のすたる爺や

文明の果てなる地からのメッセージ

ロリコン

2012年05月31日 | 日記・エッセイ・コラム

 ウラジミール・ナボコフはロシアのペテルブルクの貴族の家に生まれ、1940年にアメリカに亡命します。小説「ロリータ」はアメリカを舞台に描かれていますが、一応ロシア文学です。(ロシアではあまり読まれていないようです)

 主人公のハンバートと言う男が後半前の獄中で死にます。そのハンバートと言う男の残した手記をナボコフは編集するよう依頼されます。

 私(ハンバート)は1910年にパリに生まれ第二次大戦の頃アメリカにわたり、広告の仕事や大学の比較文学史の入門書などを書いて過ごしていました。健康を害したハンバートはニュー・イングランドの田舎町に静養に行きます。

 静養先はシャーロット・ヘイズと言う未亡人の家で、この未亡人はハンバートとの結婚を望むが、彼は何の魅力も感じなかった。

 それより彼を魅了したのは娘のドロレス(ロリータ)で、この娘と一緒に暮らしたいがためにシャーロットと結婚してしまいます。しかも、日記の書くことはロリータのことばかりで、それを読んでしまいハンバートの本心を知ってしまったシャーロットはショックで道路に飛び出し、自動車にはねられ死んでしまいます。

 ハンバートはキャンプに行っていたロリータを連れ出し、アメリカ中を自動車で当てもない旅をします。このたびの中で、ロリータの通俗的な趣味やわがままに失望しながらも旅を続けます。

 ある日、二人をつけていて劇作家のキルティと言う男がロリータを連れ去ります。ハンバートは狂ったようにロリータを探し回りますが、足取りもつかめません。

 失踪から3年後、突然ロリータから手紙が届き、彼女は工員と結婚し、近々子供が生まれるのに金がないと書いてきました。ハンバートはすぐにロリータの元に飛んでいき、もう一度一緒に生活して欲しいと懇願しますが拒絶されます。

 ロリータとわかれた後憎むべきキルティを探し射殺し、精神病院と刑務所の独房の中で「ロリータ」を書き綴ると言う内容の小説です。

 ハンバートは少年のときに出会った美少女アナベルに恋心を抱いていましたが、アナベルは病気で死にました。そのショックが障害になって、恋もできない青年時代をすごしました。25年後、アナベルをロリータと言う少女に化身させることで過去の呪縛から抜け出られます。が、すでにまともではありません。

 未成熟な少女だけにしか魅力を感じない症状を、(ニンフェット)といいますが、これをこの小説の題名をとって「ロリータ・コンプレクス」、「ロリコン」といいます。

 小説としての「ロリータ」は面白い小説なので読んでみて下さい。ドストエフスキーはじめロシアにはどろどろした精神を描いた面白い作品が多いです。「ロリータ」も作品よりも「ロリコン」の言葉が先行してしまって、単なる変質者の小説と受け止められがちです。

 SEXとバイオレンスなしに成り立たない最近の小説よりよほど美しく幻想的な小説です。

 くれぐれもあらぬ方向に走らぬよう自制してください。精神的な自立を忘れないように。

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種痘

2012年05月30日 | 日記・エッセイ・コラム

 今では根絶したといわれる天然痘。1796年に英国の医師ジェンナーが牛痘法という予防法を開発しました。天然痘に感染させた牛から痘苗を採取し、それを人間に摂取して人体に免疫を作る方法です。

 日本で牛痘法による種痘が成功したのは1849年、佐賀藩の医師楢林宗健と長崎のオランダ人医師モーニッケが協力して成功させたとされています。

 実はそれ以前にロシアから帰還した日本人が種痘を持ち込んでいました。

 1807年に択捉で五郎治と言う男がロシア船に連れ去られます。5年後の1812年に南千島に測量に来ていたロシアの海軍少佐が日本にとらえられ、少佐の引き換えとして五郎治らが日本に帰還しました。

 五郎治は北海道の松前で生活していましたが、10年後の1822年ごろ天然痘が流行します。このとき五郎治はロシアで憶えてきた種痘をします。11歳の少女を手始めに多くの人々に種痘を施し天然痘から守りました。楢林とモーニッケの25年も前のことです。

