愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 174 飛蓬-81 小倉百人一首:(藤原敏行朝臣)住の江の

2020-10-27 10:15:35 | 漢詩を読む
(18番)住の江の 岸による波 よるさへや
      夢の通ひ路(ぢ)人目(ひとめ)よくらむ
          藤原敏行朝臣『古今集』恋・559
          
<訳> 住之江の岸に「よる」波ではありませんが、人目をはばかる必要のない夜の、夢の中の通い路ですら、あなたは人目を避けようとするのでしょうか。(板野博行)

oooooooooooooooo
「一向に顔を見せてくれない、人目を気にすることのない夜の夢路にさえも」と独り言ちています。今様に言えば、プラトニック ラブということでしょうか。何とも微笑ましい歌です。詠っているのは男性なのです よ。

作者は藤原敏行朝臣(?~907?)。59代宇多天皇(867~931;在位 887~897)期の宮廷歌壇を代表する歌人、三十六歌仙の一人である。家集に『敏行集』がある。書家としても優れていて、空海、嵯峨天皇に次ぐ能書と称されている。

七言絶句の漢詩としました。

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<漢詩原文および読み下し文> [入声一屋韻]
不通的夢中路   通(カヨ)わぬ夢の中の路
波浪冲来住江岸, 波浪 冲(ヨ)せ来る 住の江の岸,
青松摇晃風蕭粛。 青松 摇晃(ヨウコウ)して 風蕭粛(ショウシュク)たり。
夢中跟爾没逢過, 夢中にも爾(ナンジ)と逢うことなく,
夜里也君嫌衆目。 夜里(ヨル)でさえ君は衆目を嫌(イト)うか。
 註]
  冲:激しくぶつかる。    住江:現大阪市住之江区。
  摇晃:ゆらゆらと揺れる。  蕭粛:風が物淋しく吹いているさま。
  衆目:人目、多くの人の見る目。
 ※波が寄せ来る(よる)住之江の岸辺の情景は、夜(よる)を導く歌中の
  序詞に相当する。
<現代語訳>
 人が通わぬ夢路
住之江の岸に波が寄せて砕けている、
浜の青松は微かに揺れて、風が物淋しく吹きわたっている。
あなたは夢路にさえ現れたことがない、
夜中、夢の中でさえ人目を気にして逢瀬を避けているのでしょうか。

<簡体字およびピンイン>
 不通的梦中路 Bùtōng de mèng zhōng lù
波浪冲来住江岸, Bōlàng chōng lái Zhùjiāng àn,
青松摇晃风萧肃。 qīngsōng yáohuang fēng xiāo sù.
梦中跟你没逢过, Mèng zhōng gēn nǐ méi féngguò,
夜里也君嫌众目。 yèlǐ yě jūn xián zhòng mù.
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作者は、藤原南家巨勢麻呂流、陸奥出羽按察使・藤原富士麻呂の長男。897年敦仁親王の即位(60代醍醐天皇885~930、在位897~930)に際し、春宮亮を務めた功労で従四位上・右兵衛督に任じられた。歌人に下級官人が多い当時にあっては珍しい朝臣の中級歌人と言えようか。

生没年不詳で、没年は901/907の2説がある。奥さんは、在原業平の義理の妹であり近い関係にあって、業平を範とする面があったのでは とされる。歌は、技巧を用いながらも自然な詠みぶりであると評されている。

三十六歌仙の一人で、『古今集』(19首)以下勅撰和歌集に29首入集されている と。藤原敏行作で、いつ、どこで読み、聞き、覚えたか知らないが、記憶の中にとどまっている有名な歌がある。『古今集』秋の部の巻頭を飾る歌であるという。ちょうど今の季節を詠った歌である。

秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 
   風の音にぞ おどろかれぬる (、『古今和歌集』秋歌上 169)
[秋が来たと目にははっきり見えないけれど 風の音をきいて(秋がきたなと)
  気がつきました]

62代村上天皇(926~967、在位946~967)に「古今の最高の妙筆は誰か?」と問われた書家・小野道風(オノノトウフウ、894~966)が、「空海と敏行」と答えたという。平安時代の三筆(空海・嵯峨天皇・橘逸勢(タチバナノハヤナリ))に並び称されるほどの能書家である。

