愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 168 飛蓬-75 小倉百人一首:(恵慶法師)八重葎

2020-09-28 09:09:59 | 漢詩を読む
(47番)八重葎(ヤヘムグラ) しげれる宿の さびしきに
      人こそ見えね 秋は来にけり
             恵慶(エギョウ)法師『拾遺和歌集』秋・140
               
<訳> つる草が何重にも重なって生い茂っている荒れ寂れた家。訪れる人は誰もいないが、それでも秋はやってくるのだなあ。(小倉山荘氏)

ooooooooooooo
「人の訪れもない、雑草が生い茂るこの庵にも秋はやってきたよ」と、平安中期のころの歌です。“秋は寂寞の季節”という季節感が歌心として広く歌の題材になるのは、ずっと後の時代である。和歌史上先駆的な作品との評価がなされています。

作者は、僧侶、歌人であるが、生没年、出自ともに不詳の恵慶(エギョウ)法師(957~987ごろ活躍)です。歌中の“雑草の生い茂った、荒れた庭”は、かつて河原左大臣(源融)が豪邸を築いた“河原院”の約100年後の佇まいである。

五言絶句の漢詩としましたが、歌の心は素直に表現できたかな と感じていますが?下記、ご参照ください。

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<漢詩原文および読み下し文>  [下平声八庚韻]
 秋天的到来  秋天の到来
萋萋蔓草生, 萋萋(セイセイ)として蔓草(ツルクサ)生じ,
寂寂舍没声。 寂寂(セキセキ)として舍(シャ)に声没(ナ)し。
平日無来客, 平日 来客無きに,
天機秋色明。 天機(テンキ) 秋色明らかなり。
 註]
  萋萋:草木が茂っているさま。  寂寂:ひっそりと寂しいさま。
  舍:家、建物、(謙遜語)自宅。  天機:自然のからくり。

<現代語訳>
 秋のおとずれ
庭にはつる草が生い茂ってあり、
家は寂しく、物音も聞こえない。
普段 来客もないが、
天の巡りとは言え 秋はそこまで来ているのだ。

<簡体字およびピンイン>
 秋天的到来  Qiūtiān de dàolái
萋萋蔓草生, Qī qī màncǎo shēng,
寂寂舍没声。 jì jì shè méi shēng.
平日无来客, Píngrì wú láikè,
天机秋色明。 tiānjī qiūsè míng.
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歌の作者・恵慶法師について、その生没年、出自、俗姓や経歴共に不詳である。ただ播磨(兵庫県)国分寺で経典の講義をする講師(コウジ)をつとめていたとか、また花山院の熊野行幸(986)に供奉したこと等は記録が残っているようである。

天徳-寛和(957~987)ごろ活躍し、交友関係は、遺された歌を通して、例えば、花山院や源孝明などの上流貴族や大中臣能宣、紀時文、清原元輔、曾祢好忠、平兼盛など中流身分の歌人たち と広かった。

中でも僧・歌人の安法(アンポウ)とは特に親しい関係にあったようである。安法は、生没年は不詳であるが、俗名・源趁(ミナモトノシタゴウ)、前回話題にした河原左大臣こと源融(トオル)の曽孫である。河原院の一画に寺を構えて住し、歌人たちの集会場所を提供していた。

趁は内蔵頭・源適(カナウ)の六男。父の頃から家運が衰え、趁は早くに出家し安法法師と号し、980年代に天王寺別当を務めたこともあるという。河原院での歌人たちの集まりでは恵慶法師と安法法師は中心的な存在であったようである。

なお、かの広大な河原院は、融の子・昇が後を継ぎ、次いで宇多上皇に提供され、寵愛する女官たちに住まわせていた と。以後経過の詳細は不明だが、いつ頃かお寺が建てられ、曽ての庭園跡は“八重葎”が生い茂る荒れた庭に変貌していました。