 残念なことに日本の医学者は長崎のほうしか見ていなかったので、北の北海道で画期的な予防をしていたことには気がつきませんでした。

 ロシアから種痘の技術を持ち帰ったのは五郎治だけではありませんでした。安芸の国(広島県)の漂流民で久蔵と言う人物がいます。

 久蔵は凍傷のために片足を失い、オホーツクの医師の元で療養生活を送っているうちに種痘法を覚えます。1813年に日本に帰されますが、このときにロシアから種痘の痘苗と接種用の針3本を持ち帰ります。

 帰国した久蔵は班の取調べを受けたときに種痘について説明し、天然痘から領民を守るために種痘をやらせて欲しいと嘆願しますが、藩主も藩士もあざけ笑うばかりで相手にされませんでした。長崎で種痘が行われる35年も前です。

 久蔵62歳のときにようやく長崎から芸州に種痘が伝わります。どんな思いで見ていたことでしょうか?その5年後に久蔵は赤貧のどん底で永眠します。

 当時とすれば最先端の技術がロシアからの帰還者によって日本に持ち込まれていたのですが、この時代の日本の知識ではまだ猫に小判だったようです。

 名声や肩書きに惑わされず良い物を見分ける目と感覚を養いたいものです。

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ブーム

2012年05月29日 | 日記・エッセイ・コラム

 「山ガール」なる女性の登山がブームなんだそうです。私が山の中で出会うのはクマにイノシシにサルにシカにカモシカに、稀に山菜取りのばあさんに、とにかく「山ガール」なんてお目にかかったことはない。幽霊に出会うことはあっても山ガールに出会うことはない!ニホンオオカミやニホンカワウソのほうが山ガールより存在の可能性が高いのでは?

 なんて腹を立てている場合ではなく、恐いのは「ブーム」と言う社会現象で、これが過ぎ去った後は閑散としすぎて木枯らしが吹き荒れます。

 スキーなんてその際たるもので、ネコも杓子もスキーで盛り上がっていたのは90年代まで。あれほど社会問題になったスキー場の開発はなんだったんだ?

 スキー場が近いこともありますが、近隣の市に大手のアウトドア商店ができて、昔からのスポーツ点が後継者問題もあって斜陽化し、ブームが去ったらこうした店もなくなってしまいスキーのワックス一つ買うのもままならない。

 かれこれ40年も愛用しているホルメンコールのワックスを買うのにネットで探さなければならなくなり、昨年は仲間と共同で輸入しました。

 そういえば、90年だのアウトドアブームでホームセンターで山道具を売るようになって、これはこれで便利だったのですが、こうした流れの中で歴史ある簡素で使いやすい道具が廃盤になっていきました。

 ブームのときには新しい製品も開発されるので、これはこれで嬉しいのですが、ブームが去れば本当に必要なものまで消えてしまう。これが恐い。

 山ガールも衣服のファッションが主みたいですから、こんなブームが去っても影響ないと思いますが、山ガール目当てで階層をした山小屋がブームが去った影響で廃業なんてことになると恐いも気がします。

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雷雨

2012年05月28日 | 日記・エッセイ・コラム

 夕方、夕立がありました。普通に「夕立」で言いと思うのですが、最近は「ゲリラ豪雨」の影響なのか、「大気が不安定」「積乱雲」のキーワードが天気予報で流れるので、とてつもない大雨が降るのでは?と余計な警戒をしてしまいます。

 ラジオをつけていたので、ノイズが入るたびに雷が起きていることはわかりました。雷の音が聞こえるようになるまで30分ほどありましたが、もし山に行っていたら、このラジオのノイズで下山を決めただろうな。なんてことを考えていました。

 尾瀬で落雷によってハイカーが1名亡くなったそうです。

 雷は必ずしも上から落ちてくるものではなく横に張っていくこともありますし、落雷の前に既にどこに落ちるか?雷様が決めているので、慌てて金属を体からはずしても既に遅いのだそうで、ひたすら安全なところに逃げるしかないそうです。

 夕方、晩飯のおかずの山菜取りをしていたのですが、雷の心配はしていなかったものの雨が気がかりでどこで逃げるか?の線引きが明暗の分かれになります。山奥の村では線を引いたように豪雨が襲ってきます。

