愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 129 飛蓬-38 小倉百人一首:(三条 右大臣)  名にし負はば

2019-12-30 11:16:57 | 漢詩を読む
  (25番) 名にし負はば 逢坂山の さねかずら
        人に知られで くるよしもがな
                   
<訳> 男女が逢って寝る という名を持つ、逢坂山のさねかずら。その蔓を手繰るように、誰にも知られずにあなたを訪ねる方法があればいいのに。(板野博行)

紫式部の父方の曽祖父 藤原定方(サダカタ;873~932)の歌です。和歌の技法の掛詞(カケコトバ)など、たっぷりと味わえる歌です。言いかえれば、漢詩にする際、どのように対処するか、難題を提示している歌と言えます。

歌の本旨は、「人目を忍んで逢いたいものだ」と、求愛の歌です。としても、非常に大胆な内容ですが、“サネカズラ”というキーワードでオブラートに包んでいます。

掛詞などに対する考え方、対処など、後述しました。苦吟の末の漢詩・七言絶句を下に示しました。ご批評頂けると有難いです。

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<漢字原文および読み下し文>
恋慕歌 恋慕の歌  [下平声十二侵韻]
逢坂山中小寝葛、逢坂山中の小寝葛(サネカズラ)、
不負名就会同衾。名に負(ソム)かずば 就(スナワ)ち会い衾(キン)を同(トモ)にすること。
作依靠蔓捯过去、蔓(ツル)を依靠(タヨ)りと作(ナ)し捯(タグ)って行き、
但願偷偷怎么尋。但だ願うは偷偷(トウトウ)として怎么(イカデカ)寻(タズ)ねんことを。
 註]
逢坂山:固有名詞、山城国(京都)と近江国(滋賀)との国境にある山。旧時、関所が置かれていた。
小寝葛:さねかずら;真葛、実葛とも。中国語では華中五味子。
不負名:名に背かない。      同衾:一緒に寝ること。
依靠:頼る。           捯:(ひも、縄などを)たぐる。
偷偷:人に知られないように。   怎么:どうしてか。何とかして。
  
<現代語訳>
 恋慕の歌
逢坂山にある小寝葛、
その名に背かないならば、則ち会って共に寝るということだ。
小寝葛の蔓を頼りにして手繰って行き、
人に知られないよう、なんとかして君を訪ねて行き,会いたいものである。

<簡体字およびピンイン>
恋慕歌 Liànmù gē
逢坂山中小寝葛、 Féngbǎn shān zhōng xiǎo qǐn gé,
不负名就会同衾。 bú fù míng jiù huì tóngqīn.
作依靠蔓捯过去, Zuò yīkào wàn dáo guòqù,
但愿偷偷怎么寻。 dàn yuàn tōutōu zěnme xún.
xxxxxxxxxxxxx

和歌の中で駆使されている“技巧”の詳細については、その道の書を参照して頂きたいと思います。以下、和歌中の“技巧”ついて簡単に整理し、それに対した漢詩化での対応を述べます。

先ず、“技巧”について。 “逢坂山”の“逢”は、逢い引きの“逢”に、“サネカズラ”の“サネ”は、“さね(小寝、一緒に寝ること)”に、また“くるよしもがな”の“くる”は、人が“来る(行く)”と“サネカズラ”の蔓を“繰る”に それぞれ掛詞(カケコトバ)の関係にあります。

また“逢う”と“小寝”、および蔓性の“カズラ”と“繰る”は、それぞれ、“縁語(エンゴ)”の関係。さらに「名にしおはば逢坂山のさねかずら」までの上の句は、「くる(繰る)」を導きだす“序詞(ジョコトバ)”という次第である。

一方、「サネカズラ」は、“技巧”を凝らす上でも、また歌の本旨を述べる上でも、キーワードとなっていることが読み取れます。したがって、「サネカズラ」に対応する用語、出来得れば漢語、は、最も重要なことと言えます。