河原院では、歌人たちが集まり、その荒廃などを主題に漢詩文や和歌を作り、独特な交友圏を形成していた。962年には「庚申河原院歌合」が催されている。上掲の歌は、この河原院の荒廃の情景を詠ったもので、中世的な閑寂が主題とされ、先駆的な作品と評価されている。

恵慶法師、安法法師ともに中古三十六歌仙の一人である。恵慶法師には家集『恵慶法師集』があり、『拾遺和歌集』以下の勅撰集に50余首、また安法法師には家集『安法法師集』があり、『拾遺和歌集』以下の勅撰集に12首が入集している と。

恵慶法師には春に詠った次のような歌もある。〈詞書〉に「山里に人の許(モト)にて桜の散るを見て」とある。春とは言え、やはり憂愁の念を詠っています。

桜散る 春の山辺は 憂かりけり
   世をのがれにと 来しかひもなく(恵慶法師集)
  [桜の花が散る春の山辺は物憂いものだったよ 世を逃れようと来た
  甲斐もなかったなあ](小倉山荘氏)
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閑話休題 167 飛蓬-74 小倉百人一首:(河原左大臣)陸奥の

2020-09-22 09:22:13 | 漢詩を読む
  (14番) 陸奥(ミチノク)の しのぶもじずり 誰故に
        みだれ初めにし 我ならなくに
             河原左大臣 『古今和歌集』恋四・724
<訳> 陸奥の「しのぶもちずり」の乱れ染めの模様のように、私の心も忍ぶ想いに乱れているのですが、それはいったい誰のせいなのでしょうか?私ではなく、他ならぬあなたのせいなのですよ。(板野博行)

ooooooooooooooo
「私の心は、あなたのせいで忍摺りの模様のように千々に乱れています」と、訴えています。男性としてはか弱い感じの歌です。当時、歌の世界では、“忍ぶ恋”、“片思い”は、流行のテーマであったらしい。掛詞“忍ぶ”を活かした歌と解されます。

作者・河原左大臣、本名、源融(ミナモトノトオル、822~895)は、52代嵯峨天皇(在位809~823)の十二番目の子息。元服後臣籍降下して源姓を賜り、嵯峨流源氏の初代となる人である。京都六条河原に豪邸を築き、河原院、河原大臣とも呼ばれていた。

漢詩は、七言絶句とし、“忍ぶ恋”/“片思い”の意の詩題としました。

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<漢字原文および読み下し文>  [上平声十灰韻]
 悄悄的単恋 悄悄(ヒソカ)な単恋(カタオモイ)
陸奥染工超絶哉,陸奥(ミチノク)の染工(センコウ) 超絶なる哉(カナ),
摺衣花様奇紊催。摺衣(スリゴロモ)の花様(モヨウ) 奇(クシ)き紊(ビン)を催(モヨオ)す。
為誰始乱吾心緒,誰が為に乱れ始(ハジ)まりしか吾が心緒(ココロ),
可非自所惹起来。自(ミズカ)ら惹(ヒ)き起来(オコ)せし所には非(アラ゙)ざるに。
 註]
  陸奥:現東北の東半分(福島・宮城・岩手・青森)に相当する地域の古称。
  染工:模様のある石の上にかぶせた布に、忍草(シノブゲサ)などの汁を擦り付け
   て染める方法を「しのぶずり」または「もぢずり」と言い、その染色工。
  摺衣:「しのぶずり」法で染められた衣。
  紊:乱れ(模様)。

<現代語訳>
 胸に秘めた片思い
陸奥の忍草を用いた「しのぶずり」の技術者たちの技法は何とも超絶であり、
その技法でできた摺衣は 他に類例がない乱れ模様を示す。
私のこころが乱れ始めたのは、一体誰故であろうか、 
私自身が引き起こしたことではないのだが。