 ぽつぽつ雨が降り始めたので、さっさとクルマに戻りましたが、程なくバケツをひっくり返したような雨が降り始めました。後2-3分でびしょぬれになるところでした。

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交代

2012年05月27日 | 日記・エッセイ・コラム

 AKB48と言う女性アイドルグループでは人気投票の選挙で立ち居地やテレビに映る度合いも変わってくるのだとかで、競争原理を取り入れていますが、あれだけ数が多いと誰が誰なのかおぢさんにはわかりません。

 メンバー交代しても元が分からないのだから誰なのか見当つかない。おぢさんにはAKBとモーニング娘の違いも分からない。安キャバレーのショータイムみたいな姉ちゃん達だったくらいにしか。

 最近のこうしたグループの映像は個人が移るのはせいぜい1-2秒で、頻繁に映像が変わるので目が追いつきません。KARAのように5人程度なら何とか追いつくのですが、少女時代のように9人になるともう手に負えず、「何人いるんだ?」と数えているうちに違う画面に変わってしまいます。

 20年ほど前にテレビゲームなるものが流行り、子供達が次々と画面を切り替えていく姿を見て「分かっているのかな?」と不思議になりましたが、ほとんどその世界で画像の切り替えが早いので認識する前に変わってしまう。

 お年寄りになるともっと顕著で、総理大臣の名前を覚えるころにはもう代わっている。そんなわけで「今度の総理大臣はなんて名前だったっけ?」「そろそろ代わるんじゃなかろうか?」とお年寄りがお茶飲みながら話していました。早くそうなって欲しい。

 いわゆる「民主主義」とはかけ離れた国では国の顔の変化が少なく、ロシアなどソビエト時代のレーニン、スターリン以降も含めて、フルシチョフ、ブレジネフ、アンドロポフ、チェルネンコ、ゴルバチョフ、エリツィン、プーチンとメドベージェフコンビですから、変化が少ない。

 ロシアには「ツルフサの法則と言うのがあり、ハゲと髪の毛がある代表が交互に入れ替わっており、レーニン、フルシチョフ、アンドロポフ、ゴルバチョフははげていました。剛毛だったエリツィンの後に出てきたプーチンはまだ禿げ上がる途中で、その後を一時引き継いだメドベージェフもどちらかというとはげに向かっているので、この二人は一組なんでしょう。プーチンも以前よりは薄さを増してきたので、いよいよ仕上げかな?退任する頃には見事なハゲになっていることでしょう。

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登山家

2012年05月26日 | 日記・エッセイ・コラム

 新潟のロシア領事館総領事がキャンプ場でボール遊びをしていて崖から沢に転落して亡くなる事故がありました。

 そういえば、以前ロシアのバーベキューサイトで、むくつけきロシアのおじさんたちがバーベキューの後サッカーをして子供のようにはしゃいでいる姿を思い出しましたが、大方この総領事も一杯飲んで仲間とボール遊びをしていて事故にあったんでしょう。

 ヒマラヤでは登山家の竹内洋岳さんがダウラギリⅠ峰に登頂し、8000m14座全てを登る快挙を成し遂げました。8000m全座登頂者は28人目です

 ラインホルト・メスナーが8000m14座全て無酸素で登頂したのが1986年。その後、ポーランドのイエジ・ククチカが14座登頂に成功。それにつづくのが9座に登頂成功していた山田昇さんといわれていましたが、1989年2月にマッキンリーで亡くなってしまいました。

 メスナーは無酸素登山、ククチカや山田さんは冬季登頂や未踏ルートなど開拓者としての側面もありましたが、こうしたバリエーションも出尽くし、近年では8500m以上でなければ無酸素登頂も評価されない時代になってしまいましたが、竹内さんは横目を降らずクレバーに14座登頂をターゲットにして痕跡はそのルート選択でも分かりますが、ほとんどの登山を無酸素でやっているのはたいしたものです。

 登山なんて反社会的、非生産的な道楽と認識しているのは登山家達ですが、日本ではなかなかスポンサーを見つけ出すことも難しいのが現実。国を挙げて応援してくれる韓国で4人の全座登頂者がいるのと比べ、日本は恵まれていません。