さて、掛詞については、一漢字または一漢単語で裏表の意味を表す表現法は、筆者の力の及ぶところではありません。漢詩では、オブラートを除き、“裏の意味”も表出することにより、曲がりなりにも歌の作者の意図は生かせたように思います。

「サネカズラ」の対応用語について。「サネカズラ」の日本名は南五味子(ナンゴミシ)ですが、多くの表記・別名を持っています。実葛、真葛、小寝葛、狭根葛、美男葛(ビナンカズラ)、美女葛(大阪)、等々。中国名は「華中五味子」のようである。

詩文を目にした際の第一印象、読んだ時の響き、また掛詞の関係を活かす為に敢えて“小寝葛”を当て、承句の“同衾”に対応させました。しかし“小寝葛”は、“一般用語(俗語?)”であろうから、少々抵抗感がないわけではありませんが。

以上、ご勘案の上、漢詩を読んで頂けると有難いです。

作者・三条院右大臣(藤原定方)について触れます。同母の姉は、第59代宇多天皇(在位887~897)の皇后、その皇子が第60代醍醐天皇(在位897~930)である。外戚・側近として右大臣まで出世、京都三条に邸宅を構えた。

醍醐天皇時代には、和歌の中心的存在で、いとこの兼輔とともに、紀貫之や凡河内(オオコウチノ)躬恒(ミツネ)など、『古今和歌集』編者の後援者であった。『古今和歌集』(1首)以下の勅撰和歌集に13首が入っている と。紫式部の曽祖父に当たる。

[追記] 閑話休題123 & 127に頂いたコメントについて

※ 紫式部と清少納言、両者を現代に持ってくると、……。

---紫式部:『源氏物語』=少女漫画系統 / 清少納言:『枕草子』=エッセイスト系統。
貴着眼点 頷けます。1,000余年が経ち、時代は変わり、素材は変わっても、本質的な文化の様態は不変 ということでしょうか。大げさに言えば、遺伝・民族性? 

※ 和歌中の掛詞 / 同様の用法 漢語にもありや?

---浅学菲才の身、その有無は不明です。“同音同字で異意”の文字は多くありますが。例:道 ・道路、・道理、・話す、……など。ただ、“掛詞”的に用いられた例は気づいたことがありません。

 貴コメント 今後も期待しております。励みになります。よろしくご指導くさい。

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閑話休題 128 飛蓬-37 小倉百人一首:(僧正遍照) 天つ風

2019-12-19 09:34:44 | 漢詩を読む
 (12番) 天つ風 雲の通い路 吹き閉じよ
       をとめの姿 しばしとどめむ
               僧正遍照
<訳> 空吹く風よ、天女が行き交うという雲の中にある道を吹き閉じておくれ。この美しく舞う乙女たちの姿を、もう少し下界にとどめておきたいと思うから。(板野博行)

豊明節会(トヨノアカリセチエ)の宴会における舞姫(乙女)たちに心底惚れこんだ作者は、「乙女たちよ、今しばらく舞台から姿を消えないでくれ!」と、懇願の気持ちを詠っています。“乙女たち”を“仙女”に見立てて。

令和天皇即位後初めて、先月(11月)に催された新嘗祭(ニイナメサイ)と繫がりのある歌を取り上げ、七言絶句にしてみました。下記ご参照ください。新嘗祭および豊明節会については、その概要を後述しました。この歌の理解に役立つと思われます。

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<漢字原文と読み下し文>   
 豊明節会宴所祝賀秋収穫  秋の収穫を祝賀する豊明(トヨノアカリ)節会(セチエ)の宴
[上平声五微韻]
豊明節宴何愉快、 豊明節会の宴(ウタゲ) 何ぞ愉快たる、
窈窕舞姿無縫衣。 窈窕(ヨウチョウ)たる舞姿 縫(ヌイメ)無しの衣(コロモ)で。
天風刮閉雲里路、 天の風よ刮(フ)いて雲の里(ナカ)の路を閉ざしてくれ、
為仙女且止回帰。 仙女の回帰(カエリ)を且(シバラ)く止(トド)める為に。
 註]
豊明節宴:天皇が催す秋の収穫祭で、旧暦11月に催される”五節”第一の新嘗祭の後、その最後の行事として行われる“豊明節会”の宴。
窈窕:美しくしとやかなさま。
無縫衣:天女の衣は縫い目がないという。宋代の『太平広記』にある故事。ここでは無縫の天衣を着た天女のこと。
刮:(風が)吹く。
雲里路:雲の中にあるとされる天上へ通ずる路。