<簡体字およびピンイン>
 悄悄的单恋 Qiāoqiāo de dān liàn
陆奥染工超绝哉, Lùào rǎn gōng chāojué zāi,
摺衣花样奇紊催。 zhéyī huāyàng qí wěn cuī.
为谁始乱吾心绪, Wèi shéi shǐ luàn wú xīnxù,
可非自所惹起来。 Kě fēi zì suǒ rě qǐlái.
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歌の作者・河原左大臣こと源融は、嵯峨天皇の8番目皇子である。嵯峨天皇には50余人の子がおり、皇族のままでは財政上問題があり(?)、親王の多くは臣籍に降下せざるを得なかったようである。源融は、838年、源の姓を賜っている。

翌年待従に任じられ、以後近衛中将などを経て、850年には従三位に叙せられ29歳で公卿に列し、856年参議に登る。さらに中納言(864)、大納言(870)と官位が上がり、872年、左大臣に任じられる。かなり有能な方であったようだ。

源融で特筆すべきは、864年、陸奥出羽按察使(アゼチ)として陸奥に赴き5年間(~869)、東北経営に携わったことであろう。陸奥出羽按察使とは、奈良時代に設置され、陸奥国と出羽国を管轄し、行政を統一的に監督する役職である。

国司として地方に赴くと、公的な俸禄とは別に、経営の次第によっては意外な実入りが期待できたのではないでしょうか。他の諸国に比して広大な土地を擁する東北一円とあっては、計り知れないほどの余禄があったように想像される。

当時の政界では、藤原氏による他氏排斥の動きが猛威を振るい、結果北家藤原氏の地歩が固まった時期と言えよう。良房(804~872)とその嫡養子・基経(836~891)が外祖父としての力を背景に、それぞれ、“摂政”および“関白”を藤原氏の役職として確定・定着させ、権力基盤を築いています。

58代光孝天皇の次代を定める際、すべての皇子が臣籍降下していたため、誰か一人を皇籍に復帰させる必要があった。その折、源融も「自分も候補に入る」と訴えたが、権力中枢にいた基経によって一蹴されたという経緯がある。

以来、源融は風流の世界に没入することになったようである。当時、源融は“都一の大富豪”との噂が立っていたとか。京都鴨川のほとり東六条に四町四方の土地を得て、豪邸河原院を構えた。一町は約109m、概算440m四方=19.4ha、東京ドーム(4.7ha)の約4倍の広さです。

曽て按察使として数年過ごした陸奥国の印象が余程印象深かったのでしょう。河原院に奥州塩釜の風景を模して、大きな池を含む庭園を築いた。池には難波の海の北(現尼崎市)から運んできた海水で満たした と。この河原院は文人貴公子の社交の場ともなっていたようである。

891年関白太政大臣・基経が没し、源融は太政官の首班に立つが、895年薨去、享年74。最終官位は左大臣従一位、没後正一位の贈位を受けた。話題の歌の作者名が“河原左大臣”である所以である。
 
さて、紫式部作『源氏物語』中の主人公・光源氏のモデルとして最も有力視されている人物は、河原左大臣・源融であるように思われる。その他、在原業平もモデルとして挙げられている一人である。

先に、在原業平の歌(百人一首17番、下記ご参照)を紹介する中で、業平の"ある恋"の顛末に触れました。恋の相手は藤原高子で、遂げられないと悟った二人は駆け落ちを決行する。ところが、高子は直ちに連れ戻され、業平は追放されます。

ここで藤原高子とは、基経の妹で、のちに56代清和天皇の后となります。直ちにすっ飛んで行って高子を連れ戻したのは兄の基経でした。高子は藤原氏の基盤を固めるには絶対に必要なお方でした(詳細:閑話休題135ご参照)。

17番 ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 から紅に 水くくるとは
           
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閑話休題 166 飛蓬-73 小倉百人一首:(参議篁) わたの原