現存する唯一の敏行の書跡は、京都市右京区・高雄神護寺の梵鐘の鐘銘に見ることができる。銘文の序は橘広相(ヒロミ)、銘は菅原是善(コレヨシ、道真の父)、揮毫は敏行と当時の三名家の分担により成るもので「三絶の鐘」と呼ばれている と。同梵鐘は国宝に指定されている。

能書家としての敏行には『宇治拾遺物語』などに興味ある逸話が語られている と。敏行は多くの人から法華経の写経を依頼され、200部以上を書いた。ある日ぽっくりと死んでしまい、見知らぬ人に引き立てられていく。

理由を尋ねると、写経の際、魚を食い、女に触れて心を奪われていたために功徳がない。書写を依頼した者たちは極楽に行けず、修羅の道に堕ちた。彼らは怒り狂っており、お前の体は二百に切り裂かれるであろう と。

さて上掲の歌に戻って。あの人は一向に夢に現れないが、夢の中でさえ人目を気にしているのであろうか、と。男性の通い婚の時代です、敏行が女性の側から詠った歌であると、解されます。なお当時、誰かが夢に現れると、その人が自分を深く想っているからであると信じられていた。

いずれにせよ、敏行に次の歌を送って慰めてあげたいと思います、「貴方を想っていないわけではないでしょう」と。“わすれ草”とは、ニッコウキスゲの類の草で、身につけると憂いを忘れるという俗信があった。中国では萱草、金針、忘憂草と呼ばれる。

こふれども 逢ふ夜の なきは忘れ草
   夢路にさえや おひ繁るらむ (よみ人知らず 『古今集』恋)
  [思い慕っても逢える夜がないのは 恋人を忘れるという忘れ草が
  夢の路にさえ生い茂っているからでしょう](小倉山荘氏)
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閑話休題 173 飛蓬-80 小倉百人一首:(伊勢)難波潟

2020-10-21 09:28:20 | 漢詩を読む
(19番) 難波潟(ナニワガタ) 短き葦の ふしのまも
       あはでこの世を すぐしてよとや
               伊勢 新古今和歌集 恋一 1049
<訳> 難波潟に生えている葦の 節と節との間が短いように、ほんの短い間さえあなたに逢うこともなく、このまま一生を過ごして行けと言うのですか。(板野博行)

oooooooooooooo
訪れは絶え、お顔をお見せすることさえない……と、ぼやき、訴えています。伊勢は、非常に情熱的で、容貌や心情の美しい女性であったと伝えられている。心変わりした恋人に直接訴えた、遣る瀬無い思いを禁じ得ない真実の恋の歌なのである。

伊勢(872?~938?)は、平安初期の女性歌人で、59代宇多天皇(在位887~987)の中宮・温子(オンシ)に女官として仕えていた。三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人に数えられている。『古今和歌集』(22首)以下の勅撰和歌集に176首が入集されている と。

七言絶句の漢詩にしてみました。下記ご参照ください。

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<漢字原文および読み下し文> [上平声十五刪韻]
 悲恋
難波渚葦萋萋茂, 難波(ナニワ)の渚(ナギサ)の葦(アシ) 萋萋(セイセイ)として茂る,
真是天然短節間。 真(マコト)に是れ天然(モト)より短き節の間。
君谓如此暫期限, 君は謂う 此(カク)の如くに暫(シバシ)の期限でも,
無相逢過今世寰。 相逢(アイアウ)ことも無く 今世(コノヨ)の寰(セカイ)を過ごせよとか。
 註] 
  難波渚::難波潟、難波は固有名詞で地名、現在の大阪湾。
  萋萋:草木の茂っているさま。  此:前句を受け、節と節の間が短いこと。
  寰:世界、広い地域。
  
<現代語訳>
 悲恋
難波潟では葦が青々と茂っている、
葦の節と節との間はもとより短いことだ。
君は、これと同じような短いわずかな時間でさえも、
逢ってくれることもなく、今生の世界を過ごせよと仰るのですか。

