愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 232 飛蓬-139 小倉百人一首:(順徳院)百敷(モモシキ)や

2021-10-11 09:07:35 | 漢詩を読む
100番 百敷(モモシキ)や 古き軒端の しのぶにも
      なほあまりある 昔なりけり 
           順徳院(『続後撰和歌集』雑下・1205) 
<訳> この宮廷の荒れた古い軒端に生えている忍草を見るにつけても、やはりいくら偲んでも偲びきれない、栄えていた昔のよき御世であるなあ。(板野博行)

ooooooooooooo 
手入れが行き届かず、宮殿の軒端にはシノブ草が繁り、宮殿の鮮やかさも色あせている今日である。その様子を眼にするたびに、親政が敷かれていた昔が偲ばれて、日夜懐旧の念は脳裏に巡り、止むことがない と。

権威・権力が鎌倉に移り、武士の世になりつゝある頃、順徳院20歳時の歌である。5年後、順徳院は、後鳥羽院に賛同して幕府討伐の兵を興す(承久の乱、1221)が、多勢に無勢、戦に敗れて佐渡島へ配流の身となった。

百人一首トリの歌である。七言絶句の漢詩としました。

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<漢詩原文および読み下し文> [下平声八庚韻] 
 不勝今昔之感 今昔の感に勝(タエ)ず 
宮殿檐端瓦韋生, 宮殿の檐端(ノキバ)に瓦韋(ノキシノブ)生じ,
心中眷恋冠带榮。 心中 眷恋(ケンレン)す冠带(カンタイ)榮(サカ)えるを。
感今念古以長嘆, 今に感じ古(イニシエ)を念(オモ)い以(モッ)て長嘆(チョウタン)し,
日夜緬懐無已縈。 日夜 緬懐し縈(カラミツク)ことの已(ヤ)む無し。 
 註] 
  檐端:軒端。        瓦韋:ノキシノブ草。 
  眷恋:懐かしく思う。    緬懐:過ぎた事柄を偲ぶ。 
  縈:絡みつく、巡る。
 ※ “瓦韋(ノキシノブ草)”と“緬懐(過ぎた事柄をシノブ)”は歌中掛詞を活かした。 

<現代語訳>
 今昔の感に堪えず 
宮殿の古びた軒端にはノキシノブ草が生え、
心中、昔の冠帯の華やかな頃が懐かしく思われる。
今に感じ、昔を思って長嘆息して、
日夜 昔を偲ぶことが纏わりついて止むことがない。

<簡体字およびピンイン> 
 不胜今昔之感  Bùshèng jīnxī zhī gǎn   
宫殿檐端瓦韦生, Gōngdiàn yán duān wǎwéi shēng, 
心中眷恋冠带荣。 xīnzhōng juànliàn guāndài róng.  
感今念古以长叹, Gǎn jīn niàn gǔ yǐ chángtàn,
日夜缅怀无已萦。 rìyè miǎnhuái wú yǐ yíng. 
xxxxxxxxxxxxx 

順徳天皇(1197~1242、在位1210~1221)は、後鳥羽帝(百-99番)の第3皇子、兄・土御門帝の譲位をうけて14歳で即位し、第84代天皇となった。温和な兄とは対照的に、気性が激しく、却って後鳥羽院から大きな期待が寄せられていたようである。

後鳥羽院の討幕計画を知ると、それに備えるために皇位を子・懐成親王(仲恭天皇)に譲って上皇の立場に退き、父の計画に参画した。幕府打倒には、父上皇以上に積極的であったとされている。討幕に立ち上がった(承久の乱)が、敗戦、配流の身となった。

後鳥羽上皇の院政下、直接政務に与ることのなかった順徳帝は、王朝時代の有職故実の研究に力を注いでいた。幕府に対抗して朝廷の威厳を示す目的があったのでしょう。その成果は『禁秘抄』として著されており、天皇自身に関わる故実作法についての書物として後世珍重されたと。

父の影響で和歌や詩にも熱心で、和歌については定家(百-97番、閑休-156)の師事を受けている。家集に『順徳院御集』があり、当時の歌論を集大成した歌論書『八雲御集』がある。『続後撰和歌集』以下の勅撰和歌集に159首入集されていると。

当歌は、即位数年後、承久の乱五年前に詠まれた歌である。嘗て親政が敷かれていて聖代と言われる醍醐~村上帝(10世紀前半)のころを夢見て、権威・権力を取り戻し、朝廷の世を再興させたいとする思いは強かったように思われる。

定家は、後堀河帝(1212~1234、在位1221~1232)の命(1232)により『新勅撰和歌集』を編纂している(1235年成立)。しかし当歌は、同集には撰されていないと。幕府への配慮からでしょうか。定家は、当歌を百人一首の100番―トリ―に配しました。

定家の脳裏には、皇族と藤原氏の両輪で回した公卿の世から、武家の世・実力の世界への歴史的大展開の姿がくっきりと描かれていたに違いない。その底流に和歌を置いて、藤原氏が栄えた良き時代があったことを、順徳帝に語らせているようにも思われる。

順徳院は、佐渡島に配流されたのちも和歌は続けられ、在島中の詠作として『順徳院御百集』(1232)が遺されている。配流生活21年の後、佐渡で崩御した(1242)。なお、次の辞世の歌を遺しています:

思いきや 雲の上をば 余所にみて、
  真野の入江にて 朽ち果てむとは (pixiv 辞世歌 百人一首)
 [思いも寄らないことであったよ かつて住まっていた雲の上を 今 手の届かない 
 彼方の雲の上に想像しつゝ 佐渡は真野の入り江で 朽ち果ててしまうとは]。 

[追記]
百人一首 全100首の漢詩への翻訳 完結しました、“一応”と添え書きして。というのは、“古歌の漢詩化”という不慣れな難“作業”で、必ずしも満足な漢詩に仕上がった とは言えぬまゝにblogに書き続けてきました。目下推敲を重ねているところです。

翻訳“作業”は、敢えて百人一首の順番に従うことなく、アトランダムに採って進めました。歌の内容、詠われた時代、男女等々、偏りを避ける為です。改めて推敲なった漢詩を、順番に随って読み見直してみたいと心積もりしております。 

総じて百人一首では、喜・怒・愛・楽・恨み・辛み……、百人百様の“こころ”/“おもい”が主張されているように思われる。それぞれの漢詩で作者の“こころ”が翻訳・表現できたであろうか?心細い限りではある。  
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1 コメント

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Unknown (Rumi)
2021-10-12 19:45:29
歌に出てくる「しのぶ」は草の事だったのか!と初めて知りました。何となく流してた歌で、そこまで追求した事が無かったので。
そしてそのシノブ草とは、日陰に生えるシダ類の葉の事なのかな、と。
そうと分かると、昔の栄華を偲んでいる点とひなたではなく日陰に生える草と、繋がるものがありますね。作者の技巧面なんですかね。

百人一首の翻訳、完結ですか!・・・ご苦労様でした!
漢詩の出来云々はわかりませんが、百人百様の「こころ」や「思い」の主張、その感情はどの時代にも共感するものだったから現代まで伝わってきているのだと思います。・・・繰り返しますが、人間は変わらないものですねー。笑

さて、次は何に挑戦されるんですかね?!
楽しみにしてますー!!

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