2020-09-16 09:46:10 | 漢詩を読む
  (11番) わたの原 八十島(ヤソシマ)かけて 漕(コ)ぎ出でぬと
        人には告げよ 海人(アマ)の釣り舟
           参議篁(サンギタカムラ) 『古今和歌集』羇旅・407
<訳> はてしなく広がる大海原に、散在する多くの島々を目指して、
私は舟を漕ぎ出していったと、都に残してきた恋しい人に告げてくれ、
海人の釣舟よ。(板野博行)
 
oooooooooooooooo
小野篁(802~852)が、罪を得て流刑囚として発つ際に詠われた歌。「篁は確かに発ったよ」と都の人々に伝えてくれ と大音声で釣り船に訴えているようです。大海原を行くに相応しく、暗さは感じられず、むしろ剛毅な感じさえ覚える歌である。

罪を得たとて、心にやましいところはないよ、「気 自ずから纯なり」と主張しているように思われてならない。都に遺した恋人へというより、自分を罪に落とした人々に向けたメッセージでは?

このような“読み”で、漢詩にしてみました。下記ご参照。

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<漢字原文および読み下し文>  [上平声十一真韻]
 受流放之遠離島   流放を受けて遠く離島へ之(ユ)く
  序:被聘日本遣唐使副使。正要去渡唐、因遣船的状態不佳,拒絶上船。
    為此触帝的震怒,受流放刑。流放之遠離島時詠。
波浪漁舟出還没, 波浪(ハロウ)に漁舟 出でて還(マ)た没す,
汝須告訴首都人。 汝(ナンジ) 須(スベカラ)く首都(ミヤコ)の人に告訴(ツ)ぐべし。
茫茫滄海朝離島, 茫茫(ボウボウ)たる滄海(ソウカイ) 離島に朝(ム)けて,
行行開船気自纯。 行き行きて開船(カイセン)す 気 自(オノ)ずから纯なり。
 註]
  出還没:見え隠れする。     茫茫:広々としてはるかなさま。
  滄海:青海原。         朝:(…の方に)向かって。
  行行:後ろ髪を惹かれる思いを断ち切るように、敢えて前進すること。
  開船:出港する。

<現代語訳>
 流刑を受けて遠く離れ小島に行く
  序:遣唐使の副使として命を受けた。唐へ出発しようとした時、
    遣唐船に不具合のあることがわかり、乗船を断った。
    それが天皇の逆鱗に触れて、隠岐の島への島流しの刑に処された。
    遠い離れ島に行く際に詠う。
波間に釣り舟が見え隠れしてあり、
なんじ釣舟よ、必ず都の人に伝えてくれ。
大海原を沖の離れ小島に向けて、
後ろ髪を惹かれる思いを断ち切って船出をした、心は元より純なのだ と。

<簡体字およびピンイン>
 受流放之远离岛 Shòu liúfàng zhī yuǎn lídǎo
  序:被聘日本遣唐使副使。正要去渡唐、因遣船的状态不佳,拒绝上船。
    为此触帝的震怒,受流放刑。流放之远离岛时咏。
波浪渔舟出还没, Bōlàng yúzhōu chū huán mò,
汝须告诉首都人。 rǔ xū gàosù shǒudū rén.
茫茫沧海朝离岛, Mángmáng cānghǎi cháo lídǎo,
行行开船气自纯。 xíngxíng kāichuán qì zì chún.
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小野篁の父・岑守は平安前期の漢詩人、歌人。遣隋使・小野妹子の玄孫、征夷副将軍永見の第三子。52代嵯峨天皇(在位809~823)の皇太子時代から侍読(ジトウ)、近臣として仕える。最初の勅撰漢詩集『凌雲集』の編集に中心的役割を果たす。

父・岑守の陸奥守任官(815)に伴い、篁も陸奥国に赴き、専ら弓馬に興じていた。帰京後も学問に取り組む様子はなかった。「漢詩に優れ侍読を務めるほどの岑守の子がなぜ弓馬の士になってしまったのか」と、嵯峨天皇が歎かれた と。

