érqiě yàn wén chuán biàn hòu,  
不能容忍损名声。 bù néng róngrěn sǔn míngshēng.  
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相模の生没年は不詳であるが、998年頃に生、1061年以降に没と推定されている、摂津源氏但馬守・源頼光の娘(/養女)。初め皇太后妍子(ケンシ)に仕え乙侍従(オトジジュウ)と呼ばれていたが、大江公資(キミヨリ)相模守の妻となり(1020)、“相模”の通称で呼ばれるようになった。

夫の任地・相模国に随行したが、結婚生活は破綻し、帰京後に離別した(1025)。この頃、中納言・藤原定頼(百人一首64番、閑話休題147)との恋愛関係が表面化する。実は両者の交際は以前からあって、不本意にも大江公資に強引に妻にされたようである。

やがて一条天皇の第一皇女・脩子内親王に出仕、内親王薨御(1049)後は、後朱雀天皇の皇女・祐子内親王に仕えた。歌人としては1012年頃からの詠歌が知られており、1035年、関白左大臣・藤原頼道主催の「賀陽院水閣歌合」で賞賛を受けた。

以後、「一品歌合」(1938)、「源大納言師房歌合」(1038)、「弘徽殿女御生子歌合」(1041)、「六条斎院(禖子内親王)歌合」(1948)、「内裏歌合」(1049)、「前麗景殿女御延子歌絵合」(1050)、「祐子内親王歌合」(1050)、「内裏歌合」(1051)、「皇后宮寛子春秋歌合」(1056)、「祐子内親王家名所歌合」(1061)に出詠と、大活躍である。

更に能因法師(同69番)と共に、男性貴族六人組の“和歌六人党”(藤原範永、平棟仲、藤原経衡、源頼実、源頼家、源兼長)の歌道の指導に当たっていた。贈答歌などから、和泉式部(同56番、閑話休題145)、能因法師(同69番)や源経信(同71番、閑話休題196)等と交流が深かったようである。

当時、多くの女流歌人が妍を競い活躍し、王朝文化の華が開いた時代と言えるが、相模も同時代の人である。後に順徳院(同100番)は、平安中期の女流歌人として、赤染衛門、紫式部、和泉式部と並んで相模を挙げ、「上古にはじぬ歌人」の一人として賞賛したと。

相模については、書き落としてならない逸話がある。先に触れたように、大江公資との不本意な結婚を強いられ、相模国に随行したが、夫・公資は現地の女性と懇ろになり、相模の悩みはいや増すこととなった。

その悩みを百首の歌に詠んで、1024年正月、伊豆走湯権現(=箱根神社)に奉納、社に埋めた。驚いたことに、4月に権現からの返歌だと言って、百首の歌が社僧によって届けられた。歌の内容は、先に社に埋めた百首に対応するものであった。

相模の歌は、悩みや怒りを表す内容であったが、対して権現の返歌は、慰めたり、なだめたりする内容であった。相模は、帰京後、返歌を届けてくれた僧宛てに、返歌に対する返歌百首を送っています。

返歌に対する返歌百首は、相模の意に油を注いだようで、強い調子で夫を責める、あるいは夫の浮気相手に強い敵意を示すような内容の歌を含んでいる。これらの歌は、家集『相模集』に収められているが、権現からの歌の作者は、誰か未だに不明である と。

相模の詠風は、繊細にして清新、完成度が高いと評されている。中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人である。『後拾遺和歌集』(40首)以下、勅撰和歌集に110首入集されている。なお、『後拾遺和歌集』では和泉式部(67首)に次いで第2位の入集歌数である。

 
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閑話休題 213 飛蓬-120 小倉百人一首:(左京太夫道雅)今はただ

2021-06-07 09:27:34 | 漢詩を読む
63 今はただ 思い絶えなむ とばかりを 
     人づてならで 言ふよしもがな 
             左京太夫道雅(ミチマサ) (『後拾遺和歌集』恋・750) 
<訳> 逢えなくなってしまった今となってはもう、あなたのことをあきらめよう、ということだけを、人づてではなく直接伝える方法があればいいのに。(板野博行)

ooooooooooooo 
道ならぬ恋故に逢うことが叶わず、今は、せめて一言「定めと諦めます」と、人伝でなく、直接伝えたいものだと。虚構ではなく、生身の心底からの訴えでした。恋の相手は、伊勢斎宮の役目を終え、都に帰ったばかりの三条帝の皇女・当子(トウシ)内親王です。

左京太夫道雅は、名門の出で、13歳で従五位下に叙せられ、25歳で従三位・蔵人頭(クラウドノトウ)と昇進し、殿上人になりました。その矢先、当子内親王を見染めて密会を重ねるうちに露見して、三条院の逆鱗に触れて再会が叶わぬ状況となったのでした。