<簡体字およびピンイン>
 悲恋      Bēi liàn
难波汀葦萋萋茂,Nánbō tīng wěi qī qī mào,
真是天然短节间。zhēnshi tiānrán duǎn jié jiān.
君谓如此暂期限,Jūn wèi rúcǐ zàn qīxiàn,
无相逢过今世寰。wú xiāngféng guò jīnshì huán  
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歌の作者・伊勢は、伊勢守藤原継蔭(ツグカゲ)の娘であることから伊勢と呼ばれたようである。その生没年の詳細は不明である。59代宇多天皇(867~931、在位887~987)の中宮・温子に女房として仕えた。

藤原仲平と相思相愛の仲であった。しかし仲平は出世に伴い、「多忙につき逢えない」という趣旨の心変わりの手紙を送ってきたという。その手紙に対して詠ったのが上掲の歌である と。伊勢の率直な胸の内が伝わってくる歌と言える。

傷心の伊勢は、女官をやめて実家に帰ったようです。ところで、仲平とは、時の権力者・基経の子息、また時平の弟である。さらには貞信公(忠平、閑話休題162参照)及び中宮・温子の兄なのである。

やがて伊勢は、宮中に呼び戻され、宇多天皇の寵愛を受け伊勢御息所(イセミヤスンドコロ)と呼ばれました。中宮・温子にしてみれば、自分に仕えていた女房が、夫の寵愛を受けていることに心穏やかでない心持ちであったことは想像に難くない。

天皇との間には親王を設けたが、残念ながら親王は夭逝し、天皇とも別れることになります。しかしその後は、宇多天皇の第四皇子・敦慶(アツヨシ)親王と結婚して、娘・中務(ナカツカサ)を設けています。

さても奔放に、波乱万丈な生涯を送ったように思える。本人の性質でもあろうが、情熱的で、彩色兼備の女性であったということであり、周囲の男性が放っておかなかったのではないでしょうか。

伊勢は、小野小町に次ぐ女流歌人として、また紀貫之と並び称される歌人であった。『古今和歌集』以下の勅撰和歌集に176首が入集されており、『古今和歌集』(22首)、『後撰和歌集』(65首)および『拾遺和歌集『(25首)と女流歌人として最も多く採録されている と。

三十六歌仙および女房三十六歌仙の一人として数えられている。なお娘の中務も三十六歌仙の一人に数えられており、母の歌才をしっかりと受け継いでいるようです。伊勢には家集『伊勢集』がある。

伊勢作の胸に残る名歌をもう一首。想像は広がり、華の都を去って故郷に帰っていく人を思わせる歌とも読めます。故郷に隠棲した陶淵明先生は「山の霞は夕暮れに映えて美しく、その中を鳥が連れ立ってねぐらへ帰ってゆく。この何気ない情景、そこにこそ人生の真の意味があるのだ」と、詠っていますが(閑話休題126)。 

春霞(ハルカスミ) たつを見捨てて ゆく雁は
   花なきさとに 住みやならえる (『古今和歌集』 春 伊勢)
[春霞が立って もうすぐ(桜の)季節になるというのに その楽しみを
  見捨てて帰っていく雁は 花のない故郷に住み慣れているのだろうか]
   
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閑話休題 172 飛蓬-79 小倉百人一首:(元良親王)わびぬれば

2020-10-16 09:54:10 | 漢詩を読む
(20番)わびぬれば 今はた同じ 難波(ナニハ)なる
      みをつくしても 逢はむとぞ思ふ
          元良親王『後選集』恋・961

<訳> これほど思い悩んでしまったのだから、今はどうなっても同じことだ。難波の海に差してある澪漂ではないが、この身を滅ぼしてもあなたに逢いたいと思う。(小倉山荘氏)

oooooooooooooo
想いに想い、これ以上ないほどに悩み、打ちひしがれている、もうこの身などどうでもよい、逢いたいのだ とヤケノヤンパチ の状態である。どうやら真実の恋の話のようであり、本気の恋は危険な恋 と言えそうです が。