これを伝え聞いた篁は、恥じ入り一念発起、学問を志して、822年文章生(モンジョウショウ)試に及第した。以後トントンと官位を上げていき、833年、54代仁明天皇(在位833~850)が即位すると、皇太子・恒貞親王の東宮学士に任じられた。

834年遣唐使の副使に任じられ、2回出帆するが、渡唐に失敗する。838年、三度目の出航の際、大使・藤原常継の船に漏水が見つかり、常継の申し出により、篁の乗る船と取り換えられた。篁は故障のある船にあてがわれたのである。

篁は、己の利の為、他人に損害を押し付ける理不尽が罷り通っては、面目なくて部下を率いることは到底できないと抗議。自身の病や老母の世話を理由に乗船を拒否した。のちに篁は、恨みの気持ちを抑え難く、遣唐使の事業、ひいては朝廷を風刺する漢詩『西道謡』を作る。

その内容に本来忌むべき表現があったようである。それを読んだ嵯峨上皇は激怒して、その罪状を審議させ、官位略奪の上で隠岐国への流罪に処した。隠岐への道筋は、大阪を発ち、瀬戸内海を西行して日本海に出る。上の歌は、大阪を発ったところでしょうか。

大阪を発つ頃には、気持ちの整理もでき、澄んだ気持ちで出発したに違いない。なお隠岐への道中に制作した『謫行吟』七言十韻は、文章が美しく、趣きが優美深遠で、漢詩に通じた者で吟誦しない者はいなかったという。ただ『西道謡』、『謫行吟』ともに散逸して現存しないということである。

2年後、許されて帰京し、翌年(841)文才に優れていることを理由に復位します。842年、道康親王(後の55代文徳天皇)が皇太子に立てられると東宮学士に任ぜられ、以後蔵人頭等、要職を歴任して、852年病を得て病没、享年51。最終官位は参議左大弁従三位。

篁は、漢詩文では白居易に対比されるなど、平安初期の三勅撰漢詩集の時代における屈指の詩人とされる。白居易は、篁が遣唐使に任ぜられたと聞き、会うのを楽しみにしていたという。和歌にも秀で、『古今和歌集』(8首)以下の勅撰和歌集に14首入首している。

篁には多くの逸話・伝説が伝えられている。例えば、昼間は朝廷で官吏を、夜間は冥府において閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていた。愛欲を描いた咎で地獄に落とされていた紫式部を閻魔大王にとりなした と。

小野篁は、学才、文才が高く評価されている一方で、反骨の人、狷介な人と見做されているようである。彼の事績を追ってみると、剛毅・豪胆な人物像に見えるが如何であろうか?弓馬を愉しむ、身長6尺2寸(188cm)の巨漢なのである。
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閑話休題 165 飛蓬-72 小倉百人一首:(儀同三司母) 忘れじの

2020-09-10 16:10:48 | 漢詩を読む
 (54番) 忘れじの 行末までは かたければ
       今日をかぎりの 命ともがな
               儀同三司母 『新古今和歌集』恋・1149
<訳> あなたは私のことを決して忘れまいとおっしゃるけれど、遠い将来まで言葉通りの愛情が続くかどうか、信じることが難しいので、そうおっしゃる今日を最後として絶えてしまう命であってほしいと思います。(板野博行)

oooooooooooooo
「君を長しえに忘れることはないよ」と仰いますが、いつ心変わりされるか不安で。最も幸せに浸っていられる今この時、あなたの傍で命が絶えてしまえばよいと思うのよ と。幸せの真っただ中にあって不安を覚えている、女の率直な気持ちが詠われている。

作者は、儀同三司母(ギドウサンシノハハ)、学者の家庭に生まれ、真名(まな)もよく書くことができたという才媛である。前回の右大将道綱母と同様、いわゆる家庭人である。新婚ホヤホヤの頃の作という。相手は、摂関・藤原兼家の嫡男・道隆である。