自分の心境を直截に詠った歌です。七言絶句にしました。

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<漢字原文および読み下し文>     [去声十二震韻] 
 厳禁恋愛令人苦悩 厳禁の恋愛 人をして苦悩せ令(シ)む  
被懲幽会浮雲駿, 幽会を懲(コラシ)められ,浮雲 駿(ハヤ)く、 
日夜心情無静鎮。 日夜心情 静鎮(シズマル)無し。 
今只有懐還認命, 今は只だ還(ヤハ)り認命(サダメトアキラメ)の懐(オモイ)有るのみと, 
如何伝汝非托信。 托信(コトヅテ)に非(アラ)ず 如何でか汝に伝えん。 
 註] 
  幽会:(男女の)逢い引き、密会。   認命:運命とあきらめる。 
  如何:どのようにして、なんとかして。 
 
<現代語訳> 
  禁断の恋に苦しむ 
逢い引きが露見して責められ、浮雲のごとく想いは散り散りに、 
日夜、心が落ち着くことがない。 
今はただ、運命かと諦める思いだけであり、 
そのことを人の口を通じてではなく、あなたに直接伝える手立てはないものか。 

<簡体字およびピンイン> 
 严禁恋爱令人苦恼 Yánjìn liàn'ài lìng rén kǔnǎo  
被惩幽会浮云骏, Bèi chéng yōuhuì fúyún jùn, 
日夜心情无静镇。 rìyè xīnqíng wú jìng zhèn. 
今只有怀还认命, Jīn zhǐ yǒu huái hái rènmìng,  
如何传汝非托信。 rúhé chuán rǔ fēi tuō xìn.  
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左京太夫道雅(992~1054)は、儀同三司・藤原伊周(コレチカ)の長男、中関白道隆の孫である。叔母には一条天皇の皇后定子がいる。祖父・道隆の後ろ盾で父・伊周ともども格別に早く出世し、道雅は13歳で従五位下に叙せられ、25歳で従三位・蔵人頭(クラウドノトウ)と昇進し、晴れて殿上人となった。

その間、祖父・道隆の死去(995)、さらに内大臣・伊周の従者が花山法皇に弓を射かけるという不敬事件(996)を起こし、父が大宰権帥に左遷されるという不祥事があり、中関白家が衰退していく兆しを見せます。

1004年、従五位下に叙爵、侍従に任官(1005)、右兵衛権佐(1006)、正五位下・佐近衛少将(1008)、従四位下(1009)と、一条朝に順調に昇進します。1011年、三条天皇の即位に伴い、新春宮・敦成(アツヒラ)親王(後の後一条天皇)に仕える。1016年、後一条天皇の践祚に際して従三位に叙せられ蔵人頭と昇進した。

その頃、道雅は、伊勢斎宮を退いて帰京した当子内親王を見染め、密通を重ねた。これを知った内親王の父・三条院は激怒し、皇女に見張りの女房を付けて両者が逢えないようにした。このような状況下で道雅が詠んだのが当歌である。

なお、当子内親王は、13歳(1014)の時、卜占により斎宮に決まり、伊勢に下向します。
1016年、三条帝の譲位に伴い退下して、帰京した。三条帝の第一皇女、美貌の持ち主で帝の鍾愛(ショウアイ)の皇女でした。次のような話が伝えられている。

皇女を斎宮として送り出す際、帝は自らの手で当子の前髪に「別れの小櫛」を挿した。また野の宮で潔斎ののち、伊勢へ下向する際、別れに耐え切れず、彼女に振り返ってしまったと。送る方も、行く方も共に振り返ることは禁忌とされているというに。

道雅との交際について、世間では「現在斎宮であればともかく、内親王は既に斎宮を退下しているのだから」と同情の声はあったようであるが、再会が叶わぬまま、当子は、悲しみのうちに自らの手で髪を切り、出家します。6年後に23歳の若さで逝去した。

此の恋路と直接関係はないが、背景に当時の政情が影を落としているように思われる。伊周と道長の権力争い、一条帝の皇后の座を巡る伊周の妹・定子と道長の娘・彰子の争い、三条帝と権力を恣にする道長の不和、後ろ盾・伊周の力の衰えに伴う道雅の不遇感等々。

当時の道雅に対する人物評は必ずしも良くない。例えば、三条帝の皇子・敦明親王の従者に重傷を負わせる(1013)、花山法皇の皇女が殺害された事件で嫌疑が掛けられる(1024)、賭博場での乱行(1027)など、乱行が絶えなかったため、「荒三位」、「悪三位」と呼ばれていたという。1054年、出家後、薨御。享年63。

道雅は、中古三十六歌仙の一人に選ばれており、和歌には巧みであった。『後拾遺和歌集』5首、『詞花和歌集』2首と、勅撰和歌集に合わせて7首入集している。また晩年、八条の邸宅にて歌合・「左京太夫八条山庄障子和歌合」を主催している。
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