 メスナーといえば、日本の登山用品販売店のニッピンがバックアップしていて、ニッピンの招待で来日したメスナーの講演を聞きに行ったり、富士山に登ったことがあります。

 メスナーは山田さんや植村さんのようにシャイな性格ではなく、ある種の登山家特有の押しの強さと言うのか、自分中心の我の強さがある人物でした。

 山田昇さんは昔からやんちゃで天真爛漫な性格でしたから、自然と周りに人が集まるような性格でした。植村さんは人との軋轢が嫌で単独行に向かったような人柄でした。メスナーは「この人と一緒には行きたくない」と思わせるよな、よく言えば哲学者悪くいえば偏屈な人物でした。

 以前、カムチャッカの山で出会ったポーランド人登山家とククチカの話題になったことがありましたが、「登山技術はともかく人間性には嫌な奴だった」と言っていました。1979年にククチカは最初の8000m登頂として難攻不落のローツェ南壁を登頂し、山岳雑誌でその快挙が取りざたされましたが、後にこの南壁登頂は「不完全」としてただのローツェ登頂に記録は改められました。14座登頂後の1989年、再びローツェ南壁に挑んだククチカは8200m付近で転落して亡くなっています。

 竹内さんはどんな人柄?あったことがないので分かりませんが、礼儀正しい人物みたいですね。

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線引き

2012年05月25日 | 日記・エッセイ・コラム

 8年後のオリンピックの先行で、東京が一時審査を通過し、スペインのマドリッド、トルコのイスタンブールと東京の中から選ばれることになりそうです。

 今年は英国、次回はブラジル、ヨーロッパ、南米ですから、次はアジアかな?と期待がありますが、トルコってアジアなのか?ヨーロッパなんだろうか?ワールドカップの予選はヨーロッパでした。イスタンブールはヨーロッパ側にくっついているので、やはりヨーロッパ?

 ロシアもアジアか?ヨーロッパかとよく問題になるようですが、大まかにウラル山脈を境にアジアとヨーロッパの分かれ目になっているようです。

 今回一時審査で落選した候補地は中東カタールのドーハにアゼルバイジャンのバクー。アゼルバイジャンはカスピ海の周辺国で、ウラル山脈ラインより東ですが、ヨーロッパグループに入っているようです。

 なんか、今回の候補地は文明の端っこに位置する国ばかりだったんだなと世界地図を見ながら考えてしまいました。

 さて、話をもっと小さくして日本国内で見た場合、群馬県は関東なんだろうか?と考えてしまいました。東京に住んでいたころ「え?群馬って関東だったの?」とよく言われました。何しろ。山手線の内側が東京だと思っているような人たちですから、東京23区の周辺の町など「都外」と呼ばれています。

 彼らの考える「関東」は埼玉千葉に茨城。それになぜか山梨が引っ掛かり、群馬栃木は「東北でしょう」という地理感覚です。

 どこに属しても結構ですが・・・。

 道州制を考察する試案を見たことがありますが、東京を中心に同心円で一つの地域を形成し、東北のラインと新潟を中心にしたラインがあり、微妙にどこにも属さない空白地帯がありました。

 私の住むあたりがその空白地帯に入っていました。

 「あくまで大まかな概念で便宜上のラインだから。」と学者先生は申していましたが、「こんなところに人が住んでいたのか?」とぽつりと言っていました。

 どこに属しても結構ですが・・・。

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歴史

2012年05月24日 | 日記・エッセイ・コラム

 「歴史」と言う言葉は明治維新のころに[History]の訳語として、日本で作られた言葉だそうです。それまで「○○史」などの記録はあってもそれを体系的に捉える「歴史」の概念はなかったんですね。

 戦後、唯物史観なる言葉が日本で横行しましたが、歴史は事実による証明が必要ですが、物事は見る角度が変われば見え方が変わるのも現実で、たとえば四角錐のピラミッドを横から見れば三角形、下から見れば四角形。なかなか共通の目線で見ることはできないものです。

 中国では歴史は政治ですから、勝てば官軍の歴史しか残らない。朝鮮半島は歴史は総作ですから、およそこれら概念の異なる人々と同じ歴史観など作れるわけもない。

 ところで、近年「韓国が作り出した」を言い始めて世界で物議を起こしている隣国ですが、彼らが言うにはピザも韓国発祥なんだそうです。

 あまりにも無残な歴史の現実しか持たないから、こういうヤケのヤンパチも出てくるのでしょうが、それなら「リーマンショックは韓国が起こした!」と自慢すればいいではないですか。これは現実なんですから。