七言絶句の漢詩にしてみました。下記ご参照ください。

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<漢字原文および読み下し文>   [下平声十一尤韻]
 舍命的爱    舍命(イノチガケ)の爱
君謂永恒難忘記、 君は謂(イ)う 永恒(エイコウ)に難忘記(ワスレガタ)しと、
按常世道千載憂。 常の世道(セドウ)に按(アン)ずれば千載(センザイ)の憂(ウレイ)。
感覚幸運真此刻、 幸運と感覚(カンカク)する真に此(コ)の刻(トキ)に、
希爾旁辺命到頭。 希(ネガウ)は爾(ナンジ)の旁辺(ソバ)で命(イノチ)到頭(ツキ)ることを。
 註]
  舍命:命を顧みない。   永恒:永久に。
  按:…に基づき。     
  世道:世のありさま。一夫多妻の通い婚の世の中をいう。
  千載憂:千年の憂い。   感覚:…と感ずる。
  此刻:いま、この時。   旁辺:そば。
  到頭:死ぬ、命が尽きる。

<現代語訳>
 命がけの愛
とこしえに忘れることはないよ と貴方は仰るが、
世の常に照らしてみれば、行く末はどうなるか解らず、千載の憂いである。
貴方の今のお言葉を聞き、幸せだと思える正にこの時に、
あなたの傍で命が尽きれば と願うのである。

<簡体字およびピンイン>
 舍命的爱 Shěmìng de ài
君谓永恒难忘记,Jūn wèi yǒnghéng nán wàngjì,
按常世道千载忧。àn cháng shìdào qiān zǎi yōu.
感觉幸运真此刻,Gǎnjué xìngyùn zhēn cǐkè,  
希你旁边命到头。xī nǐ pángbiān mìng dàotóu
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作者名、仰々しい名称ですが。関白・藤原道隆(953~995)の嫡男・伊周(コレチカ、974~1010)の母ということで、本名は高階貴子である。伊周が、太政大臣・左大臣・右大臣と同じ待遇という意味の“儀同三司”を称していたことによる。

貴子は、学者・高階成忠の娘である。成忠は文章生から大学頭、宮内卿などを歴任する一方、春宮・懐仁親王の東宮学士を務める。親王の即位(66代一条天皇)に伴い、従三位に叙せられ、高階氏として初めて公卿に列している。

父・成忠の思いから宮廷に出仕した貴子は、女ながら真名(漢字)がよく書けたので、内侍に任命され、高階姓に因み高内侍(コウノナイシ)とも呼ばれるようになった。学者の家系から宮廷に登場した珍しい例でしょうか。

やがて貴子のもとに、のちの関白・道隆が忍んで通い始め、二人は恋に落ちます。忍んで来る道隆を垣間見た父・成忠は、必ず出世する器であると予見し、二人の結婚を許した と。貴子は道隆の北の方(正妻)として迎えられます。

結婚生活は幸せであったようで、“女君達が三四人 男君が三人”生まれています。子供たちは皆年齢に似合わず優秀で、当時世間では「母親ゆずりである」と評判しきであった由。賢母の誉れが高かったようです。

上掲の歌は結婚間もない頃、最も幸せな時期に詠われた歌ということである。

後に一条天皇の中宮となる定子は二人の間に生まれた一人で、清少納言が仕えた中宮である。ある雪の降る日、定子を中心にして火鉢を囲んで談笑する中、清少納言とのやり取りに、定子の漢詩の素養が伺えることはすでに話題にした(閑話休題-125)。

道隆は、父・兼家の策謀により、一か月のうちに非参議から権中納言・大納言と異例の昇進をしている。また父から関白を譲られて氏の長者となり、全盛を謳歌していた。しかし病に倒れ早世、嫡男・伊周が関白を継げず、道隆関白家は失墜に向かう。