<現代語訳>
 秋の収穫を祝う豊明節会の宴
秋の収穫祭である豊明節会の宴 何と楽しいことであったことか、
縫い目のない天衣を纏った天女たちの麗しく淑やかな舞姿。
天空を吹く風よ、雲の中にある天への通路を閉ざして、
天女たちの帰りを止めて、今しばらく目を楽しませてくれ。

<簡体字およびピンイン>
 丰明节会宴所祝贺秋收获 Fēngmíng jié huì yàn suǒ zhùhè qiū shōuhuò
丰明节宴何愉快、 Fēngmíng jié yàn hé yúkuài
窈窕舞姿无缝衣。 yǎotiǎo wǔ zī wú fèng yī.
天风刮闭云里路、 Tiān fēng guā bì yún lǐ lù,
为仙女且止回归。 wèi xiānnǚ qiě zhǐ huíguī.
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題の和歌は、豊明節会に招かれた僧正遍昭(816~890)が、宴の“五節(ゴセチ)の舞”で催された乙女たちの舞姿に心を奪われたことを詠った歌である。

先に令和元年の新嘗祭の催しのニュースは新聞などで報道されました。秘儀であるとのことで、現代の儀式が如何なるものであったかは、知る由もありません。以下は昔の行事として、歌の理解に役立つと思える範囲で概観します。

奈良時代以前から、季節の節目に定期的な行事として催されてきた“節句”があり、時代によって変遷しながら現代に至っているようです。中国の陰陽五行説の影響もあって、特に“5節句”が重要な行事として催されていた と。

“天つ風”が書かれた平安時代の“5節句”には、元日(1月1日)、白馬(アオウマ、1月7日)、踏歌(1月16日)、端午(5月5日)および新嘗祭(11月中の辰の日)がある(いずれも旧暦)。中でも、新嘗祭は、年の締めであるとともに、秋の収穫を祝う行事として位置づけられている。

嘗ての新嘗祭は、今日「勤労感謝の日」として国民の祝日となっている。しかし「勤労感謝の日」とは別に新嘗祭の行事は今に生きていて、天皇家や諸神社でも、今日なお執り行われている。

諸節句の日には儀式が執り行われ、その翌日には“節会(セツエ)”と称される饗宴が催されていた。新嘗祭にあっては、特に“豊明節会”と呼ばれていて、2日にわたって宴が催され、五節(ゴセチ)の舞などが行われる。

“豊明節会”では、「列席された天皇が、神々に新穀を捧げるとともに、自らも一緒に召し、また群臣にも賜り、合わせて酒饌(シュセン、酒肴)も供された」と。一年の豊穣を感謝して、年を締める行事であった。

作者について触れておきます。僧正遍昭は、桓武天皇(第50代;在位781~806)の孫という高貴な生まれでありながら、出家して天台宗の僧侶となり、僧正の職まで昇った僧侶である。

また歌僧の先駆の一人と評されるほどの歌人であり、六歌仙および三十六歌仙の中の一人である。『古今和歌集』(16首)以下の勅撰和歌集に35首採入されている と。

「僧正遍昭の歌は、歌の風体や趣向はよろしいが、真情に乏しい」と、紀貫之は『古今和歌集』の序で評しているようですが。何の!!何の!!“天つ風”の歌から読めるように“生臭坊主”(?)に近い風情が感じられます。

尚、僧正遍昭の歌は、出家前後で歌風が変わってきたと言われています。出家前には“天つ風”のように、情感溢れる歌を書いていた。出家後には物事を知的・客観的に捉える歌が多くなった と。百人一首に選ばれた“天つ風”は、出家前の作ということである。
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閑話休題 127 飛蓬-36 小倉百人一首:(文屋康秀) 吹くからに