 まったく奇妙な民族です。

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ゴルフ場跡地

2012年05月23日 | 日記・エッセイ・コラム

 沼田市に吸収合併されてしまいましたが、旧白沢村の雨乞山周辺を歩いてきました。

 何回か倒産して所有者が変わったゴルフ場があり、その昔「高平公益社」と言う地元の人たちが森林資源確保のために育成していた土地がゴルフ場になったと聞いています。

 最近はこのゴルフ場の敷地の一部を新宿区が、カーボンオフセット事業として毎年区民の手で雑木の植林をしています。ゴルフ場は規模を縮小してまだ営業しているようですが、標高1000mを超える高い場所です。

 このゴルフ場ではかつて武田鉄也主演の「刑事物語・やまびこの歌」の撮影が行われましたが、その後、暴力団の組長が襲撃される事件も起きています。襲撃されたのは後藤組長とか言う大物の組長だったらしいのですが、この以前にもこの組長が前橋のスナックで襲撃されて3名ほど亡くなった試験がありました。

 事件の翌日、たまたま前橋のその現場近くを通ったのですが、交通渋滞でちょうど国体のスケート競技化何かを群馬県で開催する時期だったこともあって「何かイベントかな?」と、延々渋滞に並んでました。

 さて、このゴルフ場の下の林には連合赤軍リンチ事件で殺された3名が埋められていた国有林があったり、ちょっときな臭い場所です。

 高校生の頃、この山の林道にバイクで乗り付けてはモトクロスもどきの走りをして楽しんだことを思い出しました。当時、ヤマハのMR90という90ccのバイクに乗っていましたが、今のオフロードバイクに比べれば性能も低くこっけいなバイクでした。

 一緒にオフロードの真似事をやっていた同級生はホンダのXL125という125ccのバイクで、排気量の差は歴然でした。

 当時はまだゴルフ場も作られていなかったけど、「連合赤軍のリンチ事件で殺された連中がこの山に埋められていたらしいぜ」と言う話は耳にしていました。

 ゴルフ場の跡地に1-2年前に植林されたナラの木が芽吹いていました。雑木を切ってスギやカラマツを植え、ゴルフ場になって、また雑木に戻る。戦後まもなく生まれた方ならこのサイクルを目の当たりにしたことでしょうが、この雑木が育つ頃、また世の中が変貌しているのだろうか?

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ポーツマス条約

2012年05月22日 | 日記・エッセイ・コラム

 1905年(明治38年)9月にUSAのニューハンプシャー州のポーツマスで、セオドア・ルーズベルトの仲立ちで日本全権の小村寿太郎と、ロシア全権のウィッテによってポーツマス条約締結(日露講和条約)が締結し日露戦争は講和しました。今年でポーツマス条約締結から100年になります。

 ロシア人は今でも日露戦争は帝政ロシアが負けたわけではなく、停戦しただけだといっています。それなら日本の太平洋戦争もポツダム宣言受諾で、ドイツのように全面降伏したわけではありません。

 ポーツマスの会議でロシアは小さな地域戦に敗れただけでまだまだ戦争をするつもりだ突っぱね、USAがロシアを説得するような形で条約締結にこぎつけたそうです。

 小村寿太郎全権にとってもこの条約はギリギリの選択肢だったようで、その時点での戦争は勝っていたものの、長期戦になればかなう相手ではありません。ロシアにしても社会主義革命の萌芽が動き始めていた頃で、長引かせて得策ではありません。

 180cmを越える大男のウィッテに140cm少々の小柄な小村の姿は、日本とロシアの体格差のようなものでした。それでも、粘り強くかつ紳士的な小村をポーツマス市民は高く評価し、小村の出身の宮崎県日南市とポーツマス市は姉妹都市提携して交流しています。

 そんな小村の活躍も海を渡れば評価されず、日本側も戦費調達(20億円。当時の国家予算の4倍)に苦心し酒に税金をかけるようになったほどの戦争でしたから、ロシアからの賠償金に期待していたものの、それが取れなかったことにより、「政府は何をしている」と各地で暴動が起きたほどでした。