父の死後、伊周は叔父の道長と政権の座を争って敗れる。また伊周が恋した女性のもとに夜な夜な通う男に、待ち伏せして矢を射たところ、この男性は花山院であった等々。伊周は失脚して、大宰府に左遷されます。

儀同三司母は、夫・道隆の死後、出家され、不遇な晩年を送られたようである。

次の歌は、やはり儀同三司母の歌である。結婚後、時経て、夫・道隆は例の如く、浮気を重ねていたようだ。詞書によれば、ほかの女の所から明け方に帰って、家の中に入らず、そのまま戻って行ったので詠んだ と。戸を開けてやらなかったのでしょう。歌の中の“露”は“涙”の意。

暁の 露は枕に をきけるを
   草葉のうへと なに思いけむ(後拾遺和歌集 恋 儀同三司母)
  [明け方の露は枕に置くものだったのを 草葉の上に置くものだと なぜ思っていたのでしょう]。(小倉山荘氏)
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閑話休題 164 飛蓬-71 小倉百人一首:(右大将道綱母) 嘆きつつ

2020-09-04 09:58:21 | 漢詩を読む
(53番)歎きつつ ひとり寝(ぬ)る夜の 明くる間は
     いかに久しき ものとかは知る
          右大将道綱母 『拾遺集』恋四・912
<訳>嘆きながら、一人で孤独に寝ている夜が明けるまでの時間がどれだけ長いかご存じでしょうか?ご存じないでしょうね。(小倉山荘氏)

oooooooooooo
待ち人来らず。寝付かれぬまゝ独りぽっちで一夜を過ごそうとしている頃、彼は、なんと夜明け前に久しぶりに訪ねてきました。待つ身にとって、夜が明けるまでの時間の長いこと、解ってくれようとしない人!門を閉ざして追い返した次第。

待ち人は、稀代の浮気男、否、後の関白・藤原兼家(929~990)でした。関白職を自分の筋の人が独占できる体制を築いた策謀に長けた人です。作者は、その奥方の一人で、道綱(ミチツナ)の母親です。兼家との結婚生活を綴った『蜻蛉日記』の作者である。

女房ならぬ、また言葉遊びではない、上流夫人の真剣な思いを吐露した歌で、真意を捉えることがやゝ難しい歌です。理解を助ける為に、漢詩化に当たっては、『蜻蛉日記』に述べられているという詠われた時の情景を“序”として添えた。

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<漢詩原文および読み下し文>  [入声四質韻]
 孤孤独独的女人  孤孤独独な女人
  序 有一夜黎明情人好久才来訪我,可我杜門遮攔他的進屋了。
    次晨,和一朵剛要衰朽的菊花,给他贈了這首詩。
漫夜聞蟋蟀, 漫たる夜 蟋蟀(シッシュツ)を聞く,
戚戚煢暗室。 戚戚(セキセキ) 煢(ケイ)として暗室にあり。
明発真是久, 明発(メイハツ) 真に是れ久しきも,
君無従獲悉。 君 獲悉(カクシツ)の従(スベ)無からん。
 註]
  漫:長い。         蟋蟀:コオロギ。
  戚戚:憂い歎くさま。    煢:独りぼっち。
  明発:夜明け。       無従:…する手がかりがない。
  獲悉:知る、耳に入る。

<現代語訳>
 孤独な女性
  序 ある晩の夜明け前に、想い人が久しぶりに私を訪ねてきたが、門を
    閉め切って家に入れないようにした。
    朝になって、盛りを過ぎた菊花一輪を添えて、この詩を彼に贈った。
秋の夜長、コオロギの鳴き声を聞きつつ、
暗い部屋で 独りぼっちで寂しく休んでいる。
夜明けまでなんと久しいことか、
あなたは知る由もないでしょう。