作者は、元良(モトヨシ)親王(890~943)。57代陽成天皇(在位876~943)の第一皇子であるが、帝が退位させられた後に誕生し、皇位継承が叶わなかった。世に入れられない恋に落ち、それが露見し、逢瀬の手立てがなく悩んでいた折の歌である。

“堅い”印象のある漢字を用いて、“柔らかい恋”の話を綴るのは難儀なことではある。七言絶句としてみました。下記ご参照ください。

<漢詩原文および読み下し文>  [下平声二蕭韻]
 熱烈恋情     熱烈恋情
煩悩高峰無所谓, 煩悩(ボンノウ)高き峰にあり 谓(イ)う所(トコロ)無し,
思難波海有澪標。 難波(ナニワ)の海に有る澪標(レイヒョウ)を思う。
全然不厭滅亡己, 全然(マッタク) 己(オノレ)を滅亡させるを厭(イト)わず,
願怎么也塔鵲橋。 願(ネガワク)は 怎么也(イカデ)か鵲橋(カササギバシ)を塔(ワタ)さん。
 註]
  高峰:最高点、ピーク。   無所谓:どうでもよい。
  難波海:難波江、現大阪の海。   
  澪標:澪標(ミオツクシ)、澪(ミオ、水脈・航道)に杭を並べて立て、船が往来する
    時の目印にする。大阪市の市標の形。和歌では「身を尽くし=
    身を亡ぼす」に掛ける。
  全然:まったく。      己:おのれ(の身)。
  鵲橋:カササギが翼を並べて天の川に渡すという想像上の橋。七夕の夜、
    牽牛・織女の2星が逢うのを助けたという。

<現代語訳>
 烈々な恋心
思い悩むことがこんなにも高まり、もうどうでもよくなった、
難波の海に立てられた澪標が思われ、身は尽きてもよい。
今やわが身を亡ぼすことなど全く厭わない、
願うらくは、何としても鵲橋を渡してあなたに逢いたいのだ。

<簡体字およびピンイン>
 热烈恋情 Rèliè liànqíng 
烦恼高峰无所谓, Fánnǎo gāofēng wúsuǒwèi,
思难波海有澪标。 Sī Nánbō hǎi yǒu líng biāo.
全然不厌灭亡己, Quánrán bùyàn mièwáng jǐ,
顾怎么也塔鹊桥。 gù zěnme yě tǎ quèqiáo.
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陽成天皇が退位された経緯については先に触れた(閑話休題-169)。元良親王は、陽成帝の第一皇子であり、皇位継承の第一候補であったはずである。しかし陽成帝が退かれた後に誕生したため、皇位継承は叶わず、不運な皇子と言えた。

それも一因であったろうか、『大和物語』や『今昔物語』などに語られる逸話は必ずしも芳しいものではない と。“一夜めぐりの君”と呼ばれるほどに好色・多情な風流人とされている。

他人が撰んだ親王の歌集『元良親王御集』には、「世の中の美女と評判が立った女性には、逢う逢わないの区別なく手紙を書き、歌を送った」と記されている と。同集の歌を読み解くと、貴族、遊女、行きずりの女等々、相手した女性は幅広く、30余人に上るという。

それら女性の中で、上掲の歌に詠まれた相手は別格で、本気に恋したようである。密かに通じてしまったその女性は、京極御息所(キョウゴクミヤスドコロ)、時の宇多法皇の寵后で藤原褒子(ホウシ)でした。唯の不倫ではない、許される恋ではありません。

ましてや、褒子は左大臣藤原時平の娘でした。時平と言えば、父・陽成帝を廃位に追い込んだ政敵基経の子息である。また菅原道真を大宰府に追いやった、時の権力者、飛ぶ鳥も落とす勢いの人です(閑話休題-162参照)。

親王、褒子ともに、この恋の危険さを気づいてはいたが、相思相愛の仲、踏ん切りがつかなかったようである。遂には不倫が露顕することとなり、逢うことが叶わなくなった。その折、親王が褒子に宛てて送った歌が、上掲の歌である と。

