愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題105 飛蓬-25 -己亥歲孟春聴鶯初啼有懐

2019-04-28 15:06:14 | 漢詩を読む
“酒に対す”シリーズは、ちょっと一休み。令和への代替わりを機に、自作の詩を紹介します。

新元号・“令和”が決まり(4月1日)、やがて、“平成”から“令和”へと皇位は継がれていきます。予め譲位の時期が定められていたため、新年を迎えると、「今年は、いよいよ….」と、この行事がますます身近に感じられるようになりました。

幼鶯の初音(初鳴き2月27日)を聴いても、つい皇位継承の件が頭を過ってきた次第です、「新陛下にあっては、こうあって欲しいな….」と。その思いを一首の漢詩にしてみました(下記、参照)。

“権威”は、良しにつけ悪しにつけ、利用の対象とされ得ることは想像に難くありません。新陛下にあっては、平成に劣らぬ新しい“象徴像”を築いていかれるよう、願いを込めたつもりです。

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己亥歳孟春聴鶯初啼有懷  (下平声 庚韻)
己亥(キガイ)の歳(トシ)孟春(モウシュン) 鶯の初啼(ハツネ)を聴き 懐(オモ)い有り

黃口一声旭日清, 黄口(コウコウ) 一声(イッセイ) 旭日(キョクジツ)清(キヨ)し,
流鶯幽壑後山鳴。 流鶯(リュウイン) 幽壑(ユウガク)後山(コウザン)に鳴く。
平成寧日五六年, 平成の寧日(ネイジツ) 五六(ゴロク)年,
来陛会極新象徵。 来(キタル)陛(ヘイカ) 会(マサ)に新象徴を極めん。
註] 黄口:嘴の黄色いひなどり、鶯の幼鳥   
   寧日:、(戦争のない) 安らかな日々
   五六年:三十年
   来陛:次に即位される天皇陛下
<現代語訳>
  己亥(2019)の年 初春 鶯の初音を聴き 懐うことあり  
初春の朝日が輝く清々しい朝、雛鶯の一声“キョッ”を聴き、
裏山の谷間で歌う、時経た成鶯の“鶯の谷渡り”の美声を想う。
平和な平成の世も30年、多大な感銘を残してやがて幕を下ろす、
後継の陛下は、時経て新しい象徴像を築いていかれるよう願う。
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筆者の住まいのあたりでは、鶯の初音が聴かれるのは、大体新暦2月の中頃である。今年、筆者が聞いたのは2月27日、東の山の端に朝日が眩しい顔を覗かせた頃であった。真に“キョッ”の一声である。

幼鳥は時を経て、成長を重ね、「ホー ホケッキョッ」から、さらに初夏のころには「ケキョケキョ、コロコロ、キョッキョッ、ケキョケキョ、……..」と、息の続く限りに“谷渡り”の美声を聴かせてくれるようになります。

令和の世を継がれる陛下も、既に皇太子の間に多くの経験を積まれたとは言え、“天皇”としてはピカピカの一年生。無比の“権威”を付与されたそのお立場で、時を経、経験を積まれて初めて、“令和天皇の象徴像”が国民の胸に描かれることになります。

筆者は、昭和-平成-令和と、3代通して馬齢を重ねる身となります。この間、胸の底に沈殿して、消すことのできない記憶は、昭和代の“B-29の爆音”に繋がる体験の数々である。

平成代は、大きな災害に見舞われるという不幸な面を忘れることはできないが、幸いに比較的平穏な時代であった。一方、暗黙の裡に憲法第一条:「天皇は、日本国の象徴…、国民統合の象徴……」の意義が問われていた時代ではなかったでしょうか。

“象徴天皇”とは如何?筆者の思考能力を超える問題ではある。個人的な感想であるが、今上陛下の平成30余年の歩みには深い感銘を受け、そのお姿に一つの“象徴像”を見出したように思われます。

“天皇”には自ずと無比の“権威”が備わります。周囲では、ややもするとその“権威”を利用しようとする動きが無きにしもあらずであったでしょう。平成陛下は、そのさらに外側に位置をとられていたように思われ、筆者が深い感銘を受ける源であった。