2019-12-08 10:04:50 | 漢詩を読む
 (22番) 吹くからに 秋の草木の しをるれば
      むべ山風を 嵐といふらむ

<訳> 山からの風が吹くと、すぐに秋の草木がしおれてしまうので、なるほど、だから山から吹き下ろす荒々しい風を嵐と言うのだろう。(板野博行)

地球温暖化の影響もあってか、やや遅く、関西では今、紅葉も盛りを過ぎつつあります。“晩秋”の頃 と言うにふさわしい季節でしょうか。丁度今の時期を詠った歌を翻訳の対象に選びました(下記参照)。

晩秋の“野分きの風”に曝された草木の葉がすぐにも萎れていく。その情景を念頭に、山から吹き下ろす強風は、まさに“嵐”の字の起源と言えるようだ と。厳冬の到来を感じながらも、機知に富んだ遊び心で締めています。

xxxxxxxxxxxx
<漢字原文と読み下し文>   [下平声十三覃韻]
季秋的暴风 季秋(キシュウ)の暴风(ボウフウ)
季秋烈烈北風厲, 季秋 烈烈(レツレツ)として北風厲(ハゲ)し,
雲散無禽蕭索潭。 雲(クモ)散り 禽(キン)無く蕭索(ショウサク)たる潭(タン)。
一刮草木忽枯萎, 一刮(イッカツ)すれば草木 忽(タチマ)ち枯萎(カレシボ)む,
誠然山風被称嵐。 誠然(セイザン) 山風 嵐(アラシ)と称さる。
 註]
  烈烈:激しいさま。      禽:鳥類。
  蕭索:寒々とした。      潭:水を深く湛えたところ。
  刮:(風が)吹く。      誠然:宜(ムベ)なるかな、なるほど。
  嵐:晩秋にみられる野分きの風、暴风。
※中国語の“嵐”は、“もや、山中に立ち込める水蒸気”を意味する。ここでは日本語の“嵐(あらし)”の意味を活かした。元歌の重要な点の一つが“嵐”の字自体にあり、それ失くしては、歌の面白みが失われるからである。

<簡体字とピンイン>
 季秋的暴风 Jìqiū de bàofēng
季秋烈烈北风厉, Jìqiū liè liè běi fēng lì,
云散无禽萧索潭。 yún sàn wú qín xiāosuǒ tán
一刮草木忽枯萎, Yī guā cǎo mù hū kūwěi,
诚然山风被称岚。 chéngrán shān fēng bèi chēng lán.

<現代語訳>
 晩秋の野分の風
晩秋の野分の風は非常に激しく吹き、
雲は足早に散じ、池では鳥の姿も消えて寒々としている。
その風が一吹きするや、忽ち草木も萎(シオ)れてしまう、
この荒々しい山風が“嵐(荒らし)”と呼ばれるのも、宜なるかなである。
xxxxxxxxxxxxxx

作者・文屋康秀(? ~885?)は、平安初期の官人、歌人である。その生没年の詳細は不明である。官人としては必ずしも高位には至らなかったようですが、歌人としては六歌仙(後述 追記参照)の一人に選ばれていて、有名であった。

ただし、勅撰和歌集の、『古今和歌集』には4首、『後撰和歌集』に一首が収められており、多くはないようです。さらに『古今和歌集』の2首は、子の朝康(百人一首37番、以下百首)の作ではないかとされているようです。

官人としては、山城大掾(ダイジョウ)(877)縫殿助(ヌイドノノスケ)(880)に任官したことが伝えられているようです。三河国司・三河掾として赴任したことがあるが、その年代は不明である。なおその折に、小野小町を一緒に行くよう誘ったという逸話がある。

両人は、恋人同士であったらしく、彼の誘いに対して、小野小町は次のような歌を返している と:

「わびぬれば 身を浮草の 根を絶えて 誘う水あらば いなむとぞ思う」
[<訳> こんなに落ちぶれたつらい身なので、わが身を浮草として根を断ち切って、誘う人さえあれば、どこにでも一緒について行こうと思います。]

果たして、小野小町が実際について行ったかどうかは不明である と。

註]の中で記したように、歌の大事な点の一つは、“嵐”という字自体に関わることと言えます。したがって漢詩に敢えて“嵐”を詠いこみ、さらに日本語の意味を活かすことにしました。漢-和折衷の漢詩となりました。その是非は今後の課題と言えよう。

[追記]
六歌仙とは、『古今和歌集』(905~913完)の仮名序に、紀貫之が優れた歌人として名前を挙げた6人の歌人をいう。僧正遍昭(百首12)、在原業平(百首17)、文屋康秀、喜撰法師(百首8)、小野小町(百首9)および大友黒主の六人である。なお大友黒主以外は、歌が百人一首に取り上げられています。
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閑話休題 127 飛蓬-36 小倉百人一首:(文屋康秀) 吹くからに

2019-12-08 10:02:34 | 漢詩を読む
 (22番) 吹くからに 秋の草木の しをるれば
      むべ山風を 嵐といふらむ

<訳> 山からの風が吹くと、すぐに秋の草木がしおれてしまうので、なるほど、だから山から吹き下ろす荒々しい風を嵐と言うのだろう。(板野博行)

地球温暖化の影響もあってか、やや遅く、関西では今、紅葉も盛りを過ぎつつあります。“晩秋”の頃 と言うにふさわしい季節でしょうか。丁度今の時期を詠った歌を翻訳の対象に選びました(下記参照)。

晩秋の“野分きの風”に曝された草木の葉がすぐにも萎れていく。その情景を念頭に、山から吹き下ろす強風は、まさに“嵐”の字の起源と言えるようだ と。厳冬の到来を感じながらも、機知に富んだ遊び心で締めています。

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<漢字原文と読み下し文>   [下平声十三覃韻]
季秋的暴风 季秋(キシュウ)の暴风(ボウフウ)
季秋烈烈北風厲, 季秋 烈烈(レツレツ)として北風厲(ハゲ)し,
雲散無禽蕭索潭。 雲(クモ)散り 禽(キン)無く蕭索(ショウサク)たる潭(タン)。
一刮草木忽枯萎, 一刮(イッカツ)すれば草木 忽(タチマ)ち枯萎(カレシボ)む,
誠然山風被称嵐。 誠然(セイザン) 山風 嵐(アラシ)と称さる。
 註]
  烈烈:激しいさま。      禽:鳥類。
  蕭索:寒々とした。      潭:水を深く湛えたところ。
  刮:(風が)吹く。      誠然:宜(ムベ)なるかな、なるほど。
  嵐:晩秋にみられる野分きの風、暴风。
※中国語の“嵐”は、“もや、山中に立ち込める水蒸気”を意味する。ここでは日本語の“嵐(あらし)”の意味を活かした。元歌の重要な点の一つが“嵐”の字自体にあり、それ失くしては、歌の面白みが失われるからである。

<簡体字とピンイン>
 季秋的暴风 Jìqiū de bàofēng
季秋烈烈北风厉, Jìqiū liè liè běi fēng lì,
云散无禽萧索潭。 yún sàn wú qín xiāosuǒ tán
一刮草木忽枯萎, Yī guā cǎo mù hū kūwěi,
诚然山风被称岚。 chéngrán shān fēng bèi chēng lán.