 ロシアに賠償金支払いの義務がないままに条約締結を結んだことに対して世論の非難が高まり、日比谷焼き討ち事件がこの年の9月5日に起こっています。内務大臣艦艇、国民新聞社、各地の交番などが暴徒と化した民衆に焼き討ちにあっています。日露戦争では戦場が主に中国の東北部で、日本本土は戦場になっていません。

 セオドア・ルーズベルトはこの条約締結への功労が評価されて、ちゃっかりノーベル平和賞を受賞しています。

 夫婦喧嘩も停戦のタイミングや講和が難しいのですが、勝った負けたよりもいかに今後に良い方向に向けるか勝敗は曖昧な方が良いこともあります。最近の日本人は喧嘩慣れしていないから、優位に立つととことん相手を叩きのめしてしまいますが、そこには恨みしか残りません。

 戦争を締結させればノーベル平和賞も夢ではありませんが、夫婦喧嘩の締結に立ち会う第三者は後に菓子おりの一つももらえればいいほうで、悪くすると連鎖夫婦喧嘩にもなりかねないので「犬も食わない」世界です。

 余裕がある方が相手の逃げ道を残しておいたり、取り付く島を作っておくことも大切なことだと思います。

 日露戦争で日本が多大な犠牲を払ってロシアから勝ち得た戦利といえば以下の項目で、漁業権以外はババ抜きのババを引かされたようなものです。それでももしこうならなかったら今頃私たちは中央アジアのなんたらスタンに移住させられていたかもしれません。なにより大きな戦利は、東へ進出する巨大なロシアの圧力を排除できたことでした。

  • 日本の朝鮮における優越権を認める
  • 日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する
  • ロシアは樺太の北緯50度以南の領土を永久に日本へ譲渡する
  • ロシアは東清鉄道の内、旅順-長春間の南満州支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する
  • ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する
  • ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える

 日本にとっては決して実り多い戦争ではありませんでしたが、アジアの小さな国が白色人種の大国を打ち破った効果は大きく、欧州大国の植民地主義の分岐点になった戦争だったのかもしれません。

 ロシアにとっても、日露戦争によって帝政ロシアが弱体化し、社会主義革命を引き起こした要因である事は間違いないでしょう。ロシア人は天国と言う名の地獄に70年少々叩き込まれることになります。

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神話

2012年05月21日 | 日記・エッセイ・コラム

 金環日食。よく見えました。

 もっと暗くなるかと思いましたが、月で隠れた周辺から発する光だけでもパワーがあるんですね。

 日食の最中、光の加減が波長の長い公選が多かったためなのか冬のようでした。夕日に照らされたように樹木や建物の陰がはっきり写っていました。余計な光が少ないから対象物の陰がはっきり写ったんでしょう。

 日食を見ながら古事記に出て来る天岩戸の物語を思い出しました。天照大神が隠れてしまい世界が真っ暗になったときに、神々が宴を開いてアメノウズメノミコトが地球史上最初のストリップをして場を盛り上げ天照大神が「わてがおらん間になんやおもろいことでもあったん?」と顔を出した瞬間、アメノタヂカラオが天照大神を岩戸から引っ張り出して、世界に光が取り戻されたと言う物語でしたね。

 たぶん、皆既日食だったんだと思いますが、太古の昔の人々は驚いたんでしょうね。突然太陽がかけて暗くなってしまった。「えらいこっちゃ」「どないすんねん」と慌てふためいたんでしょうね。

 太陽の満ち欠けなど時間にすればわずかな時間ですが、再び太陽が出たときは嬉しかったんでしょうね。そこで宴を催し、ついでにストリップもした。

 人間の感情なんてこんなところでしょう。皆既日食なんって頻繁に起きるものでもないから、それが語り継がれていくうちにいつの間にか神話になった。

 なんて、日食の様子を眺めながら考えてしまいました。

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したたか

2012年05月20日 | 日記・エッセイ・コラム

クリミア戦争(1853-1855)で形の上では勝者となった帝政ロシアですが、財政がガタガタの状態になり1856年にUSAに大きな取引を申し出ます。当時、巨大な冷蔵庫と呼ばれたアラスカ売却です。1867年10月18日、720万ドルで売却が条約調印され、アラスカはUSAになります。

