子供や孫のために木を植える。もし食糧危機でも起きたら?できれば実のなる木が良いと柿や栗などの木を植える。
その気持ちはわからくもないしけど、大きくなる木を家のそばに植えるものではない。もし倒れたら家を壊しかねないし、必要のない日陰を作ってしまう。
近隣の市のことですが、市街地のはずれの家に隣接する畑の境界に柿や栗や桜を植えた農家がおり、枝が茂って住宅地の屋根の上までかぶるようになったので、2日ほどかけて枝を切りに行ってきました。
根元から切ってしまいたいところですが、持ち主の承諾が取れなかったようで、人家に面した枝だけならと許可が下りたそうです。
お昼前には枝も切り終わり、切り落とした枝は近所の人が薪ストーブで燃やすと持ち帰ってくれたので楽でした。
畑はすでに耕作放棄地になっており藪の中にけもの道が見られましたが、栗や柿の木の幹の畑側に、クマが上り下りした爪痕が残っていました。クマもクマなりに気を使って民家から見えない方向から木に登っていたんですね。
「そういえば、何か木に登っているような気配を感じたことがある」と近くの住人もうすうすわかっていたようです。
作業後、民家のご隠居さんに誘われてオムライスを食べに行きました。5-6分歩いたところに昔ながらの洋食屋さんがあり、シェフ兼ウェイトレスのお婆さんが切り盛りしていました。ちなみにオムライス650円。ランチタイムのコーヒー付。
オムライスが高級料理と思っている年代の末端なので、「何年振りだろう?」と喜んでごちそうになりました。
御隠居さんとその仲間のたまり場になっている店で、面白い話をいろいろ伺えましたが、お年寄りのたまり場の形が市街地と農村部では異なることも面白かったです。
オムライスは得意料理のひとつでもありますが、ここ何年か作っていなかったので「何年振りだろう?」と言いながら食べていたら、とんでもない山奥から出てきた人間に見えたのか?「よかったらもう一つ食べて行きなさい」とおかわりまで馳走になってしまいました。
5-6年前だと思いますが、「地下鉄に乗って」と言う映画のビデオを借りました。赤川次郎原作の小説を映画化したもので、タイムスリップして不仲になっていた自分の父親や、少年時代の自分の兄弟と出会い、時代を変えることはできなかったけれど、理解できるようになるストーリーで、この映画の中でオムライスが印象的に用いられていました。
あのビデオを見て自分で作ったオムライスが最後だったな。なんてことを思い出しました。
バブルのあたりからふんわり半熟卵とかドミグラソースとか、オムライスがよりゴージャスになって足が遠のいてしまいましたが、薄い玉子焼きにケチャップで水の入ったコップにスプーンがささっていれば十分ゴージャスです。
今ではチューブが当たり前になってしまったケチャップがガラスのビンに入っていて、瓶の底をたたいてケチャップを出していた光景などを思い出さして、「なんだか、心が豊かになる料理ですね。」とご隠居さんに言ったら、「そうでしょう。この料理は和食の心意気があるよな。」と共感してもらえました。たしかに、日本以外でで見たことないけど。
この界隈に独居老人が多いこともあって、この店に食事に来るおなじみさんも多いそうで、400円の日変わり裏メニューが人気でした。筍とフキの煮物にお新香に焼き魚と味噌汁にご飯。もしくはすいとん(団子汁)とご飯。思い切り和食じゃないか。
帰る道すがら考えた。和食と洋食の線引きはどのあたりにあるのだろう?
夕食のおかずはモヤシのごま油和え。5分ほどゆでたモヤシの水を切り、ごま油でもんで醤油で味付け。これにきざみネギなんか入れるともっと嬉しいのだけど、ネギがなかったのでいりごまを少々。
ちょっぴりカラシをくわえて考えた。ごま油和えとナムルの線引きはどのあたりだろう?コチュジャンなどもってのほか、カラシを入れた時点でお下品になったのではなかろうか? 否、ここまではかろうじて和食の品位を保っている。そうだ!そうだ!そうに決まった!
ひと袋19円のモヤシとは言えとはいえ、ふた袋を一気にごま油和えにするとこれ一品で飯の代わりになる。
モヤシ一品料理はさもしい学生時代をもいだしてしまいます。オムライスには希望があったけど、モヤシには現実しかない。
健康にはいいと思うけどね。