<現代語訳>
 晩秋の野分の風
晩秋の野分の風は非常に激しく吹き、
雲は足早に散じ、池では鳥の姿も消えて寒々としている。
その風が一吹きするや、忽ち草木も萎(シオ)れてしまう、
この荒々しい山風が“嵐(荒らし)”と呼ばれるのも、宜なるかなである。
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作者・文屋康秀(? ~885?)は、平安初期の官人、歌人である。その生没年の詳細は不明である。官人としては必ずしも高位には至らなかったようですが、歌人としては六歌仙(後述 追記参照)の一人に選ばれていて、有名であった。

ただし、勅撰和歌集の、『古今和歌集』には4首、『後撰和歌集』に一首が収められており、多くはないようです。さらに『古今和歌集』の2首は、子の朝康(百人一首37番、以下百首)の作ではないかとされているようです。

官人としては、山城大掾(ダイジョウ)(877)縫殿助(ヌイドノノスケ)(880)に任官したことが伝えられているようです。三河国司・三河掾として赴任したことがあるが、その年代は不明である。なおその折に、小野小町を一緒に行くよう誘ったという逸話がある。

両人は、恋人同士であったらしく、彼の誘いに対して、小野小町は次のような歌を返している と:

「わびぬれば 身を浮草の 根を絶えて 誘う水あらば いなむとぞ思う」
[<訳> こんなに落ちぶれたつらい身なので、わが身を浮草として根を断ち切って、誘う人さえあれば、どこにでも一緒について行こうと思います。]

果たして、小野小町が実際について行ったかどうかは不明である と。

註]の中で記したように、歌の大事な点の一つは、“嵐”という字自体に関わることと言えます。したがって漢詩に敢えて“嵐”を詠いこみ、さらに日本語の意味を活かすことにしました。漢-和折衷の漢詩となりました。その是非は今後の課題と言えよう。

[追記]
六歌仙とは、『古今和歌集』(905~913完)の仮名序に、紀貫之が優れた歌人として名前を挙げた6人の歌人をいう。僧正遍昭(百首12)、在原業平(百首17)、文屋康秀、喜撰法師(百首8)、小野小町(百首9)および大友黒主の六人である。なお大友黒主以外は、歌が百人一首に取り上げられています。

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閑話休題 126 旅-7、 晋・陶淵明「飲酒二十首 其の五」

2019-12-01 17:20:45 | 漢詩を読む
この一対の句:

菊を采(ト)る東籬(トウリ)の下(モト),
 悠然(ユウゼン)として南山を見る。

「山氣 日夕(ニッセキ)に佳(ヨ)く,飛鳥 相(ア)い與(トモ)に還(カエ)る。」と続きます。“南山”とは、廬山のことです。何気ない情景ですが、この中にこそ人生の真の意味があるのだ、と。なお、採った菊の花びらは、きっと“忘憂のもの”に浮かべているに違いありません。

言葉は、意味を伝える道具でしかない、意味が解ったら言葉は忘れてしまうものだ。「真の人生とはなにか?」それが知りたければ、百言を弄するよりも、私と同じ暮らしをしてみたらどうですか!と結論している詩のようです。

コンクリに囲まれて日々を送っている我々にとっては、覗き見るにしてもハードルが高い世界です。でも胸のどっかに潜んでいる桃源郷でもあるように思われます。下記をご参照ください。

xxxxxxxxxxx 
 飮酒二十首 其五
結廬在人境,而無車馬喧。
問君何能爾,心遠地自偏。
采菊東籬下,悠然見南山。
山氣日夕佳,飛鳥相與還。
此中有真意,欲弁已忘言。
     
<読み下し文>
廬(イオリ)を結んで人境(ジンキョウ)に在り,而(シカ)も車馬の喧(カマビス)しき無し。
君に問う何ぞ能(ヨ)く爾(シカ)るやと,心遠ければ地(チ)自(オノズカ)ら偏(ヘン)なり。
菊を采(ト)る東籬(トウリ)の下(モト),悠然(ユウゼン)として南山を見る。
山氣 日夕(ニッセキ)に佳(ヨ)く,飛鳥 相(ア)い與(トモ)に還(カエ)る。
此の中(ウチ)に真意(シンイ)有り,弁ぜんと欲すれば已(スデ)に言(ゲン)を忘る。
註]
人境:(山中でなく、)人の住む領域。
車馬:世人、貴人たちの訪問。
問君:“君”は作者自身、自問自答。
偏:偏る、巷(チマタ)から離れる。
悠然:ゆったりしたさま、またはるかなさま。淵明の気持ちであるとともに、はるか南方の廬山がゆったりと横たわっているさまをいう。
南山:廬山を指している。
山氣:山のけはい、景色。
此中:五~八句に示した世界。
真意:人生のまことの意味。

