のすたる爺や

文明の果てなる地からのメッセージ

死兆星落ちず

2020年04月22日 | 日記・エッセイ・コラム

 風呂に行く道すがら空を見たら北斗七星が見えた。

 死兆星は見えなかったのでまだ死なないのだろう。と、言うよりも、まだ左目を良く開けていられないのでを、乱視の右目で複数に見える北斗七星を見ただけのこと。

 風呂では近所の年配のおじさんと一緒になりました。昭和3年生まれだから92歳になりますが、まだ畑に出て仕事をしています。この地区に同級生が4人いるはずですが、みな介護施設や病院に入っており、元気で飛び回っているのは一人だけになってしまったそうです。

 80歳ごろから田畑の仕事の目線が、「より多く収穫する」から「うまいものを作る」に変わってきたそうで、「畑仕事ってのも奥が深くて、この歳になっておぼろげに”作物を作ること”が見えてきたような気がする。」と言ってました。

 この界隈も耕作放棄地だらけで野生動物の住処になっている昨今、食糧難を懸念するなら今から手を付けたほうが良いと思うのですが、「田畑から離れるときは、すぐにまた戻せばいいと思って離れるんだろうけど、いざとなったらそう簡単なもんじゃない。継続させるってことは重要だったんだなぁ。」

 昨日あたり、スーパーの棚からスパゲティーやミートソースが消えたそうで、村の奥様方が「どうなるんかねぇ」と心配してましたが、スパゲティーなんて一年に何回食べるもんでもないし、ケチャップでナポリタンでいいじゃないか。不安に飲まれて衝動買いするなら、材木も買ってくれ。今なら大根よりお安い材木です。雨にあてなければ保存もききます。

 今日は一人仕事だったので、朝の電話の打ち合わせ以外は人さまと話をする機会がなかったのですが、これも日常よくあること。いまさら7割8割接するなと言われても困ったもんですが、なんたって過疎地で人がいないんだからどうしてみようもない。

 風呂では終戦直後の食糧難の時の話を伺いましたが、昭和20年は不作の年で、農作物の出来は悪かったが、自分たちだけなら食べるに困ることはなかった。それでも、親戚縁者や遠方から買い出しに来る人たちに無碍もできないので、「我慢」を分け合ったという話でした。「戦中よりも戦後のほうが大変だったなぁ。何やっていいのかわかんねぇだもん。」と言ってました。

 昭和一桁と言っても、この3年生まれあたりを境に雰囲気が違う。たぶん、実際に戦場に行ったラインだと思いますが、特攻隊で散華された方にもこの年生まれの人がいます。

 このおじさんは兵役に就くこともなく終戦でしたが、今施設に入っている近所の同級生は予科練に行ってたそうです。

 今年は春の薬師祭りが秋に延期になりました。「おめえさんに頼んでおきたいことがあるんだけど、忠霊塔の草刈りやっといてくれ。幼馴染の顔ぶれも入ってるからな。」このお祭りの準備の時に忠霊塔の草刈りをしますが、今年はそれも延期になるかもしれない。

 そこに祭られた人たちの顔を知る世代の言葉。妙に重たく感じるので、「暇見てやっときますよ。」とまた安請け合いしてしまったが、こうして余計な仕事は増えていく。

 「今接ぎ木しているトマトができたらご褒美にもっていくからな。」と、風呂を出ていきましたが、トマトが収穫できるのは夏。それまでは私の頭上に死兆星が落ちてこないってことかな?

コメント (2)
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