 アラスカが帝政ロシアの領土となったのはそれほど古いことではなく、ピョートル大帝の命令を受けたベーリング(1681-1741)が北極海への航路を探索する途中、1741年7月15日にアラスカの島を発見します。

 発見と言うと大げさで、元々私たちに近い顔つきをしたイヌイットの人たちが住んでいたのですから、「発見」はあまりにヨーロッパ的な見解ともいえます。

 さて、ベーリングはこの島で越冬中の12月19日に心臓病で死にます。71名いた隊員も生きてロシアに帰ったのはわずかに31人でしたが、このとき持ち帰ったラッコの毛皮に目をつけたロシア人たちがアラスカに渡ってきます。

 西ヨーロッパからアメリカ大陸の東側にやってきた移民がそうであるように、ロシアからの侵略者も先住民を虐殺したり手篭めにしたりで奴隷同然に使います。先住民のアリュート人に狩猟をさせ、自分たちは巻き上げた毛皮を売買する、気に入らなければ殺してしまうで、ロシアが入り込んでから数十年でアリュート人は3分の1にまで減ってしまいます。

 こうした虐殺の代表はオーストラリアにやってきた英国人で、タスマニア島にいた先住民のタスマニア原人を、英国紳士のスポーツのキツネ狩りのキツネ代わりに撃ち殺し絶滅させています。虐殺大好きの中国人で、項羽のジェノサイドが50万人と規模では大きいですが、一つの種族を絶滅させたのは英国人の趣味の産物以外にありません。

 アラスカに移り住んできたロシア人ですが、おいそれと彼らが住めるような自然環境ではありません、次第に東南に異動しシトカと言う町を建設します。地図を見るとカナダの北西、ブリティッシュコロンビア州の海岸線が半分ほどUSAの領土になっていることがわかりますが、そこまでが帝政ロシアが治めていた領土で、シトカもその中の島にあります。1799年、帝政ロシアはシトカに砦を築き、毛皮貿易の拠点とします。

 シトカスプルースという楽器の響板に良いヒノキの類が取れる森林が有名です。今もロシア系の人々がたくさん住んでいて、街並みは昔のロシアを思わせるような風景だそうです。

 地下資源に注目が集まるようになったのは20世紀に入ってからで、そういう意味ではもっと巨大な冷蔵庫シベリアを抱えているロシアも現在その恩恵で好景気が訪れています。

 1989年2月24日にアラスカのマッキンレーで私の山登りの先輩たちが吹き飛ばされました。高峰での遭難にしては珍しく、遺体を回収し、荼毘にして遺骨を日本に持ち帰りました。その多くは植村さんのように氷河の中に閉じ込められたままです。

 遺族が後に言うには荼毘の習慣がない土地だったので、火葬場を探すことが困難だったそうです。また、ロシア正教の教会が多いことが印象的だったと語っています。

 しかしながらUSAはしたたかな国だなと感心してしまいます。もちろんこの巨大な冷蔵庫アラスカが地下資源と観光資源の宝庫であったこともありますが、お金や価値観の使い方がしたたかです。何しろオランダ人がニューヨークのマンハッタン島を先住民からガラス玉と交換した歴史を持つ国です。

 クリミア戦争で財政逼迫した帝政ロシアからアラスカを買い上げたかと思うと、その帝政ロシアを倒すために、モルガンなどのユダヤ系銀行が高橋是清を通じて日本に戦費を借款し、日本が力をつけてくれば経済封鎖、海上封鎖をして日本をつぶす。

 アフガニスタンではソ連に敵対するアルカイーダを支援し、用が済めばつぶす。イライラ戦争ではイランを叩くためにフセイン率いるイラクに手を貸しながら用が済めばつぶす。さすがに使い捨て発祥の国です。

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月はどっちに出ている

2012年05月19日 | 日記・エッセイ・コラム

 金環日食を2日後にひかえた日本です。

 地球と太陽の間に月が入るため日食が起きるわけですが、そうなるとお月様は昼間太陽側にいるので、夜は反対側にいて見ることができないわけです。

 当然のことながら、まじまじと夜空を眺めれば、月は出ていません。月が出ていなければ夜空に輝いているのは星だけで、余計な光に邪魔されず天体観測ができるのではなかろうか?