<現代語訳>
--人里に庵をかまえているが、役人どもの車馬の音に煩わされることはない。
--「どうしてそんな事が有り得るのか?」とお尋ねかもしれないが、心が世俗から遠くはなれていると、此処もおのずと僻遠の地に変わってしまうのだ。
--東側の垣根のもとに咲いている菊の花を手折り、ゆったりとした思いで見上げると、南方はるかに廬山のゆったりした姿が目に入る。
--山にただよう気は夕方が特に素晴らしく、鳥たちは連れ立ってねぐらに帰っていく。
--この自然の中にこそ、人間のあり得べき真の姿があるように思われる。だがそれを説明しようとしたとたん、言葉を忘れてしまっていた。
xxxxxxxxxxx

廬山の真の姿は、自分が山の中にいてはわからないよ と蘇軾が詠っていたことは、前々回にも触れました。陶淵明が彼の住まいから“悠然と見た南山”は、正にその真の姿を現しているように想像されます。

この“旅シリーズ”で廬山を取り上げる際、“陶淵明”がまず念頭にあったのですが、陶淵明が直接廬山を評した作品は見当たりません。二,三の作品中に“南山”・“南阜(ナンフ)”という表現で現れているだけです。

これも想像ですが、陶淵明が職を辞し、貧窮の中で田園生活を送っていくに当たって、遥かに望む廬山の姿は常に視野の中に入っていて、心の拠り所となっていたのではないでしょうか。

ただ、「斜川(シャセン)に遊ぶ」という詩の“序”の中で「……あの南阜(廬山)は古来有名であって、いまさら感嘆の声をあげるまでのない……」と述べています。“弁ぜんと欲して已に言を忘る。”を体現しているかのようです。

陶淵明が廬山で遊ぶ姿は、遥か後の北宋時代(960~1127)に陳舜愈(チンシュンユ)が著した『廬山記』(1072)の中で伝記として語られているようです。今日、その姿は四字成句 “虎渓三笑”の形で知ることができます。

『廬山記』は、陳舜愈が実際に廬山を歩き、得た見聞を記した地誌で、名跡や廬山に関係の深い人々の伝記を記したものである と。その中で、ある時、陶淵明と道士の陸修静(リクシュウセイ)が東林寺の慧遠(エオン)を訪ねますが、その折の逸話として語られています。

慧遠は、前々回にちょっと触れました。同名の僧が3名ほどいるようですが、ここで話題の僧は、陶淵明と同時代の“廬山の慧遠(334~416)”である。浄土教の始祖とされており、東林寺を開いて念仏の道場とした。

修行法として阿弥陀仏像の前で念仏を唱える方法を始めた。その堂前に白蓮が植えてあったので、その宗派を白蓮教、またその結社は白蓮社とも言われるようになった。解りやすい教えが、大衆的な支持を得て、後の世(元末や清末)にはその力を反権力の方向に向けたこともある。

東林寺の前には、断崖絶壁の間を渓流が流れていて“虎渓”と呼ばれているところがある。俗世に下るには、石伝いに“虎渓”を渡らねばならない。慧遠は、入山後二度と“虎渓”を渡るまいと誓いをたてていた。

慧遠と、彼を訪ねた陶淵明と陸修静のお三方は、「道」について語り合った。話は尽きず、二人の帰りを見送る間も夢中に話し込み、慧遠は、不覚にも“虎渓”を超えてしまった。虎の吠える声でやっとそれに気づき、三人は大笑いした と。 

「虎渓三笑」の故事である。「虎渓三笑」は、日中ともに東洋画の画題とされ、わが国では雪舟や狩野山楽らの画が楽しめる。なお「ある事に夢中になると、他の事は忘れてしまう」という譬えでもある。
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