やがて“令和陛下”が誕生します。何十年か経て、次代の国民に新たな感銘を与え、且つ新しい“象徴像”を描かせてくれることでしょう。令和の、新しい時代の到来を寿ぐ気持ちや大なりである。
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閑話休題104 酒に対す-26;白居易(楽天) 卯時酒

2019-04-15 11:41:58 | 漢詩を読む
この二句:
温かい春が内臓を突き抜けて行くように、
日差しを受けて背が炙(アブ)られているように、ポカポカとしてくる。 

お酒の功徳を表わした二句です。お酒を頂いた折の感覚が具に詩となっています。誰しもが経験されていることでしょう。特に寝覚めの“すきはら”の、朝酒の一杯はそうである、と白居易先生は宣(ノタマッ)ておられる。

白居易の「卯時(ボウジ / ウドキ)の酒―朝酒」を読みます。34句からなる長編詩ですが、初めの12句を読みます(下記を参照)。

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卯時酒 白居易  
仏法讚醍醐、仙方誇沆瀣。 
/仏法(ブッポウ)には醍醐(ダイゴ)を讚(サン)し、仙方(センポウ)には沆瀣(コウガイ)を誇る。
未如卯時酒、神速功力倍。 
/未(イマ)だ如(シ)かず 卯時(ボウジ)の酒、神速(シンソク)にして功力(コウリョク)倍(バイ)するに。
一杯置掌上、三嚥入腹内。 
/一杯 掌上(ショウジョウ)に置き、三嚥(サンエン) 腹内(フクナイ)に入れば。
煦若春貫腸、暄如日炙背。
/煦(ク)たること春の腸を貫くが若(ゴト)く,暄(ケン)なること日の背を炙(アブ)るが如し。 
豈独支体暢、仍加志気大。 
/豈(アニ)独(ヒト)り支体(シタイ)の暢(ノ)ぶるのみならず、仍(ナ)お加(クワ)うるに志気(シキ)の大(オオ)いなるを。
当時遺形骸、竟日忘冠带。 
/当時(トウジ)に形骸(ケイガイ)を遺(ワス)れ、竟日(キョウジツ) 冠带(カンタイ)を忘る。

註]
 卯時:十二支の卯(ウ, 兎)の時、午前6時ごろ;~酒:朝酒
醍醐:牛や羊の乳から精製した、最上の味のもの、ヨーグルト(?)
沆瀣:夜間の気、露。仙人の飲みもの
煦:暖める、息を吹きかけて暖める
暄:(日差しが)暖かである
支体:肢体、五体
竟日:一日中

<現代語訳>
卯時の酒
仏法ではヨーグルトを至上の味とし、仙人の方術では天から降る露を尊ぶ。
だが朝酒の、効果が即座に現れ、且つ強力であることには及ばない。
盃を手に取り、グイッグイッグイッと飲んで、腸に至るころには、
温かい春が内臓を突き抜けて行くように、また日差しを受けて背が“炙(アブ)られ”ているように、ポカポカとしてくる。
身体が快く伸びのびとするばかりではない、心意気も大いに上がって来る。
即座に身の立場を忘れ、一日中、宮仕えの憂さも消え失せてしまう。
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作者白居易の生涯については、先に(閑話休題66)その概略を述べました。ご参照下さい。

白居易は、815年(44歳)には左遷されて、廬山(ロザン)の麓に居を構えていました。821年(50歳)に都・長安に召喚されます。しかし長安では、高級官僚間の激しい政争が繰り広げられていた。

嫌気をさした白居易は、自ら志願して風光明媚な江南地方、杭州に刺史(長官)として赴任し、3年後には蘇州刺史として転勤しています。米どころで美酒のできる処です。上に挙げた詩は、蘇州刺史の折の作とされています。

お酒を、起き掛けにグイッグイッといくと、ポカポカとする温もりが、お腹・背中で実感できますよ。そればかりか、衣冠束帯も忘れてしまいますよ と。その功徳は、仏法の醍醐や仙方の沆瀣が及ぶところではありませんよ と。