 最近、ウン十万円もする高価な天体望遠鏡を買い込んだクリス君と、新月の星座観測をしました。が、あいにくの曇り空。

 うっすらと大熊座の尻尾に当たる北斗七星は見えましたが、δ星のメグレズはもともと光が弱い上、雲に隠れてみることができませんでした。

 それでも、北極星を探して、天体望遠鏡を設置し星の観測をしましたが、見えてきた!と思ったら程なく雲に隠れてしまい、あまり良い観測ができませんでした。

 21日の日食は朝の7時半頃で、以前、皆既日食(これも曇っていて良く見られなかった)のときに買った日食要のサングラスで観測してみようかと思っています。

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養子

2012年05月18日 | 日記・エッセイ・コラム

 政権交代したフランスですが閣僚の大半を女性が占める布陣になりました。

 閣僚にはアフリカ系やアジア系の顔ぶれも見られることから、多民族国家としてのフランスを象徴する意図があるのでしょうが、そのアジア系閣僚の一人にフルーフ・ペルランという39歳の女性閣僚がいました。

 幼少の頃に韓国から国際養子でフランスに渡った人物で、里親が韓国名の帳簿を残しておいたために自分が勧告生まれであることや韓国名も残っていたそうですが、年齢から考えても1970年代に国際養子ととして国外に出たんでしょう。

 国際養子縁組など日本ではあまり実感がないと思いますし、せいぜい中国残留孤児くらいしか知ることがないと思いますが、途上国から先進国への養子縁組は良くあることで、韓国は米国などにも多数の養子出国をしています。

 ちょと話題になったことで記憶にあると思いますが、アテネオリンピックのボクシングでメダリストになった韓国系アメリカ人がいました。韓国では「私の息子」と名乗る母親候補が多数出現したことで話題になりました。

 稀に、良い里親に恵まれ才能を開花させる人材も出ていますが、「不幸のばら撒き」と考えざるを得ない家庭などもたたみうけられるのも事実です。

 90年代のロシアなど国際養子縁組供給国で、主にUSAから年配の夫婦が乳飲み子を貰い受けに来る姿を何回も目にしました。

 外に出たものが幸せなのか?残ったものが幸せなのか?半ば気の持ち方もありますが、無責任なバカ親が多くなった昨今の日本ですから、もともと素養の良い日本人の子供を養子に使用なんて国外から里親が来るのだろうか?

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切手

2012年05月17日 | 日記・エッセイ・コラム

 5月15日で沖縄祖国復帰40年になりました。

 1972年のこの日は良くおぼえています。というのは、沖縄返還記念の記念切手が出たからで、この当時は切手収集ブームでした。

Jpn19720515_01  この年はサッポロオリンピックなど記念切手が多く出た年でしたが、今にして思えば切手が投機対象になっているような時代でした。

 マンガ雑誌の広告に出ている切手の通信販売の価格などを参考にどの切手が値上がりするかなんてことを子供達も考えていました。

 この時代高嶺の花だったのは切手趣味週間の「月と雁」と「見返り美人」で当時の価格で1万円を越える切手になっていました。

 沖縄の切手といえば、返還前は米国の「セント」で価格が表示された切手で、「守礼の門」の切手が5千円前後で取引されていました。

 沖縄返還記念の切手もきっとすごいことになるぞ!と期待していましたが、現在の取り引き価格は30円程度。ブームなんて去ってしまえばこんなもんです。

 確か当日は月曜日だったと思いますが、学校があるので切手を買いに行けない。発売されればすぐに売切れてしまうほどの切手ブームだったので、午後になれば記念切手など残っていない。郵便局に予約して買う方法もありましたが、シート単位で買わなければならないので、1枚2枚の買い方しかできない、子供の手が出せる金額ではなくなってしまいます。

 切手収集家のおっさんが子供達の分もまとめて買ってくれましたが、私もかなり奮発して3枚買った覚えがあります。60円は大金でした。

 沖縄返還40周年の記念切手は出ているんだろうか?久々に記念切手を買ってみようかな?なんて思っています。

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