<簡体字およびピンイン>
孤孤独独的女人 Gūgū dúdú de nǚrén
  序 有一夜黎明情人好久才来访我,可我杜门遮拦他的进屋了。
   次晨,和一朵刚要衰朽的菊花,给他赠了这首诗。
漫夜闻蟋蟀,Màn yè wén xīshuài,
戚戚茕暗室。qī qī qióng ànshì.
明发真是久,Míng fā zhēnshi jiǔ,
君无从获悉。jūn wúcóng huò.
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右大将道綱母(ミチツナノハハ、936?~995)は、陸奥守・藤原倫寧(トモヤス)の娘で、“本朝三美人の一人”と言われたほどの美貌であった由。歌人として早くからよく知られていて、『拾遺集』以下の勅撰集に38首入首し、家集に『伝大納言母上集』がある。

父は大学寮で詩文や歴史を学ぶ文章生(モンジョウショウ)出身である。弟の長能(ナガヨシ)も歌人、また姪に『更級日記』の作者がいる。道綱母、一子・道綱および弟・長能の三人ともに中古三十六歌仙に選ばれている。文学の才に恵まれた血筋と言える。

954年、藤原兼家の第2夫人となり、翌年一子・道綱を儲ける。しかし兼家にはすでに正室・時姫がいて嫡男・道隆が誕生していた。道綱母は時姫に対して非常なライバル意識を持ち正妻の地位を争ったが、多くの子宝に恵まれた時姫を超えることはできなかったようだ。

上掲の歌は、兼家との結婚2年目に、兼家が他の妻に夢中になって来訪が途絶えがちになった頃に詠んだ歌である。夫の浮気に嫉妬して怒っている道綱母が、自分の苦しい心中を察してほしいと詠んだ歌なのである。

なお『拾遺集』での詞書によれば、訪れてきた夫を、わざと門外に長く待たせておき、門を開いたら、「待たされて立ち疲れたよ」と言って、入ってきた。そこでこの歌を贈ったとされている と。漢詩の序は、『蜻蛉日記』の記載に拠った。

兼家との結婚生活は、当初は幸福な夫婦生活を送っていたが、やがて夫の足は遠のきがちとなり、不本意な結婚生活となっていったようです。兼家との満たされない生活の思い出を中心にまとめられたのが『蜻蛉日記』である。

『蜻蛉日記』は自らの身の上を主題に書かれた初めての女流日記文学と言えるようだ。晩年に回想して書かれたもので、仮名散文で書かれ、和歌(261首)を交えた展開で、その文学史的な意義も大きく、後の『源氏物語』に繫がる大きな意味を持った作品とされている。

兼家は、忠平(貞信公、百人一首-26番)の孫にあたり、師輔の3男、長兄に伊尹(謙徳公、同-45番)がいる。次兄・兼通との確執を経ながら勝ち抜き、摂政・関白まで昇ります。子宝に恵まれ、嫡男・道隆、5男道長と続き、地歩を固めていきます。

その上、長女・超子に冷泉上皇との間に生まれた居貞親王、次女・詮子に円融天皇との間に生まれた懐仁親王が、それぞれ、後三条天皇および一条天皇に即位するに及び、外戚としてその権力基盤が盤石となり、藤原氏の全盛時代を迎えることになります。

当時の他の女流作家が、宮中などに仕えた女房であったのに対して、道綱母は、権勢家の夫人で家庭にあった人である。上掲の歌は、言葉遊びの歌ではなく、当時の一上流夫人の生の声ということである。

『蜻蛉日記』は、兼家との結婚時から書き始め、亡くなる約20年前、39歳の大晦日を最後に筆を止めているという。晩年は摂政になった夫に顧みられることも少なく、寂しい生活を送ったと言われているが、詳細は不明である。

名称『蜻蛉日記』の由来は、日記中次のように記載されている:「なほものはかなきを思い、あるかなきかの心ちする かげろふの日記 といふべし」と。
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