余談になりますが、詩の最初に出てきて、お酒の功力を述べるに際しての対象とされている“醍醐”・“沆瀣”とは 一体、何ぞや?それらを巡る話題を拾ってみます。

“醍醐”は、仏典に出てくる語で、牛や羊の乳から作られる食品の一種のようです。乳→酪(ラク) →生酥→塾酥→醍醐 と精製を重ねて得られた最高の味の“飲み物”である と。本稿では先達の記載に従って、“ヨーグルト”と訳しました。

本邦でも平安時代には製造されていて愛飲されていたようです。今日その製法は、“酥”の段階までは記録が残っていて、製造可能であるが、最終段階の製法は不明である と。乳飲料関係の研究者が再現すべく、鋭意研究を重ねているようです。

“沆瀣”について。“沆(コウ)”・“瀣(カイ)” のいずれも、夜間の“気”や“露”を表す語で、“沆瀣”も同様である。上記の詩では、勿論、その意で用いられていて、“仙人の飲み物”を意味しています。

一方、“沆瀣”には、第2義として“意気投合する”という意味があり、四字成句に「沆瀣一気」がある。これは「(悪事で)意気投合し、ぐるになる」という意味あいの句で、少なくとも“沆瀣”の“意気投合”は良い意味では用いられていません。

“沆瀣”の語、さらに句の「沆瀣一気」が生まれるに当たっては、次のような故事があるという。宋代の銭易著『南部新書』の内容を紹介した という新聞記事;[雪花新聞、本文標題:「沆瀣一氣」的崔沆、崔瀣, 轉載請保留本聲明!]に拠った。

唐代末期、21代僖宗 (在位873~888)の875年、長安において例年の如く科挙試験が行われた。その折の主試験官は、声望が高かった中書侍郎の崔沆(サイ カンCuī Hàng)が当たった。各地から多数の受験生が集まってきた。

受験生の中に崔瀣(サイ カイCuī Xiè)という非常に優秀な人がいた。その答案を採点していた試験官の崔沆は、答案の素晴らしさに感嘆して、「素晴らしい!」と連呼するほどであった。崔瀣は、周囲の注目を引くほどに優秀な成績で合格した。

当時、科挙の合格者は、主試験官の“門生(門下生)”とされ、一方、主試験官は“座主”とされた。偶然、同姓で、且つ名前が“気、露”に通ずることから、人びとは、“座主門生、沆瀣一気”と称し、半分冗談めかした佳話として語られていた。

ところが、合格後、崔瀣の任官、出世が余りにも早かったため、周囲から“私的な不正があるのでは”と、ヤッカミの目で見られるようになった。そのような空気が、徐々に増幅されていき、今日良くない意味の四字成句となった と。
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閑話休題103 酒に対す-25;張説: 酔中作

2019-04-05 15:41:53 | 漢詩を読む
この二句:
容(カタチ)を動かせば 皆 是(コ)れ舞(マイ)、
語を出(イ)だせば総(スベ)て詩と成る。

「酔うほどに身ごなしは即ち舞姿であり、発する言葉はそのまま詩となるのだ」。
その楽しみは、酔って初めて解るのである、と初唐・張説先生のご高説である。お酒の効用、この詩(五言絶句、下記ご参照)に尽きるように思われます。

「項羽と劉邦」の話題、少々長い道草でしたが、本稿の主題“酒に対す”に戻ります。先ず、酒の効用・功徳を。

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醉中作  唐・張説 
醉後方知樂, 醉後(スイゴ) 方(マサ)に樂しみを知り、
弥勝未醉時。 弥(イヨ)いよ 未だ醉はざる時に勝(マサ)る。
動容皆是舞, 容(カタチ)を動かせば 皆 是(コ)れ舞(マイ)、
出語総成詩。 語を出(イ)だせば総(スベ)て詩と成る。
註]
醉中:酔っぱらった状態のとき
方:いままさに、ちょうど
弥:ますます、さらに
動容:立ち居振る舞い; 容:容貌、姿
出語:言葉に出す、ものを言う