この事件は、宮廷を揺るがす大醜聞です。元良親王は謹慎させられましたが、事件は実際は闇に葬られ、沙汰止みになったようである。なお褒子は天下に知られた美女。志賀寺上人という、生涯女性と付き合わなかった90歳の名僧さえ恋狂いさせてしまったほどの美人であった と。

元良親王の歌才は、父・陽成帝の血を引いているようだ。『後撰和歌集』(7首)以下の勅撰和歌集に20首が入集されている と。また『元良親王御集』が後世になって作られている。

一方、褒子は京極御息所歌合(921)を開催したり、伊勢など才覚ある女房を周囲に集めるなど、歌人としての活動もしていた。親王-褒子の不倫が露見する前、親王は危険を感じて、贈った手紙を取り戻そうとした。それに対して褒子は、ためらいの気持ちを次のように詠っています:

やればよし やらねば人に 見えぬべし
   泣く泣くもなほ 返すまされり(『元良親王御集』)
  [お返しするのは惜しいけれど 返さなければ人に見られてしまうでしょう
  泣く泣くではありますが お返ししたほうがよいのですね]。(小倉山荘氏)

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閑話休題-171 飛蓬-78 正代関の優勝・大関昇進を喜ぶ

2020-10-12 14:26:51 | 漢詩を読む
正代(ショウダイ)関の優勝・大関昇進を喜ぶ

正代関は、令和3 (2020)年 大相撲秋場所で優勝を果たし、大関に昇進した。何とも喜ばしいことであった。大関昇進の伝達式において、正代関が宣誓に用いられた一言は、「至誠一贯」という四字熟語であった。

筆者は、誘われるように、とっさに「肥後もっこす」という偽四字調子のフレーズが頭を過ぎった。そこで四言構成の漢詩に と挑戦の結果、下記の漢詩に辿り着きました。「至誠一貫 肥後黙光(モッコウ)」、“調子よく”響きますが、如何でしょう?

「肥後もっこす」は、熊本県人の県民気質を表すことばとされています。県民の方々は、この言葉に対して、好評・不評 相半ばする感想をお持ちとされる。勿論、中国語には無いので音訳で“黙光”としました。「言葉少なに光り輝くよう」思いを込めた訳です。

ネット上「肥後もっこす」の代表的な人物として何人か挙げられております。さもありなん と納得のいく偉人ぞろいです(漢詩中 註参照)。正代関も、何としても更に横綱まで進んで欲しいものだ と期待と応援の思いを込めて、四苦八苦しつつ、作詞した次第である。

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<漢詩原文および読み下し文> [下平声十一尤、上平声四支、下平声七陽韻]
喜正代獲得冠軍和奪大関
正代の冠軍(カングン)獲得(カクトク) 和(オヨビ) 大関位奪うを喜ぶ
最近地震,球磨洪流。 
最近 地は震(ユ)れ,球磨(クマ)に洪流(ホンリュウ)あり。
民欲失意,長嘆自稠。 
民(タミ)は失意せんと欲し,長嘆 自ずから稠(シゲ)し。
仰望浮雲,俯見土求。 
仰ぎては浮雲を望(ミ),俯(フ)しては土を見て求(ネガ)いあり。
精神支柱,五谷豊収。 
精神(ココロ)の支柱(ササエ)と,五谷(ゴコク)豊収(ホウシュウ)を。
先奪大関,歌以表思。 
先には大関位を奪う,歌い以(モッ)て思いを表わさん。
皎皎明月,堂堂雄姿。 
皎皎(コウコウ)たる明月,堂堂(ドウドウ)たる雄姿。
至誠一贯,肥後默光。 
至誠(シセイ) 一贯(イッカン),肥後(ヒゴ) 默光(モッコウ)。
精進極道,更朝横綱。 
精進(ショウジン)し道を極(キワ)め,更に朝(メザ)せ横綱を。

註]
  冠軍:優勝。        球磨:球磨川、日本三急流の一つ。
  五谷豊収:五穀豊穣。    皎皎:白く光り輝くさま。
  至誠一貫:(成語) 大関昇進伝達式での正代関の宣誓のことば。中国の儒学者、
   孟子の言葉「至誠にして動かざる者いまだこれあらざるなり」が起源。
   誠意を尽くせば、必ず人は動かされるとの意味。 
  默光:“もっこす”の音訳、筆者の私製中国語。言葉少なに光り輝くよう思いを 
   込めた。 
   “肥後もっこす”とは、肥後国(現熊本県)のお国気質を表すことば。
   代表的人物として、北里柴三郎、川上哲治、山下泰裕、徳富蘇峰、
   徳富蘆花などが挙げられている。

<現代語訳>
 正代関の優勝・大関昇進を喜ぶ
最近熊本地方は地震に続いて、球磨川氾濫による水害に見舞われた。
被災民は不遇をかこち、長嘆息しきりである。
天を仰いで浮雲をにらみ、俯いては土地に向かい願いを込める。
此れから以後の心の支えと五穀豊穣と。
正代関 先ずは大関の位をものにした、歌を歌って喜びの思いを表す。
中秋の名月が明るく輝く季節、堂堂たる雄姿を見せてくれた。
至誠一貫、邁進することを誓う、肥後もっこすである。
精進して相撲道を極め、さらに目指せ横綱を、被災民の支えともなろう。

<簡体字および読み下し文>
 喜正代获得冠军和夺大关
  Xǐ Zhèngdài huòdé guànjūn hé duó Dàguān
最近地震,球磨洪流。
Zuìjìn dì zhèn, Qiúmó hóngliú.
民欲失意,长叹自稠。
Mín yù shīyì, cháng tàn zì chóu.
仰望浮云,俯见土求。
Yǎng wàng fúyún, fǔ jiàn tǔ qiú.
请神支柱,五谷丰収。
Qǐng shén zhīzhù. wǔgǔ fēngshōu,
先夺大关,歌以表思。
Xiān duó Dàguān, gē yǐ biǎo .
皎皎明月,堂堂雄姿。
Jiǎojiǎo míngyuè, tángtáng xióng .
至诚一贯,肥后默光。
Zhìchéng yīguàn, féihòu mòguāng.
精进极道,更朝横纲。
Jīngjìn jí dào, gèng cháo Hénggāng.
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閑話休題 170 飛蓬-77 小倉百人一首:(光孝天皇)君がため

2020-10-10 09:20:12 | 漢詩を読む
(15番)君がため 春の野に出でて 若菜摘む
      わが衣手に 雪は降りつつ
        光孝天皇『古今集』春・21
<訳> あなたにさしあげるため、春の野原に出かけて若菜を摘んでいる私の着物の袖に、雪がしきりに降りかかってくる。(小倉山荘氏)

ooooooooooooooo
新年を迎え、長寿を願って大切な人へ贈るための若菜を摘んでいる情景、何とも清々しい歌です。58代光孝天皇が時康(トキヤス)親王であった若い頃に詠まれた歌である。天皇の質素で温厚な人柄を反映していると評されています。

幼少で即位する天皇が多かった時代、光孝天皇が即位したのは55歳と異例の高齢天皇でした。世は藤原氏が権力構造を確立しつつある過程にあった時代、光孝天皇も時代の流れに翻弄された運命の申し子と言えそうである。

この歌は、百人一首中唯一正月の歌である と。歌の清々しさ、優美さを伝えることができる漢詩を と努めました が…。下記七言絶句としました。

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<漢詩原文および読み下し文>  [下平声八麻韻]
 早春採嫩菜 早春に嫩菜(ドンサイ)を採る
凌寒百草吐新芽, 寒を凌(シノ)いで百草が新芽を吐(フキダ)してあり,
但見銀斑葉有華。 但だ見る 銀斑(ギンパン)の葉に華(カガヤキ)有り。
出野為君摘嫩菜, 野に出て 君が為に嫩菜(ドンサイ)を摘むに,
吾衣袖上飘雪花。 吾が衣袖(コロモデ)上に雪花が飘(ヒルガエ)る。
 註]
  嫩菜:若菜。“若菜摘み”とは、初春の恒例行事で、“春の七草”で代表される
    食用・薬用の草を摘むこと。“七草粥”として食する。
  銀斑:銀白色のまだら模様。    飘:ひらひらと舞う。
  雪花:ふんわりとした雪。