<現代語訳>
酔った折の作
酒に酔って初めてその楽しみがわかる、
酔えば酔うほどにますます正気の時に比べて気分がよくなるのだ。
酔った時の身ごなしは即ち舞姿であり、
発する言葉はすべてそのまま詩となる。 
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作者張説(チョウセツ/チョウエツ)(667~730)は、初唐の政治家・文学者・詩人である。洛陽(河南省)の人で、貧しい家の出であった。当時権力の座にあった武則天(則天武后)の人材登用策により、進士に合格(688、21歳)して政界に入る。

文官、武官として経歴を重ね、武則天に重用されていきます。共に重臣である魏元忠と張易之・昌宗兄弟との間の政争に巻き込まれて、欽州(広東省)に流罪となったことがある(703)。

この政争とは、張易之・昌宗兄弟が、“魏元忠は謀反を企てている”と武則天に誣告し、張説は官位を餌に偽証を求められたという。対して張説は、“告発は虚偽であり、魏元忠は無実である”と主張して、流罪になった と。

このことで信頼を得て、後に中宗に朝廷へ呼び戻され、睿宗(エイソウ)・玄宗に重用されるようになる。その間、左遷・復活・昇進を繰り返し、宰相も経験、最後に尚書左丞相として病没している。“硬骨漢”張説と言えようか。

詩文に優れ、宮廷詩人として代々指導的地位にあった。現在、三百五十首ほどの詩が残っているようで、詩文集『張説之文集』がある。文章は、燕国公(張説)と許国公(蘇頲(ソテイ))と並んで、「燕許大手筆(シュヒツ)」と称された、と。

武則天(624~705;在位690~705)について簡単に触れておきます。生家の武氏は、唐初の政治を担った貴族集団の中では傍流の家系であったが、代々財産家であったため高度の教育を与えられて育っています。

太宗(李世民)の後宮に入り(637)、のち高宗(李治)の皇后となります(655)。武皇后は、高宗に代わり政治を行い、権力を掌握していきます。しかし有力貴族の支持がない中、権力基盤を固めるため人材を積極的に登用していきます。

人材の採用に当たっては、出自を問わず、才能と武皇后への忠誠心を重視した。上の詩の作者・張説は、当時登用された人材の一人でした。その他、姚崇(ヨウスウ)と宋璟(ソウケイ)は、後に玄宗の下で“開元の治”を導いた逸材であった。

高宗が崩御すると、太子の李顕(中宗)、続いて弟の李旦(睿宗)が帝位に即くが、武皇后の傀儡に過ぎない。武則天は、690年帝位に即き、国号を「周」とした。中国史上唯一の女帝となる。王朝名は、“武周”と呼ばれている。 

武則天は、705年2月22日に退位、同12月16日に没した。706年5月、乾陵に高宗と合奏された。諡号は、遺詔に「帝号を取り去り則天大聖皇后とすべし」とあった と。しかし諡号は、唐王朝でも数度変更されている。

追記]
武則天の名称:日本では“則天武后”と通称されており、筆者も同様に記載してきた(閑話休題81)。諸資料によれば、その呼称は、自らの遺詔に従って“皇后”の礼をもって埋葬された という事実を重視したものである と。

諱(イミナ)は照(曌)である。中国では古来“則天”と姓名をはっきりさせずに呼ばれてきていて、現在、それに姓の“武”を冠して“武則天”と呼ぶのが一般的である と。

本稿では、身分や地位に関係なく“本人”を指す場合は、“則天武后”や馴染みの薄い諱の“照”ではなく、“武則天”とした。皇帝即位後に、“皇后”の意味合いを含んだ“則天武后”の名称で記載を進めるのに違和感を覚えたからである。

蛇足]
武則天は、“則天文字”と呼ばれる新しい文字を造っている。自分の諱も“照”を“曌(空の上に日と月)”とした。読み・ピンインはともに“ショウ・Zhào”であるが。徳川光圀の“圀(口の中に八方)”もそうで、“國”中の、“惑”に通じる“或”を忌み嫌ったようである。
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