<現代語訳>
 初春の若菜摘み
厳寒の季節を凌いできて 今諸々の草が芽吹きだした、
一面の野に 斑状に銀白色の雪を頂いた葉が輝いて見える。
野に出て 君のために若菜を摘んでいると、
私の衣の袖に雪がひらひらと舞い落ちてくるよ。

<簡体字およびピンイン>
早春采嫩菜 Zǎochūn cǎi nèncài
凌寒百草吐新芽, Líng hán bǎicǎo tǔ xīn,
但见银斑叶有华。 dàn jiàn yín bān yè yǒu huá.
出野为君摘嫩菜, Chū yě wèi jūn zhāi nèncài,
吾衣袖上飘雪花。 Wú yīxiù shàng piāo xuěhuā.
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胸にスウッと入ってきて、心の休まる思いのする歌です。作者は58代光孝天皇(830~887、在位884~887)である。先の57代陽成天皇とは直接血の繋がりはない。高齢で即位し、3年後に病を得て亡くなっている。

光孝天皇は、54代仁明天皇(810~850、在位833~850)の第3皇子で、名は時康。母が陽成天皇とは違う血筋の方である。時康親王は、政治や権力に無関心で、暮らしぶりや身なりが非常に質素であったと伝えられている。

上の歌からも、汚れを知らない純粋な心の持ち主であろうことが想像されます。このような歌の解説に無粋な政治の世界に触れざるを得ず、筆は鈍りがちですが、ご容赦願って、時の流れを垣間見ることにします。

陽成天皇を退位させた摂政・基経は、陽成天皇に近い所からではなく、遥か遠い所にいる高齢の時康親王を次代の天皇に据えた。前回見たように、陽成-高子連合vs. 基経の関係は芳しくない状態にあったことが大きな要因であろうか と。

さらに基経の母と時康親王の母は姉妹関係にあり、したがって基経-時康親王は従兄弟の関係にあること。また時康親王は、質素な性質で、政治や権力に無関心で無欲な点が注目されたこと等も後継者として選ばれた背景にあったようである。

ところで“摂政”とは、本来天皇が幼少の際にその親(または皇族)が変わって政治を行うことを意味した。良房は、皇族ではない藤原氏が“摂政”の役職を行う道を確立し、基経は後を継いだ。

高齢の光孝天皇の場合は“摂政”ではそぐわない。基経は、「帝王の政務にあずかって意見を言上すること」を意味する「関(アズ)かり白(モウ)す」、略して“関白”という新役職を設けて、政務に口出しできる道を開いた。以後“摂政”・“関白”は藤原氏専属の重要な役職となっていく。

光孝天皇は即位時に、すべての子女を臣籍降下させ、子孫に皇位を伝えないという意向を表明する処置を採っている。摂政・基経の甥で、陽成天皇の同母弟・貞保親王がいずれ天皇位を継ぐであろう と斟酌してのことである。つまり今様に言えば、権力者に対する忖度である。

光孝天皇の崩御時、後継者として臣籍降下された誰か一人を復位させる必要が生じた。基経の差配で光孝天皇の第7皇子・源定省(ミナモトサダミ)が選ばれて59代宇多天皇(867~931、在位887~897)となった。河原左大臣(源融)が、継承の権利ありと名乗り出たことは先に触れた(閑話休題167)。

光孝天皇は即位後も、不遇だったころを忘れないよう曽て自分が炊事して煤けた部屋をそのままにして、そこで自炊をすることもあったという逸話がある。質素で温厚な人柄は終生変わらなかったようである。

光孝天皇が遺した歌は多くはないが、人柄を反映してやさしさ、優美さを感じさせる歌ばかりであるという。次の歌は『古今和歌集』にある歌で、やはり親王であったころの作という。なお月に桂が生えているというのは中国の伝説である。

月のうちの かつらの枝を 思ふとや
   涙のしぐれ 降るここちする (新勅撰集 巻恋 光孝天皇御製)
  [月に生える桂の枝のように手の届かない人を思うからでしょうか 
  涙が時雨のように降るような気がする](小倉山荘氏)

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